民族の発展と理科

丘浅次郎




 わが国は今より十数年前に一度支那シナと戦うて勝ち、また数年前には世界の強国なるロシアと戦うてこれに勝ち、その結果として国の位置が非常に進んで、一等国と称せられるにいたった、これは大いに喜ぶべきことである。しかしながら何事でも名誉が上がれば、それとともに責任も重くなるもので、一等国といわれる位置を保ってますます発展してゆくには、今後はよほどの骨折りを要する。それについてはまず従来の一等国とわが国とをくらべてみて、各方面における優劣を調べ、もしわがほうにまさった点があったならば、これはよろしく保護していつまでも他に優った位置を失わぬようにし、また少しでも他に劣ったところがあるならばこれは力をつくして一刻もはやく、他に追いつき、さらに他を追いこすようにと心掛けねばならぬ。
 およそ一民族が隆盛におもむくには必要な条件が数多くある。すなわち人民の身体が強壮でなければならず、勇気もなければならぬ、意志の強固なことも必要であれば、道徳の正しいことも必要であり、特に協力一致の精神に富んで国を挙げて敵に当たるの覚悟がなければならぬ。しかしながら今日実際においていかなる国が最も勢を得ているかというと、たしかに文明的新知識の進んだ国である。すべて他の方面が対等である場合には、文明的新知識の一歩でも先へ進んだ国のほうが、今後も競争に勝つ見込みが多いに定まっているゆえ、いずれの民族でもその将来の発展をはかるには、よほどこの点に重きをおかねばならぬ。今この方面についてわが国と他の一等国とを比較してみると、はなはだ残念ながら現今のわが国は欧米の旧一等国よりも非常に劣っていてほとんど足もとにも達しない。このことは自身で外国へ行って、わが国のありさまとかの国のありさまとを実際に比較してみれば誰にも明らかに知れるはもちろんであるが、わが国とかの国との新聞や雑誌をくらべてみただけでも、その間にいちじるしい懸隔のあることがただちに知れる。元来新聞や雑誌は社会のできごとを写した小さな鏡のごときもので、広告欄だけを見てもその社会の文明の程度が知れるが、わが国の新聞紙と他の一等国の新聞紙とを取って広告欄をくらべてみると、その間の相違はずいぶんはなはだしい。かの国の新聞雑誌には自動車、自動船、ガス電気の発動機、瓶入りの液体空気、液体水素とか、石英をとかしたガラスの細工とかラジウムの賃貸とか、飛行機試験場の回数切符売り出しとかいう類が紙面の大部を占めて、どこを見ても文明的新知識があふれているように感ずる。これにくらべるとわが国の新聞雑誌に出る広告は雲泥の相違で、蒸気機関のごとき古めかしい物の広告さえほとんど出ていない。もっとも広く場所を取っているのはいつも売薬か化粧品くらいで、その他には月の始めに文芸雑誌が並んで出ているに過ぎぬ。また輸出する産物をくらべてみてもこの相違が明らかに知れる。すなわちわが国の産物として有名なものはまず生糸と茶とであるが、いずれも天然物そのままのもので、人間の知力が加わっていることははなはだ少ない。しかして他の一等国からわが国へ輸入するのはいかなる物であるかというと、多くは機械類や製造品であるが、機械類は人が知力によって組み立て、こしらえ上げたところに価値があるので、つぶして地金にすれば何の価もない。言を換えれば、わが国は天然物をそのままの価で売って、外国からは天産物に知力の加わったものを非常に高く買い入れているのである。国の誇りとして他国人に見せうるものもこれと同様で、ロンドン、パリ、ベルリン等へ着した旅客にはまず豊富なる博物館、完備した研究所などを見せて感服せしめることができるが、わが国では外国人に自慢して見せることのできるものは富士山のごとき天然物のほかにはきわめて少ない。漫遊にきた人々にただ瀬戸内海の景色や、富士の山を見せ、ゲイシャとかムスメとかいう言葉を覚えて帰らしめるだけでは、一等国としてはまことに情ない次第である。博覧会や共進会の開かれる際には、わが国の文明が他の一等国に比してはるかに劣っていることが特にいちじるしく暴露する。すなわち外国の博覧会では、文明的新知識を代表する器械館とか、発明館とかいうものはよほど主要な部分であって、その内へはいって見ると、実に人間の知力はかくまで進歩するものかと驚歎せざるをえぬが、わが国の博覧会や共進会における機械館、発明館はこれにくらべるとあまり憐れでほとんど涙がこぼれる。少し良いと思う物はすべて西洋でできたものをいささか直しただけで、根本から日本で工夫したものは一つも見えぬ。先年東京の博覧会で一等賞を獲た顕微鏡付属器などは、外国品をそのままに模造したものであった。しかしていかなる物が開会中最も世間の評判にのぼるかといえば、いつも刺繍とか造花とか衣裳を着せた生き人形などの類であるが、これらはただ根気よく手間をかけてこしらえたというまでで、決して人間の知力をしぼり工夫をこらして造り上げた物ではない、すなわち文明的新知識を代表した物とは言われぬ。
 日本人は指先の細工がはなはだ巧みであるとは、外国からきた人のみな言うことであるが、これはおそらく事実であろう。しかしながらこれを聞いて今後は一つ指先で物をこしらえることを奨励して、その点で他の一等国に勝とうなどと考える人があったならば、これは井の中の蛙のごとくに他を知らぬからの誤りである。西洋人の書いた旅行記を読んでみると、半開国や野蛮国の紀行の中には、ほとんど必ずその地の土人の指先の器用なことがほめて書いてある。先日シャムへ行った人の紀行を読んだら、その中にシャム人の指先の器用なことを述べて、その細かい彫刻のごときはヨーロッパ人のとうていおよばぬところであると記してあった。またカムチャツカに住んでいるカムチャダール人のことを書いた人類学上の報告の中にも、南京玉をつなぎ合わせて美しい刺繍のごとき物をこしらえるその指先の巧みなことは実に驚くべきほどであると述べてあった。貝塚から出る石鏃せきぞく石刀せきとうがすこぶる精巧にできているところから考えると、石器時代の人間もよほど指先の仕事が器用であったものと見える。されば外国人から指先が器用だと言われて得意になるのは大間違いなことと思う。指先の器用なのは不器用なのにくらべればもとより結構なことに違いないが、これをもって、知力で造り上げた器械の働きと、対等の競争ができるごとくに考えたら大変である。器械を考え出す脳力もすぐれ、それと同時に指先の細工も器用にできればこれに越すことはないが、もし器械を工夫する頭は劣っても指先の器用なほうがよいか、または指先は少々不器用でも脳力がすぐれて巧妙な器械を案出しうるほうがよいかといえば、民族の発展のためには無論後者を選ばねばならぬ。いったい西洋人は物をほめることが上手で、必ずなにかある点を捕えて巧みに先方の気に入るようなことを言うが、わが国の人はとかくこれを正直に受けて、うぬぼれる傾きがある。世界一の美術国だとか、礼儀の正しい国だとか、子供の楽園だとかずいぶん空々そらぞらしいお世辞を言われてさえこれを信ずるほどであるゆえ、多少事実に近いことを言われてたちまち得意になるは無理もないが、およそ物はほめようと思えば、なんとでも言うてほめられるもので、たとえば人の家を訪うて、色の黒い娘が出てきたら達者らしいとほめ、おてんばならば活発だとほめ、因循ならばおとなしいとほめる。されば外国人に指先が器用だとほめられたならば、これはまだ器械の応用が幼稚なことをあざけられたのであると解釈して、さらにいっそう奮発するくらいでなければ真の一等国とはなれない。指先が器用というても実は高の知れたもので、簡単な木の箱でさえドイツで器械を用いて精巧に組み合わせて造ったものは、わが国の最も上手な指物師に命じたとてとうてい真似もできぬ。
 わが国が今日一等国と称するにいたったのは、ただロシアに勝ちえたというだけで、戦争以外の方面を見ると以上述べたとおり、はなはだ残念ながら三等国や四等国にも劣っているかと思うことがすこぶる多い。小学校の各学年で一等の生徒というのは読み方、書き方、綴り方、算術、図画、手工、体操といずれもそろうてよくできる生徒を指すので、決して体操一科のみが上手な生徒をいうのではない。これと同じく真の一等国なるものは戦争に強いのみならず、殖産工業も、交通機関も、教育学問も、すべてそろうて他にまさった国でなければならぬ。単に一回の戦争に勝ちえたという理由で、他の欠点をすべて忘れて、実際一等国の仲間に加わりえたと思うのは、あたかも小学校の運動会で競争に勝ちえた生徒が、真に一番になったつもりで、読み方、綴り方など大切な科目の点の悪いのを忘れているがごとく全く理に合わぬことで、次回の試験にはいかなる成績をとるかすこぶる心もとない。わが国は今後の努力によって真の一等国となることもできようが、今日のところではまだなかなかその域に達したものとは言われぬ。
 敵と砲火を相交えるという実際の戦争はさまでしばしばあるものではない。しかしながら現今の世の中では、軍備を充分にしておくよりほかには戦争を避ける良法はないゆえ、いつでも戦争のできるだけの準備はつねに必要で、一刻もこれを怠ることはできぬ。実際の戦争にはその時だけの臨時費ではあるが、実に莫大な費用がかかる。また戦争をせぬための軍備の費用は年々の経常費であって、これを累算するとまことに驚くべき巨額に達するから、戦争なるものはしてもしなくても、きわめて入費のかかるものである。今日いやしくも国をなしている以上は、是非ともこの莫大な金額を不生産的に費やさねばならぬのであるから、いずれの国民もつねにこれを取り返す方面に力をつくさねばならず、そのためにはいわゆる平和の戦争に加わらねばならぬ。所詮しょせん人間は生きている間は何らかの戦争はまぬがれえない、しかして平和の戦争における最も有力の武器はすなわち文明的新知識の応用であることを思えば、今後の民族の発展に理科がきわめて必要なことは改めていうまでもない。わが国のごときは従来他国の進んだ知識をそのままに輸入して短い年月の間に驚くべき進歩をなしえたが、真似をしているばかりではいつまでたっても手本にはかなわず、その上、一等国と名乗るようになってからは先方でも用心して秘するゆえ、真似することさえなかなか容易でない。それゆえ、今後は自力で他に負けぬだけの速力をもって文明を進めなければならぬが、そのためにはつねに理科を奨励し、各方面に理科知識を応用することが何よりも急務である。もし油断して文明に進むことを怠ったならば、たちまち平和の戦争に敗北して二等国、三等国あるいは四等国五等国の位置に下がり、きわめて苦しい境遇におちいるのほかはないであろう。
 暫時ざんじでも外国のことを目から離すと、とかくわが国の今日のありさまをもってすでに文明の極に達しているかのごとくに感じやすい。老人らは多くはかく考えているようであるが、これは何事も文明の進まなかった昔にくらべるからである。すなわち東海道なども昔は十五日もかかったのが今では汽車で十五時間で行ける。駕籠かごが電車や自動車になり、行燈あんどんがガス燈や電燈になり、飛脚ひきゃくが郵便となり、そのうえ電信や電話などの重宝なものができた。今では無線電信や無線電話もでき、写真を電信で伝えることさえできる。蓄音機で死んだ親の声を聞くこともできれば、活動写真でその生きていた時の挙動を再び見ることもできる。近来は飛行機も完全になって、人間に翼が生じたも同様になった。これらはいずれも昔の人の夢にも見なかったことで、もし話して聞かしたら必ず魔法と思うたに違いない。かく考えると実に今日の文明は驚くべき進歩をしたもので、老人輩が感服するのはもっともな次第であるが、今日の列国競争場裡に立って、民族の発展をはかるにあたっては、決して昔を標準として今の文明に安んずべきでない。われにまさる一等国がいくつもある間に挾まって、文明進歩の競争におくれぬようにするには、是非とも競争の相手なる他の一等国に比較し、これよりもいっそうまさった文明をもって努力の目標としなければならぬ。通常の徒歩の競争においても、自分が昔っていたころにくらべて、今日非常に速かに走れるというて安心していたならば、競争に負けるは当然である。もし勝とうと思うならば、必ず競争の相手を標準に取り、かれよりもまさった速力を出すように努めねばならぬ。また現在すでにおくれているならばまずかれに追い付かねばならぬが、追いつくには相手が一歩進む間にこちらは二歩進み、相手が三歩進む間にこちらが四歩進むというように、自分の速力のほうが目立つほどにまさっていなければならぬ。しかるに今日のありさまを見ると、わが国の文明が他の一等国におくれているのみならず、文明に進む速力もかれにおよばぬように見える。最近十数年来のことを考えてみても、ヨーロッパ、アメリカの一等国にはいちじるしい発明がたくさんある。普通に人の知っているものだけをあげても、レンチヘンのエッキス光線とか、ラジウムとか、自動車、飛行機とか、または人造のあい、人造の樟脳、石英のガラスとか、なおその他に数多くある。その同じ十数年の間にわが国ではこれに匹敵ひってきすべき発明が一つでもあったかというに、おそらく何もなかったように思う。化学知識応用の盛んなことはドイツが一等すぐれているが、従来特殊の天産物からのみ製した物を人工で勝手に造りうるようになったのが種々ある。今述べた人造の藍、人造の樟脳などはその例であるが、藍の草を培養せずして真の藍を造り、樟樹のないところで真の樟脳を造りうるようになったのであるから、従来藍草や樟樹を特産物としていた国には急に強敵が現われたわけで、経済上いちじるしい打撃をこうむることになる。染料や香料は今日すでに種々のものが人造的にできて、従来のごとくに一々その植物を培養するにおよばぬようになった。人造絹と称する物は今日のところでは真の絹ではないが、おいおい研究が進めばいつ真の絹が蚕を飼わずして人工的にできるようになるかもしれぬ。これらはすべて理科知識の応用に基づくことで、今後は各国ともにますます盛んに発達するであろうから、平素理科知識に対して冷淡で、その進歩を充分に図らぬような民族はたちまち遠く追い越されて平和の戦争に敗北するをまぬがれぬであろう。
 以上述べたとおり、わが国は現在他の一等国に比して、文明的新知識の応用においてはるかに劣っているのみならず、その進歩の速力においてもいちじるしく劣っているのであるから、わが民族の将来の発展をはかるには、ぜひともその基礎となるべき理科方面の学科を大いに奨励して、農業、工業等に広くこれを応用するようにつとめることが必要である。今日とてもこのことが全く行なわれていないわけではないが、これを他の方面にくらべると、はなはだ振わぬように見受ける。わが国過去の歴史のしからしむるところであるかはしらぬが、国民こぞって文学のほうに傾き、文学の雑誌ならばいくつあっても足らぬかのごとくに続々出版せられ、小学校の生徒までが好んで作文を投書している。これに比すると理科に対する国民の趣味はきわめて微々たるものである。われらとても決して民族の発展には理科だけが必要で、他は捨ておいてよろしいというのではない。徳育にも知育にももとより力をつくさねばならず、美術、文芸を進めて趣味を高尚にすることももちろん必要ではあるが、わが国今日のありさまを見ると、青年らの文芸に対する趣味と理科に対する趣味とが、あまりに権衡を失しているように感ずるゆえ、理科のみを取って述べたのである。文学に関する雑誌は少年文壇とか、文章世界とかいうようなものが無数に書店から出版せられ、詩歌、小品文などを募集し名前を掲げて載せるゆえ、少年、青年はこれに釣られて夢中になる者もあって、ほとんど望ましい以上にその方面に傾く者が多くできるようであるが、これは一面普通教育において理科の精神が徹底せぬための反響とも思われる。民族間の競争は日夜絶えず行なわれていることで、この競争に負けぬためには物質的文明の進歩が必要条件であることを悟らしめ、かつすべて実地に徴する方法によって理科を授けて、何事も自身で直接に研究することの興味を起こさしめたならば、たとい一方文学のおもしろさを知っても、直ちにこれに走ってこれのみに偏するごとき弊を避けることもできよう。もとより理科の奨励が必要であるというても、決して理学者ばかりをたくさんこしらえるという意味ではない。純粋の学科を研究する者はどこの国でも少数よりなく、またこれに適する人間もたくさんはないから専門の学者は少数でよろしいが、理科に対する趣味を持って、自身には専門に理科を修めなくとも、常に理科の進歩発達をはかることに力を添えるというような人間が、今日よりははるかに多くならぬと、わが民族の将来の運命は決して長く隆盛でありえぬであろうと考える。
(明治四十三年二月)





底本:「進化と人生(上)」講談社学術文庫、講談社
   1976(昭和51)年11月10日第1刷発行
初出:「静岡市教育会にて講演」
   1910(明治43)年2月
入力:矢野重藤
校正:y-star
2017年10月25日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。




●表記について


●図書カード