新橋駅に降りた私はちいさな風呂敷包と、一本のさくらの
私は電車と電車とがすれちがう時、眼をつぶつた。そして電車というものがその時代の文明をいかによく代表的にあらわしていたかに、私は驚いた。舶来的な、ひとりで走るような車体はどれもあたらしく、自動車がすくなかつたから大抵の人は電車に乗り、車内はいまの映画館の坐席のように美しい人が乗り合い、そういう客間のお茶の会のような光景が、そのまま街のなかを走つて行つた。往復五銭であつた。私はできるだけこれから電車に乗つてやろう、そういうふうに私は東京についた第一日の印象に、電車というものを好いた。
その晩、田辺と幸崎とで浅草公園に行き、六区の映画館街につれこまれた。私はわりあいに驚かなかつた。こんなところはきつと一処くらいあるだろうと思い、却つて金魚を釣る店が何軒もならんでいて、そこに一杯の人だかりしているのが変に永く頭にのこつた。人と人との頭のあいだから見た金魚のあいた口から、その口の二倍くらいある泡が吹かれているのがあわれであつた。どちらにも肩をうごかすことの出来ない通りで、田辺はどうだ犀星驚いたかと恰もこの群衆が田辺の所持品ででもあるように、大きな眼をひらいて彼は云つた。そんなに驚いてはいないよと、もう午前十時から八時間東京にいるあいだに、私は東京になれて来たような気がしてくるのであつた。きよう昼間に田辺のご馳走した柏餅という柏の葉につつんだお菓子にびつくりしたのにくらべ、この六区の雑沓は平凡なものであつた。菓子といえばお茶のはやる故郷にあんな柏の葉つぱにつつんだ乱暴な菓子なぞは、見たくともなかつた。
江川の玉乗りの小屋の前に出たとき、私は玉乗りが見たいというと、田辺は叱つて田舎者と云つた。それならこんど一人で来て、魚釣りで魚を釣り、玉乗り娘のあわれに加ろうと思つた。だが私は十二階の塔を見上げたときは、奇異にも不思議な思いで、永い間うごかずに感激して了つた。七階と十二階に灯がついていて、その灯のついていない窓々が映画館のあかりを六角形の二角の面に受けていて、ココア色の煉瓦にしみた夜の濃い藍紫のいろが美しかつた。田辺はこれには犀星驚いたかと亦念を押して云つた。これには全く驚いた。これで東京に来た甲斐があつたぞといい、中に人が住んでいるかねと尋ねると馬鹿と叱られた。それでは人が住んでいないんだと思うた。私は東京は西洋風とばかりおもい込んでいて、その感じのちがつていたのをこの塔を見上げて初めて訂正することができた。私はその塔のふもとに行き基礎の上まで覗きこんで見たが、夜眼にも苔が張つていることが分つた。
私達はすぐ塔の下から岐れた幾本ともない小路という小路、通り抜けられぬ裏通りが通り抜けられ、からだを横にしなければ歩けぬ裏路地を歩いた。そこには間口一間くらいの家がぎつしりならんでいた。哀れはここに続いた。千九百十二年代の不幸な女らはここに屯して夜昼となくはたらいていた。私達は明るい通りに出て、観音堂横のベンチの上に腰をおろしてしばらく憩んだが、私はいま見て来たばかりの光景の目まぐるしさに、なんにもいうことがなくなり、茫乎としていた。少しはなれたところにヴァイオリン弾きがいて、卑俗な小唄をうたいながら唄を刷りこんだ小冊子を十銭で売りさばいていた。
かくて都の一日が夜更けるとともに終ろうとしつつあつた。田辺孝次の宿に枕をならべて寝ようとすると田辺は云つた。犀星はどこか行くあてがあるかといい、あると私は応えた。あるならよし、なければ明日にも国に帰れ、一日見れば東京はたくさんなところだ。おれは君とともに共倒れになる生活はできないと彼は先ず痛烈に一撃を加えて置いて、さあ寝ようと、三十年の後に故郷の工業学校校長になる彼は云つた。そして三十年の後に彼のこう云つた言葉をあじわうことは、私をよく知る彼だと思わざるをえなかつた。
だが、私はこの痛烈な一撃のためになかなか睡れなかつた。そして今夜見た公園にあるいろいろな生活が私に手近い感銘であつた。小唄売、映画館、魚釣り、木馬、群衆、十二階、はたらく女、そして何処の何者であるかが決して分らない都会特有の雑然たる