徳川時代の法制では、エタは非人の上に立って、これを支配監督する地位にいたのではあるが、非人には通例足を洗うて
「完全に融和されたる部落」
静岡県浜名郡□□□村字□□と称する部落は、通称六軒家と云ひ、小部落にして、幕府時代に在ては人民皮細工・草履細工を業とせしが、明治の初年頃従来の業を全廃し、みな農業に就き、婦女子は織業を営み、一般民と通婚行はれ、完全に融和されて殆ど昔日の痕跡を知るもの絶てなき状態なり。
同郡□□□村□□と称する部落は、浜名湖岸に接し、現在戸数六十戸余、旧幕末の頃に於て人民の営める皮細工・草履細工を全廃し、足洗ひと称し、従来の細工道具を村社に奉納す。今尚同地氏神社殿には昔の道具伝り、存在せりとの説あれ共、殆ど今日にては過去の痕跡境遇を知るものとてなく、一般民と完全に融和し、通婚行はれ、殊に郡下屈指の蚕業発達し、富の程度向上し、総ての点長大足の進歩を為せり。
同郡□□村に小字□□□と称する部落あり、戸数三十戸内外にして、旧幕末の頃に至り、皮細工・草履細工を廃し、足洗して農業に従事せし故、今日に於ては旧態を知るものなく、一般民と同等の進歩発達を見るに至れり。
磐田郡□□□村□□と称する部落は、戸数三十戸余の小部落にして、人民の営める皮細工・草履細工は明治の初年頃全廃し、農業に従事し、已に一般民と完全に融和通婚行はれ、昔日の痕跡を知るものなきに至る。
引佐郡□□村□□□□と称する部落は、戸数二十戸内外の小部落にして、明治初年の頃に至り、皮細工・草履細工を全廃し、足洗と称し、農業及副業として琉球莚製造に従事し、一般民と融和通婚行はれたり。されど人民に努力の風乏しく、中流以上の産を有するもの尠く、生活の程度稍劣等なり。
遠江 奇聞老人
静岡県浜名郡□□□村字□□と称する部落は、通称六軒家と云ひ、小部落にして、幕府時代に在ては人民皮細工・草履細工を業とせしが、明治の初年頃従来の業を全廃し、みな農業に就き、婦女子は織業を営み、一般民と通婚行はれ、完全に融和されて殆ど昔日の痕跡を知るもの絶てなき状態なり。
同郡□□□村□□と称する部落は、浜名湖岸に接し、現在戸数六十戸余、旧幕末の頃に於て人民の営める皮細工・草履細工を全廃し、足洗ひと称し、従来の細工道具を村社に奉納す。今尚同地氏神社殿には昔の道具伝り、存在せりとの説あれ共、殆ど今日にては過去の痕跡境遇を知るものとてなく、一般民と完全に融和し、通婚行はれ、殊に郡下屈指の蚕業発達し、富の程度向上し、総ての点長大足の進歩を為せり。
同郡□□村に小字□□□と称する部落あり、戸数三十戸内外にして、旧幕末の頃に至り、皮細工・草履細工を廃し、足洗して農業に従事せし故、今日に於ては旧態を知るものなく、一般民と同等の進歩発達を見るに至れり。
磐田郡□□□村□□と称する部落は、戸数三十戸余の小部落にして、人民の営める皮細工・草履細工は明治の初年頃全廃し、農業に従事し、已に一般民と完全に融和通婚行はれ、昔日の痕跡を知るものなきに至る。
引佐郡□□村□□□□と称する部落は、戸数二十戸内外の小部落にして、明治初年の頃に至り、皮細工・草履細工を全廃し、足洗と称し、農業及副業として琉球莚製造に従事し、一般民と融和通婚行はれたり。されど人民に努力の風乏しく、中流以上の産を有するもの尠く、生活の程度稍劣等なり。
右に見えたる五個の村落は、いずれも旧敷知郡か、もしくはその付近の地方のみで、かく完全に融和の行われたということは、村民各自の自覚努力の結果によるとは云え、一つは旧幕時代からこの地方の気風が、特殊民に対して寛大であった為かとも解せられる。しかも「エタの源流」如何を考えてみれば、これはむしろ当然の事で、他の地方で特に圧迫の多いのは、徳川時代太平の結果、階級思想の極端に発達したことと、肉食を穢とした迷信との結果であることを思うと、階級制度の打破せられ、その迷信の除去せられた今日、これらの完全に足洗の行われた貴重すべき実例を模範として、各自に自覚努力したならば、多年の因襲を破って完全なる融和を得るのも、さまで困難ではなかろうと思われる。