帰依と復活

龜井勝一郎




 私の大和古寺巡礼は、まづ夢殿に上宮太子を偲び奉り、ついで法隆寺、中宮寺、法輪寺、薬師寺、唐招提寺、東大寺をめぐつて、最後はいつも新薬師寺で終るのであるが、これで飛鳥白鳳天平の主なる古寺はひととほり歩いたことになる。私は数年来これをくりかへしてきた。そのあひだに古寺や古仏に対する自分の態度にも様々の変化があつたし、さういふ心の起伏については随時述べてきたが、こゝでもう一度いま私の抱いてゐる感慨をまとめて述べておきたい。それは他の古典にも通ずるであらう、云はば私の懐古の態度である。決して新しい見解ではない。既に解決したと思ひこんでゐる問題や、わかりきつたこととして顧みずにゐるやうなことをも、幾度も心に問ひ質して、つねに初心者の気持を失ふまい、絶えず発心する者でありたいといふのが私の願ひなのだ。新薬師寺を最後にみて、南大門を後に宿へ帰る道すがら、私の思ふことはいつもこの一事である。以下そのための覚え書である。
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 すべて古典や古寺に接するとき、我々はまづそれが現代に何の役に立つか、その実際的な意味を問はうとしがちである。大和の古仏の美しさは誰しもみとめるであらう。しかしさういふ美しさや崇高な挙措が、現代の錯雑した問題を解明するに果して役立つだらうか。そこに救ひはあるだらうか。――これは様々な意味で有力な疑惑であるといへよう。必ず一度は直面するにちがひないこの大事な第一問を、徹底的に考へてみようとする人は尠い。この疑惑の重大さに気づかない。そして過去のものがどんなに優れてゐようと、要するにそれは過去であつて、現代人たる自分達は新しい創造に生きねばならぬといふ見解に達する。少くとも重点は現代に在つて、過去は第二義的だといふ。あるひは逆に、過去こそ一切であつて、現在は無だといふ考へ方もある。
 過去と現在――誰しも何げなく用ひてゐるこの言葉の、真の意味はどこにあるのだらうか。この二つは区別して考へらるるものだらうか。歴史といふ大生命の流れに面したとき、我々人間の思慮に由る区別が果してどれほどの力をもつか。私も長いあひだ迷つてきた。大和の古寺を巡りながらも、ふとかうした疑惑が心に生じ、不安になる。
 さういふとき私はまづ自分の心に問ひ質す。何故、古典の地へ幾たびとなく誘はれるのか。おまへをこゝへ導いて来たそもそもの原因は何か。私は幾たびとなく自問する。そして自分の心底からの答――唯一と云つていゝものから、改めて古仏を仰がんとするのである。唯一のもの――私はそれを再生の祈念と呼ばう。いままでの思想や教養や知識を一切放下して私は新たに生れ変らねばならぬ――この願だけはいつも心のどこかに宿つてゐたといへる。むろん当初には、美術鑑賞といふ名目や、新しく日本的教養を得たいといふ下心はあつたし、同時に自分の逍遙してゐるところは美しくはあるが所詮墓場であり廃墟にすぎぬではないかといふ疑念も深かつた。
 しかし私の拝した古仏は、それら一切の危惧をふきとばしてくれた。私は自力で一切放下しようと思つて古寺を訪れたのに、確乎と私にそれを迫つたのはむしろ仏自身であつた。仏のみが一切放下してくれるのであり、人間の為すべきことはたゞ祈りのみである。諸※(二の字点、1-2-22)の仏像は、黙然としてしかも一挙にこれを教へてくれたのであつた。たとへば救世観音について、或は百済観音について、すでに述べたところである。私は深い感謝をもつていつもこの邂逅を想起する。つまり私は、あつといふ間に仏を愛し信じてしまつたのだ。どうしてさういふことになつたか自分でもうまく説明は出来ない。
 過去と現在といふ問題を、殊更哲学的に穿鑿する必要はなからう。要するに私は仏を愛し信ぜざるをえなかつたのだ。私は愛したのだ。これが一切であり、愛と信のあるところに「過去」といふ言葉は消えてすべては現在となる。決してめづらしい感情ではない。たとへば自分の父母や愛するものが死んだとき、我々は死といふ事実によつて愛を忘却することが出来るであらうか。むしろ死によつて、愛の切なさを一層痛感するであらう。死はまことの愛をよび起す。既に肉体は滅びて、しかも我々に愛惜の涙を流さしむるもの、それがまことの生命と呼ばるべきではなからうか。古典についても同じことが云へるであらう。作者の肉体は滅びた、しかも彼の生命は言霊となつて後代の我々に無限の愛情をめざめしむる。何らかの祈念をもつて接する人に、確乎として答へるものが必ずあるのだ。この生々なまなましい感動を理窟で説明しようとしてはなるまい。こゝに終始せんとする決意が、すべて古典や古寺に向はんとするものの根本態度ではなからうか。過去とは愛と信仰の冷却に他ならない。
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 私は仏像を美術研究の対象とし、様式論や表現方法から論ずるのは邪道だと屡※(二の字点、1-2-22)述べてきた。また日本的教養を積まうといふ下心で古寺巡りするのも味気ないと語つてきた。とはいへ、さういふ邪道や下心をもつて臨んでも、それを絶対に拒否する力が仏像にある、むしろそれを機縁として、最後にはまことの信仰に導く摂取不捨の慈悲がある筈だ。心なごやかなとき、私はさう思ふ。かりそめの好奇心から古寺を巡つても、或は古仏の写真を弄んでも、それらの些事が縁となつて時至れば勃然と菩提心を起すかもしれぬと。兼好法師が徒然草にとゞめた次のやうな言葉を尤もだと思ふ。
「筆をとれば物書かれ、楽器をとれば音をたてんと思ふ。盃をとれば酒を思ひ、骰子をとればうたんことを思ふ。心は必ず事に触れて来る。かりにも不善の戯れをなすべからず。
 あからさまに聖教の一句を見れば、何となく前後の文も見ゆ。率爾にして多年の非を改むる事もあり。かりに今此の文をひろげざらましかば、此の事を知らんや。是れ即ち触るる所の益なり。心更に起らずとも、仏前にありて数珠をとり経をとらば、怠るうちにも善業おのづから修せられ、散乱の心ながらも縄床に坐せば、覚えずして禅定なるべし。
 事理もとより二つならず。外相若しそむかざれば、内証必ず熟す。しひて不信を云ふべからず、仰ぎて是を尊むべし。」
 仏像をガラス箱に入れて鑑賞するなどを私は当世の堕落とみなしたが、兼好の筆法をもつてすれば、これもまた一つの縁となつて、やがてまことの信仰にめざむるかもしれない。伊達に古仏を飾り、古寺を巡つても、所詮は本願に導かれるのかもしれない。仏はいついかなる場所に在つてもやはり仏なのであるから、必ず慈心を垂れるに相違ないともいへよう。たゞ私自身に関してはかゝる場合「しひて不信を云ふ」のである。何故なら、たとへ外相そむかずとしても、凡愚の悲しさには、内証必ず熟すとはまゐらぬからである。また他人の説についても、つい是非分別せずに黙つてゐられないのはやはり凡愚の故であらうか。
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 仏像を語るといふことは、古来わが国にはなかつた現象である。仏像は語るべきものではなく、拝し祈るべき仏身に他ならず、敢てこれを語るには仏とひとしく長年月の難行苦行を経なければならぬ。当然のことを私は述べてきただけなのである。代々の祖先は、その前にひれ伏して、己の悲願を告げ、救ひを求め、畏れ慎んで之を厨子の深奥に祀つた、即ち仏像は、像であるとともに、そこには祖先の悲願が宿り、生命の呻吟が、歔欷が、祈りがこもつてゐる霊なのだ。千年の歳月を経た諸仏の躯は、千年の間における人間の祈念の息吹を吸収してゐるともいへよう。悲願の結晶体であり、長きにわたる絞りに絞つたいのちの凝結したものだと云つてもよい。
 仏を拝するとは、やがては祖先のいのちを賭した思ひを拝することだ。死に直面して我々の愛が切によみがへるやうに、既に肉体の滅した祖先は、思ひを仏体に残すことによつて、再び我々にその志を継ぐことを告げるのである。この願を我々は虚心に享けねばならぬ。すべての古典乃至歴史に通ずる道ではなからうか。
 仏像の根源にひそむものも、畢竟はかゝる意味での歴史である。それは或る仏師の制作品として現在に残つてゐるのではない。その仏を念じた人、願をかけた人の、無量の思ひを裡に秘めて今日まで佇立してゐるのである。我々にとつての大事は、祈りによつて、仏体の内奥に陰翳するこの願に心をいたし、それを自己の願として一体となることではなからうか。日本歴史を学ぶにはどんな書物を読むべきかと問はれる折、私はいつもかう答へる。書物を読むよりも先に、まづ神社仏閣あるひは故人の墓を巡拝することが大切だ、たとへ書物に接しても、そこまで心をすゝめなければ駄目だと。つまり祈念のないところに古典の道はないからである。同様にわが古仏を知るに、当今流布の美術書が必ずしも有効であるとは思へない。むしろ会津八一博士の歌集「南京新唱」(鹿鳴集)などに親近の道を私は感じてきたのである。たとへば次のごとき自序の一節は、大和に遊ぶごとに私の想起するところであつた。
「われ奈良の風光と美術とを酷愛して、其間に徘徊することすでにいく度ぞ。遂に或は骨をこゝに埋めむとさへおもへり。こゝに詠じたる歌は、われながら心ゆくばかりなり。われ今これを誦すれば、青山たちまち遠く繞り、緑樹宇に迫り、恍惚として身はすでに旧都の中に在るが如し。しかもまた、伽藍寂寞として、朱柱たまたま傾き、堊壁時に破れ、寒鼠は梁間に鳴き、香煙は床上に絶ゆるの状を想起して、愴然これを久しくす。おもふに、かくの如き仏国の荒廃は、諸経もいまだ説かざりしところ、この荒廃あるによつて、わが神魂の遠く此間に奪ひ去らるゝか。
 西国卅三番の霊場を巡拝する善男善女は、ゆくゆく御詠歌を高唱して覊旅の辛労を慰めむとし、また各※(二の字点、1-2-22)その笠に書して同行二人といふ。蓋し行往つねに大慈大悲の加護を信ずるなり。しかるにわが世に於けるや、実に乾坤に孤※(「筑」の「凡」に代えて「卩」、第3水準1-89-60)なり。独往して独唱し、昂々として顧返することなし。しかも歩々今やうやく蹉※(「足へん+它」、第3水準1-92-33)として、まことに廃墟の荒草を践むが如し。あゝ行路かくの如くにして、わが南京の歌のますますわれに妙味あるか。」
 会津博士のはじめて奈良に旅して、観仏の歌を詠まれたのは明治四十一年であるといふ。この自序もまた大正十三年、最初の歌集に寄せられたもの。爾来二十年の歳月は大和の諸寺を急速に世にあらはし、補修保存も次第に整つて、年々訪れる人の多きを加へるのは喜ぶべきことだが、しかし徒らに古美術の通人と仏像青年を増加せしめたのは何に由るのだらうか。
 すべて古仏や古典への道においてまづ大事なのは、深き信愛と敬虔の情であることは前述のとほりである。死者の前に慟哭して、その生命を継がんと誓ふやうに、我々の心を真に感奮せしむるものは廃墟への思ひであらう。荒廃の堂に佇んで、はじめて我々はそのいのちにめざめ、埋れたものの無念の思ひに心を傾ける。たゞ堂前を徘徊するのみで、心みち足り、かたじけなさに涙こぼるるといふ態度のみが真実であらう。この敬虔さをいまの我々は失ひがちなのだ。古寺を訪れるたびに、私は「復興」の悲哀を味ふ。
 会津博士の観仏歌の美しさは、心底に祈りを蔵し、廃墟に佇んで心から惜しみ愛してをらるるところにあることは云ふまでもない。青春を賭した魂の祈念であつたことは、たとへば「うすれゆくかべゑのほとけもろともにわがたまのをのたえぬともよし」の一首によつても明らかであらう。独往独唱の御詠歌である。この秋新薬師寺を訪れた節、境内に博士の歌碑が新たに建てられたのをみた。古寺を訪れて、ふと口ずさむによき歌のあることは幸ひである。大和古寺は長い間巡礼の歌を忘れてゐたのだ。
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 私は再び前の問題に帰らう。古仏を拝することが、真に現代人の救ひとなるか、自分の心はそこで最終の安穏を感ずるか、更にひろくは一切の古典が今日の現実にどんな内的つながりをもつて作用するか、この不断の疑惑をもう一度考へてみたい。愛が一切であると私は言つた。しかし愛するとはどういふことだらう。信じるとは何を意味するか。言ふは昜く行ふは難き献身、即ち絶対帰依の一語に尽きるであらう。帰依して疑はざるもの、そこに全身を没入して悔いざるものこそ幸ひである。実のところ現代人の悲劇は、かゝる信仰の対象を失つたことに起因してゐる。むろん我々は愛を語り、神について論じた。しかしそこにはいつも「私」のはからひが、知性といふ名において、或は論理的とか合理的態度とかいふ名において、雑音を呈してゐなかつたらうか。古典はいかに美しくとも、そのまゝでは現代に役立たぬといふ見解もこゝから起る。我々は現代人である。いま我々の周囲に生起する一切の出来事を判断するのは我々を措いて他にない。私の知力が、私の意志が、私の創造力がすべてを決定するだらう。この気持は容易に我々から離れない。そして古典は要するに一個の参考品であると。
 しかし現代とは何だらう。人門の習俗も言語も文明も、むろん昔とは違ふ。古人の夢想だにしなかつた機械が地球を蔽うてゐる。甲冑と剣と槍による戦ひはもはやない。其他数へきれぬほど新しい材料にみちみちてゐる。ところでさういふ状態に生きてゐるといふことは、我々に古人よりも優秀な特権をもたらしただらうか。平和は来ただらうか。進歩があつただらうか。成程、物質文明は進んだ、しかし我々は愛において深まつたであらうか。死に直面して古人より強くなつただらうか。人生の悲痛は軽減されただらうか。精神のかゝる根本について自問してみるがいゝ。根本において、現代は過去に比して何らの優位を保つてゐないことを知るであらう。扱ふ題材や表現の方法こそ異れ、人間は幾千年経ても、つねに根源においては同一の苦悩を味ひ、生死を思ひ、或は愛の歓びを歌つた。この永久の問題に深く心を傾けるといふ点で、我々は些かも先人を凌いではゐないのである。そして我々が古典に求むる大事とは、そこにあらはれた習俗や社会状態自体ではなく、さういふ外的条件をとほしてうかゞはれる不朽の苦しみでありまた喜びである。悽惨な生の流れを偕にするところに、私のさきに述べた願を継ぐといふ態度があり、またこのことは我々自身が同じ恒久の問題に身をひそめ、「私」の為すなきを知つておのづからに湧く祈念に支へられてゐるのである。時代がいかに遠くともこの点で同じ心に結ばれる。深き感銘と謝念から、祖先の願に自分もまた献身せむと誓ふのである。
 古典あるひは歴史を学ぶとは、漫然と之を知識化することではない。体系をたてることではない。その中に、自己を空しうして仕へるだけの、献身して悔いないだけの祖師を、愛人を、自ら苦労して見出すことだ。仏像についても同様のことは云へるのである。仏像はかりそめに創られたものではない。一躯の小仏にも古人の思ひはひそんでゐる。即ち各※(二の字点、1-2-22)の仏像は、各※(二の字点、1-2-22)固有の運命の物語をもつてゐる。祈るとはその物語に、音声に、心を清くして耳を傾けるといふことでもある。古仏の歴史はそのまゝ人間悲願の歴史に他ならない。我々はそこに自分を賭す以外には近づきやうがないのである。
 かうして、しかも確然たる現実的効果があるか、つまり救ひは確約されるか否か――もとより「私」のはからひとすべきことではない。真の愛は、愛の報酬を問はないであらう。真の信仰は、信仰の功徳を計算しないであらう。即ちそれは無償の行である。この完き自己没却、帰依の心のみが、実は復活の唯一の道なのであらう。復活するといふ安心ではない。むしろそれは「私」にはわからぬと云つた方が正しい。私が大和の古仏を拝し、祈ることが、どのやうな意義をもつてあらはれるのか、救ひがあるのかないのか、乃至はこの現世に光明をもたらすかどうか、私にはむろん言へないのである。後世よりみて無意味であつたとなれば、それまでのことである。たゞ自分の修業としては、しかもなほ悔いないだけの勁い信仰を、大慈悲によつて与へられんことを祈るのみである。
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 飛鳥白鳳天平の古寺をめぐつて、私はこゝにさゝやかな一書をまとめたが、最後に、この旅から得た最大の感銘について謹記しておきたい。それはこの三つの偉大な時代にあらはれ給うた 推古天皇ならびに 上宮太子 天武天皇 聖武天皇の御悲願にかすかながらもふれ奉ることが出来たといふことである。すでに述べたやうに、この三つの時代は必ずしも平穏な時代だつたのではなく、内外ともに多事にして、或は血族の悽惨な相剋がくりかへされ、或は国民の窮乏や災禍もあり、また思想の昏迷もはげしく、云はば危機の連続であつた。しかもさういふ只中にいまして、国民同胞すべての苦難と悲願を尊き御一身に担はせ給ひ、事あるごとに神祇仏法を崇められ、ひとへに国家の安泰と国民の幸福を御祈念あそばされた 天皇ならびに 太子の御生涯を、私は感涙にむせびつゝ偲び奉るのである。
 また悽愴な生の流れに処してつひぞ崩るることなく、いかなる地獄をも超えて連綿と伝はり来つたわが民族の強烈な生命力を讃嘆せずにはをれない。拙筆もとよりその深淵を充分描きえなかつたのであるが、しかしあらゆる苦難の御先登には、つねに英邁の君あらせられて、万民の和を御祈念あそばされた、その尊き御姿だけは私の心に深く刻印された。国体の尊厳を今更のやうに仰ぎ感銘したのであつた。
 宗教においても芸術においても、真に偉大な天才と申しあぐべきは、わが国においては 天皇のみ。諸仏造顕諸寺造営をみても、或は万葉集に接しても、所詮は御悲願と御製の右に出づるものは絶無である。飛鳥白鳳天平三代にわたる宗教と芸術の未曽有の開顕は、ひとへに歴代天皇の 大御稜威の然らしめ給ふところであつて、 推古天皇ならびに上宮太子 天武天皇 聖武天皇悉く御一身を賭し紿ひて、あの危機の深淵の上に絶妙の花華を開かせ給うたのである。
 大和古寺を六年間巡礼して、おまへは結局どんな悦びをえたかと問はるるなら、畏くも 天皇ならびに太子の御悲願の博大にふれ奉つたことだと私は答へよう。あらゆる疑念や彷徨にも拘らずこれだけは確だ。しかしてこの御悲願に、いつともなく私を導いて行つてくれたのは仏であつた。
――昭和十七年冬――





底本:「龜井勝一郎全集 第九巻」講談社
   1971(昭和46)年6月20日第1刷発行
   1978(昭和53)年9月26日第2刷発行
底本の親本:「大和古寺風物誌」天理時報社
   1943(昭和18)年4月5日初版発行
初出:「新女苑」
   1943(昭和18)年1月
入力:酒井和郎
校正:山村信一郎
2017年10月25日作成
2017年12月5日修正
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