錢形平次捕物控

夕立の女

野村胡堂





 江戸八百八丁が、たつた四半ときのうちに洗ひ流されるのではあるまいか――と思ふほどの大夕立でした。
「わツ、たまらねえ。何處かかう小鬢こびんのあたりがげちやゐませんか、見て下さいよ」
 一陣のなまぐさい風と一緒に、飛沫しぶきをあげて八五郎が飛び込んで來たのです。
「あツ、待ちなよ。そのなりで家の中へ入られちやたまらない――大丈夫、びんの毛もあごの先も別條はねえ。雷鳴かみなりだつて見境があらアな、お前なんかに落ちてやるものか」
 平次は乾いた手拭を持つて來て、ザツと八五郎の身體を拭かせ、お靜が待つて來た單衣ひとへと、手早く着換へをさせるのでした。
 全く焦げつきさうな大雷鳴でした。さうしてゐるうちにも、縱横に街々を斷ち割る稻光り、後から後からと、雷鳴の波状攻撃は、あらゆる地上の物を粉々こな/″\に打ちくだいて、大地の底に叩き込むやうな凄まじさでした。
「驚きましたよ。あつしはもうやられるものと思ひ込んで、四つんひになつて此處へ辿たどり着くのが精一杯――どうも腹の締りが變な氣持ですが、へそが何うかなりやしませんか知ら――」
「間拔けだからな、自分の臍を覗いて見る恰好かつかうなんてものは、色氣のある圖ぢやないぜ。第一お前の出臍でべそなんか拔いたつて、使ひ物にならないとよ。味噌みそがきゝ過ぎてゐるから」
 掛け合ひ話の馬鹿々々しさに、お靜はお勝手へ逃げ込んで、腹を抱へて笑ひを殺してゐます。
 よいあんばいに雷鳴も遠退いて、ブチまけるやうな雨だけが、未練がましく町の屋並をいて去るのでした。
「それにしても大變なことでしたね。御存じの通り、あつしは雷鳴樣は嫌ひでせう」
「――雷鳴は鳴る時だけ樣をつけ――とね、雷鳴を好きだといふ旋毛曲つむじまがりも少ないが、お前のやうに、四つん這ひになつて逃げ出すのも滅多にないよ。あの恰好を新造衆に見せたかつたな」
「散々見られましたよ。何しろ明日は神田祭だ、宵宮よみやの今晩から、華々しくやるつもりの踊り舞臺にポツリポツリと降つて來た夕立のはしりを避けてゐると、あの江戸開府けえふ以來といふ大雷鳴でせう」
「江戸開府けえふ以來の雷鳴といふ奴があるかえ」
「兎も角も、そのでつかいのが、グワラグワラドシンと來ると、舞臺にゐた六七人の踊り子が、――ワツこはいツ――てんで、皆んなあつしの首つ玉にブラ下がつたんだからてえしたもので、あんな役得があるんだからでつかい雷鳴も滿更惡くありませんね」
「罰の當つた野郎だ」
「そのまゝ鳴り續けてくれたら、あつしは三年も我慢する氣でゐましたよ、――ところが續いてあの大夕立でせう。ブチまけるやうにどつと來ると、女の子はあつしの首つ玉より自分の衣裳いしやうの方が大事だから、チリヂリバラバラになつて近所の家へ飛び込んでしまひましたよ。一人くらゐはあつしと一緒に濡れる覺悟のがあつてもよいと思ひますがね」
あきれた野郎だ」
「空つぽの舞臺で、大の男が濡れ鼠になるのも氣がきかねえから、川越へをする氣分で、雨の中を掻きわけ/\、四つん這ひになつて此處まで辿たどりつきましたよ」
「何が面白くて、空模樣に構はず、手踊りの舞臺にねばつてゐたんだ」
「六七人の女の子が、いきなりあつしの首つ玉にかじりつきさうな空合ひでしたよ」
「馬鹿な」
「それは嘘だが、喧嘩があつたんですよ、――女と女の大鞘當さやあて、名古屋のお三に不破ふはのおはん
「それは手踊り番組か」
「なアに、實は小唄の師匠のお園と、踊の師匠のおくみつかみ合ひで、いやその激しいといふことは、親分にも見せたいくらゐのものでしたよ。あつしも女と女の命がけの喧嘩といふのを、生れて始めて見たが――」
「そいつも江戸開府けえふ以來ぢやないのか」
「飛んでもない、あんなのは神武じんむ以來ですよ。最初はネチネチといや味の言ひ合ひから、だんだん昂じて甲高かんだかな口喧嘩。それから觸つたり、打つたり、引つ掻いたり、とう/\髮のむしり合ひから、左四つに組んで水が入る騷ぎ――」
「何んだえ、水が入るとは」
「あの大夕立ですよ。天道樣だつて、あんなキナ臭い喧嘩は見ちやゐられませんよ」
 八五郎の説明は、面白可笑をかしく手振りが入るのです。
「そんな大喧嘩を始めるには、深いワケがあるだらう。言葉の行き違ひと言つた、手輕なことぢやあるまい」
「良い年増と年増の喧嘩だ。食物のうらみや酒の上ぢや、あんなにまで耻も外聞も忘れて、引つ掻いたり噛みついたり、命がけで揉み合へるものぢやありません」
「男のことか」
「圖星、さすがは錢形の親分」
「馬鹿にしちやいけねえ」
情事いろごととなると、恐ろしくカンの惡い親分が、今度は當りましたよ。鞘當さやあての目當ては、金澤町の平野屋の若旦那金之助――口惜しいがあつしぢやありません」
「で?」
 八五郎の話術に引入れられて、平次も少しばかり興が動いたやうです。
「それからグワラグワラドンの、六七人あつしの首つ玉にかじりついて匂はせの、大夕立と來たわけで、敵も味方も何處へ散つたか。あとは四つん這ひの、借着の單衣ひとへの、お先煙草の――ああ、熱い茶が一杯呑みてえ」
 こんな調子で筋を語る八五郎でした。


 昔の江戸は、非常に雷鳴の多いところで、甲州盆地や、上州の平野で育てられた雲のみねが、氣流の關係で大部分は江戸の眞上に流れ、此處で空中放電の大亂舞となつて、三日に一度は夏の江戸つ子のきもを冷やさしたのです。
 電氣事業の發達は、雷鳴や夕立を非常に少なくしたことは、あへて故老をつまでもなく、誰でも一應は知つて居ります。
 その雷鳴や夕立は、どんなに一般人の恐怖と尊崇の的であつたか、寶井其角が『三圍みめぐり』の發句ほつくを詠んで、夕立を降らせたといふ傳説が、眞面目に信ぜられた時代の人達の心持は、今の人には想像もつかぬものがあつた筈です。
 蚊帳かやと線香と桑原の呪文じゆもんで表象される迷信的な江戸つ子が、大雷鳴、大夕立の眞つ最中に、冒涜ばうとく的な言動、――わけても人殺しなどといふ、だいそれたことをやりさうもないことは、容易に想像され得ることで、此處で起つた大雷鳴の眞最中の犯罪が、どんな意味を持つかと言ふことは、この事件の大きなキーの一つになるのです。
 八五郎が踊り舞臺の女の喧嘩の話を、面白可笑しく續けてゐるうちに、大夕立もようやれて、九月十四日の夕陽が、西窓から美しく射し込んで來ました。
「あれ、八五郎さん、まだお歸りぢやないでせうね。今おかんがついたばかりですのに」
 モゾモゾと腰をあげかける八五郎に、お靜は聲を掛けました。
「へエ、一杯御馳走して下さるんですか」
「不思議さうな顏をするなよ。俺のところだつて年中粉煙草ばかりが御馳走ぢやない――明日は年に一度の明神樣の御祭りだ」
 平次はさかづきを擧げました。大きい膳に並べた料理は、ひどく貧乏臭いものですが、お靜の心盡しが隅々まで行亙ゆきわたつて、妙にかうホカホカとした暖かいものを感じさせるのです。
「明神樣の宵祭か――一升げて來るんでしたね、親分」
 八五郎は鼻水を横なぐりに拭いて、盃を頂くのです。この涙もろい男は、どうかしたらもうしめつぽくなつてゐるのかも知れません。
 でも、二つ三つ傾けると、陶然たうぜんとして、天下泰平になる八五郎です。
「親分、ちよいと來て下さい」
 入口の格子を叩いたのは、顏見知りの隣り町の指物さしもの職人――といふよりは、小博奕こばくちを渡世にしてゐる、投げ節の小三郎といふ男でした。
「何んだ、何があつたんだ」
 平次は盃を置いて中腰になつて居ります。小三郎の穩かな調子のうちにはガラツ八の『大變』以上の緊迫したものを感じさせるのです。
「横町の師匠ししやうがやられましたよ」
「横町の師匠?」
 この邊は師匠だらけ、生花、茶の湯から、手踊り、小唄、琴、三味線、尺八まで軒を並べてゐるので、平次も一寸迷つたのです。
「小唄の師匠――江戸屋園吉のお園さんで」
「お園さんが殺された?」
 八五郎は横から口を出しました。少しホロリと來てをります。
「さうなんです、親分」
「お園が――? 先刻さつき、お組と掴み合ひの喧嘩をしたぜ」
「氣が立つてゐて、首でもくゝりさうな見幕だつたさうです」
「兎も角、行つて見ることだ」
 平次は手早く支度をすると、夕立の上がつたばかりの街へ、足駄のまゝ飛び出しました。それに續いたのは、借着のまゝの八五郎と、投げ節の小三郎。


 明日の神田祭を控へて、九月十四日の明神下――御臺所町、同朋町から金澤町へかけては、全くたぎり返るやうな賑はひでした。
 日枝ひえ神社の山王祭と共に、御用祭又は天下祭と言はれ、かく年に行はれたこの威儀は、氏子うぢこ中の町々を興奮の坩堝るつぼにし、名物の十一本の山車だしが、人波を掻きわけて、警固の金棒の音、木遣きやりの聲、金屏風きんびやうぶの反映する中をねり歩いたのです。
 前夜の宵宮も、一種の情緒を持つた賑はひで、江戸でなければならぬ面白さでしたが、その日は生憎の大夕立で出足をはゞまれ、平次とガラツ八が出動する頃になつて、殘る夕映の中に、漸く町々の興奮は蘇返よみがへつて行く樣子でした。
「此處ですよ」
 小三郎は小唄お園の家へ案内し、格子の前で立ちよどみました。中は内弟子と近所の衆で、何やら取留めもなく騷いでをります。
 入口の格子の横手は少しばかりの空地で其處には手踊りの師匠、坂東久美治くみぢこと、お組の踊り舞臺が掛けてあり、大夕立に叩かれて、見る影もなく鹽垂しほたれてをります。
「御免よ」
 平次と八五郎は、その中へ入りました。
「ま、親分さん方」
 出迎へたのは五十五六の老母、それは殺されたお園の養ひ親で、おまきといふ因業いんごふな女――と八五郎は心得てをります。
「師匠が、――氣の毒だつたね」
「親分、どうしませう。私はもう木から落ちた猿で」
 お槇は日頃の因業さをかなぐり捨てて、ひどく打ちしをれてをります。
 たつた三間の小さい家、その一番奧の六疊に、殺された師匠のお園が、血だらけの死體を横たへてゐるのでした。
 平次と八五郎の姿を見ると、弟子達も近所の衆も、遠慮して縁側に立去り、凄慘な死の姿が、おほふところもなく二人の眼にさらされます。
「こいつはひどい」
 八五郎はをあげました。
 もゝすそは、母親の手で僅かに隱されましたが、床を敷いて掻卷かいまきを引つ掛けて休んでゐるところをやられたらしく、斑々はん/\たる上半身を起して見ると、首から顏へかけて、突き傷が三四ヶ所、盲目突めくらづきに突いた一と太刀たちが、偶然に頸動脈を切つたのが致命傷らしく、あとの傷は心得のない下手人が、駄目押しに突いたとしか思へない、無意味なものです。
 死顏には、さしたる苦惱もなく、お園の美しさは、血の洗禮も奪ふ由はありません。引締つたクリーム色の肌、美しい生え際、大きい眼は見開いてをりますが、それは極めて無心な死の苦惱のないもので、ほのかに開いた唇から、眞珠色の白い齒の見えるのも、妙ななまめかしさを感じさせるのです。
 胸は少しはだけて、乳のふくらみのほの見えるのも、踏みはだけたらしい股に、血潮に染んで大きいてのひらの跡らしいものの殘るのも、下手人の性格を暗示してゐるやうで、ゆがんだ姿態ポーズと共に、平次の注意をひきつけます。
「師匠が一人でゐたのか」
 あれほどの殺しを――いかに大夕立の中と言つても、隣りの部屋の者が知らない筈はありません。
「大變な見暮でした。あんまり怖いので、お弟子さん方も歸つてしまひ、私もお隣りの菓子屋さんへ行つて、夕立の止むまで無駄話をしてをりました。外の雷鳴より、内の雷鳴の方が怖かつたんです」
 母親のおまきは言ふのです。口邊に漂ふ苦笑を、あわてて掻き消して、精一杯の眞劍な顏になるのは、かなりの見物でした。
 お園の美しさと、その激しいヒステリーの發作ほつさのことは、平次も聽かないではありませんが、手踊りの師匠のお組と掴み合ひの喧嘩をした後の凄まじい發作は、恐らく因業で聞えた母親さへも、三しやを避ける外は、なかつたのでせう。
「縁側は開いてゐたんだね」
 平次は重ねて訊きました。
「あの上乘のぼせると、雨だらうが風だらうが、閉めきつてなんか置けない性分でした。風下の雨戸を一枚開けて、枕を出して横になつてゐたんでせう」
 腹を立てると起きてはゐられない女――その激しいヒステリー性の怒りの發作が、この女を殺させる原因になつたのかも知れません。
「刄物は?」
 平次は四方あたりを見廻しました。其處にはこの女を突き殺したやうな、鋭利な刄物などは轉がつてゐさうもありません。
「雨がやんでから、御近所の子供衆がこれを拾つて來ました。庭に捨ててあつたんださうです」
 母親は四つ折の手拭に疊み込んだ匕首あひくちを一本、縁側の隅から持つて來ました。無氣味なものを持つた手が、少しふるへてゐるのも無理のないことです。
「――」
 手に取つて見ると、よく光つてをりますが、泥と夕立に洗はれながらも、血脂ちあぶらのべツとり浮いた、刄渡り六七寸の、凄い匕首です。
「こいつは誰のだ。持主はわかつてゐるだらう」
 平次は物の氣はひに後ろを掛り向きました。其處には、平次と一緒に來た『投げ節の小三郎』が、眞つ蒼になつて突つ立つてゐるのです。
「――」
「お前のだらう」
「先刻踊り舞臺の樂屋へ忘れて來たんです――あつしぢやありませんよ。師匠を殺したのは」
 小三郎は、柄にもなく、タガがゆるんだやうに、ガタガタしてゐるのです。小作りですがちよいと好い男で、臆病なくせに遊びが好き――と言つた肌合らしく見えます。


「親分、妙なものが來ましたぜ」
 八五郎が拇指おやゆびまむしにして、自分の肩越しに入口の方を指さすのです。
「誰だえ?」
「喧嘩の相手、踊りの師匠のお組が、おくやみに來たんだから大變でせう」
 八五郎は存分に面白さうです。この男の守り本尊の天邪鬼あまのじやくが、何處かをくすぐつてでもゐさうな顏でした。
「町内附き合ひだもの、お悔みにも來るだらうよ」
 平次はたいして氣にもしない樣子ですが、入口の方では、ヒソヒソと聲を忍ばせながらも風雲の唯ならぬものを感じさせます。
「でも、お前さんからお悔みを言つて貰ふ筋合ひはありませんよ」
 それは母親のおまきの聲でした。
「私は惡うございました。師匠とつまらない喧嘩なんかして。でも、もと/\つまらないことなんで、日頃仲の好かつた師匠が死んだと聞くと、ぢつとしてはゐられなかつたんですもの、せめて、佛樣の前で、一と言詫びを言はして下さいな、おつ母さん」
 お組の聲はすつかりしをれてをります。お園と張合つて、一寸も退けを取らなかつたお組にしては、それは思ひも寄らぬくじけやうです。
「おつ母さんなんて、言つて貰ひたかアありませんよ。先刻さつき掴み合ひをしたばかりのお前さんを通しちや、娘だつて浮ばれないにきまつてゐる」
「でも」
「さア、歸つて下さい。大夕立が來なきや、舞臺の上で、お前さんが掴み殺したかも知れないぢやないか」
 母親のお槇は、ぐわんとして關所を据ゑるのです。
「八、放つて置くと、又何が始まるかわからない。お前が口をきいて、お組師匠を隣りの部屋まで通して貰ふがよい」
 平次は見兼ねて仲裁案を出しました。それから一と揉みの後、八五郎のとぼけた調子が、どうにか母親をなだめて、お園の死骸のある隣りの部屋まで、お組は誘ひ入れられました。
「師匠、大層なしをれやうだね」
 平次は近々と膝を寄せました。
「でも、私と喧嘩をして、間もなく死んだと聽いて、私はもう、ゐても起つてもゐられなかつたんですもの」
 お組は顏を擧げました。鬘下かつらしたが露を含んだようで、浴衣ゆかたに染めた源氏車げんじぐるまが、重々しく肩にのしかゝるのです。
 殺されたお園より一つ二つ若くて、三十前後と聽きましたが、磨き拔かれた肌の美しさや、よく整つた顏立ちは、どう見ても二十四五としか見えず、お園のやゝブロークンな道具立ての魅力にくらべて、それは端正な古典的な美しさとでも言へるでせう。
「何んだつて又、女だてらに掴み合ひの喧嘩なんかしたんだ」
 平次は靜かに言ひ進みました。
「お隣りの空地へ、踊り舞臺を拵へるのに、お園さんに挨拶をしないのが惡かつたんです――でも、懇意づくで、つい後で斷はればよからうと思つたのが、師匠の氣に入らなかつたのでせう」
「それつきりか」
「あとは、髮へさはつたとか、變な眼で見たとか、――女同士の喧嘩の種は、殿方とのがたにはわかりやしません」
 お組はさり氣なく言つて、ほろ苦く笑ふのです。
情事いろごとの揉めがあつたさうぢやないか」
 八五郎は横合ひから口を出しました。相手が何人であらうと、これを言はずにはゐられない八五郎です。
「飛んでもない、八五郎親分」
「いや、平野屋の若旦那を奪り合つて、事毎にいがみ合つてゐたことは、町内で知らない者はないぜ」
「ひと頃は、そんなこともありました。でも近頃平野屋の若旦那は、許嫁のお孃さんと、いよ/\祝言することに決り、お園さんが執つこくからみつくのを、ひどく嫌がつてゐました」
「――」
「平野屋の若旦那と仲の好いのは私の方で、そんなことで殺されるなら私の方が殺されなきやなりません」
 お組はかうはつきり言ひきるのです。


「それに――」
 お組は尚ほも續けました。
「私は雷鳴が大嫌ひで、鳴り出すともう生きた空もありません。家へ歸ると雨戸を締めきつて蚊帳かやを吊つて線香を焚いてお念佛ばかりとなへてゐたんですもの。人なんか殺すどころか、物を言ふ力もなく弟子達を追つ拂つて、死んだやうになつてゐました」
 お組はさう言つて、自分の雷鳴嫌ひを證明してくれる相手を搜すやうに、そつと四方あたりを見まはしました。
「氣色が惡いぞ師匠。誰もお前さんが、お園師匠を殺したとは言やしない」
 平次はさり氣ない調子でした。
「それで安心しましたよ。嘘だと思ふなら、私の家へ行つて訊いて見て下さい。あの大夕立の間、私はもう死んだもののやうになつて寢てゐたんですもの」
「お前の家といふのは、此處から遠い筈ぢやないか。よく濡れずに驅けて行つたことだな」
「表から廻れば遠いやうでも、路地を拔けて、大家さんの家のひさしの下を通して貰へば直ぐですよ。ピカリと來て大きいのが鳴ると直ぐ、私はもう喧嘩も何も忘れて歸つたんですもの。家へ飛び込むとすぐ、あの大雨がどつと來ましたよ」
 お組の報告はくはし過ぎます。
「ところで、師匠には心當りがあるだらう。お園を怨んでゐる者は誰だ」
「第一番は投げ節の親分」
 お組はそつと四方を見ました。匕首あひくちのことから話が妙になつて、小三郎はもう其處には姿を見せなかつたのです。
「それから?」
「御浪人の阿星あぼし右太うた五郎樣」
「お園を追ひ廻してゐるといふ噂があつたな」
「平野屋の若旦那は、お園さんを怨んではゐないが、邪魔にはしてゐましたよ。尤も許婚いひなづけのお夏さんは、心から怨んでゐたやうで」
「そんなことかな」
「お新さんだつて、お圓さんだつて、お園さんを怨んでゐないとは限りません。町内の若い男を皆んな手なづけて、おほかみの遠吠見たいな聲を出させるんですもの」
 お組はチラリと鋒鋩ほうばうを出しました。
「何んだとえ、狼の遠吠で惡かつたね。さう言ふお前こそ、案山子かかしに魔が差したのを教へてゐるくせに」
 母親のおまきは我慢のならぬ顏を次の間から覗かせるのです。
「もうよい、佛樣の前だ。お互に喧嘩はたしなむことだ」
 平次はもう一度、この女同士――老いたると若い者との喧嘩を引分けなければならなかつたのです。
「親分」
 何處かをあさつて歩いたらしい八五郎が、縁側から顏を出しました。
「何んだ八」
「變なことを聽き込みましたよ」
「?」
「あの大夕立の眞ツ最中に、平野屋の若旦那の金之助が、お園に會ひに來たらしく、濡れ鼠になつて、此處から歸つて行つたのを見た者がありますよ」
「そいつは手掛りだ。一寸平野屋まで行つて見よう」
あつしも」
「待ちなよ、お前には用事がある」
 平次は八五郎の耳へ、何やら囁やきました。
「成る程そいつは良い考へだ」
 八五郎は話を半分聽いて飛んで行きます。
「師匠。折角此處へ來たんだ、お袋と仲直りをした上、暫らく手傳つて、佛樣の始末をして行くがよい。あのまゝぢや通夜つやもなるめえ」
 平次は隣りの部屋の死體を痛々しく振り返るのでした。
「私もそのつもりで參りました。おつ母さんさへ承知して下されば」
 お組はいそ/\と立上がりました。生前の深刻な戀敵、ツイ先刻掴み合ひの喧嘩までした仲ですが、生死の境をへだてると、昔の/\、幼な友達のお組とお園になるのでせう。血にまみれた死骸の側に膝をついて、ツイ涙に暮れるお組を見つめると、平次はもう次の活動の舞臺へ踏み出してをりました。


「あれは?」
 夕明りの中にしよんぼり立つてゐる十七、八の娘、町の一角を、ほの/″\と明るくしたやうな、それは言ふに言はれぬ可憐かれんな姿でした。
「お園の内弟子で、お菊といふ娘ですよ。ちよいと良いでせう親分」
 八五郎は小戻りして教へてくれます。こといやしくも、若い娘の噂に關する限り、見過しも聽き過しも出來ないのがこの男の性分でした。
「お前はお組の家へ行つてくれ。急ぐんだ、あの女が歸る前に――」
 平次は家の中にゐるお組に氣を兼ねて、八五郎の道草をたしなめます。
「お菊坊の口を開けさせることなら、あつしの方が心得てますよ、親分」
「わかつたよ――俺は口説くどきもどうもしないから、安心して行くがよい」
「へエ」
 八五郎が未練らしく姿を隱すと、平次は改めてお菊の前へ――精一杯さり氣ない顏で立ちました。
「お前にちよいと訊きたいことがあるが」
 お菊は顏を擧げました。隣り町に住んでゐて、錢形平次の顏も知つてをり、その評判も心得てをりますが、名ある御用聞にかう聲を掛けられると、十八娘の心臟が高鳴るらしく、道具の細々とした顏が引締つて、可愛らしい唇がをのゝきます。
 この臆病らしい小娘から、筋の通つた話を引出すのは、平次にしても容易ならぬ手數でしたが、でも、散々手古摺てこずらした末、よく遊びに來るのは平野屋の若旦那と、投げ節の小三郎さん、それに御浪人の阿星あぼし右太うた五郎樣――などと覺束ない指を折つて見せるところまで、心持がほぐれて行きました。
「そのうちで、師匠が一番好きだつたのは誰だえ?」
「若旦那の金之助さんでせうか知ら、――小三郎さんはよくいらつしやるけど、嫌はれてばかり。歸ると鹽をいてき出すんですもの」
 などとお菊は可笑をかしがるのです。
「御浪人の阿星右太五郎樣は、もう四十過ぎの年配ぢやないか」
 隣り町に住んでゐる有徳うとくの浪人者、小金などを廻して呑氣に暮してゐる中年過ぎの男が踊りの師匠のところに出入りするといふのはに落ちませんが、先刻さつき小唄の師匠の[#「小唄の師匠の」はママ]お組が、殺されたお園を怨む者の名の中に、この浪人者を加へてゐたことを平次は思ひ出したのです。
「あの阿星右太五郎樣の一人息子のいう之助樣は、師匠と好い仲だと言はれてをりましたが、今年の春お勤めの不首尾とやらで、甲府かうふで腹を切つたとか聞いてをります。師匠もそれを話しては氣の毒がつてをりましたが」
 平次もそれは薄々聽かないではありませんでしたが、お菊の口から改めて聽かされると、お園の死と何にかしら、一脈の關係がありさうにも思へるのです。
「お前はあの雷鳴かみなりのとき、何處にゐたんだ」
「お向うの店先に雨宿りをしてゐました。お師匠さんが怖かつたんですもの、――大變な見幕で」
 お組と掴み合ひの喧嘩をした後の紛々ふんぷんたる忿怒ふんぬは、全く雷鳴以上の怖ろしいものがあつたに違ひありません。
「お向うの唐物屋の店先から、お師匠さんの家はよく見えるわけだな」
「表の格子のところはよく見えます」
「誰か來たことだらうと思ふが――」
「阿星右太五郎樣が格子を開けかけましたが、思ひ直した樣子で、木戸をあけて裏へ廻り、暫らくして出て來ました――まだ雨が降る前で、ひどく雷鳴が鳴つてゐました」
「傘はさしてゐたのか」
「お師匠さんの家を出るとザーツと降つて來たので、阿星さんは傘をさして、大急ぎで歸つた樣子です」
「それから」
「若旦那の金之助さんが、格子から入つて暫らくして出て來ました。これは傘も何んにもなく、ひどい風をして、濡れ鼠になつて歸つて行きました」
「それつきりか」
「三人目は小三郎さんで――これは雨が小止こやみになつてから、格子の中へ入つたと思ふと、大きな聲を立てて、氣違ひのやうになつて出て來ました。お師匠さんが殺されてゐるのを見て、びつくりしたんですつて」
 お菊は表情的な眼を大きく開いて、びつくりして見せるのです。
「唐物屋の店に、その時誰もゐなかつたのか」
「大變なあらしでした。雷鳴と稻妻と、雨と風と、――家中の人は皆んな奧へ引つ込んで、蚊帳かやの中へ入つてしまつて、私だけ店に取殘され、大戸をおろして、臆病窓から此方を眺めてゐたんです」
「外に何んにも見えなかつたのか」
「雨がひどかつたんですもの。でも、どしや降りの中で――」
 お菊の眼は、空を仰ぐやうに、ひさしから屋根へと見上げるのです。
「何があつたんだ」
「私の眼の迷ひかも知れないんですもの」
 お菊はぞつと自分の胸を掻い抱くやうに、それつきり口をつぐんでしまひました。
「どんなものを見たんだ」
 平次は重ねて訊きました。が、娘の閉ぢた口を開かせることは、平次の智慧でも、十手捕繩でも出來ることではありません。
「變だと思ふことがあつたら、そつと俺に話してくれ。今でなくてもよい、明日でも、明後日でも、氣が向いたら。それにお前は、何んだつてこんなところに立つてゐるんだ」
 若い娘が、何時までも門口に立つてゐる不自然さに平次は氣がつきました。
「だつて、私、こはいんですもの」
 十八娘のデリケートな神經は、血だらけな死骸におびやかされてゐるのでせう。その死骸は、たとへ大事な師匠であつたところで、佛樣らしく始末をしてくれる迄は、娘に見せるやうな生優しいものではなかつたのです。


 平次は其處から直ぐ、金澤町の平野屋へ行つたことは云ふまでもありません。今までに調べたところでは、お園を殺し得る機會を持つた者は、浪人阿星右太五郎でもなければ、平野屋の若旦那金之助でもなければ、投げ節の小三郎の外にはないことになります。
 平野屋は地主で家作持で、界隈かいわいの金持ですが、先代が亡くなつてからは、若旦那の金之助は手綱たづなのない若駒のやうなもので、母親のお早の言ふことなどは耳にも入れず、放埒の限りを盡した上、この半歳ばかり前から、踊りの師匠の[#「踊りの師匠の」はママ]お園と、小唄の師匠の[#「小唄の師匠の」はママ]お組を手に入れ、江戸一番の色男のやうな氣になつて、有頂天な日を暮してゐたのです。
 どちらも、金が目當てだつたことは言ふ迄もありませんが、それでも、お園とお組が、掴み合ひの大鞘當さやあてをするだけあつて、若旦那の金之助は、なか/\の美男でもありました、
 色白で、面長おもながで、眉が薄くて、ひどく撫で肩で、下唇が突き出して、いさゝか舌つ足らずで――かう條件を並べただけで、大方若旦那金之助の風貌は想像がつくでせう。
 母親のお早は持て餘した揚句、親類中での褒めものの娘、お夏といふ十九になるのを娘分にして貰ひ受け、やくが過ぎたら金之助と娶合めあはせるつもりで、朝夕の世話までさせることにしました。
 お夏は可憐で楚々そゝとして、充分に美しい娘でしたが、性根もなか/\に確かりしてをり、その上智慧もたくましく、近頃は道樂者の金之助も、次第にお夏の良さに引摺られる恰好になつて來ました。でも一度女道樂の味を覺えた金之助は、三十年増のお組やお園の、濃艶極まる魅力が忘れられず、時々は發作的な情熱に驅られて、二人のうちの、何方どつちかに通ふ癖は止まなかつたのです。
「若旦那はゐるかえ」
 平次が店からヌツと入ると、出會ひ頭の可愛らしい娘が、ヒラリと奧へ姿を隱してしまひました。金之助の許嫁、お夏といふのでせう。
 素よりチラリと見ただけですが、これは實に、馥郁ふくいくたる乙女をとめでした。あを單衣ひとへに赤い帶も印象的ですが、それよりもほの白く清らかな頬や、霞む眉や、少し脅えてはゐるが、聰明らしい眼が、咄嗟とつさの間ながら、平次に素晴らしい印象を與へてくれたのです。
「おや、錢形の親分。まア、どうぞ」
 などと、お夏と入れ替りに出て來た、若旦那金之助は如才がありません。
あつしの用向きはお察しだらうが。ね、若旦那」
 隣り町の附き合ひで、十手捕繩の手前はあるにしても、平次にも少しは遠慮があります。
「へエ」
「お前さんは、あの大雨の中で、ヅブ濡れになつて、お園の家へ行き、間もなく雨の中へ飛び出したといふことだが――」
「其處ですよ、錢形の親分――乾いたものと着換へて、さて落着いて考へて見ると、默つてゐた私が惡かつたと思ひます。矢つ張りこれは、錢形の親分にでも申し上げて、良い智慧を拜借するのが本當だつた――とようやさとりました」
「それは? どういふわけで?」
「私は、お園の死骸を見て、驚いて飛び出したのですよ」
 平次は默つて先をうながしました。何も彼も見通してゐるやうな態度です。
「始めから順序を立てて申しませう――私はあの時明神樣へ行つてをりました。空模樣があやしくなつたので、大急ぎで歸らうとすると、鳥居をくゞつた頃からもうどしや降りでお臺所町へ下りた時は、先の見通しもつかない程の大雨です。その上にあの大雷鳴ですから、日頃雷鳴嫌ひのお園がどうしてゐることかとぐしよ濡れの姿ですが、雨宿りかた/″\覗いて見る氣になりました」
「――」
 平次は默つて先をうながします。
「聲を掛けても返事はないし、少し心配になりましたので、ザツと入口の雜巾ざふきんで足を拭いて、濡れてボトボトしづくの垂れるまゝ、奧へ入つて見ると――」
 金之助はその時の凄まじさを思ひ出したらしく、ゴクリと固唾かたづを呑みました。
「お園は血だらけになつて死んでゐるぢやありませんか。その時はもう夢中で、息が通つてゐるかどうか、見定める暇もありません。薄情なやうですが、追つ驅けられるやうな心持で、大雨の中に飛び出し、無我夢中で家に戻りましたが」
「お園の寢てゐるのを、部屋の外から覗いたのだね」
「さうなんです。唐紙を開けると、たつた一と眼であの姿が見えました」
「部屋へも入らず、向う側の――雨戸の開いてゐた縁側へも廻らなかつたことだらうな」
「それどころではございません。一と眼見て、四つん這ひになるやうにして、もとの入口へ歸りました」
「どうしてそれを今まで人に話さなかつたんだ」
「私はこはかつたのですよ、親分」
 若旦那金之助はその時のことを思ひ出すと、齒の根も合はない心持になるのでした。
「曲者は裏の方の縁側から入つて、後ろ向きになつて寢てゐるお園を刺し殺し、もとの縁側から外へ出てゐる。お前さんは入口の格子を開けて入つて、廊下から唐紙を開けて、中の死骸を見、きもをつぶしてもとの入口に戻つた」
「――」
「裏と表の二つの足跡は、部屋の入口から死骸のところまでで縁が切れてゐる。お前さんは表から入つて表から出たことは、見てゐた者があつて確かだから、お園を殺したのは、外の者といふことになるのだ。疊の上をひどく濡らした足跡が、お前さんの命を救つてくれたよ、若旦那」
 平次は自分へ言ひ聽かせるやうに、かう言ひきるのでした。
「私の言ふことに間違ひはありません。ね、親分。もう一度行つて見て下さいな」
 若旦那金之助は重荷をおろした心持でひどくはしやぐのです。
「いや、そんなことに見落しがあるものか――一應は見て置いたが、いづれかわくまでには間があるだらう。もう一度誰かに見せて置くとしようよ。ところで――その時、裏の縁側の方に何んにも見えなかつたのかな」
「あわててゐたんで、何んにも見ませんよ。でも、ひさしのあたりに、チラリとしたものを見たやうな氣もしますが――」
 それはしかし、甚だ頼りない證據です。取込み忘れた干物かも知れず、雨に驚いて飛び込んだ、小鳥だつたかも知れないのです。
「ところで、若旦那は、お園とお組と、二人の師匠にチヤホヤされてゐたといふことだが」
「面目次第もございません」
「今でも何にか、あの二人に引つ掛りがあつたのかな」
「私はもう、あんな女達に掛り合ふのを懲々こり/″\してをりました」
「それが、どうしてお園のところへ寄る氣になつたのだ」
「雨宿りで、場所の選り嫌ひは言つてゐられませんでした。それに、お園は恐ろしく雷鳴が嫌ひだつたので、フト覗いてやらうといふ氣になつたのです」
「お組は?」
「あれは、雷鳴を好きではなかつたにしてもお園ほどは怖がらなかつたやうで」
「すると、若旦那は、あの二人の女と手を切つてゐたのか」
「いえ、改めて手を切るとなると、又一と騷ぎですから、別にさう言つたわけではありません」
 蛇の半殺しで、愚圖々々に二人の女から遠ざかつて、良い子にならうといふ金之助の態度に、潔癖けつぺきな平次は、一寸胸を惡くしました。


 遊びくたびれ若旦那の金之助は、二人の年増女に遠ざかつて、あの新鮮で清潔で馥郁ふくいくたる魅力の持主――お夏に興味を持つてゐることは事實で、二人の師匠が、鞘當筋さやあてすぢで喧嘩をしたとしたら、金之助にとつて、それはまことに、迷惑千万なことだつたに違ひありません。
 平次は平野屋をきり上げて、店口から出ようとして、何心なく振り返りました。店暖簾みせのれんがパラリと動いて、あわてて姿を隱した女――それはお夏が心配して、二人の話を聽いてゐたのでせう。白いひたひと紅い唇だけが、平次の眼に美しい殘像として殘ります。
 次は、同じ金澤町の浪人、阿星右太五郎の家へ――と思ひましたが、フト八五郎のことが氣になつて、もう一度お臺所町に引返して、お組の家を覗いて見る氣になりました。
 お園の家とは隣り路地の背中合せで、急造の舞臺はその間にはさまつて空地をふさいでゐるのです。平次は狹い路地を入つて行くと、
「ブルブル畜生奴、ひどいことをしやがる」
 飛び出して來た八五郎と、鉢合せしたやうにハタと逢ひました。
「どうした、八」
「どうもかうもありやしませんよ。この通り」
 八五郎のまげから肩へかけて、ひどく濡れてゐるではありませんか。
「夕立は半刻も前に上がつた筈だが――」
「水をブツ掛けられたんですよ。飛んでもねえ女だ。犬がつるんだんぢやねえ、やい」
「其處で啖呵たんかをきつたつて物笑ひになるだけよ。どうしたといふのだ」
「親分に言ひつけられた通り、お組の留守を狙つてあの家へ忍び込んで見ましたよ。あの女の家の中に、夕立でヅブ濡れになつた着物があれば、先づ間違ひもなく、お園殺しの下手人げしゆにんだ。ツイ夕立の來る前まで、お園と掴み合ひをした女だ。それくらゐのことはあるに違げえねえと思つたが――」
「あつたか」
「ありませんよ。濡れた足袋たび一足ありやしません――だからあの女は氣が強くなつてお園の佛樣の世話をして歸ると、風呂場にマゴマゴしてゐるあつしを見つけて、いきなり手桶の水を一パイ。頭からブツかけて――泥棒――はひどいでせう」
「そいつは大笑おほわれえだ」
「笑ひごとぢやありませんよ。頭から水をブツかけられて御覽なさい」
「怒るな、八――それからどうした」
あつしと氣がつくと、あら八五郎親分、濟まなかつたわねえ――と來やがる。その後が尚ほいけねえ――私にそつと會ひたいなら會ひたいと、さう言つて下さればよいのに、まさか八五郎親分が風呂場に隱れてゐると氣がつかないから水なんかブツかけたぢやありませんか――なんて人を喰つた女ぢやありませんか」
「でも、お組の家に、濡れた着物が一枚もないとわかれば、それで宜いのだよ。あの大夕立の中で、お園を殺して逃げた者は、間違ひもなくズブ濡れになつてゐる筈だ」
「尤も、白縮緬しろちりめん湯もじが一枚風呂場のたらひに浸けてありましたよ」
「それくらゐのことはあるだらう」
「あの歳で、緋縮緬ひぢりめんでないのが氣障きざですね」
 などと、又他愛もない掛け合ひになりさうです。
「ところで、喧嘩の後でお組は、何處を通つて自分の家へ歸つたんだ」
「あの女が言つてる通り、路地の突き當りの木戸を開けて、大家のひさしの下を通して貰ひ、自分の家へ驅け込んで蚊帳かやつて線香をいてゐたことは間違ひありません。近所の衆は、お組が大騷ぎをしながら雨戸を締める音も聞いたし、線香を一と束ほどいぶして、長屋中を匂はせたことも、皆んなよく知つてゐましたよ」
 八五郎の答へは水も漏らしません。


 八五郎の肩の濡れは、立ち話のうちに大分乾いてしまひました。
 二人は豫定の順序を踏んで、もう一度金澤町に取つて返し、浪人者、阿星右太五郎の家を訪ねたのです。
「錢形の親分か――いや先刻から待つてゐたよ。いづれ親分が來るだらうと思つてな」
 有徳の浪人阿星あぼし右太うた五郎は、ひどく心得顏に、平次と八五郎を迎へたのです。
 何處でどう金を溜めたのか、阿星右太五郎はなか/\の富をたくはへ、高い利子でそれを運用して、氣樂な生活をしてゐる浪人でしたが、そんな蓄財癖が、この人を浪人にさせたのだといふ噂も、決して火のないところの煙ではなささうです。
 四十五六――充分に圓熟した肉體と智慧の持主らしく、如才ないくせに、いかにも尤もらしい阿星右太五郎でした。
「打ち開けてお話下さいますか、阿星樣」
 平次はひどく下手に、掛引なしに持ちかけました。
「それはもう錢形の親分。あの女が死んでしまへば、誰はゞかる者もない」
「何を仰しやりたいので? 阿星樣」
「私は――何を隱さう、あの女を殺さうと思つてゐたのだよ」
「え?」
 それは實に、錢形平次も豫期しない言葉でした。後ろで聽いてゐる八五郎の口が、拳固げんこが一つ丸ごと入るくらゐ、ポカリと大きく開いたほどです。
「驚くだらう、錢形の親分、――口惜しいことに、誰かが先を潜つてあの女を殺してしまつた――私はこんな手持無沙汰な心持になつたことはない」
 阿星右太五郎はこんな途方もないことを、にんがりともせずに言つてのけます。
「それはまた、どういふわけです、阿星樣」
「聽いてくれ。私には、たつた一人の伜があつた。右之助と言つてな、先づ十人にもすぐれた若者であつた――と申しても、決して親馬鹿の言ひ草ではない。ところで、この私が十年前に浪人したのは、私の不徳のせゐでいたし方もないが、せめて伜をもとの武家にしてやりたさに、今から二年前二千兩といふ大金を積んで、御家人の株を買はせ、兎も角も直參に取り立てられた」
「――」
「どうせ株を買つた御家人だから、最初から良い役付をねらふわけに行かない。閑職の甲府かふふ勤番になるのも、出世の梯子段はしごだんの一つと思ひ、充分教へもし勵ましもして、甲府へ差し立てた」
「――」
「が、わざはひは何處にあるかわからない。甲府から江戸へ、御上の御用で幾度となく往來するうち、――年頃の伜を一人で置いたのが親の手落ちであつたが、右之助はフトあのお園といふ女に迷ひ、おびたゞしく御用金に手をつけ、進退きはまつて――今から半年前腹を掻き切つて死んだのぢや」
「お氣の毒な」
 平次もツイかう言はなければならなかつたのです。この上もなくいかめしく構へた阿星右太五郎は、自分の言葉に感極まつて、ポロポロと泣いてゐるのです。
「父親の私に打ちあけてくれさへすれば、それは一應は小言を申したかも知れぬが、多寡たくわが千や二千の金、何んの苦勞もなく出してやつたものを――かう思ふと、あの出來の良い褒めものの伜を、腹を切るまで迷はせた女が憎くなるのは當り前ではないか」
「――」
「千万無量の怨みを包んで、私があの女に接近したのは、折を見て一刀の下に斬り捨てようためだが、折はあつても、賣女ばいた一人の命と引き換へでは、この私の命が惜しい。人知れずはうむる工夫はないものかと、卑怯ひけふなやうだが折を狙つてゐるうちに、氣の早いのが、あの女を殺してしまつたのぢや」
 浪人阿星右太五郎の述懷は、想像も及ばぬ奇怪なものでしたが、その眞實性は、顏にも涙にも溢れるのでした。
 いや、そればかりでなく、隣りの部屋ですゝり泣く聲が次第に大きくなつて、やがてそれは押へきれない嗚咽をえつと變り、平次と八五郎を驚かすのです。言ふまでもなくそれは、阿星右太五郎の内儀――腹を切つた右之助の母親で、お圓といふ中年女でした。
 阿星右太五郎が雨の寸前にお園の家を覗いたのは事實ですが、腹立ちまぎれに横になつてゐるお園は、右太五郎が縁側から聲をかけても、返事もしなかつたので、その儘歸つたといふ言葉に、恐らくは嘘はなかつたでせう。


 翌る朝になりました。昨日の夕立に洗はれた町の朝は、申分なく清々しく明けて、平次は井戸端で齒を磨いてゐると、
「あ、親分。た、大變ですぜ」
 竹の木戸につかまつて、八五郎は張り上げるのです。
「何んだえ、相變らず騷々しい野郎だ」
「殺されましたよ。あの綺麗なのが――」
「誰だえ」
「お菊ですよ。お園の内弟子、あの可愛らしい娘が、昨夜のお通夜の後で、路地の奧で絞め殺されてゐるのを、今朝早く見付けて大騷ぎになり、あつしが見張らせて置いた下つ引の忠吉が飛んで來て教へてくれましたよ」
「成程、それは大變だ」
「ね、親分。こいつが大變でなかつた日にや」
「よし、わかつた」
 平次は猿屋の楊枝やうじを井戸の側に突つ立てると、支度もそこ/\、朝飯のことばかり心配するお靜の聲をそびらに聽いて、一氣に現場に驅けつけました。
「寄るな/\見せ物ぢやねえ。あんまり見てゐると眼がつぶれるぞ」
 下つ引の忠告が精一杯骨を折つて、彌次馬を追つ拂つてゐる中へ、平次と八五郎が飛込びんだ[#「飛込びんだ」はママ]のです。
 彌次馬が容易に動かないのも無理のないことでした。若くて可愛らしいお菊の死は痛々しくも色つぽく、眼にしみるやうなものを感じさせたのです。
「可哀想に、何にか掛けてやりやよいのに」
 平次は死骸に近づくと、大手を擴げて、多勢の眼から、それをかばつてやりたい氣になりました。
 露の深い路地、下水に半分身を落して、乙女の身體はなゝめゆがみ、もすその紅と、蒼白くなつたはぎが、淺ましくも天にちゆうしてゐるのです。
 首に卷いたのは、眞新しい手拭、顏は痛々しく苦惱にゆがんで、その端正さを失ひましたが、それがまた一つの破壞された美しさで、彌次馬の同情と好奇心をかき立てるのでした。
「八、此處に置くまでもあるめえ。家の中へ入れてやらう、手を貸せ」
 平次は膝を折つて、娘の首にそつと腕を廻しました。

十一


 お菊の死骸は家の中へかつぎ込まれ、お園の棺の前へ、靜かに寢かされました。日頃眼鼻立ちの細かい可憐そのもののやうな娘姿が、一と晩の夜露にさらされて、らふ人形のやうに蒼白く引締つて見えるのは、言ひやうもない痛々しさで、さすがに無駄口の多い八五郎も、つゝしみつゝしんで何や彼と世話をしてをります。
「親分、憎いぢやありませんか。こんな小娘に、怨みがある筈はないのに」
「お菊は何にか知つてゐたに違ひないよ。昨日の夕方、この家の入口で俺と會つた時、何にか言ひかけて急に口をつぐんでしまつたぢやないか」
「すると、この娘を殺したのは、お園を殺した人間の仕業しわざですね」
「先づ、さうきめて間違ひはあるまいよ」
 平次の胸の中には、次第に下手人の假想圖が、はつきりと浮んで來る樣子です。
「ところで、親分。お菊を絞めた手拭は、投げ節の小三郎の持物とわかりましたよ」
「その小三郎が昨夜ゆふべ家へ歸つた時刻を調べるんだ。大急ぎで頼むぜ」
「へエ」
 八五郎は飛んで行くと、平次はその邊にゐる一人々々をつかまへて、昨夜のお通夜つやの模樣を念入りに調べ始めました。
「半通夜で、お經が濟んで、ひとわたりお酒が出て、亥刻よつ(十時)過ぎには、皆樣に引取つて頂きました。殘つたのは私と内弟子のお菊と、遠い親類の者が二三人だけ」
 お園の母親のおまきが説明するのです。
「小三郎は?」
「何んか御用があるとかで、そは/\してをりましたが、亥刻よつ(十時)少し前――皆樣より一と足先に歸つたやうでございます」
「その小三郎の側にすわつてゐたのは、誰と誰だつたか、覺えてゐるだらうな」
「若旦那の金之助さんと、お組さんの間にはさまつてをりました」
「あの手拭を持つてゐるのに氣がついたことだらうな」
がらの變つた手拭で、誰でも氣がつきます」
 大きく『かま』と『輪』と『ぬ』の字を染め拔いた手拭、それはひどく意氣なつもりで、實はこの上もなく野暮つたい手拭でした。
「その手拭を、小三郎は持つて歸つたことだらうな」
「いえ、忘れて歸りました。座布團の側に落ちてゐたのを、お菊が見つけて後を追つ驅けたやうですが、もう見えなくなつてしまつたとやらで、そのまゝ持つて歸つて、入口の隅に置いたやうでしたが、それからどうなつたか、私も氣がつきませんでした」
 母親がこれだけでも記憶してゐたのは見つけものでした。が、その上りかまちのあたりに置いた手拭を、誰が持出して、お菊を絞め殺したか、其處まではわかりません。
「それから?」
 平次は糸をたぐるやうに、靜かにその後をうながします。
「小三郎さんが歸つたのは一番先で、それから皆さんが歸り、若旦那の金之助さんと、師匠のお組さんが一番後まで殘りましたが、それも歸つてしまつたのは、亥刻よつ(十時)少し過ぎだつたと思ひます。若い人達が眠さうで可哀想ですから、床を敷かせて、彼方此方あちこちに休ませ、一番お仕舞にお菊が、路地の木戸を締めに外へ出たやうでございます。――木戸は今朝確かに内から締つて居りましたから、あの時お菊が締めたに相違ございませんが、木戸を締めてから、家の中へ入つたのを、確かに見たといふのは一人もないやうで、多分木戸を締めて入らうとした時、其處で暗がりから出た者に、不意に殺されたことでございませう――」
 母親のおまきは思ひの外記憶もよく、時間と事件の關係など、極めて要領よく話してくれます。尤も年頃もまだ四十七八、昔は芳町あたりで嬌名けうめいを走せたことがあると言はれ、お園が小唄の師匠として一本立になつてからは、その蔭に隱れて、お園の成功に大きな役目を果してゐた母親だつたのです。
 近所附き合ひで、お組もお園も平次はよく知つて居りますが、今から五六年前までは、この土地では先輩のお組は手踊りの師匠として鳴らし、多勢の弟子も取つて居りましたが、お園が此處へ移り住んで、小唄の師匠の看板を上げ、無用な競爭をけて、兩虎互ひに傷つかずに、二年三年と過して來た仲でした。

十二


「ところで、錢形の親分さん」
「何んだえ、おつ母さん」
 お槇は四方あたりを見廻して、突き詰めた顏になりました。
「お菊は昨日、錢形の親分のことばかり申してをりましたよ」
「?」
 相手は十七八の女の子、戀でも物好きでもない筈とわかつてゐるだけに、平次は變な氣持になりました。
「お菊は、昨夜ゆふべのお通夜に、錢形の親分が見えたら、――私の知つてゐることを皆んなお話して、考へて頂くんだ――と言つてをりました。あの娘は、何にか心配で/\たまらない樣子でしたが」
「――」
「きつと、何にか大變なことを知つてゐたに違ひありません。どうかしたら――」
「お園を殺した下手人を知つてゐたとでも言ふのか」
 平次はさすがに氣が廻ります。
「これは私だけの考へですが、あの大夕立の時、娘が腹を立てて寄りつけないので、私はお隣りへ逃げて行き、お菊はお向うの唐物屋さんの店先で、雨の止むのを待つて居りました」
「?」
「私は少し耳が遠いので、雷鳴樣の外には何んにも聽きませんが、お菊は往來の向うから、何にか見るか聽くかしたに違ひないと思ふのです。それを、後のたゝりが恐ろしいので、胸一つに疊んでゐたが、我慢が出來なくなつて、錢形の親分さんに打ち明けようとし、下手人げしゆにんはそれを嗅ぎつけて、お菊を殺したのぢやございませんか知ら――」
 おまきの智慧のよく廻るのに、平次は褒めてやりたいやうな心持でした。恐らくたつた一人の、杖とも柱とも思ふ娘お園を殺された、大きな悲歎の底から、一世一代の智慧の灯が燃え立つたのでせう。
「そんなこともあるだらうな」
 平次は、それ以上のことまで考へてゐるのですが、四方あたりの聽く耳に遠慮して、お槇の報告を輕くいなしました。
「でも、私は、見す/\娘を殺した相手がゐるのに、それをどうすることも出來ないやうでは、娘も行くところへ行けないと思ひまして――」
 お槇は母親のに返つてサメザメと泣くのです。
「まア、心配しない方がよからう。人を二人まで殺して、百まで生きてゐられる筈はない――ところで、お園を怨んでゐた者が、二人や三人はあつたやうだが」
「それは、あつたことでせう。あの通りの氣性者で、どうかすると、みの母親の私でさへ、側へ寄れないこともあつたくらゐですから」
「御浪人の阿星あぼし右太うた五郎さんも怨んでゐたし、やくざ者の投げ節の小三郎も怨んでゐたかも知れない、商賣敵の師匠のお組だつて、好い心持でなかつたことだらう」
「さう言へば、夕立の來る前、お組さんと掴み合ひの喧嘩をしてゐたさうですが、――娘とあの人は敵同士のやうなものでした。近頃は若旦那の金之助さんのことでめ、踊りのかり舞臺をこのうちと、お組さんの家の間の空地あきちへ建て、一言も挨拶をしなかつたと、ひどく怒つてをりました」
 そんなことはしかし、お槇が説明する迄もなく、平次はこと/″\く承知してをります。
「話は違ふが、今朝お菊の死んでゐるのを見つけたのは、お前さんだと言つたね」
「ハイ、格子を開けて、いつものやうに木戸を開けるつもりで外へ出ると、ツイ鼻の先にお菊が――可哀想に首に手拭を卷いたまゝ、下水に半分落ちて居りました」
「木戸は締つてゐたのだな、間違ひもなく」
「間違ひはございません。私がこの手で開けたのですから――」
「もう一つ、お菊の首を締めた手拭は、確かに小三郎のものだと言つたね」
「あんな變ながらの手拭など、滅多に堅氣の人は持つて歩きません」
「その手拭を――」
「ゆふべ、小三郎さんが忘れて行つたのを、お菊は持つて追つ驅けましたが、追ひつき兼ねて、この上がりかまちの隅つこに置いた筈ですが――おや、おや、これはどうしたことでせう」
 入口の沓脱くつぬぎの間を覗いたお槇は、其處に落ちてゐた手拭を拾ひあげて、思はず眼を見張つたのも無理はありません。
 これはまぎれもなく昨夜投げ節の小三郎が忘れて行つた、『鎌』『輪』『ぬ』と染めた手拭に紛れもなかつたのです。
「どれ」
 平次はお横の手から手拭を受取りました。切り立ての手拭ですが、いくらかしわになつて、隅つこの方に、『小三郎』と墨で小さく書いてあるではありませんか。

十三


 お菊の死骸の首に捲きついてゐたのは、同じ『鎌、輪、ぬ』の模樣ですが、それは死骸の首からはづして、別に證據の一つとして、町役人に預けてあるので、それが沓脱くつぬぎの下にまぎれ込む筈もなく、此處で明かに不思議な柄の手拭が二本現はれ、その一筋は間違ひもなく昨夜小三郎が忘れて行つたものとなるわけです。
「今朝小三郎が來なかつたのか」
「まだ薄暗い時間に――私が木戸を開けに出て、お菊の死骸を見つけて大騷ぎをしてゐる時、一寸顏を見せましたが、――その邊をウロウロして直ぐ歸つてしまひました」
 さう聞くと、若し小三郎が昨夜この手拭を忘れて行かなければ、お菊殺しの疑ひは、眞つ直ぐに手拭の持主の小三郎にかゝつて行くことになるでせう。
 手拭を忘れて行つたばかりに小三郎は、この恐ろしい疑ひからまぬがれて、恐ろしく智慧の廻る下手人が、小三郎と同じ柄の手拭を買つて來て、お菊を絞め殺したといふ結論にみちびかれるのです。『鎌、輪、ぬ』の柄は好んで手拭にも浴衣ゆかたにも染め、中には刺青ほりものにまでしたもので、やくざ、遊び人、のらくら者、と言つた肌合の人達は、好んでこれを用ひもしました。
「親分、いろ/\面白いことがわかりましたよ」
 そんな中へ、八五郎は飛んで來ました。
「大層早かつたぢやないか、何處を歩いて來たんだ」
「何處も歩きやしません、投げ節の小三郎に逢つて、一ぺんにわかつただけで」
「何が――?」
「第一に小三郎は昨夜ゆふべ亥刻よつ(十時)少し前に自分の家へ歸つて、亥刻半よつはん(十一時)には佐竹の賭場とばへ潜り込み、曉方まで裸體はだかに剥がれてゐますよ。證人が十人もあるから、こいつは嘘ぢやありません」
「それから?」
「これからが大變で、――一昨日をとゝひの大夕立の眞最中、往來には人つ子一人ゐず、家と言ふ家は、雨戸も窓も皆んな閉めきつてゐる時、自分の家の物干から屋根へ飛び降り、踊り舞臺の足場を渡つて、この路地へ飛び込み、開けたまゝの縁側から忍び込んで、向う向きになつて、ウトウトしてゐた、師匠のお園を刺し殺した者があつたとしたらどんなものです」
「誰がそんなことをしたといふのだ。誰にしてもグシヨ濡れになる筈だが――」
「曲者は裸體はだかだつたとしたら」
「?」
「大夕立に叩かれて、曲者の身體は人魚にんぎよのやうに綺麗だつたさうですよ。尤も、湯もじ一つだけは締めてゐたが――」
「小唄の師匠の[#「小唄の師匠の」はママ]お組が下手人だといふつもりか、お前は?」
「外にお園を殺しさうな人間はないぢやありませんか、――お組の家を搜しても、濡れた着物はなかつた筈で――裸體でやつたんですもの。三十になつたばかりのあぶらの乘りきつた良い年増が、大夕立の中を、素つ裸で屋根を渡り――口にかう匕首なんかくはへて、怨み重なる女を殺しに來るなんて圖は、たまりませんね、親分」
 八五郎は自分の首筋を撫でたり、肩をすくめたり、膝を叩いたりするのです。
「誰がそんなことを言つたんだ」
「專ら世間の噂ですよ」
「町内の人が皆んな口を開いて眺めてゐたわけぢやあるめえ。お前は口留めされたんだらう」
 平次は早くも八五郎にこの話を吹つ込んだもののことを考へてゐる樣子です。
「お菊が向うの唐物屋の店先で、それを見てゐたんですよ」
「お菊が?」
「この家の前で、親分に話さうとしたが、奧にお組がゐるから――私は怖い――とか何んとか言つて、口をつぐんでしまつたでせう」
「フーム」
「それを、娘の心の中に疊み兼ねて、昨日うつかり人に話してしまひ、それがお組の耳に入つて、昨夜この路地で殺されたんでせう」
「お菊を殺したのも、お組だといふのか」
「さうとしか思へませんよ。木戸きどは締つてゐるが、お組はもと、踊りの師匠をしたくらゐで、恐ろしく身輕だから、板塀に飛びついて、踊り舞臺の足場に登り、大夕立の時とぎやくに、自分の家へ歸り、素知らぬ顏をしてゐたんでせう」
「――」
「小三郎が忘れて行つた『鎌、輪、ぬ』の手拭を持出したのは、細工が過ぎて憎いぢやありませんか」
「だが、持てよ、八」
 平次は漸く八五郎の懸河けんが達辯たつべんを封じました。
「あの大夕立の中を、裸體で屋根を渡つて來たにしては、昨日のお組の髮は、少しも濡れてはゐなかつたぜ」
「そこはそれ、風呂敷か何んか冠つて」
「風呂敷や手拭であの夕立がしのげるものか、まるでブチまけるやうだつたぜ」
「へエ?」
「若い女が、あの大雷鳴おほかみなりの中を、裸體で屋根を渡るのは容易なことぢやないぜ」
「尤も若い女は、それ程でもない癖に、雷鳴嫌ひを見榮にしてゐますよ、――それに若旦那の金之助は言つたでせう、お園はひどく雷鳴は嫌ひだが、お組はそれ程でもないと、――ね、雷鳴嫌ひのお園さへ、横になつてツイうと/\とやつたくらゐですもの、お組が裸體で屋根を渡つたつて、雷鳴樣だつて面食らつて、臍は取りませんよ」
 八五郎は大いに辯じますが、平次は默つて考へ込んでしまひました。

十四


「そいつは一應面白さうだ。お組のところへ行つて臍が無事かどうか、訊いて見ようぢやないか」
 平次はもうお園の家を出て路地に立つてをりました。袋路地の入口、一方は板塀で、踊り舞臺の足場が、塀の上へ高々と組みあげてありますが、此處からお組の家へ行くためには、路地の奧の木戸を開けて、大家おほやひさしの下を通して貰ふか、ましらのやうに足場をぢ登るか、でなければ、表通りをグルリと廻る外はありません。
 平次と八五郎が行つた時は、お組は一と息入れて、これから又お園の家へ出かけようといふ時でした。
 何處かで祭の太鼓、まだ朝のうちだといふのに、樽神輿たるみこしを揉んでゐるらしい、子供達の聲などが、遠くの方から搖り上げるやうに聽えます。
「あら、親分。何んか御用? こんなに早く」
 などと、お組の磨き拔かれた顏は如才もない愛嬌がこぼれます。引締つた三十女、古典的な眼鼻立、お園のやうな不均整な顏の道具から來る魅力はありませんが、いかにも自尊心にちた人柄です。
「何處かへ出かけるのか師匠」
「お園さんが死んでしまつて、あの踊り舞臺をどうしやうもありません。二年に一度の本祭で、皆んな張りきつてゐるし、娘達の支度も大變でせう、――お園さんのお母つさんと相談して、兎も角も恰好だけはつけることにしました。せめて今一日だけでも、あの舞臺で皆んなを踊らせれば死んだお園さんもかへつて浮べるといふものでせう」
 お組はホロリとするのです。
「掴み合ひの喧嘩までした師匠がねエ、たいした心掛けぢやないか」
「喧嘩は喧嘩、義理は義理ですよ」
「えらいな師匠。ところが、その氣持も知らないで、お組師匠がお園師匠を殺し、その上、それを知つてゐるお菊までも、絞め殺して口をふさいだと言つてる者があるんだがね」
 平次は到頭言ふべきことを言つてしまひました。
「まア、それは本當ですか、親分。誰がそんなことを――第一あの大夕立の中を――」
 お組の仰天も見事でした。どんなに期待した驚きの仕種しぐさも、これほどまでには効果的でなかつたでせう。眼を大きく見張つて、唇の色までがサツと變つたのです。
「あの大夕立の中を、お前は腰卷一つの裸體はだかになつて、物干から屋根に降り、隣りの空地に建てた假舞臺の足場を渡り、あの樂屋から小三郎が忘れて行つた匕首あひくちを持つて、板塀を越してお園の家の裏から入り、お園を殺して歸つて來たといふのだよ――昨日お前に逢つた時、少しでも髮が濡れてゐると、俺もさう思つたかも知れない」
「まア、そんなことが――」
「お前の家に濡れた着物が一枚もなかつたと聽いて作者がそんなことをこさへ上げたのさ」
「それで、あの時八五郎親分が、私の家の風呂場でウロウロしてゐたわけなんですね」
 お組の眼はジロリと、平次の後ろに小さくなつてゐる八五郎を睨めました。
「まア、怒るな。八に風呂場を見るやうに言ひつけたのはこの俺だ」
「そんなことが出來るかどうか、考へても見て下さい。いくら大夕立の中だつて、眞つ晝間の屋根の上を、若い女が裸體で渡れるものかどうか、私はこれでも三十になつたばかり、まだ獨り者よ」
「それはわかつてゐる」
「第一、家の屋根と來たら、家主がケチでトントンきが腐りかけてゐるんだもの、物干の下なんか猫が歩いても踏み拔きさうよ。嘘だと思つたら、八五郎親分、あの屋根を渡つて見て下さい。首尾よく舞臺の足場に辿たどり着いたら、私は默つてお園さん殺しの下手人になり、隨分お處刑しおき臺の上へこの首を載つけて、都々逸どどいつの一つくらゐは歌つて上げてもいゝワ、隨分人を馬鹿にしてゐるのね、畜生ツ」
 お組の爆發する嬌瞋けうしんの前に八五郎はまことに散々です。
「わかつたよ、師匠。お前が怪しいと思へば、わざ/\やつて來て、こんなことを言やしない――ところで」
 平次は一應なだめて置いて、まだ訊きたいことがあつたのです。が、お組はなか/\引つ込んではゐません。
「お菊さんが殺された時だつて、私は若旦那の金之助さんと一緒に歸り、若旦那を此處へつれて來て――恥を言はなきやわからないけれど、よりを戻したわけでなく、いよ/\手を切るつもりで名殘りを惜しむため、若旦那を一と晩此處へ泊めたぢやありませんか。お通夜の歸りの情事いろごとで、こんなことは言ひたくないけれど、人殺しなんかにされちやかなはない」
「それはもういゝ。が、一つだけ、小三郎が踊り舞臺の後ろの樂屋へ、匕首あひくちを忘れて來たと言つてるが、それを師匠は見なかつたのか」
 平次はお組の怒りをやり過して、新しい問ひを持出しました。
「見ましたよ。多勢ゐる前で、帶を締め直すんだとか言つて、不氣味な匕首を取出し、皆んなに見えるやうに葛籠つゞらの上に置いたやうでしたが、それつきり、もとの懷中ふところへしまひ込んだのを見ませんでした。匕首は何時までも葛籠の上に載つてゐたやうです、――私がお園さんと喧嘩をして、大夕立が來さうになつて、驚いて家へ歸るまで――」
「お前は本當に雷鳴が嫌ひなのか」
「好きぢやないが、そんなに嫌ひでもありませんよ。でも、若い女が雷鳴が怖くないなんて、平氣な顏をしてゐると、色氣がなくて變ぢやありませんか」
 こんな祕密までは、平次も氣がつきません。

十五


「八、どうだ、見當はついたか」
 お組の家を出ると、平次は面白さうに八五郎を振り返りました。
「驚きましたね、あの女が下手人ぢやないんですか」
「どうも、さうらしくないよ。お園の死骸のもゝのところに、血染の手形が着いてゐたが、あれは隨分大きかつたやうだな」
「女の下手人が、自分のてのひらを動かして、わざと、あんな大きな手形をつけたんぢやありませんか」
「動かしながらつけた手形なら、指先の渦卷や、てのひらの筋の跡が消える筈ぢやないか」
「すると、どんなことになりませう」
「お前にお組が下手人に違ひないと教へたのは誰だ」
「小三郎ですよ、――賭場とばから裸に剥かれてぼんやり歸つて來たといふ投げ節の小三郎に、昨夜お通夜の人達より半刻も早く歸つたから、何處へ潜り込んだか訊くと、――實は、お組が下手人に違げえねえと教へてくれたんで」
「そんなことだらうと思つた――おや、お園の家へ小三郎が來てゐるやうだ。お前は外で待つてゐてくれ。宜いか」
 平次は何やら八五郎に囁やくと、路地の外へ出してやり、自分の手で木戸を閉めて、さて、お園の家の外から聲をかけるのでした。
「小三郎兄哥あにい、ちよいと來てくれ。見て貰ひたいものがあるんだが」
「へエ? 錢形の親分ですか、ちよいと待つて下さい」
 小三郎は殊勝らしく佛樣の前で線香などを上げてをりましたが、麻裏あさうらを突つかけて氣輕にヒヨイと顏を出しました。
「小三郎兄哥あにい、お組の家の屋根は、すつかり腐つてゐて、人間は歩けさうもないぜ」
「えツ?」
「お園を殺した下手人を、向うの唐物屋の店先からお菊が見てゐた、――それを俺に教へようとしたとき、俺の側にゐて眼顏でとめたのは、小三郎兄哥、――お前ぢやなかつたのか」
「――」
「お園の死骸の股にある血の手形は、まだ拭き取つてゐない筈だ。お前の手と比べて見ようか」
「親分。そんなことが、と、飛んでもない」
「お前がお通夜の席から歸つたのは亥刻よつ(十時)前で、佐竹の賭場とばへ行つたのは亥刻半よつはん(十一時)だ。その半刻の間、お前は路地の暗がりに隱れてゐて、皆んな歸つた後で、木戸を閉めに出たお菊を殺し、へいを乘り越えて逃げ出した筈だ」
「――」
「自分の匕首を樂屋がくやに忘れて來て、それを皆んなに見せて置き、後から行つてその匕首を持出してお園を殺し、夕立に濡れたのを誤魔化ごまかすために、夕立が晴れきらぬうちに、皆んなに見えるやうにお園の家を覗いて、大聲で騷ぎ出したのは細工が細かいな」
「――」
「お菊を殺すために、手拭を二本用意し、一本をわざと忘れて出たのも巧い手だが、今朝早くお園の家を覗いて、忘れた方の手拭を持出さうとして見つからなかつたのは天罰だよ。手拭は入口の沓脱くつぬぎの間に落ちてゐて、お前の眼にも見つからなかつたのだ――お前のやうな惡い奴はないぞ。なまけ者で小ばくちうちで、お園もお組も相手にしないのを怨み、お園を殺して、その疑ひをお組に着せるつもりで、細々こま/″\と仕組んだに違ひあるまい」
 平次の論告は峻烈しゆんれつでした。それを默つて聽くと見せた小三郎は、すきを狙つてサツと塀に飛びつくと、かつてお園やお菊を殺して逃げた時と同じ道順を、舞臺の足場に飛びつき、ましらの如く渡つて、隣りの路地へポイと飛び降り、そのまゝ逃げ出さうとしましたが、どつこい、
「野郎、神妙にせい」
 其處に待機してゐた八五郎が、むんずと組みついたのです。
 この捕物は少しばかり汗を掻かせましたが、それよりも神田祭の人出が宏大な彌次馬群になつて、十重二十重に路地をふさいだには驚きました。
        ×      ×      ×
「でも念入りにイヤな野郎さ。女に嫌はれてそれを殺すのに、あんなに細工をするといふのは」
 事件が落着してから、平次はツクヅク言ふのでした。
「でも、あの大夕立の中を、神田一番の綺麗な年増が裸體はだかで屋根を渡つて人殺しに行つたと聽いた時は、全く、そいつを見たら孫子の代までも話の種だらうと思ひましたよ」
「馬鹿だなア」
「安やくざの小三郎が下手人ぢや、一向つまりませんね、親分」
「その代り、神田一番の結構な年増が、飛んだ侠氣をとこぎな、良い女とわかつたぢやないか」
「そこで、あつしもこれから踊りの稽古でも始めようか知ら」
 そんなことを言つて、長んがいあごを撫でる八五郎です。





底本:「錢形平次捕物全集第三十卷 色若衆」同光社
   1954(昭和29)年8月5日発行
初出:「サンデー毎日」
   1950(昭和25)年7月11日号〜16日号
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
※題名「錢形平次捕物控」は、底本にはありませんが、一般に認識されている題名として、補いました。
※「ズブ濡れ」と「ヅブ濡れ」、「踊の師匠」と「踊りの師匠」の混在は、底本通りです。
※底本では、初出時に見られた登場人物の職業の取り違えを修正のうえ、文章を改変している箇所があります。
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
校正:門田裕志
2017年5月31日作成
青空文庫作成ファイル:
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