わが国は今より十数年前に一度
およそ一民族が隆盛におもむくには必要な条件が数多くある。すなわち人民の身体が強壮でなければならず、勇気もなければならぬ、意志の強固なことも必要であれば、道徳の正しいことも必要であり、特に協力一致の精神に富んで国を挙げて敵に当たるの覚悟がなければならぬ。しかしながら今日実際においていかなる国が最も勢を得ているかというと、たしかに文明的新知識の進んだ国である。すべて他の方面が対等である場合には、文明的新知識の一歩でも先へ進んだ国のほうが、今後も競争に勝つ見込みが多いに定まっているゆえ、いずれの民族でもその将来の発展をはかるには、よほどこの点に重きをおかねばならぬ。今この方面についてわが国と他の一等国とを比較してみると、はなはだ残念ながら現今のわが国は欧米の旧一等国よりも非常に劣っていてほとんど足もとにも達しない。このことは自身で外国へ行って、わが国のありさまとかの国のありさまとを実際に比較してみれば誰にも明らかに知れるはもちろんであるが、わが国とかの国との新聞や雑誌をくらべてみただけでも、その間にいちじるしい懸隔のあることがただちに知れる。元来新聞や雑誌は社会のできごとを写した小さな鏡のごときもので、広告欄だけを見てもその社会の文明の程度が知れるが、わが国の新聞紙と他の一等国の新聞紙とを取って広告欄をくらべてみると、その間の相違はずいぶんはなはだしい。かの国の新聞雑誌には自動車、自動船、ガス電気の発動機、瓶入りの液体空気、液体水素とか、石英をとかしたガラスの細工とかラジウムの賃貸とか、飛行機試験場の回数切符売り出しとかいう類が紙面の大部を占めて、どこを見ても文明的新知識があふれているように感ずる。これにくらべるとわが国の新聞雑誌に出る広告は雲泥の相違で、蒸気機関のごとき古めかしい物の広告さえほとんど出ていない。もっとも広く場所を取っているのはいつも売薬か化粧品くらいで、その他には月の始めに文芸雑誌が並んで出ているに過ぎぬ。また輸出する産物をくらべてみてもこの相違が明らかに知れる。すなわちわが国の産物として有名なものはまず生糸と茶とであるが、いずれも天然物そのままのもので、人間の知力が加わっていることははなはだ少ない。しかして他の一等国からわが国へ輸入するのはいかなる物であるかというと、多くは機械類や製造品であるが、機械類は人が知力によって組み立て、こしらえ上げたところに価値があるので、つぶして地金にすれば何の価もない。言を換えれば、わが国は天然物をそのままの価で売って、外国からは天産物に知力の加わったものを非常に高く買い入れているのである。国の誇りとして他国人に見せうるものもこれと同様で、ロンドン、パリ、ベルリン等へ着した旅客にはまず豊富なる博物館、完備した研究所などを見せて感服せしめることができるが、わが国では外国人に自慢して見せることのできるものは富士山のごとき天然物のほかにはきわめて少ない。漫遊にきた人々にただ瀬戸内海の景色や、富士の山を見せ、ゲイシャとかムスメとかいう言葉を覚えて帰らしめるだけでは、一等国としてはまことに情ない次第である。博覧会や共進会の開かれる際には、わが国の文明が他の一等国に比してはるかに劣っていることが特にいちじるしく暴露する。すなわち外国の博覧会では、文明的新知識を代表する器械館とか、発明館とかいうものはよほど主要な部分であって、その内へはいって見ると、実に人間の知力はかくまで進歩するものかと驚歎せざるをえぬが、わが国の博覧会や共進会における機械館、発明館はこれにくらべるとあまり憐れでほとんど涙がこぼれる。少し良いと思う物はすべて西洋でできたものをいささか直しただけで、根本から日本で工夫したものは一つも見えぬ。先年東京の博覧会で一等賞を獲た顕微鏡付属器などは、外国品をそのままに模造したものであった。しかしていかなる物が開会中最も世間の評判にのぼるかといえば、いつも刺繍とか造花とか衣裳を着せた生き人形などの類であるが、これらはただ根気よく手間をかけてこしらえたというまでで、決して人間の知力をしぼり工夫をこらして造り上げた物ではない、すなわち文明的新知識を代表した物とは言われぬ。
日本人は指先の細工がはなはだ巧みであるとは、外国からきた人のみな言うことであるが、これはおそらく事実であろう。しかしながらこれを聞いて今後は一つ指先で物をこしらえることを奨励して、その点で他の一等国に勝とうなどと考える人があったならば、これは井の中の蛙のごとくに他を知らぬからの誤りである。西洋人の書いた旅行記を読んでみると、半開国や野蛮国の紀行の中には、ほとんど必ずその地の土人の指先の器用なことがほめて書いてある。先日シャムへ行った人の紀行を読んだら、その中にシャム人の指先の器用なことを述べて、その細かい彫刻のごときはヨーロッパ人のとうていおよばぬところであると記してあった。またカムチャツカに住んでいるカムチャダール人のことを書いた人類学上の報告の中にも、南京玉をつなぎ合わせて美しい刺繍のごとき物をこしらえるその指先の巧みなことは実に驚くべきほどであると述べてあった。貝塚から出る
わが国が今日一等国と称するにいたったのは、ただロシアに勝ちえたというだけで、戦争以外の方面を見ると以上述べたとおり、はなはだ残念ながら三等国や四等国にも劣っているかと思うことがすこぶる多い。小学校の各学年で一等の生徒というのは読み方、書き方、綴り方、算術、図画、手工、体操といずれもそろうてよくできる生徒を指すので、決して体操一科のみが上手な生徒をいうのではない。これと同じく真の一等国なるものは戦争に強いのみならず、殖産工業も、交通機関も、教育学問も、すべてそろうて他にまさった国でなければならぬ。単に一回の戦争に勝ちえたという理由で、他の欠点をすべて忘れて、実際一等国の仲間に加わりえたと思うのは、あたかも小学校の運動会で競争に勝ちえた生徒が、真に一番になったつもりで、読み方、綴り方など大切な科目の点の悪いのを忘れているがごとく全く理に合わぬことで、次回の試験にはいかなる成績をとるかすこぶる心もとない。わが国は今後の努力によって真の一等国となることもできようが、今日のところではまだなかなかその域に達したものとは言われぬ。
敵と砲火を相交えるという実際の戦争はさまでしばしばあるものではない。しかしながら現今の世の中では、軍備を充分にしておくよりほかには戦争を避ける良法はないゆえ、いつでも戦争のできるだけの準備はつねに必要で、一刻もこれを怠ることはできぬ。実際の戦争にはその時だけの臨時費ではあるが、実に莫大な費用がかかる。また戦争をせぬための軍備の費用は年々の経常費であって、これを累算するとまことに驚くべき巨額に達するから、戦争なるものはしてもしなくても、きわめて入費のかかるものである。今日いやしくも国をなしている以上は、是非ともこの莫大な金額を不生産的に費やさねばならぬのであるから、いずれの国民もつねにこれを取り返す方面に力をつくさねばならず、そのためにはいわゆる平和の戦争に加わらねばならぬ。
以上述べたとおり、わが国は現在他の一等国に比して、文明的新知識の応用においてはるかに劣っているのみならず、その進歩の速力においてもいちじるしく劣っているのであるから、わが民族の将来の発展をはかるには、ぜひともその基礎となるべき理科方面の学科を大いに奨励して、農業、工業等に広くこれを応用するようにつとめることが必要である。今日とてもこのことが全く行なわれていないわけではないが、これを他の方面にくらべると、はなはだ振わぬように見受ける。わが国過去の歴史のしからしむるところであるかはしらぬが、国民こぞって文学のほうに傾き、文学の雑誌ならばいくつあっても足らぬかのごとくに続々出版せられ、小学校の生徒までが好んで作文を投書している。これに比すると理科に対する国民の趣味はきわめて微々たるものである。われらとても決して民族の発展には理科だけが必要で、他は捨ておいてよろしいというのではない。徳育にも知育にももとより力をつくさねばならず、美術、文芸を進めて趣味を高尚にすることももちろん必要ではあるが、わが国今日のありさまを見ると、青年らの文芸に対する趣味と理科に対する趣味とが、あまりに権衡を失しているように感ずるゆえ、理科のみを取って述べたのである。文学に関する雑誌は少年文壇とか、文章世界とかいうようなものが無数に書店から出版せられ、詩歌、小品文などを募集し名前を掲げて載せるゆえ、少年、青年はこれに釣られて夢中になる者もあって、ほとんど望ましい以上にその方面に傾く者が多くできるようであるが、これは一面普通教育において理科の精神が徹底せぬための反響とも思われる。民族間の競争は日夜絶えず行なわれていることで、この競争に負けぬためには物質的文明の進歩が必要条件であることを悟らしめ、かつすべて実地に徴する方法によって理科を授けて、何事も自身で直接に研究することの興味を起こさしめたならば、たとい一方文学のおもしろさを知っても、直ちにこれに走ってこれのみに偏するごとき弊を避けることもできよう。もとより理科の奨励が必要であるというても、決して理学者ばかりをたくさんこしらえるという意味ではない。純粋の学科を研究する者はどこの国でも少数よりなく、またこれに適する人間もたくさんはないから専門の学者は少数でよろしいが、理科に対する趣味を持って、自身には専門に理科を修めなくとも、常に理科の進歩発達をはかることに力を添えるというような人間が、今日よりははるかに多くならぬと、わが民族の将来の運命は決して長く隆盛でありえぬであろうと考える。
(明治四十三年二月)