トリスタン・コルビエールが、甞て我が国に於いて紹介されたことがあつたかどうか、私は知らない。コルビエールは、ヴ※[#小書き片仮名ヱ、125-3]ルレーヌの有名な批評集、『生得の詩人達(Po

トリスタン・コルビエールは、千八百四十五年、七月
コルビエールの全集が出てゐるかゐないか、私はまだ見たことがない。散文も少々あるやうだが、詩集アムール・ジョーヌは彼の主著である。
以下該詩集に関するルネ・マルチノオ氏の論文の概要を記さうと思ふ。
トリスタンの此の書は、彼の一生の物語である。此の書中の諸詩篇を、年代順に配列し直して読むならば、詩毎に、彼が駆廻つた短い道程、彼の旅行、彼の恋、彼の悲しい肉体を、熾な芸術家の申し分ない歎賞を以て、繰返す思ひがするのである。
彼の苦い経験の全て、やさしい告白の全ては、アムール・ジョーヌの中にある。
彼の生涯は、素描にしか過ぎなかつたし、彼は喜んで素描の外観を作品に賦与してゐる。尤も此の外観は真の詩からなつてをり、彼はそれを、全ての本物の芸術家の如く、天才の一撃で以てその暗い色と蒼白い色とを強調することに依つて獲得してゐる。そしてその暗い色と蒼白い色との衝突が、彼の詩の魅力と異様性とをなす所のものである。
人々は長い間トリスタン・コルビエールは美的感情を欠いてをり、芸術に無智であると思つて来た。
彼は自嘲の習慣を持つてゐたので、自分の
芸術は私を知らないし、私の方でも芸術を見知つてをらぬ
又、或る時には、
彼はもう一寸で芸術家だつた
彼はもう少しのことで詩人であつた
その人間的な足跡 のほかに……
彼はもう少しのことで詩人であつた
その人間的な
それに彼は修辞的な法則を無視してゐるので、人々は彼の自嘲をそのまゝ信じた。
それを割引きして聞くべきだとジュル・ラフォルグは思つてゐたのだが、世間が漸く彼を認め出した時に当つて恐るべき一撃をコルビエールに加へたのであつた。曰く、
『詩もなければ韻文もない、辛うじて文学が……』ラフォルグはコルビエールの作品を愛してゐたが、部分的にしか了解してはゐなかつた。雑誌リュテースを編輯してゐたレオ・トレズニカは、アムール・ジョーヌと『歎き』(ラフォルグの詩集)の作者との明らかな
続いてラフォルグの弁駁が出たが、それには最初の同情の影だに見えず、不正な批評となり終つてゐる。
此の頃ジュル・ラフォルグは、象徴派作家達の中で優勢な位置を占めてゐた。彼は其の派の典型的な作家の如く考へられてゐたので、人々は彼の言ふ所に口を挟まうとはしなかつたし又、第一人々はコルビエールを知つてもゐなかつた。ポール・カリグに
コルビエールは遂に当時の趣味には合はなかつた。象徴派詩人達は殆んど女のやうな優雅さを持つてゐた。コルビエールは男であつた。彼はヴィロンの一族であつた。
一韻文音楽家たるには余りに芸術家であつた彼は、その形式の中に、根本的に絵画の或る物を持つてゐた。それが又、かの音楽の微妙な物に影響されてゐた当時の詩人達とは別の形式を採らしめてゐた。ラフォルグ御自身はコルビエールを悉く了得する程に顫動的ではなかつた。彼は只コルビエールの敏捷性に驚嘆したばかりであつたので、『詩がない※[#感嘆符三つ、128-4]』なぞと誤つた判断をさへ下したものであつた。