町から、
村へつづいている
往来の
片側に、一
軒の
小さなペンキ
屋がありました。
主人というのは、三十二、三の
男であったが、
毎日なにもせずに、ぶらぶらと
日を
送っていました。このあたりの
商店は、一
度、かけた
看板は
汚れて、よくわからなくなるまで、
懸けておくのが
例であって、めったに、
新しくするということはなく、また、
新しい
店が、そうたくさんできて、
看板を
頼みにくるということもなかったのです。
「そんなことで、
商売になりますかな。」といって、ペンキ
屋のことを
近所でうわさするものもありました。
それも、そのはずであって、いくら、
地方の
小さな
町といっても、
工場では、
機械が
運転をして、
人々はせっせと
働いていたし、またほかの
商店では、一
銭二
銭と
争って、
生活のためには、
血眼になっていたからでした。
ペンキ
屋の
主人の
兵蔵は、ぶらぶらとして、
自分の
家の
戸口を
出たり、はいったりしていました。そして、ぼんやりとするときは、
町の
方をながめ、あるときは、
村の
方をながめて
空想していました。
彼が、どんなことを
頭の
中に
思っているか
知った
人はありません。ただ、
彼が、こうして、いるうちに、
彼を
除いて
世の
中は、せっせと
駆け
足をしていたのであります。
ある
男は、一
日のうちに、五
円ばかりもうけました。ある
男はこの一
週間の
中に、
東京から、
大阪の
方までまわってきました。また
町へ、
旅から
役者がきて
芝居を
打って
去れば、その
間には
質屋の
隠居が
死に、
指物屋の
娘は
嫁にいったのであります。けれど、ペンキ
屋の
主人の
生活には、
変わりがありませんでした。
「
兵さん、このごろは、どうですい。」と、
聞くものがいると、
兵蔵は、にやりと
笑って、
「あいかわらず、
暇です。」と
答えました。
女房は、
質屋へ
持ってゆく
品物もつきて、
子供のものまで
持ってゆきました。
「なにか、ほかの
商売をすればいいのに、ああ
遊んでいては、
困るのもあたりまえだ……。」と、
近所のものは、
見るに
見かねて、ささやき
合ったのです。
しかし、
兵蔵は、あいかわらず、のんきそうに
暮らしていました。ある
日のこと、
女房は、
辛棒がしきれなくなったというふうで、「なにをそうぶらぶらして、
毎日、
考えているんですね。
私たちは
明日食べるお
米がないじゃありませんか。」と、いいました。
「
好きで
遊んでいるんじゃない。
仕事がないのだもの、しかたがない。」
彼は、こういって、ぶらぶらしていました。そして、
日に、
幾度ということなく、
戸口を
出たり、はいったりしていました。
ある
日のこと、
町の
菓子屋から
使いがきて、
店の
看板を
塗り
換えるから、ひとつ
趣向を
凝らして、いいものを
描いてくれと
頼まれたのです。
その
菓子屋というのは、
町での
老舗でありましたから、
女房は
喜んで、
「おまえさん、いいものを
描いて、
評判をとってくださいね。そうすれば、また、ほかの
家でも
頼みますから……。」と、いいました。
兵蔵は、にやりと
笑っただけで、
答えませんでした。いよいよ
町の
菓子屋へ、
仕事に
出かけてゆくと、
「
大将、きれいな
女を
描いてもらいたいと
思うんだが、すてきな、
美人を
描いてくれないか。」と、
菓子屋の
番頭がいいました。
「
美人ですか?」と、
兵蔵は、
問い
返した。
「ああ、だれでも
振り
向いて
見るようなのをな……。」と、
番頭はいいました。
「
文字も
書くんでしょうね。」
「ああ、
字も
書かなければ、
看板にならないが、まあ、
絵のほうに
力をいれてもらいたいのだ。」
兵蔵は、しばらく、
考えていましたが、
黙って、そのまま
仕事にとりかかりました。
家で、
留守をしている
女房は、せっかく、
夫が
仕事にありついたので、どうか、いいものを
描いてきてくれればいい、それが
人の
目に
止まって、
評判になったら、また、ほかから
頼みにくるだろう、そうすれば、いままでのように
困ることもないと、ひたすら、
心で
祈っていました。
また、
近所のものは、
兵蔵が、
仕事に
出かけたのを
見て、
「
珍しいことだ。」と、
話をしていました。
兵蔵は、いつに
変わらぬのんきな
顔つきをして、しきりに
筆を
動かして、いま
女の
頭から
描きはじめたところです。
町の
問屋や、
工場や、
会社などでは、
目まぐるしく、
人たちが
働いている
間に
彼は、
鼻唄をうたいながら、さも
楽しそうに、
美人の
姿を
描いていました。
番頭は、二、三
度、
家の
外に
出て、
兵蔵の
描いている
看板を
仰ぎましたが、いつまでも
立って
見ていずに、
「なるほどな。」といって、じきに
店の
内へ
引っ
込んでしまいました。
その
日の
晩方には、
美しい
女の
立ち
姿がみごとに
描き
上がりました。
兵蔵は、はしごから
降りて、しばらく
道の
上に
立って、
自分の
描いた
絵に
見とれていました。
「ああ、よくできた。
人好きのする
顔だな。」と、いつしか、そばにきて
立っていた
番頭が、
感心していったのであります。
兵蔵は、
仕事を
終わって、
道具を
片づけて
帰りかけた。そして
店を
出てから、もう一
度自分の
描いた
看板を
見返していたが、いつしか
考え
込んで、
地面へ
釘づけにされたように、じっとして
動かなかった。
彼は、なんと
思ったものか、また、
絵の
具を
出して、はしごへ
上りました。そして、しばらく
筆を
使っていましたが、やっと、それで
満足したように、
絵をながめて、はしごを
降りると
自分の
家の
方へ
帰ってゆきました。そのときは、もう、あたりが、
暗くなって、
人の
顔が、はっきりわからなかったのでした。
翌日の
朝、
番頭は、
外へ
出て、ゆっくり
看板を
見ようとして
仰ぐと、あっ! と
声をたて、
驚きました。
彼は、あわてて
家へはいると、
「おい、みんな
出てみな!」と、
小僧たちにいって、
騒ぎました。
それも、そのはずのこと、
看板の
美人の
頭に、一
本の
小さな
角が
生えていたからです。
「
一晩の
中に、
角が、ひとりでに
生えるわけはない。
看板屋が、
後から
描いたに
相違ないが、なぜこんなことをしたのだろう。」と、
番頭はいったのです。
「これから、
看板屋へいって、
呼んできて、
描きかえさせなければならん……。」と、
番頭は
怒りました。
このときまで
番頭の
後ろに
立って、ものをいわずに、
看板を
見ていた、
菓子屋の
主人は、
「いや、
描きかえさせなくていい。なかなかおもしろいと
思う。きっと、この
看板は、
世間の
評判になるだろう。」と、いいました。
はたして、この
看板は、
世間のうわさに
上った。
「あれは、
鬼を
描いたんでしょう。」
「いや、あんな、
美しい
鬼というものは、ありませんよ。やはり、
美人を
描いたので、
顔は、こんなに
美しくても、
心は、
鬼だということを
現したものでしょう……。」
「しかし、なかなかあの
角は、
愛嬌がありますね。」
「そう、あんなに
顔の、
美しい
鬼があれば
悪くありませんな。」
人々は、
看板の
絵を、さながら
生きている
人間を
批評するように、とりどりにうわさをしたのでした。
いつのまにか、
菓子屋の
看板の
美人は、この
町の
人たちの
仲間入りをして、りっぱな
存在になったのであります。
村の
人たちも、
看板を
目標に、
道筋などを
語るようになりました。しかし、これを
描いた
兵蔵は、それから
転々して、どこへか
移っていってしまった。いつしか、
兵蔵のことは
忘れられて、だれもいわなくなったけれど、
彼の
描いた、
菓子屋の
看板はその
後長く、ものをいわない
人間のごとく、
生きていて、
町の
名物となっていました。
――一九二七・一〇作――