墨色

中谷宇吉郎




 私が初めて墨色というものに興味を惹かれたのは、友人金沢の日本画家N氏の家でのことであった。N氏は洋画出身であるが、其の後支那の旧い文化に興味を持ち始めたのが動機で、今では日本画家としての方が通りが良い。二十年近くも前のことであるが、私が金沢の高等学校に在学時代、初めて知り合いになった頃は、支那の仏教典籍に凝っていて、鳥巣禅の図などを描いて呉れたことがあった。その後大学へ行ってからは、私は専門の方の勉強に忙しくなってしばらくN氏との交渉も途絶え勝ちになっていたのであるが、五、六年前に金沢へ立ち寄った時に久し振りで同氏の画室を訪れたことがあった。
 久し振りの会合で昔の思い出などを語り合っている中に、N氏は「此の頃段々墨絵に興味が出て来て、特に墨色の美しさに何よりも心を惹かれるようになりました。それで少し許り研究を始めたのですが」という前置きで色々の墨を持ち出して来た。凝り性のN氏のことだからまた始めたなと思って、私も興味を感じながらその話に引き入れられたのであった。そして予期の如くにその話は大変面白かった。墨の蒐集家は日本に沢山あって、その誰もが墨のことでは自分が一番くわしいと思っておられるようであるから、田舎の片隅でこっそりいわゆる唐墨のかけらなどを少しばかり集めているN氏の墨の話などには、あまり誰も権威を認めてくれないようである。それに墨色といえば墨ばかりでなく硯も重要な因子になるので、それまではとてもN氏の力では蒐集することが出来そうもなかった。それでもN氏はやっと端渓の小さい硯を一つ手に入れ、唐墨の破片を数片、宋その他の墨も数片は集めていた。蒐集品としてはこれらの品は全く一笑に附せられるものであろうが、私が興味をひかれ、かつ感心したのはその研究態度であった。従来の名墨の研究というのは、その系統や彫刻の図柄の研究が多いので、墨色自身の組織立った研究というものは極めて稀れかあるいは絶無に近いのだそうである。ところがN氏の研究は全く科学的で、ちょうど物理学者のやり方と筋の上では完全に一致しているのにちょっと驚かされたのである。N氏は物理学の方面の教育はほとんど受けていないのにもかかわらず、その研究の心構えは立派な物理学者であった。勿論器械も装置もほとんどないのであるから、その研究は物理的研究ということは出来ないが、それだけに氏の「物理的研究」には一層の興味がひかれたのである。
 氏は他の条件を一定に決めなければ、ある性質の比較は出来ぬということをちゃんと心得て、まず用いる硯をきめ、常にその硯で蒸溜水を用いて色々の墨をってみたのである。「磨り方は手加減でいつも大体同じ位の力で磨ることにしまして」という説明もついていた。そして紙も十分注意して石粉の全然はいらぬものを使って、その上に濃淡様々の墨色が出るような簡単な図形を描いて見るのであった。それを色々の墨についてやってみた、その比較を見せられたのであるが、私は初めて墨色の差というものがこれほど著しいものであるかと驚いたのであった。
 墨が淡くなると墨色の差が素人にも大変分りやすくなるので、色々の程度の青みを帯びたもの、茶色がかかったもの、その青みや茶色にも数種の系統があることなど初めて知った私には一つの驚異であった。それにはもし知らぬ人がこれを見せられたらきっと色々の絵具を混ぜたものだろうと思う位はっきりした差が出ていたのである。実際のところ、墨色の差などというものは、極めて特殊の感覚を持った人にのみ味得出来るもので、ちょうど食通の料理自慢のようなものであろうとぼんやり考えていたのであるが、このようにして作った墨色図鑑を見せられて初めて、世の中のことは何でも一応は研究してみるべきものだなと思ったのである。
 どの墨がどのような墨色をしていたかはすっかり忘れてしまったが、支那の古い墨の一つには透きとおるような青みを帯びた墨があったが、あの色だけは忘れかねるものがあった。「幼児の瞳をのぞいたような感じというのはこんな色をいうのでしょうね」とN氏もその色が好きであった。良い墨で書いた字は筆力が紙背に徹するといわれているのもN氏の解釈によると、墨色が透明な感じを与えることを指しているのだろうというのであった。その解釈も面白かった。
 ところでこのような墨色の差が墨のどういう性質に帰因するかという問題、それは誠に大変な問題なのであるが、それにN氏は正直に真正面からとっかかったのだそうである。第一に墨汁中の墨の粒子の大きさに関係があるのだろうという見込みで、医大の某教授に頼んで顕微鏡を使わせて貰うことにしたのだそうである。毎日墨と硯とを持って研究室へ通うということは、さて実行するとなるとなかなか億劫おっくうなことだったろうと思う。それでもN氏は大分根気よく顕微鏡を覗き続けたという話であった。勿論墨の粒子の形が顕微鏡で見える筈もないので、この研究は何の結論も得られなかった。「どうも粒と粒との連り工合が少し違うようでしたが」とN氏は毛氈の上にきちんと坐って、目をしばたたきながら首をかしげるのであった。

 墨は東洋三千年の文化と切り離し得ぬものであるともいえよう。それにこの頃のように科学が盛んになっていながら、墨の科学的研究というものは極めて少い。たしか以前に化学者の一人でこの問題にちょっと手をつけられた方があった位で、その例を除いては、先年亡くなられた寺田寅彦先生の墨汁の膠質学的研究が唯一のものであろう。先生の研究は前に『画説』に紹介したことがあるのでここでは省略するが、墨流しに端を発したこの研究は、先生が亡くなられるまで続いて、遂に未完成の研究として遺されたものである。しかし墨の粒子の大きさや水面に拡がる墨膜の厚さなどの測定もされ、墨と硯との各種の配合で得られる墨汁の色々の性質もよく調べられ、特に硯の鋒鋩の研究や磨墨の機構の闡明せんめいなど、全く手の入っておらぬ研究の広い分野にわたって開拓されたところは随分大きかった。もっともこの研究は、純然たる物理学の範囲の研究であって、墨色のことなどには全然ふれていない。ただ今後墨色の物理的研究などに志す人があったら、その物理的、特に墨汁を膠質として見た時の性質は、この研究に明示されている方法に従ってやればよいということを示されているのである。
 その後N氏とは会う機会がなかったので、この寺田先生の墨の研究の話はまだしていない。今度会って詳しい話をしたらきっと喜ぶことだろうと思う。しかし残念ながらこの研究にはやはりかなりの装置が要るので、画室の片隅でやるという工合には行くまい。しかし色々の墨の所蔵家のところを訪ねて名墨の墨色をあの墨色図鑑に収めて置くというような仕事もまた大切なのである。もっともそれはなかなかむずかしいことなので、前にN氏に会った時の話では、名墨の蒐集家は滅多に磨らせてくれないものだそうである。たとえ千円の墨としたところで一度に十銭も磨ることはないのであるが、それでもなかなか磨らせてもくれないし、本人もまた決して磨らないものだという話であった。それは墨の価値は墨自身の古さ以外に、磨り口の古さということで決るので、新しく磨ることは禁物なのだそうである。あまり意外な話なので思わず吹き出したら、N氏も一緒に笑い出した。名墨の科学的研究もまたむずかしいものである。
 ところでこれらの名墨が手に入ったとして、それを磨って得た墨汁について寺田先生のされたような研究を行ったら、それで名墨の特性がすっかり分るだろうか。千古に秘められた墨色の謎はそれ位のことでは簡単に解かれはしないだろうという気もする。そのわけは、膠質学的に調べた墨の性質は、結局墨の膠質的性質の究明となるのであって、その性質が直接墨色と関係があるかどうかは分らない。その外にも墨の物理的性質には調べなければならぬことが沢山ある。現在どうしても昔の支那の名墨のような墨が出来ないというのも、誠に不思議である。作ってから長い年月の間ねかしておかなければあのような墨色が出ないものならば仕方がないが、単に材料と製法だけの問題ならば研究の方法はいくらもあるだろうと思われる。
 墨の材料は結局煤の粉と膠とが主なものであるが、そのうち煤の粉の方だけを考えて見ても実は仲々大変なのである。とにかく炭素というものは金剛石にも石墨にも木炭にもなり得るもので、金剛石と石墨とは結晶であるから問題はまだ簡単であるが、一番普通な木炭ようの炭が無定形という極めて厄介なものなのである。無定形というのは結局誤魔化しであって、詳しく調べたならばその中がまたいくらでも細かく分類出来るものかも知れない。第一木炭の比重というものさえ測るのは大変なのである。京大のY教授が炭の粉の比重を測定された研究があるが、それによると焼き方によって色々の種類のものが出来るらしい。そのことなどは墨の材料を作る上によほど参考になることだろうと思われる。
 ところで結局大騒ぎをして昔の名墨のような墨の出来上る頃には、誰も墨なんか使わないような時代になっていはしないかという心配もある。しかし物の色、しかも微妙な色調に関する科学的の研究というものが役に立たなくなる時代はこないであろう。この頃外国の良い印画紙が段々輸入されなくなって、国産品を使ってみるとつくづく感ずるのであるが、どうも色調が悪いようである。感度とか濃淡とかは十分出るにもかかわらず、仕上げた時の色の悪いのは致し方がないようである。そういえば外国の良い印画紙には黒色の非常に豊富な種類があって、青墨の墨色にも油煙墨の墨色にも似た色調のものが幾種類もある。あの印画紙の色の加減が分るまでは、日本の写真材料もまだ本当のものにはなっていないといわれても仕方がない。感度とか濃淡とかいうものだけではまだ実用品としての写真としなくてはならない。あの名印画紙とも称すべきものの蔭に隠れている色調の研究をどういう風にしてやったかを知りたいものである。きっと長い間の地味な土台になる研究があったのだろうということだけは間違いなくいえよう。
 色というものは、普通にちょっと考えられるよりも実は非常にむずかしいものである。ペンキの材料になる絵具を作っている会社に勤めている友人の話では、黄色の絵具を作るつもりでやっていると、それが橙色になったりすることが珍しくないそうである。一定の化学成分をもっている化合物が一定の色になるとは限らないので、ちょっとした不明の原因のためにまるでとんでもない色のものが出来てしまうことがあるらしい。そんなものを分析してみても成分は全く変っていないのである。原因の一つとして、ほんのわずかばかり酸性になるか塩基性になるかというようなこともあるらしいが、そんな簡単な原因ばかりとは限らないので、全くわけが分らずに、良い色になったり、とんでもない別の色になったりすることがあるそうである。どうも科学の力も案外当てにならぬものである。

 こんなことを考えてみると、墨色の秘密は急には分りそうもない。ペンキの色も分らぬ科学者に名墨の色が分る筈もないといわれそうである。まあこういう研究は、学問が学問を職業とする人々の手にある間は出来そうもない。もっと文化が国の隅々にまで浸み込んだ時代が来るまでは、このような東洋三千年の文化に一つのペリオドを打つような研究は現われてこないであろう。
(昭和十二年十月)





底本:「中谷宇吉郎集 第二巻」岩波書店
   2000(平成12)年11月6日第1刷発行
底本の親本:「冬の華」岩波書店
   1938(昭和13)年9月5日刊
初出:「美術思潮 1」
   1938(昭和13)年1月1日発行
入力:kompass
校正:岡村和彦
2017年3月11日作成
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