露伴先生と神仙道

中谷宇吉郎




 先だって久しぶりに小宮さんと会った時、何かの拍子に露伴先生の話が出た。そして文さんの『父』のことなどを話しているうちに、小宮さんが、「そういえば、幸田さんは死ぬ前に「じゃ、おれはもう死んじゃうよ」といったそうだが、あれは君、大変なことだよ。幸田さんという人は、よほど傑かったんだね」としみじみいわれた。私も実は『父』を読んだ時に、あの言葉に出遭って、思わずどきっとしたのである。それで、「あれには本当に驚きました。辞世の歌などにはそう感心したこともありませんが、あれにはびっくりしました。今までああいうことをいった人はなかったんじゃないでしょうか」と、心から同感した。
 昭和二十二年即ち終戦二年目の夏は、何十年ぶりという暑さであった。東京はまだ廃墟の面影を残している。焦土の上を赤熱の太陽が、無慈悲に灼きつけていた。人々は虚脱状態を抜け切らず、炎熱と土埃との中にあえいでいた。この夏露伴先生は市川の陋屋で、最後の病床についておられた。七月十一日から始った口腔内の出血が、なかなか止らず、容態は急激に悪化していった。そして死の二日前、二十八日のあけがた、先生は終焉の人がよく見せるあの小康を得て、文さんとやや長い話をして、最後に「じゃ、おれはもう死んじゃうよ」といわれたのだそうである。
 この言葉は、死を覚悟するとか、従容として死に就くとかいうのとは、少し違うように、私には思われる。古来、老僧高士が死に臨んで少しも恐れず、立派な辞世の句だの偈だのを残して帰するが如くに逝った例は、非常に沢山ある。しかしその句や偈などが立派であればあるほど、そこに何となく生を意識しての死という感じが、頭のどこかに残った。しかし露伴先生の「じゃ、おれはもう死んじゃうよ」には、生を意識しての死というものが、全然感ぜられない。生死を超越するという言葉は、今までに何度も聞かされている言葉であるが、その意味を迂闊にしてつい最近まで知らなかった。というよりも考えてみたことがなかった。私は『父』を読んでこの言葉に出遭ったとき、思わずどきっとしたのはこの点である。
 こういうことをいっても、何も古来傑出の士が、立派な辞世を残して従容として死についたのを二流とし、露伴の死だけを一流とするという意味ではない。生を意識してしかも死を怖れないのは、考えようによっては生死を超越することよりも、もっと傑いことかもしれない。しかし傑いというような言葉を使うこと自身が、既に生を意識しての世界に属する言葉である。生を意識して死を怖れないことと、生も死も意識しないこととは、比較の出来ないことなのである。それは質の違いであって、量の差ではない。もっともこれも独断であって、極めて簡単なものの考え方かもしれないが。ところでそういう風に考えると、この質の差が、何から生まれて来たかというのが、次ぎの問題になる。それを考えるには、宗教という言葉を広い意味で使わねばならないであろう。
 人生のあらゆる問題は、経済的とか、社会的とか、道徳的とか、科学的とか、要するに何々的の観察で解決が出来る。というのは少し行き過ぎかも知れないが、何かのてきで少なくも考えることは出来る。しかし解決はもちろんのこと、考えることすらも出来ないのは、死の問題である。死というのは、自意識の喪失である。この自意識の本体自身は、永久に分らないものであろう。それは原形質の生命とはちがったものである。現代の科学が明らかにし得るものは、人体を構成している細胞の死だけである。しかしそれだけでも明らかになれば、宗教の問題が大分はっきりして来る。例えば永生とか輪廻とかいうことは、細胞の衝動という意味、即ち五慾の慾求という意味では、有り得ないことになる。そういう意味では人間の死は文字通りに絶対であって、死んでしまえば何もかも無くなるのである。即ち死にとっては全宇宙が無である。全宇宙が無になるような問題に対しては、人間のあらゆる学は、全然無力である。そこに宗教、もっとはっきりいえば、広い意味での宗教というものが登場してくる余地がある。生を意識して死を克服する術も、生も死も意識しない術も、この意味ではともに宗教の問題である。
 ところで露伴先生の「じゃ、おれはもう死んじゃうよ」は、どういう宗教から出た言葉であるか。それは一応考えてみる価値のある問題であろう。この場合、幸田家が仏教であるかキリスト教であるかというようなことは、全然問題にならない。露伴先生の生死観が、何で鍛えられたかということだけが問題である。この問題を解決するには、まず露伴先生の書かれたものを全部読んで理解し、かつ先生の言動を逐一知らなければならない。そういうことは、もちろん不可能である。しかしそうかといって、全然投げてしまうには惜しい問題である。それできわめて乏しい露伴学の知識をたよりに、この問題を少し考えてみよう。
 初めにお断りしておくが、私は露伴全集をまだ全部読んでいない。小説と歴史物の一部、それに僊道せんどう関係のものを少し読んだだけである。しかしこの最後の僊道関係のものを読んだことを、予期しなかった幸運と思っている。というのは、露伴の死は、この僊道と非常に縁の近いもののように思われるからである。まず昭和三年四月に書かれた『魔法修業者』から少し引用してみよう。これは立派な研究論文であるが、この論文には露伴先生の、心のはずみが感ぜられる。もちろん私に感ぜられるだけであって、主張をするわけではない。
魔法とは、まあ何といふ笑はしい言葉であらう。
然し如何なる国の何時の代にも、魔法といふやうなことは人の心の中に存在した。そして或は今でも存在してゐるかも知れない。
埃及、印度、支那、阿剌比亜、波斯、皆魔法の問屋たる国々だ。
真面目に魔法を取扱つて見たらば如何であらう。それは人類学で取扱ふべき箇条が多からう。
又宗教の一部分として取扱ふべき廉も多いであらう。
 こういう書き出しである。この文句、及び文字の配りの中に、私は露伴先生の心のはずみを見るような気がする。この文章にしても、『神仙道の一先人』にしても、『仙書参同契』にしても、僊道あるいは丹道に関する先生の文章には、何となく勢いが感ぜられる。それが私には、「じゃ、おれはもう死んじゃうよ」を解く鍵を与えてくれるように思われるのである。先生は僊道厳密にいえば丹道が好きであったのではなかろうか。少なくも露伴の生死観は、『仙書参同契』中に詳しく述べられている丹道の極意に通じているような気がするからである。
 日本の「神仙道」で、丹道に最も近いものは、飯綱いづなの法であろう。面白いことは、日本の妖術幻術は、支那や印度などから一系統として伝わったものではなく、日本で生まれたものである。もちろん伝来の仏教や道教が多少混淆しているが、げほう、狐つかい、飯綱の法、荼吉尼の法、口寄せ、識神をつかうなど、支那流の妖術や印度流の幻術とのつらなりは薄く、むしろ神通道力に近いものである。そして日本でその本統格を成しているものが、飯綱の法である。『魔法修業者』の前半には、こういう我が国の魔法の歴史が全般的に説かれているが、後半では、主として飯綱の法とその修行者で歴史上の人物とを取扱っている。信州の飯綱山には、古代微生物の残骸が土のようになって堆積しているところがある。天狗の麦飯とか、餓鬼の麦飯とかいい、食えるものだそうである。後白河天皇の天福元年、伊藤豊前守忠綱という人があって、この山にこもり、穀食を断って祈願をこらし、大自在力を得て、二百年余を生き、応永七年足利義持の時に死んだという。これが飯綱の法の初まりで、その子盛綱も同じく法力を得て奇験を現わし、以後代々飯綱の千日家として、日本における魔法の本家となった。
 この飯綱の法は、足利の末期から応仁の乱の時代にかけて、大いに流行したものらしく、その頃の歴史上の人物の中にも、飯綱の法を修した人が二、三ある。その一人は、応仁の乱の一方の旗頭、細川勝元の子、政元である。政元は乱世に処して二度も京都管領になり、足利将軍の廃立をしたり、諸方に戦ったりした人であるが、日常は厳粛な飯綱修験者の生活をなし、種々の不思議を現わした。「京管領細川右京太夫政元は四十歳の比まで女人禁制にて、魔法飯綱の法愛宕の法を行い、さながら出家の如く、山伏の如し、或時は経を読み、陀羅尼をへんしければ、見る人身の毛もよだちける」という生活であったという。この政元は一族内の争いのために、四十二歳で不慮の死を遂げた。魔法がどの程度まで修熟したかは分っていない。
 ところで政元の後に、もっと面白いそして立派な人で、飯綱の法を修した人がある。それは名高い関白兼実の後の九条植通玖山公といわれた人である。植通は、関白、内大臣、藤原氏の氏の長者、従一位という長者であるが、こういう人が魔法の修行者であり、天文から文禄へかけての乱世に、何の不幸にも遭わず、無事に九十歳の長寿を得て芽出度く終った点が、面白いのである。
 植通が弟子の松永貞徳に語った言葉が伝えられている。自分は飯綱の法を修したが、遂に成就したと思ったのは、どこで寝ても夜半になるとふくろうが屋根にきて鳴くし、また路を行けば必ず前に旋風が起ったというのである。鴟は天狗の化身であり、旋風は目に見えぬ眷属の前駆である。
 こういう恐ろしい飯綱成就の人であった植通公は、当時の博識でもあり、人々の尊重もうけていた。しかし隠世の人ではなく、時々旋風を伴ったような言動をもって、この乱世を毅然として生き抜いた人である。織田信長が今川を亡し、途上の諸侯をほうって遂に京洛に軍を進めた時は、その威は古の木曾義仲の都入りを凌ぐほどであった。天下皆鬼神の如くに、畏敬し、禁闕の諸卿も諂諛てんゆこれ努めたものであった。しかし植通公だけは、この癇癖の荒大将に対して、立ったまま面とむかって「上総殿か、入洛めでたし」と一言いって帰ってしまった。信長ほどの荒武者に「九条殿はおれに礼を言わせに来られた」とぶつつかせたのは、流石は天狗を随身伺候させている人だけのことはあったと露伴先生はいわれる。
 秀吉が信長の後をついで天下を掌握した時の勢いも、火の如き姿であった。その秀吉が関白を目ざして、藤原の氏を望んだ時は、近衛竜山公を初め上堂の諸卿皆これに和したが、植通公一人頑として拒否した。もっとも秀吉も傑人であって、「しかようにむずかしい藤原氏の蔓となり葉となろうよりも、ただ新しく今までに無き氏になろうまでじゃ」とて、豊臣氏を名乗ったのである。
 秀吉が関白になり、ついで秀次が関白になった時に、植通公は「関白になって、神罰を受けように」といった。果して秀次は罪を得て殺され、連坐の近衛公は九州の坊の津へ流され、菊亭殿は信濃へ流された。飯綱成就の人の言葉には、恐ろしい力があった。
 晩年の植通公は、京の東福寺の門前に住んでいた。藪の中の朽ちかけた乾亭院という坊の中で、物寂びた朝夕を送っていた。毎朝印を結び、行法怠らず、あとは一日中源氏を読んで暮していた。和歌は達人、連歌の道も得ていた。当時の連歌の大宗匠法橋紹巴も時々公を訪れた。或る時紹巴が「近頃何を御覧なされまする」と問うた。公は静かに「源氏」と答えた。紹巴がまた「めでたき歌書は何でござりましょうか」と問うた。「源氏」と唯一言。また重ねて「誰か参りて御閑居を御慰め申しまするぞ」と問うた。「源氏」とそれ切りだった。公は六十年にわたって明暮に源氏を読み「これを見れば延喜の御代に住む心地する」といっていた。
 或る日貞徳が公を訪れた時、和かな陽ざしの庭で、公は唐松の実生を手づから釣瓶に植えていた。若い貞徳は、公の清らかに老い枯れた姿と、わび切った釣瓶と、実生の松の緑のかすけさとに心を動かされた。それで「植えてゆく今日から松のみどりをも猶ながらえて君ぞ見るべき」と祝した。「日のもとに住みわびつつも有りふれば今日から松を植えてこそ見れ」と、ただものをいうように公は答えた。
 天文から文禄の間のあの乱世に生まれ合わせて、しかも延喜の世に住んでいた植通は、八十を過ぎた齢で、唐松の実生を植えていた。「ただ物を言うように公は答えた」「日のもとの歌には堕涙の音が聞える。飯綱修法成就の人もまた好いではないか」と露伴はいう。生と死とを美事に超越した露伴終焉の境地は、この植通の心境に通うところがあるように思われる。

 神仙道を不老長寿の道と考えるのは、卑俗な心の人たちだけの話である。日本の飯綱の法も中国の丹道も、その真髄は、五慾を逸脱して生死一如の境地に入ることを目指している。狙いは内界にあって、外界にはない。露伴先生が『仙書参同契』において、内丹の真髄を力説されているのも、この点である。しかし現代人がこういう説明に深入して一歩誤ると、浅薄な科学論即ち機械論に陥るおそれがある。あらゆる奇験を単なる幻像としてしりぞけ、生命を顕微鏡下における原形質の生命だけに限る傾向に陥りやすい。神仙道修業の成就は、単なる自己催眠や、魔睡薬による幻想とは違うのではなかろうか。もちろん現在の科学は、その科学の範囲内では間違っていない。従って心霊の現象を認めるとしても、幽霊写真とか、空中に物が浮かぶとかいうことは、あり得ない。特に後者は絶対にあり得ない。
 写真にうつるということは、銀の粒子に化学変化を起さすような電磁波の存在を意味する。霊からそういう物質的な電磁波が出るとは考えられない。もっとも幽霊写真に近いものとしては、かつてミトゲン線と呼ばれる生物から発する放射線の存在が、一部の生物学者や物理学者の間に信ぜられた。実験的研究も盛んになされ、百余の論文が出た。半ばは肯定、半ばは否定であった。肯定した側には、ゲールラッハのようにノーベル賞を受けた物理学者もあった。しかし現在では一般に否定に傾いている。もっとも将来生物線の存在が再び確認される日があっても、それは心霊現象とは近縁の如く見えて、実は本質的に異るものである。空中に立つに到っては論外である。それには重力を断ち切る必要がある。そういうことは力学の原理に反するので、それを否定することは科学的であり、科学を認めるならば、そういう現象を認めてはならない。しかし科学を認めることが、全心霊現象を否定することにはならない。生命現象や自己観念の問題のすべてを、進化論や生物化学の進歩だけで解決することが出来なくても、ちっともかまわない。科学の方法は、結局は分析にある。分析によって本態を喪失する現象があっても、少しも不思議ではない。それらは科学と矛盾するものではなく、科学と縁のないものなのである。
『父』の中に、文さんが、露伴先生の心霊が正に肉体を離れようとする情景を見た時の記載がある。二十七日の夜中、停電があった。蝋燭はない。重態の父の枕頭、闇の沈黙に耐えかねた文さんはマッチを擦った。「ほとばしり出る焔につづいて軸木に油が熔けわたり、しづかに縮まつて行き、尽きようとして煙草盆へ放し落したとき、父が身じろいだやうだつた。不安になつてもう一本しゆつと擦つて、ちよつとかかげた。揺いでゐた」。この時の文さんの前には、枕のはしに落ちそうになっている露伴先生の頭があった。それは「まるで父にして父でなき、ものだつた。眼のまはり・こめかみ・頬・口辺、げそつと隈どりげて、その眼。義眼もまだいい、魚族の眼もまだましだ。しかし父の眼だつた。いや誰かの眼だつた」。文さんの頭からさっと血が引いた。「火が消え、いやな気持が濃くなり、父のそばから離れたかつた。逃げたかつた」。文さんはガラス戸を開けて外へ出た。「外の空気は、部屋の中より蒸し暑く、蜘蛛の巣のやうな何かが顔へぺたぺたした。こはいつとどなりたかつた。やがて電気がついた。父はいつもの通りしづかにしてゐる。あけがた近いと知れてゐたが、異常な睡さだつた」。そしてこのあけがた、先生は文さんに「じゃ、おれはもう死んじゃうよ」といわれ、文さんは「父はかならず死ぬ」ときめた。
 こういう時の情景は、眼で見たこと、皮膚に感じたことを記述しただけでは、いい現わし得ない。感じながらも、とらえんとすれば痕かたのないものである。唯文さんの文章全体の中に、それが感ぜられるだけである。『周易参同契』の中に、「太陽流珠、常に人を去らんと欲す」という文字がある。露伴先生の解によれば、琉珠というのはこの場合は脳を指している。「人の霊作用が、常に外界内界に応酬して、その円妙精美のものを発揮し去り流動し去り消耗し去らずには居らぬところを、流珠常に人を去らんと欲すと云つたのである」。
「流珠常に人を去らんと欲す」を、言葉で説明することは出来ない。説明というからには、広い意味での論理の形式をとらなければならない。しかし自己の生命を少し内省してみれば、それは論理の形式で説明し得るものでないことは、誰にも感得されるであろう。十九世紀の末、自然科学の急激な発達に陶酔した人たちの中には、単純な機械論で、生命現象の全説明が近い将来においてなされるものと信じた人もかなりあった。モネラなる無核の単細胞生物を発見したと誤認したヘッケルは、『宇宙の謎』において、生命と物質との一元論を強調した。しかしそれは余りにも現在の科学を過信したものであった。もし将来核がなくて原形質だけの生物が発見され、一方「生きている」蛋白質が合成されるような日が来たと仮定しても、生命現象の神秘や自意識の本態が、そういう方向から解明されることはないであろう。デュ・ボア・レーモンがヘッケルに反対して掲げた『宇宙の七つの謎』の大多数は、依然として残るであろう。
 現代の優れた科学者たちは、ヘッケル流の考え方をしていない。近代原子物理学の父ボーアの相補性原理が、その一番はっきりした拠点である。相補性原理によれば、人間の認識には限界がある。例えば原子については、その位置と速度とを、同時に決定することは出来ない。それは実験的に不可能なのではなく、本質的に不可能なのである。電子は粒子の性質と波動の性質とを、ともに持っていることが、実験的に確められている。そのこと自身が、電子の位置と速度とを同時にきめることが出来ないことを示している。位置を詳しく見れば速度はぼやけ、速度を精密にきめれば位置がぼやける。電子については、位置と速度とは、認識の上で相補性を示しているのである。そしてボーアを初め、優れた理論物理学者たちは、現在の物質科学と生命現象とは、この相補性の関係にあるのであろうと考えている。
 生物学の進歩と有機化学の発達とが、進めば進むほど、細胞の生命や原形質の性質についての知識が深められる。その点には間違いがない。しかしそういう知識が深くなるほど、生命現象そのものの認識がぼやけてくることがあっても、少しも不思議ではない。生命は現代の科学的思考と相補的な関係にある頭の働き、即ち感得する術によってのみ、我々の認識の中に入ってくるものであっても、ちっとも差しつかえない。それは科学と抵触することにはならない。唯厄介なことには、この間の消息は、文字はもちろんのこと、言語によって説明するということが出来ない。説明をすれば、それは広い意味での科学の領域にはいってしまうからである。こういう考え方をすれば、生命現象は、説明すべきものではなく、感得すべきものであるということがいえよう。自己の生命について、少し内観したことのある人は、それが「円妙精美のものを発揮し去り流動し去り消耗し去らずにはおらぬところ」を感得することが出来るであろう。
(昭和二十五年十二月)





底本:「中谷宇吉郎集 第六巻」岩波書店
   2001(平成13)年3月5日第1刷発行
底本の親本:「―日本のこころ―」文藝春秋新社
   1951(昭和26)年8月15日初版発行
初出:「露伴全集 月報第13号〜第14号」岩波書店
   1951(昭和26)年1月20日、1953(昭和28)年3月31日
入力:kompass
校正:岡村和彦
2017年6月20日作成
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