「親分、變なことがありますよ」
「何が變なんだ。――まだ朝飯も濟まないのに、いきなり飛び込んで來て」
五月のよく晴れた朝、差當つて急ぎの御用もない錢形平次は、八五郎でも誘つて、どこかへ遊びに行かうかと言つた、太平無事なことを考へてゐる矢先、當の八五郎は少しめかし込んだ恰好で、飛び込んで來たのです。
「それがね、親分」
ガラツ八は少し言ひにくさうでもあります。
「めかし込んでゐる癖に、ひどく取亂してゐるぢやないか。火事か喧嘩か、それとも借金取りか」
「そんなのぢやありませんよ――今日は飯田町のお
ガラツ八は少しばかり照れ臭い顏になりました。
「お由良? あの柳屋の評判娘かい――あの娘は
「意見は後で
八五郎はまたゴクリと
「
「それぢや駈落――」
「駈落なんてえのは馬鹿のすることだよ。本所の叔母さんとか、湯島の
「そんなのはありませんよ。どうかしたら?」
「待つてくれ、悧巧者のお由良だけに氣になるぜ。近頃懇意にしてゐる男でもなかつたのか」
「近いうちに、伊勢屋の治三郎と一緒になるといふ話はありますがね」
「それぢやお由良には玉の
「ね、親分」
ガラツ八の八五郎は一生懸命でした。その頃飯田町の飮屋の
一寸一パイの折助や手代から、二階へ押し上がつて
錢形平次も、何にか知ら、突き詰めた八五郎の顏を見ると、いつもの調子でからかつてばかりもゐられないやうな氣になるのです。
それからものの四半刻(三十分)ばかり。
二度目に飛び込んで來たガラツ八は、今度こそ本當に
「親分。た、大變」
「さア、來た――その大變が來さうな空合だつたよ。お由良がどうしたんだ」
「死んでゐましたよ、親分」
「何? 死んでゐた――矢張りそんなことだつたのか、どこで死んでゐたんだ」
「水道橋の
「泣くなよ、八。身投げをするやうなお由良ぢやないが、踏み外したのか、それとも突き落されたのか」
「それが解らないから、親分へ相談に來ましたよ。元町の仙太親分の見込みは、お由良を附け廻してゐた浪人者の織部鐵之助か、上總屋の番頭の金五郎か、大工の若吉か
「待つてくれ、そんなに下手人があつちや、命が七つ八つあつてもお由良は
「その外に、お由良と張り合つてゐたお美代も、お松も怪しい――」
「やり切れねエなア、さうなりや、八五郎だつて怪しからう。近頃はお由良のことといふと、夢中だつたぜ」
「親分、どうしたものでせう」
八五郎はドツカと腰をおろしました。少し眼の色が變つてゐるやうです。
お由良の死骸は、水道橋の橋詰に三文菓子を
お關はお由良の亡くなつた母親と懇意で、お由良の相談相手でもあり、良い小母さんでもあつたのですが、お關の一人息子で――ツイ三崎町の
顏の古い御用聞――元町の仙太も、お由良は投身なんかする女ではないと睨んで、誰彼の差別なく引括りさうな劍幕でしたが、關係者があまりに多かつたので、どこから手を着けていゝか判らず、さすが持て餘し氣味で、子分や彌次馬を叱り飛ばしてをります。
「お、錢形の」
平次はそこへやつて來ました。
「元町の親分、矢張り殺しといふ見當かい」
「身を投げるやうなお由良ぢやないよ。男といふ男はみんな寄つてたかつてチヤホヤしてくれるんだ。この世の中が面白くてたまらない女だつたよ」
「成程ね」
さすがに仙太は老巧でした。
「死骸を見てくれるかい」
「そいつは眼の毒だが」
そんなことを言ふ平次を、仙太はお關の家へ案内してくれました。
お茶の水の
「フーム」
筵を剥いで一と眼――平次は唸りました。拔群に優れたのは才智で、さして美しくはないと思つたお由良ですが、一度「死」によつて淨化されると、それは思ひも寄らぬ美しい變貌を遂げてゐるのです。
「切つた傷は一つもないよ――突き落されるまで、默つてゐるお由良ぢやあるまいから、よつ程力のある奴が、橋の上から足でもさらつて、一と思ひに投り込んだんだらう。首筋の
「待つてくれ、元町の親分。これは一體どうしたことだ」
死骸の首から肩のあたりへかけて、皮下出血らしい不氣味な
「毒ではないよ。口の中は少しも變つてゐない」
仙太は平次の顏にこびり付く難しい疑ひを解くやうにかう言ふのです。
「だが、この打撲傷はをかしいぜ」
「橋架でなきや水の中に
「こいつは考へて見ると判らないことばかりだ」
平次はさう言ひながら、死骸の上に
「柳屋の
「そいつはいゝ鹽梅だ」
平次はガラツ八に合圖をして、お由良の父親をつれて來させました。崖の上を
「親分さん方、御苦勞樣で御座います――」
よく
「爺さん、飛んだことだつたね」
「へエ、へエ」
「お由良が家を出たのは昨夜の何ん刻だえ」
「まだ宵のうち、
「ちよい/\そんなことがあるのか」
「へエ――」
氣性者のお
「どこへ出かけるか見當くらゐはつくだらう」
「夕方、伊勢屋さんが來たやうで御座いましたが、店が立て混んでゐるので、よくは判りません。へエ」
「いろ/\懇意な男があつたやうだな」
平次は苦々しくそんなことを訊くのです。
「そんなことはございません。世間では何んと申しますか存じませんが――お由良は悧巧者で、勝手に男を拵へるやうなそんな娘ぢや御座いません」
「なる程ね」
それは多分本當でせう。愛嬌があつて、口上手で、一寸
「それに、近いうちに、伊勢屋の旦那と祝言する筈でございました」
飯田町の酒屋で、一寸知られた物持の伊勢屋治三郎は、三年前女房に死なれてから、三十五の男盛りをやもめ暮しを續け、お由良が懷ろへ飛び込んで來るのを、長い間待つてゐたのです。
「お由良を欲しいといふのが、大分あつたさうぢやないか」
「それはございました。御浪人の織部鐵之助樣も、
お由良の父親は、娘の威力を勘定するやうに、慕ひ寄つた男の名前を一つ/\積み上げるのです。
「お由良は酒を飮んだのかい」
「へエ――」
商賣柄、それは訊くだけ野暮だつたのでせう。
「伊勢屋へ嫁にやるといふのは、何時のことだつたんだ」
「近いうちといふだけで、まだ日までは決つてをりません。
そこへお關が出て來ました。いや、出たといふよりは尻ごみするのを、八五郎に引出されたといふ方が穩當でせう。
「
平次は靜かに訊きました。
「へエ――いえ、お由良さんはもう三月も姿を見せません」
生れて初めて御用聞に物を訊かれて五十女のお關はすつかり
「お前の伜の幾松と、お由良を一緒にする
「へエー、お由良さんが小さい時分には、そんなことを考へたことも言つたこともありますが、年頃になると、男達に騷がれるのが面白さうで、こちとらでは及びも付きませんでした」
お關は何んとなく物悲しさうです。世帶やつれのした、駄菓子屋の五十女は、何も彼も諦めることに馴れた姿です。
「幾松は身體が惡いさうぢやないか」
「世間樣は氣狂ひのやうに言ひますが、人樣に顏を合せるのを嫌がるだけで、別にどうもしたわけぢやありません――あれあの通り」
振り返るとどこの
兎に角、
續いて嫌がる幾松を、無理にガラツ八に引出させて見ましたが、そんな具合で筋の通つたことを言はせる望みもなく、唯二十四といふ立派な職人が、人附合ひもせずに、暗いところに引込んでゐなければならぬみじめさを、哀れ深く見ただけのことです。
「お前はお由良をどう思ふ?」
平次はいろ/\に問ひ試みました。が、幾松は、
「――」
蒼白い顏を
「無駄だよ、錢形の。それより他のを當つて見よう」
元町の仙太は、とうにこの氣鬱病患者に
それから平次と八五郎はお由良に少しでも關係のありさうな筋を、片つ端から當つて見ました。最初にお弓町に住んで
「ほゝう、お由良が死んだのか、そいつは大笑ひだ。いづれ疊の上で死ぬ女ぢやないとは思つたが――」
かう言つた調子の、三十近い尾羽打枯らした姿です。
「それに就いて、お由良が身を投げるやうな心當りはございませんか」
「ないよ、あの女が身を投げる氣になれば世の中を少しは見直す」
「へエー」
「あの女は薄情で悧巧過ぎて、腹の立つ女だが、附き合つてゐちやこの上もなく面白い女だつたよ。
「――」
「俺も少しばかりの
織部鐵之助は痩せた頬を撫でて、カラカラと笑ふのです。何にかかう虚無的になつた棄鉢な諦めを感じさせる男です。
「そのお由良に何時お逢ひになりました」
「昨夜逢つたよ」
「えツ?」
鐵之助の言葉はあまりに豫想外です。
「昨夜逢つたのが、そんなに不思議かえ」
「どこでお逢ひになりました」
「
「どんな用事で?」
「近いうちに、伊勢屋へ嫁入りすることになつたから、その心算で――といふ丁寧な挨拶だ。少しは
「それつきりで」
「殘念ながらそれつきりだよ――お由良といふ女は、さう言つた女だ。今までいろ/\の男と附き合つて、散々良い心持に自惚れさせてゐるから、いざ嫁入りとなると、後の
鐵之助の痩せた頬には、苦澁な笑ひが淀むのです。
「それで旦那は?」
「綺麗
鐵之助はさう言ひきつて、苦々しく笑ひを絞り出すのです。
「旦那は昨夜どこへも出ませんか」
「お由良を追つかけて行つて、野良犬のやうに斬つて捨てようかと思つたが、止したよ。祖先や故主のお名が出ちや濟まない」
「――」
「婆アに五合取つて貰つて、手酌でやらかして寢て了つた――惜しいと思つたが、一と足も出なかつたよ」
お勝手の方でゴトゴトやつている六十がらみの
神保町の質屋、――上總屋の番頭金五郎は、お
「お由良は何んの用事で來たんだ」
「それがその大變なことで――」
「大變なこと?」
「へエー、近いうちに伊勢屋へ
三十男の金五郎は、自分にかゝる疑ひを極度に恐れて、ワクワクしながらこれだけのことを言ひきりました。
「ひどくはつきりしてゐるんだね――ところで、お由良をうんと怨んでゐる者がある筈だが、心當りはないのか」
「怨んでゐるとすれば、お關母子でございませう。あの幾松といふ男は子供の時
「それつきりか」
「へエー」
金五郎は不安と恐怖にさいなまれてゐる樣子で、昨夜お由良を
もう一人、お由良をつけ廻した大工の若吉は、四五日前から佐倉の
「お由良の講中で殘るのは、八、お前ばかりだぜ」
「へエー」
「へエーぢやないよ、昨夜どこへ行つたんだ。眞つ直ぐに白状しな」
「驚いたなどうも。――親分のところで
「あ、さうか、それで安心したよ。お前は確かに
「冗談ぢやありません」
八五郎まことに散々です。
「だが、外の男は、此方から押し掛けて行つて、後腐れのないやうに斷つたお由良が、八五郎だけは懷ろに突つ張つてゐる十手の手前もあるから、今日半日神妙に附き合つてよ、天神樣の藤を眺めながらお前に止めを刺さうといふ段取りだつたのさ。
「へツ」
八五郎は照れ隱しに鼻を撫であげます。
平次は時を移さず飯田町の伊勢屋へ飛んで行きました。
「主人の治三郎はゐるかい、俺は神田の平次だが――」
「へエ、私がその治三郎でございますが――」
帳場で心も空の
「お由良の死んだことは知つてるだらうな」
「へエ――」
それを承知の上、素知らぬ顏で算盤を彈かなければならぬ治三郎の心持は、平次にも解りません。
「それをどう思ふ」
「へエ」
「店の者のゐないところで、ゆつくり話を聽きたいが――」
平次は四方に眼を光らす手代や
「それではどうぞ此方へ――」
奧の一と間、店の者の眼の及ばないところに行くと、平次は改めて訊きました。
「由良は殺されたんだが、心當りはないのか――打ち明けて話して貰ひたいが――」
「そのことで御座います、親分さん。奉公人達の手前、私は我慢に我慢をしてをりますが、朝から眞つ暗な心持で、この先どうして生きていゝか見當も付きません」
「――」
治三郎の言葉はようやくほぐれました。
「お由良は
「――」
治三郎の涙聲になつた
「誰があんな
「お由良を殺したのは誰だらう、見當くらゐは付かないものかな」
平次は脈を引きました。
「何分あの通り、人氣者のお由良でございましたから――」
治三郎にも見當は付かない樣子です。
「昨夜はお由良に逢はなかつたのか」
「逢ひません、――あと二三日の辛抱で、こゝへ來て貰へると思ひましたので、宵からこの部屋に引籠つて、帳面の調べをいたしました」
最後の晩に逢へなかつた悲しみが、治三郎をさいなむ樣子です。
そんなことで切上げて、伊勢屋を出た平次は、路地の外でハタと心得顏のガラツ八に逢ひました。
「親分、治三郎の言ふ通りだ。祝言は明後日に決まつてゐましたぜ。柳屋の親爺は不承知だつたが、それはいづれ金で承服させる
「昨夜治三郎は外へ出なかつたのか」
「晩飯が濟むと、婚禮前に帳面を調べるからと、一人で奧へ引込んださうですよ」
「今までそんなことがあつたのか」
「時々あつたやうです。十日に一度とか、一と月に一度とか」
「さてこゝまで來て見ると、お由良を殺しさうなのは一人もないぢやないか。どうしたもんだらうな八」
平次も少し持て余した樣子です。
「水道橋へ引返しませう。お關親子が一番臭いぢやありませんか」
水道橋へ引返すと事件は急轉回をしてをりました。
お關と幾松の樣子が變なので、多勢の子分に見張らせてゐた元町の仙太は、お關が
「錢形の兄哥、氣の毒だが一と足先に下手人を縛つて了つたよ。お關が川へ捨てた酒の中には、
元町の仙太は得々として言ふのです。
「昨夜お由良が來ると解つて、毒を用意したのかな」
「さア、そこまでは判らないが――」
平次の投げた疑問の重大さを、元町の仙太は消化しきれない樣子です。
「お由良の肩の
平次は續けて疑問を投げました。
「そんなこともあるだらうよ。だが錢形の、お關は白状してゐるんだぜ」
「えつ」
「お由良は昨夜
「待つてくれ元町の、そいつは大變な番狂はせだが、俺が考へてゐた筋道とはまるつきり違つて來る。――お關母子に逢はせてくれないか」
「いゝとも」
平次は仙太と一緒に、その足で番所まで
お關と幾松は嚴重に縛られて、口書を取つて奉行所に送られるばかりになつてゐましたが、錢形平次はその繩を解かせて、さて問ひ進むのです。
「お由良に毒を飮ませた――と言ふさうだが、その毒はどうして用意したんだ。昨夜お由良の來るのが解つてゐたとでも言ふのか」
「親分さん、聽いて下さい――お由良の母親と私は幼な
お由良と幾松が、幼な友達といふ
そのお由良が次第に賢く冷たくなつて多勢の男達にチヤホヤされるに從つて、下剃の幾松を
世帶の苦勞に、
「私と幾松と、一緒に死んで了へば、それで市が榮えるでせう。生きてゐる樂しみも望みもない母子が、死ぬ氣になつたのは無理でせうか。
「――」
「お由良は少しは醉つてゐる樣子でしたが、――近いうちに伊勢屋へ
「――」
「どうせ死ぬ氣の母子ですから、腹が立ちながらもいゝ加減にあしらつてゐると、すつかり有頂天になつて、私達母子が死ぬために用意した酒を、湯呑に注いで、アツと言ふ間に二杯も立て續けに呑んで了ひました。――私も幾松もあつけに取られて見てゐると、お由良は言ひたいだけのことを言つて、フラフラと出て行きました。酒の中にはうんと○○が入つてゐます。私は心配でたまらないから、そつと後を跟けて行くと――」
「直ぐ後を跟けたのか」
平次は言葉を挾みました。
「いえ、ほんの煙草を二三服ほどの間はありました。――お由良の後を跟けるともなく水道橋へ行くと――橋の
お關はその時の事を思ひ出したか、ゴクリと
「それからどうした」
と平次。
「月の光に照らされた死顏を見ると、私は急に死ぬのが怖くなりました。――こゝでお由良の死骸が見付かると、私と幾松に疑ひがかゝると思つたので、恐々ながら、橋の欄干の間を潜らせて、お由良の死骸を川へ落してしまひました」
「その時、死骸が
「いえ、眞つ直ぐに水の中へ落ちましたよ。――大きな音を立てて――私は大急ぎで歸つて來て、まんじりともせずに明してしまひましたが――」
お關の言ふのは、本當でせう。今は死の恐怖から解放されて、どうともなれと言つた捨鉢な氣持が、疲れ果てた五十女の、自白となつた樣子です。
「親分」
「どうした八」
「本郷三丁目の生藥屋ぢや、お關へ○○なんか賣らないつて言つてゐますよ」
「?」
ガラツ八の報告は平次にも豫想外です。
「お關は――鼠が多いから、石見銀山の代りに○○を欲しいと言つて來たが、ひどく突き詰めた樣子だし、橋の
「本當かい、それは?」
あまりのことに平次も驚きました。
「番頭も手代も言ふんだから、ウソぢやないでせう」
「すると、お關母子は砂糖酒を呑んで死ぬ
「まア、そんなことですね」
「そして、お由良は砂糖酒で死んだことになるわけだ」
「――」
「八、こいつは面白くなつて來たぜ。もう一度振出しに戻つて、やり直しだ」
「どこへ行くんで? 親分」
「柳屋を調べなかつたのが手落だよ。來るか、八」
「へエ――」
二人は飯田町に飛びました。柳屋はお由良の死骸を持込んで、ひと方ならぬ混雜でしたが、お勝手口からそつと滑り込んだ平次とガラツ八は、
「お由良の敵を討ちたいとは思はないのか」
平次の問ひは唐突ですがこの上もなく效果的でした。
「それは言ふまでも御座いませんよ、親分さん」
「それぢや、誰が一番お由良を怨んでゐたか、そいつを聽かしてくれ」
「そいつは申兼ねますが、――どうしても言へと仰しやれば――矢張り氣が變になるほど思ひ詰めた幾松ぢやございませんか」
「お由良が死んで困るのは?」
「私と伊勢屋さんでございますよ。私はまア親ですから當り前で、伊勢屋さんの方はあんなに仕度をして待つてゐたのですから、お由良が死んで、どんなにがつかりなすつたでせう」
「そんなものかな――ところで、伊勢屋は本當にお由良に打ち込んでゐたに違ひあるまいな」
平次はせき立てられるやうな調子です。
「伊勢屋さんから、大變な
彌吉が持つて來たのは、治三郎の書いた型の如き起請でその文句は、
二人の夫婦約束は神かけてのものだから、萬々一變改のあつた時は、お互の身上 を一つ殘らず相手にやる――
と言つた「何んと言ふことだ。馬鹿々々しい」
ガラツ八が危ふく破つて捨てさうにするのを、平次は辛くも止めました。
「そいつが面白いんだよ。――尤も、それほどの約束があつても、
「全く、親分の仰しやる通りでございます。どんな證文があつたところで、本人が殺されたんぢや何んにもなりません」
彌吉の
「どうしたもんでせう、親分」
ガラツ八は袋路地へ逃げ込んだ野良犬の樣な顏をしてゐました。
「段々判つて來るぢやないか――もう一度水道橋へ行つて見るとしよう」
平次は水道橋へ來ると、橋の袂を搜して手頃な
「親分、そんな石をどうするんで?」
「こいつを手拭に包むのさ――その手拭の端つこを持つて、力任せに振廻したら、どんなことになると思ふ」
「あぶないね、親分」
「お由良はこの石でやられたんだらう。お關は死骸を眞つ直ぐに水に落したといふが、死骸の首から肩へかけての
「――」
「橋の
事件の輪郭が次第に明白になつて行きます。
「すると親分――」
「お由良を殺したのは、宵からお由良を跟けてゐた奴だ――人知れず家を脱出せる人間だよ――そんな都合の良い家に住んでゐるのは、八五郎と――」
「親分」
「もう一人ある筈だ」
平次はさう言ひながらもう一度飯田町に引返すと、伊勢屋に飛び込んで主人の治三郎を縛つて了つたのです。
「あ、親分。私ぢやない、私は」
「默れツ」
平次が取合ひさうもないと見ると、
「お由良は恐しい女でした。あいつを殺さなきや、私が殺されるか
「そんなことはお白洲で言へツ」
平次は耳にも入れようとしません。
× × ×
治三郎を送つてから、ガラツ八はたまり兼ねて平次に繪解きをせがみました。
「あつしには少しも判らない。どうして治三郎は明後日は祝言といふ間柄のお由良を殺したんです」
「うつかりお由良の才智に引つ掛つた治三郎は、中年者だけにいろ/\考へたのさ。第一、あんな
「へエー」
「治三郎は怖くなつたが、お由良と別れる手段も口實もない。そこで――お由良に言ひ寄つた男が多いやうだが、祝言してからそんな男に
「――」
「お由良はそれを聞くと、今まで念入りに愛嬌をふりまいてゐた男や、執念深く自分をつけ廻してゐた男のところへ、片つ端から押しかけて縁切り話を叩きつける代り、直ぐ祝言してくれと治三郎に持ちかけたのさ」
「――」
「治三郎はあの晩柳屋へ行つてお由良に逢ひ、その話を聽かされて女のヌケヌケした調子に心から嫌になつた。――念のために後をつけて歩くと、お由良は一軒々々男を訪ねて、キビキビと片付けて歩いた上、先々で一杯づつ引つかけて、水道橋へ來た時は女のくせに大虎だ」
「――」
「こんな女と無理に一緒になることを考へると、治三郎は心の底から怖くなつた。お由良が醉つて正體のないのを幸ひ、手拭に石を包んで二つ三つ喰はせ、息の絶えるのを見定める隙もなく逃げ出した。――人の
「成程ね」
八五郎もようやく事件の眞相が判つたやうな氣がしたのです。
「だから、あんな氣の多い悧巧な女と掛り合つちやいけないよ。女は正直で生一本なのが一番良い――」
さう言ふ平次の胸には、戀女房お靜の純情な淨らかさが、
治三郎のお白洲の調べが平次の推理と