奇面城の秘密

江戸川乱歩




怪人四十面相


 ある日、麹町こうじまち高級アパートの明智あけち探偵事務所へ、ひとりのりっぱな紳士がたずねてきました。それは東京のみなと区にすんでいる神山正夫かみやままさおという実業家で、たくさんの会社の重役をしている人でした。その神山さんが、明智探偵としたしい友だちの実業家の紹介状をもって、たずねてきたのです。
 明智は、神山さんを応接室にとおして、どういうご用かと聞きますと、神山さんは、心配そうな顔で、
「じつは、明智さん。わたしは怪人四十面相に、脅迫されているのです。」
と、恐ろしいことをいうのでした。
「エッ、怪人四十面相? そいつのもとの名は怪人二十面相ですね。しかし、そいつは、三つきばかりまえに、『宇宙怪人』の事件で、わたしがとらえて、いまは、刑務所にはいっているはずですが……。」
 明智探偵は、いぶかしそうにいいました。
「ところが、やつは、とっくに牢やぶりをしていたのです。」
「それはおかしい。あいつが牢やぶりをすれば、すぐにわたしの耳にはいるはずです。また、新聞にものるはずです。わたしは、まったく、そういうことを聞いておりません。」
「いや、それが、いまさっき、わかったのです。わたしは、この事件を警察にしらせました。警察でも、あなたとおなじようにふしぎに思って、刑務所をしらべたのです。すると、どうでしょう。四十面相はいつのまにか、まったくべつの人間といれかわっていたのです。
 四十面相によくにた男が、身がわりになって刑務所の独房どくぼうにはいっていたのです。よくにているので、刑務所の係員も、いままで気づかないでいたというのです。いつ、どうして、このかえだまと、いれかわったかは、いくらしらべても、わからないのです。四十面相のかえだまになったやつは、ばかみたいな男で、なにをたずねても、エヘラ、エヘラ、笑っているばかりで、どうすることも、できないのだそうです。」
 それを聞くと明智探偵の顔が、ぐっと、ひきしまりました。いっこくも、すてておけない大事件です。
「ちょっと、お待ちください。」
 明智はそういって、いすから立つと、部屋のすみのデスクの上の電話器をとりました。そして、しばらく話していましたが、もとのいすにもどって、
「いま、警視庁の中村警部にたずねてみましたが、おっしゃるとおりです。四十面相はずっとまえから、刑務所をぬけ出していたらしいのです。……ところで、その四十面相が、あなたを脅迫したというのは?」
「まず、さいしょは、十日ばかりまえに、とつぜん、へんな声の電話がかかってきたのです。きみのわるい、しわがれ声でした。
 その声が、近いうちに、レンブラントのS夫人像をちょうだいにいくから、用心するがいいと、恐ろしいことをいって、ぷっつり電話をきってしまいました。
 レンブラントのS夫人像というのは、昨年わたしがフランスで手に入れてきたもので、数千万円のねうちの油絵です。これは、わたしが持ちかえったときに新聞にものりましたから、ごぞんじのことと思います。」
「知っています。あれは、日本人のもっている洋画のうちで、最高のものでしょう。その油絵は、どこにおいてあるのですか。」
「わたしのうちの洋館の二階の美術室にかけてあります。その部屋には、いろいろな西洋画がならべてあるのですが、みなレンブラントの足もとにもおよばないものばかりです。四十面相がレンブラントだけをねらったのは、さすがに目がたかいというものです。」
 神山さんは、そういって、にが笑いをするのでした。
「で、まだ、ぬすまれたわけでは、ないのですね?」
「まだです。しかし、ここ四、五日があぶないと思います。じつは、きのうの朝、寝室で目をさましますと、ベッドのそばの机に、こんな手紙がのせてありました。うちのものをしらべても、だれも知らないといいます。どこから、どうしてはいってきたか、まったくわからないのです。」
 神山さんは、ポケットから西洋ぶうとうをとりだし、なかの手紙を明智にわたしました。それには、こんな恐ろしい文句が書いてあったのです。
 レンブラントのS夫人像は、きょうから五日のあいだに、かならずちょうだいする。じゅうぶん警戒するがよろしい。きみのやしきを、警官隊にとりまかせても、おれはへいきだ。おれは魔法つかいだからね。では、きみのだいじなレンブラントに、わかれをつげておきたまえ。
四十面相より
「この手紙で、はじめて、あいてが四十面相とわかったのです。ひょっとしたら、だれかのいたずらじゃないかと思いましたが、ねんのために警察にとどけると、警察では刑務所をしらべ、さっきもお話したように、四十面相が脱獄だつごくしていることがわかったのです。
 警察では、けさから、十人の警官を、わたしのうちへよこして、警戒にあたらせてくれました。夜昼こうたいで、いつも十人の見はりがついているのです。それに、わたしのうちには大学にかよっているむすこもいますし、書生しょせいもふたりいるほかに、わたしが社長をしている会社の若い社員に、三人ほどとまりにきてもらっているので、美術室のまわりはむろん、やしきのまわりにも、ぐるっと、見はりがついているわけです。
 警察では、いくら四十面相でも、これだけ警戒すれば、だいじょうぶだろうというのですが、なにしろ四十面相というやつは、魔法つかいですからね。わたしは、どうも安心ができないのです。
 そこで、これまで、たびたび四十面相を手がけていらっしゃる明智さんに、ご相談するほかはないと考えたわけです。ひとつ、お力をおかしねがえないでしょうか。」
 明智探偵はそれを聞くと、ふかくうなずきながら、
「しょうちしました。できるだけやってみましょう。いまの電話で、中村警部も、わたしに手をかしてくれとたのんでいました。
 それに四十面相は、二十面相と名のっていたころから、わたしにとっては、きってもきれない関係のあるやつですからね。こいつがあらわれたと聞いては、わたしも、うしろを見せるわけにはいきませんよ。」
と、にっこり笑ってみせるのでした。神山さんは、たのもしげに明智の顔を見て、
「それをうかがって、わたしも安心しました。わたしのためばかりではありません。四十面相をのばなしにしておいたなら、どんな恐ろしいことをはじめるかしれませんからね。世間のためですよ。どうか、お力をおかしください。」
「よくわかりました。では、これからごいっしょに行って、おたくを拝見することにしましょう。ことに美術室は、よく見ておかなければなりません。それには、わたしひとりでなく、少年助手の小林こばやしをつれて行きたいのですが、かまいませんでしょうね。小林は、よくあたまのはたらく、すばしっこい少年で、たいへん手だすけになるのです。」
「かまいませんとも。小林少年のことは、わたしもよく知っていますよ。わたしのすえの男の子どもが、小学校六年生ですが、これが小林君の大ファンなのですよ。小林君がきてくださったら、大よろこびでしょう。」
「ハハハハ……、小林は、少年諸君に、すっかり有名になってしまいましたからね。小林が町を歩いていると、小学生の男の子や女の子が集まってきて、サインをもとめるのですよ。そんなとき、小林ははずかしがって、顔をまっ赤にしていますがね。」
「そうでしょう。うちの子どもなんかも、小林少年に夢中ですからね。」
 そこで明智がベルをおしますと、じきにドアがひらいて、りんごのようなほおをした小林少年の顔がのぞきました。
「小林君、四十面相が脱獄したんだ。そして、この神山さんのおうちにあるレンブラントの油絵を、ぬすみだすという予告をしたんだ。いつものやりくちだよ。で、いまから神山さんのおたくへいくのだが、きみもいっしょにきてくれないか。」
「ええ、つれてってください。でも、四十面相のやつ、どうして脱獄したのですか。」
「それは、車の中でゆっくり話す。かえだまをつかったんだよ。」
「あ、それじゃあ、いつかの手ですね。」
「うん、あいつのとくいのやりくちだ。……どうだ、小林君、むしゃぶるいが出ないかね。こんどは、きみに大役たいやくをつとめてもらうつもりだよ。」
「ええ、ぼく、なんでもやります。あいつには、ずいぶん、ひどいめにあっているのですからね。かたきうちです。」
 そして、三人は階段をおり、アパートの入口にまたせてあった神山さんの自動車に乗って、港区の神山邸へといそぐのでした。

アドニスの像


 明智探偵と小林少年は神山邸につくと、見はりをつとめている警官とも話しあい、やしきのうちそとを、くまなく見てまわり、ことにレンブラントの油絵のかかっている美術室は、ねんいりにしらべました。そしてある計画をたてたのです。それが、どんな計画だったかは、やがて、わかるときがくるでしょう。
 それから四日のあいだは、なにごともなくすぎさりましたが、警官隊の見はりは、昼も夜も厳重につづけられ、いかに四十面相でも、これでは、しのびこむすきもないように見えました。
 そのあいだに、ひとつだけ、ちょっと、へんなできごとがありました。明智と小林少年が、はじめて神山邸をしらべた、つぎの朝のことです。神山さんが、美術室へはいってみると、部屋のすみに立ててあったアドニスの石膏せっこう像が、まっぷたつにわれて、ころがっていたのです。
 そのまわりには、こなごなにわれた、石膏のかけらがとびちり、そばに、野球のボールがころがっていました。そとの原っぱで野球をしていたボールが、ひらいた窓からとびこんで、石膏像の腹にあたったらしいのです。
 美術室の窓は、いつもしめきって、かけがねがかけてあるのですが、女中さんがそうじをするときには、窓をあけますから、窓をあけておいて、女中さんが、ちょっと部屋を出たすきに、ボールがとびこんだのかもしれません。
 アドニスというのは、大むかしのギリシア神話のなかに出てくる美しい青年で、そのはだかの像を有名な彫刻家がいくつもつくったのですが、いまのこっているのは、ごくわずかです。ほんものは大理石にほったものですが、フランスの美術商が、それとそっくりの石膏像をこしらえて売りだしたのを、神山さんが買って帰ったもので、青年アドニスが、はだかで立っている、おとなよりも大きな美しい石膏像です。それが野球のボールで、まっぷたつにわれてしまったのです。
 この石膏像は、大きくても、たいしてねうちのあるものではありませんが、神山さんが、はるばるフランスから買ってきたものですから、そのままにしておくわけにはいきません。さっそく、ハヤノ商会という石膏像せんもんの店に電話をかけて、もとどおりにつがせることにしました。
 すると、ハヤノ商会の人がやってきて、この場でなおすことはできないからというので、われた石膏像をトラックにつんで、工場へもちかえりましたが、それが四日めに、もとのとおりにつぎあわされて、もどってきました。ハヤノ商会の四人の人夫が、それを二階の美術室にかつぎあげて、もとの場所においてかえりました。
 警察では、この人夫たちのうちに、四十面相の手下がまぎれこんでいたら、たいへんだというので、石膏像をはこび出したときにも、持ちこんだときにも、厳重に見はっていましたが、べつにあやしいこともなかったのです。
 レンブラントのS夫人像は、もとのところにかかったままです。銀行の大金庫の中へでも、あずけたらという意見も出ましたが、持ちはこびなんかしたら、その道があぶないというので、美術室から動かさないことにしたのです。
 さて、石膏像が持ちこまれた日は、ちょうど四十面相の手紙にあった、五日めにあたっていました。五日以内に、かならずぬすみだしてみせるというのですから、きょうの夜なかまでが期限です。それをすぎれば、四十面相は負けたことになります。
 いまは午後の三時です。夜なかまでは、もう九時間しかありません。警戒は、いよいよ厳重になりました。警官と書生や社員などをあわせて十数名の強そうな男たちが、やしきのあらゆる場所に見はりをつづけているのです。
 神山邸の洋室の書斎には、主人の神山さんと、明智小五郎と、警視庁の中村警部とがテーブルをかこんで、ひそひそと話しあっていました。
「明智君、きみは、なにか考えがあるようだが、だいじょうぶだろうね。今夜がいちばんあぶないのだ。どうだろう、われわれ三人で、夜あかしをして、美術室にがんばっていることにしたら?」
 中村警部が、心配そうな顔で、そんなことをいいだすのでした。
「それもいいが、ぼくに考えがある。美術室は、からっぽにしておくほうがいいのだよ。ちゃんと、ぬすまれないようなてだてがしてあるから、安心したまえ。
 四十面相は、これまでにも、たびたび、こういう予告をした。そして、ちゃんと予告どおりにやってみせた。ぼくたちはいつもあいつに、出しぬかれている。いくら厳重に見はっていても、あいつにかかっては、なんにもならない。
 だから、こんどは、がらっと、やり方をかえて、美術室はからっぽにしておこうと思うのだ。むろん、ドアや窓には、かぎをかけてあるがね。
 つまり、さそいのすきを見せるのだよ。そして、あいつを、おびきよせておいて、つかまえようというわけさ。」
 明智探偵は、自信ありげにいうのでした。
「しかし、やしきのまわりの見はりは、やっぱりつづけたほうがいいでしょうね。いくら四十面相でも、鳥のように飛んでくるわけではないでしょうから、見はりさえしておれば、美術室へはいることができないのですからね。」
 神山さんが、心配そうに口をはさみました。
「いや、それも、ほんとは、どうでもいいのです。いくら見はっていても、あいつはちゃんと、やってきますよ。しかし、いざというときに、手だすけになりますから、見はりは、やっぱり、つづけたほうがいいでしょうね。」
 明智は、やしきのまわりの見はりも、ひつようがないというのです。そのうえ、美術室をからっぽにしておくのですから、神山さんや中村警部には、なんだか、あぶなっかしいように思われるのです。
 やがて、夜になりました。
 美術室の窓には、中からかけがねをかけ、ドアには外からかぎをかけ、ふたりの書生が、その外の廊下にいすをおいて、見はりをしていました。
 十人の警官は、家のまわりをかこんで、すこしのゆだんもなく、警戒についていました。
 中村警部は、たえず、そのへんを歩きまわって、見はりの人々のかんとくをしていました。
 明智探偵は、日のくれるころどこかへたちさったまま、まだ帰ってきません。このかんじんのときに、名探偵は、いったい、なにをしているのでしょう。
 だんだん夜がふけていきました。
 どこかで、時計が十時をうつのが聞こえました。
 そのとき、二階の美術室の中に、ふしぎなことがおこったのです。
 美術室は、小さな電灯ひとつだけをのこして、ぜんぶの電灯が消してありました。そのうすぐらい中で、パチッ、パチッと、なにか、もののはぜるような音がしています。ねずみがなにかかじっている音でしょうか。いや、このりっぱな美術室に鼠なんか出るはずがありません。
 ああ、ごらんなさい。あのアドニスの巨大な像が、かすかにゆれているではありませんか。石膏像が生きて動き出したのでしょうか。
 やがて、もっとふしぎなことがおこりました。
 パチッ、パチッと、石膏像がひびわれはじめたのです。そして白い石膏のおもてに、こまかいすじが、いくつもできて、そのすじが、みるみる広がっていくではありませんか。
 パラパラッと、石膏のかけらが床に落ちました。それが、だんだん大きくなってくるのです。
 床には、じゅうたんがしいてあるので、その音は、ドアのそとまで聞こえません。
 石膏のひびわれは、いよいよ大きくなり、そのあいだから、なにか黒いものが、あらわれてきました。
 やがて、右の足がひざのへんからはなれて、その中から、べつの黒い足が、ニュッと出てきました。つぎに、左の足に、おなじことがおこり、ひざの上に石膏をかぶった黒い二本の足が、台座だいざからじゅうたんの上におりてきました。
 右左の手が、肩のところから、すっぽりとぬけて床に落ち、その下から、べつの黒い手があらわれました。
 それから二本の黒い手が、いそがしくはたらいて、からだをおおっていた石膏を、ぜんぶとりのけてしまいました。
 それは、まっ黒なシャツをきた、ひとりの人間だったのです。あたまにも黒い覆面をかぶっています。目のところだけくりぬいてあるのです。アドニスの像の中には、生きた人間がかくれていたのです。

屋根の上


 いうまでもなく、この男が四十面相でした。かれはアドニスの石膏像が修繕に出されたとき、ハヤノ商会という石膏商といつわって、その像を持ちだし、じぶんをその中にとじこめてもらって、四人の部下に神山邸へはこばせたのです。部下はハヤノ商会の店員に化けて、うまくそのアドニス像を、美術室にもどしておいたのです。
 二階の美術室には、うす暗い電灯が一つだけつけてありました。見はりの書生がふたり、ドアのそとの廊下にいるばかりで、室内にはだれもおりません。明智探偵が、わざと、そうしておいたのです。
 石膏をやぶって、あらわれた黒シャツの四十面相は、あたりを見まわしてだれもいないことをたしかめると、壁にかけてあるレンブラントのS夫人像のところへいって、それを、壁からおろし、がくぶちをはずして、木のわくにとりつけてあるカンバスを、ていねいにはぎとりました。そして、それを、くるくると、棒のようにまいてしまったのです。わくのまま持ちだしてはかさばりますので、油絵のカンバスだけをまるめて、持ちやすくしたのです。
 それから、腰にまきつけていた大きな黒いふろしきをはずすと、まるめたカンバスをつつみ、それをななめに背中にしょって、ふろしきの両方のはしを、胸のまえでむすびました。こうしておけば、逃げだすときに両手が自由で、身がるに動けるからです。
 四十面相は、その仕事を、すこしももの音をたてないようにやってのけました。さっき石膏像をやぶったときにも、音がしないように注意しましたし、床にあついじゅうたんがしいてあるので、いくらか音がしても、そとまでは聞こえなかったのです。
 ですから、廊下に見はっていたふたりの書生は、四十面相が美術室の中で、レンブラントの油絵をぬすんでしまったなどとは、すこしも知りませんでした。ふたりは四十面相が、そとからやってくるとばかり思っていたのです。
 四十面相は、美術室のガラス窓を、音のしないようにひらくと、ひょいと窓わくの上にとびあがり、そのそとにとりつけてあるといをつたって、さるのように身がるに、大屋根にのぼっていきました。
 かれは大屋根なんかにのぼって、いったい、どうするつもりなのでしょう。神山さんの西洋館は、ひろい庭のまんなかにたっているので、となりの家の屋根へとびうつって逃げだすというようなことは、思いもよらないのです。
 西洋館のまわりをとりかこんでいる警官たちも、四十面相が屋根へ逃げるなんて、すこしも考えていなかったので、だれも上のほうは注意していません。四十面相は、そとからはいってくるとばかり思っていたのです。
 しかし、そのなかで、たったひとり、なんだかへんだなと気づいた警官がありました。その警官も、屋根のほうを見ていたわけではありませんが、なにげなくふと顔を上にあげたとき、大屋根にとびついた四十面相の二本の足だけが、目のすみにうつったのです。
 その足は、すぐに、大屋根の上に見えなくなってしまいましたが、一瞬間、灰色のコンクリートの壁のてっぺんのところに、ぶらんとさがっている、二本の黒い棒のようなものが見えたのです。
 警官は、それが人間の足だとは、おもいもよりませんでした。まっ暗な中ですから、はっきり見えたわけではなく、なんだか、そんな気がしたのです。
 その警官は、大屋根の上を、じっと見つめました。屋根の上は、いっそう暗いので、なにも見えませんが、気のせいか、赤いかわらの上を、まっ黒なやつが、じりじりとはいあがっていくような感じがしました。
 たとえ気のせいでも、いちおう中村警部に報告したほうがいいと思いました。そこで、その警官は、やはり庭に立っている中村警部をさがし出して、このことを知らせたのです。
 中村警部のそばには、明智探偵と小林少年が、どこからかもどってきて立っていました。明智はいまの報告を聞くと、
「うん、やっぱりそうだ。もう絵はぬすまれたかもしれない。ぬすんだとすれば、警官にかこまれている庭へ、おりてくることはできないから、屋根にのぼるしかないわけだね。」
と、なにもかも知っているようなことをいいました。
「エッ、もうぬすまれたって? どうして、それがきみにわかるんだ。四十面相は、いったい、どこからしのびこむことができたのだろう。きみはそれを知っていて、なぜふせがなかったのだ。」
 中村警部が、明智をせめるようにどなりました。
「いや、知っていたわけじゃない。あいつのことだから、魔法つかいのようにどこからかしのびこんで、いまごろは、もう、ぬすんでしまったかもしれないと、想像してるんだよ。」
「なんだって? それじゃ、きみにもあいつのしのびこむのを、ふせぐことができなかったというのか。」
「いや、ちゃんとふせいである。これには、ちょっと、わけがあるんだ。くわしいことはあとで話すがね。ともかく、美術室をしらべてみよう。もし油絵がぬすまれていたら、あいつが屋根へ逃げたというのは、ほんとうにちがいない。」
「うん、すぐにいってみよう。」
 中村警部も、美術室をしらべてみるのが、だいいちだと思いましたので、明智のことばに賛成して、もうそのほうへ、かけだしていました。明智探偵と小林少年も、それにつづきます。
 二階の美術室へはいって、かぎでドアをひらくと、中村警部は、「アッ。」と叫んで、立ちすくんでしまいました。
 そこには、アドニスの石膏像が、ばらばらにくだけて、とびちっていたからです。
「これはどうしたことだ。きょう修繕して、持ってきたばかりじゃないか。それをまた、こんなにこわしてしまった。こんな夜ふけに、野球をやっているやつがあるんだろうか。」
 警部が、あっけにとられてつぶやきました。
「こんどは、ボールがあたってこわれたのじゃないよ。中からこわしたやつがあるんだ。」
 明智が、みょうなことをいいました。
「エッ、中からだって? それは、どういういみだ。」
「この石膏像の中に、四十面相がかくれていたのさ。」
「エッ、あいつが? かくれていた? おい、明智君、きみはそれを知っていたのか? 知っていながら、どうしていままで……。」
「いや、いや、知っていたわけじゃないよ。いまここへきて、やっと気がついたのだ。このわれかたでわかったのだ。ぼくも、うかつだった。あいつのやりそうな手だからね。それを考えなかったのはぼくの手おちだった。」
 明智は、残念そうにいいました。
 そのとき、中村警部は、またしても、「アッ。」という叫び声をたてたのです。
「アッ、ぬすまれたッ。見たまえ、レンブラントのがくぶちがおろしてある。中はからっぽだッ。」
「うん、ぼくの思ったとおりだ。あいつは、やっぱり、ぬすんでいった。しかしね、中村君、これは心配しないでもいい。ぼくが、きっと、取りかえしてみせるよ。」
 明智は、自信ありげに、きっぱりと、いいきるのでした。
「それじゃあ、あいつは、レンブラントのカンバスだけを取りはずして、それを持って屋根の上へ逃げたというのだね。」
「うん、そうにちがいない。屋根のほかに逃げる場所はないからね。」
「四方をかこまれているんだから、屋根へのぼったって、逃げられるわけはない。いったい、あいつは、どうするつもりなんだろう。」
 中村警部が、ふしぎそうにいいます。
「あいては魔法つかいだ。どんな手があるかもしれない。ともかく屋根の上を、見はるひつようがあるね。それには、ふつうの電灯なんかでは、暗くてよく見えないだろう。消防自動車を呼ぶんだね。そうすれば、探照灯たんしょうとうもあるし、長い自動ばしごもある。それがいちばんいいよ。」
「うん、それがよさそうだね。じゃ、ぼくが消防署へ電話をかけることにしよう。」
 中村警部はそういって、あたふたと階下へおりていきました。
 いっぽう、庭のほうでは、警官たちが、階下の部屋の電灯にコードをつぎたして、庭から大屋根を照らし、みんなで、そこをながめていました。
「アッ、黒いものが動いた。たしかに、あいつだよ。」
「うん、屋根の上にひらべったくなっているけれども、ボーッと黒く見えるね。あれが四十面相にちがいない。警部さんに、報告しよう。」
 そういって、ひとりの警官が、西洋館へとびこんでいくのでした。

水ぜめ


 しばらくすると、赤い消防自動車がかけつけ、門から庭へはいってきました。中村警部のさしずで、探照灯が点じられ、白い棒のような強い光が、西洋館の大屋根を照らしました。
 やっぱりそうです。黒いシャツをきた男が、ぴったりと、屋根にからだをくっつけて、はらばいになっています。そのすがたが、はっきりと照らしだされたのです。
 四十面相は、顔をふりむけて、まぶしそうに、こちらを見ました。そして、いきなり逃げだしたのです。逃げだすといっても屋根のそとへは出られません。とびおりたりなんかすれば、死んでしまうばかりです。
 かれは、屋根をはって、頂上のむねがわらまでたどりつくと、ひょいと、それをまたいで、むこうがわに、すがたを消してしまいました。
 探照灯の光は、むねがわらのむこうまでは、とどきませんから、四十面相を見うしなわないためには、自動車を、むこうがわにまわして、そこから探照灯をあてるほかはありません。
 消防車の運転手は車を動かして、うらへまわろうとしました。それを見た中村警部は、
「いや、このままでいい。あっちへまわったら、あいつはこっちがわの屋根へ逃げるだろう。そうすれば、また、ここへもどってこなければならない。あいつがむねがわらを、こえるのはすぐだけれども、自動車をむこうへまわすのはたいへんだ。それより、自動ばしごをのばしなさい。そうして、大屋根までとどかせてくれれば、ぼくの部下がのぼっていって、あいつをつかまえるよ。」
と、さしずをしました。
 すると、ガラガラッとモーターがまわって、自動ばしごが、上へ上へとのびはじめました。そして、みるまに、大屋根の高さになったのです。
 そういうことになれた、中村警部の部下のふたりの警官が、くつをぬぎ、上着をぬぎ、みがるないでたちになって、空にむかって、まっすぐに立っている自動ばしごを勇敢にのぼっていきます。
 警官隊のうち、うらがわに三人ばかりのこして、みんな消防自動車のまわりに、集まっていました。主人の神山さんも、書生たちも、その中にまじっています。明智探偵と小林少年だけは、どこにも、すがたが見えないのでした。
 四十面相が、屋根に逃げるすこしまえにも、ふたりは、どこかへ、すがたをくらましていましたが、このかんじんなときに、またもや、ゆくえがわからなくなってしまったのです。いったい、どこへいったのでしょうか。
 ふたりの警官は、もう自動ばしごの三分の二ほどを、のぼっていました。あと二メートルで、大屋根にとどきます。
 そのとき、むねがわらのむこうから、四十面相のあたまが、ひょいと、こちらをのぞきました。そして、警官たちが、はしごをのぼってくるのに気づいたようすです。
 ふたりの強そうな警官が、屋根へあがってきたら、もうおしまいです。かれらは、手錠てじょうやとりなわを持っています。腰のサックには、たまをこめたピストルまで用意しているのです。四十面相がいくら強くても、とてもかなうものではありません。
 四十面相は、どうするつもりでしょう。とうとう、つかまってしまうのでしょうか。
 見ていると、かれは、むねがわらをのりこして、のこのこと、こちらがわの屋根へ出てきました。そして、だんだん、屋根のはしのほうへ、おりてくるのです。いったいなにをしようというのでしょう。
「オヤッ、やつは、とびおりるかもしれないぞ。救命具を用意したまえ。」
 中村警部の声に、消防手たちは、車にそなえつけてある、まるいズックの救命具を取りだして、五人でそれをひろげ、屋根の下へ近づきました。とびおりてくる四十面相のからだを、そのまるいズックの上に、うけとめようというのです。
 しかし、四十面相は、とびおりるけはいはありません。かれは、屋根のとっぱなまでくると、そこにかかっていた自動ばしごに両手をかけて、力まかせに、ゆさぶりはじめたではありませんか。
 そのために、いまにも屋根に手をかけようとしていた警官が、ふいをつかれて、ずるずるッと、はしごをすべり落ちました。
「アッ、あぶないッ。」
 そのまま、下まで落ちてくるのではないかと、手に汗をにぎりましたが、三だんほど、すべり落ちただけで、はしごのよこ木につかまって、やっとのことで、ふみとどまりました。あとからのぼっている、もうひとりの警官は、まだずっと下のほうにいたので、ふたりが、ぶっつかりあうこともなかったのです。もし、ぶっつかれば、ふたりとも、命はないところでした。
 さきの警官は、これにくっせず、またはしごをのぼって、屋根に手をかけようとしましたが、四十面相は、それを待ちうけていて、また、はしごを、ゆさゆさと、ゆさぶるのです。
 こんどは、用心をしていたので、すべり落ちないですみましたけれど、こんなにゆさぶられては、とても屋根にのぼることはできません。
 しかたがないので、警官は、腰のサックからピストルをとりだしました。
「こらッ、てむかいをするとぶっぱなすぞッ。命がないぞッ。」
 そうどなっておいて、空にむかって、一ぱつ、だあんと発射しました。
「ワハハハハ……。」
 四十面相は、さもおかしそうに、笑いだすのでした。
「ワハハハハ……、そんなおどかしは、おれにはきかないよ。おれは、なんにも武器を持っていないのだ。武器を持たない相手を、殺すことはできないはずだね。いくらおどかしの空砲くうほうをうったって、おれは、びくともしないよ。ワハハハハ……、ざまあみろ。」
 こんな相手にかかっては、どうすることもできません。四十面相のからだを、うつことはできないのを、ちゃんと知っているのです。警官はあきらめて、ピストルを腰のサックに、もどしてしまいました。そして、また、いくども屋根にとりつこうとしましたが、そのたびに、四十面相が、はしごをゆさぶるので、落ちないようにしがみついているのがやっとでした。とても犯人をつかまえることなどできるものではありません。
 下では、中村警部たちが、相談していました。
「水ぜめにしたらどうだろう。ホースで、あいつに水をぶっかけるんだよ。そうすれば、すべって落ちてくる。それを、救命具でうけとめればいい。」
 中村警部がいいますと、主任の消防手も賛成しました。
「やってみましょうか。消火栓しょうかせんをひらいてホースをつなげばいいのです。ホースの水は、ひじょうな力ですから、あいつはきっと、すべりますよ。」
「うん。それをやるほかはないと思うね。だが、うまくうけとめられるかな。やりそこなったら、あいつは死んでしまうからね。あいつを殺してはいけないのだ。なかなか、むずかしい仕事だよ。」
 中村警部は、心配そうに首をかしげました。
 こんなとき、明智探偵がいたら、もっといい知恵を出してくれるのでしょうが、明智も小林少年も、どこへいったのか、まだすがたを見せないのです。
「よしッ、やってみよう。しかし、注意しておくがね、ほんとうに、すべり落ちるまでやらないで、ただ、あいつをびっくりさせればいいのだ。いまにも、すべり落ちそうになれば、いくらあいつだって、手をあげるにちがいない。そのとき、はしごをのぼっていって、ひっくくってしまえばいいのだからね。」
 中村警部は、とうとう、決心をして命令をくだしました。
 そこで、ホースがのばされ、消火栓につながれました。地面をはっている白いホースが、へびのようにのたうって、ふくらんできました。
 ふたりの消防手が、ホースのつつ先をにぎっています。
 ホースのふくらみがツウッとのびて、つつ先にたっしました。そして、音をたてて水がほとばしりはじめました。
 水は一本の白い棒になって、そとに吹きあげています。つつ先はすこしずつ、むきをかえ、大屋根のとっぱなにむけられました。
 四十面相は、あたまから夕立のような水をかぶり、あわてて、屋根にはらばいになりました。水のいきおいは、刻一刻、はげしくなるばかりです。

空からの怪音


 怪人は、いまにも水の力でおしながされ、屋根からすべり落ちそうです。
 下では五人の消防手が、ズックの救命具をひろげて、怪人が落ちてくるのを、待ちかまえていました。
 ああ、もうぜったいぜつめいです。怪人は死にものぐるいで、屋根のかわらにしがみついていますが、いつまでもがんばれるものではありません。やがて力がつきて、水におしながされ、屋根からすべり落ちるにきまっているのです。
 さすがの怪人四十面相も、とうとう、つかまってしまうのでしょうか。しかし、あいつは魔法つかいみたいなやつです。どんな奥の手を用意していないともかぎりません。
 そのとき、どこからか、ぶるるるるる……という、へんな音が聞こえてきました。
 消防自動車のモーターの音ではありません。ホースからほとばしる水の音でもありません。それらとはちがったへんな物音が、まっ暗な空のむこうから、ひびいてくるのです。
 そのふしぎな音は、刻一刻と高くなってきました。
 ぶるるるん。
 ぶるるるん、ぶるるるん。
 飛行機が飛んでいるのでしょうか。いや、飛行機の音とも、どこかちがっています。
「アッ、星が飛んでいる。流星かな? 流星にしては、いやにゆっくり飛んでいる。おい、あれを見たまえ。へんな星みたいなものが飛んでくるよ。」
 ひとりの警官が、そばに立っている警官に、そのほうを指さしてみせました。
「うん、飛んでくるね。だが星じゃない。アッ、あれはヘリコプターだぜ。さっきからのへんな音は、プロペラの音だよ。」
 そういっているうちに、夜空にもくっきりと、ヘリコプターのすがたが浮きだしてきました。
 ぶるるるん、ぶるるるん、ぶるるるん……。
 プロペラの音は、話し声も聞こえないほど大きくなり、空からは、あやしい風が吹きつけてきました。
「アッ、屋根のまうえにとまった。ヘリコプターが、四十面相を助けだしにきたんだッ!」
 そうです。ヘリコプターは、洋館の二階の屋根のまうえにとまっています。プロペラをゆっくりまわして、ちょうしをとりながら、そこの空中に、じっと浮かんでいるのです。
 ガラスのようなプラスチックでかこまれた操縦室のドアが、サッとひらくのが見えました。
 操縦室には、ふたりの人間のすがたが小さく見えています。そのうちのひとりが、ひらいたドアのところから、なにか長いものを、下へ落とすのが見えました。
「アッ、なわばしごだッ。四十面相を縄ばしごで、ヘリコプターの中へひきあげるつもりだッ。」
 地上の人々の口から、ワアッという、どよめきがおこりました。しかし、どうすることもできません。
 縄ばしごは、屋根のむねのむこうがわにあり、四十面相は、そのほうへはいよっていくのです。
 ホースの水は、あいかわらず怪人のあたまの上から、ふりそそいでいますが、かれをすべらせることはできません。四十面相は、かわらにしがみついて、すこしずつ屋根のむねに近づき、とうとうむねを乗りこして、むこうがわへすがたを消してしまいました。
「アッ、のぼっていく。のぼっていく。四十面相が、縄ばしごをのぼっていく……。」
 くやしそうな叫び声がおこりました。やっぱりヘリコプターは四十面相のみかただったのです。空から怪人をすくいだしにきたのです。
「おい、水をぶっかけろ、そして、あいつを、縄ばしごから落としてしまえ。」
 中村警部が、やっきとなってどなりました。しかし、残念ながら、ホースの水は縄ばしごまで、とどかないのです。
 四十面相の黒いすがたは、ヘリコプターの操縦室のすぐ下まで、のぼりつきました。かれは、左手で縄ばしごを持ち、右手をはなして、地上の人たちをあざけるように、その手を空中にひらひらさせています。
「ワハハハハハ……。諸君、ごくろうさま。レンブラントの名画は、たしかにちょうだいしたよ。それじゃあ、あばよ!」
 そのことばは、地上までとどきませんでしたが、人をばかにした大笑いの声は、みんなの耳にはいりました。四十面相は、レンブラントの名画のカンバスを、わくからはがして、ほそくまるめ、ふろしきにつつんで背中にせおっているのです。
 警官たちは、じたんだをふんでくやしがりましたが、どうすることもできません。
 ピストルをうとうにも、とてもあの高い空まではとどかないのです。
「しかたがない。警視庁に連絡して、こっちもヘリコプターを飛ばそう。そしてあいつを追っかけるんだ。」
 中村警部は、はぎしりしながら、そんなことをつぶやきました。警視庁には、こんなときのために、二台のヘリコプターが、いつでも飛べるように用意されているのでした。
 中村警部は、ひとりの警官をよんで、警視庁に電話することを命じようとしましたが、そのとき、ふと、みょうなことに気がつきました。
「オヤッ、あのヘリコプターには、見おぼえがあるぞ。あれは警視庁のヘリコプターじゃないか。はてな、これはいったいどうしたことだ。」
 まちがいありません。たしかに目じるしがあるのです。それにしても、警視庁のヘリコプターが、怪人四十面相を助けにくるなんて、そんなばかなことが、あっていいものでしょうか。
 ひょっとしたら、怪人の部下が、警視庁のヘリコプターをぬすみだして、首領を助けにきたのかもしれません。
 中村警部はなにがなんだかわけがわからなくなり、ただもう、ぼんやりと空を見あげて、その場につっ立っているばかりでした。

第二のヘリコプター


 怪人四十面相は、縄ばしごをのぼりきって、操縦室の入口に両手をかけると、鉄棒のしりあがりで、ひょいと中へはいりました。
「松下か?」
 怪人が声をかけますと、操縦席にいた男は、縄ばしごをたぐりあげながら、
「はい!」
とこたえました。
「もうひとりは、だれだ?」
「しんまいの、あっしの助手ですよ。」
 松下とよばれた男は、みょうに、かすれた声でいいました。かれは、とりうち帽をふかくかぶり、洋服のえりをたてて、なぜか、顔をかくすようにしています。
「ふうん、こんな助手がいたのかい。子どもみたいに、ちっちゃいやつじゃないか。」
 いかにも、その助手は、子どものようにせのひくい、へんな男でした。やっぱり、とりうち帽子をふかくかぶり、だぶだぶの服をきています。子どもが、おとなの服をきているようなかっこうです。
 四十面相は、ちょっとふしぎそうな顔をしましたが、いまは、そんなことを考えているばあいではありません。いっこくもはやく、このばを逃げださなければならないのです。
 松下という部下は、操縦席について、きゅうにヘリコプターを上昇させ、そのまま東のほうへ進ませました。
 ヘリコプターのぜんぽうには、自動車のヘッドライトのようなものがついていますが、操縦室の中は、うす暗いのです。電灯も、操縦機のところを照らしているばかりで、おたがいの顔も、はっきり見えないほどでした。
「松下、いくさきはわかっているな。」
 四十面相が、ねんをおすようにいいました。
「どちらにしましょう。」
 松下が、うつむいたまま、やっぱりかすれた声で聞きかえします。
「どちらだって? ばかッ、きまってるじゃないか。きめんじょうだ。」
きめんじょうですか。」
「うん、きめんじょうだよ。きみはなにをぼんやりしているんだ。へんだぞ。どうかしたのかッ。」
「いや、なんでもないんです。ちょっと、ほかのことを考えていたので……。」
「なにッ、ほかのことを? おいおい、しっかりしてくれ。操縦しながら、ほかのことなんか考えるやつがあるか。ここは空の上だよ。落ちたら命がないんだぜ。」
「すみません。」
 松下は、かすれた声で、しおらしくわびをいいました。
 空は雲がかかってまっ暗ですが、目の下には東京の町の明かりが、美しくかがやいていました。まるで宝石をばらまいたようです。
「おいッ、松下。きみは、きょうはよっぽど、どうかしているな。方角がちがうじゃないか。さっきのままでいいんだ。どうして、もとのほうへひっかえすんだ。」
 東のほうへ進んでいたヘリコプターが、いつのまにか、ぐるッとむきをかえて、西にむかって飛んでいるのです。
「かしら、だまっていてください。ヘリコプターのことは、あっしにまかしといてくださいよ。気流がわるいんです。ちょっと、まわりみちをするだけです。」
 やっぱり、へんてこなかすれ声です。
「きみ、その声はどうしたんだ。かぜでもひいたのか。」
「ええ、ちょっとね。なに、たいしたこたあありませんよ。」
 四十面相はさっきから、松下のいうことがどうもよく分かりません。それにとりうち帽子で顔をかくすようにして、下ばかりむいているのもへんです。ひょっとしたら、こいつにせものじゃないのかな、と、恐ろしいうたがいが心をかすめました。
 そのときです。右手のほうの空に、ひとつの光が飛んでいるのに、気がつきました。星ではありません。
 とすると、空を飛ぶ光といえば、飛行機かヘリコプターのほかには、ないはずです。
 飛行機ではありません。どうも、こちらとおなじような、ヘリコプターらしいのです。
 やっぱりヘリコプターでした。こっちへ近づいてくるようです。まるい、すきとおった操縦室が見えてきました。そのなかにいる人間のすがたまで、ありありと見えてきました。
 そのヘリコプターはぐんぐん近づいてきます。五十メートル、三十メートル、やがて十メートルまで接近しました。
 そして、こちらとおなじ方向へならんで飛んでいます。
 もう、操縦士の顔がぼんやりと見えるほどです。
 オヤッ、あそこにいるのは、松下じゃないか。
 四十面相は、ギョッとしたように、こちらの松下のよこ顔を見つめました。ちがう、ちがう。こいつは、おれの部下の松下じゃない。あやういところを助けてくれたので、部下とばかり思っていた。部下のうちで、ヘリコプターを操縦できるやつは、松下のほかにないのだから、こいつを松下だと思いこんでいた。
 だが、ちがう。こいつは松下じゃない。むこうのヘリコプターにいるのが松下だ。すると、こいつはいったい。なにものだろう?
「おいッ、きみは松下じゃないんだなッ。」
 四十面相は、操縦士のわきばらをこづきながら、おしころしたような声できめつけました。

操縦士の正体


 松下とよばれていた男は、はじめて顔を上にむけ、正面から四十面相をにらみつけました。
「松下でないとすると、だれだと思うね。」
「なにッ、さては、きさまッ。」
「おっと、身うごきしちゃいけない。ぼくの手がくるったら、みんなおだぶつだからね。それに、きみの背中にかたいものがあたっているのが、わかるかね。ピストルのつつ先だよ。きみのうしろに、ぼくの助手の小男こおとこがうずくまって、ピストルをつきつけているんだよ。手むかいをすれば、きみの命はないんだぜ。」
「ちきしょうッ! きさま、いったいなにものだッ? 敵か味方か。まさか味方じゃあないだろう。すると、さっき、屋根の上から、おれを助けてくれたのは、どういうわけだ。」
「助けたんじゃあない。つかまえたんだよ。そして、いまきみを警視庁へつれていくところさ。」
「それじゃあ、きさま、警視庁のやろうかッ。」
「そうでもないよ。おい、四十面相、ぼくをわすれたのかね。」
 操縦士はそういって、ポケットから、あぶらをしませた手ぬぐいをだすと、それでじぶんの顔を、ぐるぐると、なでまわしました。変装のけしょうを、ふきとったのです。
「アッ、きさま、明智小五郎だなッ。」
「ウフフフフフ……、やっとわかったかね。そして、きみのうしろからピストルをつきつけているのは、ぼくの少年助手の小林だよ。おとなの服をきて、小男にばけていたのさ。」
 読者諸君、ちょっと、思いだしてください。四十面相が神山邸の洋館の屋根にのぼったとき、やしきをとりまく警官隊のなかに、明智探偵と小林少年のすがたが見えなかったことは、まえの章に書いてあります。あれを思いだしてください。ふたりは、そのとき、警視庁のヘリコプターをかりだして、神山邸へ飛んでくるために、そっとたちさったのです。
 明智探偵は、自動車はもちろん、飛行機でも、ヘリコプターでも、操縦できるうでまえをもっていました。名探偵というものは、万能選手でなければなりません。明智は青年時代から、あらゆるスポーツでからだをきたえてきました。そして、飛行機の操縦までも、じゅうぶん練習していたのです。
「おい、四十面相。きみは、せっかく苦心をして、牢やぶりをしたかとおもうと、もう、つかまってしまったね。こんなにはやくつかまるなんて、いつものきみにも、にあわないことじゃないか。
 ハハハハハ。きみがヘリコプターを持っていることは、ちゃんとわかっていた。だから、きみが、あの西洋館の高い屋根へ逃げのぼったとき、ぼくは、すぐにヘリコプターを思いだした。そのほかに、四方をかこまれたあの屋根から、逃げる方法はないのだからね。
 きみは部下とうちあわせておいて、ちょうどいいじぶんに、ヘリコプターがあそこへ飛んでくるようにしておいた。そしてじぶんのヘリコプターに乗って、逃げだすつもりだった。
 ぼくはそれがわかったので、小林君をつれて、警視庁にかけつけ、ふたりとも変装をして、このヘリコプターに乗りこんだ。そして、きみの部下のヘリコプターがやってくるまえに、先をこして、あの屋根の上にあらわれたのだ。
 よく見れば、きみのヘリコプターと、これとはかたちがちがっているのだが、水ぜめにあって、めんくらっていたきみには、その見わけがつかなかった。助けだしにきたからには、自分のヘリコプターだと、思いこんでしまったのだ。そして、まんまと、ぼくのわなに、かかったというわけだよ。
 あそこに飛んでいるのが、きみのヘリコプターだ。そして、あの操縦席にいるのがきみの部下の松下という男だろう。ひとあしおくれて首領をさらわれ、びっくりして、追っかけてきたのだ。だが、まさか、こっちのヘリコプターを、射撃するわけにもいくまい。首領のきみが、乗っているんだからね。
 あの男は、どうしていいかわからなくなって、ただぼくたちを、つけているのだ。いまに、自分もつかまってしまうのも知らないでね。ハハハハハ……。
 それじゃあ、きみをつかまえたことを警視庁に知らせて、よろこばせることにしよう。きみも聞いていたまえ。」
 明智はそういって、操縦席のまえにある無線電話の送話機をとって、警視庁の無電室をよびだすのでした。
「こちらは空中警邏機けいらき第二号。報告します。神山邸洋館屋上で、怪人四十面相を逮捕、ただいま警視庁にむかって飛行中。いまから、やく十分ののち、日比谷ひびや公園の広場に着陸の予定。着陸地点に数名の警官を配置してください。」
 明智は送話機にむかって、おなじことを、二度くりかえしました。すると、むこうから、
「警視庁りょうかい。」
という返事が、はっきり聞こえてきました。
「四十面相、もうひとつきみに知らせておくことがある。きみはレンブラントの名画をぬすみだして、背中にしょっているつもりだろうが、それはとんだ思いちがいだよ。そのふろしきづつみをといて、よくしらべてみるがいい。」
 明智にそういわれて、四十面相は、びっくりしたような顔をしました。そこで、のろのろと、ふろしきづつみをおろし、なかのカンバスをだしてひらきました。そして、ひと目その画面を見ると、おもわず、「アッ!」と声をたてないではいられませんでした。
 ごらんなさい。それは、いつのまにか、レンブラントとはにてもにつかない、へたくそな風景画にかわっていたではありませんか。
 四十面相のあっけにとられた顔を見ると、明智探偵は、さも、こきみよさそうに、笑いだすのでした。
「ハハハハ……、おい、四十面相君。こんどはなにからなにまで、きみの負けだね。ぬすみだした絵は、まるでちがったにせものだった。助けだされたと思ったヘリコプターは、警視庁の警邏機だった。そして、それに乗っていたのは、きみがこの世で、いちばん恐れている明智小五郎だったとは。ハハハハ……。」

暗号の光


「ワハハハハ……。」
 四十面相も明智に負けないで笑いだしました。こういう悪人になると、そのくらいのことでは、なかなかへこたれないのです。
「ワハハハハハ……、明智君、さすがは名探偵だねえ。うまくやられたよ。
 だが、レンブラントの絵が、いつのまに、こんなつまらない風景画にかわったのか、おれはすこしも気がつかなかった。わくからはがしたときには、たしかにあの名画だったんだがなあ。明智君、ひとつこの手品の種あかしをしてくれないかね。」
 それを聞くと、明智も笑いだして、
「きみは魔法つかいのくせに、あれがわからなかったのかい? きみの背中にピストルをあてているのは、おとなのオーバーを着ているけれども、じつは、ぼくの少年助手の小林なんだよ。この小林がその風景画のカンバスのまるめたのを持って、神山さんの美術室にかくれていたのさ。本だなのうしろにね。そして、きみが石膏像をやぶってあらわれ、レンブラントの絵をわくからはがして、棒のようにまるめて、ちょっと床においたときに、本だなのかげから、手をのばしてすりかえてしまったのだよ。小林君も、なかなか手品はうまいからね。ハハハハハ……。」
「ふうん、そうだったのか。これはいちばん、やられたね。きみのちんぴら助手も、すみにおけないよ……。ところできみは、これから、おれをどうしようというのだね。」
「わかっているじゃないか。さっき警視庁と無電で話したとおりだよ。日比谷公園の広っぱに、大ぜいの警官が待ちかまえている。そのなかへ、このヘリコプターを着陸させて、きみをひきわたすのさ。」
 そんな話をしているとき、四十面相は左の手で、みょうなことをやっていました。
 そっと、ポケットから小型の懐中電灯をとりだし、それを、プラスチックの操縦席のよこにむけて、明智探偵たちに気づかれないように、ピカッ、ピカッ、ピカッと、つけたり消したりしていたのです。
 そのむこうには、四十面相の部下のヘリコプターが、こちらのヘリコプターとならんで飛んでいます。もしかしたら、四十面相は、そうしてみかたのヘリコプターへ、懐中電灯の暗号通信をしていたのではないでしょうか。
「ワハハハ……、こうなると、四十面相も、あわれなもんだね。また刑務所へくらいこむのか。だが、明智君、おれはやっぱり魔法つかいなんだぜ。きみのほうが手品をつかえば、おれのほうは魔術をつかうのさ。こうして、つかまったように見えていても、ほんとうは、つかまってやしないんだぜ。ウフフフフ、まあ、いまにわかるよ。」
 四十面相は負けおしみのようなことを、くどくどとしゃべっています。懐中電灯の通信をごまかすためかもしれません。
 まもなく、いままでならんで飛んでいた、むこうのヘリコプターが、だんだん遠ざかっていき、やがて、うしろのほうへ飛びさってしまいました。
 それからしばらくすると、こちらのヘリコプターは、日比谷公園の上に近づいていました。
 広っぱには、高いはしらの上に照明灯がつけられ、その光のなかに、十数名の制服のおまわりさんが、大きな円をえがいて立ちならんでいました。
 そのうしろに、むらがっているせびろ服の人たちは、きっと新聞記者なのでしょう。写真機をさげている人もまじっています。警視庁づめの記者たちが、四十面相がつかまったときいて、おまわりさんのあとから、かけつけてきたのでしょう。
 明智の操縦するヘリコプターは、その広っぱのま上までくると、しずかに下へおりはじめました。地面に近づくにしたがって、広っぱのようすがはっきり見えてきました。
 むらがっているのは新聞記者ばかりではないようです。もう十二時をすぎた夜ふけですが、どこからともなく、やじうまが集まってきて、そのかずが、だんだんふえてくるのでした。
 おまわりさんは、ヘリコプター着陸のための、広い場所をあけておかなければなりませんので、まんなかへ出てこようとする人たちを、とめるのにやっきとなっているようです。なかなかヘリコプターを着陸させることができません。広っぱの上空で五分ほどもてまどってしまいました。
 やがて、明智探偵は、ヘリコプターを、ゆっくりと下降させました。地面に近づくと、あらしのようなプロペラの風が吹きまくり、おそろしい砂ぼこりがたちます。むらがっている人々は、目をおさえて、広っぱのすみのほうへ逃げだしました。
 それで、やっと地面がひろくなったので、明智はヘリコプターを着陸させることができましたが、すると、逃げだしていたやじうまが、新聞記者たちといっしょに、ドッとおしよせてきて、たちまち操縦席のまわりは、黒山の人だかりになってしまいました。

すりのげんこう


 ヘリコプターの操縦席のドアがひらかれ、待ちかまえていたおまわりさんが、そこへ近づくと、いきなり四十面相の手をとって、そとへひきずりおろしました。そして、手錠をはめようとしたときです。そのときまで、おとなしくしていた四十面相が、おそろしいいきおいで、おまわりさんの手をふりきって、いきなり、パッとうしろの群集の中へおどりこんだではありませんか。
「アッ!」とおどろいた警官たちが、そのほうへ、とびかかっていきました。
 さいわい、四十面相がとびこんだのは、新聞記者たちの中でした。
「ちくしょう。逃がすものか。警官、ここにいますよ。早くつかまえてください。」
 記者たちが、くちぐちにわめきながら、黒シャツすがたの四十面相を、前のほうへおしだしてくれました。
 手錠をもった警官が、それにとびついていって、かちんと両手にはめてしまいました。
 もうこんどは、逃げられません。十数名の警官にとりまかれて、四十面相はおとなしく、すぐむこうの警視庁のほうへ、ひったてられていくのでした。
 まもなく四十面相は、警視庁の地下のしらべ室へ、つれこまれていました。正面には、捜査一課の係長のひとりである中村警部が、げんぜんと、いすにかけています。
 中村警部は四十面相のために、たびたび出しぬかれているので、うらみかさなる相手です。
 こんどこそは、もう逃がさないぞと、恐ろしい目でにらみつけていました。
 そのよこに、明智探偵と小林少年が、ひかえていました。四十面相は、ふたりの警官にまもられて、その前に、しょんぼりと立っているのです。
「おい、四十面相、本名は遠藤平吉えんどうへいきちだな。きみは、せっかく脱獄したかと思ったら、もうつかまってしまったじゃないか。すこし、おいぼれたようだな。」
 中村警部が、きみよさそうにいいました。
「エッ、四十面相? ……遠藤平吉?」
 黒シャツの怪人は、ぼんやりした顔でふしぎそうにつぶやきました。
 なんだかへんです。小林少年は、はやくも、それに気づいて、明智探偵のひざをつっつきました。そして、
「あいつ、どっか、顔がちがいますよ。ヘリコプターに乗っていたやつと、顔がちがってますよ。」とささやくのでした。
 中村警部は、いまはじめて、近くで顔を見るのですから、そこまでは気がつきません。
「おい、遠藤、はっきり返事をしないか。きみは四十面相と名のる男だね。」
 はげしくどなりつけますと、男は、きょとんとして、
「エッ、とんでもない。あっしゃ、そんなものじゃありませんよ。ひどいめにあったんです。日比谷の林の中で、三人の男につかまって、こんなものを着せられちまったんです。そして、むりやり、広っぱの人ごみの中へつれこまれ、おまわりさんの前へ、つき出されたんです。なにがなんだか、さっぱりわけがわかりませんや。」
 黒シャツの男は、ふへいらしく、つぶやくのでした。
 なんだか、ようすがおかしいのです。口のききかたも、四十面相とはまるでちがっています。
「そんなことをいってごまかそうとしたってその手にはのらないぞ。きさまが四十面相じゃないとでもいうのかッ。」
「アッ、そうだ。これを見ておくんなさい。その三人のやつが、しらべ室へいったら、これを見せるがいいといって、こんなものを……。」
 男はそういって、黒シャツのポケットから、一まいの紙きれをとりだして、中村警部の前にさしだします。
 うけとってみますと、その紙きれには、えんぴつで、こんなことが書いてありました。
 こいつはすりの源こうです。四十面相の身がわりには、すこしやすっぽいけれども。ともかく、すりをひとりつかまえてあげたんだから、まあ、がまんしてください。それじゃ、あばよ。
四十面相より
警視庁どの
 中村警部はそれを読むと、恐ろしい顔になって、黒シャツの男をにらみつけました。
「おまえ、源こうっていうのかッ。」
「へえ、あっしゃ、源こうですよ。」
 男はへいきな顔で、すましています。
 中村警部は、そばにいた警官に、なにか耳うちしました。すると、警官はすぐに、部屋のそとへでていきましたが、まもなくひとりの背広の人をつれてかえってきました。それは、すり係の刑事だったのです。
 刑事は、部屋にはいって、黒シャツの男を一目見ると、
「アッ、おまえ、源こうだなッ。またやったのか。いったい、なんど、くらいこめばいいのだ。」
と、しかるようにいいました。そして、中村警部のほうにむきなおり、
「係長、こいつは前科七犯の有名なやつです。源こうにちがいありません。」
と、きっぱりいいきるのでした。
 ああ、四十面相は、やっぱり魔法つかいでした。ヘリコプターの中にいたのは、まちがいのない四十面相でしたが、それがいつのまに、こんなすりに入れかわってしまったのでしょう。
 明智探偵は、ちょっと、首をかしげて考えていましたが、すぐに魔法の種に気づきました。
「中村君、わかったよ。さっき四十面相がヘリコプターから、ひきずりおろされたとき、警官の手をふりきって、新聞記者のかたまっている中へ逃げこんだ。すると、記者の人たちが、こいつをとらえて、つきだしてくれたんだが、その瞬間に、人間の入れかえがおこなわれたんだ。
 つまり、あの新聞記者たちは、にせもので、四十面相の部下が化けていたんだ。そして、まえもってこの源こうというすりをつかまえておいて、四十面相の身がわりにたてたのだ。顔がどこかにているし、あのさわぎのなかだから、警官たちも気づかなかったのだよ。なにしろ、四十面相とおなじ黒シャツすがただからね。この源こうに黒シャツを着せておいて、とっさに、人間のすりかえをやったのだよ。」
 それにしても、四十面相の部下は、ヘリコプターが日比谷公園につくことを、どうして知っていたのでしょう。明智探偵はそこまでは気づきませんでしたが、読者諸君はごぞんじです。それは、空を飛んでいるとき、四十面相の部下のヘリコプターが、こちらとならんで飛んでいました。それにむかって、四十面相は懐中電灯の信号を、おくったのです。たぶん、モールス信号だったのでしょう。
 四十面相の部下のヘリコプターは、その通信をうけると、すぐにどこかへ着陸して、電話で、なかまにこのことを知らせ、日比谷へさきまわりしているように、はからったのにちがいありません。
 明智は、さらに説明をつけくわえました。
「あの黒山の人だかりだから、ほんものの四十面相は、どこかへ身をかくしてしまったんだ。記者にばけた部下たちが、オーバーかマントを用意していて、四十面相の黒シャツの上から着せてしまえば、夜のことだから、もうわかりっこないのだからね。」
「アッ、そうかッ。おい、新聞記者をよんできたまえ。みんなよんでくるんだ。」
 中村警部がどなりました。ひとりの警官がとびだしていったかとおもうと、ぞろぞろと大ぜいの新聞記者が、しらべ室へはいってきました。
「公園のヘリコプターのそばで、この男をつきだして、警官にわたしてくれた人はいませんか。」
 警部がたずねますと、記者たちは、たがいに顔を見あわせていましたが、その中のひとりがこたえました。
「いや、あれは新聞社のものじゃありませんよ。だれだかわからないが、ぼくたちのあいだに、六、七人、へんなやつがまじっていたのです。その連中が、こいつをつきだしたのです。」
「ふうん、ちゃんと用意をしていたんだな。それで、ほんものの四十面相が、どこへ逃げたか、きみたち気づきませんでしたか。」
 警部がききますと、記者たちはびっくりして、
「エッ、じゃあ、こいつは四十面相じゃないのですか。」
「うん、すっかり黒星くろぼしで、もうしわけないが、やられたんだ。あいつらは、この源こうというすりに、黒シャツを着せて、上からオーバーかなにかはおらせて、あそこへつれてきていたんだね。そして、とっさに人間のすりかえをやったんだ。」
 中村警部は、すこし、めんぼくないような顔で説明しました。
 なるほど、警視庁としては、大失策だいしっさくにちがいありません。しかし、明智探偵と小林少年は、それほど失望しているようにも見えないのはなぜでしょう……。ふたりは、まだあきらめていなかったからです。四十面相のほうに、奥の手があれば、こちらにも、ちゃんと、もうひとつ奥の手が用意してあったからです。

ポケット小僧


 お話は、すこし前にもどって、ヘリコプターが、日比谷公園の広っぱに着陸したところからはじまります。
 ヘリコプターのまわりに集まっている新聞記者や、やじうまの中に、三人の小さな子どもがまじっていました。
 三人とも、浮浪ふろう少年のような、きたないなりをしていましたが、その中に、まるで幼稚園の生徒のような、小さい少年がいました。
 この三人は、小林少年の命令で、ここへやってきた、チンピラ隊の少年たちでした。いちばん小さい少年は、ポケット小僧と呼ばれているチンピラ隊員です。
 この三少年は、ばらばらにはなれて、大ぜいのおとなのあいだを、りすのようにくぐりぬけて、ぬけめなく見はりをしていました。小林団長から、四十面相を見はっていて、なにかあやしいことがあったら、知らせるようにと、いいつけられていたのです。
 四十面相をとらえたら、日比谷公園の広っぱまでつれてくることは、ヘリコプターに乗るまえからきまっていたので、小林君は、あらかじめチンピラ隊に連絡して、はやくから公園へきているようにさしずしておきました。チンピラたちは、ひまなからだですから、いくらながく待っていても、へいきなのです。
 三人のチンピラの中でも、いちばんすばしっこくて、頭のはたらくのはポケット小僧です。かれは、からだが小さいので、おとなのまたのあいだを、くぐって歩くことができます。
「おや、だれだッ、ぼくのまたのあいだをくぐったやつは?」
 びっくりして見まわしても、ポケット小僧は、もうとっくに人ごみの中へすがたをかくしているのです。
 そうして、あちこちとくぐり歩いているうちに、ポケット小僧は、へんな男を見つけました。
 その男はとりうち帽をまぶかにかぶり、大きなオーバーを着て、四、五人の新聞記者のような人たちにとりかこまれていましたが、ポケット小僧は、その人のまたのあいだをくぐったときに、へんなことを見てしまったのです。
 その男はズボンをはかないで、ぴったり足にくっついた、まっ黒なズボンしたのようなものをはいていました。まるでサーカスの曲芸師きょくげいしのようです。
「へんなやつがいるな。」
と思ったので、ポケット小僧は、その男のそばをはなれないようにして、気をつけていましたが、すると、ヘリコプターから四十面相がひきおろされ、あのさわぎがはじまったのです。
 黒シャツの四十面相は、警官の手をふりきって、こちらの人ごみの中へ、とびこんできました。
 それから、じつに、ふしぎなことが、はじまったのです。
 新聞記者らしい四、五人の男が、かけこんでくる四十面相の手をとって、あのあやしいオーバーの男のそばへひきよせました。そして、手ばやく男のオーバーをぬがせると、それを四十面相に着せてしまいました。とりうち帽もとって、四十面相にかぶせたのです。
 オーバーと、とりうち帽をとられた男は、四十面相とそっくりのすがたをしていました。黒シャツに黒ズボンでした。顔もどこかにているのです。
 新聞記者のような人たちは、そのへんな男を、人ごみの前のほうへつきだしながら、くちぐちに叫ぶのでした。
「こいつだ、こいつだ。こいつが、いま、人ごみの中へ、かくれようとしたんだ。」
 そして、その男を、警官たちにひきわたしたのです。
 顔もにているし、服装がまったくおなじなので、警官たちは、かえだまとは気づかず、その男に手錠をはめて、むこうへつれていってしまいました。
 四十面相がつれていかれたので、新聞記者や、ものずきなやじうまは、あとから、ぞろぞろついていきましたが、大部分はそのまま、公園のそとへひきあげていき、あたりは、すっかりさびしくなってきました。
 オーバーにとりうち帽の四十面相は、すばやく公園のすみのほうへ走っていって、こんもりとしげった林の中へ、すがたをかくしました。
 ポケット小僧は見うしなってはたいへんだと、こっそり、そのあとをつけました。小さな子どもですから、べつにあやしまれることもありません。そのうえ、小僧は尾行の名人ですから、まだそのへんにいたおとなたちに、さとられるようなへまはやりません。
 このことを明智先生や小林少年に知らせたいのですが、そのひまはなかったのです。四十面相はヘリコプターのはんたいのほうへ逃げたので、あとにもどって知らせていたら、見うしなってしまうかもしれないのです。なかまのチンピラがそばにいたら、知らせてくれるようにたのむこともできたでしょうが、ふたりのチンピラは、どこへいったのか、すがたが見えません。

ふしぎな変装


 四十面相がかくれたしげみの中には、大きな四角なかばんがかくしてありました。部下にめいじて、そこへ持ってこさせておいた変装用のかばんなのです。
 四十面相は懐中電灯をつけて、そのかばんをひらきました。洋服やシャツなどが、いっぱいつまっています。かれは、かばんのふたのうらについているポケットに手を入れて、小さなかがみと箱をとりだしました。その箱の中には、顔をかえる絵のぐや、つけひげや、いろいろなものがはいっているのです。
 かれは、かばんのふたをしめ、その上に鏡を立てて、懐中電灯でじぶんの顔をてらしながら、変装のおけしょうをはじめました。
 そこは深い木のしげみにかこまれていて、懐中電灯の光がそとへもれる心配はありません。
 もう、夜の十二時をすぎています。さっきまで広っぱに集まっていた、やじうまたちも帰ってしまって、公園の中には、人っこひとりいなくなってしまいました。新聞記者にばけていた四十面相の部下たちも、どこへいったのかすがたが見えません。
 四十面相は、ゆうゆうとして変装をやっています。じつにおちつきはらったものです。
 それにしても、かれはなぜこんな公園の中などで、変装をはじめたのでしょうか。オーバーの下から黒いズボンしたのあらわれているこのままのすがたで町にでれば、いくら夜なかでも人にあやしまれますが、それなら部下に自動車を用意させて、それに乗って逃げてしまえばいいのです。
 そうしないで、こんなふじゆうな場所で変装をはじめたのには、なにかわけがあるのかもしれません。
 四十面相は、だれも見ていないと安心していましたが、じつは、ひとりの小さな少年が、しげみのむこうがわにはいって、の葉のすきまから、じっと中をのぞいていました。
 この少年は、少年探偵団のなかまのチンピラ隊にぞくするポケット小僧なのです。からだがひどく小さくて、ポケットにでもはいるくらいだというので、そんなあだ名がついていましたが、すばしっこくて、たいへんりこうな少年でした。
 まえに書いたとおり、このポケット小僧は、四十面相がにせものと入れかわったのを気づいて、ほんもののほうのあとをつけて、このしげみへやってきたのです。
 ポケット小僧は、しげみのそとに寝そべって、相手に気づかれぬように、じっと中のようすをうかがっていました。
 いくえにもかさなりあった木の葉のすきまからのぞいているのですから、よくは見えません。それでも、四十面相が懐中電灯の光で、顔に絵のぐをぬっていることはわかりました。
 なにしろ、四十の顔をもつといわれる変装の大名人です。その手ばやいこと……。たちまち顔をしあげて、こんどはかばんの中から黒い服をとりだすと、それを黒シャツの上から着こみ、バンドをしめ、肩からなにかさげて、帽子をかぶり、靴をはきました。
 変装がおわると、いままで着ていたオーバーをかばんに入れ、ふたをしめて、そのかばんを手にさげ、木のしげみからでてきました。
 ポケット小僧は相手に見つからぬよう、すばやくしげみのはんたいがわにかくれましたが、見ると、そこにあらわれたのは、ひとりの警官でした。四十面相は警官に化けたのです。
 ああ、なんといううまい変装でしょう。警官の制服に制帽、肩から革ひもで、ピストルのサックをさげているようすは、だれが見てもほんもののおまわりさんです。
 ポケット小僧はその顔を見て、びっくりしてしまいました。さっきまでの四十面相と、まるでちがっていたからです。四十面相が変装したのではなくて、ほんとうのおまわりさんが、どこからかやってきたとしか思われません。
 四十面相が、四十の顔をもつといわれるほどの変装の名人だということは、聞いていましたが、これほどの名人とは知りませんでした。ほんとうに魔法つかいです。
 かばんをさげた四十面相のおまわりさんは、しゃんと胸をはって大またに歩いていきました。ポケット小僧はさとられないように気をつけながら、ちょこちょこと、そのあとをつけていきます。
 おまわりさんは、公園をでると、すぐそばにある警視庁のほうへ進んでいきました。警視庁といえば、四十面相にとっては、いちばん恐ろしいところです。その恐ろしいところへ、へいきで近づいていくのです。
 やがて、警視庁の入口のところまできました。入口のひろい石段に、警官が立っています。そのまえには警察用の自動車がたくさんならんでいて、夜なかでも、警官たちが、いったりきたりしています。
 四十面相のにせ警官は、その石段のまえまでいくと、なにを思ったのか、石段をのぼりはじめました。ああ、四十面相は気でもちがったのでしょうか。「さあ、つかまえてください。」といわぬばかりに、警視庁の中へはいっていこうとしているのです。
 ポケット小僧は、あきれかえって、そのうしろすがたをながめていました。どろぼうが警官にばけて、警視庁へはいっていくのです。こんなばかなことがあるものでしょうか。
 にせ警官は、石段に立っている警官に、かた手をあげてあいさつすると、そのまま玄関のなかへはいっていきます。
 ほんものの警官は、すこしもあやしまず、おなじように手をあげてあいさつをかえしました。
 警視庁へは、一日に何千という警官が出入りするのですから、みんながおなじみというわけではありません。制服さえ着ていれば、じぶんたちのなかまだと思うのもむりはないのです。
 にせ警官は、大かばんをさげていましたが、犯罪事件の証拠品として、そういうものを持ってくる警官はよくあるのですから、これもうたがわれる心配はありません。にせ警官のすがたが玄関の中へ見えなくなってしまったとき、ポケット小僧は、大いそぎで石段をかけあがり、そこに立っている警官によびかけました。
「おまわりさん、いまのやつをつかまえて。大きなかばんをさげていたやつだよ。あれは四十面相だよ。おれ、あいつが変装するところを見ちゃったんだ。はやくあいつをつかまえなけりゃ……。」
 警官はびっくりしてこちらを見ましたが、きたないふうをした浮浪児のような子どもなので、手をふりながら、あっちへいけというあいずをするばかりで、いっこうとりあってくれません。
「おまわりさん、ほんとうだよ。はやくしないと、あいつ、逃げちゃうじゃないか。おじさんは四十面相しらないのかい? おっそろしい大どろぼうだぜ。」
 ポケット小僧は、警官の手にすがりついて、一生懸命に叫びました。
「こら、あっちへいくんだ。ここは、おまえたちのくるところじゃない。ちんぴらのくせに、警官をからかうなんて、けしからんやつだ。」
 警官が、つかまれている手をいきおいよくふりきったものですから、ポケット小僧は、石段の上に、ころがってしまいました。
「アッ、いたい。おじさん、なにをするんだい!」
 やっとおきあがって、おしりをさすりながら、
「子どもだとおもって、ばかにしてるんだな。そうじゃないよ、からかってるんじゃないよ。ほんとうだよ。あいつ四十面相だよ。はやく……はやくしないと、逃げちゃうよ。」
「くどいやつだな。あっちへいけというのに。」
 警官は、よこをむいて、しらぬふりをしようとしました。
「アーッ、そうだ。ここに明智先生がきているだろう。名探偵の明智小五郎先生だよ。おれ、あの先生のでしなんだよ。チンピラ隊っていう子どもの探偵団だ。明智先生にそういってくれよ。そうすれば、おれがうそをいってないことが、わかるんだから。」
 そこへ、玄関のほうから、警部補の制服を着た警官がおりてきましたが、ポケット小僧のわめき声をきくと、そばによってきて、「どうしたんだ。」とたずねました。
 ポケット小僧は、このひとなら話がわかるかもしれないと思ったので、さっきからいっていることを、もういちどくりかえしました。
「明智さんなら、しらべ室におられるはずだ。知らせてあげるほうがいいね。この子どものいうことが、もしほんとうだったら、たいへんだからね。きみ、しらべ室をさがしてみたまえ。捜査一課の中村係長さんといっしょのはずだよ。」
 上役に命令されたので、警官はしかたなく石段をかけあがって、玄関へはいっていきました。
 しばらくすると、警官は小林少年をつれてもどってきました。小林君は、明智探偵といっしょにしらべ室にいたのです。
「アッ、小林さん!」
「アッ、ポケット小僧!」
 顔を見あわせるとふたりが、いっしょに叫びました。
「これは探偵のしごとを手つだってくれるチンピラ隊の子どもです。りこうな子ですから、この子のいうことは、まちがいありません。」
 小林少年は、明智探偵の助手として、警視庁でもよく知られていました。その小林君がそういうのですから、もうすててはおけません。
 そこへ、明智探偵や中村警部もかけつけてきて、ポケット小僧からことのしだいを聞きとると、にわかに警視庁内の大捜索がはじまりました。
 警視庁には何百という部屋があるのですが、夜なかにつめている警官のかずもおおいので、たいへんです。
 まもなく、ぜんぶの部屋の捜索がおわりました。しかし、あやしい警官は、どこにもいないのです。
 とっくに、裏口から、逃げさったのかもしれません。それなら、はじめから警視庁へはいらないで、逃げてしまえばよさそうなものではありませんか。
 いったい、四十面相のにせ警官は、なんのために警視庁へはいったのでしょう。いよいよ、わけがわからなくなってきました。

警視総監そうかん


 その夜は、四十面相がつかまって、ヘリコプターではこばれてくるというので、捜査一課長の堀口ほりぐち警視も、課長室につめていましたが、庁内の捜索がおわってしばらくすると、ひとりの警官が、課長室へはいってきて、挙手きょしゅの礼をしました。
「課長、総監がお呼びです。」
「え、総監が? 総監室にきておられるのか。」
「四十面相のことをきかれて、いま公舎こうしゃからおいでになったところです。」
「そうか。すぐいく。」
「課長、それから、中村係長もいっしょにくるようにとのことでした。呼んでまいりましょうか。」
「うん、呼んでくれたまえ。ぼくはさきにいっているから。」
 堀口捜査一課長が、警視総監の部屋へはいると、まもなく中村係長もそこへやってきました。
 総監室は、りっぱな広い部屋です。まんなかに大きな机がおいてあって、そのむこうに背広すがたの山本警視総監が、ゆったりと、こしかけていました。夜なかのことですから、秘書官もつれていないのです。
「や、ごくろうですね。四十面相のさわぎを聞いて、心配だから、わたしも、ちょっときてみました。くわしいことは、まだ聞いていないが、このさわぎは、どうしたことだね。」
 総監にたずねられたので、堀口課長は、今夜のできごとを、かいつまんで報告しました。
「ふうん、すると、また、あいつにしてやられたわけだね。明智君が、ヘリコプターでつれてきたまでは、おおできだが、それからあとがいけない。いくら変装の名人だからといって、にせものをつかまされたり、警官にばけて庁内にはいりこまれたりしたのでは、警視庁の名おれだ。しっかりしてくれなくちゃこまりますね。これはいったい、だれの責任なんだね。」
「わたしの責任です。わたしの部下が、あやまちをしでかしたのですから。」
 堀口課長が、もうしわけなさそうに答えました。
「いや、責任はわたしにあります。わたしが、この事件のかかりなのですから。」
 中村係長も、青ざめた顔でおわびをいって、うなだれてしまいました。
「たったひとりの四十面相が、警視庁の手におえないとあっては、都民にもうしわけがない。これからは、しっかりやってくれたまえ。それにしても、四十面相というやつは恐ろしい怪物だね。われわれは、やつのおもちゃにされているようなもんだ。
 ところで、わたしは、さっき、この事件について、ひとつの案を思いついたのだがね。じつは、その案をわたすために、こうして出かけてきたのだ。これだ。ここにわたしの案というのを書きつけておいたから、あとで読んでくれたまえ。」
 山本総監は、そういって、ポケットから封筒をとりだし、机ごしに堀口課長に手わたしました。その封筒のなかに総監の案を書いた紙がはいっているのです。
「今夜、よく読んでくれたまえ。その案についての諸君の意見は、あすのあさ聞くことにしよう。では、わたしは、これで帰るから。」
 総監はいすから立ちあがって、ゆったりとドアのほうへ歩いていきます。堀口課長と中村係長は、それを見おくるためにあとにしたがいました。
 廊下に出て、しばらくいきますと、むこうから、あわただしくかけてくるすがたがありました。明智小五郎と小林少年です。
 明智は警視総監の前までくると、とおせんぼうをするように、立ちはだかりました。
「アッ、明智君!」
 総監は、おどろいて立ちどまります。
「総監、ちょっとお話があります。」
「え、わたしにかね。」
「そうです。きゅうにお話しなければならないことができたのです。」
「ながい話なら、部屋にもどるが……。」
「いや、ここでけっこうです。総監、ふしぎなことがおこりました。警視総監がふたりになったのです。」
「え、なんだって? きみがなにをいっているのか、わたしにはよくわからないが……。」
「ぼくにも、さっぱりわかりません。じつは、いま総監の公舎へ電話をかけて、たずねたのです。すると、山本総監は、公舎の寝室でよく眠っておられるということでした。いったい、これはどうしたわけでしょうか。」
「そ、そんなばかなことが……。」
「いや、ぼくは、それだけでは信用できないので、総監をおこしてもらって、電話口に出てもらいました。ぼくは、いま総監と話してきたばかりです。」
「ば、ばかなッ。でたらめもいいかげんにしたまえ!」
 山本総監は、まっ赤な顔になってどなりつけました。
「でたらめではありません。あなたにはおわかりになっているはずです。」
「わたしに、なにがわかっているというのだ。」
「ふたりの総監のうちひとりは、にせものだということがです。」
「にせものだって?」
「そうです。あなたが、にせものなのです。ぼくは、さっきから四十面相が、なぜ、警官にばけて警視庁にはいりこんだかということを考えていました。すると、あなたが、このま夜なかに、ひょっこりと総監室にあらわれて、堀口課長や中村係長を呼びつけました。ぼくは、こいつはおかしいぞと思ったのです。四十面相というやつは、とっぴなことをやって、世間をアッとおどろかせるのが、だいすきです。じぶんの力を見せびらかしたいのです。物をぬすむのにも、いついつかの何時にぬすむという予告をして、じゅうぶん用心させておいてぬすむのがすきです。これも世間をアッといわせたいからです。それに、警視庁は、四十面相にとってはにくいかたきです。そのかたきを、アッといわせてやったら、どんなにゆかいでしょう。四十面相はきっと、そう考えたと思います。
 四十面相が警官に化けただけでも、世間はアッといいます。それが、警視総監に化けたらどうでしょう。大どろぼうが警視総監にばけるなんて、じつにすばらしい思いつきではありませんか。」
 明智はそこまでいって、じっと相手の顔を見つめました。
「それじゃ、きみは、わたしが四十面相だというのか。」
「そうだ。きみは四十面相だッ! ついちかごろ、警視総監の背広が一着ぬすまれている。それはきみが、部下にぬすませたのだ。そして、その背広を警官の服といっしょに、あの大かばんに入れさせておいたのだ。きみは警官に化けてここへやってきた。そして、どこかのあき部屋で、その背広と着かえ、総監になりすまして、総監室へはいったのだ。」
 ああ、なんということでしょう。世間に知れわたっている警視総監と、そっくりの顔に化けるなんて、四十の顔をもつ、変装の大名人でなくてはできないことです。
 それにしても、明智に見やぶられた四十面相は、ここで、どんな手をうつのでしょうか。

まぼろし警官隊


 総監に化けた四十面相は、おどろいて逃げだしたでしょうか? いや、逃げようとしても逃げられるものではありません。ここは警視庁の建物のまんなかなのです。かれは、ふてぶてしく笑いました。
「さすがは名探偵、よく見やぶった。だが、おれが四十面相だったら、どうしようというのだね。」
とおちつきはらっています。
「むろん、ひっとらえるのさ。手をあげろ!」
 明智のことばといっしょに、よこにいた中村警部が、サッとピストルをかまえました。警部は背広を着ていましたが、まんいちの用意に、ポケットにピストルをしのばせていたのです。
 捜査一課長は、いま出てきたばかりの総監室へかけこんで、部下のところへ電話をかけました。四十面相をとらえるために、警官隊をよこすようにめいじたのです。四十面相は両手をあげて、立ちおうじょうをしています。さすがの怪盗も、ピストルをつきつけられてはどうすることもできません。そのとき、廊下のむこうからどやどやと、おおぜいの制服警官がかけつけてきました。十人あまりの人数です。そして、四十面相のまわりをかこんで、ねじふせようとしました。
 警官がとりかこんだので、中村警部はピストルがうてなくなりました。うてば、みかたの警官をきずつけるからです。
 それがいけなかったのです。そのすきを見て、四十面相は、すばやく、じぶんのピストルを、ポケットからとりだし、いきなり、天井にむけてうちました。
 がらがらッとガラスのわれる音。たまは天井の電灯にあたって、ガラスがわれ、電灯は消えてしまいました。でも廊下にはいくつも電灯がついていますから、まだまっ暗ではありません。
 それから、恐ろしいたたかいがはじまりました。相手がピストルをうったので、警官たちもみなピストルを手にしました。
 ばん、ばん、ばんと、つづけざまのピストルの音。四十面相がうったのか、警官たちがうったのか、よくわかりません。しかし、音がするたびに、廊下の電灯が、つぎつぎとうちこわされ、あたりはまっ暗になってしまいました。
「うぬッ、つかまえたぞッ。おい、手をかしてくれ。手錠だ、手錠だッ!」
「なにを、これでもかッ!」
 ぱしッとなぐりつける音。二、三人のからだが廊下にころがって、くんずほぐれつ、とっくみあう音。
「アッ、逃げたぞッ。追っかけろ!」
「ちくしょう、逃がすものか。つかまえたぞッ。ここだ、ここだ。」
 警官たちは、四十面相ともつれあって、だんだん、廊下のむこうへ遠ざかっていきます。
 捜査一課長と中村警部は、物音をたよりに、それを追っていきましたが、廊下の電灯がみんな消えてしまっているので、なにがなんだかまるでようすがわかりません。
 やっと、廊下のまがりかどまでたどりつきましたが、そこからさきの廊下もまっ暗です。
 たちどまって耳をすますと、ふしぎなことに、あたりはしいんとしずまりかえっています。いままであんなにさわいでいた警官たちは、どこへいったのか、そのへんには人のけはいもないのです。
 そこへ、小林少年が懐中電灯を持ってかけつけてきました。その電灯で、廊下のさきのほうを照らしてみましたが、そこには、だれもいないことがわかりました。
 十余人の警官隊は、四十面相といっしょに、まぼろしのように消えうせてしまったのです。
 まがった廊下は一本道で、ほかにいくことはできません。どこかの部屋にはいったのかと、そのへんのドアを、ひとつひとつあけて、懐中電灯でしらべてみましたが、どの部屋も、まったく、からっぽなのです。
「アッ、しまった!」
 闇のなかから、明智探偵の声が聞こえたかとおもうと、明智らしい人かげが、廊下のむこうへ、とぶように走っていくではありませんか。
 捜査一課長や、中村警部には、なにがしまったのか、なぜ、明智探偵が走っていったのか、わけがわかりません。しかし、そこにつっ立っているわけにもいきませんので、明智のあとを追って、廊下のむこうへ歩いていきました。
 また、廊下をひとまがりしますと、むこうに電灯がついているので、あたりが見わけられるようになりました。
 見ると、明智探偵が、こちらへ歩いてきます。
「明智君、どうしたんだ。」
 中村警部がたずねますと、名探偵はがっかりしたような声で答えました。
「またやられた。あいつが、そこまで用意していようとは思わなかった。」
「エッ、すると、いまの警官たちは?」
「うん、みんな四十面相の部下だったのさ。
 新聞記者に化けたやつらが、警官の服を着たのかもしれない。それとも、べつの部下が、どこかにかくれていたのかもしれない。いずれにしても、にせ総監がつかまったら、かけつけてくる手はずになっていたのだ。そして、四十面相をつかまえるように見せかけて、じつは、助けだしてしまったのだ。廊下の電灯がわれたのも、それだまではなくて、暗くするために、かたっぱしから電灯をねらいうちにしたのだよ。」
 その廊下のはずれは、警視庁の裏門のところへ出ていました。かれらは、裏門からまっ暗な道路へ逃げだしてしまったのにちがいありません。
「ぼくは、裏口にいた警官たちにすぐ手配をして、追っかけるようにたのんでおいたが、あいつらは、門をでたら、ばらばらにわかれて、四方にちらばってしまっただろうから、とてもつかまるまい。ことに四十面相は、あんな変装の名人だから、またたくまにべつの人間に化けてしまったかもしれない。」
 ああ、なんということでしょう。大どろぼうが警視総監に化けたばかりか、その部下たちも警官に化けて、にせ総監をすくいだすなんて、じつに思いもよらないはなれわざです。さすがの明智探偵も、そこまでは考えていませんでした。
 四人が、ぼんやり顔を見あわせていますと、うしろのほうから、おおぜいのくつ音がして、八、九人の警官がぞろぞろとあらわれました。
 課長の電話で、総監室の前にかけつけた警官たちです。かれらがかけつけたときには、にせ警官隊は、廊下をまがってしまったあとだったのです。
 電灯が消えているので、なにがなんだかわけがわからず、まごまごしているうちに、時間がたって、やっといまごろ、ここへやってきたのです。
 中村警部は、じぶんたちも失敗したのですから、部下をしかるわけにもいかず、ともかくも、にせ総監のあとを追っかけるように命令するのでした。

かばんの中


 お話は、すこしまえにもどります。
 明智探偵が総監の公舎へ電話をかけ、警視庁にあらわれた総監が、にせものだということをたしかめるまでは、明智のそばに、小林少年とポケット小僧がついていましたが、それから明智と小林少年とが、総監室へいそいでいくのを見おくって、ポケット小僧だけは、べつのほうへ歩きだしました。ポケット小僧は、こんなふうに考えたのです。
「四十面相が警視総監に化けたとすると、その変装用の服は、あのかばんの中にはいっていたにちがいない。あいつは、どこかのあき部屋へかくれて、あのかばんの中から、総監の服をだして着かえ、顔をかえてから総監室へあらわれたのだ。
 それなら、あのかばんが、どこかにおいてあるにちがいない。そのまますてていくかもしれないが、ひょっとしたら、あれを四十面相のすみ家へ持ってかえるかもしれない。
 かばんの中のものを、みんなとりだせば、からだの小さいおれは、あの中へかくれられる。そして、四十面相のすみ家をつきとめることができるじゃないか。
 よし、やってみよう。見つかったら見つかったときのことだ。まさか、殺されやしないだろう。」
 ポケット小僧は、かしこくも、そう考えると、あき部屋からあき部屋へと、かばんをさがして歩きました。
 そして、十いくつめの部屋で、とうとうそれを見つけたのです。
「まてよ。このままかばんの中にはいって、ふたをしめたら、息がつまってしまう。かばんの皮に、小さな穴をたくさんあけておかなけりゃあ。」
 そこで、ポケット小僧は、べつの部屋から、紙をとじるきりをさがしだしてきて、それを持ってかばんのある部屋にはいり、ぴったりドアをしめて、しごとにかかりました。
 まず、かばんの中のものをすっかりとりだして、その部屋の戸だなの中にかくし、それから、かばんの皮の目だたない場所へ、きりをさして五十ほどの穴をあけました。
 そのしごとは、十分ほどでおわりましたので、すぐにからだをまるくして、かばんの中によこになり、自分でふたをしめました。すると、ふたについているばねじかけの金具かなぐが、ぱちんとしまって、もう中からはひらかぬようになってしまいました。
 ポケット小僧は、浮浪少年あがりのチンピラ隊員ですから、苦しいことにはなれています。からだをまるめて、長いあいだ、じっとしていることなんか、へいきなのです。
 穴をあけたおかげで、息はらくにできます。また、その穴から、そとの物音も聞こえるので、たいへん便利です。
 するとまもなく、しずかにドアのひらく音がして、なにものかが、しのび足で部屋の中へはいってきました。
 そして、かすかな足音が、すぐそばに近づいたかとおもうと、ポケット小僧のからだが、ぐらッとひっくりかえりました。だれかが、かばんを持ちあげたのです。
「おっそろしく、重いかばんだな。」
 そんなひとりごとが聞こえました。ポケット小僧は、うたがわれやしないかと、びくびくしていましたが、それは四十面相の部下のものらしく、かばんの中に、なにがはいっているかもよく知らないのでしょう。べつにうたがいもせず、そのまま、えっちら、おっちら、かばんをどこかへはこんでいきます。
 やがて、建物のそとへでたようです。五十いくつのきりの穴から、つめたい風が、はいってきました。
 そして、また五分ほども歩いたと思うころ、
「おい、持ってきたよ。あけてくんな。」
というささやき声がして、なにかドアのひらくような音が聞こえ、かばんは、ふわッとちゅうに浮いて、どっかりと下におろされました。
「ああ、わかったぞ。ここは自動車の中だな。ふふん、うまくいったわい。この自動車は、きっと四十面相のすみ家へいくにちがいない。」
 ポケット小僧は、まるめたからだのいたみもわすれて、にやりと笑うのでした。
 すぐに出発するのかと思うと、そうではなくて、自動車はすこしも動きません。そのまま、三十分ほどもすぎました。その三十分が、ポケット小僧には、二、三時間にも思われたほどです。
 かれは知りませんでしたが、ちょうどそのころ、にせ警官隊が、にせ総監の四十面相をとりかこんで大さわぎをやっていたのです。そして、うまく警視庁の裏門から逃げだしたのです。
 やがて、自動車のドアの音がして、だれかふたりほど中へはいってきたようです。
「出発! フルスピードだ!」
 強い声が、聞こえました。
「かしら、うまくいったようですね。で、ゆくさきは?」
きめんじょうだ。」
 いきなり、自動車が走りだしました。それからは、もうだれも、ものをいいません。
 きめんじょうというところへ行くらしいのですが、ポケット小僧には、そのいみがわからないのです。きめんじょうなんて、へんな名の町は聞いたこともありません。
 高級の自動車らしく、エンジンの音は、ごくわずかです。しかし、いくら高級車でも、道がわるいので、ときどきおそろしくゆれます。やがて三十分も走りつづけると、車のゆれかたが、きゅうにはげしくなってきました。アスファルトのしいてないいなか道にさしかかったのでしょう。
「おやおや、ずいぶん遠くまで行くんだな。」
 ポケット小僧は、心の中でおどろいています。だんだんからだのいたみが、ひどくなってきました。いいかげんにおろしてくれないと、がまんができなくなるかもしれないと思いました。
 およそ一時間も走ったころ、やっと車がとまりました。やれやれ助かったと思っていますと、かばんは、いちど車からおろされたことはおろされたのですが、こんどはまた、べつの乗りものにつみこまれたらしいのです。
「おや、こんどは、貨物列車かもしれないぞ。汽車で、十時間もはこばれるのだったら、たいへんだ。からだがいたいだけじゃない。だいいち腹がへって、がまんできないかもしれないぞ。」
 ポケット小僧は、うんざりしてため息をつきました。
 すると、そのとき、ぶるるるん、ぶるるるん、ぶるるるるる……という音が、かすかに聞こえ、スウッとからだが浮きあがるような気がしました。エレベーターに乗っているような感じです。
「アッ、わかった。ヘリコプターだ。四十面相はヘリコプターを持っているそうだから、きっとそのヘリコプターだ。だが、ヘリコプターで、いったいどこへ行くんだろう。」
 ポケット小僧は、なんだかこころぼそくなってきました。
「先生、ゆくさきはきめんじょうですね。」
「うん、警視庁と明智のやつを、アッといわせてやったから、一週間ばかりやすむつもりだ。きめんじょうは、いいからな。」
きめんじょうのかくれ家は、世間はまだちっとも知らないのですね。」
「うん、知るはずがない。だが、おれは、きめんじょうということばを、すこしばらまいてやろうかと思うんだ。いかにも恐ろしげな名まえだからね。世間のやつはきみわるがるだろうて。名まえだけわかって、それがどこにあるかは、ぜったいにわからない神秘しんぴのなぞというやつだよ。ウフフフフ……。」
 ことばのようすでは、四十面相とその部下が話しているように思われます。
 ポケット小僧は漢字をすこししか知りませんので、きめんじょうと聞いてもなんのことだかわかりませんが、もっと漢字を知っている人なら、すぐに想像できるはずです。
 きめんじょう……鬼面城……奇面城。あてはまる字といっては、まずこのふたつです。どちらにしても、恐ろしい名まえです。いったい、その鬼面城、または奇面城というのは、どこにあるのでしょう。そして、それはどんなに奇怪なお城なのでしょう。
 ポケット小僧には、そこまではわかりませんでしたが、いまの話の「恐ろしげな名まえ」ということばで、いよいよきみがわるくなってきました。きめんじょうへつれていかれて、どんなめにあわされるのかと思うと、さすがだいたんなポケット小僧も、からだが、ゾウッと寒くなってくるのでした。
 ヘリコプターは一時間ちかくも飛んで、やっとどこかへ着陸しました。
 ドアのひらく音。人のおりるけはい。そして、かばんは持ちあげられ、どこかへはこんでいかれます。
 どうも、ひどくさびしい場所のようです。空気がつめたいらしく、かばんの中にいても、おそろしく寒いのです。
 それから、長いあいだぐるぐる回り歩いているようでしたが、やがてかばんは、どこかへおろされました。
 どうも、ふつうの家の中へ持ちこまれたような感じがしません。といって、空気がすこしも動かないのをみると、原っぱでもありません。なんだか、ひどくうすきみのわるい場所です。
 いまにも、かばんのふたをあけられるかと、びくびくしていましたが、部下の男はかばんをおくと、そのままどこかへたちさったらしく、あたりは、墓場のようにしずかになってしまいました。
 しばらくがまんしていましたが、いくら待ってもだれも近づいてくるようすがないので、ポケット小僧は、ポケットからナイフをとりだして、かばんの皮をきりひらき、そこから手をだしてとめがねをはずし、そっとふたをひらいてみました。
 まっ暗です。地獄のようにまっ暗で、しいんとしずまりかえった、ひえびえとしたつめたい場所です。いったいここはどこなのでしょう?

四十面相の美術館


 ポケット小僧は、いつもポケットに、万年筆がたの懐中電灯を持っていますので、それをつけてあたりを照らしてみました。
 コンクリートの壁にかこまれた、物置部屋のようなところです。すみずみに、木箱きばこだとか、いすやテーブルのこわれたのなどが、つみあげてあります。いっぽうの壁に、ドアがついていることがわかりましたので、そのドアに耳をあててみましたが、なんの音も、聞こえません。とってを回すと、ドアはスウッとひらきました。
 首をだしてのぞいてみると、そこはコンクリート壁の廊下のような場所でした。小さな電灯が天井についていて、ぼんやりと、あたりを照らしています。コンクリートをぬったままで、なんのかざりもない、まるでトンネルみたいな廊下です。
 ポケット小僧は、その廊下づたいに右のほうへ歩いていきました。なにしろ、ポケットにはいるくらい小さいといわれているのですから、うす暗い廊下を壁づたいに、こそこそ歩いていますと、まるで目につきません。
 もしむこうから人がきても、壁にひらべったくからだをつけてしまえば、気づかれる心配もないほどです。
 トンネルのようなうす暗い廊下をひとつまがって、十五メートルほどいきますと、道がふさがってしまいました。
 大きな岩が、通せんぼうをするように、廊下のまんなかに立っているのです。
 ふと気がつくと、どこか遠いところから、ごうごうという水の流れているような音が聞こえてきます。
 岩の両側に二十センチぐらいのすきまがありましたので、そこからのぞいてみますと、岩のすぐむこうに、底もしれないまっ暗な穴がありました。さっきのへんな音は、その穴の底から聞こえてくるようです。
 つめたい風が、サアッと、顔をかすめました。
「ああ、わかった。この下に川が流れているんだ。」
 何メートルともしれない深い谷底に、川が流れているのです。ですから、そこは穴ではなくて、廊下と十文字になった谷なのです。
 深い谷が廊下をよこぎっていて、その底を水が流れているのです。
「ここは、いったいどこだろう。たてものの廊下のまんなかに、こんな深い谷があるなんて聞いたこともない。へんな家だなあ。」
 ポケット小僧は、こわくなってきました。ぶるぶるッとぶるいして、うしろのほうへひきかえしました。
 もとの物置部屋の前をとおりすぎて、もっと奥へ歩いていきますと、また、廊下がまがっていて、そこに大きなドアがしまっていました。
 そのなかには、明るい電灯がついているとみえて、ドアのかぎ穴から光がもれています。耳をすますと、その部屋のなかでだれかが話をしているようです。
 ポケット小僧は、かぎ穴へ目をあてて、なかをのぞいてみました。
 それは、アッとおどろくような、りっぱな部屋でした。きらきら光るガラスばりの陳列だなのようなものが、いっぱいならんでいて、そのガラスのなかには、黄金の仏像や、美しいもようのある大きなつぼや、いろいろな彫刻や、宝石をちりばめた王冠や、くびかざりなどが、目もまばゆいばかりにかざってあるのです。
 天井からは、何百という水晶すいしょうの玉でかこまれたシャンデリアがさがり、その明るい光が、かぞえきれない美術品を照らしているのです。
 シャンデリアの下に、りっぱな彫刻のあるまるいテーブルがおかれ、金色の四つのいすが、それをとりかこんでいて、そこにふたりの男が、こしかけていました。
 ひとりは、警視総監に化けたままの四十面相。もうひとりは、制服警官にばけたままの部下でした。きっと、こいつが、ポケット小僧のかくれているかばんをはこんだのでしょう。
「いつ見てもいい気持ちだな。どうだ、このおれの美術館は……、東京の博物館だって、こんなに美しくはないだろう。
 ハハハハハ……。世間のやつらは、こんな山の中に、四十面相の美術館があるなんて夢にも知るまい。明智探偵だって、警視庁のやつらだって、おれの奇面城がどこにあるか、すこしも知らないのだ。
 おれは、いままでたびたび明智につかまったが、ここだけは知らせなかった。おれは、ほうぼうにすみ家をもっているからな。そのどれかを知らせてやればよかったのだ。この美術館のある奇面城だけは、ぜったい知らせることはできない。」
 四十面相が、ほこらしげにいいますと、警官すがたの部下が、ごきげんをとるようにあいづちをうちました。
「そうですとも。まさかこんな山の中の樹海じゅかい(海のように、ひろい森)のまんなかの、あの人間の顔とそっくりの大岩の下に、こんな美術館があろうなんて、だれが想像するでしょう。
 かしらは、じつにいい場所をおえらびになりましたよ。
 そのうえ、あの恐ろしい番人がいれば、たとえ、人間が奇面城にちかづいてきても、あの番人を見たら、まっさおになって逃げだしますよ。われわれにたいしては、ねこのようにおとなしいやつですがね。ハハハハ……。」
 それを聞いて、ポケット小僧は、いよいよ恐ろしくなってきました。
「それじゃここは、山の深い森のまんなかなんだな。そこに、人間の顔のような大岩があって……、おれはいまその中にいるんだな。
 だが、恐ろしい番人って、なんだろう? じぶんたちにはねこのようにおとなしいといったが、そいつは、いったいどんなやつなんだろう。人間じゃないかもしれないぞ。」
 それから、部屋のなかのふたりは、まだしばらく話をしていましたが、ぼつぼつ寝室へひきあげそうになりましたので、おどろいてドアをはなれ、もとの物置部屋へひきかえしました。
 まず、ドアのうちがわに長い板ぎれを立てかけて、だれかがドアをひらけば、それがたおれて音がするようにしました。その音で、目をさますためです。
 それから、こわれたいすを三つならべて、その上に、ごろりとよこになると、だいたんふてきなポケット小僧は、まもなく、ぐっすりと眠りこんでしまいました。

巨人の顔


 ポケット小僧が、ふと目をさましますと、まだ部屋のなかは、まっ暗でした。そんなはずはない。ぐっすり寝たんだから、もう夜があけているはずだと、ふしぎそうにあたりを見まわしていましたが、
「ああ、そうだ。この部屋には、窓がないのだ。」
と、やっとそこへ気がつきました。
 ドアのほうを見ると、ゆうべ立てかけておいた板きれは、そのままになっています。だれもこなかった証拠です。
 それにしても、おなかがぺこぺこです。ここにだって台所はあるだろうと思ったので、こっそり、なにかたべるものをさがすつもりで部屋をでました。
 廊下も、ゆうべとおなじ暗い電灯がついているだけで、すこしも日の光はさしておりません。
 奇面城というのは、岩でできているらしいから、ここは岩のなかの洞窟なんだなと思いました。
 ゆうべの美術館のドアをとおりこして、もっと奥へ進んでいきますと、どこからかおいしそうなにおいがしてきました。
「ははあ、肉をやいているな。きっと、こっちに台所があるにちがいないぞ。」
 鼻をぴくぴくさせながら、においのほうへ歩いていきますと、ドアがひらいていて、そこから、かすかに白いゆげのようなものが、ただよいだしています。
 ああ、ここだなとおもって、そっとのぞいてみますと、やっぱりそこが台所でした。白いコック帽をかぶった男が、しきりにビーフステーキをつくっているのです。
 ジュウジュウと肉のやける音、油っこいうまそうなにおい、はらぺこのポケット小僧は、よだれがたれてきそうでした。
 小僧は、ドアのかげにかくれて、しんぼうづよく、コックがどこかへ出ていくのを、待っていました。
 すると、二十分ほどたって、ビーフステーキをこしらえてしまうと、コックは、いそぎ足でドアのほうへやってきました。手洗いへでもいくのでしょう。
 小僧はびっくりして、いっそうふかくドアのかげに身をかくしましたが、なにしろポケット小僧といわれるほどからだが小さいので、こういうときにはべんりです。ドアのうしろで、ひらべったくなっていると、そこには人がかくれているなんて、すこしもわからないのです。
 コックがいってしまうと、小僧はすばやく台所のなかへはいって、できたてのビーフステーキひときれと、じゃがいもとパンを、そこにあったナプキンにつつみ、りすのように、すばしっこく逃げだしました。
 廊下を物置部屋のほうへいそいでいきますと、むこうにチラッと人かげが見えました。コックではありません。えびちゃ色のセーターをきた大きな男です。四十面相の部下でしょう。
 ポケット小僧は、いきなり台所のほうへかけもどって、また、もとのドアのうしろへ身をかくしました。
 大男はそれともしらず台所のなかへはいって、しきりにコックを呼んでいました。まもなくコックが帰ってきたのを見て、こんなことをいうのです。
「おい、はやく朝めしをださないか。もう九時だよ。おかしらの散歩の時間がおくれるぞ。おかしらは、朝めしのあとで、山の中を歩きまわるくせがあることを知らないのか!」
「そうがみがみ、いうもんじゃねえ。もうできたんだよ。すぐ持っていくって、おかしらにそういっといてくんな。」
「よし、はやくするんだぞ。」
 そうして、大男はたちさり、すこしたってコックが、大きなぼんの上にごちそうをのせて出ていきました。
 小僧はコックが帰ってくるまでじっとがまんしていて、コックが台所へはいるのを待って、こっそりと、もとの物置部屋へ帰りました。
 そして、木箱の上にナプキンをひろげると、まだゆげのたっているビーフステーキにかじりつき、パンをむしゃむしゃとやりました。そのうまかったこと。ポケット小僧は生まれてから、こんなうまいものをたべたことがないと思いました。
 すっかりたべてしまうと、また廊下にでて、こっそりドアのかぎ穴をのぞいてまわりました。ゆうべの美術館はからっぽでした。四十面相の部下が五、六人も集まって、食事をしている部屋もありました。まっ暗で、なにも見えない部屋もありました。
 ある部屋では、まるで発電所のように、大きなかまのなかで石炭がもえ、発電機がまわっていました。
「ああ、そうだ。こんな山の中に電灯線がきているはずはない。じゃあ、ここでつかっている電気は、みんなじぶんでおこしているんだな。さっきビーフステーキをやいていたのも、電熱器のようだったぞ。わああ、おったまげた。四十面相のやつ、じぶんで電気をおこしていやあがる。」
 ポケット小僧は、その大じかけに、びっくりしてしまったのです。
 なおもまわり歩いているうちに、とうとう、四十面相のいる部屋を見つけました。
 かぎ穴からのぞくと、その部屋も、おそろしくりっぱにかざりつけてありました。いすも、テーブルも、壁も、カーテンも、すっかり金ぴかなのです。ほんとうの金かどうかはわかりませんが、まるで、仏壇ぶつだんの中のように、金色にかがやいているのです。
 四十面相は、まっ黒なビロードの服をきていましたが、その肩や胸に、ちかちか光る金色のもようがついているのです。まるで、どこかの国の将軍のようです。
 四十面相は、いまビーフステーキの食事を、おわったところでした。テーブルの上には、グラスがいくつもならび、いろいろな洋酒のびんが立っていました。
 四十面相のそばに、美しい女の人が立っています。まっ白な、ふわふわした洋服をきて、くびには真珠の首かざりが、かがやいているのです。
「じゃあ、おでかけになりますか。」
 女の人が、やさしい声でいいました。
「うん、朝の散歩をかかすわけにはいかん。森のなかを歩きまわるのは、いい気持ちだからな。きょうは、おまえも、いっしょにいこう。」
 四十面相は、そういって立ちあがりました。
 ポケット小僧は、それを聞くと大いそぎでドアの前をはなれ、壁のいちばん暗いところに、ぴったり身をつけて、そっとドアのほうを見ていました。
 ドアがひらいて、四十面相と女の人が廊下にでました。そして、またドアがしまりました。ふたりは、なかよくむこうへ歩いていきます。
 さいわいポケット小僧に気がつかなかったようです。
 小僧は壁づたいに、ふたりのあとを追いました。ふたりは台所とははんたいのほうへ、ずんずん歩いていきます。
「へんだなあ。こっちへいったら、あの大岩で、いきどまりになっているのに。」
 ポケット小僧は、ふしぎに思いながらついていきます。
 ふたりは、あの大岩のところへくると、四十面相が手をのばして、右手の壁のすこしくぼんだところを、ぐっとおしました。すると、あの大岩が、ギイイッと音をたてて、むこうへたおれていくではありませんか。
 こちらから見ていると、大岩のてっぺんには二本の頑丈がんじょうなくさりがついていて、たぶん電気じかけでしょう、そのくさりがのびるにつれて、大岩がむこうへたおれていくのです。
 むかしのお城のつり橋と、おなじしかけでした。とうとう大岩は横だおしになり、あの深い谷の上によこたわったのです。
 四十面相と女の人は、その岩の橋をわたってむこうへ歩いていきます。見ると、そこからむこうは、コンクリートのぬってない岩のトンネルです。そして、そのトンネルの入口が、すぐむこうにまぶしく光っていました。トンネルのそとには、太陽が照りかがやいているのです。
 ふたりがトンネルを出てから、しばらくのあいだ待って、ポケット小僧はその岩の橋をわたり、すばやくトンネルの入口まで走っていって、そっと、そとをのぞいてみました。
 ふたりは遠くへいってしまったとみえて、そのへんには人のすがたもありません。
 トンネルのそとは、岩と土のまじった広っぱです。そのまわりを、見とおしもきかぬ深い森が、とりまいています。
 ポケット小僧はトンネルからとびだして、広っぱのまんなかにある大きな岩のかげに、うずくまりました。もし、だれかに見つかってはたいへんだと思ったからです。そこにうずくまって、トンネルの上を見あげました。
 ポケット小僧の顔が、まっ青になり、目がとびだしそうに見ひらかれました。なにがそんなに、小僧をおびえさせたのでしょう。
 ああ、ごらんなさい。トンネルの上には、五十メートル四方もあるような、巨大な岩山が、そびえていたではありませんか。しかも、それはただの岩山ではありません。その巨大な岩山ぜんたいが、人間の顔のかたちをしていたのです。
 奈良ならの大仏のからだの何倍もあるような、想像もできないほどの、大きな大きな顔なのです。
 彫刻ではありません。岩山が、しぜんにそういうかたちをしていたうえに、いくらか人間が手をくわえたもののように思われます。
 ああ、その顔……。なんという恐ろしい顔でしょう。悪魔が笑っているのです。さしわたし十メートルもあるような巨大な目で、じっと、こちらをにらみつけています。そして、するどいきばのある三十メートルの口で、何百人の人間でも、ひとのみにしようと待ちかまえているようです。

恐ろしい番人


 その巨人の顔の前は広っぱになっていて、いっぽうのすみにヘリコプターがおいてあります。ポケット小僧はヘリコプターのそばへいき、操縦席にのぼりついて、その中をしらべてみました。
 こしかけのうしろに、ズックでつつんだ四角なかごがおいてあります。中をのぞいてみると、キャベツのきれはしが、ころがっていました。
 このかごは、どこかの町で食料品をしいれて、ここへはこぶときに、つかうのでしょう。
 ポケット小僧は、その大きなかごを見て、にやりと笑いました。うまい考えがうかんだからです。
「行きはかばんの中、帰りはかごの中か。ウフフフ……。おれもなかなか知恵があるなあ。」
 そんなひとりごとをつぶやいて、ヘリコプターをおりましたが、そのとき、どこかから、みょうな叫び声が聞こえてきました。
「ギャアッ、ギャアッ!」
というようなへんな声です。鳥がないているのでしょうか。深い山の中ですから、どんな恐ろしい鳥がいるかわかりません。
 ポケット小僧は、びっくりして、声のするほうを見ました。広っぱには、なんにもおりません。そのむこうの森の中から聞こえてくるのです。
 おずおずと、そのほうへ近づいていきました。森には何百年もたったような大きな木が、見とおしがきかないほどしげっていました。それらの木のみきにはつたがまといつき、はいあがり、映画で見たジャングルのようなありさまです。どこかから、ターザンの「ヤッホ……。」という叫び声が聞こえてきそうなけしきです。
「ギャアッ、ギャアッ。!」
 そのとき、ついまぢかで、あのみょうななき声がしました。
 ポケット小僧は、おもわず逃げごしになりながら、木のあいだをすかして見ますと、五、六メートルむこうの暗い森の中に、なんだか黄色いようなものが、ぶらんぶらんと、ぶらさがっているのが見えました。
 鳥ではありません。ねこのような動物です。そいつが、あと足をつたにまかれて、木の上からぶらさがっているのです。
 まきついたつたをとこうとして、いろいろに身をくねらせるのですが、どうしてもとけません。ぶらんこのように、さかさまにぶらさがったまま、あのみょうななき声をたてて、助けをもとめているのです。
 ポケット小僧はそれを見て、「ねこならなんでもないや。」と思いながら、もっとそばまで近づきました。
 足をつたにしめつけられ、ギャアギャアいって苦しんでいます。
 かわいそうになってきました。
「よし、いま、おれがはずしてやるからな。待ってろよ。」
 せのびをして、宙でもがいているねこをだきとり、足にからまっているつたをといてやりました。
 ねこは、ポケット小僧の胸に頭をすりつけて、じっとしています。助けてもらったのを、よろこんであまえているのです。
 その頭をなでてやりながらよく見ますと、どうもようすがおかしいのです。ねこにしてはすごい顔をしています。みけねこのように見えますが、黄色と黒のしまがもっとはっきりして、なんだか虎のような感じです。ひょっとしたら、これは、虎の子ではないのでしょうか。
 そう思うと、ポケット小僧はこわくなってきました。じっとこちらを見ている青く光る目が、だんだんものすごくなってくるのです。
 そのときです。
「ごうッ……。」
という恐ろしいうなり声が聞こえました。だいているねこではなく、もっとむこうのほうから、ひびいてきたのです。
 びっくりして、そのほうを見ますと、木の幹のあいだを、ちらっと黄色いものが、よこぎりました。黄色に太い黒のしまのある動物です。
「アッ、虎だッ!」
とおもうと、ポケット小僧は、もう身うごきができなくなってしまいました。
 そいつは、ヌウッと大きなものすごい顔をあらわし、のそりのそり、こちらへ近づいてきます。大きな虎です。いまたすけてやった虎の子の親かもしれません。
 ああ、わかりました。四十面相の部下が、「恐ろしい番人」といったのは、こいつのことだったのです。
 四十面相は、いぬのかわりに、この大きな虎をかって、奇面城の番をさせているのでしょう。
 ポケット小僧は、いまにもこの虎にくわれてしまうのかと、生きたここちもありません。といって、逃げだそうにも、足が動かないのです。らんらんとかがやく大きな目で、じいっとにらまれると、電気にでもかかったように、身がすくんでしまうのです。
 虎はもう、すぐ目の前にきていました。はっはっと、くさい息がこちらの顔にかかるほどです。
 すると、ポケット小僧にだかれていた虎の子が、うでからとびだして、大虎のそばへかけよって、じゃれつくのでした。
 大虎は、虎の子のからだをなめてやりながら、さもかわいくてしかたがないというように、目をほそくしています。
 そのようすでこの大虎は、父親ではなくて、母親のように思われました。
 しばらくすると大虎は、また、「ごうッ……!」とうなって、ポケット小僧のほうを見ました。しかし、べつに危害をくわえるようすもありません。なんだか、「ぼうやを助けてくださって、ありがとう。」と、おれいをいっているように見えました。
 ポケット小僧は、からだは小さくても、だいたんな子どもですから、それを見ると、すっかり安心して、そっと手をだして、大虎の頭をなでてみました。
 ガッとくいついてくるかとおもうと、そうではなくて、目をほそめて、おとなしくしています。恩人のポケット小僧に、すっかりなついてしまっているのです。
「きみは、恐ろしい顔をしているが、心はやさしいんだね。よしよし、じゃあ、いつかまた、きみのやっかいになるときがあるかもしれないよ。」
 ポケット小僧は、人間に話しかけるようにそんなことをいって、しばらく虎の頭や首をなでていましたが、四十面相が、朝のさんぽから帰ってきて、みつかるとたいへんですから、いそいで奇面城の洞窟どうくつのほうへ、ひきかえすのでした。
 親子の虎は、それを見おくって、のそのそついてきます。
 そして、洞窟の前まできたとき、またしても、どこからか、「ごうッ……!」という恐ろしいうなり声が、ひびいてきました。
 うしろからついてくる、二ひきのとらではありません。洞窟の入口にならんで、いくつも小さなほら穴があるのですが、いまの声は、そのほら穴の中から、ひびいてきたようです。
 それじゃ、まだほかに虎がいるのかと、びっくりして立ちどまっていますと、そのほら穴のひとつから、ヌウッと大きな虎がすがたをあらわしました。こいつは、さっきの虎の子の父親かもしれません。
「ごうッ……!」
 そいつは、ほら穴から全身をあらわして、もういちどうなり声をたてました。
 すると、うしろにいた母親らしい虎が、そこへ歩いていって、顔をつきあわせて、なにか知らせているようでした。
「あの子を、助けてくださったのよ。」といっているのかもしれません。
 二ひきの大虎は、顔をそろえて、ポケット小僧のほうを見ました。やさしい目をしています。
「ありがとう。」と、おれいをいっているのでしょう。
 ポケット小僧は、恐ろしい猛獣がそんなにやさしくしてくれるので、すっかりうれしくなってしまいました。親子三びきの虎と、もうすこし遊んでいたいと思いましたが、四十面相や部下のものに見つかってはたいへんですから、いそいで三びきの虎のほうへ手をふって、わかれをつげると、そのまま洞窟の中へはいっていきました。

ポケット小僧の冒険


 ポケット小僧が、奇面城の洞窟に帰ると、まもなく、四十面相と美しい女の人が、さんぽからもどってきました。
 それから、まる二日のあいだポケット小僧は、洞窟の中に足をひそめていたのです。夜は、あの物置部屋で眠り、昼は、みつからぬように気をくばりながら、ほうぼうの部屋をのぞきまわり、四十面相のすみ家のようすをしらべました。
 さいわい、洞窟の廊下はうす暗いので、四十面相の部下たちにであっても、すばやく身をかくせば、相手にさとられないですむのです。食事は、ときどき台所からぬすみ出せばいいのですから、おなかがへるようなこともありません。
 そうしてしらべたところによりますと、洞窟の中にすんでいるのは、四十面相からコックまでくわえて、十一人にすぎないことがわかりました。
 四十面相の部下は、もっとたくさんいるのでしょうが、いまここには十一人だけなのです。
 しかし、十一人がごはんをたべているのですから、どこからか食料を、はこばなければなりません。電気をおこす石炭もいるでしょうし、そのほか、いろいろなものを持ってこなければなりません。
 自動車のとおれない山の中です。そういうものをはこぶには、人間が背中にしょって山道をのぼってくるか、ヘリコプターをつかうほかはないのです。あのヘリコプターは、たびたびここから飛びたって、そういうものを、はこんでいるのにちがいありません。
 ポケット小僧は、それを待っていたのです。東京へ帰るのには、そのおりを待って、うまくやるほかはないと考えていたのです。
 すると、さいわいにも三日めの夜、そのおりがきました。
 四十面相が、ふたりの部下に、ヘリコプターでどこかの町へいって、食料品をつんでくるように命令しているのを、立ちぎきしたのです。
 そこで、ふたりの部下が身じたくをして、洞窟をでていくあとを、そっとついていきました。
 夜のことですから、そとにでるとまっ暗です。ふたりの部下は懐中電灯をつけて、足もとを照らしながら、ヘリコプターのほうへ近づいていきます。昼間のうちに、いつでも飛べるように準備がしてあったのです。
 ポケット小僧は、ふたりがヘリコプターに乗りこまないさきに、あの操縦席のいすのうしろにある、ズックをかぶせたかごの中へ、もぐりこむつもりでした。
 しかし、いくら闇夜といっても、ふたりをおいこしたら、すぐに見つかってしまいます。なにか計略をもちいなければなりません。
 ポケット小僧はりこうな少年ですから、それも、ちゃんと考えてありました。かれは、ふたりの部下のそばをはなれて、よこての森の中へかけこみました。そして、いきなり、
「キャーッ、助けてくれえッ……。」
と叫んだのです。
 おどろいたのは、ふたりです。だれもいるはずのない森の中から、ひめいが聞こえてきたので、すてておくわけにはいきません。
 おおいそぎで森の中へかけこんで、そのへんをさがしまわりました。
 しかし、ふたりがそこへはいってきたころには、もうポケット小僧は森の中を走って、ヘリコプターのほうへ近づいていました。
 そして、部下たちがさがしつかれて、森のそとへでたときには、とっくに、あの操縦席のかごの中へ身をひそめていたのです。
 かごにはズックがかぶせてあるので、中からその口をしめれば、大きなふろしきづつみのようになり、もう見つかる心配はありません。
「たしかに、人間の声だったな。」
「うん、おれもそう思った。だが、鳥がないたのかもしれない。この山には、人間みたいななき声をだすお化け鳥がいるからね。聞きちがいだよ。こんなところへ人間がくるはずがないからね。」
 ふたりの部下は、ぶつぶつそんなことをつぶやきながら、操縦席へ乗りこんできました。
 やがて、プロペラがまわりはじめます。
 ぶるるん、ぶるるん、ぶるるん。
 そして、機体がスウッと浮きあがったかとおもうと、だんだん速度をはやめながら、どこともしれず飛んでいくのです。
 一時間も飛んだでしょうか。だんだん速度がにぶくなり、機体がさがっていって、どこかへ着陸しました。
 ポケット小僧はズックにつつまれているので、それがどんな場所だか、すこしもわかりません。
「おい、あすこに、自動車が待っているぜ。さあ、かごをおろすんだ。」
 ズックにつつまれたかごを、操縦席の入口のところまでひっぱっておいて、地面におりたふたりが、それをひきずりおろすのです。
 かごは、グッとひかれ、どしんと地面にたたきつけられました。
 そのひょうしに中にいるポケット小僧は、頭や肩や腰をひどくかごにぶっつけましたが、いくらいたくても、声をたてることもできません。歯をくいしばってがまんしていました。
 なにしろ、ポケットにはいるといわれているほどの小さな少年ですから、めかたもかるく、ふたりの部下は、まさか、かごの中に人間がはいっているなんて夢にもしりませんので、いつもよりすこしぐらい重くても、うたがって見ようともしないのでした。
 かごを地面におくと、ふたりは、むこうの自動車のほうへ歩いていったようすです。
 そのすきにポケット小僧は、そっとズックの口をひらいて、そとをのぞいてみました。
 まっ暗です。家などどこにも見えません。町から遠くはなれた広い原っぱのようなところです。
 二十メートルほどむこうに、ヘッドライトを消した自動車の黒いかげが見え、ふたりの部下はそのそばに立って、なにか話をしています。
「いまだッ!」
と思いました。ズックの口をじゅうぶんひらいて、外へでると、もとのとおりにズックをしめ、そのままはうようにして、ヘリコプターから遠ざかっていきました。
 部下たちは、なにもしりません。自動車の運転をしていた男にも手つだわせて、車のなかから、箱にはいったもの、紙につつんだものなどを、かごのところへはこんでいます。肉、かんづめ、やさいなどの食料品でしょう。
 ポケット小僧は原っぱのくさむらの中に寝そべって、遠くからそのようすを見ていました。
 しばらくすると、ズックでつつんだかごをヘリコプターにのせ、ふたりの部下も運転手にわかれをつげて、操縦席に乗りこみました。
 そして、ぶるるん、ぶるるんと、ヘリコプターは空へ、自動車もヘッドライトをつけて、むこうの大きな道へと、遠ざかっていきました。
 かれらは、とうとう気がつかなかったのです。ポケット小僧はたすかったのです。しかし、これからが大しごとです。東京に帰って明智探偵や小林少年にこのことを報告し、大ぜいの警官隊といっしょに、奇面城を攻撃して、怪人四十面相をとらえなければなりません。
 まる二日、洞窟の中をしらべ、悪人たちの話を立ちぎきしたおかげで、ポケット小僧には、奇面城が、どのへんの山の中にあるかということも、だいたいわかっていました。
 いよいよ、奇面城の総攻撃がはじまるのです。名探偵明智小五郎は、どんな計略を考えだすでしょうか。また、四十面相は、どのようなてだてで、これをふせぐでしょうか。千変万化せんぺんばんかの知恵と力のたたかいが、やがてはじまろうとしているのです。
 ポケット小僧は、それを考えると胸がわくわくしてきました。怪人四十面相のほんとうのすみ家、あの恐ろしい奇面城が、どこにあるかを知っているのは、世界じゅうにおれひとりだと思うと、うれしくてしかたがないのです。
 ヘリコプターも自動車も、かげが見えなくなってしまったので、ポケット小僧は安心して立ちあがりました。そして、原っぱをよこぎり、国道らしい大きな道にでると、さっきの自動車がいった方角へ、暗闇のなかをてくてくと歩きだすのでした。

秘密会議


 チンピラ隊のポケット小僧は、まっ暗な街道を、一時間あまりもてくてく歩いて、やっと大きな町にたどりつきました。それは埼玉さいたま県のT町だったのです。
 ポケット小僧は、T町の駅の長いすの上で一夜をあかし、あくる朝の汽車で東京に帰りました。三百円ほどもっていたので、やっと汽車のきっぷが買えたのです。
 東京につくと、すぐに明智探偵事務所へいって、明智先生と小林団長にあい、くわしく報告しました。
「わあ、えらいぞ、ポケット小僧。たいへんなてがらをたてたねえ。」
 小林少年が、おもわず歓声かんせいをあげました。
 明智探偵も、ポケット小僧の頭をなでながら、
「どんなおとなもおよばない大てがらだよ。四十面相のほんとうのかくれ家、奇面城なんて、長いあいだだれも知らなかった。ぼくも、まったく気づかないでいた。それをきみが、ひとりの力で、発見したんだからね。きっと警視総監からごほうびが出るよ。
 よし、これからすぐに警視庁へいこう。そして、総監にこのことを報告して、どうして奇面城をせめるか、その方法を相談しよう。」
 明智探偵はそういって、卓上電話の受話機をとると、警視庁の中村警部をよび出し、総監にこのことをつたえてくれるようにたのみました。すると、総監も捜査課長も待っているからという返事があったので、そのまま自動車をよんで、ポケット小僧をつれて、警視庁へいそぎました。
 それから二十分ほどして、警視庁の総監室には、大机おおつくえの正面に山本警視総監、その前に明智小五郎、堀口捜査一課長、中村警部が席につき、ポケット小僧も、明智探偵のとなりの大きないすに、ちょこんとこしかけて、しかつめらしい顔をしていました。
 山本総監は、四十面相がじぶんに化けて、警視庁をばかにしたことを、ひじょうにおこっていましたので、この事件にかぎって、総監室で秘密会議をひらくことにしたのです。
「きみがポケット小僧か。よくやってくれた。あとで、どっさりほうびをあげるよ。で、きみは、その奇面城がどこにあるのか、わかっているんだろうね。」
 総監が、ポケット小僧にたずねました。
「はい、それは奇面城にかくれているあいだに、四十面相の部下たちの話を立ちぎきしてわかりました。それはこぶしだけという山です。その山の北がわの深い森の中に、あの恐ろしい顔の岩があるのです。」
 それをひきとって、明智探偵が説明しました。
甲武信岳こぶしだけというのは、埼玉県と長野県の境にそびえている山です。そこから食料などを仕入れるのに、いちばん近い町は埼玉県のT町です。奇面城からT町へは、二日か三日にいちど、四十面相のヘリコプターが、かよっているらしいのです。ポケット小僧は、そのヘリコプターにかくれて逃げ出してきたのです。」
 すると、堀口捜査課長が、こともなげにいうのでした。
「武装した警官を一小隊ほどやって奇面城をかこませるんですな。奇面城の中には、四十面相も入れて十一人しかいないというから、武装警官一小隊でじゅうぶんでしょう。自動車のいけるところまでいって、それからは歩いてのぼるんですな。」
 それを聞くと、明智探偵はかぶりをふって、
「いや、それはあぶないですよ。奇面城のまわりには、見はりのものがいるにちがいない。警官隊が山をのぼっていったら、すぐに気づいて、じゅうぶん用意をする。あいつらはピストルや銃を持っているでしょうし、そのほか、どんな武器ぶきがあるかわからない。それと正面からたたかっては、こちらにも、けが人を出します。正面しょうとつは、さけたほうがいいと思います。」
と反対をとなえました。
「ふん、なにか計略をもちいるというんだね。明智君、きみには、うまい計略が、あるのだろうね。」
 山本総監がたずねました。
 すると明智探偵は、いすを前にのり出し、大机にひじをついて、ひくい声で話しはじめるのでした。
「じつは、こういう計略を考えたのです。四十面相のヘリコプターが、たえずT町へやってくる。それをうまく利用するのですよ……。」
 明智探偵は、そこでいっそう声をひくくしましたので、総監をはじめ、捜査課長も中村警部も、ぐっと顔を前に出し、四人が頭をくっつけるようにして明智のないしょ話をききとりました。
「うん、おもしろい。明智君らしいやりかただ。ひじょうにむずかしいけれども、きみならできるかもしれない。やってみるだけのねうちはあるね。」
 総監は明智の話を聞いて、にこにこしながら賛成しました。
「それについて、中村君、きみの部下の三浦みうら刑事をかしてもらいたいんだがね。あの男は、警視庁第一の変装の名人だからね。」
 明智が中村警部にたのみますと、警部はこころよく承知しました。
「いいとも、三浦はたしかに変装がうまい。四十面相までいかなくても、十面相くらいのうでまえはあるよ。あの男がやくにたつなら、どうかつかってくれたまえ。」
 それから三十分ほど、こまかいうちあわせをしたあとで、この総監室の秘密会議はおわりました。山本警視総監はいすから立って、
「では明智君、きみからの、よい知らせを待つことにします。よろしくたのみますよ。」といって、明智探偵の手をにぎるのでした。

かえだまふたり


 ポケット小僧が奇面城を逃げ出してから二日めの夜のことです。もう十時をすぎていました。
 埼玉県T町郊外のあのさびしい原っぱに、いつかの晩とそっくりの自動車が、ヘッドライトを消してとまっていました。
 その自動車に乗っているふたりの男は、じっと星空を見あげて、なにかを待っているようすです。
 しばらくすると、はるかむこうの空から、ぶるるるる……という音が聞こえ、それが、だんだん大きくなってきました。ヘリコプターです。
 やがて、ヘリコプターはおそろしい風をまきおこして、すぐむこうに着陸しました。そして、操縦席から、ふたりの男がおりて、こちらへ歩いてくるのが、星の光でかすかに見えます。
 ふたりの男は、ズックでおおった大きなかごを、両方からさげていました。
「ひゅう、ひゅう。ひゅう……。」
 こちらの自動車の中のひとりが、口ぶえで、ある歌のふしを吹きました。すると、
「ひゅう、ひゅう。ひゅう……。」
 むこうから歩いてくる男のひとりも、同じふしの口ぶえを吹くのです。これがあいずの暗号なのでしょう。
 ふたりの男は、自動車のそばに、かごをおろして立ちどまりました。自動車のドアがひらいて、中から箱に入れたもの、紙ぶくろにいれたものなど、いろいろの食料品を、つぎつぎとさし出します。そとのふたりは、それをうけとっては、かごの中へ入れるのです。
 五分もたたないうちに、かごがいっぱいになりました。「じゃ、こんどは十四日の晩だよ。時間はいつものとおり。これが品書しながきだ。それじゃあ。あばよ。」
 このつぎまでに、買い入れておくものを書きつけた紙をわたし、ふたりの男は重くなったかごをさげて、えっちら、おっちら、ヘリコプターのほうへ帰っていきました。
 それを見おくって自動車は出発し、広い街道のむこうへ遠ざかっていきます。ところが、そのときみょうなことがおこりました。
 走りさった自動車のあとへ、いまのとそっくりの大型自動車が、どこからかスウッとやってきて、ぴたりと、とまったのです。
「ひゅう、ひゅう、ひゅう……。」
 自動車の窓から、するどい口ぶえがなりひびきました。さっきの暗号とおなじ歌のふしです。
 ヘリコプターに、かごをつみこんでいたふたりの男が、こちらをふりむきました。ふたりは、ずっとむこうをむいていたので、自動車がいれかわっていることに気がつかないようです。
「おい、呼んでるぜ。なんか聞きわすれたことでもあるのかな。めんどうだけれど、いってみよう。」
「うん、そうしよう。ひゅう、ひゅう、ひゅう……。」
と、こちらもおなじ口ぶえをふいて、自動車のほうへ近づいていきます。
 ふたりが、自動車のよこまでいきますと、ドアがひらいて、自動車のふたりも、そとへ出てきました。そして、ヘリコプターのふたりと、むかいあって立ちました。
「アッ。」
 ヘリコプターのふたりが、びっくりしたように叫んで、両手をうえにあげました。自動車のふたりが、てんでにピストルをかまえていたからです。
 自動車の運転手のとなりに小さな子どもがいて、窓の中からじっと、こちらを見ていました。それはポケット小僧でした。
「さあ、そのピストルはぼくが持つ。こいつらの服をぬがせてから、縄をかけてくれたまえ。」
 自動車の男のひとりがそういって、もうひとりからピストルをうけとり、二ちょうのピストルを両手にかまえました。
 それを見ると、車の中にいたポケット小僧もとびだしてきました。もうひとりの男は、ポケット小僧に手つだわせて、ヘリコプターのふたりのふくをつぎつぎとぬがせたうえ、手足をしばり、さるぐつわをはめました。
「よし、それじゃあ、このふたりを自動車の中へ入れるんだ。」
 ピストルをかまえていた男も、それを地面において手つだいました。
 それから変装です。変装用のけしょう箱をとり出し、懐中電灯でヘリコプターの男たちの顔をしらべながら、それににせてじぶんの顔をいろどるのです。
 自動車に乗ってきた男は、ふたりとも変装のくろうとらしく、顔をつくることが、じつにじょうずでした。またたくまに、ヘリコプターの男たちとそっくりの顔になってしまいました。
 それがすむと、ぬいだ背広は車の中にほうりこみ、運転台の男に声をかけました。
「さあ、出発してよろしい。このふたりの男を本署へつれていってください。ふたりのあつかいについては、署長さんがよくごぞんじですからね。」
 それを聞くと運転台の男は、うなずいて車を出発させました。
 いまの話のようすでは、この自動車はT町警察署のもので、運転手はおなじ署の警官なのでしょう。
 ヘリコプターの男になりすましたふたりは、そのまま、ポケット小僧といっしょにヘリコプターに乗りこみ、ひとりが操縦席について出発しました。この男はヘリコプターになれているらしく、その操縦ぶりはじつにみごとなものでした。

敵のただ中へ


 それから一時間ほどのち、四十面相の部下のにせものと、ポケット小僧をのせたヘリコプターは、奇面城の前の広っぱに着陸していました。
 四十面相の部下のヘリコプターがかりは、ジャッキーとよばれている男で、その助手のもうひとりの男は、五郎という名でした。ポケット小僧がそれを、ちゃんとおぼえていたのです。
 ジャッキーと五郎になりすましたふたりは、食料をつめたかごをヘリコプターからおろし、それをはこんで、奇面城へはいろうとしました。
 そのとき、「ごうッ……。」という恐ろしいうなり声が、どこからかひびいてきたのです。
「アッ、いけない、虎だ。虎がやってくる……。」
 ポケット小僧が、とんきょうな声をたてました。
「エッ、虎だって?」
 ジャッキーと五郎が、口をそろえて叫びました。ふたりとも、虎の番人がいることは聞いていましたが、四十面相の部下に変装してしまえば、だいじょうぶだと思いこんでいたのです。
 ところが虎は、おけしょうや服装なんかではごまかされません。においです。虎の鼻は人間よりもずっとするどいので、人間のひとりひとりのにおいが、ちゃんとわかるのです。
 いま、ヘリコプターからおりたふたりは、これまで、かいだこともないような、においをもっている。
 こいつはあやしいぞと、虎は考えたのでしょう。
 星あかりですかして見ると、二ひきの大きな虎が、もう十メートルほどむこうまで近づいていました。
 にせジャッキーとにせ五郎は、ピストルを持っていましたから、うまくうてば、それで虎を殺すことができるかもしれません。
 しかし、そんなことをすれば、ピストルの音を敵に聞かれますし、虎の死がいがのこるので、たちまちあやしまれて、せっかく、ここまでのりこんできた苦心が、水のあわになってしまいます。逃げるほかはありません。うまく木の上にでものぼれば、難をのがれられるかもしれないのです。
 そこでふたりは、虎とはんたいのほうへ、いちもくさんにかけだしたのです。
「アッ、走っちゃいけないッ。」
 ポケット小僧があわてて叫びましたが、もうおそい。そのときは、もう、虎もかけだしていたのです。
 猛獣に出あったときは、じっとしていなければいけない、ということを、ふたりのおとなは忘れてしまったのです。
 じっとしていれば、虎のほうでもにらんでいるばかりですが、走りだしたら、虎はいっぺんにとびかかってきます。虎とかけっこしたって、とても勝てるものではありません。このままほうっておいたら、ふたりは、虎にくわれてしまう運命です。
 ポケット小僧は、とっさに考えました。
「二ひきの虎は、ぼくのことをおぼえていないかしら。このあいだ虎の子を助けてやったときには、あんなによろこんでいたんだから、まだおぼえているかもしれない。よしッいちかばちか、やってみよう。」
 そう決心すると、ポケット小僧は大手をひろげて、いまジャッキーと五郎にとびかかろうとする、二ひきの虎の前に立ちふさがりました。
 ああ、あぶない。ポケット小僧は、ふみつぶされてしまうかもしれません。
 立ちふさがっているポケット小僧の目の前に、二ひきの虎の恐ろしい顔が、グウッと近よってきました。
「アッ、もうだめだ。」
とおもいました。そして、目をつぶってしまいました。
 いまにも、ふみつぶされるか、いまにもかみつかれるかと、かくごしていましたが、なにごともおこりません。
 顔に、あつい息が、ふうっ、ふうっとかかりました。そしてあたたかい毛がわのようなものが、からだにこすりついてくるのです。
 ポケット小僧は、へんだなと思いながら目をひらきました。
 すると、一ぴきの虎は、むこうに立ちどまってじっとこちらを見ています。もう一ぴきの虎は、ポケット小僧にからだをすりつけてあまえているではありませんか。
 やっぱり子どもを助けられた恩を、わすれないでいたのです。からだをすりつけているのは、母親の虎にちがいありません。むこうに立って、それを見ているのは、父親のほうでしょう。
 ジャッキーと五郎は、それを見てびっくりしてしまいました。
「ポケット君、きみは虎をだまらせる力があるのか。おどろいたねえ。」
 ジャッキーが、つくづく感心したようにいうのでした。
「そうじゃありません。この虎はぼくに恩がえしをしているのです。」
 ポケット小僧は、このあいだ虎の子を助けてやったことを話しました。
「おお、そうだったか。虎もえらいが、きみもえらいぞ。やさしい心というものは、どんな動物にだって通じるのだねえ。」
 ジャッキーは、おもわずポケット小僧の頭をなでて、ほめたたえるのでした。
「ジャッキーさん、あれが奇面城ですよ。」
 ポケット小僧は、てれかくしのように、星空にそそり立つまっ黒な岩山を指さしました。
「なるほど、恐ろしい形をしているねえ。……それじゃあ、奇面城の中へはいろうか。虎には見やぶられたが、虎ほどの鼻のきかない人間には、見やぶられる心配はないからね。」
 そこで、三人は、食料品のかごをはこんで、巨人の顔の下の洞窟へはいっていきました。
 あの岩の橋をおろす、かくしボタンは、入口の方にもあります。ポケット小僧は、そのボタンのありかを、ちゃんと知っていたのです。
 そのボタンをおして、大きな岩の橋をおろし、三人はいよいよ、四十面相のすみかへはいっていきました。

まめくろんぼ


 それから、三人は奇面城の洞窟の中にはいり、ジャッキーと五郎は、四十面相の部屋へいって、
「いま、帰りました。」とあいさつしましたが、四十面相は、ふたりがにせものであることに、すこしも気づかないのでした。
 ジャッキーと五郎は、それでいいのですが、ポケット小僧が、もしだれかに見つかったらたいへんです。奇面城には、そんな小さな子どもは、ひとりもいないからです。
 そこでポケット小僧は、東京から用意してきたまっ黒なシャツ、頭からかぶる黒覆面、黒い手ぶくろ、黒いくつしたを身につけて、全身まっ黒なすがたになって、敵の目をくらますことにしました。
 ポケットにはいるくらい小さいというので、「ポケット小僧」とあだながついているのですから、そのちびすけが、まっ黒になったら、こんどはまめくろんぼです。
 まめくろんぼは、まえとおなじように、夜は、がらくたのほうりこんである物置部屋のすみで寝ました。たべものは、まえのようにすいじ場からぬすみださなくても、にせのジャッキーと五郎が、わけてくれますから心配はありません。
 まめくろんぼは、おそろしく小さいうえに、頭から足のさきまでまっ黒なのですから、洞窟の廊下で四十面相の部下にであっても、けっして見つかりません。廊下は、うす暗いし、まめくろんぼは、とてもすばやいので、うまく相手の目をくらましてしまうからです。
 それから二週間ほどたちました。四十面相は奇面城におちついたまま、どこへも出ていくようすがありません。
 にせもののジャッキーと五郎は、そのあいだに、五度もヘリコプターに乗って、ふもとの町へいきました。それは、食料品やそのほかのものを、はこぶためでもありましたが、もっとほかに目的があったのです。
 ヘリコプターが、ふもとの町から帰るときには、ひとりずつあたらしい味方の人間を、こっそり乗せていたのです。いちどに、ひとりずつですから、五度では、五人の人間が、奇面城につれこまれたことになります。
 それでいて、奇面城にすんでいる人数は、やっぱり十一人なのです。まめくろんぼはべつです。おとなが十一人です。そして、それらの人は、みんな四十面相の部下なのです。あたらしくやってきた五人の男も、それぞれ部下のだれかに化けて、なにくわぬ顔で仕事をしていますから、だれもうたがうものはありません。その五人は、ジャッキーや五郎におとらぬ変装の名人でした。
 しかし、ふしぎなことがあります。ヘリコプターがふもとの町へいくときには、ジャッキーと五郎だけで、四十面相の部下を乗せているわけではありません。そして、帰りにひとりずつつれてくるのですから、いまでは、奇面城の中の人数は十一人たす五人の、十六人になっていなければなりません。それがやっぱり十一人のままなのですから、どうもへんなのです。
 あたらしくきた五人のにせ部下のかわりに、ほんとうの部下が五人、どこかへかくされてしまったのです。むろんにせのジャッキーと五郎が、やったことにちがいありませんが、その五人の部下は、いったいどこへかくされているのでしょうか。
 ところで、二週間ほどたったある日のこと、まめくろんぼのポケット小僧が、たいへんな失敗をやってしまいました。
 まめくろんぼは、忍術つかいのようなまっ黒なからだで、洞窟の中のあちこちを、毎日しらべまわっていました。そして秘密の通路や秘密のしかけなどを、いろいろ見つけだして、にせジャッキーに報告しているのでした。
 洞窟の廊下や部屋の中を、ねずみのようにチョロチョロと歩きまわっても、すこしも気づかれないので、つい、ゆだんをしました、そして、とうとう四十面相の部下に見つかったのです。
 そのとき、ポケット小僧は、廊下を歩いていました。はじめのうちは、歩くときには前にもうしろにも、ゆだんなく気をくばっていたのですが、このごろは、たかをくくって、つい、うしろのことなんか考えないで歩いていることがあるのです。
 そのときも、うしろのことをわすれていたのですが、のっぽのはつこうという四十面相の部下が、ポケット小僧のうしろから歩いてきました。「のっぽ」といわれるほどあって、おそろしく背の高いやつです。
 のっぽの初こうは、目の前を、頭から足のさきまでまっ黒なちびすけが、ヒョコヒョコ歩いているので、びっくりしました。お化けではないかと思いました。
 そのちっぽけな、まっ黒なのっぺらぼうなやつは、ヒョイとうしろをむくと、顔に目がひとつしかない一つ目小僧かもしれない。そして、赤いしたをぺろっと出して、「おじさん、こんにちは……。」というのかもしれないと思うと、初こうはゾウッとしました。
 しかし、怪人四十面相の部下になるほどのやつですから、そのまま逃げだすほど、おくびょうではありません。初こうは、しばらく、まめくろんぼのあとをつけてから、
「こらッ、ちびすけ待てッ。」
とどなりつけて、いきなりポケット小僧につかみかかりました。
 ポケット小僧は、「しまった。」と思いましたが、りすのようにすばしっこく、パッと身をかわして逃げだしました。
 のっぽの初こうは、身をかわされて、よたよたと前にのめりそうになりましたが、かけっことなれば、ちびすけなんかに負けるものではありません。ちょこちょこと走るまめくろんぼのあとから、初こうの長い足が、のっしのっしと追っかけます。
 のっぽとちびすけのかけっこですから、すぐにつかまってしまいそうですが、初こうが、ほんきで走ったら、たちまちいきすぎてしまいますし、ポケット小僧は追っつかれても、長い足のあいだをくぐって、チョコチョコと逃げまわるので、なかなかつかまるものではありません。そのうちにポケット小僧は、岩の廊下にひらいているひとつのドアの中へ逃げこみました。
 のっぽの初こうも、すぐにその部屋にとびこみましたが、ちびすけは、どこへかくれたのか、いくらさがしても見つかりません。
 そこは四十面相が着がえをする部屋で、いっぽうのおしいれのようなところには、いろいろな服が、いっぱいかけてあるのです。
 そのおしいれの中も、さがしましたが、ちびすけのすがたはありません。
 初こうは、部屋のまんなかにつっ立って腕ぐみをして、すっかり考えこんでしまいました。
 みなさん、
 ポケット小僧は、いったいどこへかくれたと思いますか。じつに、ポケット小僧の名にふさわしいところへかくれたのです。
 といいますのは、おしいれの中に、ずらっとかけならべてある服のなかの、いちばん大きい外套のポケットの中へかくれたのです。
 むろん、いくらポケット小僧がちいさくても、ポケットの中へからだをかくすことはできません。外套にのぼりついて、大きなポケットに足を入れたまま、宙にぶらさがっていたのです。
 黒い外套に黒いちびすけですから、うすぐらい光では見わけがつきません。
 それに初こうは、おしいれの中の床ばかりさがしていたので、上のほうで宙づりをしているポケット小僧は、どうしても見つからなかったのです。
「へんだぞ。あいつ、やっぱり化けものだったかな。」
 のっぽの初こうは、腕ぐみをしたままひとりごとをいいました。
「いや、そんなはずはない。きっと、どっかにかくれている。待てよ。どうしても、あのおしいれの中があやしいわい。」
 そういって、もういちどおしいれをしらべました。こんどは、さがっている服をひとつひとつ、手でさわってみるのです。
 ポケット小僧は、もう運のつきだと思いました。

いもむしごろごろ


 ポケット小僧は、大外套のポケットに両足をいれ、外套にとりすがって息をころしていました。のっぽの初こうは、おしいれのすみのほうから、ひとつひとつ服にさわりながら、こちらへ近づいてきます。
 もう三つめまできました。もう二つめです。ああ、もうとなりまできました。こんどは外套のばんです。
 初こうの長い手が、外套のえりのへんから、だんだん下へおりてきました。その手が、ポケット小僧の頭にさわりました。
 まだ気がつきません。
 長い手が、ポケット小僧の顔をなで、首から胸にさがってきました。
「うッ。」という、おしころした声が、聞こえました。
 とうとう気がついたようです。
 ポケット小僧は、外套のポケットから足をぬきだして、ヒョイと、おしいれの床に、とびおりました。
「うぬッ! こんなとこにかくれていやがったなッ。」
 初こうは、両手をひろげてつかみかかってきます。
 ポケット小僧は、その手のあいだをすりぬけて、あちこちと逃げまわる。それを、のっぽの初こうが、息をきらせて追っかける。じつにふしぎなおにごっこです。
 しかしポケット小僧は、もう逃げられません。あいては、じぶんの四倍もあるような大男です。いつかはつかまってしまうにきまっています。
 つかまったら、四十面相の前にひったてられ、いろいろと聞かれることでしょう。拷問ごうもんされることでしょう。
 拷問の苦しさに、このあいだからのことを、すっかり白状してしまうかもしれません。そうすれば、せっかく明智先生のたてられた計略が、まったくむだになってしまうのです。
 それをおもうと、ポケット小僧は、泣きだしたくなりました。かばんの中にかくれて、この奇面城へしのびこんでから、きょうまでの苦労が、すっかり水のあわになってしまうのです。
「ちくしょう、とうとうつかまえたぞッ!」
 初こうのうれしそうな声がひびきました。初こうの長い手が、小僧の肩を、がっしりつかんでしまったのです。ああ、いよいよ運のつきです。
 ところがそのとき、思いもよらぬことがおこりました。がっしりとつかんでいる初こうの手が、スウッと、ポケット小僧の肩から、はなれていったではありませんか。
 ポケット小僧は、「オヤッ。」と思って、初こうの顔を見あげました。
 すると、初こうの口に、白いものがおしつけられているのが見えました。そのハンカチをまるめたような白いものを、初こうの口におしつけているのは、べつの手でした。
 初こうの手でなくて、ほかの人の手でした。初こうの両手は、てむかいしようともせず、だらんとさがっています。そのうちに、初こうのからだぜんたいが、だらんと力をうしなってきました。初こうのうしろから、白いものを口におしつけている男は、初こうをだいたまま床にひざをつき、初こうも床にすわった形になりました。
 そのとき、はじめてうしろの男の顔が見えたのです。それはジャッキーでした。
「アッ、先生!」
 ポケット小僧は、おもわず叫んで、ハッとしたように口をおさえました。「先生!」などと呼んだら、ジャッキーに化けている人の正体がわかってしまうからです。
「あぶないところだったね。ぼくは、きみがここへ逃げこむのを、むこうから見たので、いそいで麻酔薬ますいやくをしませたハンカチを持ってきて、こいつを眠らせたのだ。もうだいじょうぶだよ。」
「すみません。おれ、ゆだんしちゃって、すみません。」
 ポケット小僧は、いかにも、もうしわけなさそうに、ピョコン、ピョコンと、二度おじぎをしました。
「いいんだよ。きみがこれまでにたてた、てがらのことを思えば、なんでもないよ。それにしてもポケット小僧が、ほんとうにポケットの中へはいったのは、これがはじめてだろうね。はははは……。」
 ジャッキーはそういって、おかしそうに笑いましたが、すぐにまじめな顔になって、
「しかし、こいつは、このままにしてはおけない。眠りからさめて、四十面相にこのことをしゃべったら、たいへんだからね。やっぱり、あそこへほうりこんでしまわなければ。」
といいました。あそことは、いったいどこなのでしょう。
 もしかしたら、あの岩の橋をあげおろしする底もしれない谷まのことではないでしょうか。
 そんなところへほうりこんだら、むろん命はありません。明智探偵や警察の人たちが、そんなむごたらしいことをするはずがありません。
 では、いったい、どこへほうりこむのでしょうか。
 ポケット小僧は、その場所をよく知っていました。というのは、それを見つけたのはポケット小僧じしんだったからです。
 さいしょ奇面城へしのびこんだとき、洞窟の中を歩きまわっていて、ふと、そこへまよいこんだのです。
 そのとき小僧は、廊下のはずれにある、しぜんにできた岩のわれめのような、小さな穴へもぐりこんでいました。もぐりこむと、穴はだんだん広くなり、十メートルほどいくと、そこにたたみにして四じょう半ほどもある、広い洞窟ができていました。懐中電灯で、あたりを照らしてみると、ここへはだれもはいったことがないらしいのです。入口があまりせまいので、四十面相の部下たちは、この洞窟に気がつかなかったのでしょう。
 ポケット小僧は、ジャッキーや五郎に、そのことを話しましたので、この洞窟を、こんどの計略につかうことになり、夜中に、ソッと入口の岩をけずって、広くしたり、その穴にドアのかわりに岩のふたをつくって、そとから見えぬようにしたり、いろいろくふうをこらしたのです。
 ジャッキーは廊下にでて、あたりにだれもいないことをたしかめてから、ぐったりとなった初こうをせおって、その秘密の洞窟へと、いそぎました。ポケット小僧も、あとから、ついていきます。
 さいわい、だれにも見とがめられず、洞窟の入口につきました。
 まず、ジャッキーが岩のわれめから中へはいりこんで、ドアがわりの石のふたをのけ、中から両手をだして、初こうのからだを、ひきずりこむのでした。
 中は広くなっているのですから、入口さえ通ってしまえば、あとはらくです。初こうのからだを、ぐんぐんひきずって、おくの広い洞窟にきました。ポケット小僧は用意の懐中電灯をだして、そのへんを照らしています。
 ああ、ごらんなさい。洞窟の中には、五人の男が、いもむしのように、ごろごろと、ころがっているではありませんか。みんなさるぐつわをはめられ、手足をしばられているのです。ジャッキーは、初こうにもおなじように、さるぐつわをはめ、手足をしばりました。五ひきのいもむしが、六ぴきにふえました。
 ヘリコプターで五人の味方がはこばれ、四十面相の部下に化けていることは、まえにしるしました。そのかわりに、ほんものの五人の部下が、この洞窟にほうりこまれていたのです。
 この計略は、みんな明智探偵が考えだしたものです。警視庁はそれを助けて、刑事のうちの変装の名人たちを、奇面城におくったのです。

巨人の目


 いま奇面城には、四十面相と美しい女の人のほかに、十人の部下がいるばかりです。そのうちの七人までいれかわってしまったのですから、ほんものの部下はたった三人です。どんなことがあっても負ける心配はありません。
 いよいよ、総攻撃のときがきたのです。
 ジャッキーと五郎は、またヘリコプターを飛ばして、ふもとの町へいき、そこでT警察の人たちと、うちあわせをしました。
 奇面城総攻撃は、あすの早朝ときまりました。東京の警視庁から中村警部がひきつれてきた九人の警官と、土地の警官隊四十人、あわせて五十人の警官隊が、山のふもとの四方から、奇面城めがけてのぼっていくことになったのです。
 そんなおおげさなことをしなくても、ジャッキーと五郎と、五人のにせものの部下が、四十面相をとらえてしまえばよさそうに思われますが、あいては、なにしろ魔術師のような怪物ですから、どんな奥の手を用意しているかわかりません。奇面城の洞窟の中に、どんなしかけがしてあるかわかりません。それで、万にひとつも敵をとりにがさないように、五十人の警官隊で、奇面城をとりかこむことにしたのです。ジャッキーをはじめ七人のにせものが、内部からこれにおうじて働くことはいうまでもありません。
 さて、総攻撃の朝がきました。
 洞窟の奥のりっぱな寝室で眠っていた四十面相は、りりりりり……んという、けたたましいベルの音に目をさましました。四十面相は、ハッとしてベッドからとびだし、手ばやく金モールのかざりのついたビロードの服をきると、となりの美術室にかけこんで、そこの黄金のいすにこしかけました。そして、ベルをならして、部下をよぶのでした。
 入口のドアをひらいて、ジャッキーがはいってきました。
「およびですか。」
「うん、非常ベルがなったのだ。ふもとに配置してある見はり番からの知らせだ。なにか一大事がおこったらしい。ひょっとしたら、警察の手がまわったかもしれない。いまに、ふもとから知らせにかけつけてくるだろうが、そのまえに、巨人の目からのぞいてみよう。きみもいっしょにくるがいい。」
 四十面相は、そういって、どんどん部屋を出ていきます。ジャッキーも、そのあとを追いましたが、にせもののかなしさに、巨人の目とは、なんのことだか、それがどこにあるのか、さっぱりわかりません。
 金ぴかのビロードの服をきた四十面相は、洞窟の奥の小さなドアを、かぎでひらいて、中にはいりました。
 ジャッキーの知らない部屋でした。いつもかぎがかかっているので、まだ、はいったことがないのです。
 そこは一坪ほどのせまい部屋で、いっぽうの岩かべに、鉄ばしごがとりつけてありました。ほとんどまっすぐにたった、小さな鉄ばしごです。
 四十面相は、それをかけのぼっていきます。ジャッキーも、あとからつづきました。四メートルほどのぼると、岩のおどりばがあって、そこからまた鉄ばしごがつづいています。
 はしごのまわりは、だんだんせまくなり、しまいには、人間ひとりやっと通れるほどの、岩のすきまになりましたが、鉄ばしごは、そこをまだまだ上のほうへ、つづいているのです。
 ジャッキーは、四、五十メートルものぼったように感じました。すると、やっと行きどまりました。そこは、一坪もないようなせまい岩の部屋で、いっぽうに大きなまるい窓がひらいて、明るい光がさしこんでいました。
 その窓のよこの岩のたなの上に、大きな双眼鏡がのっています。四十面相は、それをとって目にあてると、まるい窓のそとをながめました。
 ジャッキーも、その窓からのぞいて見ましたが、あまりの高さに、ぐらぐらッとめまいがしました。奇面城のまわりの森が、はるか遠くのほうへつづいています。すぐ下を見ると、広っぱにとまっているヘリコプターが、おもちゃのように小さく見えるのです。窓といっても、べつにガラス戸がはまっているわけではありません。ただ、さしわたし一メートルほどのまるい穴が、ぽっかりと、ひらいているだけなのです。うっかりすると、そこから下へ落ちそうです。目もくらむような高さですから、ここから落ちたら、むろん命はありません。
 ああ、わかりました。このまるい窓は、奇面城の巨人のひとみだったのです。秘密のところだけ穴があいていて、遠方を見はらす物見の窓になっていたのです。
「あ、あすこへやってきた。三ばん見はり小屋の三吉さんきちだな。なにか重大な知らせをもってきたのにちがいない。」
 四十面相がそういって、いままでのぞいていた双眼鏡を、ジャッキーにわたしました。
 ジャッキーはそれを目にあてて、三吉という男が、森の中のほそ道を、かけあがってくるのを見ました。
 警官のすがたは見えないかと、ほうぼうさがしましたが、まだ味方は、近くまできていないようです。
 三吉は、こちらを見あげて、手をふりました。巨人の目からのぞいているすがたを、見つけたのでしょう。
 ジャッキーは、三吉のたちばになって、この巨人の目が、下からどんなふうに見えるかを想像してみました。
 巨大な岩の顔の、巨大な目のひとみのなかに、双眼鏡を手にした四十面相の上半身が見えるのです。金ぴかのビロードの服をきた、どこかの国の王さまのような四十面相が、見えるのです。なんというふしぎな光景でしょう。
「よしッ、下へおりて、三吉の話を聞こう。」
 四十面相は、そういって、鉄ばしごをおりはじめました。まっすぐに立ったはしごですから、おりるほうが、むずかしいのです。
 ふたりが、やっと下までおりたとき、そこへ三吉が、かけつけてきました。
「かしら、たいへんだ。警官隊が、四方からのぼってきます。ほかの見はり小屋からも、知らせがありました。ぜんたいでは五、六十人、ひょっとすると百人もいるかもしれません。」
 三吉は、息をきらせて報告しました。
「やっぱり、そうだったか。よしッ、おまえたちは、みんな警官隊とたたかうのだ。ピストルは空にむけてうて、人を殺しちゃいけない。わかったか。おまえたち、一ばんから六ばんまでの見はり小屋の人数をあわせると、三十人はいるはずだ。山のことは、おまえたちのほうが、よく知っている。相手は、ふなれな町のやつらだ。うまく知恵をはたらかせて、くいとめるんだ。」
 四十面相は、そう命令して三吉をかえしました。
「さあ、ジャッキー、ヘリコプターだ。あれに乗って、もっと山おくへかくれるんだ。しっかりやってくれッ。」
 四十面相とジャッキーは、洞窟の廊下をかけだして、あの深い谷にかかっている大岩のつり橋をわたり、巨人の顔のまえの広っぱにでました。ヘリコプターは、すぐむこうに見えています。

最後の手段


 四十面相とジャッキーとは、ヘリコプターの操縦室へ乗りこみました。このヘリコプターは、いつでも出発の用意ができているのです。
 ジャッキーは、スターターのクラッチをいれました。ぶるんぶるんぶるん。エンジンが動き、プロペラがまわりはじめました。
 しかし、なんだかへんです。エンジンの音が、いつもとちがっています。プロペラのまわりかたも、みょうにいきおいがないのです。
 ジャッキーは機械にとりついて、一生懸命にやっていましたが、やがて、あきらめたように、エンジンをとめてしまいました。
「かしら、だめです。こしょうです。」
「エッ、こしょうだって。どこがこしょうか、わかっているのか。」
「わかってますが、きゅうにはなおりません。」
「どのくらいかかるんだ。」
「三時間はかかりますね。」
「ちくしょうッ。しかたがない。おりよう。そして、べつのてだてを考えるんだ。」
 四十面相は、ヘリコプターからとびおりて、巨人の顔のほうへいそぎました。ジャッキーも、あとからついていきます。
 巨人の顔のくびのところに、いくつも岩あながならんでいますが、そのひとつが、奇面城の門番の、三びきの虎の部屋になっているのです。
 べつに鉄棒がはめてあるわけではありません。四十面相や部下のものには、よくなれているので、はなしがいにしてあるのです。
 その虎の岩あなへはいってみますと、二ひきの大虎は、ぐったりと寝そべったまま、四十面相が声をかけても、しらん顔をしています。
 いつかポケット小僧が助けてやった、あのかわいらしい子どもの虎だけが、かなしそうに、鼻をくんくんならしながら、二ひきの大虎のまわりを、ぐるぐるまわっているのです。
「眠っているのかな。いや、なんだかへんだぞ。」
 四十面相は、ふしぎそうにつぶやいて、大虎のそばに近づくと、そのからだに、さわってみました。
「アッ、つめたくなっている。死んでいるんだ。いったいどうして……。」
 いそいで、もう一ぴきのほうを、しらべましたが、これもつめたくなっています。数時間まえに、息がたえたらしいのです。
「病気ではない。病気で二ひきとも、いっぺんに死ぬなんてことは考えられない。鉄砲でうたれたのでもない。これもひょっとすると……。」
 四十面相は、しゃがんで、一ぴきの虎の口をしらべました。
「アッ、やっぱりそうだ。血だッ。血をはいている。毒をのまされたのにちがいない。」
 二ひきとも、口と鼻から血をたらしていました。たしかに毒殺されたのです。
 四十面相は、そこにつっ立ったまま、じっと腕ぐみをして考えていましたが、ハッとしたように目を光らせました。
「いったい、これはどうしたわけだ。だれかが虎を毒殺した。だが、おれの部下のほかに、ここへ近づいたものはないはずだ。ジャッキー、なんだか、気味のわるいことがおこったぞ。ゆだんはできない。いよいよ、さいごの手段をとるほかはないようだ。」
 四十面相がそういって、岩あなのそとへでたとき、遠くのほうでピストルをうちあう音がとどろきました。警官隊と、四十面相の部下の見はり人たちとのたたかいが、はじまっているのです。
「ワアッ。ワアッ。」
という、おおぜいの声が聞こえてきます。そして、それが、だんだんこちらへ近づいてくるのです。どうも四十面相の部下たちの旗いろがわるいようです。
 そのとき四十面相が、「アッ。」といって、広っぱのむこうの森のほうを見つめました。
 警官です。そこへ、ぽっつりと、制服警官のすがたがあらわれたのです。
「ワアッ……。」
という声がしたかとおもうと、四十面相の部下らしい男が、うしろからとびだして警官にくみつきました。
 警官は、パッと腰をおとし首をさげて、その男を、ドウッと前へなげつけました。
 男はすぐにおきあがって、こんどは前からくみついてきます。
 そして、ねじあっているうちに、ふたりいっしょにたおれ、くんずほぐれつの格闘かくとうになりました。
「アッ、いけない。あたらしい敵があらわれたぞ。」
 四十面相が、おもわず叫びました。
 森の中から、もうひとり、制服の警官がとびだしてきたのです。そして、くみあってころがっている四十面相の部下の上に、のしかかっていきました。
 とうとう、四十面相の部下は、ふたりの警官におさえられ、ぽかぽかと、なぐられています。
 それを見ると、こちらの四十面相は、ヒョイとしゃがんで、そこに落ちていた石ころを、いくつか拾ったかとおもうと、じぶんの部下の上に、うまのりになっている警官にむかって、はっしとばかりなげつけました。
 石は警官の肩にあたり、「アッ。」と叫んで、たおれそうになります。
 つづいて第二弾。ビュウッとうなって、もうひとりの警官のうでに命中しました。
 警官たちは、やっと、こちらの敵に気がつきました。見ると、金モールのかざりのある王さまのような服をきています。
「さては、あいつが四十面相だな。」
と、さとったらしく、ふたりとも、おそろしいいきおいで、こちらへかけだしてきました。
「いけないッ、たいきゃくだッ。」
 四十面相は、手にのこっていた石ころを、警官の正面にたたきつけておいて、そのまま洞窟の入口へかけだしました。
「ジャッキー、はやく逃げるんだッ。そして、橋を落としてしまえッ。」
 ジャッキーもかけだしました。洞窟にかけこんで、岩の橋をわたりました。
「さあ、この橋を落としてしまえッ。」
 四十面相が叫びました。しかし、にせもののジャッキーは、どうすれば橋が落ちるのかわかりません。うろうろしていると、四十面相がたまりかねて、どこかのかくしボタンをおしました。
 ダダダダダダダダ……ン。
 耳もろうするばかりの大音響をたてて、あの大きな岩の橋が、谷そこへ落ちていったのです。
 いざというときには、くさりがはずれて、大岩が、谷そこへ落ちる、しかけになっていたのでしょう。
 谷は何十メートルともしれない深さです。そのはるか下に川が流れているらしく、ごうごうという水音が聞こえています。
 谷の幅は三メートル。走り幅とびの選手ならとびこせるかもしれませんが、ふつうの人には、とてもとべるものではありません。ちょっとでもまちがえば、深い谷そこに落ちて、命をうしなうことがわかっているのですから、選手だって、ここをとぶ気にはなれないかもしれません。
 四十面相は、とうとうさいごの手段をとりました。洞窟の中とそととの連絡を、まったく、たちきってしまったのです。
 こうすれば、そとからせめこむことは、ぜったいにできませんから、いちおう安心ですが、そのかわり、四十面相と、あの美しい女の人と十人の部下は、洞窟の中にとじこめられて、いつまでもそとへ出ることができないのです。そのうちに、食糧がなくなってくるでしょう。しかし、どこからも、食糧をはこぶみちはありません。一月もしないうちに、みんな、うえ死にをしてしまうかもしれないのです。
 にせのジャッキーや、五郎や、五人のにせものの部下や、ポケット小僧までも、四十面相と運命をともにして、うえ死にしなければならなのでしょうか。

警察官の勝利


 警官隊は、いくてにもわかれて、四十面相の部下たちとたたかいながら、奇面城めがけて進んできました。
 総指揮官は警視庁の中村警部です。そのそばには、三名の警官がついていましたが、もうひとり、学生服の少年のすがたが見えます。明智探偵の助手の小林少年です。小林君は、すばしっこくとびまわって、中村警部の命令を、警官たちに伝えるやくめをひきうけているようでした。
「みんな、木の幹に、ひっくくってしまえ。」
 中村警部から命令がでました。警官たちが、大声で、つぎからつぎへとそれを伝えます。
 警官のほうが、ばいにちかい人数ですから、ふたりでひとりをやっつければいいのです。四十面相の部下を、ひとりずつとらえて、用意のほそびきで、つぎからつぎと、てごろの木の幹にしばりつけていくのです。
 そして、一時間ほどたたかっているうちに、とうとう四十面相の三十人の部下ぜんぶを、森の中の幹にしばりつけてしまいました。警官隊の勝利です。
 五十人の警官たちは、どっと奇面城の前におしよせました。なかには負傷したものも数名ありましたが、そういう人たちは、友だちの警官が、肩にかつぐようにして、つれてきたのです。
 巨人の顔の下の入口に近づいていきますと、中からふたりの警官が、とびだしてきました。さいしょ四十面相を追っかけて、石をなげつけられた警官たちです。
「だめです。敵は橋を落としてしまいました。底も見えない深い谷にかかっている石の橋です。それを落としてしまったのです。われわれは奇面城の奥へはいることができません。」
 とびだしてきた警官のひとりが、報告しました。
 中村警部は、数名の警官をつれて、橋の落ちたところまで、はいってみました。いかにも、おそろしく深い谷です。はばは三メートルぐらいですが、のぞいてみると、下はまっ暗で、はるか底のほうから、ごうごうという水音が聞こえてきます。谷底には川がながれているのです。
 中村警部は、しばらく考えていましたが、やがて、決心したようにうなずきました。
「よしッ、橋をかけるんだ。森の中のてごろの杉の木を二本きりたおして、枝をはらってここへ持ってくるんだ。長さはこの谷のはばの倍くらいあるほうがいい。六メートルぐらいの木をきってくるんだ。四十面相の部下のなかに、大きなまさかりをふりまわしていたやつがあったね。あのまさかりは、まだ森の中にほうりだしてあるはずだ。あれで木をきりたおせばよい。」
 この命令が、洞窟のそとに伝えられ、警官隊のなかの十人あまりが、木をきりたおすために、森のほうへかけだしていきました。
    ×    ×    ×
 洞窟のおくには、四十面相が九人の部下にかこまれて、入口のほうを見ていました。あの美しい女の人は、どこかの部屋にかくれているのでしょう。ここにはすがたが見えません。
 谷のところから十メートルもおくにいるのですが、中村警部の命令する声が、よく聞こえてきました。
「杉のまるたで、あそこへ、橋をかけるつもりらしいですね。」
 ジャッキーが、かしらの顔を見ていいました。
「うん、こっちは、それをふせぐんだ。物置に、まさかりがあったはずだ。あれを持ってきて、橋をかけようとしたら、たたき落としてしまえ。」
 四十面相が命令しました。五郎がいそいで物置へ走っていって、大きなまさかりをかつぎだしてきました。
    ×    ×    ×
 三十分もすると、警官たちは六メートルほどの杉の木を二本たおして、枝をきりはらい、おおぜいでそれをかついで洞窟の中へやってきました。
「五、六人で、根もとのほうをしっかりもって、むこうがわへわたすんだ。二本わたせば、その上をはって通ることができる。」
 中村警部のさしずで、一本の木に六人ずつの警官がとりついて、かけ声いさましく、谷のむこうがわへ、わたそうとしました。
    ×    ×    ×
 こちらは四十面相。いまにも二本のすぎまるたがわたされそうになったので、いそいで命令をくだしました。
「さあ、いまだ。谷の岸までいって、まさかりで杉の木をたたき落とすのだッ。」
 ところが、それを聞いても、まさかりを持った五郎は、にやにや笑っているばかりで、動くようすがありません。
「おいッ、五郎、どうしたんだ。おまえ、警官のピストルがこわいのかッ。」
 四十面相は、やっきとなって、どなりつけました。しかし、五郎は、あいかわらず、にやにや笑っているばかりです。
「それじゃ、ジャッキー、おまえがやれ。五郎、そのまさかりをジャッキーにわたすんだッ。」
 ジャッキーもへんじをしません。やっぱり、にやにや笑っているのです。
「ええ、いくじのないやつらだ。それじゃあ、おれがたたき落としてやる。さあ、まさかりをこっちへよこせ。」
 四十面相が、五郎のほうへ近よろうとしますと、その前へジャッキーが立ちふさがって、とおせんぼうをしました。
「こら、なにをするんだ。ジャッキー、おまえはまさか……。」
「そうです。じゃまをするのです。」
 ジャッキーが、うでぐみをして、四十面相をぐっとにらみつけました。
「エッ、なんだと。おれのじゃまをするというのかッ。きさま、おれの部下じゃないか。かしらにむかって、なんという口をきくのだ。」
 ジャッキーは、なにもこたえないで、じっとこちらをにらみつけているばかりです。
 四十面相は、ふしぎそうにジャッキーの顔を見つめていましたが、なにを思ったのか、サッと顔いろがかわりました。
「やっ、きさま、ジャッキーではないのだな。だれだッ。……もしや、もしや……。」
「ハハハハ……、やっと気がついたね。そうだよ。ぼくは明智小五郎だ。四十面相、とうとう、ほんとうのかくれ家を見つけられてしまったねえ。」
「おいッ、五郎。そのほかのやつらも、なにをぼんやりしているのだ。こいつは明智小五郎だぞ。なぜ、つかまえないのだッ。」
 四十面相は、まわりに立っている部下たちを、どなりつけました。
「ハハハハハ……。きみのほんとうの部下は、この中にふたりしかいやしないよ。あとはみんな警視庁の刑事諸君だ。変装のうまい刑事をよりすぐって、きみの部下といれかわってしまったのだよ。」
 明智が説明しました。
「アッ、それじゃあ、五郎もにせものだなッ。きさまと五郎とで、ヘリコプターを飛ばせて、ふもとの町から、かえだまをつれてきたんだなッ。」
「そのとおり。きょう、ヘリコプターを飛べないようにしておいたのもぼくだし、二ひきの虎を眠らせたのもぼくだよ。そうして、きみをつかまえる用意がすっかりできていたのだ。……おお、見たまえ。警官隊が、橋をかけて、こちらへわたってきた。四十面相! きみはもう、どうすることもできないのだッ。」
 明智が、とどめをさすように叫びました。

最後の切りふだ


 あの深い谷にわたされた二本の杉の木の上を、よつんばいになって、警官たちがつぎつぎとこちらへわたってきます。さきにたつ十人ほどは、もう谷のこちらがわに立って、ピストルをかまえながらしずかに近づいてくるのです。
「ちくしょう。よくも、おれをだましたな。だが、ほんとうの、おれの部下はどこにいるんだ。おれの味方は、どこにいるんだッ。」
「ハハハハ……。ぼくたち、にせものは七人。ほんものは、たったふたりしかのこっていないのだ。とても、かないっこないと、そこのすみで、ぶるぶるふるえているよ。」
 明智が指さしたすみっこに、四十面相のコックと、もうひとりの若い男が、青い顔をして、しょんぼりと立っていました。
「よしッ、いよいよ、おれの最後がきたようだな。おれは、血を見るのがきらいだが、こうなったらしかたがない。かくごしろッ。みな殺しだぞッ。」
 四十面相は、いきなり右と左のズボンのポケットから、一ちょうずつピストルをとりだし、両手でそれをかまえました。
「さあ、ぶっぱなすぞッ……。」
 カチッ、カチッと、両方のピストルのひきがねをひきました。どうしたわけか、たまが飛びだしません。また、カチッ、カチッ……カチッ、カチッ……。だめです。カチッ、カチッというばかりです。
「ハハハハ……。その二ちょうのピストルには、たまは一ぱつもはいっていないよ。ぼくが、ピストルのたまをぬくのをわすれているほど、うかつだと思うのかね。きみは、いつものぼくのやりくちをよく知っているはずじゃないか。ハハハハ……。」
 それを聞くと、四十面相の顔が、むらさきいろになりました。
「ちくしょう。いよいよ、おれの力を見せるときがきたなッ。さあ、つかまえるならつかまえてみろッ。」
 かれは、そう叫ぶと、二ちょうのピストルを、なげつけておいて、パッと走りだしました。おそろしいはやさです。
 ジャッキーも五郎も、そのほかのにせの部下たちも、それから谷をわたってきた制服の警官たちも、四十面相のあとを追ってかけだしました。
 四十面相は、まずじぶんの部屋にとびこむと、あの美しい女の人の手をひいて、べつのドアからかけだし、奥へ奥へと走っていきます。女の人は白いスカートのすそをみだして、いまにもたおれそうに見えます。
 廊下が枝みちになって、岩の階段が下へおりています。四十面相と女の人は、そこをかけおりました。岩のトンネルのようなところをとおって、八畳ぐらいの洞窟にでました。
 明智探偵たちは、四十面相につづいて、その洞窟にはいりましたが、ここには電灯がついていないので、まっ暗です。みんなが懐中電灯をつけようかと思っていますと、洞窟の中が、パッと明るくなりました。
 空中にたいまつがもえているのです。赤いほのおが、めらめらとのぼって、洞窟の天井をなめています。それは、四十面相が、一本のたいまつに火をつけて、高くささげているのでした。白衣の女の人は、四十面相の左手にかかえられて、やっと立っているように見えます。
「明智先生、それから警視庁の先生たち、みんなそこへやってきたね。ワハハハハ……。いいか、よく見ろ。ここにたるが三つならんでいる。ほら、大きなたるが三つだ。この中に、なにがはいっていると思う。……火薬だよ。このたいまつをなげこめば、いちどに爆発するんだ。
 この部屋は、おれの美術室のま下なんだ。あそこにかざってある何億円の美術品が、こっぱみじんになるのだ。いや、そればかりではない。この岩の天井が落ちて、きみたちは、ひとりのこらず死んでしまうのだ。ワハハハハ……。ゆかい、ゆかい。どうだ、おれの最後の切りふだがわかったかッ。」
 四十面相は、きちがいのように笑いながら、手に持ったたいまつを、火薬のたるの上で、むちゃくちゃにふりまわしているのです。
 火の粉がたるの中へ落ちたら、たちまち爆発がおこるでしょう。そして洞窟そのものが、こっぱみじんになり、人間はみんな死んでしまうのです。
 そのときです。
 闇のなかから、四十面相とはちがう、みょうな笑い声がひびいてきました。
「ワハハハハハハ……。ワハハハハ……。」
 それを聞くと、四十面相は、ギョッとしたように、キョロキョロと、あたりを見まわしました。
「やい、そこで笑っているのは、だれだッ? なにがおかしいのだッ。」
「ぼくだよ、明智だよ。きみのいきごみがあんまりおおげさなので、ついおかしくなったのさ。おい、ポケット君、もういいから、出てきたまえ。」
 明智が呼びますと、三つならんだたるのうしろから、まっ黒な小人がチョコチョコとかけだしてきました。
 明智は、その小さい黒んぼを、だくようにして、
「おお、ポケット小僧君。きみはあの三つのたるに、どういうことをしたか、いってごらん。」
「先生、もう明智先生といってもいいのですね。ぼくは先生の命令で、ばけつに水をいっぱいいれてなんどもここへはこびました。そしてその水を、いっぱいになるまで、三つのたるにいれました。」
 ポケット小僧のことばに、四十面相はハッとして、ふたのとってある三つのたるに、つぎつぎに手をいれてみました。どのたるも、火薬の上まで、水がいっぱいです。
「ワハハハ……。どうだね、火薬がこう水びたしになってしまっては、いくらたいまつをなげこんでも、パチッともいいやしないぜ、気のどくだが、きみの運のつきだよ。最後の切りふだがだめになってしまったのだから、あとは手錠をはめられるばかりだね。」
 明智のことばが、おわるかおわらぬうちに、もえさかるたいまつが、パッと飛んできました。明智がとっさにたいをかわしたので、たいまつはうしろの岩かべにあたって、火ばなをちらしました。
 たいまつのつぎにとびついてきたのは、人間のからだでした。四十面相が、うらみかさなる明智探偵に組ついてきたのです。
 ふいをつかれて明智はたおれ、四十面相は、その上にうまのりになりました。
 しかし、四十面相の味方は、かよわい女の人ひとり。明智のほうには、たくさんの警官がついています。四十面相は、一度はうまのりになったものの、すぐおしたおされて、手錠をはめられてしまいました。
 手錠をはめたのは、警官たちのうしろからでてきた中村警部でした。そして、そのそばには、学生服の小林少年が、にこにこしながらつきそっていました。
「おお、中村君、小林もよくきてくれた。とうとう、四十面相をとらえることができたよ。」
 明智探偵は、中村警部と小林少年に両手をのばして、あくしゅしました。
「小林さん、ぼくここにいるよ。」
 黒いシャツ、黒い手ぶくろ、黒いくつした、すっぽりかぶる黒い覆面、全身まっ黒な小人が、つかつかと小林少年の前に進んで、その手をにぎりました。
「おお、ポケット小僧、きみはえらいねえ。この奇面城を発見したのも、火薬に水をかけて、四十面相をこうさんさせたのも、みんなきみのてがらだからねえ。」
 小林少年はポケット小僧の手をにぎりかえして、さもなつかしそうにいうのでした。
「おれ、うれしくってたまらないよ。明智先生が四十面相に勝ったんだ。そして、四十面相がつかまってしまったんだ。」
 ポケット小僧は、そこまでいうと、感きわまったように両手をあげました。
「明智先生、ばんざあい。小林団長、ばんざあい……。」
 すると、小林少年も、目に涙をうかべながら、これにこたえて叫ぶのでした。
「少年探偵団、チンピラ隊、ばんざあい!」





底本:「奇面城の秘密/夜光人間」江戸川乱歩推理文庫、講談社
   1988(昭和63)年6月8日第1刷発行
初出:「少年クラブ」講談社
   1958(昭和33)年1月号〜12月号
入力:sogo
校正:茅宮君子
2017年10月25日作成
青空文庫作成ファイル:
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