窪田空穂




 何んな花でもながく見ていれば好きになって来るものだという人がある。自然というものは親しむほど趣の加わって来るものであることを思うと、そうかも知れないという気がする。然し本当に好きになりうる花は、初め一と目見た時から好いたものである。又本当に好きなものがあると、その外の多くを求めようとしない心もある。その意味で私は多くの草花を並べようとは思わない。これだけで沢山だ、来年の秋にはこれをもう少し多く咲くようにしてやろうと思って、椿の蔭のいささかの湿った地に咲いている秋海棠の花を見ている。
 秋海棠ほどいいものはない。春、一と葉を出した時からもういい。あの薄くれないのよわそうな茎に、濃緑の大きな、しかし洗煉を極めた葉を付けたあの時からもういい。葉が繁って来てくれないの蕾がその蔭に仄かに見える時、その花茎が伸び立って薄くれないの花びらが黄のしべを現して開いた時、俄に秋めいて涼しくなるとその花のもろく衰えてゆく時、秋海棠はいつの時もいい。全体として持っている洗煉と気品とがいい。
 鳳仙花も、これほどは来年もと思っている。この花の趣は花が咲き出そうとする頃からはじまる。あの形が整って来てうす青い真っ直なしっかりした茎と、やや粗野ではあるが、うるさくはならない葉が、全体としての調和を持ち出す時には、この草には怪しくも陰影が添って来る。その形と陰影とが鳳仙花の生命だ。花は、それが真紅でも白でも、もも色でも、単に陰影の一部となって融け込んでしまう。
 紅蜀葵こうしょっきは、日かげへ移した為か虫が付いて、花は一つ二つしか咲かなかった。しかし蜀葵は花を見なくもいい、その茎と葉の持つ気品は、それを見ただけでも十分だと思わせる。朝咲いて夕べにはしぼみさるあの花、朝顔の花の美しさを解さない花は、蜀葵の花のそばへ立って、しみじみとその花に見入らずにはいられない。
 蜀葵はそうでもないが、秋海棠や鳳仙花は、何でも入れている苗売の荷の中にもない。それほどまでにありふれているのである。このありふれているのは、ながく愛された結果であろうが、それが今はそれほどには重んじられていないのを思うと、いたましい気がする。変化を欲する本能が古いものを忘れさせるのである。一たびは忘れられても、本来のかがやきはいつの時にかまた人の眼を捉えよう。その時を待つべきである。
 これらの花は多分支那から来たものであろう。その花の持っている単純と沈静と気品とに対していると、これらの花を愛しはやらせた昔の東洋人の心がその花を通して感じられて来るような気がする。更に心ひかれることだ。
 そういえばスイートピーの花よりも、畑一面に作っている豌豆の花の方がうつくしい。同じく鉢植のガーベラの花よりも、田圃路に咲いているたんぽぽの花の方がうつくしい。一つは愛され一つは棄てられている。しかし選んで棄てたものとは思われない、無意識に棄てているのである。選ばれ拾われ愛せられるのも遠いことではなかろう。





底本:「日本の名随筆1 花」作品社
   1983(昭和58)年2月25日第1刷発行
底本の親本:「窪田空穂全集 第五巻」角川書店
   1966(昭和41)年5月
入力:門田裕志
校正:noriko saito
2018年1月1日作成
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