人入れ渡世の
左次郎は隅っこに寝ていた。
うすい蒲団へ
話というと、この部屋では、色気と食い気よりほかになく、
「馬鹿ア言ってやがら、化物じゃあるめえし、一人で
「いや、食おうと思や、食えるさ」
「命がけだって食えねえ」
「なに食える」
「食えねえ」
と、食い意地の張った話から、果ては、
すると、三公が言い出した。
「おれの国にゃ、
「蜜柑の一箱ぐらいなら、おれだって、今すぐ此処で食って見せる」
「皮も箱も縄も、きれいに食ってしまうんだぜ」
「そ、そいつあ、無茶だ、賭にならねえ」
「ところが、食うと言って勝った奴があるから妙だろう。その代り条件があった、どうして食ってもいいという条件があったんだ」
「へえ、でも、食ってしまったのかい」
「蜜柑の実を食う前に、皮と縄と箱を焼いて、灰を
三公の話が終ると、
「――だもの、この番附だって、嘘とは言えねえぜ」と威張りだした。
仲間
という
近年、柳橋の万八や中洲の
一方では黒船を打払え、佐幕がどうの、勤王方が旗上げするのと、騒いでいるから、御禁制の
そんな江戸の時世でいながら、
だから番附に勘亭で刷ってある「御世泰平鼓腹御免」なんていう文字をみると、躍起になって、
だが、
そのなかで、ひとり土俵死という印のついた名があった。
「おや、こいつあ、たった醤油を七合飲んで死んでやがる」
三公が、そのはかなき名を見つけ出して笑いこけると、
「うんにゃ、
「どうして偉い? 七合くらい、酒だと思って飲みゃあ」
「ばかを言え、酒とちがって、四合も飲みゃ眼が
「そうかなあ」
と、一同は由の
「だってお前、おれが一度仕事に行った浜町の砂利場にゃ、平気で一升
「醤油をか?」
「そうよ、一升賭をしちゃ、きっとペロリとやって、そいつに勝たれてしまうんで、誰でも相手にしねえっていうくらい、評判になっている男があるんだ」
「おかしいな、それで生きてるかい」
「何ともありゃしねえ、毎日砂利場か、深川の佐賀町河岸へ荷揚げに出て来るから確かなものさ」
「嘘だろう、どう考えても、醤油を一升も飲みゃ死ぬ筈だ」
「だッて、現在、生き証拠があるんだから
「よしきっとやってやる。なんてえ男だ、そいつあ?」
「佐賀町で、醤油賭の伝公といや、知らない者はない。だが伝公は小さい勝負じゃ、首を振るぜ」
「一朱か二朱か」
「何しろ、その帳場にいる者が、十五人二十人と組んで二両とか三両とか束になって
「そんな事を大きな口を叩いて、もし伝公が負けたらどうするんだ。まさか水揚人足や砂利場の
「ところが、その伝公って奴は、なかなか金を持ってるんだとよ」
「ふーむ……」
「だから誰も、ツイ追目になって、引ッ懸るんだというから面白いや」
「ひどい野郎だな」
みんなが笑うのに
「おや、いたのかおめえ」
「はい」
「いい若い者のくせにして、物臭え男だな。雨が
「どうも、しばらく休んだせいか、体が痛くって……」
と左次郎はまた、油気のない前髪の頭を見せただけで、夜具の中へ丸まってしまう。
「左次さん」――そこへ、大坂格子の向うで、
「親方が呼んでるよ、ちょっと奥へ来て貰いたいって」
「お前さん、お武家の息子だね」
「そう見えましょうか」
「見えるな」
と、銅鑼亀はそこで一服
親方の
「失礼だがお前さん、何か、敵討でも望んでいる身の上じゃないのか」
急に声をひそめられて、左次郎はいよいよ
「飛んでもない、決して、左様な者じゃございません」
「だが、お侍のお伜だろう?」
「はい、そりゃあ」
「幾つ? お年は」
「十九でございます」
「その青白い
左次郎は畳のチリをむしっていた。
垢のついた仕事着にちょッ
「ほかの事情ならなおのこと、打明けても差しつかえあるまい。ろくな力にもならない癖に、江戸の人間の悪い性分で……どうも聞かずにいられない」
「では親方、ほかの者には、内緒にしておいて下さいまし」
「だれが、
「実は少し、尋ね物があって、殿様からお暇を戴いて来た体でございます」
「それ見ねえ、おれの眼は、やっぱり違っていなかったのだ。して国元はどちらだね」
「鳥取の池田家に仕えます者で、はい、因州です。父は
「意気地のねえ話じゃないか、お前さんに跡目が
「でもございませんが、実は、私の養母お咲と申す者が、六年程前に
「なるほど」
「然るに、養母のお咲も、同行した仲間の一平という者も、そのまま鳥取へ立ち帰りませんのみか、頼りも沙汰もなく、足かけ六年打過ぎてしまいました。当惑したのは、貧困な父でした」
「そうだろうとも」
「おまけに生来病弱であったため、それを
「で、その金の方も、安南絵の壺とかも、いまだに話のかたがつかねえという
「一方の方は父の上役ゆえ、きびしい御催促もなさいませんが、何せい、家中ではとかくな評判が立ってしまい、また、
「ふーむ、成程、厄介な筋だな。それじゃお前さんも、
「まったく、私も、実に困ってしまいました。実の母なら気心も分りましょうが、何しろ、十二、三の時に、たった二年程しか、一緒にいなかった
「家中の評判っていうのは、どんな事を言い立てているのか、お前さんも小耳に挟んでいなさるだろうが」
「それが……」と、左次郎は急に
「お咲殿は帰るわけはない、以前から、仲間の一平とは主従以上に親しかったから――という風に申します。父の病体も永年のことゆえ、そんな噂が立つのも道理かと思われます」
「ウム、ウム、大きに」
と、銅鑼亀親方の世事に馴れた考えも、それと一致したものか、二つばかり頷いた。
「で、左次さんが、国元を出て来たのは」
「何でも、この江戸表にいるという噂があるもんですから」
「
「左様でございます」
「しかし、六年も
「武士ってうるさいものでして、家中の者たちは、左次郎も十九になれば、父の怨みを晴らすだろうとか、不徳な養母をあのままにして置く法はないなどと申します。また、縁類の者は、所詮、二百金の大枚を御返却することは出来ぬし、また殿様のお耳にも入っている品物の事だろう。その壺を手に入れる法がなければ、せめて、仲間の一平の首だけでも持って鳥取へ帰ってくれと、こう因果をふくめられました。――で江戸へ出て参りましたが、もう路銀も尽きました上に、養母のお咲と一平が、どこに暮しているものか、皆目、見当はつきませず、途方に暮れた末親方の部屋でお世話になるようなことになりました」
「そうか、じゃ二百両もする安南絵の壺よりも、その一平という奴の首を探して帰った方が、侍らしいし、第一、
「ところが
「何が生憎だ」
「父が弱かったせいか、私も御覧の通りな虚弱でして、
「おいおい左次さん、七十石の小禄でも、侍の息子じゃねえか。しっかりおしよしっかり。体が弱いと思ったら、日傭を稼いでいるうちに、ウンと
銅鑼屋の亀さんは乗り気になった。
梅雨も
湿気払いを飲んで、
そして、寝入ったかと思うと、何かしきりに、
部屋で一番元気者の三公が
毎日、稼ぎに出ていながら、湯にも行かず
「おい、どうしたい」
「実はやられちまッたんだ」
「やられたって、何をよ」
「伝公と醤油賭をして、この間の前借をみんなアッパッパにしてしまった」
「こん畜生」
背中をどやしつけて――
「人に黙って、抜け駆けをしようとするから、そんな目に
と、笑って、兄弟分のために、
それで、当座の煙草銭が出来たので、三公はすっかり元気が恢復して、太平楽にその晩、寝物語でこう話した。
「
「そしてどうしたい、伝公は」
「いつもより三合も多い醤油を
「
「聞いただけでも忌々しいだろう。だもの、おれの身になってくれ、口惜しくって、寝つかれねえ」
「もう止せよ、これに
「意地だ、こんだあ一升五合賭をやって、あいつに血へどを吐かしてやらなくッちゃ虫が納まらねえ」
「だが、不思議だなあ」
もう寝たのかと思っていた由造が、突然、尻ッ尾の方で
「勝ち負けはとにかく、それで生きてるっていうのが余っ程不思議だよ、何しろそいつは、ただの人間じゃねえぜ」
それ以来左次郎は、醤油賭の話ばかり耳にしていた。で、方々へ仕事に出る度に、それとなく伝公の姿を物色する程になっていたが、まだ、一度も見かけたことはない。
浜町の砂利場へ廻されて来た日だった。
ここの仕事は荒っぽいので
で、常に仕事先を
二の丸のお城
小普請の役人が、
砂利場使いのパイスケ二百本
体のいいのは一人半も串数を稼ぐ。
腕っこきという帳場だから、みんなわき目もふらない。
汗をダクダクしぼって、砂利の音、足どり、掛声、すべて一種の調子に乗ってくる。
「どじ
「なんだ此奴は、さっきから人の鼻ッ先にヒョロヒョロしてやがって、後が
「どうも済みません、不馴れなものですから」
左次郎は鼻で息をしながら、青白くなっていた。
「ばか! 馴れねえと承知していたら、こんな帳場へ臆面もなく稼ぎに来るな。どこの馬の骨だ、てめえ」
「
「銅鑼屋の部屋にも、てめえのような意気地なしがいるのか。明日は、米の飯を食ってくるんだぞ」
朝の
充分気をつけていたつもりだが、何しろ、二刻もつづくと、腰の骨が持ち耐えられなくなって、また誰かの足元へ、ドサッと、
ハッと思うと、途端に、
「ヒョロ
と、左次郎は、砂利場の
するとそれを見た一人の男が、左次郎を蹴って行った軽子のうしろへ呶鳴りつけた。
「やい! やい! 大人気もねえ真似をするないッ。前髪じゃねえか。少しゃ庇ってやるもんだよ」
男もやはり砂利場の仲間だった。
腰をさすって、ぼんやりしている左次郎の側へよって来て、
「おい前髪の
と、自分の天秤を肩から投げた。
男は親切に、それから絶えず左次郎のうしろに
天秤を前寄りに肩へ当てて、後荷の縄の一端をうしろの男に持って貰ったから、左次郎は前よりも楽になり、足の調子もよくとれた。
「お蔭で、今度は楽になりました」
昼飯の時、そばへ寄って、改めて、礼をのべると、
「まだ、そんな肩をしていちゃ、砂利場の仕事は無理だからな」
と、男は三人前もある弁当箱を抱えて、うまそうに頬張っていた。
弁当箱も大きいが、男の
左次郎は、この男のザラザラした
なお、話しているうちに、どこか
ふと、吸っている煙草入れを見ると、それも鳥取の
「もしも、貴方は鳥取じゃありませんか」
男は、砂利の中へ落していた火玉を
「なぜ?」
「でも、古市の漆革を持っておいでですから」
「ウ、これか……」と、煙草入れを見直して、
「こりゃ、四、五年前に、誰かの
「いいえ」
左次郎は自分が訊ね出したことに
「私も鳥取ではございません……」
少し男の機嫌が悪いように見えたので、その話はそれなりにして、口を
だが、昼過ぎの仕事にも、かれの親切気は変りがない。
何かに、面倒を見通してくれた。
夕方も、
「おい、おれの分を少しやるから、勘定場へ持ってゆきねえ」
と、自分の
辛い仕事場が、左次郎には、一日ごとに楽しみになった。朝、砂利場への河岸で、男の雄大な体躯を見るのが、かれのその日を心強くする上に、なくてはならない物になった。
そんな風に、左次郎の心に少し余裕がついて来て、ちょうど十日目頃。
何時も、部屋は三筋町なので、大川端から新堀を一本道に帰るのだが、親方の
「もし……」
と低い声で、誰か呼んだ。
白い手が、柳の蔭で、招いていた。
左次郎はオドオドしながら、ちょうど、人通りがないので、後へ戻った。この辺に、
「ね……」
夜鷹は
「ね……ちょいと」
ニッと、
左次郎は、砂利を
「い、いくら? ……」
と、乾いた声で、女の方へ吸いつけられて行ったが、何かの途端に、
「あっ!」
と言うと、すべての意識を押っぽり出して、一目散に逃げてしまった。
役人でも来たのかと、巻ぞえを食って驚いた夜鷹も、それと共に手拭を
どう無理工面をしたのか、
そこへ、左次郎が帰ってくると、
「おい、待っていたんだ」
と、すぐに三公が調子づいて、
「おめえも、この頭割りに入っているんだから、そのつもりでいな」
「な、なんですか、それは」
「馬鹿に息を
「遅くなったので、少し駈けて来たんです」
「そんな事あ、まアどっちでもいいや。此方だけ承知しといてくれねえと困るからな」
と、由造が中を割って、
「みんなの日当もおめえの手間も、七人分だけ、引ッくるめて、今夜無理に親分から前借した訳だ。金はここにある、見ておいてくれ」
「どうなさるんです、それを」
「部屋の
「それは宜しゅうございますが……」
「明日から七日だけ、おれ達も、砂利場へ仕事に行くことになった。ところで三公の奴が、どうしても
醤油賭の腹いせに熱している仲間の話も、かれには何の興味もない。
よい程に聞いて、蒲団をかぶった。
そして、夜具の中で、ジッと目をつぶりながら、さっきの夜鷹の顔を思いうかべた。だがあの瞬間に強く襲われた白粉の顔も、もう種々な疑惑に掻き乱されて、
「まさか!」
と、彼は無理に心を落着けようとして、
「……人違いだ、気のせいだ……いくら何でも、まさか
と、心で叫んだ。
しかし、その一方では、またすぐに、
「だが、よく似ていた。白粉こそ濃く、六年前よりも若く見えたけれど……」
とうとうその晩は、お咲のことや、安南絵の壺のことや、
で、翌朝。
「少し、風邪を引いたあんばいですから、今日だけ一日休ませて貰います」
亀親方に言って、また一日
ゾロゾロ部屋の者が出払ったあとで、親方の銅鑼屋の亀さんも、中風の身を
左次郎は何にも
と言って、叔父の手前、申し訳ばかりにこんな事していても、なおさら自分の身が立たない。
「江戸から姿を隠して、叔父にも鳥取の者にも、一生会わないことにしよう」
こう考えたりした。
しかし醤油賭のまきぞえを食って、七日分の
こんな引込思案は、左次郎の持前だった。
そうこうするうちに、日が暮れると、今日から砂利場へ出かけた連中がゾロゾロと帰って来たが、みんなグンニャリして、ろくすっぽ口数もきかない。
「おれも明日から、左次公と一緒に風邪ッぴきになるよ。もう、働くのは嫌になった」
と、誰かが、たった一度、大きな声で言ったきり、みんな
そこへ、亀親方がのっそりと帰って来て、
「話がある、みんな、
と、どっかり坐った。
お
「なんですか、親方」
「てめえ達ゃ、今日取られてきたな」
のっけに醤油賭の敗北を言いあてられて、ガンと
「へい」
と六人とも、
「馬鹿に大人しいじゃねえか、取られてベソを掻くくらいなら
「へい……怖れ入りました」
「何も怖れ入る事はねえ、ほんとだ、博奕をやるくらいな量見のくせに、取られたからって、
「もう、
「意気地のねえことを言うな。明日――と言っちゃ少し早いが、四、五日置いてもう一番やって見ろ」
「え? ……」
「おれがきっと勝たしてやる」
「まったくですか親方」
みんなが息を吹っかえしたように、
「じゃ親方、すみませんが、今度は、あっし達の体を
「いいとも、質草入れても、十両こしらえてやる」
「有難てえ、拝みます、親方」
「だが、今までのようなやり方じゃ駄目だ」
「へえ? ……やり方がありますか」
「実は今だから話すが、何でも五両貸してくれと言う様子が変だから今日てめえ達が仕事に出たあとで、おれもちょっと砂利場へ様子を見に出掛けたんだ」
「じゃ親方も、昼休みにやっていた醤油賭の様子を見ていたんで?」
「ウム、眺めていた、見事なもんだ、あれじゃ幾ら一升飲め、一升五合飲めとかかったところで、
「そうかなア」
「だが、おれも少しゃ、博奕で懲りている人間だし、若い時の覚えもある。あれから伝公が、仕事を半人で切上げて、涼しい顔をして帰るのを見届けたから、奴のあとを
と言って、銅鑼屋の亀さんはさも得意気に、顔の
それから三日ほど経つと、
「左次さん、今日は手不足だから、嫌でも仕事に出て貰いてえな」
と、亀親方も帳場支度で、朝早くから左次郎の枕元へ来ていた。
仕事先が二ツになるというので、竹、六、勘、由、亀親方の五人は両国から別の方にわかれ、丑、三公、左次郎の三人だけは、何時もの砂利場へ
左次郎がその男に馴々しくしていると、仕事のすきに三公が、
「左次ッ、てめえ、あいつと懇意なのか」
と、不服そうに睨んだ。
何の気もなく頷いて言った。
「ええ、あんな親切な人は、見たことがありません」
「けッ、何を言ってやがるんでい!」
左次郎は蹴飛ばされるのかと思って、飛び退いた。
本当は、部屋の者と一緒に食べなければ悪いと思ったが、その事があるので、左次郎は昼飯の弁当も、久し振りな男のそばへ持って来てムシャムシャやっていた。
すると、丑と三公が、飯を噛み噛み意気込んで来て、
「さ、伝公、二升五合賭で来い」
と、腕捲りをして前へ立った。
「伝公ッて? ……」
左次郎はヒョイと男の顔を盗み見た。
例の漆革の煙草入れを指に挟んで、ふーッとその面へ煙を吐いた男は、クスクスッと肩で笑いながら、
「まア、今日は止そうよ」
「逃げ張るねい、この間何と言った、五両賭でも十両賭でもしてやるが、砂利場中の者の金を寄せても、それだけは
「賭に遺恨なしだぜ、取られたからって
「な、何を吐かしゃアがる。
「ほう……豪勢だの」
「こうなりゃ意地だ、てめえが血ヘドを吐くか、俺達が飢え死にするかだ。さ、こい!」
「いけないよ、お断りだよ」
「いけねえ? なぜいけねえ」
「何故って銭なしが二人ばかり、残ら肩を
「こん畜生」
三公は真っ赤になって、両手をふところに押し込んだ。
「その口を忘れるなよ、梅忠じゃねえけれど、
と、亀親方から工面して貰って来た小判十枚、伝公の前に叩きつけた。
左次郎は気をのまれてウロウロした。
自分に親切な男が、醤油賭の伝公だった。
それが伝公であったにしろ、左次郎が好意をもっていることに少しも変動はない。むしろ、三公のキザな
だが――また始まる! とそこへワラワラ寄ってきた砂利場の軽子は、皆んな一度は伝公にせしめられている組なので、三公の梅忠もどきの
伝公は、口を結んで、砂利山にぬッと立った。
「よし、賭けてやる」
「てめえも見せろ、
「ふん……」
煙草入れから十両出して、
「粉だけまけてやらあ。さ、支度をして来い」
「二升八合だぞ」
「いいとも」
伝公は
立派だ、侍が果し合をするようだ――と左次郎は感心して、かれの堂々とした体躯にみとれていた。
すぐ酒屋へ飛んで行った者がある。升を探して来る奴がある。知らない者をワザワザ呼び立てる者がある。そんな騒ぎに、
「おれが、よしというまで、
伝公は少し居場所をかえて、
そしてしばらく大川を睨んでいた。
さすがに、この間は、弥次を言う者もなく、初めのうちは、
「無智にも程があったもの、あんな馬鹿な真似をして、何が面白いのか」
と苦笑していた役人達の顔までが、妙に
「さ、注いでくれ」
言ったかと思うと、伝公の顔は、もう大きな丼に隠れていた。
ガボ、ガボ、と真ッ黒な液体が腹の中へ波を打って流れ込んで行く様は、理窟を考える暇なく、ただ、
「お蔭様で、また今日も半日遊ばして貰えたな。じゃ十両は貰ってゆくぜ」
と、伝公は煙草入れへ二十両の金を詰込んで、まだ呆ッ気に取られている周りの者へ、
「あばよ」
と、人のいい顔を作って笑った。
伝公は世帯を持っていた。
家は
大川を向うへ越えて、
そそくさと、一本道に自分の家へ帰って来る。
女気はあるらしいが、留守と見えて、そこらに、ふだん着の
かれは上がるとすぐに仕事着を脱ぎ捨てた。そして、引っかけ
「おや……」
と気がついて見ると、千鳥湯という、いつも
「あっ……休みか」
ところが、そこの暖簾も仕舞ってあって、盲目格子がシーンと閉まっている。
いなせ者が多い深川のことだ。昼や朝湯がこう休みの筈はない。かれはその裏通りの
「休みだ!」
伝公は狼狽した。
血相をかえて、風呂屋の戸をガンガンと叩きながら、何か大声で呶鳴っていたが、カランという小桶の音も聞えない。
「ちぇッ」と、かれは地団太ふんで、さらに
「やッ、休みだ!」
唾を吐きかけるようにして叫んで、次の一軒へ来てみると、ここもまた申し合せたような休業札。
「今日は幾日だろう」
伝公はクラクラする頭を押えながら考えてみた。休み日じゃない! 風呂屋の休み日にしろ、こう揃って、何処も
それから伝公は気違いのようになって、湯屋湯屋と血眼で探して歩いたが、もう
「ウーム……」
と
「野郎、今日ばかりは、余ッぽど
「どうも、有難う存じました。お蔭様で仕返しをしてやる事が出来たというもんで」
銅鑼屋の亀さん以下、四人の者が、そこで揃って礼を述べた。
今日の風呂屋の休業は、この
なぜ、風呂屋へ目をつけたかというと、伝公が醤油賭をした時は、きっと、半日で仕事をやめて帰る事と、すぐに必ず近くの銭湯へ行くことを聞き出したからであった。
で、その銭湯のおやじに聞くと、
「ははあ……」と
「家でも、変だ変だと言いあっていたんです。何しろ伝さんが飛び込んできて、ウームと熱い湯に長いこと
と、その効能を説いて、さらに言うには、
「蛇を食う山国の者は知っていましょうよ。たとえば、
こう聞いたので、銅鑼亀さんは、しめたと町内の顔役からほんの二刻ばかり、風呂屋総休みの交渉をやって貰った訳である。
――で賑やかにそこで一杯飲んでいると、
「大変です、伝公が血を吐いて、死んだそうです」
と、知らせに来たものがある。
まさか、死ぬ程のこともあるまいと思っていたので、
「えっ!」と色を変えて総立ちになった。
「死んだとなると、こいつア検死が面倒だ、とにかく、
今さら驚いて顔役と亀親方だけが、例の
白粉よごれのした女が、伝公の死骸にすがって泣いていた。
すると、もしや――と思ったので、男の方を聞いてみると、醤油賭の伝公というのは、江戸へ来てからの変名で、もとは左次郎の父に仕えていた
だが、一平は、醤油賭をやり始めてから、すッかり昔と体質や容貌まで変ってしまったというから、左次郎には気がつかなかったものと見える。
お咲は隠しなくすべてを話した。
自分が今、割下水で、恥かしい夜鷹をして人の袖を曳いていることも。
なぜ、そうまでして、
その代金として、最初、国元から預かって来た金は、まったく道中の誤ちで、お咲が胡麻の蠅に
ただ稼いで、何百両という金を
だが――金の額が越えるほど貯まってくると、こんどは、一平もお咲も、急にその
で、まったく、主従の
その話に嘘はなさそうであった。
銅鑼屋の亀さんは、何しろこの奇遇を少しでも早く左次郎の耳に入れてやろうと、その晩、滅多に乗らない町駕を飛ばして帰った。
だが、左次郎は、今日の砂利場の帳場から姿を隠したまま、どこへ行ったものか、銅鑼部屋へは帰らなかった。