「永い間斯んな
捕物の名人錢形の平次は、
それが一番凄慘な死體と逃れやうもなく顏を合せることになつたのですから、全くやりきれません。
「ガラツ八、手前は大變なところへ、俺を引張つて來あがつたな」
「繩張り違ひは承知の上ですが、
「つまらねえお節介だ」
子分のガラツ八が差出した提灯の覺束ない明りにすかして見ると、若い藝妓が一人、
「あツ」
死體嫌ひの平次は思はず顏を反けました。若くも美しくもある樣子ですが、半面血潮に染んで、その物凄さといふものはありません。
「これは
そのうちに平次は職業意識を回復して、一歩女の死體に近づきました。
紅の
「何か持つてゐますぜ」
ガラツ八が注意するまでもありません。平次は早くも近寄つて見ると、苦惱に

「これは良い手掛りだ」
其紐を

女の前髮は掴んで

眼に突つ立てた
それを松の葉になつた足の方三寸ほども、人間の眼の中へ突き立てたのですから、
「親分、
岸から小腰を屈めて、恐る/\船の中を覗込んだのは、
「此處で宜しければお目にかゝりませう――、と言つて貰はうか」
「へエ」
平次は小首を傾げて、
駒形の材木問屋で、當時江戸長者番附の前頭から二三枚目に据ゑられた
乘合は外に
藝妓の奴は、若くて美しくて、
それから半刻ばかり經つて、直助は襲はれるやうに眼を覺しました。客が居なくなると急に醉が發して、
ツイ
血の海。
眼球に突つ立つた
たつた一目で、直助は仰天しました。
「わツ、た、た、大變ツ」
睡氣も醉も覺めてしまつて、鶴吉の離屋へ鐵砲玉のやうに飛込んだものです。
騷ぎは
好い鹽梅に、捕物の名人錢形の平次が、寄合の歸り子分のガラツ八と二人で、鶴吉の表で飮んで居ることが解つたので、取り敢へず引張り出して、――繩張り違ひだから――と再三斷るのを無理に、兎も角檢屍の役人の來る前に一通り現場を見て貰ふことになつたのです。
「親分、かう言ふわけだ。何分宜しく頼みます」
大家の主人が、かうなつては目明しや岡つ引の機嫌も取らなければなりません。
「あツ、何をなさるんです。そんなことをしちや、反つて旦那の
平次は小聲でたしなめて、小判の包みを、萬三郎の手に返しました。小判五六枚といふと、今の相場にして五六萬圓にも匹敵するでせうから、ケチな岡ツ引を買收する袖の下としては不足はありませんが、萬三郎は平次の心持を
平次は
その後ろに從ふのは、
萬三郎の袖の蔭から、恐怖に引釣つた蒼白い顏を覗かせて居るのは、踊の師匠のお才、二十七八の中年増ですが、商賣柄身のこなしの
最後にまだ船の中に殘つてゐる船頭の直助があります。三十前後の獨り者で、人は好いが
平次は腕を
川をわたる夜の風が、六月と言つても少し冷々として、初更過ぎの江戸の靜かさは、何とはなしに身に沁みます。
その時、
「錢形の
顏を擧げると、平次と張合つて手柄を爭ふ石原の利助が、四十男の押の強さうな顏を、皆んなの後ろから覗かせて居るのでした。
「平次」
「へエ」
「わざ/\來て貰つて氣の毒だつたな」
「どう致しまして、――御用は何で御座いませう」
若い與力笹野新三郎の屋敷に呼出された平次は、敷居の外から
「ずつと、中へ入るがいゝ、――少し聞きたい事がある」
「へエ――」
「外ではない、柳橋の藝妓殺し、石原の利助が呑込んで、布袋屋萬三郎を擧げたんだが、どうも下手人らしくない」
「えツ、それは無法、――いえなに、石原の兄哥の
餘りの事と言はぬばかりに、――平次の口調はひどく彈みます。
「ホウ――、それは何う言ふわけだ。餘程確かな事を握つて居なければ、そんな事を言へるわけはない、話して見るがいゝ」
「へエ」
さう言はれると平次も當惑しました。確かな證據と言つては一つもありませんが、何となく平次の第六感は、さう言つた響きがあると言ふだけの事だつたのです。
「萬三郎は、あの晩お前の袖に小判を落して、ひどくお前に怒られたといふではないか」
何處から聞いたか、新三郎はつまらぬ事まで
「へエ」
「平次の氣風を知らなかつたのは、萬三郎の手落ちだ。そんな厭なことをするところを見ると、萬三郎の心持に、やましいところがあると思ふが、何うだ」
「それは旦那樣、お考へ違ひで御座いませう」
「どうして」
「人殺しの下手人が本當に萬兩
「成程」
「萬三郎が五兩や三兩の包みを、平次に掴ませようとしたのは、あまりの事に
「フーム、利助とは大變な違ひだが、さう考へられない事もないな」
笹野新三郎は豁然とした樣子ですが、
「外に萬三郎に疑ひを掛けるやうな事がありましたら、念の爲に仰しやつて下さいまし。口幅つたいやうで恐れ入りますが、私の見た事も少し申し上げたう御座います」
「では聞くが、殺された女の手に、萬三郎の羽織から

笹野新三郎は――今度は辯解の仕樣があるまいと言つた口吻です。
「それが


「フーム」
これは、仕方
「それに、紐を

「――」
「もう一つ、後で

「判つた、平次、私も何うも腑に落ちない事があつたよ。利助は萬三郎に相違ないと言ふが、鶴吉の女中に聞くと、萬三郎は
「それは私も聞きました」
「利助は、萬三郎は大金持だから、女中の三人や五人の口を
「それは亂暴で御座います。生き證據が三人も、五人もあつて、口が揃ふのまで疑つては際限がありません」
二人は顏見合せて銘々の考へに沈みました。萬三郎が下手人でないとすると、さて誰があんなむごたらしい事をしたでせう。
「平次、お蔭でよく解つたよ。明日は
「へエ――」
さう言はれると、さすがに厭だとは言はれません。平次は當惑して自分の膝小僧に眼を落しました。
萬三郎が許された翌る日。
「親分、石原の利助は今度は船頭の直助を擧げました」
あわて者のガラツ八が、長屋中へ響き渡るやうな聲で、かう言ひ乍ら飛込んで來ました。
「到頭やりあがつたか、さう來るだらうと思つたよ」
平次は疊の上へ
「ね親分、本當に下手人は船頭でせうか」
「それは判らない」
「ぢや、
「それも判らない。いくら醉つ拂つて居たにしても、
「して見ると矢張り石原の見込み通り、下手人は船頭に相違ねえことになる」
「さア、船頭が藝妓を殺す氣なら、面倒臭くて不確かな
「な――る」
「でなきア、船の中には刃物もある筈だ」
「――」
「どんな
「そりやネ」
「それに、本當に船頭が殺したのなら、もう少し細工をするだらうぢやないか。醉拂つて寢て居て、何んにも知りませんでは智慧がなさ過ぎる」
「さう言つたものでせうね」
平次にさう言はれると、少々お
二人はもう一度柳橋まで行つて見ました。わざ/\船を鶴吉の裏手に着け、先夜の一行がやつたやうに、
其足で界隈の小間物屋を一と通り廻つて、
「どうも近頃賣つた覺えは御座いません。一體その簪は古い型で、二代も三代も持ち傳へた品のやうですから、江戸中の小間物屋を當つても無駄で御座いませう。その鷹の羽の紋や足がすつかり
小間物屋の言ひ草は大同小異で、此上當つて見ようと言ふ氣も
がつかりして戻つて來ると、
「お客樣ですよ、親分」
雇ひ婆さんが、氣を揉んで外に立つて居ります。
「何んな人だ」
「女の人ですよ」
「女? をかしいなア」
「親分もお安くねえぜ、
「馬鹿な事を言へツ」
女客と言ふのは、二十四、五の中年増、眉の
「錢形の親分でいらつしやいましたか、御免下さいまし。圖々しいやうですが、上がり込んで御持ち申して居りました」
齒ぎれの良い調子、
「ちよいと留守にして、濟まなかつたが、お前さんは何方からお出でなすつた」
平次は自分の家乍ら妙に迎へられるやうな心持で上がり込んで、上がりかまちの女の前へ煙草盆と座蒲團を持ち出します。
「外ぢや御座いません、――あの柳橋で殺された吉原藝妓の
「――」
「あの下手人はもう擧がりましたでせうか。押付けがましいやうですが、少しわけがあつて、それを伺ひに參りました」
言ひにくさうですが、それでも案外、スラスラとやつて退けて、平次の顏を下から艶めかしく見上げます。
「いや一向――私には見當も付かなくて困つて居る。石原の利助のところへ行つて聽いて見なさるがいゝ、石原のは、何か當りが付いたと言ふことだ」
「へエ――、石原の親分ぢや伺ふまでも御座いません」
妙に奧齒に物の

「あ、もう歸りなさるのか」
「いづれ又お訪ね申上げます。それでは親分、お
「あツ、待つた。お前さんの名は何と言ひなさる、それから町處は――」
「いえ、それには及びません。用事があれば又私の方から參ります、それでは親分さん」
丁寧に會釋をしたと思ふと、滑るやうに戸口を出て、ツ、ツ、ツと路地の外へ。
「八」
「へエ――」
「頼んだぞ」
「
ガラツ八は女の後を追つて外へ飛出しましたが、暫くすると、つままれたやうな顏をして歸つて來ました。
「どうだ、八」
「親分、ありや人間ぢやありませんぜ。路地の外へ飛出すと、右へ行つたか左へ行つたか、
「何だと」
「
「乘物は居なかつたか」
「それに油斷があるものですか、乘物と名の付くものはたつた一つ、飛んでもねえ立派な駕籠が、ずつと右手から左へ通り過ぎましたよ」
「それだツ」
「えツ」
「あの女は、右手の方にズツと離れて待たして置いた駕籠へ乘つて、左手へ通り拔けたんだ。馬鹿野郎、それくらゐの事に氣が付かねえか」
「あツ」
と言つたが追つ付きません。
その上、女の歸つた跡を見ると、留守中に探したものと見えて、用箪笥の
平次の直感から言つても、船頭が下手人でないことは解つて居りますが、意地になつて
船頭直助の母親は、涙乍らに平次のところへ飛込んで來たのは、その翌る日。――何とかして伜を助けてくれ、伜は酒癖が少し惡いだけで、根が神樣のやうな正直者、決して人などを殺す男ではない――と言ふのです。母親の言ひ分ですから、もとより掛値も
併し、今の内に動きの取れない證據を進めて、石原の利助を取つて仰へない以上は、直助の命を救ふ道は先づ絶望と思はなければなりません。
母親は泣き乍ら歸つて行きました。平次を訪ねて
併しこの悲みも永くは續きませんでした。藝妓殺しの下手人は、船頭直助でないと言ふ、消極的ではあるが、動きの取れぬ證據を提供してくれる事件が起つたのです。
それは斯うでした。
今は跡形もありませんが、其頃流行つた
お駒は淺草から兩國までの間に、並ぶ者がないと言はれた美しさで、まだ十七になつたばかり、唄にも繪にもされた小町娘でした。それが何んの心願があつての夜詣りか知りませんが、焙烙地藏のお百度石の下に、眼を突かれた無慙な死體になつて發見されたのですから、江戸中の騷ぎは大變です。
利助や平次は言ふに及ばず、町方與力の笹野新三郎まで現場に驅け付けましたが、柳橋の藝妓殺しと、手口が全く同じだといふ外には、毛程の手掛りも殘つては居ません。
派手な
「利助、平次、これは容易ならぬぞ、手柄爭ひをする時ではない。二人心を併せて下手人を探し出してくれ、
斯う
船頭の直助は其日のうちに許されましたが、さてかうなると、さすがの利助も、もう縛りやうにも縛る
そのうち、第三、第四の犧牲者が現はれました。第三人目は、お藏前の飮屋の看板娘おさん、これは錢湯の歸り、露地の入口で銀簪に眼を刺され、第四人目は駒形の小間物屋の若女房お國、所用で出かけた夫の歸りを待ち乍ら、店を早仕舞にして奧へ入つたばかりのところを、これも右の眼を銀簪で刺されて、
手口は四人とも判で押したやう、
その頃若い女が、夜分一人で外へ出るのが

南町奉行朝倉
「親分、この四本の
「何?」
錢形の平次もこれには驚きました。四人の女を殺した四本の簪を役所から借り出して、顏見知りの
併し、銀流しと聞いて平次の心の中には、驚きの底にも一道の光明がサツと射し込みます。
大事な證據の簪はガラツ八に持たせて役所に返し、自分は其足で兩國の盛り場へ。
言ふ迄もなくその時分の東西の兩國の賑ひは、今の淺草の六區のやうなもの。見世物、輕業、歌舞伎芝居が軒を並べ、その間に水茶屋が建て込んで往來の客を呼ぶ外、少しの空地へもテキ屋が割り込んで、人寄せの
その中に立ち交つて、銀流しの露店が一つ、大道の上に
「さア、よく見なさい。これはオランダ人から傳はつた、南蠻祕法の銀流し、彼處にもある、此處にもあると言ふ物ではない。ちよいと
能辯にまくし立てる女を、ヒヨイと覗いて驚きました。
いつぞや平次の留守宅へやつて來て、覺え書を盜んだ上に照れ隱しに銀簪の曲者の手掛りを聞いて行つた、あの凄いほど美しい中年増に
併し平次は、人混みの中へ十手を
手拭を出して、ちよいと頬冠りをしたまゝ、なほも人垣の間から、奇怪な女の一擧一動に、何物をも見盡さずには措かない眼を注ぎました。
もう一つ驚いたことに、よく/\見ると、
この中には、青銅の
平次は、すつかり興味をそゝられて、其邊から去りもやらず、殆んど半日銀流しの美人を見張りました。夕方、人通りが少し
丁度たそがれ時、人通りが絶えて、町家も水の上も、一樣に
「ちよいと、お神さん、暫らく待つてもらひたいね」
平次はたまらず聲を掛けてしまひました。
「何だえ、氣味が惡い、用といふのは私にかい」
「さうだよ」
「氣障な事をすると承知しないよ。
相手の出やうを測り兼ねて、お六と名乘る女は夕闇をすかします。
「お六、御用ツ、神妙にせえ」
キラリと十手。
「あツ、お前は平次」
飛退くと何うして肩から解いたか、重い荷物は草の上に落ちて、お六は柳を
「お六、逃がれぬところだ、觀念してお繩を頂けツ」
「何をツ、銀流しのお六姐さんは、安岡ツ引の手に了へるやうな
「默れツ」
平次は飛込んで女の肩をハタと打ちました。
「あツ」
逃げようとする手首に
「神妙にせえ」
これはお六が弱いのではなく、平次の手練があまりに
近所の自身番まで、繩付の女と大風呂敷包みを持ち込んで、ピシヤリと障子を締めきると、平次は早速、
「女、もう叶はぬところだ、皆んな申上げて了へ」
「平次、増長しちやいけないよ。調べはお役人のすることだ、岡つ引のくせに、お六姐さんの口を取らうなんて、生意氣だよ」
と、大變な鼻息、
「默れツ、若い女四人も殺して、命が幾つあつても足りないお前だが、素直にして居れば、まだお上にはお慈悲もあると言ふものだ」
「何だつて? もう一度、言つて御覺よ。私が四人の若い女を殺した? 冗談も休み/\言つておくれ。盜みはしないと言はないが、人殺しなどは身に覺えのないことだ。銀流しのお六は、蟲を殺すのさへ嫌ひな佛性だよ。つまらない事を言つておくれでない」
さすがにお六も驚いたやうです。
「隱したつて駄目だよ、證據は銀流しの
「何だ、その事か、それなら早くさう言へばいゝのに、――錢形の平次親分も
「何?」
「柳橋で殺された藝妓の
「――」
「何とかして
平次の打撃は見るも氣の毒でした。お六は惡い女には相違ありませんが、眼に涙を浮べての述懷に嘘があらうとは思はれません。
「よし、俺が惡かつた。繩も解いてやらう。默つて見逃してもやらう。空巣狙ひやコソ泥を縛つて手柄顏をするやうな平次ぢやねえ」
「――」
平次は女の繩を解き乍ら、續けました。
「其代り、これだけは隱さずに話してくれ、――近頃お前のところへ行つて、
「ある、ある。その上不思議な事に
「何、何?」
それから一
銀流しのお六は、筋違見附外の、薄暗い塀の蔭に立つて居りました。
「銀流し屋さんかい」
何處からともなく現れた一人の女、薄暗がりの中で、顏は見えませんが、洗練された聲が、妙に人なつかしく響きます。
「へエ――、御新造樣。お簪は確に持つて參りました」
「有難う、それでは引替へにお代を上げますよ。それからこれはお
「まア、こんなに澤山、どうも有難う存じます」
小腰を屈めたお六の後ろへ、ヒラリと廻ると、女の左手は後ろから前髮に掛りました。
「あツ」
實に非凡な
惡黨がつて居るお六も、
「えツ」
何處からともなく飛んで來た錢が一枚、怪しい女の振り上げた
「あつ」
簪は下に落ちて、砂利の上にチヤリンと鳴ると、怪しの女はお六を突き飛ばしてサツと五六歩、闇の中へ。
「待て、御用ツ」
追ひすがつた十手は、
× × ×
平次の手に捕へられた怪しの女は、踊りの師匠のおこの女は武家に育つて相當に武術も心得、ことに女には珍らしい強力でしたが、年頃になつてから身を持ち崩し、踊りの師匠になつて、世を忍んで居たのでした。
娘盛りの頃、強盜に
一度は
それだけで止せば、恐らく誰も氣の付くものはなかつたでせうが、一度銀簪の
二人まで眞物の銀簪で殺しましたが、三人目から銀簪もなくなり、新しく求める力もなかつたので、眞鍮簪に銀流しを掛け、銀のつもりにして狂つた心を
五人目にはそれも盡きました。たつた一本殘つた母の
錢形の平次は、首尾よく銀簪の殺人鬼を捕へましたが、銀流しのお六はそれつきり
「平次、又お前は
と言つた事でせう。