日向路の五日はいつも良い月夜であつた。最初の晩は土々呂の海浜の松の蔭を、白い細かな砂をきしりつゝ、延岡へと車を走らせた。次の朝早天に出て見たら、薄雪ほどな霜が降つて居た。車の犬が叢を踏むと、それが煙のやうに散るのである。山の紅葉は若い櫨の木ばかりだが、新年も近いのにまだ鮮かに残つて居る。処々の橋の袂、又は藪の片端などに、榎であらうか今散りますとでも云ふやうに、忽然として青い葉をこぼし始め、見て居るうちに散つてしまふ木がある。土持殿の御支配の頃から、否々皇祖御東征よりも更に以前から、海に近い
南方の竜仙寺さんと謂つて尋ねて廻つたが、不思議と誰も知つた人には逢はぬ。そんな筈は無いのだ。内藤家の御祈願所の、随分名の有る法印さんだと聞いて見る。それならば野田の稲荷山の行者殿に違ひない。もう此辺には他に無いからと謂ふので、旭がさして来た松山の霜解けを、こつ/\と登つて見た。縞の着物に角帯の、髪は一寸も延ばした老人が、果して訪ねる谷山さんであつた。日向に移住して来て既に十七代に為る。本国は大和で谷山覚右衛門と云ふ人、土持家の盛りの頃に兵法の師範として、子息の重右衛門を連れて下つて来た。所領は山の麓の大貫村で、野田山に砦を構へ、稲荷は即ち其城内の鎮守であつた。世中が改まつて内藤氏の藩が出来た時、只の臣下で居る代りに山伏に為つてしまつたが、それでも火事に遭つてこの山上に移つた父の代までは、大貫の元の屋敷に引続いて居たさうである。稲荷大明神の右手には広い平地が有つて、其中央に井戸がある。之を前に取つて今の住居が、背戸を谷間に臨ませて、幽かながらも城地の俤を遺して居る。明治五年に修験の職は廃せられたが、関東諸郡の山伏のやうに、神主やたゞの農家に為らうとはせずに、作州津山の在から潰れ寺の名跡を買ひ、表向きこれを引移したのが竜仙寺で、土地の人もまだ其名を知らぬ位である。以前の名は明実院、それを法印は御自分の名にして御座る。
鎮守の稲荷様は御寺だけに、

日向の延岡の近くに谷山さんの居らるゝことは、この深浦のひじりから聞いたのである。修験派独立の初期の運動に、東京は神田の電車の交叉点の近くで、全国の行人たちが大集会を催した事があつた。其所に兜巾鈴懸の昔のまゝの姿で、期成同盟に馳せ加はつたのは、竜仙寺の法印一人であつたさうだ。自分の寺は旧藩公の時代から、此行装で寺禄を食み祈祷を仰せ付かつて来た。世間を憚かるべき道理はないと、立派に言切つて居られたと謂ふが、自分が話をして見た感じでは、海浦さんと同様小児よりも無邪気で、些しも山伏一流の高慢な様子などは無かつた。
それとは反対に寧ろ寂莫たる陰影が有つた。津軽の御寺でも二三年前に、自分等より大分若い篤学なる嫡子を亡なつた。次男は絵などを描く人である。さうして同志と為る弟子たちが少ない。自分は日向へ来てこの気の毒な話をすると、しきりに谷山さんの顔の色が曇つた。実は私の方でも相続させる積りの倅が死にました。その次は実業の方に居る為に呼戻しもならず、十五に為る孫を是から仕立てることになつたとある。其少年は今戸口に立つて、いつまでも帰る自分の後影を見て居るのがさうらしい。自分は旅人だから、勿論ずん/\往つてしまふ。しかもこの閑かな山の寺の人々とても、やはり亦世中の道をあるいて居て、一つ処に永くたゝずんでは居られぬのである。