「錢形の親分さん、お助けを願ひます」
「何だ/\」
後から
「何處か斬られなかつたでせうか、いきなり後ろからバサリとやられましたが――」
「大丈夫、紙一枚といふところで助かつたよ。ひどいことをする奴があるものだね。辻斬にしちや不手際だが――」
平次はさすがに、斬口の
「辻斬なら仔細は御座いませんが、――この間から、時々こんなことがありますので、油斷がなりません」
男は眞夏の夜のねつとり汗ばむ陽氣にも拘はらず、ぞつとした樣子で肩を
「そいつは物騷だ。命を狙はれちや、いゝ心持のものぢやあるめえ。――送つて行つてあげよう。お前さんの家は何處だえ」
「横山町まで參ります」
「横山町?」
「遠州屋の者で」
「遠州屋は
平次は
「
「それぢや、能役者をしてゐた好い男てえのはお前さんかい」
ガラツ八の八五郎は、ツケツケしたことを言つて、金之丞と名乘る男の顏を差しのぞきました。
「お耻かしいことで御座います」
「耻かしがることはねえが、命なんか狙はれるやうぢや、好い男に生れつくのも考へ物だね」
と八五郎。
「安心しろよ。手前なんかは、生れ變つたつて、
平次はツイ口を容れました。金之丞の恐れ入つた調子と、それに對照して、八五郎のトボケた調子が、たまらなく平次の
「お蔭樣でね」
「怒るなよ、八。その方が無事でいゝぜ」
平次は
「全くで御座います、親分さん。命を狙はれるのが、こんなにイヤなものとは、思つても見ませんでした。二階から突轉がされたり、知らない人から喧嘩を吹かけられたり、
「そんな物騷な身體を、なんだつて
平次の調子は少し腹立たしさうでした。辻斬りと
「いやなことばかり御座いますので。明神樣へ七日間の日參を心掛けました。――今日滿願といふ日、意地の惡いことに、朝から客と用事が立て込んで、どうしても出られません。今考へて見ると、それも私を狙ふ者の細工だつたかも知れませんが、兎に角、身體が明いてホツとしたのは、
「――」
「お詣りを濟まして、
「――」
「親分さんをお見かけした時は、本當に夢中で飛付いて了ひました」
「こんなに暗いのに、よく私といふことが判つたね」
「それはもう、助かりたい一心で――」
そんな話をしてゐるうちに、三人は横山町の遠州屋の前に來て居りました。
「お禮と申しちや何ですが、お茶でも入れて、ゆつくり申上げたいことも御座います」
しきりに引止める金之丞の手を振り切つて、平次とガラツ八は夜の街を家路に引返しました。
翌日は、金之丞は手土産を持つて平次のところへ顏を出しましたが、さすがに身に
「これからのこともあるだらうから、自分に
ガラツ八は見兼ねていろ/\
「いえ、人樣を疑つてはすみません。親分さんが蔭ながら付いて居て下さると解れば、どんな者だつて滅多に手を出しやしません」
金之丞はたしなみ深く口を
それから三日目。
夏の凉みの賑ひも今宵あたりは頂上と思はれる晩、平次はお靜やガラツ八を相手に、縁側へ
「親分さん、た、大變なことになりました。直ぐ御出で下さるやうに――と、金之丞樣からのお願ひで御座います」
六十
「大變なことと言ふと、金之丞といふ好い男が
とお先つ走りのガラツ八。
「いえ、お内儀さんが花火を見て居なすつて、屋根の上の物干から落つこちなすつたんで――」
「それぢや
「
「何? 手摺を越して落ちた、――怪我は?」
平次はもう立ちかけて居ります。
「お氣の毒なことに金之丞樣が駈け付けて、いろ/\介抱なさいましたが、軒下に積んだ
「さうか、――そんなこともあるだらう。遠州屋には惡いことが起りさうだと思つて、この二三日氣を付けて居たが、到頭やりやがつたか。八、大急ぎで行つてみよう」
「へエ――」
三人は
「あツ、親分さん」
金之丞は早くも二人を見付けて、救はれたやうな聲を出しました。
誰に案内されるともなく入つて見ると、すつかり息の絶えた遠州屋のお内儀お安の死體は、奧の一間に運び込まれて、血汐を拭き
「變死に違ひありませんから、お役人方や親分さんの見えるまで、手を付けちやならないと申しましたが、支配人の佐吉が聽き入れません。――物干から落ちて亡くなつたのは、外科が言ひ開くだらう――此方から望んで
金之丞の言葉を聽きながら、平次は女共を
四十前後といつても、
「おや?」
平次は一寸眉を
「私が駈け付けた時は、石を枕にして、横つ倒しになつて居りました。何分石の多い所で、――一應見て置いて下さいませんか、素人の私にも、
女のやうな物優しい口をきく金之丞は、恐る/\平次の頭をのぞきます。
「何? 岡つ引を呼んで來た。飛んでもねえ、誰が、そんな細工をしやがつたんだ。
「シツ、六さん、聲が――」
隣の部屋で無遠慮にわめくのを、若い女が一生懸命止めて居る樣子。それが手に取る如く聞えるので、金之丞は立つたり坐つたりして居ります。
「金之丞さん、あれは?」
「へエ、親分さん、少し醉つて居るやうですから、御聞捨を願ひます」
「品川へ
「へエ――」
「親分さん、外廻りを御覽下さいませんか、土藏と
バツの惡くなつた金之丞は、六郎の不遠慮な
「いや、物干から先に見せて貰ひませう」
「それぢや」
平次とガラツ八は、金之丞の後について二階へ昇りました。
「あの娘さんは?」
「お里と申します。亡くなつた叔母の妹で」
「成程、好い
「飛んでもない。――そんな話もないぢやありませんでしたが、二人はどうも
金之丞は大急ぎで平次の口を封じました。
二階へ昇ると、支配人の佐吉が、駈け付けた分家や親類の人と應對して、何やら重大さうに囁いて居ります。見たところ四十七八、立派な
「錢形の親分さん、――飛んだ御苦勞樣で。なアに、物干の
支配人の佐吉は、さけがに
「番頭さん、その通りですよ。私も疑つてなんか居ませんが、金之丞さんがあんまり騷ぐから、手摺の工合だけでも見て置かうと思つてネ」
と平次。
「それはもう、どうぞ御覽下さいまし」
「ところで番頭さん、お内儀さんが物干へ上がつた時、側に誰がゐなすつたえ」
「お里さんが附いて居ましたが、一寸用事を思ひ出して、
「二階には?」
「私と、六郎さんが居ましたが、私はこの部屋で、六郎さんは縁側から花火を眺めて居たやうで御座いました」
「すると、物干に居るお内儀さんを突き落せるのは、六郎さんとお里さんと、お前さんと三人だけといふことになるネ」
「へエ――さう仰しやればその通りですが、親分さん」
「まアいゝ。誰も、番頭さんが突き落したとは言やしない」
平次の言葉の裏に
「ところで、お内儀さんは
平次は改めて靜かに問ひかけます。
「女の四十二三と申しますと、よく頭痛や眩暈に惱まされる年頃で、お内儀さんもよく立ち
「そんなこともあるだらうね。ところで、お内儀さんが落ちた時、聲を出した筈だが」
「それはよく聞えました。アツと言ふと、どしん、と來ましたので、何をしたのかと縁側へ飛出すと、向うの縁側から、六さんが顏を出して居りました」
「聲はたつた一度きりだね」
「いえ、下へ落ちてからも又、きやつと言つたやうで」
「その通りだね、金之丞さん」
平次は後ろにしよんぼり立つてゐる金之丞を振返りました。
「へエ、落ちる途中で、聲を出したかもわかりません。兎に角、私が聞いたのはたつた一聲だけで、驚いて
「有難う、それぢや、物干を見せて貰ひませう」
平次とガラツ八は、縁側へ出ると、戸袋の後ろに取付けた段々を幾つか昇つて、思ひの外
屋根の端つこまで乘り出した造りで、下までは三間足らずでせう。三方にめぐらした手摺は丁度
「成程、これは可怪しい。殺されたんでなきア身投げだ」
と平次。
「物干から身投げつてことはないぜ、親分」
ガラツ八は鼻の下を長くして、物干の下、母家と土藏の間の狹い路地を見下ろして居りました。
「其處から飛降りてみな、八」
平次は妙なことを言ひます。
「下の
「
「二間半もあつちや、足を
それから平次は、
「八、提灯を借りてくれ」
「いえ、私が持つて參りませう」
金之丞は母家へ入ると、直ぐ提灯に灯を入れて持つて來ました。
「これは大變だ」
土藏の修復に使つた殘りで、大小二三十の石は、何の意味もなく積んでありますが、そのうちの幾つかは
「ひどいことをするぢやないか」
平次は獨言を言ひながら、尚も
「金之丞さん、死體を抱き上げたのはお前さんだね」
「へエ――」
「この足跡がその時のだらう。金之丞さんのでないと話が面倒になる。一寸足を合せて見て下さるまいか」
金之丞は不氣味さうでしたが、それでも素直に下駄を脱いで、深い足跡の上へ、自分の足を重ねます。
「おや? 金之丞さんの足より少し大きいやうだが」
「これや違ひますよ、親分」
提灯を振りかざしたガラツ八も、足跡と足との間に、かなりの隙間があるのに氣が付かずには居ません。
「これや
「これで御座いませう」
金之丞は三角石の側、半分血にひたつた足跡へ、自分の足を持つて行きました。成程それもかなり深く印されたもので、金之丞の足にピタリと合ひます。
「こんなことでよからう。――お内儀さんは物干から投落された。下手人は、大きい聲では言へないが、番頭の佐吉か、亡くなつた主人の
「へエ――」
平次はこんなことを囁くと、先に立つて、其處から一番近い下男部屋を覗きました。
「爺やさん、お前さん何とか言ひなすつたね。先刻は御苦勞」
「仁助と申しますよ。へエ、一生懸命駈けましたが、若い人の足には
平次の家から歸つて、もう四
「お内儀さんが物干から落ちた時、お前さんは此處に居たんだね」
「へエ、此處には居りましたが、入口は向うですから、見えません」
「聲位は聞いたらう」
「あツと仰しやつたやうですよ」
「落ちてからか、落ちる前か」
「落ちてからで御座います。ドシンと音がして、それからあツと、――恐ろしい聲で御座いました」
「よし/\、それだけ判ると大助かりだ」
「左樣で御座いませうか」
爺やは何となく奧齒に物の
「爺やさん、何か考へて居ることがあるやうだね。言つてくれないか」
と平次。
「いえ、何にも考へてなんか居りません」
「さうぢやあるまい。――この家で、主人とお内儀が死んで、
「
「それは判つてゐる、後はどうなるだらう、この大身代は」
「坊ちやまが御座います。尤もまだ五つになつたばかりですが――」
「
「六郎樣か、金之丞樣といふことになりませう、尤も永年勤めた、忠義な
「すると、儲かるのは、六郎さんか、金之丞さんか、番頭の佐吉さんといふことになるネ」
「飛んでもない、親分さん」
爺やはあわてて乘出しました。平次の後ろに、金之丞が
もう一度家の中へ取つて返すと、後取の徳太郎といふ五つになるのが、家の中の騷ぎに眼を
平次が佐吉に逢つて、二言三言、爺やに訊ねたやうな事を繰り返して、ガラツ八と二人遠州屋の裏口から出ました。
「大層遲くなつたな、八」
「
「お前の言ひ草ぢやないが、物干から身投をする者はないよ。だが、殺した證據は一つもないんだから檢屍にも及ぶまい」
「誰がやつたんでせう」
「それが判りや」
二人はそんな事を言ひ乍ら柳原へかゝらうとすると、後ろからヒタヒタと
「親分さん、ちよいと、お待ちなすつて」
いきなり聲を掛けました。
「爺やさん。お前さんが跟けて來るのは知つてゐたよ、何か言ひたいことがあるんだらう」
「へエ、お
仁助爺やは、ハアハア息を切り乍らも一生懸命でした。
「心當りがあるとでも言ふのかえ、爺やさん」
「心當りどころぢや御座いません、――泳ぎの御自慢な御主人が
「フーム」
「物干から御内儀さんの身體を
爺やは意氣込みました。その言ふことは一と通りも二た通りも條理が立つて、さすがの平次も承服しないわけには行かなかつたのです。
「親類方や分家の主人などは、六郎の後見を承知するだらうか」
これが殘る
「承知するもしないも御座いません。少し厭な顏をしても喧嘩を吹つかけられます。あの六郎さんといふ人は
「それぢや、後見人になつたところで、
「ところが、不思議なことがあるもので、坊つちやんは、荒つぽい六郎叔父さんが大好きで、叱られても、時々はからかひ半分に打たれても、あの恐ろしい叔父さんへばかり付いて居ります。
仁助爺やの言ふ事は豫想外なことばかりです。
「お里とかいふのは、何んな事を考へてゐるんだ」
「若い女の心持などは私に
「
「よく存じませんが、
「成程、さうしたものだらうな、爺やさん有難う、お蔭でいろ/\の事が判つたやうな氣がするよ」
平次は爺やをなだめて歸すと、ガラツ八を促して、默々と家路を急ぎました。
平次はそれから二三度遠州屋へ行つて見ました。仁助と金之丞はいろ/\親切にしてくれますが、六郎をはじめ、佐吉もお里も、店の者も白い眼を見せるので、
一方、遠州屋の空氣は、何時からとなく、はつきり六郎に
一つは、商人の家の空氣の中に住むと、六郎は全く始末の惡い存在で、その荒々しい氣風と、喧嘩早い
やがて、主人を海へ沈めたのも、お
初七日が濟んで直ぐ開いた分家や親類方の相談で、六郎は此家から立退いて貰ふこと、後取には相違なく徳太郎を直し、十七歳になるまでは、
これは大勢の力で押し切つたことで、六郎はカンカンに腹を立てましたが、どうすることも出來ません。
越えて三日目。
「親分さん、坊ちやんが見えなくなりました。お願ひですから
遠州屋の死んだお内儀の妹、若くて美しいお里が、泣きながら平次の家へ飛んで來ました。
「それは大變だ、心當りは探したらうな」
草履を突つかけ乍ら、平次。
「お友達の家は申すに及ばず、御近所から、親類方を殘らず
「何時から見えないんだえ」
「
「晩飯は?」
「頂かせました」
「
「え」
「坊ちやんが一番嫌つて居るのは誰だい」
平次は妙な事を訊きます。
「金之丞さんで御座います。あの方は外へ出ると土産を山ほど買つて來て御機嫌を取りますが、どうしてもなついてくれません、――商人もたしなみだからと言つて、
「そんな事もあるだらうな、――ところで、一番坊ちやんのなついて居るのは?」
「私で御座います」
お里は、
「それは間違ひもあるまい、その次は」
「さア――」
お里は言ひ
「遠州屋から退轉した六郎のところを搜したらうな」
「それが、
困惑が美しい顏を曇らせます。
「六郎が坊ちやんを手なづけて困る、――と店中の者が言つてゐたぜ。劍術ごつこや喧嘩や勝負事は、子供には
平次はガラツ八を
「親分さん、――六郎さんは、そんな惡い方ぢや御座いませんが、私は反つて、あの番頭さんが」
「何?」
「いえ、何でも御座いませんが、六郎さんは、坊ちやんを
「お前さんも六郎組か、そんな事もあるだらう」
平次は大して氣にもしない樣子で、兎に角お里と一緒に遠州屋へやつて行きました。
家の中は、お内儀さんが死んだ時よりも一段の騷ぎ。
「親分さん、何うしませう、あの子に間違ひがあつてはこの店が
金之丞はさう言ひ乍ら、本當に泣き出しさうです。
徳太郎の部屋といふのを見ると、成程お里が言つた通り
「これが皆なお前さんが買つてやつたのか。可愛がるのはよいが、子供にこんなに澤山玩具を買つてやると、馬鹿になるぜ」
「へエ――」
「が、心配しないがいゝ、坊ちやんの命に別條はないよ、萬一のことがあると、後取りは親類方が分家から次男坊でも連れて來るだらうから、お前さんが疑つてゐる六郎だつて、大事の玉を殺すものか」
平次の言ふのは全くでした。後見人の位置や、この遠州屋の
「そんなものでせうか、親分さん」
金之丞も
一應
「親分さん、大變な事を見付けましたよ、今晩參ります。何處へも出ずに待つてゐなすつて下さい」
「――」
「下手人は判りました、動かぬ證據をお目にかけませう」
「シツ」
誰か立聽してゐる樣子に感付いて、平次は其儘裏口から外へ出て了ひました。
其日のうちに六郎の隱れ家が見付かりました。平次の見込通り、徳太郎は三河町の叔父の家で、劍術ごつこをして遊んで居るところを、ガラツ八とその又手下の
その時ガラツ八の八五郎は、六郎へ繩を掛けようとしたばかりに、
「何をしやがる、
六郎に暴れ出されて、大組打が始まり、六郎もガラツ八も少しづつですが怪我をして了ひました。
六郎は其處から直ぐ擧げられ、徳太郎は嫌がるのを無理に遠州屋へ引取られたことは言ふ迄もありません。
「何だつて六郎を縛つたんだ。つまらねえ事をしやがる」
平次はプリプリしましたが、今となつては何うすることも出來ません。
併し事情はその晩最後の
「八、――氣になることがあるんだ」
と平次、浮かない顏をして外ばかり氣にして居ります。
「何です、親分。六郎を
「いや、今晩此處へ來る筈の仁助爺やが來ないのが心配なんだ、――もう
「仁助爺やがどうかしましたか」
「どうもしなきアいゝが、――行つてみよう、行き違ひになつたら。此處で待つて貰ふとして」
平次はお靜に言ひ
行先は横山町の遠州屋。
「仁助爺やはゐるかい」
店から入つて訊きましたが、宵から誰も仁助の姿を見た者はありません。
下男部屋を見ましたが、其處も空つぽ。
念の爲裏口の方を探しに行くと、裏木戸の内、建物と板塀の間に
引起して見ると、
「あツ」
左の背中、
後ろから心臟をやられたのですから、多分聲も立てずに死んだのでせう。それにしても恐ろしい手練で、匕首を拔かなかつた
「この匕首は?」
平次は死體の背から刄物を拔いて見せると、五六人
「親分さん、やられました。それは私ので――」
恐る/\出たのは、青い顏をした金之丞です。
「本當にお前さんの品に相違あるまいな」
「へエ、間違ひ御座いません。さる御屋敷からの
「親分」
八五郎は懷の捕繩を
「八、早まるな、それほど皆なに知れて居る短刀で人を殺す馬鹿はない。おまけに、殺して二た刻も經つのに、その目印の刄物を拔かずに置くといふことがあるものか」
「へエ」
「これを見るがよい、これは誰のだ」
死體の側から拾ひ上げたのは、
「あツ」
今度は支配人の佐吉が青くなりました。
「
「イエ、へエ――」
何といふ
「八、これが出るのを待つて居たんだ」
「すると、親分」
「待て/\、早まつちやならねえ、――仁助爺やはお内儀さんを殺した相手を
「親分」
「俺も長い間お上の御用を聞いていろ/\の事に出つ會はしたが、こんな手數の掛つた、恐ろしい惡黨を見たこともねえ。八、よく見て置くがいゝ、俺は今
平次はさう言ひ乍ら、靜かに手を擧げました。その指の向く先にゐたのは、佐吉?
「それツ」
平次の指が向く前に、サツと逃出した男。
「野郎ツ」
八五郎は飛付いて、恐ろしい
「あツ」
何とそれは、あの女のやうに優しい
「今度ばかりは見當が付かなかつたよ」
平次は、二三日經つてから、つく/″\
「下手人はどうしても六郎だ、理詰に考へると、外に疑ひの持つて行きやうはねえが、五つになる子供が金之丞を嫌つてあの荒つぽい六郎になついて居るのが不思議でたまらなかつた。――大人は
「――」
「あんなに玩具を買つて來て、一生懸命御機嫌を取る金之丞より、叱つたり打つたりする六郎が好きだといふのは、子供は神樣のやうなものだから、人の腹の中まで見拔くんだね。俺は考へたよ」
「――」
「その六郎が縛られると、本當の下手人は爺や殺しの疑ひを直ぐ誰かに持つて行かなければなるまい。今まで六郎を疑はせるやうに細工をしてゐたんだから、筋書は又すつかり新しくなる。わざと自分の
平次の話は明快ですが、まだ八五郎には解らないところだらけです。
「遠州屋のお内儀を殺したのは誰でせう、あの時は金之丞は確かに
と八五郎。
「俺もそれが判らなかつたが、金之丞ではあるまいか――と疑つて居た。第一、柳原で俺達へ飛付いた時、あの闇の中で、不意に俺と氣の付いたのが
「なアる」
「羽織の背を切つたのも、刀で斬り下げたのではなくて、
「へエ、成程ね」
「それから、物干から遠州屋のお内儀を突落した人間は、お内儀に續いて、物干の柱を傳はつて飛降り、半分氣を
「――」
「お内儀は突き落された時と、石で頭を打たれた時と、二度悲鳴を擧げた。それは番頭の言ふ通りだ。上から落ちた勢ひで頭を打つて死んだものなら、落ちる音がしてから悲鳴を擧げたといふ爺やの言ふ事が
「――」
ガラツ八はもう口もきけないほど驚いて居ります。平次の明察は、あの時もうこんな事まで見拔いてゐたのです。
「金之丞は
「少し足跡の方が大きかつたぢやありませんか」
「二間半も高いところから飛降りるんだ、どんな身輕なものでも足元がよろける、足跡の方が少し大きくなるのは當り前だ。ピタリと合ふ方が不思議だらう」
「へエ――恐れ入つたね、親分」
「物干から飛降りて、半分氣を
「遠州屋の主人が
ガラツ八は取つて置きの疑ひを持出しました。
「あれは全くの
「親分、冗談ぢやねえ」
八五郎も、此時ばかりは惡い心持ではなかつたやうです。