生物学より見たる教育

丘浅次郎




 教育の書物を開いて見ると「教育トハ一定ノ目的ト方法トヲ具ヘテ教育者ガ被教育者ニ加フル所ノ働作ナリ」などとむずかしい定義を下して、これは人類のみに限るものであると書いてあるが、教育学者の言うところの教育はあるいは人類に限られてあるか知らぬが、教え育てるということは動物界において決して珍しいことではない。元来教育という字の原語の Education, Erziehung などという字はいずれも引き出すという意味で、被教育者の生来持っている種々の能力を引き延ばし発達せしめること、すなわち知能を啓発することをいうのであろうが、教育という字をこの意味に取れば教育を行なう動物はいくらもある。まず実際教育を行なう動物の例を二つ三つ掲げて、それから教育の生物学上の意義を述べよう。
 小鳥類の子供が親あるいはその他の成長した同胞から歌うことを習うはたれも知っていることで、多少種類の違った鳥でも卵の時からあるいは幼い雛の時からある他の鳥に育てさせると、成長する間に養い親の歌を覚えて、自分の種属に固有な歌とは全く違った歌を巧みに歌いうるようになる。小鳥を熱心に飼う人は自分の鳥の声をよくするためには、よい声を有する鳥のそばへ連れて行ってこれを習わせ、またはこれと競争させてますます声を発達させようとはかるが、これを見ても鳥の声などは教えようによっていかようにも進歩させることのできるものであることがわかる。
 鳥類にはその子に歌を教えるものがあるばかりではない、あるいは餌をついばむことを教えるものがあり、あるいは飛ぶことを教えるものがあり、あるいはおよぐことを教えるものがある。これらのことはくわしく鳥類の習性を観察した人が記載しておいたものを見ると明瞭にわかるが、自分でも少し注意しておれば実物からいくらも見ることができる。たとえば鶏がたくさんの雛を連れて庭に餌を拾い歩いているところを見ると、親鳥は餌を見いだすたびごとに雛を呼び集め、自ら餌をついばんでは雛の集まっている中へ落して、その地面に当たって跳ね散るところを雛に拾わせていることがあるが、これは雛に餌を速かについばむ術を練習させているのであろう。地上に落ちて動く小さな餌を巧みに速かについばみ取るには眼の働きも充分でなければならず、また頸やくちばしを動かす種々の筋肉がみな調和して働かなければならぬ。しかして種々の筋肉の調和した働きというものは、練習の結果として初めて完全にできるものであることは、ベースボール、ローンテニスのごとき遊戯でも、書画、裁縫のごとき芸術でもみな大いに練習を要するということを見ても知れる。
 ある博物家が海鳥が雛におよぐことを教えるところを精密に観察して書いておいたものを読んだことがあるが、たしかに一定の目的と方法とがそなわってあるように思った。まず親鳥が一匹の魚を捕え、半殺しにして雛の頭より一二尺隔たったところへ放し、これを捕えさせ、幾度も同じことをやらせて一二尺のところならば百発百中必ず餌を捕えることができるというまでに雛の技術が熟練すると、次にはなお一尺も隔たったやや遠いところへ魚をおいてこれを捕えさせる。かように次第次第に導いて、ついには全く手放しても独立の生活ができるであろうと見込みのつくまでに仕上げて、しかる後に親鳥は実際雛を手放すのである。先年上野の動物園で鶴が雛をかえしたときも雌雄の親鳥がていねいにこれを養い育て、初めはどじょうを小さく切って食わせ、次には鰌を水中におよがせてはこれを捕える練習をなさしめ、雛の翼が少しく発達してからは、親鳥が先に立って一度左へ向かって飛べば、次には右に向かって飛ぶというような順序に、規則に正しく、飛翔ひしょうの方法を教えているのを見た。
 次に獣類を取って見ても同じことで、子を教える種類は決して少なくない。猫を飼った人はよく知っているであろうが、親猫が鼠を捕えると、必ずこれに傷をつけて全く逃げ去ることのできぬだけに弱らせておき、生きたるままで、これを子猫に与えて鼠を捕えかみ殺すことの練習をさせる。インドで虎狩りをした人らの書いたものを見ると同じようなことが書いてある。すなわち親虎を打ちとってからその巣を調べてみたら、山羊や野牛の屍体に頸などのごとき急所には大きな歯の痕があるが、他のところには小さな子虎の歯の痕がたくさんついていたということであるが、これから推して考えると、猛獣類では子供に餌となる獣類を捕えたり、かみ殺したりすることを練習させることはつねであるように思われる。
 以上掲げたる二三の例でもわかるとおり、動物にも一種の教育を行なっている種類があることは確かであるが、動物界全体から見ると、かような教育を行なう動物はむしろはなはだ少数である。しからばいかなる性質を帯びた動物が教育を行なうかと考えてみるに、かような動物はみな最も高等な動物で、その上に子を産む数の比較的はなはだ少ない種類に限られてあるように思われる。なお詳しくこのことを論ずるにはまず動物界を次のごとくに三部に分かち、これを比較して見なければならぬ。
一、子を生んだままで少しも世話をせぬ動物
二、子を生んだ後、これを保護し養う動物
三、子を生んだ後、これを保護し養いかつ教育する動物
 右のごとくに三部に分けても、とうていその間に判然した境はつけられぬが、総体から見ると確かにこの三通りのタイプがあるように思う。
 第一の種類すなわち子を生んだままで少しも世話をせぬ動物はいかなるものがあるかというに、かえるの類、魚類、ちょうかいこのごとき昆虫をはじめほぼすべての下等動物がこれに属する。これらの動物は子を生んだ後は全く打ち捨てておいて少しも顧みないが、動物の一生涯の中で最も弱く最も危うい時期はすなわち幼時であるにかかわらず、少しも親の保護を受けぬのであるから、これらの動物が幼い時に死ぬ数は実に非常なもので、敵に食われるものもあり、同胞に食われるものもあり、飢えて死ぬもの、圧されて死ぬもの、乾いて死ぬもの、溺れて死ぬものなどがあって、実際成長するまで生存しうるものはきわめて少ない。それゆえこれらの動物はよほどたくさんの子を生まなければ、とうてい種属の断絶することをまぬがれぬはずであるが、実際を調べてみると全くそのとおりで、これらの動物ほど多くの子を生む動物は他にはない。春のころ田や池の近傍を散歩すると水の中に蛙の卵がいっぱいにあるのを見るが、これだけの卵がみなかえって蛙になったら実におる場所があるまいと思われる。また魚類がみなはなはだ多数の卵を生むことはたれも知っていることで、たいひらめ[#ルビの「ひらめ」はママ]煮肴にざかなを食うときに卵粒の多いのを見て今さらのごとくに驚くこともしばしばあるが、正月の儀式に用いるカズノコのごときも実は「ニシン」という魚の卵塊で、卵の粒の数が非常に多いから、それで子供の大勢生まれるように、一家のますます繁栄するようにとの意を形に現わして祝うのであろう。また昆虫の卵の多いことは蚕の種紙を見ても知れるが、野生の昆虫類もほぼこれと同じくらいの卵をおのおの木の葉の裏とか、幹の中とか、あるいは地面の下などのあまり目立たぬところに生みつけているのである。これらの動物はみなかようにたくさんの卵を生むが、幼時にほとんどみな死んで、生存するものはわずかに親と同数くらいで、ようやくその種属を維持し継続してゆくに足りるだけに過ぎない。
 次に第二の部類、すなわち子を生んだのちにこれを保護する動物はいかなるものがあるかというに、やはり前と同じような下等動物の中に混じて種々ある。たとえば蛙の中には背に袋があって、その内へ卵を入れて生長し終わるまで子を保護するもの、または自分の咽喉の下にある嚢の中に卵を呑み込み、その発生する間、これを保護するものがある。昆虫の中でも蜂や蟻の類は巧みな巣を造ってていねいに幼児を保護しかつ養う。しかしてこれらの動物では幼児は親あるいは同胞に保護せられ、危険に遇うことも少なく、したがって死ぬことも少ないから、成長し終わるまで生存するものが比較的多く、そのため初めから比較的少数の子が生まれても種属の継続して行く見込みは充分に立つはずであるが、実際を調べて見ると全くそのとおりで、子を保護せぬ魚類は一時に数万、数十万、最も多きは千万に近い卵を生むに反し、トゲウオやタツノオトシゴのごとき卵を保護し、幼児を養う特殊の魚類は、わずかに四五十、あるいはなおそれ以下の少数の卵を生むに過ぎぬ。また卵を生み放しにする蛙は一度に幾千もの卵を生むが、卵を保護し養う蛙の類は一度にわずかに二十くらいより卵を生まぬ。
 終りに第三の部類、すなわち子を生んだ後にこれを保護し養いかつ教える動物にはいかなるものがあるかというに、これには人間をはじめ、鳥類、獣類のごとき最も高等な動物が含まれている。これらの動物では身体の構造も複雑で、筋肉も脳髄も、非常に発達しているから、たとい幼児が親に保護せられ養われて、大きさだけは一匹なみに成長しても、筋肉や脳髄の働きが鈍くては、とうてい生存競争に打ち勝って、子孫を残し、種属を維持してゆきうるという充分の見込みが立たぬ。それゆえこれらの動物はただ子を生んで保護し養うのみならず、なおこれを教え導いて筋肉脳力を練習せしめ、しかるのちに初めてこれを手放すのである。この仲間に属する動物はいずれも知力のいちじるしく発達したものゆえ、その習性を詳しく調べてみると、実におもしろい事実がたくさんにあり、子を教え育てる方法のごときもよほど人間に類する点の多いものがある。初めにあげたわずかに二三の例によってもその一斑をうかがうことができよう。従来の教育学者は動物の習性などは少しも調べず、ただ独断的に教育は人間に限るなどと間違うたことを言い放っていたのであるが、いささかでも高等動物の習性をうかごうた者は決してかかる断言を承認することはできぬ。
 以上述べたところから考えてみるとほぼ次のごとくに言っても誤りではなかろう。第一、きわめて多数の子を生む動物は全く生み放しで少しも子供の世話をせぬ。第二、比較的少数の子を生む動物は必ず生んだ子を多少保護し、また養う。第三、その中でも筋肉、脳髄の発達したる高等の動物はただその子を保護し養うにとどまらずなおこれを教え育てる。もとより詳細に一個一個の場合を調べてみると、これに合わぬ例外もないではないが、一般について言えばまずこのとおりであろう。
 さてなにゆえに右のような現象が生じたかというに、およそ動物にはあしたに生まれゆうべに死ぬ蜉蝣かげろうのごとき短命なものもあり、象や鯨のように二百年も三百年も生きるものもあるが、いずれにしても寿命に制限のないものはない。それゆえ、いかに長命の動物でも寿命が尽きれば必ず死んでしまわなければならぬ。しかして個体がみな死んでしまってはむろん種属が断絶するから、種属を維持するためには、各個体は寿命の尽きる前に生殖の働きをなし、自分の後へ自分と同じような個体を残しておくことが必要である。かように考えてみると生殖の目的は全く種属を維持することにあるが、この目的は決して単に子を生んだからとて必ずしも直ちに達することのできるものとは限らぬ。無数の子を生む動物は途中で死んでしまう子がいくらたくさんあっても、なお種属を維持するに足りるだけの子が生存し得ることはプロバビリテーの勘定で初めからすでに見込みがついているから、生んだのちにこれを保護する必要はないが、やや少数の子を生む動物では単に子を生んだばかりでは、いまだ決して種属維持の見込みがついたとはいえぬ、必ずこれを保護し養い、これだけの数の子供が、これだけの程度までに発達したからもはや手放しても充分に種属の維持の見込みはあるというまでにいたり、始めて生殖の目的を達したといえるのである。西洋の解剖学書に婦人の乳房を生殖器の中へ編入してあるのはこの点からいえば相当の理由がある。さらに高等の動物では単に保護し養っただけではいまだ充分でない、筋肉脳髄の力を練習せしめ、もはやこれならば競争場裡へ出しても大丈夫であろうと思うまでに仕上げなければ生殖の目的を達したとはいえぬ。されば以上三種にわけて述べたことはみな種属の維持という生殖の目的を達するための手段であって、詰まるところ、同一の目的を達するための違った方法に過ぎぬ。また動物の寿命もほぼこれに伴ったもので、たいてい血統維持の見込みのついたころに死んでしまう。無数の卵を生む昆虫類には蚕のごとくに卵を生み終わりさえすれば死んでしまうものがあり、また蜂の雄のごときは交尾の終わらぬうちに気絶して雌の体から離れずに死んでしまう。これに反し鳥類獣類の多くは子を生んだのちも長く生存して子を保護し養い、充分に末の見込みのついたころにたいてい寿命が尽きるようである。人類もそのとおりで、人生五十ないし七十と経験上で定めた寿命は、二十五歳ないし四十歳くらいの時に生んだ子が平均二十歳二十五歳くらいになり、充分生存競争に堪えうるほどに成長したころまでである。これらの事実から考えてみると、生殖の目的を達したのちの親はもはやその種属の繁栄に対しては無用のものゆえ、たいていそのころを境として自然に寿命というものが定まったのであろう。
 かように論じてみると、教育ということは完全に生殖の目的を達するために生殖の作用に続けて行なうところのものゆえ、生殖作用の追加と名づけてもよかろう。しかして単独に生活する動物では親が同じく教育をもつかさどるが、社会をなして生活する動物では社会中の個体の間に分業が行なわれ、生殖するものと教育を司どるものとの別が生ずる。蟻や蜂はその例であるが、人類もやはりその仲間で、親はもちろん自分の子を養育するが、そのほかに特別に教育だけを司どる職業の者ができている。また生殖の目的は種属の維持であると言ったが、社会を造っている動物ではこの種属と名づけた団体に幾つもの階級があるから、教育の目的もこれを行なう団体の階級の異なるにしたがい多少の相違がないことはない。たとえば一家でその子弟を教育するのは、現在の一家のおもなる人々が死んでも、後に一家を継続する者を残すためで、一藩でその子弟を教育するのは、現在の藩士が死んでも、後にこれを継続するに足りるだけの立派な者を残すためである。一国がその子弟を教育するのも、それと同様で、現在の国民が死んでも、その後へ世界列国の競争場裡に立ち立派に一国を維持してゆくに足るだけの者を残すためである。かくのごとき次第であるゆえ、生物学上から見れば国家教育の目的が自己の民族の維持発展にあることはきわめて明瞭で、これに達する方法はなお充分に研究を要するが、目的自身についてはいささかも疑いをはさむ余地はない。
 教育は生殖作用の足らざるところを補い、生殖の目的を充分に達するためのものであるとすれば、教育の目的はむろん生殖の目的と一致しなければならぬ。すなわち生物学上より見れば教育の目的は生殖の目的と同じく種属の維持にあることは明らかである。若い人らは恋は神聖なりと言い、教育家は教育は神聖なりと言うが、以上のごとくに考えてみると、この二つのいわゆる神聖なるものは共に種属維持の働きという一つの継続した働きの部分であって、恋はその始め、教育はその終りに過ぎぬ。教育の目的については「完全ナル人ヲ造ル」にあるとか、またその他にも種々に説いてあるが、学説としてはいかなる論が出てもよろしいが、実行にあたっては必ず自己の民族の維持繁栄ということを教育終局の目的とし、各種の教育にはおのおのこの終局の目的と方向の一致する近き目的を定めおくようにしなければ効がない。教育が机上の空論にとどまるものならば、いかなる学説が唱えられてあっても差支えはないが、教育は一日も休むことのできぬ実際の事業で、しかも自己の民族の否泰消長ひたいしょうちょうにかかわる重大な事業であるゆえ、その目的については常に明瞭な考えを有し、空理空論に迷わされず、その目的にかなうようにと力をつくすことがもっとも肝要である。現在の教育でも知らずしらず生物学上の規則にしたがって、実際はここに説いたとおりになってはいるが、学説として教育の定義、目的等を論じたものを見ると一つも生物学上の考えのはいったものはなく、実際の人間には高尚過ぎてあてはまらぬような理論ばかりが、やかましく流行しているようであるから、あるいは参考にもなるかと思って以上のとおりつねづね考えていたことの一部をきわめて短く書いてみたのである。もし教育学者が過去および現在の事実を集め、これを材料として帰納的に調べてみたならば、教育の目的は昔も今も、日本でも外国でも、また当事者がこの事を知っていても知らずにいても、実際においては必ずここに述べたところと一致していることを見いだすであろう。
(明治三十五年三月)





底本:「進化と人生(上)」講談社学術文庫、講談社
   1976(昭和51)年11月10日第1刷発行
初出:「教育学術界」
   1902(明治35)年4月
入力:矢野重藤
校正:y-star
2017年8月25日作成
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