汽車は
寂しかつた。
わが
友なる――
園が、
自から
私に
話した――
其のお
話をするのに、
念のため
時間表を
繰つて
見ると、
奥州白河に
着いたのは
夜の十二
時二十四
分で――
上野を
立つたのが六
時半である。
五
月の
上旬……とは
言ふが、まだ
梅雨には
入らない。けれども、ともすると
卯の
花くだしと
称うる
長雨の
降る
頃を、
分けて
其年は
陽気が
不順で、
毎日じめ/\と
雨が
続いた。
然も
其の
日は、
午前の
中、
爪皮の
高足駄、
外套、
雫の
垂る
蛇目傘、
聞くも
濡々としたありさまで、(まだ四十には
間があるのに、
壮くして
世を
辞した)
香川と
云ふ
或素封家の
婿であつた、
此も
一人の
友人の、
谷中天王寺に
於ける
其の
葬を
送つたのである。
園は
予定のかへられない
都合があつた。で、
矢張り
当日、
志した
奥州路に
旅するのに、一
旦引返して、はきものを
替へて、
洋杖と、
唯一つバスケツトを
持つて
出直したのであるが、
俥で
行く
途中も、
袖はしめやかで、
上野へ
着いた
時も、
轅棒をトンと
下ろされても、あの
東京の
式台へ
低い
下駄では
出られない。
泥濘と
言へば、まるで
沼で、
構内まで、どろ/\と
流込むで、
其処等一
面の
群集も
薄暗く
皆雨に
悄れて
居た。
「
出口の
方へ
着けて
見ませう。」
「
然う、
何うぞ
然うしておくれ。」
さてやがて
乗込むのに、
硝子窓を
横目で
見ながら、
例のぞろ/\と
押揉むで
行くのが、
平常ほどは
誰も
元気がなさゝうで、
従つて
然まで
混雑もしない。
列車は、おやと
思ふほど
何処までも
長々と
列なつたが、
此は
後半部が
桐生行に
当てられたものであつた。
室はがらりと
透いて、それでも七八
人は
乗組んだらう。
女気なし、
縦にも
横にも
自由に
居られる。
と
思ふうちに、
最う
茶の
外套を
着たまゝ、ごろりと
仰向けに
成つた
旅客があつた。
汽車は
志す
人をのせて、
陸奥をさして
下り
行く――
早や
暮れかゝる
日暮里のあたり、
森の
下闇に、
遅桜の
散るかと
見たのは、
夕靄の
空が
葉に
刻まれてちら/\と
映るのであつた。
田端で
停車した
時、
園は
立上つて、
其の
夕靄にぽつと
包まれた、
雨の
中なる
町の
方に
向つて、
一寸会釈した。
更めてくどくは
言ふまい。
其処には、
今日告別式を
済ました
香川の
家がある。と
同時に一
昨年の
冬、
衣絵さん、
婿君のために
若奥様であつた、
美しい
夫人がはかなくなつて
居る……
新仏は、
夫人の三
年目に、おなじ
肺結核で
死去したのであるが……
園は、
実は
其の
人たちの、まだ
結婚しない
以前から
衣絵さんを
知つて
居た……と
言ふよりも
知られて
居たと
言つて
可からう。
園は
従兄弟に、
幸流の
小鼓打がある。
其の
役者を
通じてゞある。が、
興行の
折の
桟敷、
又は
従兄弟の
住居で、
顔も
合はせれば、ものを
言ひ
交はす、
時々と
言ふほどでもないが、ともに
田端の
家を
訪れた
事もあつて、
人目に
着くよりは
親しかつた……
親しかつたうへに、お
嬢さん……
後の
香川夫人は、
園のつくる
歌の
愛人であつた。
園は
其の
作家なのである。
「
行つて
参りますよ。」
と、
其処で
心で
言つた。
汽車が
出る。
がた/\と
揺れるので、よろけながら
腰を
据ゑた。
恁の
如く、がらあきの
席であるから、
下へも
置かず、
席に
取つた――
旅に
馴れないしるしには、
真新いのが
見すぼらしいバスケツトの
中に、――お
嬢さん
衣絵の
頃の、
彼に(おくりもの)が
秘めてある。
今は
紀念と
成つた。
友染の
切に、
白羽二重の
裏をかさねて、
紫の
紐で
口を
縷つた、
衣絵さんが
手縫の
服紗袋に
包んで、
園に
贈つた、
白く
輝く
小鍋である。
彼は
銀の
鼎と
言ふ……
組込の三
脚に
乗る
錫の
鑵に、
結晶した
酒精の
詰まつたのが
添つて、
此は
普通汽車中で
湯を
沸かす
器である。
道中――
旅行の
憂慮は、むかしから
水がはりだと
言ふ。……それを、
人が
聞くと
可笑いほど
気にするのであるから、
行先々の
停車場で
売る、お
茶は
沸いて
居る、と
言つても
安心しない。
要心を
通越した
臆病な
処へ、
渇くのは
空腹にまさる
切なさで、
一つは
其がためにもつい
出億劫がるのが
癖で。
「……はる/″\
奥の
細道とさへ
言ふ。
奥州路などは
分けて
水が
悪いに
違ひない。ものを
較べるのは
恐縮だけれど、むかし
西行でも
芭蕉でも、
皆彼処では
腹を
疼めた――
惟ふに、
小児の
時から
武者絵では
誰もお
馴染の、八
幡太郎義家が、
龍頭の
兜、
緋縅の
鎧で、
奥州合戦の
時、
弓杖で
炎天の
火を
吐く
巌を
裂いて、
玉なす
清水をほとばしらせて、
渇に
喘ぐ一
軍を
救つたと
言ふのは、
蓋し
名将の
事だから、
今の
所謂軍事衛生を
心得て、
悪水を
禁じた
反対の
意味に
相違ない。」
と、
今度の
旅の
前にも……
私たちに
真面目で
言つた。
何を、
馬鹿な。
と
平生から
嘲るものは
嘲るが、
心優しい
衣絵さんは、それでも
気の
毒がつて、
存分に
沸かして
飲むやうにと
言つた
厚情なのであつた。
機会もなくつて、それから
久しぶりの
旅に、はじめてバスケツトに
納めたのである。
「さあ、
来い、
川も
濁れ、
水も
淀め。」
と
何か、
美い
魔法で、
水を
澄ませて
従へさへ
出来さうに、
銀鍋の
何となくバスケツトの
裡に
透く
光を、
友染のつゝみにうけて、
袖に
月影を
映すかと
思ふ、それも、
思へばしめやかであつた。
窓の
外は
雨が
降る、
降る。
雪駄、
傘、
下駄、
足駄。
幸手、
栗橋、
古河、
間々田……の
昔の
語呂合を
思ひ
出す。
武左な客には芸しやがこまる。
芝の浦にも名所がござる。
ゐなか侍茶店にあぐら。
死なざやむまい三味線枕。
「
鰻の
丼は
売切です。」
「ぢやあ
弁当だ」
小山は
夜で
暗かつた。
嘗て
衣絵さんが、
婿君とこゝを
通つて、
鰻を
試みたと
言ふのを
聞いて
居たので、
園は、
自分好きではないが、
御飯だけもと
思つたのに、
最う
其は
売切れた……
「そら
行け。」
どんと
後で
突く、
「がつたん/\。」
と
挨拶する。こゝで
列車が
半分づゝに
胴中から
分れたのである。
又づしんと
響いた。
乗つて
来るものは
一人もなし、
下りた
客も
居なかつたが、
園は
急に
又寂い
気がした。
行先は
尚ほ
暗い。
開くでもなしに、
弁当を
熟々視ると、
彼処の、あの
上包に
描いた、ばら/\
蘆に
澪標、
小舟の
舳にかんてらを
灯して、
頬被したお
爺の
漁る
状を、ぼやりと一
絵具淡く
刷いて
描いたのが、
其のまゝ
窓の
外の
景色に
見える。
雨は
小留もない。
た※
[#濁点付き二の字点、166-2]渺々として
果もない
暗夜の
裡に、
雨水の
薄白いのが、
鰻の
腹のやうに
畝つて、
淀んだ
静な
波が、どろ/\と
来て
線路を
浸して
居さうにさへ
思はれる。
ほたり/\と
落ちて、ずるりと
硝子窓に
流るゝ
雫は、
鰌の
覗く
気勢である。
バスケツトを
引揚げて、
底へ
一寸手を
当てゝ
見た。
雨気が
浸通つて、
友染が
濡れもしさうだつたからである。
そんな
事は
決してない。
が、
小人数とは
言へ、
他に
人がなかつたら、
此の
友染の
袖をのせて、
唯二人で
真暗の
水に
漾ふ
思がしたらう。
宇都宮へ
着いてさへ、
船に
乗つた
心地がした。
改札口には、
雨に
灰色した
薄ぼやけた
旅客の
形が、もや/\と
押重つたかと
思ふと、
宿引の
手ン手の
提灯に
黒く
成つて、
停車場前の
広場に
乱れて、
筋を
流す
灯の
中へ、しよぼ/\と
皆消えて
行く。……
其の
中で、
山高が
突立ち、
背広が
肩を
張つたのは、
皆同室の
客。で、こゝで
園と
最う
一人――
上野を
出ると
其れ
切寝たまゝの
茶の
外套氏ばかりを
残して、
尽く
下車したのである。
まことに
寂い
汽車であつた。
やがて
大那須野の
原の
暗を、
沈々として
深く
且つ
大な
穴へ
沈むが
如く
過ぎて
行く。
野川で
鰌を
突くのであらう。
何処かで、かんてらの
火が
一つ、ぽつと
小さく
赤かつた。
火は
水に
影を
重ねたが、
八重撫子の
風情はない。……一つ
家の
鬼が
通るらしい。
黒磯――
左斜の
其の
茶の
外套氏の
鼾にも
黒気が
立つた。
燈も
暗い。
野も
山も、
此の
果しなき
雨夜の
中へ、ふと
窓を
開けて、
此の
銀の
鍋を
翳したら、きらりと
半輪の
月と
成つて二三
尺照らすであらう。……
実際、ふと
那様な
気がしたのであつた。が、
其は
衣絵さんが
生きて
居て、
翳すのに、
其の
袖口がほんのり
燃えて、
白い
手の
艶が
添はねば
不可い……
自分が
遣ると
狐の
尻尾だ。
と
独で
苦笑する。
其のうちに、
何故か、バスケツトを
開けて、
鍋を
出して、
窓へ
衝と
照らして
見たくてならない。
指さきがむづ
痒い。
こんな
時は
魔が
唆かして、
狂人じみた
業をさせて、
此を
奪はうとするのかも
知れぬ。
園は
悚然として、
道祖神を
心に
念じた。
真個、この
暫時の
間は
稀有であつた。
郡山まで
行くと……
宵がへりがして、
汽車もパツと
明く
成つた。
思見る、
磐梯山の
煙は、
雲を
染めて、
暗は
尚ほ
蓬々しけれど、
大なる
猪苗代の
湖に
映つて、
遠く
若松の
都が
窺はれて、
其の
底に、
東山温泉の
媚いた
窓々の
燈の
紅を
流すのが
遥々と
覗かれる。
園が
曾遊の
地であつた。
バスケツトの
中も
何となく
賑かである。
と
次第に
遠い
里へ、
祭礼に
誘はれるやうな
気がして、
少しうと/\として、
二本松と
聞いては、
其処の
並木を、
飛脚が
通つて
居さうな
夢心地に
成つた。
茶の
外套氏が
大欠伸をして
起きた。
口髯も
茶色をした、
日に
焼けた
人物で、ズボンを
踏み
開けて、どつかと
居直つて、
「あゝゝ、
寝たぞ。」
と
又欠伸をして、
「
何の
辺まで
来たかなあ。」
殆ど
独言だつたが、しかし
言掛けられたやうでもあるから、
「
失礼――
今しがた二
本松を
越したやうです。」
と
園が
言つた。
「や、それは
又馬鹿に
早いですな。」
と
驚いた
顔をして、ちよつきをがつくりと
前屈みに、
肱を
蟹の
手に
鯱子張らせて、
金時計を
撓めながら、
「……十一
時十五
分。」
と
鼻筋をしかめて、
園を
真正面に
見て
耳に
当てた。
「
留つては
居らんなあ。はてなあ、
此の
汽車は十二
時二十四
分に、
漸く
白河へ
着きをるですがな。」
と
硝子に
吸着いたやうに
窓を
覗く。
園も、一
驚を
吃して
時計を
見た。
針は
相違なく十一
時の
其処をさして、
汽車の
馳せつゝあるまゝにセコンドを
刻むで
居る。
バスケツトを
圧へて、
吻と
息して、
「
何うも
済みません、
少し、うと/\しましたつけ。うつかり
夢でも
視たやうで、――
郡山までは一
度行つた
事があるものですから……」
園も
窓を
覗きながら、
「しかし、
何うも
済みません、
第一
見た
事もありませんのに、
奥州二
本松と
云ふのは、
昔話や
何かで
耳について
居たものですから、
夢現に
最う
其処を
通つたやうに
思つたんです。」
燈が
白く、ちら/\と
窓を
流れた。
「
白坂だ、
白坂だ。」
と
茶の
外套氏が
言つた。……
向直つて
口を
開けたが、
笑ひもしないで
落着いた
顔して、
「
此の
汽車は、
豊原と
此処を
抜くですで……
今度が
漸く
白河です。」
「
何うもお
恥かしい……
狐に
魅まれましたやうです。」
「いや、
汽車の
中は
大丈夫――
所謂白河夜船ですな。」
園は
俯向いたが、
「――
何方まで。」
「はあ、
北海道へは
始終往復をするですが、
今度は
樺太まで
行くですて。」
「それは、
何うも
御遠方……」
彼の
持ふるした
鞄を
見よ。
手摺の
靄が一
面に、
浸の
形が
樺太の
図に
浮ぶ。
汽車は
白河へ
着いたのであつた。
「
牛乳、
牛乳――
牛乳はないのか。――
夜中に
成ると
無精をしをるな。」
茶の
外套氏は、ぽく/\と
立つて、ガタンと
扉を
開いて
出た。
窓を
開けると、
氷を
目に
注ぐばかり、
颯と
雨が
冷い。
恰も
墨を
敷いたやうなプラツトホームは、ざあ/\と、さながら
水が
流れるやうで、がく/\こう/\と
鳴く
蛙の
声が、
町も、
山も、
田も一斉に
波打つ
如く、
夜ふけの
暗中に
鳴拡がる。
声は
雲まで
敷くやうであつた。
ト、すぐ
裏に
田が
見えて、
雨脚も
其処へ、どう/\と
強く
落ちて、
濁つた
水がほの
白い。
停車場の一
方の
端を
取つて、
構内の
出はづれの
処に、
火の
番小屋をからくりで
見せるやうな
硝子窓の
小店があつて、ふう/\
白い
湯気が
其の
窓へ
吹出しては、
燈に
淡く
濃く、ぼた/\と
軒を
打つ
雨の
雫に
打たれては
又消える。と
湯気の
中に、ビール、
正宗の
瓶の、
棚に
直と
並んだのが、むら/\と
見えたり、
消えたりする。……
横手の
油障子に、
御酒、
蕎麦、
饂飩と
読まれた……
若い
駅員が
二人、
真黒な
形で、
店前に
立つたのが、
見え
隠れする
湯気を
嬲るやうに、
湯気がまた
調戯ふやうに、
二人互違ひに、
覗込むだり、
胸を
衝と
開いたり、
顔を
背けたり、
頤を
突出したりすると、それ、
湯気は
立つたり
伏つたり、
釦に
掛つたり、
耳を
巻いたり、
鼻を
吹いたりする。……
其の
毎に、
銀杏返の
黒い
頭が、
縦横に
激しく
振れて、まん
円い
顔のふら/\と
忙しく
廻るのが、
大な
影法師に
成つて、
障子に
映る……
で、
駅は
唯水の
中のやうである。
雨は
冷く
流れて
降りしきる。
駅員の
一人は、
帽子とゝもに、
黒い
頸窪ばかりだが、
向ふに
居て、
此方に
横顔を
見せた
方は、
衣兜に
両手を
入れたなり、
目を
細め、
口を
開けた、
声はしないで、あゝ、
笑つてると
思ふのが、もの
静かで、
且つ
沁々寂しい。
其の
一人が、
高足を
打つて、
踏んで、
澄してプラツトホームを
横状に
歩行出すと、いま
笑つたのが
掻込むやうに
胸へ
丼を
取つた。
湯気がふつと
分れて、
饂飩がする/\と
箸で
伸びる。
其の
肩越に、
田のへりを、
雪が
装上るやうに、
且つ
雫さへしと/\と……
此の
時判然と
見えたのは、
咲きむらがつた
真白な
卯の
花である。
雨に
誘はれて
影も
白し、
蛙は
其の
饂鈍食ふ
駅員の
靴の
下にも
鳴く。
声が、
声が
「かあ、かあ、
白あ河あ。
かあ、かあ、
買へ、かへ、
うどん買へ、買へ。
しらあ、河あ。」と鳴く。
あゝ
風情とも、
甘味さうとも――
園は
乗出して、
銀杏返の
影法師の
一寸静つたのを
呼ばうとした。
順礼がとぼ/\と
一人出た。
薄い
髪の、かじかんだお
盥結びで、
襟へ
手拭を
巻いて
居る、……
汚い
笈摺ばかりを
背にして、
白木綿の
脚絆、
褄端折して、
草鞋穿なのが、ずつと
身を
退いて、トあとびしやりをした
駅員のあとへ、しよんぼりと
立つて、
饂飩へ
顔を
突込むだ。――
青膨れの、
額の
抜上つたのを
視ると、
南無三
宝、
眉毛がない、……はまだ
仔細ない。が、
小鼻の
両傍から
頤へかけて、
口のまはりを、ぐしやりと
輪取つて、
瘡だか、
火傷だか、
赤爛れにべつたりと
爛れて
居た。
其の
口へ、――
忽ちがつちりと
音のするまで、
丼を
当てると、
舌なめずりをした
前歯が、
穴に
抜けて、
上下おはぐろの
兀まだら。……
湯気を
揺つて、
肩も
手もぶる/\と
震へて
掻食ふ。
「あ。」
あゝ、あの
丼は
可恐しい。
無論こんな
事は、めつたにあるまい。それに、げつそりするまで
腹も
空く。
白河の
雨の
夜ふけに、
鳴立つて
蛙が
売る、
卯の
花の
影を
添へた、うまさうな
饂飩は
何うもやめられない。
「
洗つてさへくれゝば
可いのだが、さし
当り……
然うだ、
此方の
容器を
持つて
買はう。」
其処で、バスケツトを
開けた。
中に
咲いたやうな……
藤紫に、
浅黄と
群青で、
小菊、
撫子を
優しく
染めた
友染の
袋を
解いて、
銀の
鍋を、
園はきら/\と
取つて
出た。
出ると、
横ざまに
颯と
風が
添つた。
成るたけ
順礼を
遠くよけて、――
最う
人気配に
後へ
振向けた、
銀杏返の
影法師について、
横障子を
裏へ
廻つた。
店は
裏へ
行抜けである。
外套は
脱いで
居た――
背中へ、
雨も、
卯の
花も、はら/\とかゝつた。
たゝきへ
白く
散つて
居る。
「
饂飩を
一つ。」
と
出しながら、ふと
猶予つたのは、
手が
一つ、
自分の
他に、
柔かく
持添へて
居るやうだつたからである。――
否、
其の
人の
袖のしのばるゝ
友染の
袋さへ、
汽車の
中に
預けて
来たのに――
「
此へおくれ。」
銀杏返は
赤ら
顔で、
白粉を
濃くして
居た。
駅員は
最う
見えなかつた。
其の
順礼のお
盥髪さへ、
此方に
背き、
早やうしろを
見せて、びしや/\と
行く
処を――(
見なくとも
可いのに)
気にすると、
恰も
油さしがうつ
伏せに
鉄の
底を
覗く、かんてらの
火の
上へ、ぼやりと
影を
沈めて、
大な
鼠のやうに
乗つて
消えた。
駅員が
黒く、すら/\と、
雨の
雫の
彼方此方。
他には
数うるほどの
乗客もなさゝうな、
余り
寂しさに、――
夏の
夜の
我家を
戸外から
覗くやうに――
恁う
上下を
見渡すと、
可なりの
寄席ほどにむら/\と
込む
室も、さあ、
二つぐらゐはあつたらう。……
園の
隣なる
車は、づゝと
長く
通つた
青い
室で、
人数は
其処も
少ない。が、しかし二十
人ぐらゐは
乗つて
居た。……
但し
其も、
廻燈籠の
燈が
消えて、
雨に
破れて、
寂然と
静まつた
影に
過ぎない。
左右を
見定めて、
鍋を
片手に
乗らうとすると、
青森行――二
等室と、
例の
青に
白く
抜いた
札の
他に、
踏壇に
附着いたわきに、一
枚思懸けない
真新い
木札が
掛つて
居る……
臨時運転特別車
但し試用一回限り。
「おや/\……」
園は
一寸猶予つた。
成程、
空きに
空いた
上にも、
寝起にこんな
自由なのは
珍らしいと
思つた。
席を
片側へ十五ぐらゐ
一杯に
劃つた、たゞ
両側に
成つて
居て、
居ながらだと
楽々と
肘が
掛けられる。
脇息と
言ふ
態がある。シイトの
薄萠黄の――
最も
古ぼけては
居たが――
天鵝絨の
劃を、コチンと
窓へ
上げると、
紳士の
作法にありなしは
別問題だが、いゝ
頃合の
枕に
成る。
「まてよ……」
衣絵さんが
此辺を
旅行した
時の
車と
言ふのを、
話の
次手に
聞いたのが――
寸分違はぬ
的切此だ……
「
待てよ。」
無論、
婿がねと
一所で、
其は一
等室はあつたかも
知れない。が、
乗心の
模様も、
色合も、いま
見て
思ふのと
全く
同じである。
「――
臨時運転特別車。
但し
試用――一
回限り……」
と二
行に
最一
度読みながら、つひ、
銀の
鍋を
片袖で
覆ふて
入つた。
饂飩を
庇つたのではない。
唯、
席に
着くと、
袖から
散つたか、あの
枝からこぼれたか、
鍋の
蓋に、
颯と
卯の
花が
掛つて
居て、
華奢な
細い
蕋が、
下のぬくもりに、
恁う、
雪が
溶けるやうな
薄い
息を
戦がせる。
其の
雪より
白く、
透通る
胸に、すや/\と
息を
引いた、
肺を
病むだ
美女の
臨終の
状が、
歴々と、あはれ、
苦しいむなさきの、
襟の
乱れたのさへ
偲ばるゝではないか。
はつと
下に
置くと、はづみで
白い
花片は、ぱらりと、
藤色の
地の
友染にこぼれたが、こぼれた
上へ、
園は
尚ほ
密と
手を
当てゝ
蓋を
傾けた。
蓋のほの
暖いのに、ひやりとした。
火に
掛けて
煮ようとする
鍋の
上へ、
少くとも
其の
花片は
置けなかつたからである。
気が
着くと、
茶の
外套氏は
形もない。ドキリとした。
が、
例の
大鞄が、
其のまゝ
網棚にふん
反返つて、
下に
皺びた
空気枕が
仰向いたのに、
牛乳の
壜が
白い
首で
寄添つて、
何と……、
添寝をしようかとする
形で
居る。
徳利が
化けた
遊女と
云ふ
容子だが、
其の
窓へ、
紅を
刷いたら、
恐らく
露西亜の
辻占であらう。
では、
汽車の
中に
一人踞つて、
真夜中の
雨の
下に、
鍋で
饂飩を
煮る
形は
何だ? ……
説明も
形容も
何もない――
燐寸を
摺ると
否や、アルコールに
火をつけるのであるから、
言句もない。……
発と
朱が
底へ
漲ると、
銀を
蔽ふて、三
脚の
火が
七つに
分れて、
青く、
忽ち、
薄紫に、
藍を
投げて
軽く
煽つた。
ドカリ――
洗面所の
方なる、
扉へ
立つた、
茶色な
顔が、ひよいと
立留つてぐいと
見込むと、
茶の
外套で
恁う、
肩を
斜に
寄つたと
思ふと、……
件の
牛乳の
壜を
引攫ふが
早いか――
声を
掛ける
間も
何もなかつた――
茶革の
靴で、どか/\と
降りて
行く。
跫音乱れて、スツ/\と
擦れつゝ、
響きつゝ、
駅員の
驚破事ありげな
顔が
二つ、
帽子の
堅い
廂を
籠めて、
園の
居る
窓をむづかしく
覗込むだ。
其の
二人が
苦笑した。
顔が
両方へ、
背中合せに
分れたと
思ふと、
笛が
鳴つた。
園は
惘然とした。
「あゝ、
分つた。」
狐が
馬にも
乗らないで、
那須野ヶ
原を二
本松へ
飛抜けた
怪しいのが、
車内で
焼酎火を
燃すのである。
此が、
少なからず
茶の
外套氏を
驚かして、
渠をして
駅員に
急を
告げしめたものに
相違ない。
と
思ひながら、
四辺を
見た。

したが
誰も
居ない。
「あゝ……
心細いなあ――」
が、その
中はまだよかつた、……
汽車は
夜とともに
更けて
行き、
夜は
汽車とゝもに
沈むのに、
少時すると、また
洗面所の
扉から、ひよいと
顔を
出して
覗いた
列車ボーイが、やがて、すた/\と
入つて
来ると、
棚を
視め、
席を
窺ひ、
大鞄と、
空気枕を、
手際よく
取つて
担いで、アルコールの
青い
火を、
靴で
半輪に
廻つて、
出て
行くとて――
「
御病気ですか。」
園は
大真面目で、
「いゝえ。」
「はあ。」
と
首をねぢつて、
腰をふりつゝ
去つた。
此でまた、
汽車半分、
否、
室一つ
我ばかりを
残して、
樺太まで
引攫はれるやうな
気がしたのである。
「
狂人だと
思ふんだ。」
げそりと、
胸をけづられたやうに
思つた。
「
勝手にしろ。」
自棄に
投げる
足も、しかし、すぼまつて、
園は
寒いよりも
悚気とした。
しかしながら……
此を
見れば
気も
狂はう。
死んだやうな
夜気のなかに、
凝つて、ひとり
活きて、
卯の
花をかけた
友染は、
被衣をもるゝ
袖に
似て、ひら/\と
青く、
其の
紫に、
芍薬か、
牡丹か、
包まれた
銀の
鍋も、チチと
沸くのが
氷の
裂けるやうに
響いて、ふきこぼるゝ
泡は
卯の
花を
乱した。