深川熊井町の廻船問屋板倉屋萬兵衞、土藏の修覆が出來上がつたお祝ひ心に、出入りの
「あれまア、月が」
などといひながら、
九月十三夜の赤銅色の月が、洲崎十萬坪あたりの起伏の上に、夕靄を破つてぬツと出る風情は、まことに江戸も深川でなければ見られない面白い景色でした。
「成程こいつは良い。深川に生れて深川に育つても、こちとらの長屋の縁側からぢや、お隣りの物干が邪魔をして、こんなお月樣は拜めねえ」
棟梁の佐太郎は、主人萬兵衞と一緒に一本あけて、ホロツと來た樣子でした。氣性も身體も引緊つた四十男、そのくせお
おとくい先のお妾にちよつかいを出すのと、お月樣を拜むのとは、全く別な人格と意圖とに出ることで、一緒にやらかしても、一向良心に恥ぢないのが、この時代の
わけても佐太郎は、四十過ぎの分別者のくせに、好い男で浮氣者でもあつたのです。
「お月樣は明日の晩も出るよ、――さア、親方の好きな熱いのが來たぜ」
萬兵衞は後ろから聲をかけました。西に殘る
「へエ、相濟みません。折角の十三夜だから、揚幕から出たお月樣を褒めてあげなきや」
佐太郎はそんな下らない
「私は知つての通り酒が弱いから、とても親方と附き合つちや行けない、――ちよいと横になるから」
二本目の徳利から、一口呑みかけた
その時番頭の忠助は、燭臺を持つて下から昇つて來ました。これは三十五六の柄の大きい、ぽーつとした感じの男ですが、調子にはなか/\
「ちよいとお邪魔いたします」
忠助は縁に吊した三つの提灯に灯を入れて、フト主人の方を振り返りましたが、
「旦那、どうかなさいましたか。ひどくお顏色が惡いやうですが」
物々しく萬兵衞の顏をさし覗くのです。
「先刻から胸が惡くて叶はないよ。酒は親方と一本あけただけだが」
「あつしは何んともありませんがね。何んかお晝に召上がつたものでも惡かつたんぢやありませんか」
「さア、そんな心當りもないが」
主人の萬兵衞は、
その間にも萬兵衞は胸をかきむしつて苦しみ藻掻き、
不思議なことに早く苦しみ出した主人の萬兵衞は、散々吐いた後は落着いた樣子で、佐太郎が息を引き取つた頃は、起き上がつてその容體などを訊ねるくらゐに元氣づいてをりました。
萬兵衞の養子の幸吉は、自分で飛んで行つて、町内の本道石原全龍をつれて來ましたが、その時はもう手遲れで、佐太郎を助ける道はなく、一應萬兵衞の手當をして歸りましたが、
「佐太郎は
さういひ
「全龍先生を追つ驅けるのだ。忠助どん早く、――金で濟むなら――家から繩付を出したくない」
主人の萬兵衞は、苦しさを忘れて起き上がりました。
それから十日、
お勝手口へ來て、シクシク泣いてゐるのを、平次の女房のお靜が見つけて、なだめすかして訊くと、父親が殺されたに違ひないのに、食物の中毒で死んだことにされ、町役人も土地の御用聞も、取上げてくれないので、噂に聞いた錢形の親分にすがるつもりで、
「可哀想ぢやありませんか。表口から入るのを遠慮して、お勝手口で泣いてるやうな内氣な娘なんですもの。會つて話を聽いた上で、力になつてあげて下さい」
女同士の思ひやりから、娘の
「どうしたといふのだ、一應話して見るがいゝ。お前は父親が殺されたと思ひ込んでも、矢張り食
平次の態度は、いつもの通り消極的でした。側で聽いてゐるガラツ八の八五郎の方は、
お萩の話はたど/\しいものでしたが、根が悧發な娘らしく、父親の死んだ驚きの中にも、いろ/\の人の話をかき集めて、どうやらその夜の出來事を
「そいつは氣の毒だが、それだけぢや手のつけやうがない、――醫者はなんといつてゐるんだ」
檢屍が濟んで、
「でも、町内のお醫者の石原全龍樣が、最初石見銀山の毒死に違ひないといひながら、御檢屍のときは、お
「そんな馬鹿なことがあるものか」
八五郎は横合ひから口を挾みました。
「石原樣が、板倉屋からお金を貰つて、よい加減なことを申上げたに違ひないと、御近所の衆も申します」
「そいつは
八五郎はまたいきり立ちます。坊主頭に黄八丈の
「默つてゐろよ、八、――ところで、人を殺さうとするほどの大それたことは、
平次は靜かに訊ねました。
「――」
お萩は首をかしげました。が、娘心には、そんな恐ろしい
「お前にはわかるまいよ、――俺が出る幕にはまだ早い。八五郎をやつて、一應調べさして見よう」
「――」
お萩は不足さうでしたが、それでもさすがに、口には出しません。
「なア、八。お前が行つて持前の鼻をきかせるがいゝ」
「幇間醫者をうんと
八五郎はスタートに並んだ競馬馬のやうに
「そいつはお前の手には
平次のコーチはさすがに行屆きます。
お萩はこれ以上平次に頼むこともならず、お靜に慰められて、しを/\と歸つて行きます。涙が乾いて、興奮が納まると、青白く
「それぢや、行つて來ますよ親分」
その後ろから、懷ろを十手で突つ張らせた八五郎、照れ臭さうでもあり、嬉しさうでもあります。
「親分、困つたことになりましたよ」
あの張り切つて深川へ出向いた八五郎が、ぼんやり戻つて來たのは、それから三日目の晝頃でした。
「何を困つてゐるんだ。
錢形平次は相變らずの不精煙草です。
「財布なんか落したつて驚きやしませんよ。
「
「それなら、願つたり叶つたりで――實はね親分、肝心の娘が
「何時のことだ、それは?」
平次もさすがに驚きました。事件は決して單純ではあるまいと思ひましたが、あの娘が姿を隱したとあつては容易のことではありません。
「
「お前はどこにゐたんだ」
「八幡前の專次の家に泊つてゐると、
「今朝になつても出て來ないのか」
「へエ、さうなんで」
「縁起のよくねえことだが、殺された樣子もないのか」
「海も川も鼻の先だが、船を出して一と通り搜しても死骸は見えませんよ」
「お萩に男はなかつたのか」
「あのきりやうですもの、いひ寄つた男や、
「何を隱さう、八五郎もその一人だつてね」
「あつしはいひ寄られた方で」
「呆れた野郎だ。お前は長生きするよ」
「ところで、何んの話でした?」
八五郎は掛合ひ話に氣を取られて、話題を忘れてしまつた樣子です。
「あの調子だ、――お萩に男がなかつたか、それを訊いてるぢやないか」
「あの娘に夢中なのは、隨分澤山あるやうですよ。中でも首つたけの二人」
「誰と誰だ」
「板倉屋の養子幸吉と、佐太郎の弟子の久治。あの男はお萩と同じ屋根の下に住んでゐるわけだが」
「その二人は
「
八五郎の話が本當なら、お萩の行方不知に關することだけは、佐太郎の弟子の久治も、板倉屋の養子の幸吉も疑はしい節は少しもありません。
「ところで、お前の方の調べはどうなつたんだ。板倉屋と
平次は話題を變へました。三日前に八五郎を深川へやつたのは、お萩を見張らせるためではなくて、板倉屋の毒殺事件を調べさせ、佐太郎を殺した下手人を擧げさせるのが目的だつたのです。
「困つたことに、それが少しもわかりませんよ。板倉屋の主人萬兵衞は年甲斐もなく
「拔け荷か」
「それに女癖の惡いことは深川一番で、妾のお常なんかどこの馬の骨ともわかりやしませんよ。いかもの喰ひの萬兵衞が、
「大變な女だな」
「養子の幸吉は意氣地も働きもないのを取柄で貰はれて來たやうな男で、養父の萬兵衞との仲はあまり良くありません」
「番頭の何んとかいつたのは」
「忠助ですか。ノツソリしてゐる癖に、恐ろしく慾の深い男で、馬鹿見たいな悧口者ですね」
「それつきりか」
「醫者の石原全龍坊主は、思つたほどの大藪ぢやありませんが、そのうちに公儀から召出されて
「ところで、殺された
「佐太郎の妹で、出戻りの四十女。お紺といふ、ちよいと色つぽい中婆さんですがね。こいつは、江戸一番の
「久治は?」
「これは好い男ですよ。氣前がよくて
「大層褒めるぢやないか、まさか一杯おごられたわけぢやあるまいな」
「冗談で、――おごつたのはあつしの方ですよ、醉はして置いていろ/\聽かうと思つたが、なか/\口を割りません」
「よし/\、そんなことで澤山だ。お萩はいづれどこからか出て來るだらう。少し氣ながに見張つてゐるがよい」
「親分は?」
「俺は外に御用がある。大急ぎでそれを片づけて、明日、――遲くも明後日は行つてみる」
「さうですか」
「お萩を搜すのは、張合ひのある仕事ぢやないか。不足らしい顏をするな」
平次にからかはれながら、八五郎はまた深川へ取つて返しました。が、
平次はその翌々日の朝、ようやく身體の明いたのを幸ひ、八五郎との約束を果す氣になりました。
深川の熊井町に着いたのはもう
「あ、親分、大變なことになりましたよ。今明神下まで飛んで行かうと思つたところで」
八五郎は鐵砲玉のやうに板倉屋の店から飛び出しました。
「どうした、八。借金取りにでも會つたのか」
「そんなつまらねえ話ぢやありませんよ。こちらへ來てみて下さい」
八五郎は平次の手を引いてグングン川沿ひの庭の中へ入つて行くのです。
「どこへ行くんだ」
「これですよ、幸ひまだ檢屍前だ。川から揚げて半刻も經つちやゐません」
裏木戸寄りの凉み臺の上に水死人を載せて、さすがに
「これは?」
「板倉屋の主人ですよ」
色好みで金儲けの上手だといはれた、板倉屋萬兵衞が、水死人になつて、自分の家の數寄を
「首筋から肩へかけて、大變な傷があるぢやないか、――それも生きてゐるうちに、
平次は萬兵衞の死骸を丁寧に調べてをります。商人らしく地味な
「でも、溺れて死んだには違ひありませんね。廻船問屋でもしてゐるくらゐで、泳ぎは自慢だつたさうですが」
「これだけの傷を受けちや、少しぐらゐ水の心得があつたところで、自由に泳げまいよ」
「ところで不思議なことがあるんですがね」
「何んだ」
「死體の着てゐる單衣の
八五郎は懷中紙の間から、小型の
「この櫛は誰のだ」
「誰のともわかりませんよ。まだ見つけたばかりで」
「いづれわかるだらう、――こいつは飛んだ證據になるかも知れないよ」
平次は死體から離れると、板倉屋の家の
さすがに見事な構へで、二階座敷が大川へ乘り出してゐるところは、十何日か前の晩に、
塀の外の道は僅かに一間足らず、ろくな
土藏と土藏の間に大きな物置があり、覗くとその中には、船の道具が雜然と並べてあります。
「八、これをどう思ふ」
平次はその奧の方から
「先の方が濡れてゐますね」
八五郎は尤もらしく顏を寄せます。物置の奧に入れてある棹が、心持濡れてゐるのは不思議ですが、八五郎にはそれ以上のことはわからない樣子です。
「
「あツ」
この邊りでは滅多に使はない、鐵の石突の着いた
「人にいふな、
「へエ」
平次は外廻りはそれくらゐにして、家の中へ入ると、先づ妾のお常を呼び出して貰ひました。
「昨夜のことを
平次は六疊の縁側にかけたまゝ、遠く主人萬兵衞の死體を見ながら、かう始めるのでした。如何にも氣の置けない態度です。
「
「確かに燃えきつてはゐなかつたのだな」
「新しい
この女は恐ろしく無智らしい癖に、妙に行屆いたところがあります。
「夜の見廻りは丁寧で、どうかすると半刻もかゝることがありますが、それにしてもあんまり遲いので、
「その前には誰も外へ出なかつたのか」
「これは主人を搜しに出たわけではありませんが、番頭の忠助どんが、――外で人聲がするやうだと、裏木戸を覗いた樣子でしたが、――なんでもない――といつて四半刻ほど見廻つてから歸つて來ました。
「それから」
「一と晩大騷ぎをしましたが、なんにもわからず、たうとう朝になつてしまひ、八五郎親分も來てくれましたが、晝近くなつて、あの通りの姿で
お常はそれでも涙を拭く眞似などをしてをります。
「お前とは仲が良かつたことだらうな」
平次の問ひは唐突でした。
「いえ、――近頃は喧嘩が絶えませんでした。どうかしたら私は近いうちに追ひ出されたかも知れません」
この女は恐ろしく正直です。が、考へて見ると仲が良かつたといつたところで、誰もそれを保證してくれる筈はなく、どうせ仲の惡さが知れるものなら、自分の口から正直にいふ方が、
「主人を怨んでゐるものはなかつたのか」
「飛んでもない。太つ腹な良い人でしたもの」
お常は強く否定します。
「この
平次は八五郎から受取つた、死體の袂にあつたといふ
「いえ、少しも」
お常は極めて自然に無造作に頭を振ります。
養子の幸吉は小柄で一應は小才がきゝさうですが、こんなのは案外正直で、世間並で平凡過ぎる人間かもわかりません。
養父の萬兵衞と仲の良くなかつたことは、本人の幸吉も
「お萩が
「番頭と帳合に忙しくて、夕方から一歩も外へは出ません。忠助どんに訊いて下さい」
「その時主人はどこにゐたのだ」
「土藏の中でせう」
「何?」
「大きい方の土藏の中を修復して、書畫
「それはどういふわけだ」
「金銀などを扱ふから、人には見せたくないといつてをりました。あの晩も多分そんな片付けをしてゐたのでせう――
「近頃はすつかり元氣になつてゐたのだな。毒を呑まされたといつたが――」
「佐太郎親方はすぐ死にましたが、親父は翌る日はもう元氣になつてをりました」
「ところで、もう一つ訊きたいが」
「――」
平次は少し改まりました。
「お前は、お萩をどう思つてゐた?」
「どうといつて」
幸吉はパツと赤くなりましたが、そのまゝウヤムヤに言葉を
次に會つたのは番頭の忠助でした。よく肥つた三十五六の男で、愛嬌のある顏、要領の惡い口調、一應はボーツとしたやうに見えて、思ひの外
「幸吉と父親の仲が惡かつたさうぢやないか」
「――」
「それにはわけがあるだらう。お前は知つてゐる筈だが」
平次の言葉には、なか/\掛引がありました。
「よく存じてをります。つまらないことですよ」
「つまらないことゝいふと」
「若旦那が、
忠助の言葉は妙に皮肉でした。
「主人を怨む者は他になかつたのか」
「あるわけはありません。あの通りの太つ腹で、奉公人も出入り職人も隨分
「大層なことだな、――ところで、お前がこゝへ奉公して何年になる」
「たつた二年で――まだあの土藏の中へも一人では入れてくれません」
「板倉屋は拔け荷を
「飛んでもない親分、そんなことがあるものですか」
「ところで、お前はなにか知つてると思ふが、例へば棟梁の佐太郎が死んだ晩、酒の
「主人は酒がやかましくて、決して人に燗を任せませんでした」
「呑み殘した酒は調べたことだらうな」
「毒死でないと決つたので、殘つた酒はみんなで頂いてしまひましたが、中毒を起したのは一人もありません。――もう十二三日も前のことですが」
忠助のいふことにはなんの不思議もありません。
「ところで、お萩の行方不知になつた時、なにか變つたことに氣がつかなかつたか」
「なんにも氣が付きません」
「
「それを申上げようかどうしようか、迷つてをりました」
忠助は
「とも角いつてみるがいゝ。主人が死んだといふ大事な時だ、つまらねえ遠慮をして、下手人を逃がしてはなるまい」
「では思ひきつて申上げませう。――昨夜
「なに?」
「丁度私が裏木戸へ行つた時、なんか川へ落ちたやうな、大きな水音がしましたが、覗いて見ると、
これは重大な證言でした。平次は默つて八五郎を振り返ると、心得た八五郎は獵犬のやうに、
「お前は川を覗いては見なかつたのか」
「まさか主人が落ちたとは氣がつきません。石でも投つたことと思つて、そのまゝ家へ入つてしまひました。――へエ外にゐたのはほんの一寸で」
「もう一つだけ聽いて置きたい」
「――」
「
平次の態度は容赦のないものでした。
「主人が苦しみながらも、全龍先生に百兩も握らせるやうに申しつけました。私は追つかけてその通りする外はなかつたのです」
忠助はかういひきるのです。主人萬兵衞が死んだ今となつては、最早遠慮する必要もないと思つたのでせう。
平次は八五郎の後を追つて棟梁の佐太郎の家へ行きましたが、肝心の久治は朝からどこかへ行つて歸らないさうで、八五郎はお萩の叔母のお紺と押問答の眞つ最中でした。
「留守なら、お前は暫らく見張つてゐるがよい。ところでお紺さん、この
平次は例の髮の毛を巻いた
「あ、どこにあつたんです。これはお萩が湯へ行くとき持つて行つた、あの
四十前後、出戻りの叔母のお紺は、名代の
「八、いよ/\大變なことになつたぞ」
「何が大變です、親分」
「もうひと息だ、――ね、お紺さん。これは大事のことだが、久治はお萩に夢中だつたんだね」
「それはもう親分さん、はたで見てゐても、痛々しいやうでした。あの
「ところで、板倉屋の主人の萬兵衞は、お萩を奉公に出せとか何んとかいつたことなどがあるだらう」
「さうですよ、あの助平爺いがお萩を可愛がつて、――嫌らしいことはしないし、
「それつきりか」
「板倉屋の旦那は夢中で、お常さんを出してもいゝとまでいふんですつて。でも兄もさすがに首を縱に振り兼ねて、愚圖々々してゐるうちにあんなことになつてしまひました」
お紺の話で、事件にまた新しい面が開けた樣子です。
「八、こゝは頼むぞ」
平次はそんなことにして、町内の醫者、石原全龍の家へ飛び込んだのです。
「何? 錢形の親分が來た」
庭先に飛び込んだ平次を、大坊主の全龍は、尤らしく縁先に迎へました。
「全龍先生、人間の命二つ三つに
「何を打ちあけろといふのだえ、親分」
全龍は縁側に片膝を突いて、少し
「あつしは先生をどうしようといふ氣で來たんぢやありませんよ。ね、全龍先生。
「それを私が知つたことか。冗談ぢやない、――それだけの用事なら歸つて貰はうか、親分」
全龍は以ての外の口振りです。
「ぢや、訊きますが、――佐太郎が死んだ晩、主人のいひ付けで、番頭の忠助が百兩の金を先生に渡した筈だ。あれはどういふわけで――」
「――」
「こいつを申立てると、先生の立場はイヤなものになりやしませんか」
「いや、さうまでいはれては仕方がない。實は、棟梁佐太郎が死んだのは、あれは
石原全龍もいや/\ながら打ちあけるのです。
「主人も同じことで」
「いや、主人の萬兵衞は違ふ。主人の容體は砒石の中毒ではない。だから私は表沙汰にしなかつたのだ。砒石の中毒はあんな手輕なものではない」
「それは?」
「主人は唯
石原全龍は思ひも寄らぬことをいふのです。
「そんなに吐かせる藥はあるでせうか、先生」
「
「――」
平次はこの間に合せの
「親分、これはどうしたことです」
久治は平次の顏を見るといきなり救ひを求めるのです。
「八、手を放すな、――おい久治、お前は
「板倉屋の
「なんだと」
「お萩ちやんを隱したのは、板倉屋の親爺に違ひないと思つて、あの岸縁をブラブラしてゐるとあの萬兵衞の※[#「けものへん+非」、U+7305、237-7]々爺が、裏木戸から顏を出して、
「お互ひの姿は見えたのか。月はなかつた筈だが」
「水明りで、結構相手の樣子がわかりましたよ。川を後ろに
久治の話にはなんの
「ところで、お前はあの邊へ時々行つたことがあるのか」
「飛んでもない、板倉屋の裏口ですよ、お萩ちやんのことでも心配しなきや、あんなところへ行くものですか」
「木戸の内に物置があつた筈だが――」
「あつたかも知れませんね」
久治から訊くことはそれで全部でした。が、平次は何を思ひ出したか小戻りして、
「
妙なことを訊くのでした。
「大きい方の土藏の中に、なにかむづかしい
「それで解つたよ。八、來い」
「どこです、親分」
平次は八五郎をつれて、板倉屋へ取つて返したのです。
「八、あの野郎だ」
平次の指さしたのは、裏木戸のあたりをウロウロしてゐる番頭の忠助でした。
「あ、何をしやがるんだ」
八五郎はもんどりを打たせられました。忠助は思ひも寄らぬ腕達者だつたのです。
が、續いて飛びついた錢形平次は、さすがに
「この野郎」
その頭を押へて小突き廻したのは、投げられた
「畜生、俺は縛られるが、その代りお萩は死ぬぞ」
平次の膝の下に忠助は齒を
それは實に恐ろしい
「お萩のゐるところは、この俺が知つてるだけだ。俺が口を割らなきや、お萩の命は今日一日保つめえ。ざまア見やがれ」
「野郎」
八五郎はカンカンに腹を立てますが、大事な鍵を握られてゐるらしいので、どうにもなりません。
「八、驚くな。俺には見當がついてゐる」
平次は案外落着いてをりました。
「どこです、親分」
「あの大きい土藏の中だ。鍵はこゝにある。この番頭野郎が持つてゐたんだ、――お前が行つてもむづかしい、――久治を呼んで來い。餅は餅屋だ。あの男なら、死んだ
「よしツ、見てゐろ」
八五郎は棟梁の家へ飛びます。
久治をつれて來て、土藏の中へはいりましたが、その中に拵へた隱し戸棚を見つけることは容易でなく、それを開けるのにまた久治と平次は智慧を
ざつと一刻ばかり。ようやく開けたのは、土藏の一方の壁に造つた秘密の戸棚で、その中から出てきたのは、
珠玉、細工物、ギヤーマン、
この隱退藏物資の山の奧に、半死半生の姿で、美しいお萩は隱されてをりました。
「お萩さん、助かつた。錢形の親分のお蔭だ」
久治は飛び込んで
× × ×
事件が落着してから平次は、相變らず繪解きをせがむ八五郎に、かう話して聽かせました。
「板倉屋の萬兵衞は、あの拔け荷の隱し場所に困つて、
「へエ、恐ろしい
「萬兵衞は佐太郎を殺して、あの若くて可愛らしいお萩を手に入れたかつたのだ。その上、妾のお常が佐太郎に氣のあるのが
「お萩を
「矢張り主人の萬兵衞だ。お萩の湯の歸りを誘つて、半分は力づくで土藏につれ込み、隱戸棚に入れて、氣長に
「その萬兵衞を殺したのは、久治ぢやなかつたのですね」
「久治は良い男だ。最初から人などを殺す氣はないが、――自分を川へ突き落さうとして萬兵衞があべこべに川へ落ちたのを見て、少し良い心持になつて歸つたことだらう、――番頭の忠助は木戸のところでそれを見てゐた。主人が岸へ這ひ上がらうとした時、
「へエ」
「それは忠助のいつたことでわかつたよ」
「あの男は人聲がしたので裏木戸から覗いたといつたらう。その時、水音がして誰か町の方へ逃げて行つたといつた――その時はもう久治はゐなかつた筈だ――
「惡い奴ですね」
「あんな惡い奴はないよ。土藏の隱し戸棚のことは主人と仲の惡い養子の幸吉は知らないから、お萩を手に入れた上、あの拔け荷をそつと取り込むつもりだつたらう」
「成程ね」
「久治は良い男さ。いづれお萩と一緒になつて
平次は滿足さうでした。正直者が幸せになるのが、平次は何より嬉しかつたのです。