銭形平次捕物控

不死の霊薬

野村胡堂





「親分、どうなすったんで?」
 ガラッ八の八五郎は、いきなり銭形平次の寝ている枕許に膝行いざり寄りました。
「八か、――風邪を引いたんだよ。寝ているのも馬鹿馬鹿しいが、熱が高くて我慢にも起きちゃいられねえ」
 平次は手拭で額を縛って、真っ赤な顔をしてフウフウ言っているのです。
「そいつはいけねえ、悪い風邪が流行はやるんですってね、気をつけなくちゃいけませんよ」
 ガラッ八は世間並の事を言いながら、平次の額へそっと触ってみるのでした。
「寝込むほどわずらったのは、六つの時麻疹はしかをやってから、ツイぞ覚えのねえ事さ。鬼のかくらんだよ」
「岡っ引の風邪でしょう」
「ふざけちゃいけねえ、病人をからかったりなんかしやがって」
 相当苦しそうな平次は、ツイ八五郎の軽口に応酬して、ポンポン言ってみたりするのです。
「からかっているわけじゃねえが、親分が患った日にゃ、御府内は闇だ」
「お世辞なんか言いやがって、馬鹿野郎ッ」
「へッ、お出でなすったね、その威勢のいい馬鹿野郎が聞きたかったんだ」
 ガラッ八はてのひらで、自分の額を一つポンと叩くのでした。
あきれた野郎だ、見舞に来たんだか、遊びに来たんだか、わかったものじゃねえ」
「見舞ですよ、正真正銘親分の見舞にちげえねえ証拠は、この通り手土産てみやげを持って来たじゃありませんか」
「大層な口上だな、――塩煎餅せんべいの袋でも持って来たんだろう、どうせ」
 平次は病人らしくもない元気で、続けざまに八五郎をからかっております。
「どうせ――は情けねえ、見て下さいよ、梅寿堂ばいじゅどうの上菓子が一と折、なだ生一本きいっぽんが五升」
「上菓子は解っているが、病気見舞に酒を持って来る奴もねえものだ」
「こいつを卵酒にして飲むと、大概の風邪は一ぺんにケシ飛びますよ。もっとも、親分がイヤなら、あっしが飲みながら、一と晩ぐらいは看病してやってもいい」
「呆れた野郎だ」
 平次が精一杯呆れ返って、八五郎の馬鹿馬鹿しさも市が栄えたわけですが、何かしら、平次の見当では、割り切れないものがそこに残っているのです。
「変な顔をするじゃありませんか、親分」
 ガラッ八は狭いあわせの前を合せて、平次のけげんな視線の前にモジモジしました。
「上菓子一と折に、剣菱けんびしが五升――少しおごりが過ぎるようだぜ。八、どこからそんな工面をして来たんだ」
「工面なんかしませんよ」
手前てめえにしちゃ大した散財じゃないか。岡っ引が金を持っているなんざ、褒めたことじゃねえ、どこからそんな金を持って来たんだよ、八」
 正直者の八五郎のために、平次はそんな事まで真剣に心配してやるのでした。
「どこだっていいじゃありませんか」
「よかアないよ、まさか筋の悪い金を身につける八とは思わねえが、あとで困るほどの工面をさしちゃ、菓子も酒ものどを通らねえ、白状してしまいな」
 平次の調子がシンミリしてくると、ガラッ八はツイ涙ぐましい心持になるのです。
「そんな金じゃありませんよ、親分、向柳原むこうやなぎわらの叔母が、――天霊てんれい様の御本山におまいりをするついでに、西国を一と廻りして来るから、二度と江戸へ帰るか帰らないか判らない。長年溜めた少しばかりの金は、みんな天霊様に納めるが、これは、たった一人のおいへの形見だから、心持よく取ってくれと、器用にくれたのが五両、親分の前だが、五両とまとまった金を持ったのは、生れて始めてで――」
「それは本当か、八」
 話半分に聞いて、病人の平次はガバと床の上にハネ起きました。
「あれ、お前さん、そんな事をしちゃ、風邪が悪くなるじゃありませんか」
 女房のお静は、お勝手から驚いて飛んで来ると、平次の身体を無理に床の中に押込むのでした。
「本当も嘘もありゃしません。つかい残りがまだ四両と少し、こいつで何をしようかと、昨日きのうから考えているところで」
「八、そいつはてておけないぜ」
「ヘエ――」
「手前のためにはたった一人の叔母さんだ、間違いがなきゃいいが――」
「ヘエ――」
 八五郎の無関心さ。


 その頃、江戸中の評判は、東両国の元町に、祈祷所きとうじょを設けている、天霊様という流行神はやりがみで、誠心まごごろこめていのりさえすればいかなる難病も平癒疑いなく、富貴栄達も、心のままと言い触らされました。
 ツイ一年ばかり前に開いた、ささやかな祈祷所ですが、信心の善男善女絶間もなく、五両以上の喜捨をした者には、奥殿の参籠さんろうを許して、この世ながらの極楽浄土を拝ませるといううわさ。その極楽浄土の素晴らしさは、厳重に口止めされているにもかかわらず、実見した人の口から伝わって、江戸中誰知らぬ者もない、大魅力だったのです。
 極楽浄土は、金さえ積めばどんな凡夫にも手軽に拝まれました。そのうえ持っている身上しんしょうを根こそぎ捧げる篤信家とくしんかは、九州にあるという天霊様の本山を拝ませた上、そのまま、極楽安楽国に大往生を遂げさしてやるというのでした。
 一番先に飛付いたのは、この世の快楽に見切りをつけた人達――鰥寡孤独かんかこどく――でした。夫に死に別れた女房、子供に先立たれた老母、身上や健康や、希望のぞみうしなった若者など、金があって希望のない人は、蜜に集まるありのように、元町の祈祷所に集まって来たのです。
 それは、谷中やなかに蓮華往生のあった少し前のこと、疑うことを知らない江戸の人達は、ささやかな天霊様の祈祷所を、瞬く間に三倍五倍に拡張させ、疑懼ぎくと好奇まで手伝って、天霊様を素晴らしい魅力にこしらえ上げてしまったのでした。
「そいつは大変なことになったかも知れないよ、八」
「何が大変なんで、親分?」
 八五郎の善良な心には、平次の恐怖がどうしても呑込めません。
「叔母さんが、天霊様にこったのは、近頃のことかい」
「二た月ばかり前からですよ」
「どうかすると、二度と帰らないかも知れない」
「親分、心細いことを言っちゃいけません」
 ガラッ八もすっかりおびやかされてしまいました。
「叔母さんのへそくりはどれほどあったか、手前にゃ解るまいな」
「解っていますよ、目星めぼしいものを売ったりなんかして、掻き集めた金は十五両」
「フーム」
「まだ家作が二三軒、貸しが二三十両あるはずだが、そいつは急には集まらねえ。旅へ出る前に、十五六両掻き集めたのがせいぜいでしたよ」
「よくそんなに持っていたんだね、――身上しんしょうをみんな持出した人でなきゃ、命には間違いがないかも知れねえ」
 平次は枕から頭をあげたまま、熱っぽい額を押えて何やら考えております。
「そんなに心配なことがあるんですか、親分」
 と八五郎。
「叔母さんの命にかかわるほどの心配事だよ、――が、今となっては手のつけようはない。天霊様は一度洗ってみようと思っていたが、肝腎のとき風邪を引いちゃ何にもならねえ」
 平次はいかにも口惜くやしそうです。
あっしじゃいけませんか、親分」
「何?」
「あっしが乗込んで行って、叔母さんがまだ居るんなられて来るし、居なかったら、世間の言うようにい事をしているか、それとも親分の考えるように、何か悪事を企んでいるか、底の底まで洗ってみようじゃありませんか」
 ガラッ八は日頃にもない意気込みです。叔母の先途せんどを見届けてもし難儀をしているなら、救い出してやろうといった気になったのでしょう。
「その四両の金は捨てなきゃならないよ、八」
「ヘエ――」
「ここに一両ある。手前の四両と併せて五両だ。東両国へ行って、極楽とやらを見せて貰って来るがいい」
勿体もったいないじゃありませんか」
 四両あれば――の目算が外れて、ガラッ八は少し憂鬱でした。
「ケチな事を言うな、どうせ手前の働いた金じゃあるめえ、それんばかりの元金もとで叔母さんを助けられりゃ本望だろう」
「よく解りました。じゃちょいと行って来ますよ、親分」
 ガラッ八はもう立上がって、懐へ十手と手拭と財布をねじ込むのです。
「待ちな、八」
「ヘエ――」
「今度は俺を当てにしちゃならねえよ、二日や三日じゃ、この風邪はなおりそうもねえ」
「そう心細いことを言わずに、親分」
「まア、聞け、――それから、十手捕縄は持って行っちゃならねえ、岡っ引と知れちゃちこわしだ、――向うじゃ、手前の顔を知っているかも知れないよ」
「大丈夫ですよ、親分、祈祷所の出来たのは、ツイこの間のことだ、それに東両国は縄張じゃないから、滅多にこのあっしめんを持って行かなかったのが、今となっては強味だ」
「間違っても十手風を吹かせるな、いいか、こっちから名乗りさえしなきゃ、手前を岡っ引と思うようなあわて者はねえ」
「へッ、――岡っ引とは間違えねえが、その代り歌舞伎役者と間違える」
 この期に臨んでも、ガラッ八は無駄を言っております。
「それから刃物を身につけて行っちゃならねえ、匕首あいくちなどはもっての外だよ」
「そんな物騒なものなんか持っちゃいませんよ、腕と智恵だけありゃ沢山で――」
「馬鹿野郎」
 八五郎は熱っぽい平次の眼に送られて、不思議な冒険の舞台に登りました。


 ガラッ八は堅気の職人になりすまして、東両国の天霊様に乗込みました。
 神田では顔の通った八五郎ですが、橋一つ越すと縄張違いで、さすがになんがい顔もあまり通用せず、それに、持って生れた間延びのした造作が役に立って、近頃開いた祈祷所の者などは、滅多なことでこれを岡っ引と見破るはずもありません。
 どうかしたら、岡っ引と知っているくせに、甘く見て玄関の関所を通したのかもわかりません。下手に木戸を突いて、疑いの種をくよりは、岡っ引でも手先でも無差別に包容して、信心の力で懐柔する方が賢いと思ったのかも知れなかったのです。
 ともかくガラッ八は、何の支障もなく祈祷所に通されました。元は見る影もない長屋だったそうで、その後幾度か取拡げたり改築したりしましたが、江戸中の流行神にしては思いの外の手狭な造りで、その拝殿も、充分荘厳ではあるが、しかし、決して度を過して華美なものではありません。
「お賽銭さいせんや奉納は大変なものだそうですが、先達せんだつ様がよく出来た方で、貧乏人に施しをするから、祈祷所もこれで結構だというそうですよ」
 溜りの大火鉢を囲んで信心の一人らしい中年男がそう言うのを、八五郎は鼻の穴を掘りながら聞いておりました。
「暮し向きだって、それはそれはお気の毒なくらい粗末ですよ、貧乏人の私どもだってあんなことはありません。雑穀飯に一汁一菜で、どうかすると塩をめながら召し上がっていらっしゃいます」
 金棒曳かなぼうひきらしい女が、鼻をすすりました。
「ヘエ――、誰がそれを見たんで?」
 八五郎は一本横槍を入れます。
「お勝手もお居間も見通しですよ、嘘だと思ったら、祈祷所の裏を覗いて御覧なさい」
 女は少し不機嫌な様子で、紫の幕を絞った祈祷所の裏を指さしました。
 八五郎はフト立上がって、祈祷所の後ろを覗くと、奥も底もないお勝手と居間があるだけ、粗末な調度の中に、二三人の若い娘が、夕食の仕度らしく身軽に立ち働いております。
 やがて、祈祷所の先達と言われる四十男が出て来ました。九郎次くろうじというのが俗名で、仏学も儒道も一と通りは修めたうえ一夜豁然大悟かつぜんたいごして、天霊道を開いたという人物、総髪に一種異様な法服を着け、手には中啓を持っていましたが、態度が思いの外気さくで、流行神に付きものの虚仮こけおどかしなもっともらしさはありません。
 お神楽堂かぐらどうへ出て来るような、はかまの少女が四人、灯明と供物くもつを持って入って来ました。四人ともどうしてり抜いたか、採りたての果物のような新鮮な娘で、そのうちの一人、すらりと背の高いのは、桃色真珠のような皮膚と、うるしを点じたような瞳を持った少女が、八五郎の注意をグイとつかみました。
 こんな清らかな娘が、楽しそうにいそいそと働いているところに、不正も暴悪もあろうはずはないと思わせたのです。
「皆の衆、今日は新しい方も多勢見えられたようだ、格別天霊様の御加護があるように、御祈祷申上げよう。ズイと前へ進みなされ」
 二三十人の男女を青畳の上に坐らせて、さて静かな祈祷が始まりました。
 神体は、供物と花に隠れて見えませんが、七壇の白木の台には、十六の煌々こうこうと照り渡って、縁から射し込む美しい夕陽と対照し、甘美な香煙がゆらゆらとこめる中に、九郎次先達の祈祷が始まるのです。
 それは八五郎が今まで聞いた、どんな経文よりも快適なひびきを持ったものでした。祈祷の続くうち、どこからともなくゆるやかながくが響いて、若い女の和讃が、静かに静かに聞えて来るのでした。
 音楽も和讃も、かつて八五郎が聞いたことのあるような種類のものではありません。笛や三味線や太鼓といった、浮かれ調子のアルコールの匂いのするものでないばかりでなく、どうかしたら、八五郎などは、その楽器さえ見たことがなかったのでしょう。若い女の顔も、御詠歌や御和讃とは、およそ見当の違ったものです。
 しかし、美しい夕陽と十六の灯明と、甘美な香の煙と、素朴な祈りと、静かな音楽は、四半刻しはんとき(三十分)経たないうちに、多勢の人の心をすっかりとらえてしまいました。信心事とは縁のない八五郎でさえ、極楽浄土とやらいうところへ行く近道は、なんかこんな長屋の奥にあるような気がしてならなかったのです。
 一とわたり祈祷がすむと、先達の女房でおまんという四十女が、黒ずくめの品の良い様子で、はかまの少女に案内させて出て来ました。
「この上夜のお勤めに加わる方はありませんか。ときの料は五両ですが、それがみんな、お困りの方の救い米になります。その功徳によって、一夜安楽浄土の姿がまざまざと見られます」
 お万女はそう言って、多勢の信者を一とわたり眺めるのでした。その時はもうすっかり暮れて、祭壇上の十六のだけが、明々あかあかと神秘の光を投げかけております。
 お万の声に応じて、二人の希望者が申出ました。それに続いて、
あっしもお願い申します」
 ガラッ八も、つい、役目を忘れてこう言いたい心持になります。
 夜の斎に加わる人達は、緋の袴の少女に案内されて、祈祷所の後ろの、ささやかな家に案内されました。恐ろしく簡素な部屋が幾つかあって、それに通される信者は、もう一度斎戒をすませ、いちいち先達の祝福を受けて黄金こがねの杯に霊酒を一杯ずつ受けるのでした。
「これが、仙家せんけの不死の霊薬でござるよ。この一杯の霊酒を服すると、諸々もろもろの罪障を解脱げだつし、我等の魂は、汚い血肉を捨てて、生きながら浄土の法悦をける。この霊酒を毎日毎夜服する者は、不老不死の歓びを受けることは疑いもない。そのためには、天霊様に一身をささげ、五慾を捨てて、清浄な身にならなければならぬ」
 九郎次はそんな事を言いながら、一杯の霊酒を一人一人に勧めるのです。
 ガラッ八は何の躊躇ちゅうちょもなく霊酒の杯を傾けました。油のような酒ですが、異様な香気があって、そんなにまずくはありません。
 どこからともなく、また楽のが湧いて、教えられた呪文をくり返しくり返しとなえているうちに、大地の底へ引込まれるような、恐ろしい眠気が催します。ガラッ八は任せ切った心持でその不可抗な眠気に身を委ねました。


「驚いたの何のって、親分」
 ガラッ八はここまで話して妙にくすぐったい思い出し笑いをしました。
「それからどうした、八」
 平次はこの話のうちから、何かしら、重大なものと、不思議な圧迫を感じていたのです。
何刻なんどき経ったか知れねえが、眼を覚してみると――親分の前だが、あれが本当の極楽というものかも知れませんよ」
「夢でも見たのかい」
「夢じゃありませんよ、つねりゃ痛いし、食った物は腹にたまっている」
 ガラッ八はその歓楽境を不器用な舌で語るのです。
 ほう何町とも知れぬ広大な屋敷内、大きな泉水があって、船がうかんで、その船の中に、結構な女が五六人、一人は歌い、一人は踊り、三人は鳴物を受持ち、そして一番年増がガラッ八に膝枕を貸していたというのです。
 歓楽の中に眼を覚したガラッ八は、朱塗しゅぬり欄干らんかんをめぐらした廻廊に船をつけさせ、女達の手車で二階の座敷の上に導かれました。そこに並んだのは、美酒と佳肴かこうと数十基とも知れぬ銀燭ぎんしょくと、そして、十二三から二十五六までの一粒りの美女が二十人ばかり。
「そいつは皆んな江戸言葉かい」
「里言葉を使わないのが不思議なくらいでしたよ、身扮みなりは町人風武家風、いろいろあるが、間違いもなく日本人で――」
「何を言やがる」
 ガラッ八の説明を聞いただけでも、その歓楽が並大抵のものではありません。
「そのうちに夜が更けて、酒にも馳走にも飽き、思わず横になると、小女の一人が水を一杯持って来てくれた。ギヤマンに入れた何とも言えねえ匂いの飲物でしたよ、一と口に飲むと、またウトウトと眠ってしまったと思うと――」
「それからどうした」
「元の東両国の祈祷所で眼が覚めましたよ」
「時刻は?」
「朝陽が障子へカンカン当っていましたよ。あっしはあわてて飛起きると、真っ直ぐにここへ飛んで来ましたが、緋の袴をはいた女の子が二三人、ケロリとして祈祷所の中を掃除していた様子でした」
「フーム」
「親分の前だが、あんな結構なお宗旨はありませんよ。もう一度行きてえが、さて五両の工面がつかねえ」
「とにかく、祈祷所へだけは、当分顔を出すがいい。五両の工面が付いたら、もう一度ぐらいは面白い夢を見さしてやるよ」
 平次はそんな事を言いながら、深々と考えているのです。
「それから何をやらかしゃいいんで――」
 とガラッ八。
石原いしはら兄哥あにきのところの、おしなさんに、済まねえがちょいとここへ来て下さるようにってそう言ってくれ」
「ヘエ――」
 ガラッ八は魂の抜けた人間みたいに、フラフラと本所へ行ってしまいました。
 それから二た刻あまり、石原の利助りすけの娘――女御用聞と言われるお品が顔を出したのは、もう昼過ぎでした。父親の利助が、中風で寝込んでしまってから、多勢の子分どもを指図して、お上の御用を立派に勤め、出戻りながら美しい年増ざかりを惜し気もなく朽ちさしているお品です。
「親分、風邪を引きなすったんですってね、いけませんねエ」
 お品はお静に案内されて、慎み深く平次の枕許に通りました。
「お品さん、済まなかったね、わざわざ呼んだりして」
「とんでもない、親分」
「実はね、大変なことがあるんだが――」
 平次は言葉少なに、ガラッ八の経験を物語りながら続けました。
「この話を聞いて何か変な気はしないかね、お品さん、近頃はあの天霊様の信心の者が、ちょいちょい行方ゆくえ知れずになるというが――」
「それですよ、親分、私も目をつけていますが、家捜ししても先達の跡をつけても、怪しいことは一つもありません。手のつけようがないんです」
「祈祷所というのは、大変狭いんだそうだね」
「長屋を二軒つぶしただけのことで、あの中には池も船もありゃしません」
「夜になってから人の出入りはないだろうか」
「不思議に早寝の早起きで、戌刻いつつ(八時)過ぎは戸をしめてしまいます」
「フーム」
「八五郎さんが本当にそんな大きな家へ行ったんでしょうか」
 お品の聡明な眼が瞬きます。
満更まんざら夢でもないらしいよ」
「どこから手をつけたものでしょう、親分」
「近所を一軒一軒虱潰しらみつぶしに捜すんだね、外にはない」
うちの者は先達の九郎次夫婦を縛ってみようか――って口惜しがりますが、証拠のないものを縛るわけにも行きません」
「ともかく、下っ引を十人も駆り出して、東両国一パイに網を張ってみるがいい、夜中と暁方あけがたに通ったものは、犬っころ一匹逃さないようにするんだ」
 風邪の床にいながら、平次の作戦は水も漏らしません。


 その晩、お品は利助の子分と下っ引を総動員して、東両国一パイに網を張りました。戌刻いつつ過ぎに通る者は、按摩あんまも夜泣き蕎麦そばも、犬っころ一匹も逃さない厳重さでしたが、祈祷所から出た者も祈祷所へ入った者も一人もなく、極めて平穏な春の夜は、うらうらと明けてしまったのです。
 翌日は、元町一帯一軒残らず家捜しをしましたが、これも何の変哲もありません。
 三日目の晩、思案に余って東両国へ出かけたお品、一軒一軒用事をこしらえて当っているうち、どこの家でどう押えられたか、翌る朝になっても、姿を見せなかったのです。
 ガラッ八の叔母もガラッ八自身も、それっきり姿を見せず、お品も行方知れずになって、平次は床の上で焼き付けられるような焦躁にとらえられました。
 平次の熱は相変らず高く、町内の本道(内科医)は、この風邪は性質たちが悪いから、当分外へ出ては命に拘わるという脅かしようです。
「お静、石原の兄哥のところへ行って聞いて来い、一昨日おとといから誰も来ないのは唯事ただごとじゃあるまい」
 平次は気ばかりみます。
 が、その時ちょうど、石原の利助の子分が、この間からの報告をまとめて持って来てくれました。
「親分、八五郎兄哥あにいは相変らず祈祷所に入り浸りですよ。八五郎兄哥の素姓が判っちゃ何にもならないから、顔を合せても口をきかないようにしていますがね」
 妙に奥歯に物の挟まった言いようです。
「お品さんは?」
「どこへ行ったか、まるっきり見当が付きません」
「あの辺は日が暮れてから通る者はないのかえ」
「ろくな犬も通りません、医者の玄道げんどうの外には」
「医者の玄道?」
「え、祈祷所とちょうど背中合せで、川岸かしっぷちの家ですよ」
「祈祷所に近いのかい」
「背中合せといっても、町の向うとこっちだから、その間に家が五六軒あるでしょうよ」
「フーム」
 平次は考え込みましたが、取止めたことは一つもありません。
 石原の子分が帰ると、平次はお静を呼びました。
「お静」
「ハイ」
「こいつをっておくと、八とお品さんの命が危ない、――俺の言うことを黙って聞くだろうな」
「…………」
 恐ろしい不安におびえて、お静は夫のやつれた顔を見つめました。
「この平次は大病人だ、外へ出る気遣えはねえ」
「…………」
「そう世間で思っているのに、――八の野郎が両国へ行ってから、変な野郎がこの路地の外をウロウロしてるようだ」
「…………」
「俺は病人だ、そのうえ見張られている。――いいか、お静、お前は俺の代りに、東両国へ行って、一と晩見張っているんだ」
「私が?」
「いやだとは言わないだろうな」
「ハイ」
 外はもう真っ暗でした。
「ここには婆さんがいる、俺のことは心配せずに行くがいい」
「…………」
 お静の遠縁の婆さんが一人、この間から来て手伝っているのでした。それから半刻はんときばかりの後、春の夜風の薄寒さを、お高祖頭巾こそずきんしのいで、お静はたった一人路地の外へ出て行きました。いつものしまあわせ、素足に草履、若さと軽捷けいしょうさは申分もありませんが、闇に匂うなまめかしさは、さすがに痛々しい姿でした。
 真っ暗な川岸かし伝いに両国へ若い女の夜道は楽ではありませんが、お静は側目わきめもふらずに急ぎます。後ろからそれを追う男が一人、かず離れずに来るのを、お静は知ってか知らずか別に気にとめる様子もありません。


 ガラッ八の八五郎は、近頃はもう、すっかり夢中でした。天霊様に入り浸って、二度と平次のところへ帰る気さえなくなったのでしょう。時々は祈祷所に泊り込んで、掃除をしたり、取次に出たりしております。
 はかまをはいた、四人の少女のうち、一番可愛らしいのはおつたといって十八、先達せんだつ九郎次のめいとわかりましたが、人目が多いので、うかうかガラッ八の相手になって、話などをしてはおりません。
 が、この少女の美しい眼から、ガラッ八は何かしら訴えるようなものを感じました。何を一体言おうとするのでしょう。
 ある日の朝、小さい庭の掃除をしていると、
「おや?」
 沓脱くつぬぎの側の砂の上に、まざまざと文字が書いてあるのです。
 ――ここほれ、ワンワン――
 お伽草紙とぎぞうしの花咲爺の文句を、ガラッ八はしばらく見詰めておりました。が、ほうきの柄を返してそっと掘ると、土の中から出て来たのは、山吹色の小判が一枚、二枚、三枚、――数もちょうど五枚、燦然さんぜんとしてガラッ八のてのひらに光ります。
 その五両を投出して、その晩のときに、ガラッ八が加わったことは言うまでもありません。
 祈祷や和讃が済んで、裏の部屋へ行くとき、お蔦はそっとガラッ八の手に紙片を握らせました。開いてみると、
 ――お願いだから逃げて下さい――
 とたったこれだけ、顔をあげると、お蔦の美しい眼が、どこかで訴えているのを、ガラッ八は意識しました。
 が、あの池と船と、美女と、酒宴の誘惑は、ガラッ八を押し倒してしまったのでしょう。紙片を小さく丸めて、ポンと口の中へほうり込むと、何事もなかったように、不死の霊酒のむしろに坐ります。
 先達夫婦や少女達がいろいろの儀式を済ませると、黄金こがねの杯が出ました。不死の霊酒を一杯ずつ、なみなみと注いでくれます。
「おや?」
 庭のあたりで、何やら大きな物音がしました。誰か往来から、石でも抛ったのでしょう。が、それもほんの一度だけで、夜は水のごとく静まり返ると、ガラッ八はコクリコクリと居睡いねむりを始めました。
 やがて、死んだ魚のようにガラッ八は、畳の上に眠りこけてしまったのです。
「もういいよ」
「よし来た」
 二人の男が、ガラッ八を担ぎあげました。
「こいつは岡っ引だそうじゃないか」
「シッ」
「どうせ聞える気遣いはないよ、腐ったまぐろのようなものだ」
 そんな事を言いながら、土間伝いに次の家へ、長屋のお勝手から次の家へ、またその次の家へ、――五六軒の家を黙って抜けると、祈祷所の反対側に門戸を張っている、医者の玄道の家になるのでした。
 家から家と伝わって、町一つ通り抜けようとは、銭形平次の考えも及ばなかったでしょう。
駕籠かごは?」
「用意が出来ているよ、抛り込みさえすりゃいいよ」
「心得た」
 物馴れた調子で、眠りこけたガラッ八を受取った男は、入口の土間に据えた、乗物の中にそっと入れました。
「それよ」
「合点」
 たれをおろすと、中には医者の玄道が乗っていることになるのです。石原の利助の子分が、五六人網を張っている中を、駕籠は掛声もなく、向島の方へ飛びます。
 落着いた先は小梅の大きな寮、隅田川から水を引いた池の上には、見事な遊山船を浮べて、春宵しゅんしょう一刻を惜しむの長夜の宴を、昨日も今日も開いているのでした。
 名義は日本橋の呉服太物問屋ごふくふとものどんや大川屋甚兵衛おおかわやじんべえの寮、下女、女中、お小間使まで二十八人、その大部分は川一つ隔てた里の豪勢にも劣らぬ装いを凝らして、夜ごとに代る夢心地の客を迎えるのです。
 ガラッ八はここへ来ると、眼が覚めるのでした。いや、実は先刻から眼が覚めていたのです。いろいろ工夫を凝らした挙句不老不死の霊酒というのを、懐中ふところの手拭に呑ませて、恥も外聞もなく眠りこけた振りをしているのでした。
「それ、お客様お目覚め」
 立ち騒ぐ女達、船が廻廊の下に着いて、座敷の中に追い入れられると、ガラッ八はかねて見定めた廊下の闇へ、ツイと身を隠してしまったのです。


「おや、お客様は?」
「たぶん御手洗おちょうずでしょう」
「随分長いわねエ」
 そんな噂をしている女達の声を聞いて、ガラッ八は物の蔭を拾いながら、奥へ奥へと入って行きました。
 大方の見当はつきますが、ともすれば人に姿を見られそうで、なかなか思うような活動は出来ません。
 さんざん迷った挙句、フト飛込んだのは、真っ暗な二階の納戸でした。左手から射して来るのは、唐紙からかみ隙間すきまをもれる細い細い光線あかり、――そっと手をかけて唐紙を開けると、
「おや?」
 年をった女が一人、淋しそうにお仕事をしておりますが、ガラッ八の眼には、咄嗟とっさの間にその素性が判りました。
「まア、八五郎」
「シッ、黙って、叔母さん」
 八五郎は叔母さんの口をふさぎたい心持でした。
「何だってこんな所へ来たんだい、早く帰っておくれ。私はおとなしくしているからいいが、お前の素姓が判ると命がないよ――」
「叔母さんを救い出しに来たんですよ、さア、早く、早く」
「だってお前、逃げる工夫なんかないよ」
「どんな事をしたって、叔母さんを助け出しますよ、さア」
 八五郎は叔母の手を引くと、行灯あんどんを吹き消して、そっと部屋の外へ滑り出ました。
 折柄、座敷の方では、わめき立てる女どもの声々。
「お客様は居ませんよ」
「岡っ引が逃出しましたよ」
 二十幾人のソプラノとアルトが、夜の空気を揺るがして諸方に響き渡ります。
「八五郎」
「叔母さん、大丈夫だ」
 がしかし、四方の門は厳重に締っている上、廊下も池も、部屋部屋も、あふれるような光の氾濫はんらんで、身を隠すくまなどがあろうとは思われません。
「叔母さん、この中へ入って下さい」
 裏口に置いたのは、先刻さっきガラッ八が送られた駕籠。
「お前は?」
「私はどんな事でもしますよ」
 危ぶむ叔母を駕籠の中に押込むと、ガラッ八はいきなり縁の下に潜り込みました。
 一方は、その晩も神田の平次の家から出て来た、お高祖頭巾のお静。
 両国橋の上へ来ると、後ろから、やくざ者らしい男に声をかけられました。
「ちょいと、待って貰おうかい、おかみさん」
「…………」
 小刻みな駆け足になると、前からも一人。
「どっこい、こっちにも関所があるよ」
 前後から、ヒタヒタと寄せて、後ろの男の手が、お静のえりに掛りました。
「待てと言ったら、待つものだよ」
 グイと引戻す手に従って、お静の身体はドンと後ろへ――ハッと立直るところを、肩の上の曲者くせものの手を取って、ひねり加減に一本背負。
「わッ」
 前の男の頭の上へ、後ろの男が叩き付けられたのです。
 お静は橋の上にへた張る二人の曲者に目もくれず、東両国の医者、玄道の家の前まで来ましたが、戸口に据えてあるはずの駕籠がないのを見ると、サッと向島に飛びました。
 かねて見定めておいたものか、一気に小梅の大川屋の寮へ。
 裏へ廻って、隠し木戸の上を簡単に乗越したお静、それがお静に化けた銭形平次であることは言うまでもありません。物置へ行って、戸を開けようとして驚きました。
「おや?」
 閉っているはずの戸が開いて、中に居るはずのお品が見えなかったのです。
 その時、どっと起ったのは、ガラッ八を見失った女どもの声。お静に化けた平次は、あわてて物の蔭に身を潜めました。
「…………」
 何やら、縁の下から首を出す者があります。
「八か」
「親分」
 二人が互に見定めたのは、長い間に鍛錬された勘だったでしょう。
「叔母さんは?」
「助け出しましたよ、その駕籠の中で」
「そいつはいい塩梅あんべえだ、――お品さんを見なかったか」
「いいえ」
「今晩を越すと危ない、どんな事をしても見付け出さなきゃ」
 と平次。
「もう一度入って見ましょうか」
「いや、手前てめえは叔母さんをつれて石原の兄哥あにきのところへ行ってくれ、それからまた引返すんだ――物置の後ろに隠し木戸がある、内からなら楽に開けられる」
「大丈夫ですか、親分」
「心配するな」
 平次はそのまま家の中へスルリと飛込みました。
 ガラッ八は平次に教わった木戸を見付けて、駕籠の中の叔母をつれ出しました。
 が、その叔母を石原までつれて行くのに、ガラッ八はどんなに骨を折ったことでしょう。一刻いっときもかかって、叔母を安全なところへ届けて、さて引返す段になると、利助の子分は一人残らず出払って、八五郎に手を貸してくれる者もない有様だったのです。


 平次は女姿のまま、暗い納戸に身を潜めました。家の中の騒ぎは容易に鎮まりそうもありませんが、半刻(一時間)ほど経つと、雨戸をバタバタと締めて、厳重に戸締りをしている様子です。
 女どもは騒ぎ疲れて寝てしまいました。不思議なことに、これほどの騒ぎにも、男が一人も顔を見せないのは、一体どうしたことでしょう。
 どこやらでくぎを打つ音が聞こえます。不吉な予感に、平次はハッと耳をそばだてました、が、釘の音は右に聞えたり、左に聞えたり、前に聞えたり、後ろに聞えたりするので、それが棺の蓋を打ちつける音でないと解って、何となくホッとした心持になります。
 それから半刻ばかり、かなたこなたに残る有明ありあけをたよりに平次は一生懸命捜しました。が、不思議なことに、ここに隠されたはずのお品が、どこに居るか影も形も見えません。
「おや」
 バチバチと物のはぜる音、物の焦げる匂いがツンと鼻をつきます。
 平次はもう一度ギョッとしました。奥の方から眼に焼金やきがねを当てるような、大幅のほのおが、カッと氾濫して来たのです。
「火事だッ」
 平次は思わず呶鳴どなりました。かなたこなたに寝ていた下女どもは平次の声と、焔の咆哮ほうこうに驚いて、
「あッ、た、大変ッ、どうしよう」
 あられもない姿の二十数人、悲鳴と共に殺到して来たのです。
 平次もその人波に押されて、思わず表の方へ行くと、そっちからも一陣の焔、――いや、それだけではありません。後ろの方の羽目も、いつのまにやら真っ赤に焼かれて、猛火は三方から、二十幾人の女をあぶり立てるのでした。
「お品さんはどこだ、お品さんは?」
 平次は手当り次第に女をつかまえて訊きましたが、驚きあわてているせいか、一人も満足な答をしてくれる者はありません。
 その上、たった一方しか開いていない方へ雪崩打なだれうって行った女ども、一生懸命雨戸を開けようとしますが、どうした事か右も左も、雨戸はちょっとも動かないのです。誰かが、外から雨戸を釘付けにして、三方から火を放ったのでしょう。
「己れッ」
 平次は煙に巻かれながら歯噛みをしました。
「お品さん」
 ただ一つの手段は、お品に返事をして貰うことでした。
「お品さん」
 声を限りに呼びましたが、女どもの死物狂いの騒ぎに消されて、返事があったところで聞えそうもありません。
「お品さん、――どこだい、お品さん」
 一生懸命に澄ました平次の耳に、かすかに響くもの、その見当に飛んで行くと、極楽ごっこの看板にした大仏壇が一つ、その厳重にとざした扉の中で、何やら物音がするようでもあります。
 グイと扉を引開けると、石っころのように転げ出したのは雁字がんじがらめのお品。
「あ、お品さん」
「親分」
 平次はお品を担いで女どものひしめく正面の雨戸へ――。
 三方から迫る焔は、綿煙わたけむりつんざいて背を焦がすばかり。
「助けてエ――」
「ヒ――」
 泣きわめく女どもをかきのけて、平次の鉄腕は雨戸を叩き破りました。
「叩き壊すのだ、――開けようと思っては駄目だッ」
 号令が一つかかると、四十幾本の手は滅茶滅茶に雨戸を叩きます。そのうちに二三枚の戸は押し倒されまして、戸と共に欄干から落ちた二三人の女は、月の下の池の中に、水音高く沈んだ様子――。
「帯を解けッ、欄干からそれを手繰たぐって一人ずつ降りるんだ」
 平次は必死と声を絞ります。が、それも無事に逃れる道ではなかったのです。
「降りて来い、一人一人、なますにしてやる」
 抜身を構えて、上をハタとにらんでいるのは、元町の医者、――愛嬌と世辞で評判になっている玄道の兇悪無慙むざんな顔ではありませんか。
「野郎ッ」
 平次は懐をさぐりました。が、生憎あいにく財布もどこかへ振り落したらしく、一文の持合せもありません。投げ銭の手を封じられると、二階に居る平次には、下で抜身を構えた玄道に向う工夫はなかったのです。
 その間にも後ろからカッと迫る焔、二三人の女は、平次に教わった欄干の帯を伝わって下に降りましたが、大地に足が着く前に、玄道のやいばに切って落されます。
 女の悲鳴と焔の咆哮ほうこうと、血潮と、水と、火と。
「何という事をする」
 平次は必死と智恵を絞りますが、一挙に二十幾人の命を救う工夫は浮びそうもなかったのです。
 油と燃え草を用意した火攻めで、火の廻りの早いために土地のとびの者もだ来ません。いっそ、一と思いに飛降りて、一と太刀斬られながらも、女どもの命を助けようか――平次はついそんな事を考えて欄干に足をかけました。
「親分、飛降りちゃいけねえ」
 いつの間にやって来たか、ガラッ八の八五郎の声です。
「野郎ッ」
 振り返って斬下げる玄道の刃を潜ると、ガラッ八は後ろからむずと組付きました。名代の金剛力です。
「八、離すなッ」
「おッ」
 揉み合う真ん中へ、平次は身軽に飛降りたことは言うまでもありません。
「御用ッ」
 二人力を併せると、玄道の刀などは物の数でもありません。押えて縛る間に、二階のお品は自分の縄を解いて貰って、焔に背を焦がされながらも、二十幾人の女を順々に下へ降ろしました。

     *

「親分、祈祷所へ行きましょうか」
「無駄かも知れないが、行ってみよう」
 平次とガラッ八は、ちょうど駆け付けた利助の子分に縄付の玄道を任せて、元町の祈祷所に向いました。
 表の戸は開け放ったまま、飛込んでみると――、
「あッ」
 先達の九郎次と女房のお万は血の海の中にこと切れ、四人の少女は縛られたまま、虫のようにふるえていたのでした。
 あくる日玄道を責めて、何もかも明らかになりました。天霊様を担ぎ出して、一と儲けしようと考えたのは九郎次夫婦ですが、それに南蛮種の眠り薬を使わせ、極楽の歓楽を味わわせて金を絞ることを考えたのは医者の玄道だったのです。
 このからくりを嗅ぎ出しそうなのがあると、持金をことごとくまき上げた上、人知れず殺して海に沈めましたが、ガラッ八と平次に本拠を襲われたことを覚ると、首魁しゅかいの玄道は、九郎次夫婦と、蓄えた女どもを一挙に殺し、口をふさいで高飛びしようとしたのです。
「親分が、女に化けたのは始めてだろう。こいつは江戸中の評判になるぜ」
 面白がるガラッ八、それは、何もかも片付いたある日の事でした。
「馬鹿、黙っていろ。風邪がなおったと聞くと相手が用心するから、四五日我慢して寝ていたんだ。女房に化けるより外にがあるものか」
「ヘエ、四五日寝ているのだけはあやかりたいくらいのものさ」
「馬鹿野郎、気をもみながら寝ているのも楽じゃねえぞ」
 二人は声を合せて笑いました。
「ところで親分、あのお蔦という娘が、あっしに逃げろと言ったのはどういうわけでしょう」
「おめえに惚れたわけじゃねえ、岡っ引と聞いて、子供心に叔父夫婦のことが心配になったのさ、――どうかしたらお前が殺されちゃ可哀想だと思ったのかも知れないよ。あの娘はい子だ、何とか身の立つようにしてやりたいものじゃないか」
「もう一つ、小判を沓脱くつぬぎの下へ埋めたのは?」
「――ここ掘れワンワンか、――ハッハッハッ、お前が毎朝働き振りを見せて、庭を掃くのを知っていた人間の仕事さ」
 平次はそう言って笑うのです。
「ところで――八」
 平次は思い出したようにガラッ八の肩を叩きました。
「何で、親分」
「笹野の旦那から聞いたが、今度の捕物は八五郎の手柄だから、お奉行からたんまり褒美が出るそうだよ」
「ヘエ」
「何につかうつもりだ」
「叔母へやりますよ、虎の子をなくしてしまって、ひどくがっかりしているから」
 ガラッ八はそんな事を言って、い心持そうにニヤニヤしました。



(原註)昔イラン国で、Hashish(ハシシ)の製品を用い、旅人を眠らせて豪華な宮殿に伴い、極楽と称し、一夜の歓楽を尽させて布教した例があった。一時甚しく勢力を張り、兇暴の行いがあったと伝えられる。フランス語の Assassin(アサッサン――殺人者、暗殺者)は Hashish と語源を同じゅうする。平次時代の天霊様はけだしその亜流ででもあろうか。





底本:「銭形平次捕物控(九)不死の霊薬」嶋中文庫、嶋中書店
   2005(平成17)年1月20日第1刷発行
底本の親本:「銭形平次捕物百話 第八巻」中央公論社
   1939(昭和14)年6月28日発行
初出:「オール讀物」文藝春秋社
   1939(昭和14)年5月号
入力:山口瑠美
校正:結城宏
2017年9月24日作成
2019年11月23日修正
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