不思議なる
光景である。
白河はやがて、
鳴きしきる
蛙の
声、――
其の
蛙の
声もさあと
響く――とゝもに、さあと
鳴る、
流の
音に
分るゝ
如く、
汽車は
恰も
雨の
大川をあとにして、
又一息、
暗い
陸奥へ
沈む。……
真夜中に、
色沢のわるい、
頬の
痩せた
詩人が
一人、
目ばかり
輝かして
熟と
視る。
燈も
夢を
照らすやうな、
朦朧とした、
車室の
床に、
其の
赤く
立ち、
颯と
青く
伏つて、
湯気をふいて、ひら/\と
燃えるのを
凝然と
視て
居ると、
何うも、
停車場で
銭で
買つた
饂飩を
温め
抱くのだとは
思はれない。
どう/\と
降る
中を、がうと
山に
谺して
行く。がらんとした、
古びた
萠黄の
車室である。
護摩壇に
向つて、
髯髪も
蓬に、
針の
如く
逆立ち、あばら
骨白く、
吐く
息も
黒煙の
中に、
夜叉羅刹を
呼んで、
逆法を
修する
呪詛の
僧の
挙動には
似べくもない、が、
我ながら
銀の
鍋で、ものを
煮る、
仙人の
徒弟ぐらゐには
感ずる。
詩人も
此では、
鍛冶屋の
職人に
宛如だ。が、
其の
煮る、
鋳る、
錬りつゝあるは
何であらう。
没薬、
丹、
朱、
香、
玉、
砂金の
類ではない。
蝦蟇の
膏でもない。
と
思ひつゝ、
視つゝ、
惑ひつゝ、
恁くして
錬るのは
美人である。
衣絵さんだ!
と
思ふと、
立つ
泡が、
雪を
震はす
白い
膚の
爛れるやうで。……
園は、ぎよつとして、
突伏すばかりに
火尖を
嘗めるが
如く
吹消した。
疲れたやうに、
吻と
呼吸して、
「あゝ、
飛んでもない、……
譬にも
虚事にも、
衣絵さんを
地獄へ
落さうとした。」
仮に、もし、
此を
煮る
事、
鋳る
事、
錬る
事が、
其の
極度に
到着した
時の
結晶体が、
衣絵さんの
姿に
成るべき
魔術であつても、
火に
掛けて
煮爛らかして
何とする! ……
鋳像家の
技に、
仏は
銅を
煮るであらう。
彫刻師の
鑿に、
神は
木を
刻むであらう。が、
人、
女、あの
華繊な、
衣絵さんを、
詩人の
煩悩が
煮るのである。
「
大変な
事をしたぞ。」
園は、
今更ながら、
瞬時と
雖も、
心の
影が、
其の
熱に
堪へないものゝ
如く、
不意のあやまちで、
怪我をさした
人に
吃驚するやうに、
銀の
蓋を、ぱつと
取つた。
取ると、……むら/\と
一巻、
渦を
巻くやうに
成つて、
湯気が、
鍋の
中から、
朦と
立つ。
立ちながら、すつと
白い
裳が
真直に
立靡いて、
中ばでふくらみを
持つて、
筋が
凹むやうに、
二条に
分れようとして、
軟にまた
合つて、
颯と
濃く
成るのが、
肩に
見え、
頸脚に
見えた。
背筋、
腰、ふくら
脛。……
卯の
花の
色うつくしく、
中肉で、
中脊で、なよ/\として、ふつと
浮くと、
黒髪の
音がさつと
鳴つた。
「やあ、あの、もの
恥をする
人が、
裸身なんぞ、こんな
姿を、
人に
見せるわけはない。」
園は
目を
瞑つた。
矢張り
見える。
「これは、
不可ん。」
園は
一人で
頭を
掉つた。
まだ
消えない。
「
第一、
病中は、
其の
取乱した
姿を
見せるのを
可厭がつて、
見舞に
行くのを
断られた
自分ではないか。――
此は
悪い。こんな
処を。あゝ、
済まない。」
園はもの
狂はしいまで、
慌しく
外套を
脱いだ。トタンに、
其の
衣絵さんの
白い
幻影を
包むで
隠さうとしたのである。が、
疼々しい
此の
硬ばつた、
雨と
埃と
日光をしたゝかに
吸つた、
功羅生へた
鼠色の
大な
蝙蝠。
一寸でも
触ると、
其のまゝ、いきなり、
白い
肩を
包むで、
頬から
衣絵さんの
血を
吸ひさうである、と
思つたばかりでも、あゝ、
滴々血が
垂れる。……
結綿の
鹿の
子のやうに、
喀血する
咽喉のやうに。
で、
園は
引掴んで、
席をやゝ
遠くまで、
其の
外套を
彼方へ
投げた。
投げた
時、
偶と
渠は、
鼓打である
其の
従弟が、
業体と
言ひ、
温雅で
上品な
優しい
男の、
酒に
酔払ふと、
場所を
選ばず、
着て
居る
外套を
脱いで、
威勢よくぱつと
投出す、
帳場の
車夫などは、おいでなすつた、と
丁と
心得て
居るくらゐで……
電車の
中でも
此を
遣る。……
下が
黒羽二重の
紋着と
云ふ
勤柄であるから、
余計人目について、
乗合は一
時に
哄と
囃す。
「
何でえ、
持つてけ。」と、
舞袴にぴたりと
肱を
張つて、とろりと一
睨み
睨むのがお
定り……
と
其を
思出して、……
独りで
笑つた。
そんな、
妙な
間があつた。それだのに、
媚めかしい
湯気の
形は、
卯の
花のやうに、
微に
揺れつゝ
其のまゝであつた。
銀の
鍋一つ
包む、
大くはないが、
衣絵さんの
手縫である、
其の
友染を、
密と
掛けた。
頸から
肩と
思ふあたり、ビクツと
手応がある、ふつと、
柔く
軽く、つゝんで
抱込む
胸へ、
嫋さと
気の
重量が
掛るのに、アツと
思つて、
腰をつく。
席へ、
薄い
真綿が
羽二重へ
辷つたやうに、さゝ……と
唯衣の
音がして、
膝を
組むだ
足のやうに、
友染の
端が、
席をなぞへに、たらりと
片褄に
成つて
落ちた。――
気を
失つた
女が、
我とゝもに
倒れかゝつたやうである。
吃驚して、
取つて、すつと
上へ
引くと、
引かれた
友染は、
其のまゝ、
仰向けに、
襟の
白さを
蔽ひ
余るやうに、がつくりと
席に
寝た。
ふわ/\と
其処へ
靡く、
湯気の
細い
角の、
横に
漾ふ
消際が、こんもりと
優い
鼻を
残して、ぽつと
浮いて、
衣絵さんの
眉、
口、
唇、
白歯。……あゝあの
時の、
死顔が、まざ/\と、いま
我が
膝へ……
白衣幽に、
撫子と
小菊の、
藤紫地の
裾模様の
小袖を、
亡体に
掛けた、
其のまゝの、……
此の
友染よ。
唯其の
時は、
爪一つ
指の
尖も、
人目には
漏れないで、
水底に
眠つたやうに、
面影ばかり
澄切つて
居たのに、――こゝでは、
散乱れた、三ひら、五ひらの
卯の
花が、
凄く
動く
汽車の
底に、ちら/\ちらと
揺れて、
指の、
震へるやうにさへ
見らるゝ。
世には、
清らかな
白歯を
玉と
云ふ、
真珠と
云ふ、
貝と
言ふ。……いま、ちらりと
微笑むやうな、
口元を
漏るゝ
歯は、
白き
卯の
花の
花片であつた。
「――
膝枕をなさい。――
衣絵さん。」
園は
居坐を
直した。が、
沈んだ
顔に、
涙を
流した。
あゝ、
思出す。……
「いくら
私、
堪へましてもね、
冷い
汗が
流れるやうに、ひとりでに
涙が
出るんですもの。
御病人の
前で、
此ぢやあ
悪いと
思ひますとね、
尚ほ
堪らなくなるんですよ。それだもんですからね。
枕許の
小さな
黒棚に、一
輪挿があつて、
撫子が
活かつて
居ました。その
花へ、
顔を
押つけるやうにして、ほろ/\
溢れる
目をごまかしましてね、「
西洋のでございますか、いゝ
匂ですこと。」なんのつて、
然う
言つて――あの、
優い
花ですから、
葉にも、
枝にも、
此方の
顔が
隠れないで
弱りましたよ――
義兄さん。」
と
衣絵さんのもう
亡くなる
前だつた――たしか、三
度めであつたと
思ふ……
従弟の
細君が
見舞に
行つた
時の
音信であつた。
予て、
病気とは
聴いて
居た。――
其の
病気のために、
衣絵さんが、
若手、
売出しの
洋画家であつた、
婿君と一
所に、
鎌倉へ
出養生[#ルビの「でやうじゆう」はママ]をして
居たのは……あとで
思へば、それも
寂しい……
行く
春の
頃から
知つて
居た。が、
紫の
藤より、
菖蒲杜若より、
鎌倉の
町は、
水は、
其の
人の
出入、
起居にも、ゆかりの
色が
添ふであらう、と
床しがるのみで、まるで
以て、
然したる
容体とは
思ひもつかないで
居たのに。
秋の
野分しば/\して、
睡られぬ
長き
夜の、
且つ
朝寒く――インキの
香の、じつと
身に
沁む
新聞に――
名門のお
嬢さん、
洋画家の
夫人なれば――
衣絵さんの(もう
其の
時は
帰京して
居た)
重態が、
玉の
簾を
吹ちぎり、
金屏風を
倒すばかり、
嵐の
如く
世に
響いた。
同じ
日の
夜に
入つて、
婿君から、
先むじて
親書が
来て、――
病床に
臥してより、
衣絵はどなたにもお
目に
掛る
事を
恥かしがり
申候、
女気を、あはれ、
御諒察あつて、お
見舞の
儀はお
見合はせ
下されたく、
差繰つて
申すやうながら、
唯今にもお
出で
下さる
事を
当人よく
存じ、
特に
貴兄に
対しては……と
此の
趣であつた。
髪一
条、
身躾を
忘れない
人の、
此は
至極した
事である。
婿君のふみながら、
衣絵さんの
心を
伝へた
巻紙を、
繰戻すさへ、さら/\と、
緑なす
黒髪の
枕に
乱るゝ
音を
感じて、
取る
手の
冷いまで
血を
寒くしながらも、
園は、
謹で
其の
意を
体したのである。
折から、
従弟は
当流の一
派とゝもに、九
州地を
巡業中で
留守だつた。
細君が、
園と
双方を
兼ねて
見舞つた。
其の三
度めの
時の
事なので。――
勿論、
田端から
帰りがけに、
直ぐに
園の
家に
立寄つたのであるが。
「ね――
義兄さん、……お
可哀相は、
最う
疾くのむかし
通越して、あんな
綺麗な
方が
最うおなくなんなさるかと
思ふと、
真個に
可惜ものでならないんですもの。――
日当は
好んですけれど、六
畳のね、
水晶のやうなお
部屋に、
羽二重の
小掻巻を
掛けて、
消えさうにお
寝つてゝ、お
色なんぞ、
雪とも、
玉とも、そりや
透通るやうですよ。
東枕の
白い
切に、ほぐしたお
髪の
真黒なのが
濡れたやうにこぼれて
居て、
向ふの
西向の
壁に、
衣桁が
立てゝあります。それに、
目の
覚めるやうな
友染縮緬が、
端ものを
解いたなりで、
一種掛つて
居たんです。――
義兄さんの
歌の
本をお
読みなさるのと、うつくしい
友染を
掛物のやうに
取換へて、
衣桁に
掛けて、
寝ながら
御覧なさるのが
何より
楽なんですつて。――あの
方の
魂の
行らつしやる
処も、それで
知れます。……
紫の
雲の
靉靆く
空ぢやあなくつて、
友染の
霞が
来て、
白いお
身体を
包むのでせうね――あゝ、それにね。……
義兄さんがお
心づくしの
丸薬ですわね。……
私が
最初お
見舞に
行つた
時、ことづかつて
参りました……あの
薬を、お
婿さんの
手から、
葡萄酒の
小さな
硝子盃で
飲るんだつて、――えゝ、
先刻……
枕許の、
矢張り
其の
棚にのつた、六
角形の、
蒔絵の
手筐をお
開けなすつたんですよ。
然うすると、……あのお
薬包と、かあいらしい
爪取剪が
一具と、……」
従弟の
妻は、
話しながら、こみあげ/\
我慢したのを、
此の
時ないじやくりして
言つた。
「……
他に
何にもなしに、
撫子と
小菊の
模様の
友染の
袋に
入つた、
小さい
円い
姿見と、
其だけ
入つて
居たんです。……お
心が
思ひ
遣られますこと。
お
婿さんが、
硝子盃に、
葡萄酒をお
計んなさる
間――えゝ
然うよ。……お
寝室には
私と三
人きり。……
誰も
可厭だつて、
看護婦さんさへお
頼みなさらないんだそうです。
第一、お
医師様も、七ツ八ツのお
小さい
時からおかゝりつけの
方をお
一人だけ……
尤も
有名な
博士の
方ださうですけれど――
それでね、
義兄さん。お
婿さんが
葡萄酒をお
計んなさる
間に、
細りした
手を、
恁うね、
頬へつけて、うつくしい
目で
撓めて
爪を
見なすつたんでせう、のびてるか
何うだかつて――
凝と
御覧なすつたんですがね、
白い
指さきへ
瞳が
映るやうで、そして、
指のさきから、すつとお
月様の
影がさすやうに
見えました。それが、
恁う、お
招きなさるやうに
見えるんですもの。
私、ぶる/\としたんです……」
聞いて
居る
園が
震へた。
「ですけれど、あの、お
手で
招かれたら、
懐中へなら
尚の
事だし、
冥土へでも、
何処へでも
行きかねやしますまい……と
真個に
思ひました。
其の
手を、
密と
伸ばして、お
薬の
包を
持つて、
片手で
円い
姿見を
半分、
凝と
視て、お
色が
颯と
蒼ざめた
時は、
私はまた
泣かされました。……
私は
自分ながら
頓狂な
声で
言つたんですよ……
――「まあ、
御覧なさいまし、
撫子が、こんなに
露をあげて
居りますよ」――」
「
私としては、
出来るだけの
事はしました。――
申してはお
恥かしいやうですが、
実際、
此の
一月ばかりは、
押通し
夜も
寝ませんくらゐ
看病はしましたが。」
一
室の、
其処に五
人居た。
著名なる
新聞記者、
審査員――
画家、
文学者、
某子爵の
令夫人が
一人。――
園が
居た。
弔礼のために、
香川家を
訪れたものが、うけつけの
机も、
四つばかり、
応接に
山をなす
中から、
其処へ
通された
親類縁者、それ/″\、
又他方面の
客は、
大方別室であらう。
園が、
人を
分けて
廊下を
茶室らしい
其処へ
通された
時、すぐ
其の
子爵夫人の、
束髪に
輝く
金剛石とゝもに、
白き
牡丹の
如き
半
の、
目を
蔽ふて
俯向いて
居るのを
視た。
皆、
暗然として、
半ば
瞳を
閉ぢて
居たのである。
「
御当家でも――
実に……」
「
全くでございます。」
唯、いひかはされるのは、
其のくらゐな
事を
繰返す。
時に、
鶺鴒の
声がして、
火桶の
炭は
赤けれど、
山茶花の
影が
寂しかつた。
其処へ
婿君が、
紋着、
袴ながら、
憔悴した
其の
寝不足の
目が
血走り、ばう/\
髪で
窶れたのが、
弔扎をうけに
見えたのである。
「やあ……
何うも。」
と、がつくり
俯向いた
顔を
上げたのを、
園に
向けると、
「お
礼を
申上げます、――あのお
薬のためだらうと
思ひます。五
日以上……
滋養灌腸なぞは、
絶対に
嫌ひますから、
湯水も
通らないくらゐですのに、
意識は
明瞭で、
今朝午前三
時に
息を
引取りました
一寸前にも、
種々、
細々と、
私の
膝に
顔をのせて
話をしまして。……
園さんに、おなごりのおことづけまで
申しました。
判然して、
元気です。
医師も
驚いて
居ました。まるで
絶食で
居て、よく、こんなにと、
両三
日前から、
然う
言はれましてな。……しかし、
気の
毒でした。
江戸児は……
食ものには
乱暴です。九
死一
生の
時でも、
鮨だ、
天麩羅だつて
言ふんですから。
蝦が
欲い……しんじよとでも
言ふかと
思ふと、
飛でもない。……
鬼殻焼が
可いと
言ふんです。――
痛快だ! ……
宜しい、
鬼を
食つ
了ひなさい、と
景気をつけて、
肥つた
奴を、こんがりと
南京の
中皿へ
装込むだのを、
私が
気をつけて、
大事に

つて、
箸で
哺めたんですが、みでは
豈夫と
思ふんです。
馴れない
料理人が、むしるのに、
幾くらか
鎧皮が
附着いて
居たでせうか。
一口触つたと
思ふと、
舌が
切れたんです。
鬼殻焼を
退治ようと
言ふ、
意気が
壮なだけ
実に
悲惨です。すぐに
唇から
口紅が
溶けたやうに、
真赤な
血が
溢れるんですものね。」
爾時は、
瞼を
離して、はらりと
口元を
半
で
蔽うて
居た、
某子爵夫人が
頷くやうに
聞き/\、
清らかな
半
を
扱くにつれて、
真白な
絹の、それにも
血の
影が
映すやうに
見えた。
夫人は
堪へやらぬ
状して、
衝と
肩を
反らして、
横を
向いて
又目を
圧へたのである。
「……えゝ、
尤も、
結核は、
喉頭から、もう
其の
時には
舌までも
侵して
居たんださうですが。
鬼殻焼……
意気が
壮なだけ
何うも
悲惨です。は、はア。」
と、
力のない、
笑の
影を
浮かべて、
言つて、
悵然として
仰いで、
額に
逆立つ
頭髪を
払つた。
「あちらの
御都合で、お
線香を。」
「
一寸、
御挨拶を。」
園と
審査員が
殆ど
同時に
言つた。
「それでは、
何うぞ……」
廊下を
二曲り、
又半ばにして、
椽続きの
広間に、
線香の
煙の
中に、
白い
壇が
高く
築かれて
居た。
袖と
袖と
重ねたのは、
二側に
居余る、いづれも
声なき
紳士淑女であつた。
順を
譲つて、
子爵夫人をさきに、
次々に、――
園は
其の
中でいつちあとに
線香を
手向けたが、
手向けながら
殆ど
雪の
室かと
思ふ、
然も
香の
高き、
花輪の、
白薔薇、
白百合の
大輪の
花弁の
透間に、
薄紅の
撫子と、
藤紫の
小菊が
微に
彩めく、
其の
友染を
密と
辿ると、
掻上げた
黒髪の
毛筋を
透いて、ちらりと
耳朶と、
而して
白々とある
頸脚が、すつと
寝て、
其の
薄化粧した、きめの
細かなのさへ、ほんのりと
目に
映つた。
まだ
納棺の
前である。
「
香川さん。」
袴で
坐を
開きながら、
園は、
堅く
障子を
背にした
婿君を
呼んで
言つた。
「……
一寸お
顔を
見たいんです。」
声の
調子の
掠れるまで、
園は
胸が
轟いたのである。が、
婿君は
潔く、
「えゝ、
何うぞ――
此方へ。」
とづいと
立つと、
逆屏風――たしか
葛の
葉の
風に
乱れた
絵の、――
端を
引いて、
壇の
位牌の
背後を、
次の
室の
襖との
狭い
間を、
枕の
方へ
導きながら、
「
困りました。」
「…………」
「なくなられては
困りましたなあ。」
と
振向き
状に、ぶつきら
棒に
立つて、
握拳で、
額を
擦つたのが、
悩乱した
頭の
髪を、
掻
りでもしたさうに
見えて、
煙の
靡く
天井を
仰いだ。
「
唯々、お
察し
申上げます。」
「は。」
と
云つて、
膝をついて、
「
衣絵ちやん、――
園さんです。」
と、
白いものを
衝と
取つた。
眉毛を
長く、
睫毛を
濃く、
彼方を
頸に、
満坐の
客を
背にして、
其の
背の
方は、
花輪が
隔てゝ、
誰にも
見えない。――
此方に
斜くらゐな
横顔で、
鼻筋がスツとして、
微笑むだやうな
白歯が
見えた。――
妹が
二人ある。
其の
人たちの
優しさに、
髪を
櫛巻のやうにして、
薄化粧に
紅をさした。
「
衣絵さん。」
と
心で
言つて、
思はず、
直と
寄つた
膝が、うつかり、
袖と
思ふ
掻巻の
友染に
触れると、
白羽二重の
小浪が、
青く
水のやうに
其の
襟にかゝつた。
屈みかゝつて、
上から
差覗く、
目に
涙の
婿君と、
微に
仰いだ
衣絵さんの
顔と、
世に
唯、
此の
時三
人であつた。
「……お
静かに、お
静かに、
然やうなら……」
ハツと
息して、
立つて、
引返す
時、……
今度は
園が
云つた。
「
私も
困ります。」
「…………」
「
寂くつて、
世間が
暗いやうです。――
衣絵さんはおなくなりなさいました。」
「…………」
「
香川さん。――しかし、
今では、
衣絵さんを、
衣絵さんを、」
「…………」
「
私が、
思、
思つても! ……」
愛も、
恋も、
憧憬も、ふつゝかに、
唯、
思とのみ、
血を
絞つて
言つた。
「……
思つても、――
貴方は
許して
下さいますか。」
仰いで
言ふのを、
香川は、しばらく
熟と
視たが、
膝をついて、ひたと
居寄つて、
「
衣絵ちやんが
喜びませう……
私も、……
嬉しい。」
恋の
仇は、
双方で
手を
取つた。
「あ、お
顔を。」
振向いて、も一
度視た。
其の、
面影を、――
夜汽車の
席の、いまこゝに――
「さ、
膝を、
膝枕をなさい、
誰も
居ません。」
園は、もの
狂はしく、
面影の
白い、
髪の
黒い、
裳の、
胸の、
乳のふくらみのある
友染を、
端坐した
膝に
寝かして、うちつけに、
明白に、
且つ
夢に
遠慮のないやうに
恋を
語つた。
「
岩沼――
岩沼――」
弁当、もの
売の
声が
響くと、
人音近く、
夜が
明けたと
思ふのに、
目には、
何も、ものが
見えない。
吃驚した。
園は
掻
るやうに
窓を
開けた、が、
真暗である。
「もし、もし、もし……
駅員の
方、
駅の
方――
駅夫さん……」
とけたゝましく
呼んだ。
「
何ですか。」
「
失礼ですが、
私の
目は
何うかなつては
居ないでせうか。」
「
貴方――
何うかして
居ますね。……
確乎なさらなくつちやあ
不可いぢやあゝりませんか。」
独言して、
「
何を
言つてるんだ。」
はつとすると、
構内を、
東雲の一
天に、
雪の――あとで
知つた――
苅田嶽の
聳えたのが
見えて、
目は
明に
成つた。
はじめて
一人乗込んだ
客がある。
袖でかくすやうにした
時、
鍋の
饂飩は、しかし、
線香の
落ちてたまつた、
灰のやうであつた。
水源を、
岩井の
大沼に
発すと
言ふ、
浦川に
架けた
橋を
渡つた
頃である。
松島から
帰途に、
停車場までの
間を、
旅館から
雇つた
車夫は、
昨日、
日暮方に
其の
旅館まで、
同じ
停車場から
送つた
男と
知れて、
園は
心易く
車上で
話した。
「さあ、
何と
言はうかな。……
景色は
何うだ、と
聞かれて
悪いと
言ふものもなからうし……
唯よかつたよ、とだけぢや、
君たちの
方も
納るまいけれども、
何しろ、
私には、
松島は
見ても
松島を
論ずる
資格はないのだよ。
昨日も
君に
世話に
成つたと
言ふから、
知つてるだらうが、
薄暮合、あの
時間に
旅館へ
着いたのだから、あとは
最う
湯に
入つて
寝るばかりさ。」
園は
昨日の
其までは、
聊か
達す
用があつて
仙台に
居たのであつた。
「
夜があけたわ、
顔を
洗つたわ、
旅館の
縁側から、
築山に
松の
生へたのが
幾つも
霞の
中に
浮いて
居る、
大な
池を
視めて、いゝなあと
言つたつて、それまでだ。――
海岸へ
出たからつて、
波が
一つ
寄るぢやなし、
桜貝一つあるんぢやあない。
しかし、
無理だよ。……
予て
聞いても
居るし、むかしの
書物にも
書いてある。――
松島を
観るのは
船に
限る。八百八
島と
言ふ
島の
間を、
自由に
青畳の
上のやうに
漕ぐんだと
言ふから、
島一つ一つ
趣のかはるのも、どんなにいゝか
知れやしない。
魚もすら/\
泳ぐだらうし、
松には
藤も
咲いてるさうだし、つゝじ、
山吹、とり/″\だと
言ふ、
其の
間を、
船の
影に
驚いて、パツと
群れて
水鳥が
立つたり、
鴎が
泳いで
居たり……」
「
然うで、
然うで、
其の
通りで……
旦那。」
と、
車夫は
楫棒に
張つた
肩を
聳やかした。
「
船でなけりや、
富山と
言ふのへ
上るだね。はい、
其処だと、
松島が
残らず
一目に
見えますだ。」
「ださうだね。
何しろ、
船で
巡るか、
富山へ
上らないぢやあ、
松島の
景色は
論ずべからずと、ちやんと
戒められて
居るんだよ。」
「
何うでがすね、
此から、
富山へおのぼりに
成つては、はい、一
里たらずだ、
一息だで。」
「いや、それよりも、
早く
帰つて、
墓参がしたくなつた。」
「へい。」
と
言つたが、
乗つた
客も、
挽く
男も、
妙に
黙つた。
園は
我ながら、
余りつきもない
言をうつかり
言つたのに、はつと
気が
着いたほどである。
車夫は
唐突に、
目かくしでもされたやうに
思つたらう。
陽が
白く、
雲が
白く、
空も
白い。のんどりとして
静寂な
田畠には、
土の
湧出て、
装上るやうな
蛙の
声。かた/\かた/\ころツ、ころツ、くわら/\くわら、くつ/\くつ。
中でも
大きさうなのが、
土の
気の
蒸れる
処に、
高く
構へた
腹を、
恁う
人の
目に
浮かせて、があ/\があ/\と
太く
鳴く。……
俥は
踏切を、
其の
蛙の
声の
上を
越した。
一昨日の
夜を
通した
雨のなごりも、
薄い
皮一
枚張つたやうに
道が
乾いた。
一
方が
小高い
土手に
成ると、いまゝで
吹いて
居た
風が
留むだ。
靄も
霞もないのに、
田畑は一
面にぼうとして、
日中も
春の
夜の
朧である。
薄日は
弱く
雲を
越さず、
畔に
咲いた
黄蒲公英、
咲交る
豆の
花の、
緋、
紫にも、ぽつりとも
黒い
影が
見えぬ。
朱の
木瓜はちら/\と
灯をともし、
樹の
根を
包むだ
石楠花は、
入日の
淡い
色を
染めつゝ、
然も
日は
正に
午なのである。
道にさし
出た、
松の
梢には、
紫の
藤かゝつて、どんよりした
遠山のみどりを
分けた
遅桜は、
薄墨色に
濃く
咲いて、
然も
散敷いた
花弁は、
散かさなつて
根をこんもりと
包むで、
薄紅い。
其の
傍に、二ツ三ツ
境のない
墓が
見える。
見つゝ、
俥は、
段々の
田を
隔てゝ、
土手添ひの
径を
遥に
行くのである。
雲も、
空も、
皆白い。
其処へ、
影のさすやうなのは、一つ一つ、百千と
数へ
切れない
蛙の
声である。
鳴く、
鳴く。……
松杉、
田芹、すつと
伸びた
酸模草の
穂の、そよとも
動かないのに、
溝川を
蔽ふ、たんぽゝの
花、
豆のつるの、
忽ち一
所に、さら/\と
動くのは、
鮒、
鰌には
揺過ぎる、――
昼の
水鶏が
通るのであらう。
夢を
見て
居るやうである。
趣は
違ふけれども、
園は、
名所にも、
古跡にも、あんな
景色はまたあるまいと
思ふ
処を、
前刻も一
度通つて
来た。
――
水源を
岩井沼に
発すと
言ふ、
浦川の
流の
末が、
広く
成つて
海へ
灌ぐ
処に
近かつた。
旅館を
出てまだいく
程もない
処に――
路の
傍に、
切立てた、
削つた、
大な
巌の、
矗々と
立つのを
視た。
或は、
仏の
御龕の
如く、
或は
人の
髑髏に
似て、
或は
禅定の
穴にも
似つゝ、
或は
山寨の
石門に
似た、
其の
岩の
根には、
一ツづゝ
皆水を
湛へて、
中には
蒼く
凝つて
淵かと
思はるゝのもあつた。
岩角、
松、
松には
藤が
咲き、
巌膚には、つゝじ、
山吹を
鏤めて、
御仏の
紫摩黄金、
鬼の
舌、また
僧の
袈裟、また
将軍の
緋縅の
如く、ちら/\と
水に
映つた。
「
此処も
海ではなかつたか――いまの
松島の。……
此の
巌は、一つ一つ、あの
島のやうに――」
一
方は、ひしや/\とした、
何処までも
蘆原で、きよつ/\、きよつ/\、と
蘆一むらづゝ、
順に、ばら/\と、
又飛々に、
行々子が
鳴きしきつた。
それから、しばらくは、まばらにも
蘆のある
処には、
皆行々子が
鳴いて
居た――
こゝに、
蛙の
鳴くやうに……
まだ、
其の
頃は、
海ある
方に
雲の
切れた、
薄青い
空があつた。それさへいまは
夢のやうである。
園は、
行々子の
鳴く
音におくられつゝ、
蛙の
声に
迎へられたやうな
気がした。
……
水鶏が
走るか、さら/\と、ソレまた
小溝が
動く。……
動きながら
其の
静寂さ。
唯、
遠くに、
行々子が
鳴きしきつて、こゝに
蛙がすだく――
其の
間を、わあーとつないで、
屋根も
門も
見えないで、あの、
遅桜の
山のうらあたり、
学校の
生徒の、
一斉に
読本の
音読を
合はす
声。
園は
心も
気も

と
成つた。
ピイ、キリ/\と
雲雀が
鳴くと、ぐらりと
激しく
俥が
揺れた。
「あゝ、
車夫。」
酷い
道だ。
「
降りやう、――
降りやう。」
「
何、
旦那、
大丈夫で、
昨日も
此処を
通つたゞね、
馴れてるだよ。」
「いや、
昨日も、はら/\したつけが、まだ
濡れて
居たから、
輪をくつて、お
前さんが
挽きにくいまでも、まだ
可かつた。
泥濘が
薬研のやうに
乾いたんぢやあ、
大変だ。
転んだ
処で
怪我もしまいが、……
此の
咲いてる
花に
極が
悪い。」
道のゆく
手には、
藁屋が
小さく、ゆる/\
畝る
路に
顕はれた
背戸に、
牡丹を
植ゑたのが、あの
時の、
子爵夫人のやうに
遥に
覗いて
見えた。
「はゝゝ、
旦那、
御風流だ。」
それから、
歩行きながら、
「
東京から
来らつしやる
方は、
誰方も
花がお
好きだアなあ。」
「いろんな
可愛いのが、
路傍に
咲いて
居るんだ。
誰だつて
悪くはあるまい。」
「
此人方等は、
実の
成る
奴か、
食へるんでなくつては、
黄色いのも、
青いのも、
小こいものを、
何にすべいよ。」
と
笑つた。が、ふと、
汗ばんだ
赤ら
顔の、
元気らしい、
若いのが、
唇をしめて……
真顔に
成つて、
「
然うだ、
然うだ、
思ひつけた。
旦那、あなた
様、とこなつと
言ふ
草は
知つてるだかね。」
「
常夏。」
「それよ。」
「
撫子の
事ぢやあないか。」
「それよ――
矢張り……
然うだ――
忘れもしねえ。……
矢張り
同じやうな
事を
言はしつけが、
私等にや
其の
撫子が
早や
分んねえだ。――
何ね、
今から、二三
年、
然うだねえ、
彼れこれ四
年には
成るづらか。
東京から
来なさつたな、そりや、
何うも
容子たら、
容色たら、そりや
何うも
美い
若い
奥様がな。」
「
一人かい。」
「へゝい、お
二人づれで。――
旦那様は、
洋服で、それ、
絵を
描く
方が、こゝへぶら
下げておいでなさる、あの
器械を
持つて
居らしつけえ。――
忘れもしねえだ、
若奥様は、
綺麗な
縫の
肩掛を
手に
持つてよ。
紫がゝつた
黒い
処へ、一
面に、はい、
桜の
花びらのちら/\かゝつた、コートをめしてな。」
園はゾツとした。
「
丁ど
今頃だで――それ/\、それよ
矢張り
此の
道だ。……
私と
忠蔵がお
供でやしたが、
若奥様がね、
瑞巌寺の
欄間に
舞つてる、
迦陵頻伽と
云ふ
声でや、
――あの
夏になると、
此の
辺に
常夏が
沢山咲きませうね――
へい、
其の
常夏を
知らねえだ。
――まあ、
撫子の
事なんだよ――
其のさ、
撫子を
知らねえだ。
私は
汗を
流したでなあ。……
折があつたら、
誰方ぞ、
聞かう
聞かう
思つて、
因果と
因縁で三
年経つたゞ。
旦那、
花がお
好きだで、な、どんな
草葉だかこゝ
等にあつたら、
一寸つまんで
教へてくらせえ。」
「
淡紅色の、
優い
花だが、
此の
辺には
屹とあるね。あるに
違ひない。
葉だけでも
私にも
分るだらう。」
と、のつかゝつた
勢で、
溝を
越さうとして、
「お
待ち。」
園は、つと
俥に
寄つた。
バスケツトを
開けて、
其の
花が、
色のまゝ
染まつた、
衣絵さんの
友染を、と
思つた……
其時である。
車夫が、
「あつ。」
と
口を
開けて、にやりとして、
「へ、へ、
転ぶと、そこらの
花に
恥かしい。……うつ、へ、へ。
御尢もだで。
旦那は
目が
早いだやあ。」
「
何だ。」
「へ、へ、
私あまた。
真個の
草葉の
花かと
思つたゞ、」
「
何だよ……」
「なんだよつて、へ、へ、へ。そこな、
酸模、
蚊帳釣草の
彼方に、きれいな
花が、へ、へ、
花が、うつむいて、
草を
摘んで
居なさるだ。」
「え。」
「や――
旦那、――
旦那でがせう。
其方を
見ながら。
招かつしやるは。」
「これ。」
「や、
私で、――へい、
私で。」
と、きよろりとしながら、
「へい、へい。」
俥を
横に、つか/\と、
田の
畔へ、
挽いて
乗掛けると、
白い
陽に、
影もなく、ぽんと
立つて、ぺこ/\と
叩頭をした。
「へい、
其が、へい、
成程、
其が、
常夏で、へい。」
とまた
叩頭をした。が、ゑみわれるやうに、
得もいはれぬ、
成仏しさうな
笑顔を
向けて、
「
旦那、
旦那、
旦那……」
「
何。」
「あなた
様にも、
御覧なせえと……
若奥様が。」
園は、
魂も
心も
宙を
踏んで
衝と
寄つた。
空に一
輪、
蕾を
添へて、
咲いたやうに、
其の
常夏の
花を
手にした、
細りと
白い
手と、
桜ぢらしの
紫紺のコート。
「
衣絵さん……」
品のいゝ、
藤紫の
鹿子切の、
円髷つやゝかな
顔を
見た
時。
「ぎやツ。」
と
喚くと、
楫棒をたゝき
投げて、
車夫は
雲雀と十
文字に
飛んで
遁げた。
寂寞と
成る。
蛙の
声の
小やむだ
間を、
何と、
園は、はづみでころがり
出した
服紗の
銀の
鍋に、
霊と
知りつゝ、
其の
霊の
常夏の
花をうけようとした。
然り、
銀の
鼎を
捧げた
時、
園は
聖僧の
如く、
身も
心も
清しかつた。
襟をあとへ、
常夏を
指で
少し
引いて、きやしやな
撫肩をやゝ
斜に
成つたと
思ふと、
衣絵さんの
顔は、
睫を
濃く、
凝然と
視ながら
片手を
頬に
打招く。……
撓ふ、
白き
指先から、
月のやうな
影が
流れた。
寄らうとすると、
其の
手も
映る、
褄も
映る、
裳に
真蒼な
水がある。
また
招くのを、ためらうと、
薄雲のさすやうに、
面に
颯と
気色ばんで、
常夏をハツと
銀の
鍋に
投げて
寄越した。
其の
花の
影も
映つた。が、いまは、
水も
火もと
思つた。
「
御免なされや。」
背中に、むつとして、いきれたやうな
可厭な
声。
此は、と
視ると、すれ
違つて、
通り
状に
振向いたのは、
真夜中の
雨に
饂飩を
食つた、
髪の
毛の一
筋ならびの、
唇の
爛れたあの
順礼である。
見る
端に、
前歯の
抜けた、
汚い
口でニヤリとした。
車夫が、
其の
道を、
小さく
成つて、
遁げる、
遁げる。
はや、
幻影は
消えつゝ、
園は
目の
前に、一
坐、
藤つゝじを
鏤めた、
大巌の
根に、
藍の
如き
水に
臨むで、
足は、めぐらした
柵を
越えたのを
見出した。
杵(キネ。)が
池と
言ふ、
人を
取る
水よ、と
後に
聞く。
衣絵さんに、
其の
称の
似通ふそれより、
尚ほ、なつかしく、
涙ぐまるゝは、
銀の
鍋を
見れば、いつも、
常夏の
影がさながら
植ゑたやうに
咲くのである。