私がリチャードソン先生の実験室で働いたのは、一九二八年の四月からまる一年間に過ぎなかったので、決して先生をよく理解したとはいえないであろう。しかしわずか一年の間にリチャードソン先生をその代表と見るべき英国の学者の一つの型から受けた印象はかなり強いものである。それは結局のところ生活と研究とが完全に一致しているということである。そして英国という国の雰囲気は、そのような人のそのような生活を許容しておくことが出来るということであった。
リチャードソン先生は私の留学の頃よりも大分前から英国王立学会の研究教授として、
そこで私が何よりも一番に驚いたことは、リチャードソン先生は普通一週一回金曜日に、しかも午後二、三時間位しか学校へ出てこないということであった。そしてその一週一回の登校の場合でも、大抵は自分の室にいるので実験室へ顔を出すということは極めて稀であった。何でも午後四時頃までには家へ帰って御茶に間に合わさなければならぬので、稀に実験室へ顔を出しても非常に急いでいて、何か一言二言喋ってさっさと引き上げてしまうのであった。同じ室にいた
それでも私達は、まだ一月に一度位は会えたものだったが、別の室にいたアメリカのある大学の助教授の人などは、君達はまだ良い方だぞ、僕は最後にプロフェッサーを見てから既に八か月になるという始末であった。もっともこれは英国流のユーモアを入れた話ではあろうが、まず大体その調子と思えば間違いなかった。
それで実験室での色々の細かい技術上の指導というものは結局助手達が御互にやるのであった。しかし世界中から集った若い連中が持ち寄った色々の小さい知識がだんだん集積して、一つの伝統となってこの実験室に残っているので、少し教室の空気に馴れると誰でも一人でどんどん実験が進められるようになっていた。
それにこの実験室には、R君という大学出でない旧い助手が一人いてその男がこの旧くからの知識の集積を司り、一方プロフェッサーとの間の連絡をつとめていた。なかなかのガッチリ屋で皆にあまり好かれていなかったが
仕事が一段落になるとその由をR君がプロフェッサーに伝える。そうすると何日何時頃家へこいという手紙がくるのが普通であった。大抵の場合は丁度御茶の時間に間に合うようになっていた。英国での生活の経験がある人は誰でも一度は驚くのであるが、この御茶というのは
天気の良い日など散歩がてらに少し早めにぶらぶら出かけて行くと、よく裏庭の芝生へ通されたものであった。プロフェッサーは芝刈のモーアを横に転がしておいて、甲板椅子によりながらパイプをくわえて陽に当っているようなことが多かった。仕事のことを離れた静かな話をしばらくしている中に、御茶の用意が出来たといって夫人が迎えにこられる。この夫人は恐ろしく肥った大きい人で、大変愛嬌がよく話好きであった。何でもプロフェッサーも夫人の前では頭が上らぬらしいと教室の古参連中の噂であった。もっとも英国ではどの家庭でも多少はその傾向があるので、特に述べ立てるほどのことはないのかも知れない。御茶の席には子供さん達も集りなかなか御馳走があった。そして話は例によって日本には何々があるかという風なことに落付くのであった。「日本では一夫多妻が許されているか」という夫人の問いに、「いいえ許されていません。しかし悪い金持なんかどうか知りません」というと、プロフェッサーがそれを引きとって「金持はどこだってそうだよ」、という調子であった。
随分ゆっくりしたこの御茶がすむと初めて書斎に通される。プロフェッサーの家には土蔵のような感じの大きい離れがあって、慥か二階廊下かでつながっていたように覚えている。その離れの二階が書斎というよりむしろ仕事場になっていて、がらんとした広い部屋の真中にいくつも卓が寄せ集めてあって、その上にはまた雑誌だの書きかけのフルスカップなどが思い切って乱雑に山のように積み重なっていた。その間で粗末な椅子に向き合って坐りながら色々次の実験の指図を聞くのであった。室全体が薄暗く屋根裏のように何となく埃っぽい感じであった。その頃のリチャードソンは実験の方よりもむしろ理論の方に力を注いでいたようで、その頃新しく勃興してきた量子力学の計算などにも力を入れていたようであった。こういう部屋に閉じ籠って熱電子の理論に耽るような生活も随分静かなものであろうと思われた。
ノーベル賞の仕事たる有名な熱電子のリチャードソンの法式の基礎的研究は、プロフェッサーが
仕事場の机の上が乱雑であるということは決してリチャードソン先生の研究生活が奔放であるという意味ではない。自身の仕事は勿論門下生の研究でも少し目鼻が付いてくると、必ずきちんと纏めて発表させるような態度であった。それで教室から出る仕事の数は非常に多いのである。それらの論文は全部沢山の別刷をとって、そのつど必ず文字通りに世界中の著名な学者の所へ全部送り出されるのである。勿論そのような仕事は助手のR君がするのであって、プロフェッサーはあずからぬのであるが、その組織をちゃんと作り実行を怠らぬところにプラクチカルなリチャードソンの性格を見ることが出来るのである。沢山の数の論文の中には、第一義的の重要さを持たぬものも混ずるのは止むを得ないが、そのようなことに神経はあまり使わないようにみえた。五年か十年に一つずつ位非常に優れた研究だけを発表して、身を清く保つような流儀の学者も勿論英国にはあるが、それとリチャードソンの場合とを比較して見ると、それは優劣の問題ではなく、研究者の骨骼の問題である。何だか自分には不世出の天才を俟たなくてもノーベル賞を
リチャードソン先生は一九二八年度の賞を得られたのであるが、発表は一九二九年の夏であった。私は丁度その年の春
(昭和十一年十一月『科学知識』)