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頼山陽の百年祭が明年に迫つたので、私の県ではその遺蹟顕彰会が組織され、全集の刊行、記念館の設立、旧居保存などそれぞれの準備が進められてゐる。さう云ふとき私は山陽先生を思ふと、妙にその家叔杏坪先生のことに心が惹かされてくる。杏坪先生は山陽終生の理解者であり、殊にその青年逆境の時代には最も温い庇護者であつた。
一体に頼一家の学者詩人は、山陽の盛名によつて、より広く天下に知られてゐる。もとより杏坪先生の如きは、その学殖詩藻すでに当時定評のあつた人で、山陽をまつて初めて顕れたものではないが併しその性格なり閲歴なりから見ると、何れかと云へば杏坪先生は、華やかに世間の表面に立つべき人ではなかつた。先生が市井の出身で、芸藩の儒官、郡宰となり二百五十石の高禄を食むに至つたのは当時としては異常な出世であつたに違ひないが、これは曩に長兄春水が藩に召されたのが機縁となつて居る。従つて恰もその添役の如き観があり、その学名もまた兄春水の学名に蔽掩されてゐて、云はば蔭の人である。それに杏坪先生は殆どその後半生を学者としてよりも、北備辺陬の山地の郡宰として送つてゐる。その以前は江戸にも度々上り、中央の学者との交遊もあつたが、その後は直接には中央と没交渉になつてゐる。しかも宰邑は世間に没却された山地で、それも当時御納戸奉行上席を以て先生自ら進んでこの下級の吏務を引受けられたものといふ。済民の志の深いものありとは云へ、煩雑で見栄のせぬこの役目は、名利を度外した真摯な先生の如きでなくては、誰も好んで当るものがあるまい。謹直恪勤の資質のうちに、幾分の飄逸捕捉すべからざるものを蔵しながら、杏坪先生は、かうした広い世間からは注目されない地味な生涯を送られてゐる。だから山陽の盛名が頼一家を世間により広く紹介しなかつたならば、或は杏坪先生の名の如き、後世に於いては、唯特殊の人々と一地方の人とによつてしか、知られなかつたかも知れない。山陽の盛名とその不羈の生涯。謹直枯淡で縁の下の力持ちの如き一生を終つた杏坪先生。この相反した叔甥二人を対比して考へてみると、山陽の光彩ある生涯に対し、杏坪先生の粛然たる存在は、ある奥行を与へる一添景たるの感がする。
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古来詩人学者にして実際の政務に当り、真に治績の挙つたものは、余り多くないやうである。しかし杏坪先生はその例外であつて、治績は頗る挙つてゐる。その宰邑は私の郷里奥備後の四郡(当時)であつて、約五万石の狭少な土地であるから、所謂大経綸などの施さるべき土地ではない。今私は先生の政治的気宇を云々しようとはせぬが、しかし先生の熾烈敦厚な済民の志と、その実際施政の才能とには服せざるを得ない。私の郷里では今なほ先生を、詩人学者としてよりも、寧ろ名郡宰として記憶し、尊敬してゐる。郡宰としての先生の治績には、父老会飲、賞罰の厳明の如き徳育風教の振興は勿論、社会法の徹底、均田法の施行、


癸酉巡二省所部一恵蘇尤窘惻焉有レ作
嗟夫恵蘇郡 非レ恵民不レ蘇 古人填二此字一 蓋亦有レ以夫 高寒北隣レ雲 田乏二一方腴一 三月木未レ葉 淤蔭不レ及レ須(摘新葉敷田泥謂之淤蔭)四月已移レ秧 秧短如レ東レ鬚 小籃便盛去 分挿頗繁敷 灌漑水幾道 皆自二大麓一趨 誰知五六月 水冷如レ噬レ膚 八月霜早降 未レ実禾将レ枯 居民常艱レ食 吏猶催二税租一 若不レ為二群訴一 逃亡欠二宿逋一 予来宰二此郡一 経理尚※[#「敝/心」、U+618B、281-下-11]※[#「(甫/方+攵)/心」、U+61EF、281-下-11] 閭里多二老蠹一 宿姦逞二私輸一 下レ車拉二巨猾一 余醜宥二公誅一 数章出二新令一 一朝洗二旧
一 盤錯乏二利器一 聊言致二区々一 庶幾数年後 恵洽夷二岩齬一
任官三年目の文化十年の作である。北寒荒蕪の山地の風土、民情などが躍如と描出されて、如何に民羸の甚しく人心の険悪なるかを語つてゐる。「下レ車拉二巨猾一」あたり、謹厚なうちにも流石に先生の鋭鋒を現してゐる。「作レ吏要無レ為二郡県一 毎レ聞二民病一涙縦横」かう云ふ詩句も、春草堂詩鈔の北郡の諸詩を読んで行けば、必ず先生の沈痛なる真情のこゑと肯ける。然るにその後、七年を経た文政三年の左の詩に於いては、民情も大分改善されて、杏坪先生の詩に多少の喜色が動いてゐる。嗟夫恵蘇郡 非レ恵民不レ蘇 古人填二此字一 蓋亦有レ以夫 高寒北隣レ雲 田乏二一方腴一 三月木未レ葉 淤蔭不レ及レ須(摘新葉敷田泥謂之淤蔭)四月已移レ秧 秧短如レ東レ鬚 小籃便盛去 分挿頗繁敷 灌漑水幾道 皆自二大麓一趨 誰知五六月 水冷如レ噬レ膚 八月霜早降 未レ実禾将レ枯 居民常艱レ食 吏猶催二税租一 若不レ為二群訴一 逃亡欠二宿逋一 予来宰二此郡一 経理尚※[#「敝/心」、U+618B、281-下-11]※[#「(甫/方+攵)/心」、U+61EF、281-下-11] 閭里多二老蠹一 宿姦逞二私輸一 下レ車拉二巨猾一 余醜宥二公誅一 数章出二新令一 一朝洗二旧

庚辰春省二行備後四郡一詩以記実
行春歴二四郡一 村々問二農耕一 父老拝二馬下一 慇懃説二陰晴一 今春頗多レ雨 麦穂或無レ実 余寒過差遅 秧針尖少屈 麻生茎尚短 婆姑痩立レ田 頻年並価賤 尚希過二人肩一 官已貸二牛銭一 貧民免二借租一 復種二北馬種一 行見産二良駒一 三次
二郡賦一 歳余金三百 恵蘇汰二邨費一 年贏二五百石一 孝弟旌二懿行一 力田訪二良民一 賜レ物各有レ差 勧善激二郷隣一 庠序久已廃 師儒乏二其人一 誰演二庶人章一 丁寧導二人倫一 嗟乎吾老矣 如何及二壮者一 願得二好代人一 告レ老返二轎馬一
この間杏坪先生の済民の施政の徳により、流民などの帰還するものもあつて、正徳より文政へかけて一度減じた北郡の人口戸数も次第に増加しはじめた。所謂「庶幾数年後 恵洽夷二岩齬一」といふ抱懐が漸次実現しかけた訳である。行春歴二四郡一 村々問二農耕一 父老拝二馬下一 慇懃説二陰晴一 今春頗多レ雨 麦穂或無レ実 余寒過差遅 秧針尖少屈 麻生茎尚短 婆姑痩立レ田 頻年並価賤 尚希過二人肩一 官已貸二牛銭一 貧民免二借租一 復種二北馬種一 行見産二良駒一 三次

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私が先生について最も興味を感じるのは、先生の為政家としての態度が、極めて実際的であつた如く、その作詩の態度もまた実際的であつた事であつて、必ずしも文人にして政治の能を兼ねた点ではない。この事は茶山翁も「初千祺為レ吏以為吟哦廃レ務既聞其事漸理以為雅事必堕而其詩如レ斯千祺洵不レ可レ測矣」と心配もしたが、しかし先生の俗務の鞅掌は決してその詩に禍をしなかつたのみならず却つてそれが先生の詩を内容的に深めてゐる。又評曰「吾恐詩之美 美二於政之美一 既聞二其政一 今誦二其詩一可レ謂二※[#「女+貔のつくり」、U+5AB2、282-下-3]美一矣」と、その通りであるが、要はその美の特質如何であつて、私は先生の詩の美は、その政美の特質と同じく実際的から出発してゐる点にあると思ふ。即ち先生の詩は、深く対象の実相に即して、その機微の生命を掴んでゐるのが多い。私ども今日倭歌のうへで奉ずる写生道は、すでに先生の作詩で実行されてゐるのである。
前掲の省郡二首の長詩について見ても分るごとく、高寒山地の気象、地勢、景物、人事、生業、民情などは一々その真を得て活躍描出されてをり、又その背後には作者の気魄嗟嘆の人に迫るものがある。凡そ先生の詩は、日常雅事俗事となく、その詩材となつて一種の生活詩をなしてゐる。絢爛華美ではないが、枯淡で虚妄なく、真率で実相美があり、一種の懐しみを持つてゐる。私はそれを尊敬する。この先賢が私の郷邑の自然人事について詠んだ幾多の詩は「春草堂詩鈔」にのせられて残つてゐる。私はその一々肯綮に当る先生の手法を熟読玩味して、私の歌の上にも種々の暗示を与へられるを興味ふかく感じる。勿論漢詩について云々するは門外漢の私の分限ではないが、しかし先生の詩を尊敬するあまり、今左に数首を録して、その写生的傾向につき素人なりの感想を簡単に述べよう。
秋晩巡二北邑一
先王遺制省二秋収一 行到二辺荒一意更愁 村似二癈人痿不一レ起 民如二墜葉散難一レ留 寒流病レ渉纔横レ木 衰草救レ飢猶牧レ牛 非レ有二問窮連日苦一 那看紅樹百峰秋
章句のうち、此郷の土俗風物の真体を伝へながら、しかも暗涙を以て民病の状を喝破して余す所がない。作者の心緒と対象の真相とを並立直写したものである。先王遺制省二秋収一 行到二辺荒一意更愁 村似二癈人痿不一レ起 民如二墜葉散難一レ留 寒流病レ渉纔横レ木 衰草救レ飢猶牧レ牛 非レ有二問窮連日苦一 那看紅樹百峰秋
戯詠二淡婆姑一所管多植此
民間多種是耶非 穀外常偸田土肥 所レ見眼前含レ露秀 安知身後作レ煙飛 余レ茎長植吟翁杖 編レ葉時懸羽客衣 租税頗憑二婆子力一 休レ言此物不レ充レ饑
戯詠と称しながら、先生の民業の理解を思はしめる。又植物としての煙草の特徴を捉へ、その調製にまで言及し、しかも複雑な財政論まで吐露して詩味と気品を堕さない。結末二句は時恰も、今の緊縮内閣の財政難に対する好皮肉言である。百年昔の程朱の学徒詩人果して時勢に迂なりしや。民間多種是耶非 穀外常偸田土肥 所レ見眼前含レ露秀 安知身後作レ煙飛 余レ茎長植吟翁杖 編レ葉時懸羽客衣 租税頗憑二婆子力一 休レ言此物不レ充レ饑
運甓居雑詠
百年旧府嘆二榛荊一 四面山河自作レ城 十日雲容多北走 二州水勢尽西行 遠書毎托二海商至一 閑話只憑二山衲迎一 羇官雖レ孤幸無レ恙 回レ頭已没幾同庚
公篁渡
此地名区慰二老孱一 風光秀偉満二衰顔一 東西来合巴回水 南北相臨鼎峙山 亜竹檀欒遶二旧郭一 遺民絡繹渡二荒関一 晩晴試望二公篁渡一 人在二灘声嵐気間一
ともに山国盆地の郡衙三次の地勢風光気象を実に即いて髣髴と描出してゐる。この地杏坪先生をして古稀の齢を過ぎて居らしめた。百年旧府嘆二榛荊一 四面山河自作レ城 十日雲容多北走 二州水勢尽西行 遠書毎托二海商至一 閑話只憑二山衲迎一 羇官雖レ孤幸無レ恙 回レ頭已没幾同庚
公篁渡
此地名区慰二老孱一 風光秀偉満二衰顔一 東西来合巴回水 南北相臨鼎峙山 亜竹檀欒遶二旧郭一 遺民絡繹渡二荒関一 晩晴試望二公篁渡一 人在二灘声嵐気間一
幽庁彷彿占二山棲一 白水青巒繞二屋西一 籬破頻来隣舎犬 竹深遥聴別村鶏 詩留二残日一催二吟歩一 酒送二流年一落二酔題一 偶向二前川一捕二尺鯉一 喜呼二鱠手一面前批
嫌日々話二桑麻一 野性原非二文献家一 暑服五銖無二越
一 酒肴一種有二胡瓜一 田翁患レ鼠引二沙狗一 渓叟収レ魚養二水鴉一 此地応須レ置二吾輩一 簿書叢裡淡生涯
かくの如きは運甓居に於ける、杏坪先生の平生の一端である。隣舎犬、別村鶏、前川鯉、各々先生の詩情を動かし、桑麻、胡瓜、田翁、沙狗、渓叟、水鴉等の田園の風物、また先生淡生涯の素懐を述ぶるに足らしめてゐる。

行郡道間漫作
依レ例今春復省耕 村々熟路緩二期程一 山如二迎揖一皆知レ面 水不二相離一似レ有レ情 馬解二叱声一多左避 轎任二扛法一少斜行 已諳扁字兼二屏画一 那問今宵館主名
行路の山水の姿態と人馬の動作との一々の特徴は、作者の犀利な観察眼から免れるを得ないが、しかし先生はこれ等を親愛の情を以て温く眺めてゐる。依レ例今春復省耕 村々熟路緩二期程一 山如二迎揖一皆知レ面 水不二相離一似レ有レ情 馬解二叱声一多左避 轎任二扛法一少斜行 已諳扁字兼二屏画一 那問今宵館主名
巌神観二牛馬市一
巌神四月開二牛会一
尻如レ堵満街隘 貪目如レ炬群
飲博場裡紛売買 
心腸黒二於牛一 那因顧二我窮民憂一 願使三牛価不二太貴一 貧農深耕戸々秋 拍手声裡各牽掣 子母相別呼且答 牟々東西去尽後 市上畳余牛糞塔
山間小市街の一風俗画、光景さながら指点する如くである。為政者として先生の眼光には下情明然として露見し、詩人としての先生の心情は一種の微笑と哀愁とを交へ帯びてゐる。巌神四月開二牛会一





要するに漫然とここに掲げた数篇の詩について見るも、先生の詩に多大の写生味あるを示すに足りる。比喩空想はいくら巧妙奇警でも流行のものであるが、写生によるものはたとへ地味でも不易である。山陽曰「昔人称二杜詩


先生には又自筆「
尚先生の倭歌については茲では長くなるから、後日にゆづり略することとする。私は今ただ先生自称の如く「自笑書生余二旧態一 半思二民苦一半思レ詩」の生涯二十年を、この高寒山地の民治に送つてしかも施政作詩二つながら至美真摯であつた、この先賢を追慕することにより筆を擱く。
(八月三十日)