大観さん、と生前どおりに呼ばせていただく。
ふりかえるとその人の画業と姿は、大観えがく群峰中の一高峰そのままな存在だった。偉大だったの一語でつきる。
大観さんと親しくお目にかかったのは、あれはもういつ頃だったかもよく思い出せない。たしかぼくは「親鸞」を地方五紙に連載中でその挿絵を担当していた美術院同人の山村耕花氏などと池ノ端の一亭で一しょになったのが初めてではなかったかしら。まだあの特色のあるもじゃもじゃな頭髪も若々しく、もちろん酔語放談の調子は老画学生そのものだったし、初対面からおたがいにずいぶん言いたいざんまいを言いあって夜を更かした記憶がある。
そのとき聞いたのか、後の話だったか。『わたしゃあねえ、中学生頃から床屋さんには行ってないんだ』と、あの長髪をなでながら話された。『学生頃ね、上野山下のある床屋へ行ったんですよ。紺ガスリの田舎ッぽうと見てか、ひどくいけぞんざいにこの頭をバリカンであしらわれましてね、ぶじょくを感じたんでしょ、よし、一生理髪屋にはゆかないぞ、ときめてね』と、それを生涯通したらしい。こういう一徹一念は大観画譜の初期から晩節までをぴいんと曲折なくつらぬいているものである。
稀れには私の作品などを読むらしく、ご自身の方がずんと高齢なのに、私の不健康などを人づてに聞き知ると、よく自身愛用の秘薬というのをとどけてくれたり医師治療師などを紹介してよこしたりした。また宮本武蔵の読後感をあの筆不性な筆で長々とかいてきたのを、某百貨店で、武蔵展をやったときに展観に貸して、それが一夜で紛失した事件などもあった。そんなときも関係者が詫びに行くとらいらくそのもので、謝罪に行った人々が酔っぱらって帰って来たなどの報告をうけたりした。しごく人情もろい人であった。そのくせ古武士さながらのあの風貌と気節は、明治初年生れの年輪どおりもっともよい意味での明治人の象徴であった気がする。
いちどは、築地の新喜楽で一しょになり、その頃そろそろ、酒と湯とを半々にして飲んでおられたが、その席へ私の家から電話があって、長女の安産を知らせてきた。すると大観さんが、この場へ吉報があったのは御縁だから、その赤さんの名はわたしが付けるといい出された。しかし酒興の事だしとこちらさえ忘れていると、お七夜の朝、水ひきを掛けた一紙の絵がとどけられた。それに画題を
それなのにこちらは常々気にはかけていても、ぶさたしていた。いま思うと、さきおととしの昭和三十年の四月、松屋でひらかれた「横山大観米寿記念名作展」でお会いしたのがさいごになった。その折、主催の朝日新聞社の企画で、社の遠山孝氏が見え『大観さんの方でも会いたがっておられるし、吉川さんとならやってもいいと仰っしゃってるから、ぜひおふたりでテレビの対談をしてくれませんか』とのことだった。それは私にしてもよい折と思ったので快くひきうけた。
もとより大観さんのテレビは前後それ一回だったし、私にも経験はない。まだテレビ撮影は一般にも物めずらしかった初期である。入場者が見え初めるとこれは人だかりで撮影もできまいという懸念から、それは何でも早朝の九時頃、会場の茶室風な小間で卓に向いあった。ところがまず初めるまえに大観さんの手は『まあ一杯』と、卓上の番茶どびんから私の茶碗へ波々と一杯注いでくれた。それが容器は番茶どびんだが中味は翁愛用の銘酒酔心の冷やなのであった。『例のお
大観さんは日頃の食事も小鳥の餌サぐらいしか食べない方だし、私もその朝は胃に物をいれていなかった。だから二人ともテレビ係りのさしずなどはそっちのけで、談話の途中からすっかり酩酊ぎみだった。唯そのおかげでは、めずらしい事に大観さんがおはこの“
日本画壇はこれで一応の一と時代をはっきり過ごした。靫彦氏や青邨氏らの感慨もどれほどかと思いやられる。だが日本美術院の光彩は画史上に永遠な業蹟をたしかにのこした。横山大観氏の死はその点で死を意味しない。偉大な
米寿記念のときのテレビは、そのコッピーが保存されたらしく、そのご私もどこかで見たが、あれほど対談中に飲んだかに思われた大観さんが、テレビの画中ではじつに泰然たる座容をすこしもくずしていないのにひきかえて、私の酔った不ざまさは何とも自分で見ていられない恰好だった。しかしその恥をしのんでも、いつかはあのテレビから流れ出る“谷中鶯”をもう一ぺん酔わない耳できいてみたい。そしたら、大観氏ついに亡し、といま電話をうけて痛惜に打たれたことも、逆に、大観さんやはりあなたは稀れな幸福人でしたなと、あなたも好きな、もっとあッさりした正直なお別れの念が胸底からわいてくるかも知れぬ。
(昭和三十三年)