北海道開発に消えた八百億円

中谷宇吉郎




一 札幌の発展


 北海道の首都札幌は、この二、三年来異常な建築ブームでたいへんな賑わいである。街の中心に近い地域では、到るところにビルの建設が進められ、発展途上にある米国南部の都市のような景観を呈している。
 この札幌の近年の発展については、最近ちょっと驚いたことがある。たしか『北海道建築』とかいう題名だったが、北海道、主として札幌の建物を写した写真集が刊行されている。その写真集を何気なく見ていたら、おやと思ったことがあった。それは外国の中都市の写真が一枚間違ってはいったかと思ったからである。碁盤の目に切った立派な都市に、高いビルが整然と並び、その間を縫って、街路樹の並木が、縦横に走っている。その航空写真である。
 こんな立派な中都市が、日本にあろうとは思っていなかったので、初めは外国の都市の写真が紛れ込んだかと思ったのも、無理ないことであった。ところがよく注意して見ると、それは自分が二十七年来住んできた札幌の街の写真だったのである。これが、札幌の中心部を航空写真にとって、大きく見開きに入れたものと分ったときには、思わず苦笑した。
 もっとも考えてみれば、これは自分が迂闊だったので、この数年来の札幌の建設ブームは、全国第一だったそうである。日本の国が、建国以来の好景気という中で、そのまた第一位とすれば、あっという間に、これくらいの街ができても、そう不思議ではない。
 それにしても、以前の札幌を知る者にとっては、それはまさに驚異である、二十七年前に、北大に理学部の建物ができた頃は、これが札幌で初めてのコンクリートの建物であった。駅から一町も行かないところに、踏切があって、その踏切を渡って毎日大学へ通ったのであるが、冬になると、踏切近くの道の両側に魚売りが沢山しゃがんでいた。雪の上にじかに魚を並べて、ときどき大きい平目だの鱈だのを、手鉤でひっかけてぶら下げては、客に見せていた。
 札幌唯一のコンクリートの建物という名誉は、数年間、理学部のものであった。その後今のグランド・ホテルが建ち、百貨店が二軒コンクリートになり、いわゆるビルらしいものもできたが、それはまだまだ数えるほどしかなかった。そういう状態で戦争にはいったのであるから、現在の大札幌の建設は、敗戦から立ち直ったものではなく、敗戦後新しくできたものなのである。
 戦前の札幌には、「一流」映画館が二つばかりあり、二流三流のものを加えれば、七つか八つあった。札幌人はなかなかハイカラで、よくエルマンやハイフェッツを呼んで、この「一流館」で、演奏会を開いたものである。ところが、戦後ここにもブームが起きて、この「一流館」は、二流または三流に落ち、新しい立派な映画館がつぎつぎと建ち出した。そして現在は、映画館の数は四十館に達したそうである。四、五年のうちに五倍くらいに殖えたのであるから、これも驚くべき発展である。
 発展といえば、料亭の繁昌も、素晴らしいようである。最近は少し下火になったかもしれないが、一、二年前に、驚くべき話を聞いたことがある。大銀行の支店長として赴任してきた旧友の話で、嘘ではないと思う。札幌の一流の料亭で、芸者を呼んで少し派手な宴会をすると、一人前一万円には、どうしてもつくらしいというのである。「新橋や築地と同じなのだから、呆れた話だよ」といっていた。
 ビルも、映画館も、料亭も、私には関係のないことであるから、こういう話には、最近まで、あまり興味がなかった。もちろん健全な発展とは思われないが、敗戦後の萎縮した気持から脱却するには、少し不健全でも、まあ「景気よく」やることにも、一応の意味があるのだろうくらいに、ぼんやり考えていた。
 ところが、最近、偶然にそれこそまことに驚くべき報告書に接した。それを読んでみて、実は愕然としたのであって、札幌の「大発展」を謳歌したりしていたら、とんでもないことだということがよく分った。それは、「産業計画会議」の第二次リコメンデーションのことである。

二 『北海道の開発はどうあるべきか』


 産業計画会議というのは、松永安左エ門氏を委員長とする委員会であって、開発、土木、運輸、産業などの各方面にわたり、日本第一級の専門家をすぐって、委員としている会議である。
 この会議は、今後の日本の産業は如何にあるべきかという問題を、科学的かつ総合的に研究して、勧告書(リコメンデーション)を出すことを、主な目的としている。科学的というのは、もちろん人文科学を含めての話である。非常に大きい問題を目指しているので、いわば現在の四つの島からの生産で、やがては一億にも達しようとする日本民族が、どうして生きて行くかという難問の解決に、糸口を与えようというのである。
 やり方は、日本の生産に関するいろいろな問題を、個別に採り上げて、その内容を詳細に吟味し、全委員の智能を集めて、それに対する勧告書を発表するという形をとっている。既に昨年第一次勧告書として、『経済政策に対する勧告』を出しているが、今回その第二次勧告書として『北海道の開発はどうあるべきか』が発表された。そしてそれがまことに驚くべき文献なのである。その全文は最近の『ダイヤモンド』誌に採録されているが、これは経済関係者の間だけに読まるべきものではなく、広く全国民の注目をひくべき文書と思われる。また、題目は北海道の開発となっているが、これは北海道だけの問題ではない。日本におけるいわゆる総合開発が、戦後あれほど騒がれたにもかかわらず、遅々として進まないことの原因がどこにあるかを衝いている文献ともいえるものである。それでこの勧告書の内容を少し紹介することにする。もちろんこの勧告書は、かなり広範にわたって配布されているものであろう。しかし文書の性質上、官報のような感じを与えやすいので、それをもっと読み易い形にすることも、意味のあることと思われる。
 この勧告書は大ざっぱにいって、二つの部分にわけられる。前半は、北海道開発の第一次五カ年計画の決算であり、後半は、今後の第二次計画に対する勧告である。その第一部が、驚くべき決算書なのであって、第一次五カ年計画は、完全な失敗に終ったという結論が出されている。完全な失敗というのは、最初の目標から見ての話であって、何もしなかったとか、造ったものがこわれたとかいう意味ではない。それで以下の文章は、実際にこの開発事業に従事し、北海道の不利な立地条件のもとで、辛苦をなめてきた技術者や労務者のことをいうのではない。そういう人たちの労苦は、北海道の事情を少しでも知れば、十分に推察のできることである。それにもかかわらず、第一次五カ年計画が、完全な失敗に終ったところに、日本の政治のあり方があるので、その点が問題なのである。
 第一に知るべきことは、第一次五カ年計画は、今年の三月で終了した点である。既に終っているのであって、着手中なのではない。この五カ年計画は、昭和二十七年度から開始され、去る三十一年度で完了したのである。この五年間に、どれだけの金が北海道の開発に注ぎ込まれたかというと、それは、中央政府から実際に支出された金額だけで、八百億円に達している。国の予算としては、これだけの金が公共事業費という項目で支出され、北海道開発庁と北海道庁とを通じて、とにかく北海道に注ぎ込まれたのである。八百億円というのは、国家予算から直接に出た金であって、外に地方予算および電源開発法による電源開発会社の投資など、もとをただせば税金から出た金が、その外にたくさんあって、総額からいえば、一千億を遥かに突破した「税金」が、北海道の開発に使われたわけである。
 しかしここでは、中央政府から直接に出た八百億円だけについて、話を進めて行くことにする。

三 第一次五カ年計画の決算


 過去五年間に、国費だけでも、八百億円の金が、北海道に注ぎ込まれた。国家として、目的なしに、こういう巨額の予算を支出するはずはないので、これには立派な目標があった。敗戦後植民地を失った日本にとっては、北海道の開発が第一のホープと思われた。そして事実それは間違ってはいなかった。というよりも、今日でもそのとおりであるといっていいであろう。
 敗戦後、北海道がクローズアップされたときに、まず着目されたのは、内地における過剰人口の受け入れ地としての北海道であり、今一つは食糧の増産であった。それで目標として、「人口の吸収」には百六十万人を目指し、食糧の増産は、米換算三百五十万石を計画した。すなわち五年間に内地から百六十万人の人口を受け入れ、三百五十万石の増産をすることを目的として、厖大な計画を立て、そのうち実際には、八百億円の開発費を注ぎ込んだのである。それが北海道開発第一次五カ年計画であったのである。
 ところが、その計画の五カ年が過ぎ、八百億円の金を使った今日、果たして目標の何割が達せられたかが、問題である。それはこの勧告書によれば、驚くべき結果になっている。人口はこの五年間に五十万人殖えたが、そのうちの四十三万人は、北海道内における自然増である。ところが残りの七万人のうち、自衛隊関係が六万人近くあるので、最初の目的たる「人口の吸収」は僅か一万人程度ということになる。百六十万人の計画に対して、一万人ではどうにも言訳が立たない。
 しかし人口の方はまだよい方で、食糧増産の方はむしろ減っているくらいである。この勧告書から、戦後十カ年間の北海道における主要食糧生産量の表を再録すると、次のとおりである。
    昭和2125年計 昭和2630年計
米   一、二五一万石 一、一〇一万石
小麦     八五万石    八五万石
大豆    二三二万石   二三五万石
小豆     四一万石   一〇六万石
馬鈴薯   一一四万貫   一〇八万貫
 開発計画は二十七年度から始まったので、本当は三十一年度まで入れる必要があるが、それを入れると、昨年の凶作がはいるので、第一次五カ年計画による減産が、もっとひどくなる。この表の結果は、天候によって説明できるものではない。開発計画開始前の二十一年度から二十五年度の間には、冷害の年もはいっている。
 減産の理由は、農家戸数からみればよく分るので、第一次計画の開始された昭和二十七年には、北海道の農家は二十三万七千戸あった。それが、昭和三十年には二十三万四千戸に減っている。農業入植を目的として、開発を進めたら、農家戸数が減ったのであるから、まことに妙な結果である。
 人口の吸収と食糧の増産とを兼ねさせようとして、農業入植を大いにうたったのであるが、戦後十カ年間に道外から入植したのはわずか六千戸で、そのうち定着したのは、三千八百戸にすぎない。第一次五カ年計画の前にも、いわゆる拓殖費というものがあって、毎年数十億円の金が北海道へはいっていた。そのスローガンは、六万町歩とか、十万町歩とかを開墾して、何万戸かの戦災家族を入れるというのであった。それを五カ年続けて、そのあとさらに第一次五カ年計画を遂行し、十年かかって実際に入植したのは、三千八百戸に終ったのである。
 勧告書は、この結果について、「目標自体から見れば、北海道開発の達成率は零であった、といってもいい過ぎではないのである」と結論している。
 八百億円の国費をつかって、当初の目的が全然果たされなかったということは、まことに驚くべき事実である。更に、そういう事実を目前にしながら、日本の輿論よろんが、こういう問題にほとんど無関心の状態であることもまた不思議である。遠い外国、しかも日本との経済的なつながりがそう濃くない国のことには、非常に熱心であって、自国内の異常事件には比較的冷淡であるのは、如何にも腑に落ちない。
 これが外国だったら、たいへんな騒ぎになるところであろう。私の知っているのは、米国の例だけであるが、先年ミゾリイ流域の開発計画が、所期の効果をあげなかったときに、アメリカの新聞や雑誌の騒ぎ方は、ものすごいものであった。米国にも縄張り争いがあることは日本と同様で、この計画はピック・トムソン計画と呼ばれていた。米国の陸軍の工兵隊は、正式には、技術団(コール・オブ・エンジニヤー)といい、平時にはダムの建設とか、運河の掘鑿とかいうような土木工事をやっている。けっきょくそれが塹壕を掘ったり、橋をかけたりする演習になるので、普段もただ遊ばせてはおかないのである。大きい開発計画はたいてい内務省の開発局がやるが、工兵隊もその一部を負担することがよくある。ミゾリイの場合は、両者せり合いの形になって、けっきょく工兵隊の親玉ピックと開発局方面のトムソンとの両方の名前をつけたわけである。
 こういう点も一つの原因であったらしいが、初めの四、五年間は、業績があまりあがらなかった。すると新聞が真っ先になって、じゃんじゃんと書き立てた。「われわれの税金を溝に棄てる事業」とせめられ、輿論もこれに追従したので、けっきょく組織を変更して、それからは順調に進行した。言論の自由というものは、こういうふうに使われると、非常に有効なものである。

四 二億二千万ドルの開発計画


 第一次五カ年計画の決算が、あまり問題にならないのは、日本人が円に対して少し不感症になっているからではないかと思う。八百億円の金を使って目的達成率が零と聞いても、あまり驚かない。それは八百億円という額を、非常に巨額な金であると感じないためかもしれない。しかし、これはたいへんな金であって、ドルに換算して、二億二千万ドルである。二億ドルといえば、アメリカでも、非常な大金であって、開発のために、二億ドルの予算をとるなどということは、滅多にできない相談である。
 今世紀の初めから、アメリカの国土開発は、非常な勢いで進められてきた。開発局が主となって遂行した、あるいは進行中の開発計画は、七十以上あるが、そのうち二億ドル以上のものは、四つしかない。ミゾリイ流域などは、推定予算二十億ドルになっているが、これは面積が日本の全面積の三倍くらいもある厖大な地域の話で、比較にはならない。
 一番参考になるのはボルダー峡谷計画である。この計画の花形ボルダー・ダムは、狂暴なコロラド河の洪水を完全に防禦し、百万キロの発電をし、米国南部における沙漠の一部を沃野に化した。二十世紀の奇蹟として、日本にもよく知られているものである。この計画の全経費が、二億四千万ドルであって、大体今度の北海道の第一次五カ年計画と同じ費用である。
 百万キロの発電といえば、佐久間ダムの約三倍であって、この電気によって、ロスアンゼルスには、千八百の新しい大工場が生まれた。電力が豊富で、かつアメリカの十五大都市の中では、一番電力が安くなったからである。それくらい安く電力を売っても、五十年間にダムの建設費を返済できるので、五十年後には、ダムは無料になる計算になっている。
 そのダムの完成によって、コロラド河の下流は、年中水位の一定した川になった。それで簡単に水をひくことができるので、オール・アメリカン運河をつくり、イムペリアル平原を灌漑した。運河の総工費は、三千八百万ドルすなわち百三十七億円であった。北海道開発費の一年分よりは少ない。これは前の二億四千万ドルとは別で、受益者たる農民の負担であるが、五十年の年賦でかつ無利子である。ところでこのためにイムペリアル平原の農産物は、年産七千万ドルにとび上がった。沙漠で一年間太陽の照り放しになっているところへ十分な水を与えたのだから、何も不思議はない。農民の運河工事費負担は、毎年収穫量の百分の一を、五十年納めればすむ。こうなれば、人口の吸収は放っておいてもできる。
 ボルダー・ダムの建設は一九三一年に着手されたが、この計画の決定は一九一八年であった。それから十四年の年月を、基礎調査に費し、ダム建設の可能性とその有効性をも確認した。そして一九三一年にいよいよ工事を始めてからは、五カ年で一応ダムの完成を見たのである。アメリカでも、二億ドルの金を使うには、十四年間も思案したわけである。八百億円の金を、こう手軽に使える国はおそらく世界中で、日本だけかもしれない。一部の人にとっては、日本ほど住みよい国はどこにもないであろう。しかし世界一高率の税金を払わせられている国民にとっては、第二次五カ年計画もまた、目標達成率ゼロというようなことになってはたまったものではない。その第二次計画はこの四月からもう始まろうとしているのである。
 第一次計画については、こういう弁解も出るかもしれない。農業入植によって、人口の吸収と増産とをはかったのは、たしかに間違っていた。しかし敗戦後のあの混乱の中で、食糧不足に悩んでいた当時としては止むを得なかった。研究や調査も必要なことは十分わかっていたが、それどころではなかった。今になって、結果を見てあれこれいうことはやさしいが、あの当時に戻って考えて貰いたい。こういう話がきっと出ることであろう。
 しかしそれは弁明にはならない。第一次計画の始まったのは二十七年度からで、敗戦直後すでに七年を経過し、一応の落着きをとり戻していた頃である。それにこの農業入植の計画が誤っていたことは、調査や研究を必要としないほど分り切った話であった。何も今になっていい立てるわけではなく、第一次五カ年計画より五年も前、すなわち昭和二十一年から二十二年頃にかけて十分に説きつくされたことである。他の文献が今手許にないので、その頃主として『文藝春秋』に書いた私の文章から、二、三の例を次節に引用しよう。

五 第一次計画の失敗は当然である


 昭和二十一年の秋、北海道庁の庭に、百台ばかりの新しいトラクターが並んでいた。それを見たときの感想である。
 開墾も必要かもしれないが、一番不思議なことは、北海道には、少なくも統計の上では、昭和二十年度に、二十二万町歩の不作付農地があることになっている。北海道庁の農業生産計画にあらわれた統計では、昭和十二年度が、一番農耕地が多かった年となっている。その後だんだん減って、昭和二十年度には、昭和十二年度の農耕面積から、二十二万町歩減少している。統計自身があまり当てにならず、また目的によって申告する方で手心を加えるので、この値は不確かであるが、少なくも十万町歩は不作付地があるものと、その道の人たちは皆承認している。
 せっかく開墾をした土地を作付しないで放っておいて、また新しく開墾を始めているのである。その意味は誰にもちょっと理解できないであろう。昭和十二年度には、水田と畑とを合わせて、九十八万町歩作付をしているのに、それが何故八十万町歩足らずに減っているのかといえば、答えはきわめて明瞭である。物が穫れないか、あるいは少しくらい穫れても引き合わない土地は、棄てられてしまったからである。高山の山麓地帯を見ると、はっきり分るのであるが、一時無理をして四百メートル台くらいまで開墾したのに、どうにも引き合わなくて、また三百メートル台まで下がったところがたくさんある。
 ところが今度新しく開墾をする土地は、その不作付地よりもさらに条件の悪いところである。悪い所でなくては残されていないのであるから仕方がない。いくらトラクターが活躍しても、そういうところでは、開墾後の農業経営がなり立つはずがないであろう。経営などは第二の問題で、とにかく食糧の絶対量を増産しなくてはという議論も、この場合は意味がない。経営を無視しても、食糧が必要なのは今であるが、その時期には、むしろ食糧自身にはマイナスになる開墾をやり、経営が絶対条件になる時期になって、経営不能の農業をさせようというのである。
 そうすると大急ぎで苦しい中から無理をして、トラクターを沢山作って、食糧が要らなくなったときに食糧をとるべく、大汗になって緊急開墾というのをやっていることになる。
 以上は昭和二十二年の六月に書いたものの中から引用したのであるが、これくらい分り切ったことには、研究も調査も不必要である。それに私のような素人までこういうことを書くくらいだから、当時の要路の人たちには、もちろん分っていたことにちがいない。それにもかかわらず実際には、第一次五カ年計画が、現在のような目標で立てられ、開墾を進めた結果、耕地はさらに減って、二十九年度には、七十四万四千町歩に落ちている。開墾の結果として残ったものは、木を伐ったあとの荒れ地と、山火事とである。敗戦後の山火事では、開墾に伴う火入れが、その原因であったものが、非常に多くなっている。資料を入手する暇はないが、同窓の友で旭川の営林局長をつとめていた人の話では、そうである。
 産業計画会議の勧告書では、第一次五カ年計画の失敗を、アプローチ(取扱い方)のあやまりに帰している。
「北海道がほんとうに日本経済に寄与し得る途は何であるかは、実は深い研究を必要とする問題であるにかかわらず、当時は一足飛びに目標も手段も決定してしまった。この出発に誤りがあった」といっている。そしてその前には、「当時の素朴な考え方としてはもっともなことながら」とつけ加えてある。
 それならば、あまり心配する必要がない。第一次計画が、「知らなかった」ために失敗したのならば、第二次計画では、再びその轍を踏むことはないであろう。しかし百も承知の上でやったことならば、第二次計画でも、同じような結果が、別の形をとって出てくるおそれが十分ある。昭和二十二年に書いた文章を読み返してみて、私はこの点に、かなりの疑問をもっている。

六 第一次計画の現状


 勧告書では、次ぎに第一次五カ年計画の現状について、詳細で要領のよい解説がなされている。農業のことは、目標のところで詳述したので略するが、その他に、交通、港湾、林業、河川、電源開発、地下資源、都市計画、住宅の各項目について、それぞれ的確に現状を述べ、欠陥のある場合には、その欠陥を指摘している。これを読んで、私なども初めて知ったことが多く、教えられるところが多かった。
 例えば港湾であるが、漁港の整備費に二十三億円を使っているが、手がけている漁港の数は、何と七十七港に及ぶというのである。現在までに完成されたのはわずか四港で、その他の港の完成には、平均して今後二十年を要するという。冷害地に劣らぬ困窮に陥っている現在の北海道の漁村が、あと二十年もつかどうか怪しいものである。
 商業港については「苫小牧の工業港造成計画」なるものがある。この計画は、外港の築造と、工業都市のための内港を造る部分とに分れている。この計画の必要性自身が問題であるが、それを認めるとしても、現在の進行速度では、外港にあと十八カ年を要し、内港に至ってはあと百数十年を要する。そういう国費の投資が平気で行われている点が、まことに不思議である。
 交通の問題で五カ年計画がとり上げたものは、道路であるが、これも札樽国道と、札幌千歳間の道路との外は、あまり目立ったものはない。このうち後者はM・S・A道路である。その他の道路は、主要なものでも、漸く一昨年から着手されたという程度のものが多い。計画に対する達成率は六八%で、遂行率からいえば高い方であるが、国防的見地から造られた道路を含めての数字である。北海道の生産をあげる、あるいは生産物を活用するための道路の建設は、まだまだ遠い先のことである。
 林業は北海道にとって重要というよりも、年々の過伐に追われている日本の林産資源を確保するためにも非常に重大な問題である。ところがその現状は、「林相の低下」という恐るべき様相を示してきた。針葉樹は、過伐になり、闊葉樹は良質のものだけが選伐されて、不良樹だけが残る傾向が出てきた。北海道の森林資源は、八五%が国有林で、営林局の管轄下にある。その営林局が、収入予算の金額を増すために、伐採に専念して、植林を閑却しているためであると、この勧告書はいっている。この伐採は、北海道の総合的開発という見地からなされているものではない。
 道路にしても、港湾にしても、また林業にしても、要するに五カ年計画とはいうものの、実は計画になっていないのである。
 もっともこの第一次五カ年計画は、前にもいったように、誤った目標をたてて作られたものであるから、計画のたてようがなかったのであろう。結果としては、当時俗耳に入りやすかった題目をふりかざして、予算をとってきて、それを無目標に適当に分けて使ったような恰好になってしまったと、いえないこともない。
 無目標の上に、今一ついけないことには、官僚組織につきものの能率低下の問題がある。第一次五カ年計画で遂行率一〇〇%を示したものの一つに電源開発がある。多くの事業が、低いものは三〇%台、高くても七〇%以下の遂行率だったのと比較して、著しいちがいである。この電源開発は、電源開発会社と、北海道電力会社との手でなされたものである。その資金に、政府の投資と融資とがはいっている点では、間接的に国家資金に頼っているが、法制的には公共事業としては取扱われていない。「機構的、予算的制約にしばられない仕事は、このように伸び得るのである。」似たようなことは、林業でも見られる。北海道の重要問題である植林においても、民有林の成長率は国有林よりもはるかに勝っているという事実がある。
 電源開発については、遂行率は別として電力問題そのものとして見ると、北海道の電力は高過ぎるという難点がある。電力のコストが高いのは、水力偏重の思想にわざわいされたためと、勧告書はいっている。アメリカの水力電気は、非常に安いが、それは地形的条件ばかりでなく、電力がダム建設の副産物であるからである。アメリカの総合開発におけるダムの建設は、洪水防禦が主目的であり、あと灌漑、水運などが総合的に考えられている。
 北海道でもこういう立場をとれば、水力電気のコストは安くなる。ただしそれには完全な調査と、有機的な総合計画とが必要である。まず予算をとってきて、それから考える程度の計画では、到底できない相談である。
 要するに第一次五カ年計画は、目標を誤ったという以外に、少し誇張していえば、総合的な計画がなかったといわれても仕方がないような面が、相当あったように思われる。

七 新しい目標をどこにおくか


 第一次五カ年計画は失敗であったとして、それでは、引き続いて行われる第二次五カ年計画は、一体どうすればよいのか。その方が大切な問題である。この勧告書の後半は、その点に焦点が絞られていて、傾聴すべき意見が多いように思われる。第一に目標であるが、それを「あくまで経済的効果で割切ったアプローチ」としている。まさにそのとおりであって、むしろ今頃になってそういうことをいい出さなければならない日本の姿を悲しむべきである。こういうあまりに当然なことが、何故行われてこなかったかという点に、日本の政治の秘密が潜んでいる。
 総合開発では、恐らくアメリカが世界で一番成功している国と思われる。次は多分ソ連であろうが、重工業方面はよいとして、農業方面では一歩おくれているようである。そのアメリカでは、開発というものが、初めから「政府の行なう営利事業」になっている。もちろん営利事業というのは、国家的に見ても、個人的に見ても、経済効果を十分にあげるという意味である。今から五十五年の昔、一九〇二年に、T・ルーズヴェルト大統領が、開発法にサインした当時から、「経済効果で割切ったアプローチ」というのは、公理であって、誰も気がつかないくらい当り前のことになっている。
 ボルダー・ダムの下流、コロラド河の孫支流に、ソールト・リヴァーという川がある。この川に小さいダムを造って電気を起こし、同時に水を付近の沙漠へ引いて、灌漑をした。これは国費二千万ドルで一応完了。効果があまりよいので、あと農民組合が、更に二千三百万ドルの投資をして、さらに拡張した。公私合計四千三百万ドルかけて、七万キロの電気を起こし、十五万町歩の土地を灌漑した。
 四千三百万ドルは、約百五十億円で、北海道開発費の約一年分である。ところでその効果を示すために、投資前の一九一〇年と、三十七年後の一九四七年との経済事情を表で現わしてある。それによると、人口も農場の収入も、この三十七年間に、十倍程度に上がっている。銀行預金に至っては、五百万ドルから、十八億ドル近くにはね上がっている。三百倍以上になったわけである。
 ところで面白いのは、税金のことを付け加えてある点である。この付近一帯のマリコパ郡は、開発前は、全くの沙漠で、ほとんど税収がなかった。ところが一九四七年には、この郡からだけの国税収入が、六千六百万ドルに達した。政府は初め二千万ドルの投資をしたが、この間にそのうちの千四百万ドルは既に国庫へ償還された。それで政府としては、二千万ドルの投資をして、大半を返済して貰い、その上毎年六千万ドルの税金が上がるのであるから、これほど有利な事業はない。アメリカの税率は大金持を除き、一般庶民には、日本などと較べものにならないくらい安い。大体三分の一と思ってよい。税率が低くて、税収の総額が大きくなったのであるから、個人の収入も非常に多くなったわけである。この資料のもとである開発局の小冊子は、最後を「このように、開発事業は最も有利な投資である」と結んでいる。
 アメリカと日本とでは、立地条件がちがうので、何も、アメリカのやり方を真似る必要はない。しかし国民の税金を使う以上、国民全体の利益になるようにしなければならない、という考え方は真似た方がよい。ソールト・リヴァー計画の全経費と同額の金を、五カ年間つづけて北海道へ入れて、その最終年度の冬には、北海道の農民の一部は、明日の食糧にもこと欠いている。新聞などでは、冷害ほどひどく騒がれないが、北海道の漁村の窮状は、凶作農家に劣らない、あるいはそれ以上のひどさである。一方札幌の街は、全国第一のビル・ブームに賑わい、三十あまりの立派な映画館が新しく建ち、料亭は東京の第一流にまで昇格した。誤った目標、あるいは無目標のもとに、巨額の金を注ぎ込むと、どういう結果になるかという実験を、世界最大の規模で実演してみせたわけである。金さえ入れれば開発ができるという考え方、あるいは何かというと、二言目には「日本は貧乏だから」という態度、それが如何に間違っていたかが、今度の実験で分ったはずである。
 今頃になって、「経済効果で割切ったアプローチ」などという勧告を出さねばならないということは、まことに残念であるが、しかし今からでも、この勧告が、要路の人々によって、真面目に考慮されることを願う次第である。

八 第二次計画はどうすればよいか


 目標はきまったとして、それでは、第二次五カ年計画は、どういうふうな形にもって行ったらよいか。この点について、勧告書は、農業、林業、港湾……の八項目について、それぞれ新しい理念と具体策とを提案している。理念の中で、従来あまり気がついていなかった根本問題が、真っ先にとりあげられている。それは「北海道の資源を内地に運んできて使う方がよいか、現地で使う方がよいか」という問題である。北海道としては、もちろん北海道で工業を起こし、北海道の資源を道内で使う方を望むにちがいない。しかし北海道が日本の経済に最も有効に寄与する、という建前からは、どっちがよいか研究してみる必要がある。内地へ原料を送った方が、北海道でその原料を使ってやるよりも、ものが安くできれば、内地でつくるべきである。安くできるということは、物資と勢力と労働力とが少なくてすむことである。日本全体から見たら、その方が得である。
 ところで従来は、北海道の資源を内地へ送って、内地の工業を養っていたが、それはその方が経済的だったからである。その原因の一つに国鉄の奇妙な運賃政策がある。現在、北海道の石炭とか木材とかいう物資の運賃は、非常に安く、コスト割れの値段になっている。すなわち運べば運ぶほど、国鉄が損をするのである。その分はけっきょく旅客の負担になる。そしてこの運賃政策が、内地の工業を援け、北海道がいつまでも植民地的存在になっている一つの原因である。しかしこの運賃の是正はむつかしい。二、三日前の北海道の新聞でも、今度の運賃値上げで、道民が食う紀州の蜜柑の値段は、一箱について東京よりも十三円(?)とか高くなるといって、大いに攻撃していた。そしてそういうことさえいっておれば、大多数の道民は喜ぶのである。その議論だと、札幌で食うパイナップルが、ハワイより高いというのはけしからんということになる。蜜柑を十三円安く食って喜んでいるうちに、内地の大企業家は、旅客の負担において、北海道の資源をどんどん安く運んでいる。そして北海道はいつまでも、植民地的存在に甘んじていなければならない。
 次に今一つ、人があまり注目していない北海道の魅力があげられている。それは工業用水が豊富なことと、土地が広くて、地価が安いことである。本州では、この両者とも行きづまりになっていて、大工業を興す適地の発見に非常な苦労をしている。この点では北海道は有利な条件にある。
 総括的にいって、この勧告書の主旨は、北海道を、従来の農業本位的な考え方から切り放し、工業によって、人口の吸収をする方へ向けるべきだという意見である。そして北海道から植民地的要素を取り除き、北海道を「生活の場」とする方向に、もって行かなければならない。それには何よりもまず北海道を住みよいところにする必要がある。仕事は人間がするのであるから当然な話である。
 こういう見地に立って、八項目のそれぞれについて、具体策が提案されている。そしてそのいずれもが、傾聴すべき意見と思われるが、本文の目的は、北海道の開発自身についての論議にはないので、具体策の方は省略する。第一次五カ年計画の結果を例として、日本における開発計画の多くが、何故所期の効果をあげ得ないかという点について、考察するのが、本文の眼目である。
 総合開発にとって、一番大切なものは、目標である。それを誤った場合に、如何なる結果をきたすかという点については、これ以上述べる必要がない。正確と信ぜられる目標が立った場合、次は周到な計画に入るわけであるが、それには調査と研究とが必要である。ところが北海道の場合には、それが非常に不足であった。そしてそれは第一次五カ年計画が完了した今日でも、なお不足なのである。例えば、北海道にとっては、最重要な地下資源についても、一番大切な基礎調査、すなわち五万分の一地質図すら、まだほとんどできていない状態である。全道二八四地区に分けられた地質図のうち、戦前刊行の三七葉を除いた調査対象二四七葉の中で、完成したものはわずか三五葉、すなわち一四%にすぎない始末である。
 もっとも表面的には、立派な調査書ができていて、それに基づいて部厚な計画書が印刷されている。当然のことで、そういうものがなかったら予算が通るはずがない。しかしこれは日本全般を通じての傾向であるが、この種の調査書は、概して机の上でつくられたものが多い。現地の土に根差した資料が少ないので、実際にやってみると、案外に役に立たない場合が多い。どうしても現地に即した研究と調査とを、もっと重視する必要がある。この勧告書は、日本第一級の頭脳の集積であって、現在のところ、これ以上のものを期待することはむつかしいであろう。しかしこの勧告書ですら、現地への即し方が少し足りないように思われる節がなくもない。もっともこの会議は私的なもので、政府の金は多分はいっていないと思う。従って多額の費用を要する調査を要求することは無理である。

九 米作の問題


 この勧告書の結論のうち、一つ疑問があるのは、米作の問題である。それは米作本位を排して、北海道には北海道らしい姿の農業を導入すべきだという点である。もちろんそのとおりで、酪農にもっと力を入れる必要があることには、全く異論がない。しかし問題は、何故米作が現に北海道農民に受け入れられているかという点にある。
 結論を先にいえば、米作の方が有利であり、より安定であるからである。熱帯地方の米を北海道で作るのは無理だ、冷害がくれば一たまりもないのにいつまでも懲りずに米を作っているのは、日本人の誤った米に対する執着である。こういう考え方が、一般の通念になっているが、これについては、今一歩を進めて考えてみる必要がある。
 第一に不思議なことは、実際に北海道を廻ってみると、上川、空知、石狩などの米作地帯の農村が、他の畑作地帯の農村よりも、概して裕福な点である。冷害で困るのは、米作はもちろんであるが、大小豆などの方がもっと被害が多い。昨年の冷害は、十年来の災害で、米は四分作しかとれなかった。しかし大小豆はもっとひどくて、三分作であった。現在、明日の食糧に困っているのは、畑作地帯の農民で、米作地帯では、それほど困っていない。現に上川地方の農村では、救援米の辞退が多くて、問題を起こしている。
 農林省の農業総合研究所の北海道支所では、北海道の主要農産物について、年産額の平均偏差を調べている。まだ五年間の統計が出ただけであるが、米の二七%に対し、大豆は三七%、小豆は三六%、甜菜は二〇%という数字が出ている。この%が多いほど、不安定な作物なのである。これから見ると、米だけがそう不安定なものでないことがよく分る。馬鈴薯は六%で、著しく安定であるが、馬鈴薯だけでは、経営が成り立たない。それに米が二七%になるのは、増収だけを目当てに不安定品種を選ぶからである。安定品種を使えば、もっとずっとこの偏差は小さくなる。安定品種だけだと、たまたま大豊作の年にあたると損をするが、不安定な増収品種の少なくも八〇%は穫れる。この二〇%を狙って冒険をするために、冷害の年にはひどい目にあうのである。
 現在のところ、たしかに米作農家が有利なのであるが、これは政府が客土や灌漑排水の面で、多額の投資をしているからとも考えられる。
 しかし昭和二十七年度から三十年度までの間に、この面で入れた金は、国費と道費とを加えて、全部で百四十億円である。全額を水田のためと見做しても、水田農家戸数十一万戸で割ってみると、一戸当り約十二万円である。少し上等な牛一頭の値段である。四年間にこの程度の補助ならば、政府がとくに多額の金を水田へ入れたというほどでもない。
 一方酪農は、地力保持の点からいっても、日本人の体位向上の面からも、大いに奨励すべきであるが、安定した酪農をやるには、少なくも六、七頭の乳牛を要し、住居、厩舎、サイロなどを入れると、最小限度三百万円くらいの資本が要る。長期農業金融の利子六%が、現在最低の利子であるが、それでも毎年十八万円になる。それだけの利子を払い、元金を幾分でも償還しようとしたら、経営は非常に困難である。
「北海道には北海道らしい農業」というのは、目標としてはそのとおりであるが、実現には非常に巨額の投資を必要とする。もちろん現在以上に不利な条件のところにまで、水田を拡張することはよくないが、北海道の水田米作が失敗だったとはいい切れない。
 私なども初めは、北海道で米を作るなどとんでもないと思っていたが、終戦後、農業物理学の研究を始め、暫く北海道の農村に住んでみて、少し考えが変ってきた。要するに北海道の畑作農業が惨めすぎるのである。
 この問題は、非常に複雑な性質のものであって、外にいろいろな見方もあろう。軽々に論断するつもりはないので、従来よりももっと現地に即した調査や研究が欲しいという例として、提出しただけである。

一〇 結び


 開発事業と限らず、日本の政府の事業は、たいてい所期の効果をあげていないようである。今度の北海道の例は少しひどすぎるが、他の開発計画でもなかなかすらすらとは運んでいない。ダムの築造など、途中で五回、六回という設計変更をすることがそう珍しくない。
 その原因として、従来いわれているのは、調査と研究とが足りないからというのである。今日ではそれがもう通り言葉になってしまって、予算をとる方でも、立派な調査資料を揃えて提出している。部厚な印刷物で、中を開くと数字が一杯つまっている。如何にも詳細綿密な調査のように見えるが、たいていの場合、これらは机の上だけでつくられたものが多い。現地に即した研究や調査が割合と少ない点が弱点である。意地悪くいえば、予算をとるのが目的の調査書が多いといえないこともない。
 もっとも査定する人も、神様ではないから、東京の中央官庁の机の上で、その資料の是非を判定することは、一般的にいって不可能である。それならばどうすればよいかといえば、まず何より責任者をつくることが、先決問題である。第一次五カ年計画が、こんな結果になっても、その間に長官は何人も変っているので、責任は誰にもない。まことに不思議かつ巧妙な政治組織である。
 責任者がきまったら、次に大切なことはその人が現地に住むことである。北海道開発庁の長官が、帯広あたりに住んでいて、近くの百姓の子供が、弁当がなくて学校へ行けないといって泣いているのを見たら、八百億円の使い方を、もう少し考えるであろう。
 こんなことをいうと、冗談のようにとられるかもしれないが、そういうことを実際に実行している国もあるのである。アメリカのTVA(テネシイ流域開発公社)の成功は、一時日本でも大いにもてはやされ、TVA熱が全国を風靡した時代があったことは、記憶に残っている方も多いであろう。あのTVAでは、今いったようなことを、文字どおり実行した。そしてTVAの成功の蔭には、比較的見逃されているが、この点が大きく効いているように思われる。
 事業は人がするもので、組織と金だけでできるものではない。TVAの成功の第一の鍵は、リリエンソール他二名の理事に全権限を委ね、思いどおりに仕事をさせ、同時にその責任をもたせた点にある。それは公社であって、国費を会計法規にしばられずに使い得るようになっている。会計法規によらないというのは、何よりも実効をあげる点に主眼をおいたので、不正を厳重にとりしまることはもちろんである。そのために、議会で選任した信頼のできる監査員を二名、常時TVAの本拠に配属しておいた。日本では、金の使い方が、会計法規に抵触しさえしなければ、それで万事おしまいである。会計の帳面は、会計検査院をとおるのが目的で、効果があがったかどうかは、問題にならない。寒中にコンクリートをうっても、年度末に出張しても、違法でなければ、それでよいことになっている。
 実効を目標にすれば、それでは困るので、公社の形態をとったわけである。しかし巨額の国費を、かなり自由に使わせるのであるから、責任者には、二つの条件をつけた。一つは、現地に居住すること、今一つは、他の一切の兼職をやめることである。それで三人の理事は、アメリカでも、一番民度の低いテネシイ州に住み、一切の兼職を棄てて、TVAの仕事に専念した。これがTVA成功の最大の原因であったと私は思っている。開発庁の長官が東京に住み、二十も三十もの肩書をもっていたら、北海道の開発は、到底巧く行くものではない。
 もっともこれが私の杞憂に終れば、大いに幸いである。
(昭和三十二年四月『文藝春秋』)





底本:「中谷宇吉郎集 第八巻」岩波書店
   2001(平成13)年5月7日第1刷発行
底本の親本:「文化の責任者」文藝春秋新社
   1959(昭和34)年8月20日刊
初出:「文藝春秋 第三十五巻第四号」文藝春秋新社
   1957(昭和32)年4月1日発行
※初出時の副題は「―われわれの税金をドブにすてた事業の全貌―」です。
入力:kompass
校正:岡村和彦
2017年4月3日作成
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