妾の会つた男の人々(野依秀一、中村弧月印象録)

伊藤野枝




野依秀一氏


 この人は、思つたよりも底の浅い人です。正直で小胆な処があります。子供らしい可愛さがあります。此人は何時でも予想外な突飛さで人をおどかして、その隙に飛び込んで来やうとする人のやうに思はれます。殊にその突飛さが非常に不自然なと云ふ範囲を何処までも出ないので、少し落ちついてあしらつてゐますと、馬鹿気きつた空々しい処があります。
 思つたことを遠慮なく云ふことは気持のいゝ事です。野依のよりさんは真実さう云ふ気持のいゝ処がありますが、ともするともう一歩進んでそれを殊更にてらふやうな傾きがあつて馬鹿々々しくなつて来る事があります。しかし野依さんが自分ひとりいゝ気になつて、とんでもないことを、喋舌しゃべつてお出になつても少しも反感が起つて来ないのは不思議です。けれどもそれは或は反感を起す程度にも相手を引き立てゝ考へないからかもしれません。非常に可愛らしい処のある気持のいゝ人ですが気の毒な事には、その唯一のおどかしはすべての人に役立つけの深味も強みも持つてゐません。随分世間には氏を悪党のやうに云つてゐる人もあるけれども決して悪党でも何でもないと思ひます。悪党処か善人なのだと思ひます。善人がしきりに虚勢を張つてゐると云つた格です。
 氏の顔から受ける印象から云つても決してすれつからした悪人じみた処はないやうです。氏の眼は何時でも笑つてゐます。そのひたいは陽気に光つてゐます。陰影と云ふやうなものは殆んど見ることが出来ません。たゞ大変に快活な可愛らしい処のある顔です。態度から云つても悪人と呼ぶだけの落ち付きもしぶとさもありません。何時でもやんちやな小僧のやうに浮ついてゐます。私には何処から云つても悪人らしい印象は少しも受ける事が出来ませんでした。野依さんの頭はまた、決して立派なものではなささうです。話してゐる相手と云ふものに就いて非常に考へなければならないやうな場合にもさう云ふことには全く無頓着のやうに見受けます。相手がどの程度に自分の話を受け取つてゐるかと云ふやうな事を少しでも考へると云ふことは殆んどない事と考へられます。それが野依さんの貴い所でまた抜けてゐる処だと思ひます。そのくせ話すときに、何処までも相手を釣つて行かうとしたり、あてこみがあつたり、絶えずしてゐます。処がその技巧が非常に下手で何処までも相手に見透されるやうな拙劣さです。併し御当人は一向平気のやうです。私が会つた時にも初めから終りまで何かしら私の困るやうな突飛な質問を発してその答へを種々に待ちかまへてからかふつもりだと云ふことは明かによめました。さう云ふ気持で一つ/\の問を聞きますと実に馬鹿々々しくなつて来て仕舞ひました。私は再び会つてその空々しさを耐へる気にはとてもなり得ません。もう少し本当に悪人であることを私は望みます。その方が会ふにも話をするにもずつと気持よく取り処があると思ひます。野依さんに、もつとしぶとい腹があつたらと思ひます。また深味と強みが態度の上に出て来るといゝと思ひます。さうしますとあのふわ/\した何の手ごたへもない大言が、もうすこしはしつかりした力のあるものになるでせうと思ひます。私は善人の虚勢はいやです。いつそ、それよりも、本当の悪人が好きです。野依さんは、どうしても善人です。子供らしい無邪気と向不見むこうみずな勇気をもつてゐる人です。人から好かれると云ふのはその点より以外にはないやうです。
 私は野依さんに一度きりしか会ひません、一度あつた位の印象はあてには決してなりません。私の迂濶からどんな大事な処を見おとしてゐるかもしれませんがまづこの位の処です。私自身で感じた事だけはそのまゝに書いたつもりです。

中村孤月氏


 私が竹早町たけはやちょうに居ました時分此の指ヶ谷町さしがやちょうの家を見つけて明日にも引越さうとして混雑してゐる夕方私の名を云つて玄関に立つた人がありました。紡績飛白かすりの着物を裾短かに着て同じ地の羽織で胸方に細い小い紐を結んだのがそのぬうと高い異様な眼の光りを持つた人には非常に不釣合に見えました。その人は鳥打帽をぬいで私が「どなたです」と云ふのに答へて早口に「中村孤月こげつと云ふものです」と低く答へてそれから話をしたいと云ふのでした。私は孤月と云ふ名をきくとその玄関の格子を一尺ばかり開けて無作法にその柱と格子に曲げた両腕を突つかつて其処に体の重味をもたして気味の悪い眼付きで私を見てゐる人をぢつと見返しながら急に反感がこみ上げて来ました。併し何か物に臆したやうな何処かおど/\したやうな物馴れないやうな調子にいくらか心をひかれながら、いま取り込んでゐるから引越しをした後に尋ねて欲しいと云ふことを云ひました。そうして引越しをしたら直ぐに通知をしやうと云ふことを云つてその人の宿所を聞くと矢張り早口に云つてしまふと体を格子からはなしてガタンと閉めて門を出て行つて仕舞ひました。
 一二年前に始終物を評する度びに他人の悪口を必ず云つた人、それから早稲田文学に、「さうすることを思つた」「何々を思つた」と云ふやうな妙な創作を出した人としてもよく私は覚えてゐました。そして私はずつと前の青鞜でその人のことを反感のあまりにこつぴどく批難したことも確かに覚えてゐた。それが幾度も、その人の不法な批評が私達のグループで話題になつたりしたこともありました。私はこの寒中に足袋もはかないで、ぬつと私の前に立つた孤月氏の気味の悪い眼付きと格子戸にもたれて無作法に口をきかれた様子にすつかりその人が、何だか恐くなつたのでした。それから此処に引越してから私は約束どほりに、はがきを出しました。すると、朝早くまだ私が食事の支度の最中に来ました。私は大変当惑して仕舞ひましたが、それでも断はれずに会ひました。私の反感はなをと強くなりました。何かこちらで云ふのをジロリとあの気味の悪い本当に気違ひじみた眼――で見られるのに一々ゾツとして私は体がふるえる程いやでした。この人は口をハキ/\きかないのも嫌でたまらない私の神経を焦立いらだたせました。頑丈なやうなかぼそいやうなちつとも落ちついてゐない長い体がまた私の気になりました。体を変にひねつて物を云ふ癖が非常に目立ちました。語尾を消すのもそれから何か云ひかけて途中で切つてしまつたりするのも一つ/\私は気にしないではゐられませんでした。初めての時に、私はこの人を非常に神経の鋭い同時にまた思ひ切つて鈍な半面があるのを見のがせませんでした。頭の透明な処があるかと思ひますとまた何か少しも解らないやうな処があるやうな気がしました。幾度も/\会う内にそう云ふ点がだん/\に私にはつきり会得が出来て来ました。併し非常に人のいゝ処もだん/\出て来ました。けれどまた其処が私にはなをのこといやになりました。何時も人の顔色を見て話すと云ふことは私の大変きらいな事の一つであります。孤月氏に、よくそんな態度が見えること、それから執拗らしい処もいやでした。私は自分の性質として、すべてに淡泊な黒白のハツキリした云ひたい事でもずば/\云へる人が好きです。孤月氏は私の最も厭やな部類に属する人でした。この人のすることは一つ/\私の気にさわらないことはありませんでした。孤月氏はまたそれをよく知つてゐられました、で其後用があつても何時でも大抵格子の外から用をたしてゆきました。けれどそれがまた私の気に入りませんでした。これは要するにどう云ふことをしても私の気には入らないことになるのでした。けれど私はそんなに孤月氏をきらつてはゐましたけれども何時でも後になると向ふの人の真実をふみつけにしたやうな不快な自分の態度を責めました。私はたゞ孤月その人から受ける直接の印象が徹頭徹尾いやなのでその人から離れてゐれば別に何でもないのでした。ですから私の眼の前に孤月氏が姿を現はさなければ、私は何時でもその人にさう不快なものを持たなくても済むのでした。あの無気味に光る気狂ひを連想させる眼と、色の黒い痩せた顔と、細長い体単にそれ丈けでも充分私の神経をおびやかすに足るものです。その上にその動作が一つ一つ私とはまるで反対でした。好きな人と厭ひな人をハツキリと区別をたてることの出来る程好悪のはげしい私には孤月と云ふ人は実にたまらない人でした。併しこの頃では馴れが少しは私の神経をやわらげました。それと、以前はこの人の云ふことに依つて何時でもこの一番私の嫌やな人とつながつて他人の口に上つたり聯想されることはなほ一層堪えがたい腹立たしさでありました。それが猶更私の神経を一層焦立たせました。けれどもこの頃は漸くいろ/\私のいやがるやうな処が少しづゝ失くなつて来たやうに思ひます。あんな気味の悪い眼付をすることがなくなり、それから、体をゆするくせも、また、妙にはにかんだやうに固くなつたりせずに、ゆつくりおちついて話が出来るやうになつた丈けでも私の張り切つた神経をゆるますことが出来たのです。併し孤月氏の足は非常に遠くなりました。そしてその方がずつと、不快なものがこだはらずにいゝのです。
 甲州の女の方との交渉がどうなつた事ですか、私は終りに孤月氏がはやくその方の承諾を得て幸福な、健全な家庭生活をなさることを祈ります。それが、今一番の方を幸福にする事であるやうな気がします。
[『中央公論』第三一年第三号、一九一六年三月号]





底本:「定本 伊藤野枝全集 第二巻 評論・随筆・書簡1――『青鞜』の時代」學藝書林
   2000(平成12)年5月31日初版発行
底本の親本:「中央公論 第三一年第三号」
   1916(大正5)年3月1日
初出:「中央公論 第三一年第三号」
   1916(大正5)年3月1日
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
※ルビは新仮名とする底本の扱いにそって、ルビの拗音、促音は小書きしました。
入力:酒井裕二
校正:Juki
2017年6月19日作成
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