銭形平次捕物控

お染の歎き

野村胡堂





「八、あの巡礼をけてみな」
 平次はあごをしゃくって見せました。が、浅草橋の御見附を越して、浜町の方へトボトボと辿たどって行く男巡礼、頽然たいぜんとした六十恰好の老爺に、何の不思議があろうとも、ガラッ八の八五郎には思えなかったのです。
「あの、まずい御詠歌をやって歩く――」
「そうだよ」
 八五郎はそれ以上の問答を重ねませんでした。主人の命令を受けた猟犬のような素早さで、老巡礼の後をヒタヒタとけて行ったのです。
 老巡礼は口の中で何やらブツブツつぶやきながら、一軒一軒の戸口に立って、恐ろしく下手な御詠歌を歌って歩きましたが、どこでも相手にしてくれそうな様子はありません。
 何軒目か――小意気なしもたやの前へ来ると、格子こうしが開いて、盆の上へ小銭をひねったのが一つ、四十恰好の女が差出しました。
 老巡礼の御詠歌は、その報謝とは関係なく、しばらくは続きましたが、歌が終ると、
「――お染やぁい」
 さまで、高くはありませんが、身に沁みるような悲痛な声が、老巡礼の唇をいて出たのです。
 主人あるじの女はしばらく躊躇ためらいましたが、やがて思い切った様子で、
「お前さん、どうしたというんだい、お染さんとかを、尋ねてでもいなさるのかい」
 老巡礼のきびすを返した後ろ姿に声をかけたのです。
「ハイハイ、左様でございますよ、おかみさん、――取って十九、左の眼が見えない、お染という娘を御存じじゃございませんか」
「お染さんというのは、一人二人知ってるけれど、左の眼が悪いのは知らないねえ」
「どなたも左様そうおっしゃいます。――やはりこの世では縁がないのでございましょう。――そう思ってあきらめようとは思いますが、浅ましいことには諦めきれません」
 老巡礼は声もない嗚咽おえつに、しわだらけな頬を引きつらせながら、ボロボロと涙をこぼしているのです。
「まア、お気の毒な」
 女主人は思わず鼻を詰らせましたが、それ以上に立入ったところで、どうにもならないと思い返した様子で、トボトボと遠ざかり行く、老巡礼の後ろ姿を見送るばかりでした。
「親分」
 八五郎は路地の外に居る平次の姿を見付けると、老巡礼から目を離して、そのそばに寄ります。
「シッ、――もう少しあの巡礼の後を跟けるんだ。俺は外に仕事がある」
「いやなじゃありませんか、親分、くくって二三ぞくぱたいてやりましょうか」
 ガラッ八の八五郎は、巡礼の愁歎を、物貰いの念入りな術だと思ったのでしょう。
「馬鹿なことをしちゃならねえ、――あれを見るがいい」
 平次の指さした方を見ると、十七八の綺麗な娘が一人、老巡礼の後を追って、どこまでもどこまでも見え隠れに跟けているのです。
「ヘエ、――筋がありそうですね、親分」
手前てめえはあの娘を知らないのか」
「この辺の者じゃありませんよ」
「この辺の者で、あれほどのきりょうなら、八五郎が知らないはずはないだろう」
「まア、そう言ったようなもので――」
「いやな野郎だな――とにかく、あの老爺おやじ鳥屋とやにつくまで、後を跟けてみるがいい。とんだ草臥儲くたびれもうけかも知れないが」
 平次はそれっきり、老巡礼も、娘も見捨ててしまいました。八五郎に言いつけておけば、地獄の底までも、執念深く跟けて行くことが解っているのです。


 このちまたの一些事さじが銭形平次の勘を裏切らずに、翌々日は思いも寄らぬ大事件になって現れました。
「親分、――来ましたぜ、あの娘が?」
「とうとう」
 ガラッ八の八五郎が、あわてて注進して来るのを、平次は妙に予期したような心持で待ち構えていたのでした。一昨日おととい老巡礼をけた娘の顔には、不思議な疑惑の色がありありと見えたばかりでなく、平次の方に記憶がなくとも、娘の方では平次をよく知っている様子だったのです。
「親分が焼け出されたと知らずに、元の家のあたりをウロウロしているのを、いい塩梅あんばいに拾って来ましたよ」
「どこに居るんだ」
「外ですよ」
「早くれて来な。うっかりすると、鳥は飛ぶぞ」
「ヘエ――」
 ガラッ八は外へ飛出しましたが、路地を二三度出たり入ったりしたと思うと、
「親分、た、大変ッ」
 格子の外から脳天に抜けそうな声を出します。
「何をあわてるんだ。――娘の姿が見えなくなったろう」
「それほど知っているなら、親分」
「だから、鳥が飛ぶぞ――と言ったじゃないか。十七や十八の娘が岡っ引の家へ来るのはよくよくだ。思い詰めてここまで辿たどりついても、いざとなると怖くなって逃出したんだろう」
 平次は思いの外泰然として驚く様子もありません。
「落着いていちゃいけませんよ、親分。――親のかたきを討ちたい――って言ったようだから」
「親の敵?」
「誰も相手にしてくれないが、銭形の親分なら、きっと筋道を立てて下さるに違いない――とも言いましたぜ」
「たいそう頼られたようだが、それにしちゃ逃げるのは変だぜ」
「どうしたものでしょう、親分」
「相手が若くて綺麗な娘だと、意気込みまで違ってくるぜ」
「そんなわけじゃねえが――」
「所、名前を訊かなかったのか」
「親分に逢ったら、申上げます――てやがる」
 八五郎は少しむくれて見せました。
「いずれまた思い直して来るだろう、二三日待ってみるがいい」
「そんな暢気のんきなことを言っているうちに、敵役は逃げてしまいますよ。何とかあの娘の家を突止める工夫はありませんか」
「たった一つある。――手前、この間の巡礼の宿を見極めて来たろうな」
谷中やなか笠守様かさもりさまの手前、木賃宿へ入ったところまで突止めましたよ」
「よし、それが判りゃ手繰たぐれるだろう。行ってみようか」
 銭形平次とガラッ八は、昼下がりの街を真っ直ぐに飛びました。
 谷中の木賃宿で、老巡礼をつかまえたのは、それから半刻(一時間)ほど後。
「何も怖がることはない。少しわけがあって、お前の身の上話が訊きたいのだよ。――お染とかいう娘のことから話してみるがいい」
 平次は穏やかな調子で切出しました。この辺は三輪みのわの万七の縄張で、番所へつれて行くとうるさいと思ったのでしょう。真昼の木賃宿のがら明きなのを幸い、裏の小部屋を一つ借りて、おどおどする老巡礼に相対したのです。
「みんな申上げます。親分さん、――私ほど因果なものはございません」
 老巡礼の話は最初から涙でれました。その筋を掻いつまんで言うと――。
 老爺おやじの名は百松ひゃくまつ、生れは川越在、今でもそこには、親類預けになったままの家も屋敷も、田も畑もあるのですが、東国西国の霊場を廻って七年目でようやく江戸まで辿り着いたというのです。
「娘のお染が二つのとき先妻に死に別れ、後添いのおらくという女房を貰いました。これは、才覚も容貌きりょうも十人並に優れていながら、まことに心掛けの悪い女で、自分の腹に生れたお七という娘可愛さに、継娘ままこのお染を、隣土地の悪者で、『贓品けいず買い』を片手間にしている音次郎おとじろうという者に十両の金をつけてやり、私の前や世間体を、神隠しに逢ったということにしていたのでございます」
「…………」
「当座はなげきも悲しみもしましたが、私もまだ老い朽ちた年でもなく、二番目娘のお七の成長を見ているうちに、お染のことを忘れるともなく年が経ちましたが、七年前、お七が疱瘡ほうそうで死んでからは、私の心持は、また、三つのとし行方知れずになったお染のことで一パイになり、その日その日の仕事にも身が入らない有様になりました」
「…………」
「その頃は女房のお楽も心がくじけ、その上巫女いちこの口寄せで、お染の生霊いきりょうの祟りで、お七が死んだと聞いては身も世もございません。渋る私を無理に口説き落して、十年前に長崎へ行ったという音次郎を尋ねながら、罪亡ぼしかたがた、西国巡礼の旅に出たのでございます」
 娘お染を捜しながら、贖罪しょくざいの旅は、それから七年の間続きました。音次郎は相変らず、贓品ぞうひんや抜荷を扱って、大坂から長崎へ、江戸へと移った後を尋ねて、骨にも沁むような艱難かんなんが、去年の暮、江戸へ入る一足手前の、神奈川の安宿で、お楽の命を奪ってしまったのです。
「一たんの過ちから、継娘を音次郎に始末させたお楽は、それからは一日一刻も安らかな心持はございませんでした。私と二人、拙い御詠歌を歌いながら、人様の門口かどぐちに立っては、ツイお染やぁい――と言ったのでございます。お染を捜し当てるまでは、地獄の底までも旅を続ける心算つもりでございましたが、何分の艱難に身体を痛めた上、風邪を引いたのがもとで、――お染、堪忍してくれ、済まない、済まないと言い続けながら死んでしまいました」
 老巡礼百松の話は、哀れ深く続きます。


「その娘の行方が、近頃になって判ったというのだろう」
 平次は百松の話のスピードを促すように、少しばかり先をくぐりました。
「音次郎が江戸で古道具屋をしているということが判って、飛んで参りました。谷中の八軒町で、手広くやっている川越屋、――あれが昔の音次郎でございます。七年目で捜し当てた嬉しさ、いきなり飛込んで店先で呶鳴どなり立てると、お前の娘などを知るものか、死んだ女房が夢でも見たんだろう――とけんもほろろの挨拶、二度目には私を突飛ばして下水の中にほうり込み、もう一度来やがったら、言い掛りを申立てて、見廻りのお役人に引渡すとこういう無法なことを申します」
「その音次郎のところに、娘があったはずだが、あれは誘拐かどわかされたお前の娘とは違うのかい」
 平次はちょっかいを掛けてみました。
「町内で評判者の娘でございますが、あれはまるっきり違います。私の娘のお染は取って十九になるはずですが、音次郎の娘はまだ十七ぐらいで、それに、お染は綺麗な娘でございましたが、可哀想に左の眼は、生れながら白いもやがかかっておりました。音次郎の娘は両方の眼が綺麗で、名前もおさきとか言うそうで――」
「それで諦めたというのか――」
「諦められるようなそんな生優しいことではございません。十七年前に女房のお楽が、十両の金をつけて始末を頼んだお染、音次郎が知らないはずはありません。死んだか、生きているか、売られたか、人にやったか、それを白状させるまでは毎日でも参ります。今日もこれから川越屋へ行くところでございましたよ」
 百松の一徹な顔には、炎のような執心が、メラメラと燃えるようにさえ思えるのです。
「ちょうどいい塩梅あんべえだ。一緒に行ってみよう」
「親分さんも」
「そうだよ。音次郎だって、木や石じゃあるめえ。この俺からも口を添えて、娘のありかを訊いてやろう」
「有難うございます。それでは親分さん」
 平次とガラッ八は、百松を先に立てて、そこからはほんの一丁場の八軒町に向いました。
 が、平次もガラッ八も、あまり、神経の鋭くないらしい百松も、八軒町に入って、次第に不思議な空気を感じました。
「おや? 変じゃないか、八」
「川越屋には忌中きちゅうの札が出てますよ、親分」
「…………」
 百松は何にも言わずに、ゴクリと固唾かたずを呑みます。
 店は半分とざしたまま、ガラクタ物の古道具が少々、その奥の方には、それでも二三人の男女が、若い娘を囲んで、しめやかに話している様子でした。
「取込みのところを気の毒だが、主人あるじの音次郎が居るだろうか」
 平次はその中へ、権柄けんぺいらしい顔もせずに入って行きました。
「あ、銭形の親分、――主人は亡くなりましたよ」
 立って来たのは、町内の庵室に行い済ましている蓼斎居士りょうさいこじという、発句ほっくも詠めば、経も読むといった法体の中年男でした。
「えッ、音次郎が死んだ?」
 一番驚いたのは老巡礼の百松です。
一昨日おとといの晩、娘のお崎さんの留守中に、くびくくって死にましたよ」
 蓼斎の後ろから顔を出したのは、下谷したや一番と言われた万両分限の主人、佐野屋正兵衛さのやしょうべえの分別顔でした。
「お前さんは、佐野屋さん?」
「この谷中の奥に小さい寮があるので、店の前を通るごとに、古道具を冷かしたりして、川越屋とは懇意になりましたよ」
 佐野屋正兵衛は弁解ともなく、こんなことを言うのです。
 その間、娘のお崎は黙って首をうな垂れておりました。二度まで平次やガラッ八に顔を合せたのを、ここでは言って貰いたくなかったのでしょう。
 近所の衆らしい女達も、コソコソと帰りました。続いて蓼斎と正兵衛も、用事をこしらえて立ち上がります。残ったのは、店で使っている十五六の小僧が一人と、あとは娘のお崎だけ。
「お崎さんとか言ったね。――お前と顔を合せるのも、これで三度目だ。込み入った話がありそうだが――」
 平次は静かに煙草入を抜きます。八五郎はその間に気をきかせて、老巡礼の百松と小僧の栄吉えいきちを外に連れ出します。
「四度目ですよ、親分さん」
「はて?」
「一と月ばかり前、近所の寺方へ押込が入ったとやらで、三輪の親分さんと一緒にお出でになりました」
 お崎は思いの外ハキハキしております。そう言われるとどこかで見たことのあるような、――美しいというよりは、愛くるしい、聡明そうな顔立ちが人を牽付ひきつけます。
「そんなこともあったね」
 しばらく江戸中の神社仏閣を荒らし廻って、古文書、古写経、古版の経文から、本尊の仏体仏具まで手当り次第に盗み歩いた不思議な怪盗の詮索に、谷中の寺町まで来たことのあるのを、平次も思い出したのです。
「ところで、いろいろ聴きたいことがあるが、父親の死んだことについて、何かに落ちないことでもあるのかい。――八五郎に、親の敵を討ちたいと言ったそうだが」
 平次は静かな調子で、お崎の話を引出しにかかりました。
「あんなに機嫌のいい父親ととさんが、死ぬ気になるはずはありません。それに」
「……?」
「私には不思議なことばかりでした」
「最初から順序を立てて話して貰おうか」
 処女おとめの感傷を整理して、平次はお崎の話に筋道をつけて行くのでした。
 それによると、――老巡礼百松が、変な掛け合いに来るのは、お崎もかなり神経を痛めた様子で、その誘拐かどわかされた娘のお染とやらのことを、もう一度詳しく訊く心算つもりで、一昨日おととい思い切って老巡礼の後をけ、話しかける折もなく、柳橋を渡って両国まで出てしまったというのです。
 気のついた時はもう夕暮、女の足では明るいうちに帰れそうもなかったので、柳橋の知合のうちを訪ねて、晩飯の世話になり、そこの隠居と小僧に送られて、谷中の自分の家へ帰ってみると、父親の音次郎は、店先の三十貫もあろうと思う仏像に縄をかけ、その一端を長押なげしの上から、居間に通して、その縄の端っこでくびを吊って死んでいたのです。
 お崎の驚きは言うまでもありません。大声で近所の人を呼び集め、父の死骸を長押からおろしましたが、身体にまだ温か味が残っているくせに、もう息を吹き返させるすべもなかったのでした。
 騒ぎの中へ小僧の栄吉は帰って来ました。一刻ばかり前、急ぎの用事で本郷まで使いに出されましたが、門口を出るとき、始終店へ遊びに来る蓼斎に逢ったので、安心して出かけたと言うのです。
 町内の人達も駆け付け、翌日は変死人としての検屍けんしも済ませましたが、生前人付合いの悪かった音次郎には、友達も親類もなく、わずかに下谷の万両分限佐野屋正兵衛が、親身になって世話をしてくれ、やがて、孤児みなしごになったお崎も、一七日ひとなのかが済んだら、店を畳んで引取ろうと言い出してくれました。
 形ばかりの葬式を済ましたのは昨日きのう、何もかもこれでおしまいになって行くのを見ると、お崎は胸に畳んだ大きな疑問のやり場もなく、そっと脱け出して、評判の銭形平次に訴えようとしたのですが、御検屍まで済んだのを、荒立てて世間を騒がすでもあるまい――といった、処女らしい弱気に誘われて、平次の家の格子戸の前から、追われるように帰って来たのは、ツイ今しがたであった――とこう言うのでした。
「父親の死んだのが、尋常でないとどうして解ったのだ」
 平次は尋ねました。
「言っても構わないでしょうか、親分」
「構わないとも、――俺の胸一つに畳んでおいて、滅多にお前に迷惑のかかるようにはしない心算つもりだ」
くびくくるのに、長押なげしの上へ縄を通して、その先へ仏様を縛ったのは変じゃありませんか、仏様は台座から落ちて、床に転げていましたが――」
 お崎の眼は、涙に濡れながらもピチピチした智恵に輝きます。
「縄は輪にして、頸へ引っかけてあったのだね」
「いえ、頸の後ろで堅く縛ってありました」
「すると踏台は?」
「何にもありません」
「すると、縄にブラ下がって、宙で自分の頸を縛ったことになるが――」
 平次の頭脳はもう、この事件から「不合理」を嗅ぎ出したのです。
「お役人様方も、佐野屋の旦那も、お父さんは頸を縄で縛ったまま、店のお仏像を台座から突き落し、自分の身体が重いお仏像に吊られて、足が浮いたのだとおっしゃいました」
「なるほど」
「でも――」
 お崎の処女らしい、鋭い叡智が、どこが怪しいということもなく、この仮説に反対しているのでした。
 平次は立ち上がって、いろいろ調べてみました。居間の中には、案外道具らしいものはなく、長火鉢はありますが、それは反対の隅の方で、踏台の代りにはならず、炭取りや、箱膳はあったにしても、これも踏台になるほどのものではありません。
 勝手から真物ほんものの踏台を持って来て、暖簾のれんをかけた店口の上の長押を調べました。頸吊り縄の跡は、わずかに埃の上に印されただけ、ここを重点にして、十六七貫の人間を、三十貫あまりの仏体が引摺り上げた様子もなかったのです。
 店へ行ってみると、仏像はまだ台座から転げ落ちたまま、片隅に寄せられてありますが、恐ろしく頑固な青銅製で、たぶん露仏に建立したものでしょう。少しの剥落はくらくも損傷もなく、この仏像を転がし落された不釣合に高い木製の蓮台にも、不思議なことに、大した傷も見付からなかったのでした。
「なるほど、こいつは少し変だ。こんな手数のかかる頸の吊りようをする人間もあるまいが、こんな手数のかかる人殺しも始めてだ」
 平次もさすがにうならされます。現場に駆け付けて、死骸を一目見ることが出来たら、何とか解決の鍵をつかむことも出来たでしょうが、何もかも済んでしまった今となっては、どうすることも出来ません。音次郎の死骸は昨日のうちに、一切の手続が済んで葬ってしまったのです。


「親分、――変なものがありますよ」
 ガラッ八が店の隅から頓狂な声を出しました。
「何だ、八、騒々しいじゃないか」
「こいつは驚くぞ、親分、外から見えるように並べたのはガラクタだが、戸棚の奥や、台の下や、風呂敷の中にはピカピカしたものばかりだ」
「…………」
「こいつは、お触れ書の廻った品ですよ、親分」
「何だと」
「俺には何が何やら解らないが、経文だの、仏具だの、お仏様だの、――いや、こいつは大変ッ」
 あまりの騒ぎに、平次も飛んで行ってみました。ガラッ八の面白そうに動く手に従って引っ張り出されたのは、ごとごとくお奉行所のお触れ書に載った贓品ぞうひんばかり。この一二年の間に、江戸中の寺々から盗み集めた宝物のうち、十の二つ三つはここにあると言っても差支えはなかったでしょう。
「なるほどこいつは大変だ。寺方の関係だから大急ぎで寺社のお係りへも届けてくれ。それから、お山同心にも申上げるんだ」
 平次はもう、お崎の感傷になど係り合ってはいられませんでした。
 間もなく見廻り同心が出張して、川越屋の家中を引っくり返して調べると、盗み溜めた寺方の宝物は、仏像仏具、経文合せて八十幾点、床下と天井裏に隠した金銀は、ザッと二千三百両。あまりのことに、役人方もしばらくは口もきけないほどの驚きです。
 寺荒らしの怪盗は、武州無宿の音次郎と判り、娘のお崎も幾度も幾度も取調べを受けましたが、これは兇悪無慙むざん曲者くせものの娘らしくもなく、あまりに清純なのと、父親の悪事を毛ほども知らなかったので役人方を驚かしました。
 この騒ぎが江戸中に拡がると、三輪の万七は、憤々ぷんぷんとして駆け付け、平次に嫌味の数々を聞かせながら、必死となって探索を始めました。
「親分、とうとう三輪のが出しゃ張って巡礼の老爺おやじを縛ってしまいましたよ」
 ガラッ八がそう言って来たのは、その翌々日でした。
「何? あの百松を縛ったというのかえ」
「蓼斎があの晩、川越屋の裏のあたりをウロウロしている老爺じじいを見たんだそうですよ」
「そんなこともあるだろうが――少し困ったことになったよ」
「何が困るんで、親分」
「俺はほかのことを考えていたんだ。あの老爺おやじは人などを殺せるはずはないが――三つの時誘拐かどわかされた娘を捜して、七年の間巡礼すると、どんな心持になるかな」
「とにかく、娘を誘拐したのは音次郎でしょう。娘を捜して七年もの間苦労した人間だから、怨みもまた人一倍じゃありませんか」
「それも理窟だが、――娘の行方は、まだ判らないだろう。音次郎が死んでしまえば、その娘の行方は、この先も判る道理はない」
「なるほどね」
「音次郎の口をふさいだのは、あの百松じゃあるまいよ」
 そんな話をしているところへ、飛脚屋から赤紙付の手紙を一通届けて来ました。
「手紙ですよ、親分」
「それを待っていたんだ」
 平次は封を切るのももどかしそうに、ザッと手紙に眼を通します。
「親分」
 後ろから覗く八五郎。
「八、――この通りだ。あの巡礼の百松は真物ほんものか偽物か、川越へ手紙をやって調べて貰ったんだ。その返事はいちいちあの老爺の言う通り、少しの喰い違いもない。頸筋の痰瘤たんこぶのことまで書いてある。これで俺の考えが決ったよ」
 平次は手紙を畳み直して立ち上がりました。
「どう決ったんで――」
「あの老爺が、川越在の百姓百松に相違ないと解れば、今度はお崎の身の上を調べてみなきゃならない。手前は、あの娘の顔に見覚えがあると思わないか」
「そう言えばどこかで見たことのある顔ですよ。ずっと遠い昔のようでもあり、ツイ二三日前のようでもあり、――ニッと笑靨えくぼの寄る所が」
「それじゃ、あの百松をどこかで見たことはないか――」
「そう言えば、あの小汚い老爺じじいもどこかで見ましたよ。何かの弾みで、二三本しか残らない歯を出して笑う顔が――」
「ね」
「あッ、ちげえねえ、あの百松老爺と、お崎の顔が、どこか似ているんじゃありませんか、親分」
「気が付いたか、八、若い娘と六十の爺さんだ。ちょっと見じゃ似たところもないが、何かの拍子に、二人の面差おもざしに似たところがある。それを俺も手前も、遠い遠い昔に逢った人のように考えていたのだよ。――来い、八、面白いことを見せてやる」
 平次は八五郎を引摺るように、川越屋へ飛んで行きました。
 裏口から入ると、寒々とした居間に、お崎はたった一人、深々と物を考えております。父親が非業に死んだ上、その父親が寺荒らしの一番冒涜ぼうとく的な大泥棒と知れては、全く世間へ顔向けをする気力もありません。
「お崎さん、ちょっと昌平橋しょうへいばしまで一緒に行ってくれ」
 平次の飛込んだ姿を、
「…………」
 お崎は怨めしそうに見やるばかりです。
 その気の進まないのを、どんなに骨を折ってつれ出したことでしょう。昌平橋の角井憲庵かどいけんあん――その頃蘭法で聞えた名医のところへ、半ば権柄けんぺいずくでつれ込んだのは、その日の夕方でした。
「この娘の左の眼を見てやって下さい。――これは生れながらの丈夫な眼でしょうか、――それとも」
 平次のせき込んだ調子を、憲庵は大医らしい沈着さで眺めながら、静かに天眼鏡を取って、お崎の眼を診察し始めました。
「フーム」
 しばらく何やら考え込む憲庵。
「どうでしょう先生、この娘の眼が生れつき良いか悪いかで、大変なことになるんですが」
「生れつきの良い眼ではないな」
「しめたッ」
 平次はすっかり興奮して、日頃にもないせっかちな顔を突き出します。
「これは手を入れた眼だよ、銭形の、――決して生れつきの良い眼ではない。が、待ってくれ、これほどの療治をする名医は、江戸はおろか、京にも大坂にもないはずだが――」
「長崎ですよ、先生ッ、十六七年前、長崎で療治したのですよ」
「十六七年前長崎で?―― なるほどそれで合点が行った、蘭法の療治を受けたのだろう。それならばよく解る。子供の時は、たぶん白いもやのかかった眼であったはずだ」
「その通りですよ、先生ッ」
「一体、それがどうしたというのだ」
 角井憲庵も何が何やら解りません。
「それが解れば、この娘の仕合せです、大泥棒の娘でないということを、角井憲庵先生が保証してくれたようなものですから」
「…………」
 二人の応対に現れる事件の進展の奇っ怪さに、当のお崎はただ眼をみはるばかりです。
「お崎さん、お前は小さいとき長崎に居た覚えはないか」
「…………」
 お崎は悲しく頭を振りました。よしんば長崎に居たことがあるにしても、それはお崎が三歳みっつの時でなければならないのです。
「眼の療治をした覚えがあるだろう」
「え、それなら夢のように覚えております。毎日お医者に通うのがいやで、さんざん泣いたことを――」
「よしよし、それだけでたくさんだ」
「すると親分?」
 お崎の眼は疑惑と不安に動きます。
「驚いてはいけないよ、お前は川越屋音次郎の娘ではない。今から十七年前、音次郎に誘拐かどわかされて長崎へ行った、あの百松の娘のお染だよ」
「…………」
 お崎の唇の色がサッと変ったのです。
「音次郎は長崎で抜荷を扱うついでに、お前の眼の療治をしてやったが、あんまり可愛かったので、本当の娘にして育てる気になったのだろう。それにはお染ではいけない。長崎で生れ変ったから、お崎と名を変え、大坂、京都から江戸へと流れて来たのだろう」
「…………」
 大泥棒の娘でないと解ったお崎のお染は、その次は、人殺しの娘としての自分を見出したのです。


 お崎とお染には、二つぐらい年齢としの隔りがあるように思いますが、誘拐かどわかした日を誕生と勘定し、子供心に教え込んで育てさえすれば、二つや三つの年齢はどうにでもなるでしょう。
 お染のような綺麗な娘は、十九と言っても、十七と言っても、世間ではそのまま受け容れてくれるに何の不思議もありません。
 話の辻褄つじつまはそれで合いました。お崎も自分がお染だったことに、何の疑いも挟みませんが、そう信ずる一方には、恐ろしい呵責かしゃくしもとが、犇々ひしひしとお染の心をさいなむのです。
 親の敵と思い込んでいるうちは、百松が縛られたのを、い心持で見ておりましたが、その百松が自分の本当の親と判ると、自分が口添えして縛らせたような気がして、もう一刻もジッとしてはいられなかったのでした。
「親分さん」
 八軒町の川越屋を見捨てて、柳原の知合という家に落着いたお崎のお染は、近間ちかまに居るのを幸い、毎日平次を訪ねて、百松にかかる疑いを解くようにと頼み込むのでした。
 一方死んだのちの父親、音次郎と懇意だった万両分限の佐野屋正兵衛は、いろいろ説きすすめて、自分のところへ引取って世話をしようと言い出しますが、お染は平次夫婦の人柄に打ち込んで、万両分限の養い娘になろうという気もなく、ひたすら平次の家に日参して、百松の許される日ばかり待っております。
 平次はその間にも活動を続けました。あらゆる証拠が百松を下手人として示しているにも拘わらず、百松の純情だけを頼りに、群がる疑いを解いてやろうと思い定めたのです。
 蓼斎の庵室を平次が訪ねたのは、それから四五日後でした。
「ね、宗匠、――こんなわけで、百松が可哀相でならねえ。百松が三輪の万七に縛られたのは、お前さんの口一つだったんだから、もし、百松が無実なら、とんだ罪をつくるわけで、もう一度、あの晩のことを考えちゃ下さるまいか」
 平次の折入った顔を、蓼斎もつくづく見やります。
「なるほど、親分にそう言われると、私も寝醒めがよくねえ。私の力で出来ることなら、どんなことでもしてやりたいが――」
 り丸めた頭の手前、蓼斎もひどくこうじ果てた様子でした。
「宗匠があの家へ出入りするようになったのは、どんな関係かかりあいで?――」
「なにね、ちょいちょい面白い道具があるから、店を覗いてみたのが始まりで」
「川越屋をまともな商人と思ったのですかい」
「いや、最初は気が付かなかったが、近頃は由緒のある寺々の宝物を持っているから、まさか泥棒とは思わないまでも、『贓品けいず買い』をしているものだと気が付いて、それから遠退とおのくようにしていましたよ」
「…………」
「一二度は意見もしてみたが、人の言うことなどを聞く男じゃなかった。――私もツイ腹が立って、そんなことをするのは仏敵だから、どんな罰が当るかも知れない。今のうちに気を付けるがよい――くらいのことは言ってやりましたよ」
「どうしてあっし達の耳に入れて下さらなかったんです」
「そう言われると一言もない。仏様のために、音次郎を打ち殺す気になったかも知れないが、訴人する気は、毛頭なかった」
 蓼斎はそう言って、よく光る額を叩くのです。
「ところで、あんな殺しようをするのは、どんな人間でしょう。大抵の人間なら、怨みがあっても、殺しただけで済みそうなものだが、わざわざ縄で吊上げて、仏様を下手人にするのはどういうわけでしょう」
 平次はそれが聞きたかったのでしょう。
「私にも解らないが、――いずれは仏様を仏様と思わない人間のすることだろう。朝夕念仏の一つもとなえるものに、あんな罰当りなことが出来るわけはない」
 蓼斎はそう言って、思い出したように数珠じゅず爪繰つまぐるのでした。
「仏様を仏様と思わない人間?」
 平次はまた深々と考え込みます。
 そのあくる日、平次は下谷の佐野屋正兵衛を訪ねてみる気になりました。一つは、お染が執念深く佐野屋の勧誘を受けて、断り切れそうもなくなっているので、平次はその代理に、はっきりお染の意志を伝えて、七年越し自分を捜してくれた父の百松と一緒に、川越の在所に帰るより外に望みのないことを言う心算つもりだったのです。
 大名の下屋敷ほどある佐野屋の豪勢な屋敷を訪ねた平次は、五六人の盛装を凝らした女中に、次々と案内されて、思いも寄らぬ奥の一間に通されました。
 正面に燦爛さんらんとして輝くのは、二間ほどの大仏壇で、その前に端座して、何やらゴツゴツやっているのは、主人の正兵衛でした。ややしばらく待っていると、勤行ごんぎょうを終った正兵衛は、水晶の念珠をたもとに納めて、静かにこっちへ向き直りました。
「銭形の親分、とんだお待たせしました」
「いえ、どう致しまして、あっしこそとんだ邪魔で――」
「朝夕二度のお経を上げないと、どうも私は気が済まないのでな。――ところで、御用は? 親分」
 まだ四十そこそこでしょう。蒼白あおじろくて品の良い正兵衛は、女中どもに何やら言い付けながら、思い出したように、こう言うのでした。
「何でもありゃしません。――あの晩、川越屋へ旦那がいらしったのは、ありゃ何刻でした」
「えッ」
 平次の言葉は自信に満ちております。相手は諸大名の御金用達、苗字帯刀みょうじたいとうも許されている佐野屋正兵衛ですから、岡っ引の平次は対等の口をきけるわけもなかったのですが、相手の調子に少しの躊躇ちゅうちょがあると、職業的な平次の攻撃がヒタヒタとその弱点に付け入るのです。
「旦那、隠しちゃいけません。あの死骸を吊った縄の結び目は、羽織や足袋たびひもより外に、物を結んだことのない人間の仕業だし、床に転がった仏像の下に、何があったと思います」
「…………」
 正兵衛はサッと蒼くなると、しきりに自分の腰のあたりを捜し始めました。
「佐野屋さん、外には子分が二三十人、手ぐすね引いてあっしの合図を待っていますよ。踏込んで家捜しすれば、川越屋の音次郎が、諸方の寺々から盗み出した、宝物の三つや四つは、この屋敷から出るはず、のがれっこはありませんよ、旦那」
「…………」
「川越屋を殺したのは、わけのあることでしょう。それを聞こうじゃありませんか」
「…………」
「仏像を下手人にした手際は、並大抵の人間に出来ることじゃない。仏像を仏像とも思わない人間というと、手近なところお前さんより外にはないはずだ。お釈迦も観音様も、お前さんが見れば、何百両、何千両の金と見える。ね、そうじゃありませんか。大仏壇の前へ客を通して、出鱈目でたらめの経を読むのを見て、私はすっかり謎が解けたような気がしますよ」
 平次は一気にまくし立てました。
「恐れ入った、親分、私が悪かった。――いかにも、音次郎を仏像に吊ったのはこの私に相違ない。が、音次郎を殺したのは私じゃない」
「…………」
 佐野屋は畳の上に両手を突きながら最後の抗弁を続けます。
「あの晩、音次郎に呼出されて行った。――今まで三四度、盗んだ物と知りながら、品にれてツイ買い取ったのを、音次郎の強請ゆすりの種にされ、恐ろしく高いものを、次から次と買わされたのだ。――今度はあの三十貫余りの仏像、明日にも五百両で引取ってくれという難題だ。あんまり馬鹿馬鹿しいから断ると、目安箱へ一本ほうり込んで、佐野屋の家捜しをさせる。贓品ぞうひんが五つでも六つでも出て来たら、この私は処刑おしおき、家は欠所に決っている。その時は川越屋も無事では済むまいと言うと、川越屋などは身上も気も軽いから、訴え出る日は江戸をずらかる日だ――とこう言うのだ」
「…………」
「仕方がないから言いなり放題になる心算つもりで、あの晩も出向いて行くと、驚いたことに当の音次郎は長火鉢の前でくびり殺されているのだ。一時は驚いて逃げ帰ろうと思ったが、日頃の怨みがムラムラと湧いて、何としてもしゃくにさわってたまらない。あの仏像を明日はここへ運ばせる心算で、店に用意してあった縄を外し、床の上の仏像から居間の長押なげしの上を通して、死骸を吊り上げてやったに違いない。――あとで、あんな無法なことをしなきゃよかったと思ったが、その時は、あんまり腹が立って、仏像でも背負しょって、地獄へでも行きやがれと思ってしたことだ。親分、これは嘘も駆引もない話だ。どうぞ、穏便にして下さい。この通り、――佐野屋の身代を、半分差上げてもいい、お願いだ」
 正兵衛は本当に、畳に面形めんがたを押さぬばかりにかき口説くのです。
「そんな気障きざなことを言うと、穏便にするどころか、思い切り荒立てたくなるよ。本当に悪かったと思ったら、信心でもない仏様いじりなんかして、少しは貧乏人にでも恵んでやんなさい。――ところで、そうすると本当の下手人は誰ということになるだろう」
 平次もここまで来ると、ハタと行詰りました。佐野屋正兵衛は贅沢ぜいたくこうじた性格の破産者には違いありませんが、言うことは嘘らしくもありません。
「親分、万一の場合、私が疑われてはかなわないから、音次郎の頸に巻いた古手拭を、あの店にある大きなかめの中へほうり込んで来ましたよ。それが何かの証拠になりゃしませんか」
「…………」
 平次の頭の中には新しい光明がパッと射しました。


 川越屋に取って返して、店の瓶の中を見ると、佐野屋が言った通り、煮〆にしめたような手拭が一筋、少しばかり血のにじんだのが出て来ました。
 その足で笠森稲荷側かさもりいなりわきの安宿に取って返すと、
「親分さん、巡礼の爺さんが、帰って来ましたよ。とんだお骨折りで」
 主人あるじがそんなことを言って迎えるのです。あごを一つしゃくって通して貰うと、狭い汚い部屋の隅っこに、一塊の襤褸ぼろをつくねたように、百松は縮こまっているのでした。
「有難うございました、親分さん、お蔭様で許されて参りました。――銭形の親分さんのお口添えがありましたそうで、そのうえ娘の行方まで判って、こんな嬉しいことはございません」
 百松はそう言い続けながら、フト挙げた眼が、銭形の平次の手に持っている古手拭に止まったのです。
「爺さん、この手拭を知っているだろうな」
「…………」
 百松の渋紙色の顔はサッと血の気がうせます。
「みんな申上げた方がいいよ」
「ハイ、申します、みんな申上げます。――その代り、娘がもうここへ来るはずになっております。せめて十七年目で親子名乗のすむまで、縛ることだけは勘弁して下さい」
「…………」
「あの晩、私は音次郎の家へ行きました。あのお崎という娘が、私の娘のお染に違いないと、私は心のうちできめていたのでございます」
「…………」
「年が違っても、眼が二つとも黒々としていても、自分の娘をいつまでも知らずにいるはずはございません。両国から帰るとすぐ、川越屋へ行って、娘を返せと強談ごうだんすると、――あの音次郎の奴が、いかにも、お崎はお前の娘のお染に相違ないが、いつかはお前にさとられるだろうと思って、遠方へ、二度とここへ帰られない遠方へやってしまった――とこう言うじゃございませんか」
「…………」
 平次は黙ってその先を促しました。
「あさっての方を向いて、煙草を輪に吹く姿の憎々しさ。ツイ、かっとなって、後ろから頸筋へ手拭を巻いてしまいました。――あとは無我夢中、気の付いた時は、ここへ帰って来ておこりのようにふるえておりました」
「…………」
「親分さん、私はたしかに音次郎を殺しました。すぐにも名乗って出る心算つもりでしたが、親分と一緒に川越屋へ行って、お染の無事な顔を見た時、すっかり考えが変ってしまいました。せめて、十七年目で、父娘の名乗合いをするまで、隠せるものなら隠しおおせようと、こう思い定めたのでございます」
「…………」
 老巡礼の百松は、平次のすそすがり付いて、無い歯を噛みしめながらむせび泣くのです。
「今晩、柳原から娘が来るはずになっております。たった一晩、名残を惜しませて下さい、親分さん。――あれ、そう言ううちにも、誰か、門口かどぐちへ来た様子――」
 神経の極度に立っている百松は、門口の跫音あしおとを聴き付けて、もうフラフラと立ち上がるのでした。
 廊下を踏む女の跫音。
「父さん」
 破れた唐紙は外から開いて、パッと飛込んで来たのは匂うばかりのお染、一塊の花束のように、ヨロヨロと立ち上がった百松の両腕もろうでの中へその身体を投げかけたのです。
「お染」
「父さん」
 激情の情景シーン背後うしろに、銭形平次はそっと部屋の外に滑り出ました。
「親分」
 お染を送って来たガラッ八のなんがい顔が、そこにあったのです。
「八、帰ろう」
「下手人の当りは? 親分」
「縛られた仏様に訊くがいい。俺はもう岡っ引は厭だ。明日は八丁堀へ行って、十手捕縄を返上するよ」
「またいつものが始まったぜ」
 平次の後を追って、ガラッ八も外へ飛出しました。
 襟もとがゾクゾクする二月の谷中道、涙に濡れた平次の頬を、梅の匂いが、ほのかに吹いて過ぎます。





底本:「銭形平次捕物控(八)お珊文身調べ」嶋中文庫、嶋中書店
   2004(平成16)年12月20日第1刷発行
底本の親本:「銭形平次捕物百話 第七巻」中央公論社
   1939(昭和14)年5月25日発行
初出:「オール讀物」文藝春秋社
   1939(昭和14)年1月号
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
校正:北川松生
2017年9月13日作成
2019年11月23日修正
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