江戸開府以來の捕物の名人と言はれた錢形の平次は、春の陽が一杯に這ひ寄る貧しい六疊に寢そべつたまゝ、紛煙草をせゝつて
此上もなく天下泰平の姿ですが激しい活動のあひ間/\に、こんな閑寂な境地を樂しむのが、平次の流儀でもあつたのです。
「八、何をして居るんだ。用事があるなら大玄關から入れ」
いきなり平次は振り返りもせずに、後ろの方――さゝやかな庭木戸のあたりに居る人間に聲を掛けました。
「へツ、よくあつしと解りましたね」
平次のためには大事な『見る眼嗅ぐ鼻』ですが、人間の燒が少々甘い八五郎は、木戸の上に長んがい
「大層意氣な影法師が縁側まで泳いで來るぢやないか、そんな根の
「違げえねえ、――が、大玄關は洗濯物と張板で
八五郎はそれでも氣になるらしく左の方に曲つた髷節を直し乍ら、木戸を押開けてバアと入つて來ました。
「お
「そいつも影法師の
「いや、今度のは匂ひだよ」
「まア」
少し
「まア入れ、其處に立つて居ちや、お長屋の衆が通られまい」
と
八五郎と一緒に來た客といふのは、十七八の可愛らしい娘で、至つて粗末な
「ね、親分。若い娘が一人煙のやうに消えてなくなつたんですがね、こいつは年代記ものぢやありませんか」
八五郎は話上手に持かけました。
容易に人を縛らぬ錢形平次は、一面にはまた恐ろしく無精なところがあり、江戸の町人達がよく/\平次の
「婆さんか赤ん坊が消えてなくなりや不思議だが、若い娘や息子が行方
「それが親分、唯の行方不知とはワケが違ひますよ。何しろ内から戸締りをしたまんま、床が
ガラツ八は一生懸命兩手を宙に泳がせて、煙の恰好を見せるのでした。
「それは一體何處で、誰が消えてなくなつた話なんだ」
平次の興味も
「本郷金助町の御浪人大瀧清左衞門樣の一番目娘でお
八五郎は席を讓るやうに身體を
「親分、お聽き下さい。父は不心得者は放つて置け――と申しますけれども、姉は自分勝手に家出をするやうな人では御座いません。あんまり不思議ですから、八五郎さんにお願ひしましたが、戸締りをしてある家から、姉はどうして外へ出たのでせう――いえ姉が外へ出てから、誰が戸締りをしたのでせう」
「さア」
「お願ひでございます、姉を
お勢と言はれた娘は、
「芝田樣?」
「姉の
「兎も角、
平次も
お勢と八五郎の話を
「
平次は口を
「其處までは氣が付きませんでした」
賢さうでも若いお勢には、そんなところまで氣が廻らなかつたのです。
「それから心當りを方々尋ねて見ましたが江戸には近い親類も懇意な家もなく、姉の行方は少しも見當がつきません。父は姉が不心得の家出をしたと思ひ込んで、少しも相談に乘つてくれず、思案に餘つて少しの
お勢の話はなか/\行屆きますが、
「不心得の家出をするやうな心當りがあるのでせうな」
それを追つかけるやうに、平次の問ひが突つ込みます。
「――」
お勢はさすがに答へ兼ねてモヂモヂして居ると、八五郎が引取つて、
「こいつは近所の噂を聽き集めたんだが、行方不知になつたお茂世さんは、九州から出府する許婚の芝田何かといふお侍を嫌つて居たさうですよ」
「好きな男はなかつたのかな」
八五郎の説明に、平次はもう一歩踏込みます。
「大層な
「お孃さんの方は?」
「親御がやかましいから、浮いたことはなかつたでせうが、若旦那の敬太郎は滿更ぢやなかつたやうで、――ね、それに違ひないでせう、お孃さん」
「――」
いきなり八五郎に問ひかけられてお勢はハツと赤くなりました。姉の素振を思ひ出して、自分のことのやうに恥かしかつたのでせう。
「此處で考へたところで眼鼻が付くまい、兎も角、行つて見るとしようか」
平次は
「さう來りや百人力だ、どうも二本差は苦手でね、あつしぢや此上探りの入れやうはねえ」
八五郎は首を
其處で暫らく待つてゐるうちに、お勢はどう父親を
「父がお目にかゝると申します、どうぞ此方へ――」
と改めて二人を迎ひ入れます。
構への大きい浪宅と見たのは、大家の寮へ留守番代りに住んでゐるせゐらしく――これは後でわかつたことですが――中へ入つて見ると、屋臺にそぐはぬ調度の貧しさが、寒々と人に迫るものがあります。
「これは、平次殿と言はれるか、拙者は大瀧清左衞門、以後
尊大でない程度に四角張つて、いとも古風な挨拶をするのは、五十二三の浪人者で、人品も
「お孃さんが見えませんさうで、御心配なことで御座います」
「何、
以ての外の機嫌です。
「あれお父樣、わざ/\お願ひして來て頂きましたのに」
飛付いて父親の口でも
「では勝手に」
むづかしい顏の紐をほぐしもせず、そのまゝ奧へ引込んでしまひました。
平次はお勢の案内で一と通り家の中を見せて貰ひました。某といふ大町人の建てた寮を、そのまゝ
姉のお茂世が寢て居た部屋といふのは、右手へ突き出した六疊で何にかの都合で後から建て増したところらしく、その手前の四疊半――妹のお勢が寢んでゐる部屋を通らなければ何處からも行けないやうになつて居ります。
外部に出られるのは突き當りの一方だけ、其處の雨戸三枚は、その朝嚴重に内から締めてあつたとお勢が證言したのに間違ひはないでせう。
念のため、お茂世の持物を一と通り見せて貰ひましたが、娘らしく
「隣の妹さんの部屋へ拔ける外には、此處から出られる道理はありませんね、親分」
八五郎は今更感心して居ります。
「隣には私が
お勢は言ひ切りました。丸ぽちやで健康さうで、存分に可愛らしくあるのですが、この娘には何處か確りしたところがありさうです。
平次は一應縁側の樣子から戸袋の具合、戸締りなどを調べましたが、上下の
それに、雨戸の外は五六坪の小さい庭で、庭を巡つて大町人の好みらしく頑丈な板塀を
外への通路と言つては、北側の横手に小さい木戸が一つ切つてありますが、幾年も幾月も開けなかつたらしく、
「此處の出入りは難かしい、羽でもなきや」
「すると矢張り消えてなくなつたんで」
平次の獨り言に八五郎の
「人間が消えてなくなるわけはないよ、妹さんが
平次の判斷は何處までも常識的でした。
「いえ、私が
お勢は何處で聽いて居たものか、二人の前へ顏を出すと、
「さうなると神隱しだね」
八五郎は酢つぱい顏をします。その頃は
念のため向う三軒兩隣を當つて見ましたが、門並
「歸らうか、八」
「これつきりですか、親分」
「神隱しぢや十手捕繩の御威光でも及ばないよ。ところでお前は遊び人の喜三太と呉服屋の伜の敬太郎の樣子を見て來てくれ。お茂世が行方不知になつたといふ噂は町内で知らない者もないだらうから、少しでも引つかゝりのある者は。[#「者は。」はママ]岡つ引の顏を見るとソハソハするかも知れないがあわてて縛つちやいけないよ。神妙に家に居るなら、それを見定めて歸りや宜いんだから」
「へエー」
平次の命令は行屆きますが、それも全く無駄な努力で、その晩八五郎の持つてきた報告によれば、喜三太も敬太郎も、此二、三日は何處へも行かず、神妙に家に居たといふことでした。
事件はこれがほんの發端でした。翌る日はこの平凡らしい、――が奇つ怪な
「親分、た、大變つ」
「馬鹿野郎、何が大變なんだ。第一、懷手のまんま飛んで歩いてちや危ないぢやないか」
「懷ろ手を拔く隙もないんですよ、今日のは
「よし、行かう」
平次は立上がりました。
金助町の浪宅に行くと、あれほど眞四角に取濟した大瀧清左衞門も、彌次馬や土地の安岡つ引に包圍されて、娘の
「あ、錢形の親分」
人波を掻きわけて近づく平次と八五郎を、
「大變なことでしたね、お孃さん」
「姉の仇を討つて下さい、親分」
お勢の部屋を通つて、お茂世の部屋だつた六疊の縁側から見ると、西向の狹い庭に
足跡は庭一杯に散つてをりますが、それはお勢のらしい女の
死骸の位置は塀に近いのですが、頭の上の朽ちかけた忍び返しには何んの異状もなく、死骸を外から運び入れた形跡は一つもないのですから、平次の常識論を以つてすれば、家の中から持ち出して捨てたとしか思へず、八五郎の想像を飛躍させると、天から降つたとでも見る外はありません。
「今朝、雨戸は?」
平次は後ろに從ふお勢を
「念入りに締めてありました。今朝風を入れようと思つて、雨戸を開けると――」
お勢はゴクリと
「兎も角」
平次は庭下駄を突つかけて降りると、足跡を踏まないやうに死骸に近づき、
「――」
危ふく聲を立てようとして、そのまゝ息を呑むと、平次は兩手を合せて、暫らくこの凄じくも美しい死骸を拜んで居ります。
あまり陽當りのよくない、まだ春が
苦惱に
襟をはだけると、首には娘の帶上げらしい赤い紐をキリキリと卷いてありますが、念のためにその紐を解くと、圓い首筋には大した
胸をはだけると、所々紫色の
「この着物は?」
「寢卷ではございません。姉が好きで着た不斷着で――」
平次の問ひの眞意を覺つて、お勢は
「どんなに不思議に見えても、これは人間の仕業に違ひありません。極惡非道で、恐ろしく惡智惠の廻る人間――そいつを縛るのが私の役目で御座います」
「――」
平次は後ろにソツと立つて、娘の死顏を見詰めて居る『悲しみの立像』のやうな父親――大瀧清左衞門を
「つまらないと思つたことでも、どんな小さい事でも、お孃樣の關係したことは皆んな仰しやつて下さい」
「――宜からう、なんなと訊くが宜い」
清左衞門は大きくうなづきます。
「第一に、お孃樣は許婚の芝田樣とやらが江戸へお
「その通りだ、――あんまり小さい時、兩親の話し合ひで決めた約束で、娘はそれが氣に入らなかつたらしい、不心得なことだが――」
「芝田樣といふのは?」
「昔の藩の者だが、――」
「外にお孃樣に
「左樣、そんな事もあつたやうだ」
「遊び人の喜三太、呉服屋の伜敬太郎といふやうな」
「左樣」
大瀧清左衞門は如何にも苦々しい樣子です。
「他には?」
「これは關係のないことと思ふが、――さる大身の旗本から、側近く使召ひ度いといふ申出はあつた。再三の望みであつたが、
思ひ出すのさへ苦々しいらしく、清左衞門の顏は憤怒に
「お孃樣は?」
「申す迄もない、大層な腹立であつた」
「そのお旗本のお名前は?」
「――」
「それは是非お明しを願ひます」
「
大瀧清左衞門は
「仲へ入つて口をきかれた方は?」
「それが氣に入らぬのぢや。筋の通つた人間でも立てることか、桂庵を内職にして居る町の誰彼れ――
清左衞門は古金買ひの金兵衞などを人間の
此處でこれ以上に訊く事もないと見ると、平次は八五郎を
「これは錢形の親分さん、御苦勞樣で」
そんなお世辭を聞捨ててお勝手口から隣の長屋を覗くと金兵衞の家は相變らず三本の物干竿が洗濯物で一パイ、隣の
「八、心當りを一と廻りしようか」
「へエ――」
平次は先づ八五郎と一緒にツイ五六軒先のお
「誰も居ませんよ。昨日から明けつ放しで、何處かの
隣のお神が叱るやうな調子で注意してくれます。
「今度は三河屋の伜を當つて見ませうか」
八五郎はもう外へ氣が移つて居りますが、
「待つた、八。あれは何んだ」
平次は格子から家の中を指します。
「何んです、親分」
丁度
「變ですね、親分。喜三太の野郎は獨り者ですぜ」
「入つて見よう」
平次の手に從つて格子戸は開きました。障子を押し倒すやうに入ると中は
「親分、ちよつと、親分」
外から火の付いたやうに八五郎が呼びます。
「何んだ、八。騷々しいぢやないか」
「あれを見て下さい、三河屋の若旦那が――」
「何がどうしたといふんだ」
八五郎の調子の物々しさに驚いて兎も角喜三太の家は其儘にして飛出した平次の前に、日頃平次と對立的な地位に立つて、手柄爭ひにばかり
「おや、錢形の親分。浪人者の娘を殺した
お神樂の清吉は早くも平次の顏を見て
三河屋の伜敬太郎は、平次の方に燃えるやうな歎願的な瞳を向けましたが、後ろから
「好い男だね、八」
平次は思はず斯う云ひました。少し
「それよりあつしはあの清吉の野郎の
ガラツ八は鼻の先で拳骨を振り廻して、カンカンに腹を立てて居ります。
翌る日、ガラツ八の八五郎は鬼の首でも取つたやうに、恐ろしい勢ひで錢形平次の家へ飛込んで來ました。
「親分、喜んで下さい。お神樂の清吉の野郎に一と
「清吉が泡を吹かうがしやつくりをしようが、俺の知つたことぢやないよ」
平次は以ての外の機嫌です。
「でも、あの浪人の娘――お茂世が殺された晩、三河屋の敬太郎は店から一と足も出なかつたといふ生證人が七人もあるんだから確かでせう。その上、あの晩何處に居たかはつきり云へないお厩の喜三太の家には、殺されたお茂世の紅鹿の子の
八五郎が得意になつたのは、
「びつくりして、引かれて行つた――? そいつは飛んでもないことをしたよ、八」
平次は妙に考へ深くなりました。
「誰が何んといつたつて、あの喜三太の野郎が下手人に間違ひありませんよ、――大河の旦那(係り同心)も、あつしの話を聽いて紅い
「待つてくれ、八、俺には呑み込めねえことばかりだ。お前の手柄にケチを付けるわけぢやないが、罪のないものを人殺しにしちやなほ惡い。もう少し樣子を見て居ようと思つたが、――
錢形平次は、到頭
錢形の平次は跟いて來る八五郎の顏色などには頓着なく、一番先にお
「お神さん、俺は喜三太の友達なんだが、
「お前さん、あの人の友達なら氣を付けるが宜いよ。大きい聲ぢや云へないが、喜三さんは先刻岡つ引に縛られて行きましたよ。怖いね、本當に」
お神は腹の底から
「へエ――、そんなことは知らなかつたが――あの野郎は盜みや喧嘩をする柄ぢやなし、縛られたとすれば、精々女出入りか勝負事だが、お神さん何にか氣が付いたことはありませんか」
「さア」
「一昨日の晩は無事に巣へ歸つたでせうな」
「一と晩家をあけたやうですよ。どうせ締りのない家だが、歸れば
「若い女が來やしませんか」
「近頃は、その方は恐ろしい
「喜三太は近頃大望を起して、金助町の浪人者の娘を張つて居るといふ評判だが――」
「そんな噂もありますが、相手は武家の出だから、ツンとして中間上りの喜三さんなんかには
「そんな話も聞いたが――」
お神さんの話が
「八、聽く通りだ。どんな證據があるにしても喜三太は下手人ぢやないよ」
往來へ出ると平次は、
「へエー、あの女の云ふことを眞に受けて宜いんでせうか。親分」
「大抵間違ひあるまいよ。中年のやかましさうな女が、壁隣りで若い男が逢引してゐるのを知らずに居る筈はないし、知つて居て隱す筈もないぢやないか。そんな事を嗅ぎ出しや、町内中に觸れ廻る柄だよ」
「――」
「喜三太は娘に嫌はれてゐたといふから、三日前の晩に、あんなに器用に
「その扱帶を見せられてびつくりしたのは、親分」
八五郎は
「それも考へやうぢや喜三太に罪のない證據さ。若し身に覺えがあるなら、そんなものを見せられても、白ばつくれて平氣な顏をするよ――多分
「そんなものですかね親分」
「本當の下手人は恐ろしく
「すると」
「早合點は禁物だ、もう一度振り出しに戻つて念入りに調べる外はあるまいよ」
江戸開府以來と云はれた名御用聞の錢形平次が後で『――こんな念入りな細工は見たことも聞いたこともない――』と
三河屋へ行つて見ると、若旦那の敬太郎はまだ歸されませんが、いづれは無事に歸るといふ前
平次は一應店中の者に當つて見ましたが、平常は三日に一度、五日に一度家をあける若旦那ですが、此四五日は母親の加減が惡かつたのと、店の仕事が忙しかつたので、孝行者の敬太郎は何處へも出ず、
「それはもう、私共皆んなの首を
「若旦那がちよい/\出るのは出るんだね」
「若い盛りで御座いますから――
「道樂?」
「小唄を
番頭は
平次は其處を宜い加減に切り上げて、金助町の浪宅――お茂世の父の大瀧清左衞門を
清左衞門は寺の方へ行つたさうで折惡しく留守、代つて妹娘のお勢は、相變らずテキパキ應待してくれます。
「お孃さん、昨日訊き
「え、どうぞ、――でも、姉上を殺した下手人はもう縛られたといふぢや御座いませんか」
「それが
「腑に落ちないことと仰しやると?」
「例へば、お姉樣がどうして殺される前の晩戸締りをしてある家から
「父上か私が、姉上の脱出するのを手傳つたと仰しやるんですか」
お勢は
「そんな筈はないから不思議なんです、――これまでもお姉樣が、夜分に外へ一人で出られるやうなことはなかつたでせうね」
「そんなことがある筈も御座いません。何時でもお休みになる前には、私に聲を掛けて下さるお姉樣ですもの、――それに、私の部屋を通つて玄關へ出るか、私の枕元の雨戸を開けて裏に出る外には、外へ出られない筈ですもの」
「お夕食の後では、直ぐ銘々のお部屋へ引取るのですね」
「えゝ、父上も、姉上も、靜かなところがお好きですから、
「お姉樣が見えなくなつた晩は?」
「
「それから」
「
「――確かに、もう寢んだ――と言つたのですね」
「え」
「それが、翌る朝見ると床は敷いてあつたが、お姉樣は
「籠つたやうなお聲でした。確かにお床の中に
「?」
「私は若いくせに眼ざといと言はれて居ります。私の眠つた後で、私の枕元の雨戸を開けるのを知らずに居る筈は御座いません。雨戸は御覽になればわかりますが、建て付けが惡くなつて、開けようとすると大きな音を立てるんです」
念のため、隣にお茂世の部屋を見ると、相變らず
「お姉樣が行方不知になつた翌る朝、此窓はどうなつて居ました」
「何うもなつては居ません。格子はその通り丈夫ですし」
「いえ、雨戸は締つて居ましたか」
「雨戸は締つて居なかつたやうです。格子があるにしても、用心深いお姉樣がそこを開けたまゝ寢む筈はないんですが」
「窓の外は?」
「其處は丁度裏の三軒長屋の空家のあたりになつて居ります」
窓を開けると、其處は庭が狹くなつて、塀までほんの一間ばかり、塀の外には三軒長屋の屋根が、近々と眉に迫るのでした。
平次と八五郎は、念のため裏の三軒長屋を覗きました。
一番手前の金兵衞の家は相變らず
お隣の
「まア、親分さん方、御苦勞樣ですこと、――お隣のお孃さんを殺した下手人は、もう擧がつたさうぢやございませんか。三河屋の若旦那ぢやありませんとも、あの優しい若旦那が、人などを
「あの晩、お前は家に居たのか」
平次は潮時を見て漸く問ひを投込みました。
「それが不思議ぢやございませんか、お孃さんが行方不知になつた晩も殺されて死骸になつて歸つた晩も、私は
「何處へ行つて泊つたんだ」
「あら、親分さん、御存じなかつたんですか。まア、まア」
その
「お鶴は時々家をあけて娘のところへ泊りに行きますよ。あんな若作りのくせに三十近い娘があるんです、その娘は池の端の出合茶屋で――」
「よし/\解つた。不思議にお前の留守を狙つて變なことが起つたといふのだな」
「さうですよ親分さん」
「ところで、隣の金兵衞には女房があるのか」
「お神さんは五年前に亡くなつたさうで、十三になる男の子とたつた二人暮しですよ」
「何時見ても、恐ろしい洗濯物だが」
「近頃は雨の降る日も洗濯物を取入れませんよ、ホ、ホ、ホ、あれが洗濯狂ひと云ふんでせうね」
妙なところで笑ふお鶴です、それが何よりも結構な
「金兵衞は昔から古金買ひをして居るのか」
「いえ、昔は結構な藝人だつたさうで、本人もそれが何よりの自慢ですよ、
「フーム」
「あんな器用な人はありません、智慧も力も人並勝れてゐて、貧乏するのはよく/\運ですね、尤も近頃は工面が良いやうですが」
お鶴の饒舌の尚ほ續きさうなのを背後に聽いて、平次は八五郎に眼配せすると、隣の空家の方へ行つてしまひました。今日はよく/\中年女の
「八、此處が臭いよ、開けて見な」
「へエー」
八五郎の金剛力を出す迄もなく、空屋の戸はわけもなく開いて、中からはカビ臭い空氣――とは似もつかぬ、爽やかなものを感じさせる、明るさと華やかさが匂ふのです。
「此家は何時頃から空家になつて居るんだ」
「二三年空いてゐるやうですよ、隣が摘み綿の師匠ぢや、まともな人間は住み付きやしません」
「それにしちや變だね」
見渡したところ、一と通り
「誰か住んでゐましたね」
「そんなことだらうよ」
平次は外へ出ると、空家の前のあたり、鼻の先に立ち
「八、――これを何んだと思ふ」
指したのは、一尺ほどの
「
「お前もさう思ふか」
平次の注意は眼まぐるしく働きました。やがてお鶴の家の後ろから九ツ梯子を一つ見つけて來ると、いきなりそれを二つ並んだ穴の上へ――
「あつ、その梯子だ」
「シツ、聲が高いぞ、八」
スルスルと梯子を登つた平次は、いきなり忍び返しに手を掛けてゆすぶりましたが、これは恐ろしく時代が附いて居る
「忍び返しは拔けませんか」
と下からガラツ八、
「釘で打ち付けてあるよ、――新しい釘で、フム、五本かな、いや六本かも知れないぞ」
平次は梯子の上で暫らく
「八」
「へエ」
「お前、向うの家へ行つて、妹さんの部屋に入つて、暫らく樣子を見てくれ」
「何を見るんです?」
「疊のめどでも勘定して居るが宜い、俺が聲をかけたら、縁側へ顏を出すんだ」
「へエー」
八五郎は何が何やら解らぬまゝに、飛んで行きました。空家の前から左へ少し行くと路地の行止りで、其處に隣の大瀧清左衞門の浪宅の裏口――
八五郎は木戸を押し開けて入ると、丁度其處に居合せたお勢に聲をかけて、裏口から四疊半に入れて貰ひました。
「何にかお手傳をしませうか」
「いや、疊のめどを
さう言つて小鼻をふくらませる八五郎の長い顏を、お勢はどんなに不氣味なものにみたことでせう。
併し、本當に不氣味なのは、これから起る不思議な事件でした。
「八、どうだ、疊のめどを勘定したか」
いきなり隣の部屋――
「親分、何處です?」
「俺は
「變な冗談ですね」
そんな事を言ひ乍ら立上つた八五郎、何んの氣もなく境の唐紙を開けて、隣の六疊を覗きましたが――
「おや?」
其處には親分の平次の影も形もなかつたのです。
「驚いたか、八。そんなところにマゴマゴして居ると、下手人が逃げ出すよ、大急ぎで裏の空家へ引返してくれ」
親分の平次の聲は、相變らず六疊の中で響きますが、その姿が部屋の中にも縁側にも絶對に見えないことを確かめると、さすがのガラツ八も無氣味になつたものか、
「何處です、親分。人を
そんな事を言ひ乍ら、
その時丁度空家の前には、思ひも寄らぬ事件が展開して居たのです。
「御用ツ」

「何をツ」
恐ろしい勢ひでその平次に突つかゝつて行くのは、中背の猛獸のやうな
「神妙にしろ」
相手が近過ぎたのと、あまりに猛烈な襲撃を受けたので、得意の投げ錢を飛ばす隙もなかつたものか、平次ほどの者も、
「あツ」
といふ間に飛退つた金兵衞、一氣に逃げようとしましたが、いけません。左の手首には早くも、平次の投げた捕繩がキリキリと卷き付いて居るではありませんか。
「野郎ツ」
ガラツ八の八五郎は猛然と飛付きました。そのうちに立ち直る平次、二人が力を
きり/\と縛り上げて見て平次は驚きました。これがあの愛嬌のいゝ
殺されたお
許嫁のお茂世の死體は、この人の入府を待つてまだ
「芝田氏、飛んだことに相成つて何んとも申譯はない。が、これと申すも、娘の
父親の大瀧清左衞門は、膝に置いた手を疊に滑らせ、折入つた樣子でこの若い武家に詫るのでした。
「飛んでもない、父上、――それにしても、お茂世殿をこのやうな姿にした下手人は捨て置き難い、
芝田要は意氣込むのです、色の黒い、背の高い、左一眼の潰れた
「そのお答へは私から申上げませう」
平次は部屋の隅からにじり出ました。
「あれは?」
「町方の御用を承はる――平次、錢形の平次殿と言はれる」
清左衞門はこの一介の町方御用聞に、並々ならぬ敬服の眼差を注ぎました。
「お孃樣をおびき出したのは裏に住む古金買の金兵衞と申すもので御座いますが、
「何んと言はれる」
芝田要の驚きは、やがて主人清左衞門の説明で、激しい忿怒に變つて行きました。
「その望月丹後は、娘を何處やらで見掛けたさうで、
清左衞門はさう言つて聲を呑むのです。頑固一
「その望月丹後は」
と芝田要。
「ぬく/\として居ります。相手が三千五百石取の旗本では、どんなに證據が揃つても、町方御用聞風情の手が屆きません」
平次も齒を食ひしばります。惡徳と
「父上、――その始末をこの芝田要にお任せ下さらぬか」
「?」
「此儘泣寢入りしては、人間の道に反きます。金兵衞とやらの
芝田要は果してもえ立つやうな男だつたのです。
「それはなるまい。相手は直參の大身、それを相手取つては藩公の御迷惑とも相成る」
「浪人をいたします」
芝田要の答へは至つて簡單です。
「何?」
「百二十石の祿を捨てても、直參の非道を
「だが、娘は、他の男に
大瀧清左衞門は、親として此上もなく恥入る樣子でした。
芝田要はそんな事は耳にも入れず、其場から藩の江戸屋敷に戻り、永の御暇を願つた上、錢形平次を
それはむづかしい事件でした。が、芝田要の熱情と、その不屈の精神が若年寄を動かし、更に望月丹後の不行跡の數々を、錢形平次が調べ上げて證據を
「親分、芝田樣と大瀧樣は一緒に歸參が
フラリと訪ねて來たガラツ八が、珍らしく嬉しい便りを持つて來たのは朗かな
「それはよかつた、――俺のところへは、芝田樣とあの妹娘のお勢さんと明後日の晩祝言するさうで、その御つかひが來てゐるよ、――八五郎殿も御同道――といふ文面だ」
「へエ――、武家の祝言は少し肩が張るね」
「贅澤を言ふな」
「ところで、前から聽き度いと思つて居ましたが、あの姉娘のお茂世さんが閉切つた部屋から
八五郎がこの春の奇怪な事件を今更想ひ出して訊くのです。
「何んでもないよ。あの晩、姉のお茂世さんは、妹のお勢さんが、父親の部屋で肩を揉んでゐる間に、そつと妹の部屋から裏口へ忍び出たのさ。まだ宵のうちだから、あの四疊半の雨戸は開いて居たんだ」
「すると、妹のお勢さんに一刻も後で――お寢み――と隣の部屋から聲をかけたのは誰です」
「姉のお茂世さんさ」
「その時はもう歸つて居たので?」
「いや、
平次の説明は奇怪です。
「その竹竿は」
「金兵衞のところにあつた三木の物干竿が三木とも節が拔いてあつたよ」
「へエー」
「節を拔いた
「――」
ガラツ八は事件の眞相の
「あの晩は望月丹後に頼まれて、金兵衞が敬太郎の
「ひどい事をする二本差ですね。ところで、死骸が出入口のない庭にあつたのは?」
「金兵衞の細工だよ。塀の外から
「なアーる、でも
さう説明されると何んでもありません。ガラツ八は此親分の明智のお蔭で明後日ありつける素晴しい祝言の御馳走のことを考へて居りました。