昭和十年発行の岩波版『
芥川竜之介全集』第八巻に「一人の無名作家」という短文がある。
七、八年前、北国の方の同人雑誌を送って来たことがあるが、その中の『
平家物語』に主題をとった小説が、印象に残っている。「今はその青年の名も覚えておりませんが、その作品が非常によかったので、今でもそのテエマは覚えているのですが、その青年の事は、折々今でも思い出します。才を抱いて、
埋もれてゆく人は、外にも沢山ある事と思います」と最後に書いてある。
田舎の同人雑誌に出た無名の青年の作品を、十年近くも覚えていて、こういう文章を書くというのは、芥川にしては、珍しいことだろうと思う。この文章の中で、芥川はその小説の内容を詳しく紹介しているので分ったのであるが、この青年というのは、私の弟
治宇二郎のことであった。
治宇二郎というのは、まことに妙な字面であるが、宇という字を入れるきまりになっていたので、こういう名前になったのである。治宇二郎は、中学の三年頃から、当時の文学青年になって、同窓の中学生たちと、同人雑誌を出していた。『
跫音』という名前の雑誌であった。芥川に褒められた短編はたしか、中学五年の頃に書いたものである。
中学は、石川県の
小松中学で、その頃この北陸の片田舎には、文学熱が大いに興っていた。弟の二年先輩、即ち私のクラスには、
北村喜八がいて、中学五年の時に『こころの歌』という歌集を出版した。その最初の歌が「二人して
緋の
帳深くたれこめて十六億の人に
背かむ」というのであるから、恐るべきティーン・エージャーであった。
弟たちは、実はその雑誌を
菊池寛のところへ送っていたのであるが、菊池がそれを芥川に見せたものらしい。菊池から弟のところへ手紙が来て、芥川も非常に褒めているから、よかったら東京へ出て来ないか、といって来た。それで弟は中学を出るとすぐ上京して、
暫く菊池寛のところにごろごろしていたことがある。
横光利一なども、一緒だったように覚えている。その後私が東大の物理科へはいることになって、一家は東京へ引き揚げて来た。そして弟も文学青年を卒業して、
鳥居竜蔵博士の助手になって、考古学の勉強を始めた。文学修業と、一年ばかり東洋大学で印度哲学をやったのが、役に立ったものと見えて、考古学の方法論の方で、大分いい仕事をした。
それから五年くらいして、私が
巴里にいた頃、弟がひょっくり巴里へやって来た。昭和四年の夏のことである。本を書いて、その印税で、シベリア鉄道の切符だけ買って、無分別に出かけて来たのである。
在仏三年、大分たくさん論文を書いたが、病を得て、日本へ帰って死んだ。芥川もその間に自殺していたので、二人はとうとう会う機会がなかった。
(昭和三十年七月十八日)