教育と迷信

丘浅次郎




一 教育の目的


 教育学の書物には教育の目的について、種々高尚なことが書いてあるようであるが、実際においては教育の目的は列国競争場裡に立って、立派に独立して行けるだけの資格を備えた次代の国民を養成するにあることはたしかである。もしこの目的にかなわぬような教育を施す国があったならば、その国の前途はすこぶるあぶない。されば教育に従事する者はこの実際的の目的を常に意識して一刻もこれを忘れてはならぬ。
 さて列国競争場裡に立って立派に独立して行けるように次代の国民を養成するには、まず他の国々と自分の国とを比較してその優劣を考え、わがほうに劣った点があるならば力をつくして、一刻も早く他の国に追いつき、なおこれを追い越すようにつとめねばならぬ。またわがほうにまさった点を見いだしたならば、これはなお奨励していつまでもまさった位置を保つように心掛けねばならぬ。それにはまず他の国々に比してわが国が現在いかなる状態にあるかを熟知することが必要である。

二 わが国の現状


 わが国は一度は清国と戦って勝ち、次には世界の強国なるロシアと戦って勝ち、今は一等国の中にかぞえられるようになった。しかしながら軍事以外の方面を英、米、独、仏等のごとき他の一等国と比較して見ると、いかにひいきめをもって見てもかれらに匹敵するとは言われぬ。いな二等国、三等国と言われる国々にくらべてさえはるかにおよばぬ点もはなはだ多い。物産について見ても、わが国の主要な輸出品は生糸、茶のごときほとんど天産物そのままのもので、他の一等国のごとき精巧な機械、薬品、工芸品ではない。外国人に見せて自慢じまんのできるものは、富士の山か瀬戸内海の景色か、ないしは芸者の手踊りくらいで、他の一等国のごとくに、完備した博物館もなければ、智力で造り上げた巧妙な製作品もない。内国博覧会を開いてももっとも評判にのぼるものは八千円の造花とか、一万円の刺繍ししゅうとか、単に根気を要する指先仕事ばかりで、文明を代表すべき機械館にはわずかに玩具にひとしい製麺機械が人を呼んでいるに過ぎぬ。かように数え上げれば際限がないほどに、今日のわが国には他の一等国に比して、とうてい足もとにもおよばぬほどに劣っている点が多い。しかしてその根源は何にあるかといえば、いずれも理科の知識の普及せぬこと、その応用の発達せぬことである。法律がいかに完備しても、文芸がいかに隆盛におもむいても、理科の知識が今日のごときありさまにとどまり、理科の応用が今日のままで進まなかったならば、今後のわが国はいかにして他の一等国と競争してゆくことができるであろうか。いささかでも国の将来を考える者は決して平然と安心しておられる次第ではない。

三 理科の奨励は目下の急務


 昔は交通の開けなかったために、わが国のごときアジアの片隅にあって他の一等国と遠く離れているところでは、たとい多少他に劣った点があっても、ただちにそのため不利益をこうむるごときことはなかったが、今日のごとくに二週間あればヨーロッパからこられる時代となっては、いささかでも他に劣った点があれば、そのためたちまち窮境におちいるおそれがある。国と国との間には干戈かんかを交える真の戦争のほかに、つねに平和の戦争なるものがあって、これにければやはり国は衰える。真の戦争のための軍備がつねに必要であると同じく、平和の戦争に対してもつねに大いに準備しなければならぬが、いかなる国がこの戦に勝つ望みが多いかというと、むろん理科的知識の進んだ国である。今日ドイツ国が英国をも凌駕して、世界各方面の商業に成功しているのは、全く理科的研究の進んだ結果で、英国の新聞などを見ると、しきりにこのことを論じているが、わが国よりははるかにすぐれた英国でさえそのとおりであるから、わが国のごときは、特に非常の奮発をもって理科の教育を進めなければ、今後他の一等国との平和の戦争に加わることさえできぬようになる。銀座辺の玩具店には他の外国製の玩具はあまり見当たらぬがドイツ製のはたくさんに並べてあって、しかもそれが精巧に、堅固にできていて、価が安い。蒸気機関と発電器と電燈との雛型が一つの台に据え付けられてあるものが、わずかに十円くらいで買える。これを価が高くて、たちまち破損する内地製の学校用理科器械にくらべると実に雲泥の差で、真に情ない感じが起こるが、理科の知識が職工にまで普及して、単に外形をまねるのでなく、真に理屈を了解するようにならねば、かようなものはとうてい造れぬ。したがって海外へ輸出して、他国の製品と競争することなどはむろんできぬ。近来清国へ内地製の理科器械を輸出して、大いに好評を得なかったのは、一は職工に充分の知識がなかったゆえで、必ずしも商人の横着のみに原因したわけではなかろう。
 わが国がいまだ一等国と呼ばれなかった間は、他の一等国の研究の結果をそのままもろうてまねすることができた。かれらはあたかもおとなが小児を見るごとき心持で、わが国を見ていたから、何をも隠さずに教えてくれたが、わが国が露国に勝って自ら一等国と名乗るようになってからは、様子が全く一変して、かれらはわが国を競争の相手と見なし、大いにわが国を買いかぶって、もし工業上の秘密を漏らしたならば、即座にこれをまねして、たちまち自国を圧倒しうる力を有するもののごとくに心得てか、視察員が来てもいっさい門をとざして見せぬようになった。されば今後はすべてわが国で研究し、他国に劣らぬように、他国にまさる速力をもって理科の知識を進めねばならぬから、理科教育の奨励は実にわが国目下の急務である。

四 理科の精神


 理科教育を奨励するには、まずその根柢こんていなる理科的精神を養うことが必要である。理科的精神とは何事も実物について自身に研究し、もし疑わしいことがあったならば、どこまでも実物から解釈を求めるという心を指すのであって、この精神がなければ理科は決して発達するものでない。単に書物で読んだことをそのままに暗記し、教師から聞いたことをそのままに覚え込むごときは、理科的精神の正反対で、たとい事柄は理科的のことでも、かような学び方では真の理科とは名づけられぬ。小学校で理科を授けるにあたっても、もし単に事柄を教えるだけであって、この精神を養成することを忘れたならば、その教育上の効果はまことに少ない。世には近眼者流があって、理科は直ちに実用のできるものでなければ、教える価値がないように思うているがこれは大間違いで、普通教育における理科の真価はむしろ上述のごとき理科的精神を養成して、研究心を起こさしめる点に存するのである。また高等なる専門教育にても、基礎となるべき純正科学を飛び越して、ただちにその応用を授けんとするのは、あたかも土台と下座敷とを略して、二階だけを建築しようとするごとくで、とうてい不可能である。農学校、山林学校、水産学校をいくつ立てても、その教科目を見れば、やはり動物学や植物学が主要なる部分を占めていて、これらの基礎学科の発達せぬ間はその応用の方面も充分に発達する見込みはない。しかるにわが国では農学や水産学の大切なことを知っても、その基礎となるべき動物学や植物学は無用の学のごとくに見なしているが、これはあまりに先の見えぬことである。元来科学上の大発見は電気でもエッキス光線でも、すべて応用をかえりみぬ純粋研究の結果にできたもののみで、初めから応用を目的とした研究には、これに匹敵する大発見はかつてない。しかしいったん大発見のできた以上はただちにこれが種々の方面に応用せられるは言うまでもないから、純正科学の発達はすなわち応用科学の発達の先駆であって、純正科学の奨励は、やがてその応用方面の奨励となるのである。さすがにドイツ国はこの明らかな理を知って、純正応用ともに理科の発達に力をつくしている。今回新たに設けられたカイゼルウィルヘルム理科奨励会のごときも、目下応用の有無に関せず、ただ理科の研究を進めることを目的としているが、顧みてわが国のありさまをこれにくらべると、実に何というてよろしいやら心細い極みである。
 要するにわが国は他の一等国に比して、理科的知識とその応用とにおいてはるかに劣等の位置にあり、今後よほどの奮発をしなければとうていかれらと肩を並べて競争場裡に立つことはできぬ。しかし理科的知識を進めるには、まずその根柢たる理科的精神を養成して、盛んに研究心を起こさせることが必要である。かように考えると、普通教育における理科的訓練はわが国の将来に重大な関係を有するものであって、決して今日までのごとくに軽んぜられてよろしいものではない。教育の任にあたる者で、いやしくもわが国の将来を考えるものならば、大いにこの点に注意して、全力をつくす覚悟がなくてはならぬ。

五 理科と迷信とは両立せず


 理科を発達せしめるには理科的精神を養成しなければならぬが、理科的精神とは前に述べたとおり書物に書いてあることでも、他人から聞いたことでも、ただちにそのままに信ずるごときことをなさず、できる限り実物について照らし合わせ、もし疑うべきことがあれば、さらにこれを研究するという精神で、語をかえて言えば何事もまず疑い、次に研究によってその解釈を求めるという精神である。すなわち信ずべき理由を見いだせば信じ、疑うべき理由のある間は疑い、いずれともにさらに研究を進めるのが理科的精神で、この精神をもって自然界に対し、研究を怠らなければ理科は必ず進歩し、その応用の途も必ず開ける。この精神と正反対に位するものは迷信である。迷信とはその時代相当の知識をもって考えて、とうてい信ずべき理由のないことをみだりに信ずるのを名づける。理科は疑いによって始まり、研究によって進歩するものであるから、話して聞かされたことを頭から信じてかかる迷信とは、性質上とうてい両立することはできぬ。理科に適する脳髄は迷信には適せず、迷信に適する脳髄は理科に適せず、同一の脳髄をもって理科と迷信とを兼ねつとめることはできぬから、理科を奨励することは、すなわち迷信を退けることにあたる。もっとも人間の知識は次第に進歩するものゆえ、今日真理と見なされることが、将来には迷信と名づけられる時がくるやもしれぬ。歴史を見れば、多くの「真理」なるものは初め異端の説として現われ、暫時もっぱら行なわれたるのち、ついには迷信として葬られるのが定例のごとくであるから、今日の真理もあるいは一時的の真理かもしれぬが、これはやむをえない。われらは時代相当の知識を標準として、迷信とみなすべきものを迷信として論ずるよりほかに途はないのである。さて今日わが国の状態を見ると、迷信とみなすべきものの行なわれていることはきわめて多い。これがすなわちわが国に理科的精神の普及せぬ証拠で、これを見ても理科教育をいっそう盛んにせねばならぬことが知れる。数日前のある新聞に、ある地方の寺で和尚と小僧とが喧嘩をして、小僧は鬱憤うっぷんのあまり刀をもって寺の本尊なる木製の仏像を切ったところが、仏像の眼に涙が出たとの噂が広まって、そのため日々数千人の参詣者があって、寺は大繁昌であるとの記事があったが、かようなことを信ずるに適した脳髄を有する人がわが国にはまだなかなか多い。先年鶴見近在のお穴様の繁昌したときには、参詣人を相手にする永久的建築の店家みせやが五百軒もできて、線香の煙りがはるかにへだたったところからもよく見えた。電車の中には占いの広告が並んであり、毎日の新聞紙上には九星運命の記事が掲げてある。どこの国でも全く迷信のないところはないが、二十世紀の一等国としては、わが国はあまりにはなはだしいように思う。かような頭を持った人間が大多数を占めているようでは、年々非常な速力で理科知識応用の進みつつある他の一等国にまけぬように競争してゆくことが果たしてできるであろうか。

六 昔の迷信政治


 今日の立憲政治国には決してないことであるが、昔はずいぶん迷信によって民を治めようとしたところがある。主権者を神の代表者なりと信ぜしめ、主権者の意志はすなわち神の意志であるから絶対に服従すべきものであると教え、これにそむく者は神の代表者なる主権者によって厳罰に処せられるという仕組みにして民を治めようとしたが、これは治める側から見ればきわめて都合のよい仕組みで、もし完全に行なわれさえすれば、何の困難もなく長く治めてゆくことができる。また治められる側から見ても主権者があまり無法なことをせず、民を愛撫してくれさえすれば喜んで長く治められ、泰平を謳歌して子々孫々無事を楽しむことができるであろう。それゆえ、迷信によって民を治めるということは、その時だけのことを考えると、しいて非難すべきものではなく、暫時なりとも、それによって国が治まり、民が安楽に暮らせるならば、かえって賞讃すべき価があるかもしれぬが、世が進み隣国との交通も開け、人民の思想が広くなってくると、いつまでも昔のままに迷信を保たしておくことが困難になり、治める側に立つ者は、いきおいあるいは坊主を雇い入れたり、あるいは教員に命令を下したりして、迷信の保存に力をつくさなければならぬように立ちいたる。かくしてわざわざ力をつくして迷信の保存をつとめるようになれば、自然の結果として、何事に対しても疑いを起こすごとき傾向を防ぎ、人民の研究心をおさえることになるから、理科的知識の発達は是非ともそのために障害せられ、文明の進歩はきわめて遅くなるはやむをえない。世の中に国が一つよりない場合には単に国が治まり、民が幸福でありさえすればよいのであるから、もし迷信によってこの目的が達せられるならば、それでまことに結構であるが、地球上にはたくさんの国があって、これがおのおの力をきわめて互いにはげしい競争をしている以上は、単に国内の平穏無事のみを目的として安心してはおられぬ。必ず他にまけぬだけに進歩しなければならぬが、この方面から考えると、迷信をもって民を治めるということには大いなる害がある。

七 迷信利用の害


 前にも述べたとおり、昔の世の中ではずいぶん迷信によって民を治められる者も、しばらく泰平をうたうことができたが、世が進んで人の知識も自然に発達せんとする場合に、なお旧来の迷信を利用して民を治めんとはかることは、その国の将来に対してははなはだ不利益なことである。治める側の者はただ一途に国を思い、民を思うて旧来の迷信の保存につとめるのであるとしても、これは目前のことのみに重きをおいて、将来のことを度外視した誤った考えである。時勢の進歩を顧みず旧来の迷信をしいて保存しようとすれば、いきおい理科的精神をおさえることになり、理科の発達を妨げ、理科的知識の応用を遅からしめて、文明の進歩を阻害することになるが、列国競争場裡にあって独立を保ってゆくには、このことはよほど考えねばならぬ。今日最も文明の進んだ英、米、独等のごとき強国は従来迷信を利用することの最も少なかった国々で、今日文明におくれて衰弱の状におもむきつつあるイスパニヤのごときはかつて最も多く迷信を利用したことのある国ではなかろうかと考える。迷信をもって民を治めれば、治める者は骨が折れぬかもしれぬが、国の進歩はそのために遅れる。これに反して民の研究心を励ませば、治める者は骨が折れるが国の進歩はいちじるしい。要するに迷信によって民を治めんとするのは、現在のために将来を犠牲に供することにあたるから、かりに今日かような政策を取るとしたならば、その国の前途は実に危ういものである。

八 教育上の注意


 新聞紙の報ずるところによると、近来わが国では教育の一手段として、神社仏閣等に参詣することが行なわれ始めたようで、何村の小学校では校長が生徒全部を率いて鎮守の社に参拝して御供物をいただいて帰ったとか、何学校の生徒団体が何寺に詣でたとかいう記事を見ることがしばしばあるが、これについては教育者のよほど注意しなければならぬ点があると思う。それは何かといえば、すなわち迷信を避けることである。神社仏閣に参詣することはわが国従来の風俗であって、われらのごとき者でさえ、神社仏閣のあるところへ行けば必ず参拝することに定めているが、神社や仏閣の由来、縁起を書いたものを見ると、いずれも昔の未開の時代に誰かが造ったものと見えて、今の知識をもっては明らかに迷信と見なさざるをえぬようなことで充たされている。学校の生徒などに特に神仏を敬わしめようと導く場合には、往々かような迷信を迷信として退けることを躊躇するごときことがないであろうか。もしいささかでも迷信を退けることを躊躇し、生徒らをしていささかでも迷信におちいらしめるおそれがあったならば、その国家の将来におよぼす影響は決して好良なりとは言われぬ。現在の宗教から迷信に属する部分を引き去って、残余の部分を尊崇するように導くことができるならばまことに結構であるが、神仏を敬う心を速かに養おうと急ぐのあまり、知らずしらず迷信を伝え広げるようなことがあったならば、利よりも害のほうがはるかに多い。これは実際教育に従事している者の深く考えなければならぬことである。
 元来神仏を尊崇することを奨励したならば、世の風俗が改良せられるであろうか否かがすでに疑問である。今日教育ある一部の人々の間に宗教が全く勢力を失うにいたったのは、現在の宗教がもはやかかる人々に適せぬゆえであって、とうていこれを回復することはむずかしい。また昔から「椿の木と後生願いに真直まっすぐはない」と言うて宗教に熱中する人に模範的人格を備えたものはかえって少ない。成田山に詣でる連中や太鼓をたたきお題目を唱えて練り歩く人たちが盛んにふえたら、世の中の風俗が立派になろうとはいかにも考えられぬ。知事が衣冠束帯して赤地金襴の覆いかけたる唐櫃を奉侍して神社に詣でるとか、烏帽子えぼし直垂ひたたれ伶人れいじん綾錦あやにしき水干すいかんに下げ髪の童子、紫衣しいの法主が練り出し、万歳楽まんざいらく延喜えんぎ楽を奏するとかいうことは、昔の風俗を保存するとしてはよろしいかもしれぬが、これによって世道の敗頽を防ごうと企てるのはもはや今日の時世には適せぬことである。
「苦しい時の神頼み」という諺もあるとおり、何事でも種々の方法をつくしても効果の現われぬ場合には神仏に頼るようになりやすい。たとえば病人でもかの医者にも診てもらい、この病院へも入れたりしてもいちじるしく効のないときは、ついに加持かじ祈祷きとうを頼むようになるが教育者が今ごろ急に思い立ったかのごとくに、神社仏閣をあがめるようになったのは、あるいは世道人心の敗頽に対して種々の救治策を試みて、いずれも効を奏せぬところからついに神仏でも信心したら少しはご利益があろうかと考えるにいたったかもしれぬ。もしさようなれば事情は大いに察すべきであるが、いまだ講究の余地があろうと思う。とにかくわが国の現状を顧みると、大いに理科的精神を鼓吹して各方面の研究心を養成し、文明に進む基礎を造ることが目下の急務なることは明らかであるから、普通教育においては特にこのことに意を注ぎ、いささかでもこれを妨げるおそれのあることは絶対に避けなければならぬ。
(明治四十四年五月)





底本:「進化と人生(上)」講談社学術文庫、講談社
   1976(昭和51)年11月10日第1刷発行
初出:「日比谷図書館にて講演」
   1911(明治44)年5月
入力:矢野重藤
校正:y-star
2017年6月20日作成
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