日蓮宗の宗祖日蓮聖人はエタの子なりという説がある。いわゆる特殊部落の人々の書いたものや、或いはその親しく語るところによると、某大臣は我が党の士である、某将官も我が党の士である、某々名士もまた我が党の士であるなどと、しきりに我が党の成功者を列挙するものの中に、歴史的の偉人としては、いつも日蓮聖人が数えられて、それをいわゆる部落民の誇りとしているのである。
日蓮を以てエタの子なりということは、実は近ごろになって始まったものではない。既に古く「大聖日蓮深秘伝」というものがあって、父は房州小湊近郷の穢民で名は団五郎、母は同州小湊浦の漁夫蓮次郎の
右の「深秘伝」は為にするところあっての偽作として、しばらくこれを問題外におくとしても、日蓮をエタの子だと云ったものは他にもかなり多いのである。既に「大日本史」にも、「日蓮安房人、屠者子」と云い、「挫日蓮」には日蓮が[#「日蓮が」は底本では「日題が」]「閑邪陳善記」にも、日蓮が旃陀羅の子なることには、閉口して争わなかったと云い、同書また日蓮の「秋元書」に、身延退隠の事を述べて、「木の皮をはぎて四壁とし、自死の鹿の皮を衣とし」とあるのを引いて、「けだものゝ皮を剥ぐ、日蓮エタの子のしるしなり」などとまで論じているのである。そのほか平田篤胤の「出定笑語」の類に至っては、口を極めてそのエタの子なることを吹聴し、これを悪罵しているのである。これ果して何に基づいたものであろう。
日蓮がエタの子であるということは、実は彼自身の筆に見えるところが唯一の見方である。自分の寡聞なる、未だその以外に何らの史料のあることを知らないのである。彼は文永八年十月佐渡流罪の折に、円浄房へ遣わしたという「佐渡御勘鈔」において、
日蓮は日本国東夷東条安房国海辺の旃陀羅が子なり。いたづらに朽ちん身を法華経の御故に捨てまゐらせんこと、豈に石に金をかふるにあらずや。
と、自己の素姓を書いておられる。また翌九年三月弟子檀那御中に宛てたいわゆる「佐渡御書」にも、
日蓮今生は貧窮下賤の者と生れ、旃陀羅が家より出でたり。心にこそ少し法華経を信じたる様なれども、身は人身に似て畜身なり。魚鳥を混丸して赤白二諦とせり。其の中に識神をやどす。濁水に月の映れるが如し。糞嚢に金を包めるなるべし。心は法華経を信ずる故に、梵天帝釈もなほ恐れと思はず。身は畜生の身なり、色身不相応の故に愚者のあなづる道理なり。心も又身に対すればこそ月金 にもたとふれ。
などと、さらに詳しくその出生の旃陀羅であることを書いておられるのである。すなわち日蓮は、自ら旃陀羅の子たることを明らかにし、畜身と云い、畜生の身と云い、またこれを濁水糞嚢にたとえ、色身不相応の故に愚者の侮るもまた故ありなどと云って、自らその出身の極めて賤しき事を認めておられるのである。そしてこれに依って当時世人は、その出身の賤しきことによって、かなりこれを侮っていた様子が知られるのである。
旃陀羅とは
キヨメをヱタといふは如何なる詞ぞ。穢多
根本は餌取 と云ふべきか。餌と云ふは宍 ・鷹 の餌 を云ふなるべし。其れを取る物を云ふなり。ヱトリを早く云ひて、云ひゆがめてヱタと云へり。ヱトリを略せるなり。仔細知らぬ者はラウソウ(濫僧)ともいふ。乞食等の沙門の形なれども、其の行儀僧にもあらぬを濫僧と名づけて、施行引かるゝをば濫僧供といふ。それを非人・カタヒ・ヱタなど、人まじろひもせぬ同じ様の者なれば、まぎらかして非人の名をヱタにつけたるなり。ランソウと云ふべきをラウソウといふ。いよ/\しどけなし。天竺に旃陀羅と云ふは屠者也。生物を殺して売るヱタ体の悪人なり。
と解しておるが如きは、すなわちその明証である。同書の言うところによれば、当時にエタとは餌取の語の転訛で、これすなわちインドにいわゆる旃陀羅に当るというのだ。もちろんこの書は仏徒の手になったものとして、その著者が自己の奉ずる宗教上の立場から、屠殺を以て甚だしき悪事となし、したがって屠殺業者を悪人と云い、盛んにこれを嫌忌したに無理はない。それが果して悪事であるか、また果して悪人であるかは今の問題ではないが、この書が鎌倉時代もおそらく弘安頃のものとして、日蓮とほぼ時を同じゅうすることによって、日蓮が自ら繰り返して旃陀羅の子なりと言っているのは、これただちに自らエタすなわち屠者の子なりと言っているのと、同様だと解すべき、動かすべからざる証拠たることは、明々白々だと謂わねばならぬ。したがって「大聖日蓮深秘伝」の偽作者が、日蓮の父を穢人だとして、その団扇太鼓の起原をまでもその職業柄に付会してみたり、「大日本史」以下の多くのものが、これをエタの子なりと云ってみたり、また今のいわゆる特殊部落の人々が、我が党出身の史上の名士だとして、これを担ぎ上げたりしてみても、この点については日蓮として、毫も言い分なかるべき筈である。果してしからば日蓮は、事実屠者すなわち「塵袋」にいわゆる「穢多」の徒であったのであろうか。
エタの語原については種々の説があり、自分もかつて「特殊部落研究号」(本誌二巻一号)においてその諸説を紹介し、中にもほぼ餌取説に賛成しておいた事であった。そしてその後の研究の結果として、今においては疑いもなくエタはエトリの語の転訛だという説を確信しているのである。しかもなおこれについて、世間に種々の疑問の起るのは、後世にいわゆるエタなるものが、昔のいわゆるエタとすこぶるその範囲を異にしている為で、これは時代による称呼の適用の変化にほかならぬのである。この事はかつて本誌上で述べたこともあり、いずれはさらにその後の研究をも加えて、精しく論証するの機を求める積りであるが、取りあえず今は左に本論に必要なだけを述べておきたい。
餌取とは言うまでもなく、
屠児 揚氏漢語抄云、屠(居徒反)訓(保布流)屠児(和名恵止利)屠二牛馬肉一取二鷹鶏餌一之義也。殺レ生及屠二牛馬肉一取売者也。
とある。「鷹鶏」は「鷹鷂」の誤まりで、鷹鷂を養う肉を取るのが本義ではあるが、それを広めて一般屠者の称となっていたものらしい。そしてそれがさらに広まって、一般肉食者の称となった事は、「今昔物語」に見える北山や鎮西の餌取法師の語によって察せられる。もちろんこれらの餌取法師は、それ自身屠殺を業とするものではない。ただその身は法師にてありながら、妻を蓄え牛馬の肉を喰うというだけの事であった。そしてそれが為に彼らは餌取の名を与えられていたのだ。三善清行の「意見封事」に、脱税出家の沙門の徒を評して、その「家に妻子を蓄へ口に腥

かくてその餌取の語が、漸く転じてエタと変ると同時に、その語の適用の範囲もまたさらに拡まって、屠者と同等なる社会的地位を占むる一般浮浪者の徒にもそれが及んで行った。前引「塵袋」にキヨメを穢多というとの事の疑問を提出して、その語原を餌取に求め、当時仔細を知らぬものはこれを
凡鴨御祖社南辺者、雖レ在二四至之外一、濫僧屠者等不レ得二居住一。
とある。これは鴨御祖社すなわち下賀茂神社が、賀茂川の畔にあって、当時濫僧屠者の輩が、いわゆる河原者または小屋者として、都に近いこの賀茂川原に小屋住まいする例であったから、特にその禁止を明文に示したにほかならぬ。そして鎌倉時代にキヨメ(浄人)と呼ばれたものは、実にこの河原者、小屋者の徒であったのだ。「今物語」に或る五位の蔵人が、
室町時代文安三年に出来た「

かくエタの名称はもと餌取に起り、ひとまず屠者の称となり、さらに広く河原者・坂の者等の称ともなり、いわゆる非人・乞食等、およそ類似の社会的地位のものをすべてエタと呼ぶ事になったのである。しかし彼らのすべてが屠者という訳ではない。ただ彼らは祖先以来の風習をなお存して、肉食を忌むことをなさなんだ。したがって彼らは、その極めて社会的地位の低いことからして、一般世人から賤しめられたに無理はないが、由来屠殺肉食を忌むことのなかった我が国において、これを穢れたるものとして区別するの必要はなかった筈である。しかるに仏教流通の結果として、はてはかつて獣肉を供物として捧げた筈の我が天神地祇までが、肉食屠殺を忌み給うという思想が一般に流布して、彼らは穢れたものである、穢れ多きものであるとの意義よりして、ついには餌取の転訛なるエタの語に当つるに、「穢多」という忌まわしい文字を用うるに至ったのである。かくて徳川時代に法令上エタ・非人の区別をなすに当り、当時現に皮を扱い肉を扱っていた仲間のみを以て、神明禁忌の思想からこれを穢れ多きものとし、もっぱらエタの称を冠せしめ、その他のものはこれを総称して、非人と云う事になったのである。ここにおいてエタの名はいくらか当初の意義に近づいて来た。
果してしからば聖者日蓮が文永の頃において、自ら旃陀羅の子なりと言われたその旃陀羅は、果してどの意味のエタと同視すべきものであろうか。
「塵袋」の著者は、「天竺に旃陀羅といふは屠者なり、生物を殺して売るエタ体の悪人なり」と、雑作もなく説明している。悪人とは随分ひどい言い現わし方だが、屠殺肉食が悪事であるという見地から云えば、その悪事をするものはすなわち悪人である。浄土宗の開祖源空上人の「遣北越書」に、「


インドに云う旃陀羅は、「飜訳名義集」にも「
旃陀羅……此云二厳熾一。謂二屠殺者之種類一之名也。一云二主殺人一。獄卒也。
ともある。彼らはその職業からして、普通人と住居を別にし、互いに相交わる事が出来なかった。ただに相交わる事が出来なかったのみならず、人もし途中で彼らに出合う場合には、必ずこれを避けて相触れる事をまでも忌んだものである。「飜訳名義集」に法顕伝を引いて、
名為二悪人一。与レ人別居。入二城市一則撃レ竹自異。人則避レ之。或帯レ之、人皆怖畏。
と云っておる。この「竹を撃つ」と云うことは、或いは「木を撃つ」とも、また「鈴を揺かして標す」ともあって、いずれも自ら旃陀羅なることを標するの作法である。かくて行人はこれを見てその旃陀羅なるを知り、自ら避けてその穢に触れざるべく注意するのである。故にもし彼らがその標識を怠った場合には、王すなわちこれを罪すともある。けだしこの旃陀羅は、ただに職業を異にするのみならず、また実にその民族を異にするものであって、インドにおける太古の被征服者の子孫等が、気の毒にもこの境遇に堕されたものであったに相違ない。
しかるに我が国におけるいわゆるエタは、決してそんな訳のものではない。彼らの多くはその祖先が不幸にも落伍者の群に投じたが為に、やむをえず世人の忌み嫌うような職業に従事したとは云え、もともとその民族を異にするものでない事は、しばしば本誌上で論じた通りである。またその職とするところの屠殺そのものも、また、彼らの風習たる肉食そのものも、仏法の影響を受くること多き時代においてこそ、世人もこれを穢れとして忌み嫌うようにはなったけれども、太古においては決してこれを忌んだものではなかったのである。恐れ多くも皇祖
しかるに徳川時代も中頃以後に至って、エタに対する圧迫が甚だしくなったという事は、既に論じた如く(本誌二巻一号「特殊部落研究号」一二七頁以下「エタに対する圧迫の沿革」)、主として彼らの人口増加の結果ではあるが、その圧迫の方法に至っては、仏徒が彼らをインドの旃陀羅に比したが為に、インドにおいて旃陀羅に加えた非人道なる圧迫を、そのまま移して彼らに施したものにほかならぬ。彼らの住居は制限せられた。彼らは普通民の家に入る事を許されなかった。彼らは一見普通民と区別すべき服装をさせられた。甚だしきに至っては、――伊予大洲藩の如く、――エタは必ず毛皮の徽章を付すべしとか、――土佐高知藩の如く、――エタは夜間外出すべからず、もしよんどころなき用事ありて外出する時は、必ず何村何谷の穢多と記した提灯を所持すべしとかいう程のものもあった。この徽章を付し、提灯を持たしめたものは、インドにおいて旃陀羅に竹を撃たしめ、或いは鈴を揺らしめて、その旃陀羅たることを明示せしめたのと揆を一にするものである。
要するに我が国において、エタが特に穢れたる賤しき者として疎外せられるに至ったのは、主として仏法の影響によるものであって、ことに彼らを同じ屠者ということから、インドの旃陀羅に比したが為であった。そしてその思想は既に鎌倉時代に存在し、仏徒の間には畜生の身とまで言う程にもこれを嫌ったものであったが、後にはそれが一般に及んで、徳川時代も中頃以後になってことに甚だしくなり、今に至ってその後裔は少からぬ累を受けているのである。しかしながらもともとインドの旃陀羅と、我が餌取とはその成立を異にするものである。インドにおいてはおそらく被征服者たる土人を虐待して、これに賤職を課し、一般人民より甚だしき区別をなすに至ったものであろうが、我が餌取はよしや彼らが社会の落伍者であったとしても、もともと同一民族であって、もし屠殺肉食を以ての故にこれを忌むとすれば、神代の神々を始めとして、仏法流行以前の一切の国民、ことごとくこれを忌まねばならぬ筈である。エタを以て旃陀羅に比したものの罪悪、それ大なるかなといわねばならぬ。
我がエタとインドの旃陀羅とは本来違うものである。しかもそれが過まって同一視せられた。そして非常な惨禍を受けた。ここにおいて自分は、さらに進んで自ら旃陀羅の子なりと言われた日蓮その人の素姓について考えてみたい。
日蓮宗側に伝うる「祖師伝記」によると、宗祖自身我は旃陀羅の子なりとか、旃陀羅の家より出づとか明言しておられるにかかわらず、毫もそれらしい素振りは見せずして、やはり例の通りの立派な系図を有せられることになっているのである。「祖師伝」の中でも最も古いと言われる「元祖化導記」は文明十年日朝述で、寛文六年の版だとあるが、それには或記というものによって、「先祖は遠州の人
藤原氏だと言い出した事については、既に天野信景の塩尻において、もと氏を貫名ということから、井伊氏の一族に貫名を名乗るもののあるのに思いついて、「寛永系図」から写し出したものであろうとスッパ抜いている。また平田篤胤の「出定笑語」にも、同じ趣きの弁駁がみえているのである。これはなるほどそうらしい。そこでまず藤原氏という事はしばらく措き、さらに「注画讃」の三国氏説について考えてみるに、その先祖が聖武天皇の後胤だとあることとは両立し難い感がないでもない。何となれば、三国氏が聖武天皇の後だとは、一向古書の記事に合わぬところで、「日本紀」には、継体天皇の皇子
日蓮は安房国東条片海の石中 の賤民が子なり、威徳なく有徳の者にあらず。
と云い、「中興入道消息」に、
日蓮は中国都の者にあらず、辺国将軍等の子息にもあらず、遠国の者、民の子にて候ひしかば……
など云いて、なお旃陀羅の子が糞嚢に金を包むに比したと同じく、自己の素姓を卑むが中にも、常に自負の意味をどこかに含ませておられるのである。この平素の態度から観察しても、聖人がもしさる名流の後であるならば、その多数の遺文の中には、何とか露われていそうなものでもあり、よしやしからずとするとも、その所生の父母を辱かしめてまでも、ことさらに旃陀羅の子なり、賤民の子なりと、繰り返して告白するの必要はなかった筈である。これはむしろ空也上人の如く、初めから何らその所出を言わぬ方がよかったのではないかと思われる。しかるにもかかわらず聖人がしばしばその所生の下賤を口にされたという事は、これ実に詐らざる告白であって、当時においてこれを隠慝する必要もなく、またこれを隠慝し得難いまでに、世間公知の事実であった為ではなかろうか。少くも聖人にその素姓を尊からしむるの意思のなかった事は、最も明白な次第である。したがって後人が強いて種々の付会をなして、世人をしてこれを疑わしめるような系図を誇張することは、これ実に聖人の真意に背くものであるのかもしれぬ。
果してしからば聖人のいわゆる旃陀羅とは、そもいかなるものであったであろう。
日蓮聖人が聖武天皇の後胤だとか、三国氏の出だとか、はた藤原氏の人だとかいうことが、しばらくことごとく信じ難いものとして、事実彼はいかなるものの子であったであろうか。聖人の多数の遺文の中には、上に引用したもののほかにも、その出生を書いたものが少くない。「妙法比丘尼御返事」には、
日蓮は南閻浮提日本国と申す国の者なり。……日蓮は日本国安房国と申す国に生れて候ひしが、民の家より出でゝ、頭をそり袈裟を着たり。……
「波木井殿御書」には、
日蓮は日本国人王八十五代後堀河院御宇、貞応元年壬午、安房国長狭郡東条郷の生なり。
などあるものは、家柄についてあまり参考にもならぬが、「本尊問答鈔」に、
日蓮は東海道十五国之内、第十二に相当る安房国長狭郡東条郷片海の海人の子なり。
とあるのは、前引「善無畏三蔵鈔」に、「東条片海の
漁夫はすなわち
山人海人なんどが東西を知らず、一善をも修せざる者は、還つて罪浅き者なるべし。当世の道心者が後世を願ふとも、法華経釈迦仏をば打捨てて、阿弥陀仏念仏なんどを念々に不捨申は、いかがあるべからん。
と云っておるのである。これは聖人が大嫌いの念仏者を謗った言ではあるが、山人海人等が通例東西をも知らず、一善をも修せざる者たることは聖人自らこれを認めておられるのである。また浄土宗の開祖法然上人の晩年に際して、弟子法蓮房が上人入滅後何処を遺蹟とすべきやと問うたのに対して、上人の答えた語を「行状画図」に記して、「念仏を修せん所は貴賤を論ぜず、海人漁人が苫屋までも、皆是れ予が遺跡なるべし」と云われたとある。これまた海人を以て根本から賤しいものと認めて、そのためしに引いたのにほかならぬ。当時仏徒の見るところ実にかくの如くであったのである。事実殺生を悪事とするものは、魚を捕ることもまた悪事とせねばならぬ。仏の戒律を保つものが、漁捕の徒に親近すべからずと云ったのに無理はない。もし魚を殺すをも屠殺とすれば、海人も一種の屠者である。そこで屠者すなわち旃陀羅なりと解した当時において、聖人が漁家の子たることを旃陀羅の子なりと強く言ったのも、彼の性格としては無理からぬところである。
日蓮は事実漁夫の子であった。自ら旃陀羅の子なりと言われたからとて、世間のいわゆる旃陀羅すなわちエタとは同視すべからざるものである。ただ常に強い言いあらわしに慣れた彼が、自らさる名辞を用いられたが為に、後人をして真にエタの子なるが如く解せしむるに至ったのは、彼自身においては何ら痛痒を感ぜられぬとしても、これを嫌がる後の門流の人々に対しては、気の毒の感なき能わぬのである。
狩猟漁業は当時一般の仏徒の目からは確かに悪事であった。したがってこれに従事するものは確かに悪人と認められた。この意味における悪人往生の思想は比較的古い頃からあったとしても、それは一般仏徒から認められたのではなかった。これを主として済度されたのは親鸞聖人の一向念仏の宗旨であったが、自ら旃陀羅の子と呼号した日蓮聖人もまたこの方面の教化を怠らず、今においてなおいわゆる特殊部落の約八割は真宗に、残りの約二割が日蓮宗に帰依しているのをみても、聖人が漁家の子として自ら旃陀羅を以て任じ、その教化の手をさらに一般旃陀羅の上に及ぼされた事が知られるのである。旃陀羅の何者なるかを研究して、思いをここに致すにおいて、今さらに聖人の大慈大悲の広大なるに敬服せざるをえぬ。