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――今回はいよいよ第七番てがらです。
由来、七の数は、七化け、七不思議、七たたりなどと称して、あまり気味のよくないほうに縁が多いようですが、しかし右門のこの七番てがらばかりは、いたって小気味のよい
下世話にも、この日は地獄のかまのふたのあく日だなぞと申しますが、お番所のほうでも平生おえんまさまの出店みたいな仕事に従事しているためにか、この十六日ばかりは少数の勤番当直をのぞいては、いずれも十手取りなわをすててしまい、お昼すぎから例年うちつれだって
ところが、この木魚庵というのが、お盆の十六日に宴会なぞするにはもってこいの、いたって風変わりな料亭なんで、当時の江戸名物帳を見ましても、そのもようがちゃんと記載されてありますが、
で、右門も宴にのぞんだ以上は勢いいずれかの仲間と同席しなければならないはずでしたが、しかし、こういうときいつもかれは金看板どおりのむっつり右門で、べつにだれといって憎い者がないと同時に、まただれといって特別に親しい者もなかったものでしたから、いちばんはずれの、人々からは全然独立した席へついてちょこなんと席を占めると、いっこうおもしろくもおかしくもないといったような、ごくぶあいそうな顔をしながら、黙々とした料理の品にはしをつけだしました。
すると、また妙なもので、一番てがらの南蛮幽霊以来、右門の名声は
だから、わけても右門思いのおしゃべり屋伝六が黙っていられるわけはないので、しかし人前でしたから、小さな声でいったものです。
「ね、だんな、きょうは地獄のおえんまさまでさえもがくぎ抜きに錠をおろしておくんですぜ。ですもの、いくらむっつり屋のだんなだって、きょうぐれえはもっとおもしろそうな顔をしたらよさそうなもんじゃござんせんか」
けれども、右門は、ふんともうんとも返事一つせずに、ただむやみとお料理の品ばかりをせせっていたものでしたから、こうなるといっそうやきもきするのがまた伝六の性分で、とうとう大きな声を出していってしまいました。
「ほんとうに、いやんなっちまうな。いくら木魚庵だからって、これじゃまるでお
すると、偶然というものはまったくどこにあるかわからないものですが、伝六のはからずもいったそのことばでふと思い出したように、隣の席の者が声高に向こうの相手へ話しだしました。
「そうそう、お通夜といえば、さっき出がけにお番所へ、妙な訴えをもってきたお坊さんがあったぜ。なんでも、小石川の
「ほう、死骸をね。このお盆のさいちゅうに、またうすっ気味のわるいいたずらするやつがあったものだな。なんぞ恨みの筋でもありそうなほしなのかい」
「ところが、どうもただのいたずらだろうというんでね。勤番の者の評定じゃ、べつに取り上げるようなけしきを見せなかったっけが、でも、そのあばかれた墓っていうのが、そろいもそろって四、五日まえに仏となった
「そうよな、女がふたりとも小町娘の姉妹かなんかで、胴切りがまた恋のさか恨みとでもいうのなら、めったな草双紙でも見られない筋だがな」
ご当人たちはいっこう冗談のように話し合っていましたが、最後の新墓うんぬんといったことばが、ちらり右門の耳へはいったとたんです。ぎろり目を光らしながら、音もなく
「伝六ッ」
「ええ」
「
「駕籠……?」
「おれが駕籠といや、もうわかりそうなものじゃねえか」
まったく右門のいうとおりですが、ひとたびかれの口に駕籠ということばがのせられたときは、およそつねに事重大であることを裏書きしていたものでしたから、ようやくがてんのいった伝六は、さあたいへん――
「ちくしょうッ、ざまあみろい。この席にいくたり八丁堀のでくのぼうがいるかしらねえが、おらのだんなの耳ゃ節穴じあねえんだぞ。くそおもしろくもない、おれさまたちを仲間はずれにしやがって、いまにみろい、ほえづらかくな!」
「よくよくまた、うっそりもあったものじゃござんせんか。おらがだんなのいることを知らねえで、あんないい
けれども、駕籠が目的の仁光寺へついたとき、事態はそこではしなくも伝六のいったほどにあまり腹の底をすっとさせなくなりました。というのは、ふたりのあとを追っかけるようにして、もう一組みの駕籠が同じ仁光寺の門前へ止まったと思われましたが、中から降り立った人の姿をみると、意外やそれはつい先の先まで木魚庵に居合わした同心主席の、あばたの敬四郎とその配下だったからです。このあばたの敬四郎については、右門
「お盆の十六日にまたあいつと顔を合わせるなんぞは、ほんとうに因縁話だな。では、一つもういっぺんあの親方の鼻をあかすかね」
ちくしょうッ、いやな野郎がうせやがった、というような顔つきで、口をとがらかしていた伝六をしり目にかけながら、にたにたとうち笑って敬四郎のところへ歩みよっていったとみえましたが、いきなりぺこりと腰を曲げると、ごく屈託のなさそうにあいさつをいたしました。
「よくお越しなされました。では、ごいっしょに現場の検分をいたさせてもらいますかな」
めんくらったのは敬四郎で、またこれはめんくらうのが当然でしたろう。普通の場合ならば、お互い先にねたをあげたものがてがらとなるんだから、負けるまでにも競争するのは当然なのに、われらのむっつり右門にかぎっては、いっこうそんなけぶりすらも見えないで、涼しげにばたばたと胸もとへ白扇の風を入れていたものでしたから、敬四郎はむッとただ右門をにらみかえしたばかり――。しかし、右門はすましたもので、にやにや笑いながらあとへついていくと、べつに鋭い観察を下すようなそぶりも見せずに、敬四郎のうしろからちょいと顔を出して、お検視がすまないためまだそこにひっころがしたままの二つの仏を、ほんのいっぺんどおりじろりと検分いたしました。しかも、検分と名のつくものはただそれっきりで、軽く敬四郎に一礼すると、さっさと表へ回って寺の
「すずりと半紙をちょっと拝借させてくれぬか」
のみならず、小僧が求めたその二品を持ってくると、いきなりさらさらと次のごとき文句を紙にしたためました。
「――ご心配の節あるらしき若衆へ一筆かきのこしおきそうろう。いつにてもご相談相手とあいなり申すべくそうろうあいだ、ご遠慮なくお越しくだされたく、八丁堀近藤右門――」
書いてしまうと、それをまたぺったりと仁光寺の山門に張りつけて、やっとこれで勝ちめに向かったといわんばかりな顔つきをしながら、さっさと歩きだしたものでしたから、いつものとおりに伝六がことごとく首をひねってしまいました。
「ちっと、どうもやることがそそっかしいように思われますが、ねえ、だんな、だんなはまさか、今度の仕事の相手に、どんなやつが向こうに回ったか、お忘れじゃござんすまいね」
「知らないでどうするかい、あばたの敬四郎じゃねえか」
「そうでがしょう。だのに、たったあれだけの調べ方じゃ、ちっとどうもそそっかしいように思われますがね」
「じゃ、おれの目は節穴だというのかい」
「ど、どういたしまして――、だんなの目のくり玉は、
「おおかた、敬四郎にゃあの胴切りが、恨みの末のしわざに思われているんだろうよ」
「え、なんですって……? じゃ、だんなはそうじゃないというんですかい」
「あたりめえさ。まさに判然と、ただの死に胴だめしだよ」
「死に胴だめし……? でも、あの仏たちゃまだなまなましい若そうなべっぴんどうしですぜ」
「だから、なおのことそうじゃねえか。死に胴をためすからにゃ、新仏ほど切りがいがあるんだからな」
「それにしたって、新仏ならば、まだいくらもあそこにあったじゃござんせんか」
「わからねえやつだな。おおかた、おめえはあの女どもの妙なところばっかり見ていたんだろうが、ありゃふたりとも水死人だぜ」
「道理でね、いっこうわずらった跡もなし、死人にしちゃちっと太りすぎていると思いましたが、するてえと、なんですね、あれをぶった切った野郎は、どこかであの仏どもの水にはまったことを知っていて、あんなまねしたんですね」
「あたりめえさ。しかも、あの下手人はすばらしいわざ物の持ち主で、おまけに左ききだぜ」
「え? 左きき……なるほどね。そういわれれゃ、二つとも左胴ばかりをぶった切っていたこと今あっしも思い当たりやしたが、大きにそれにちげえねえや。剣術のことはよくあっしゃ知らねえが、生きている相手ならともかく、手向かいもなんにもしねえ死人の胴を、なにもわざわざ左から切るこたあねえからね。しかし、それにしても、あの門前のおかしな張り紙は、いったいなんのおまじないですかい」
「それがおれの目の節穴じゃねえといったいわれだよ。おめえもあばたの先生もいっこう気がつかねえような様子だったが、あの墓の五、六間先に、子細ありげな前髪立ての若衆がひとりしゃがんでいたんだ。どうもそいつのおれたちを見張っている
「ありがてえッ、そうと聞きゃ、もうこっちのものだ。じゃ、前祝いに
現金なところもあるがあいきょうのあるやつで、伝六がかってな理屈をつけながらつじ駕籠を雇ってまいりましたので、右門も苦笑しながらうちのりました。もちろん、行き先はわき道もせずに八丁堀へ――。
2
ついたときにとっぷりと日が暮れて、八丁堀あたり下町かいわいはちょうど今が夕涼みの出さかりどき、もちろん右門はあの張り紙をくだんの若衆が発見するかぎりにおいては、まちがいなくこよいにも訪れてくることと確信を持っていたものでしたから、その夕涼みにも出かけないで、いまかいまかと待ちわびていましたが、しかしどうしたことか、予期の訪問者はなかなか姿を見せなかったのです。五つ、四つと、やがてもう夜なか近くになろうとしても、いっこうその人らしい足音すらも聞こえなかったものでしたから、信ずることも早いが疑うことも早い伝六が、不安の声を発しました。
「あばたのだんなだって、あれが商売なんだからね。ひょっとすると、とんびに油揚げをさらわれてしまったかもしれませんぜ」
けれども、にらんだ者はわが右門です。さるはよし木から落ちることがあっても、右門の目に狂いのあろうわけはないはずでしたから、いってるうちにことりと表の辺にあたって、足音を止めたけはいがありました。と同時に、立ち上がった者は伝六でなく、右門です。珍しや、自身出迎えに表まで出ていったと思われましたが、まもなく伴ってきた者は、今にしてはじめて知らるる十七、八のぬれ羽色に輝く前髪をふっさりとたくわえた一人のお小姓でありました。おそらくは、ご大身の大々名にでも近侍している者とおぼしく、あでやかというよりも、むしろさっそうとしたりりしさを備えていましたが、そのやや青まって見える悩みありげな面ざしは、右門のいったとおりに、なにごとか深い子細のあり余りげなふぜいでありました。それゆえか、導かれて座についてからも、しばしがほどは黙々として面をうち伏せながら、なお思いに悩みつづけているらしい様子でありましたから、右門がまずいったのです。
「てまえも八丁堀で少しは人に知られた者でござる。わざわざあのような張り紙をしておいてまいったからには、いかようなことなりとご貴殿の力になってしんぜようから、まず事の子細を先に承りましょうではござらぬか」
「はっ……」
小さくいうにはいいましたが、よほどの考慮を費やすべき問題ででもあるのか、いっこうにあとをつづけようとしなかったものでしたから、右門がずばりと一本くぎをさしました。
「では、なんでござるな、てまえに信が置けぬと申すのでござるな」
「いいえ、め、めっそうもござりませぬ。あの張り紙をはからずも目に入れたとき、そなたさまのことはとうにてまえも聞き及んでござりましたので、これはよいおかたの味方を得たものだと存じまして、ふたときあまりも、とつおいつ思案ののちに、ようやっとこのように夜ふけのことをも存じながら、おじゃまさせていただきましてござりまするが、さていざとなると、やっぱりどうも……」
「打ちあけぬほうがよいと申さるるか」
「いいえ、それをどうしたものかと、今もなおかように思い迷ってでござります……」
いうと、またしばしの間、悩み深げにうちしおれていたものでしたから、右門が少ししびれをきらして、急所へさらに一本くぎを打ちました。
「では、てまえのほうからお尋ね申すが、もしやそなたは刀の
と――、ずぼしに的中したかのごとく、おもわずぎくりとなった様子でしたが、そのほしを見ぬかれてはと思ったものか、ようやくにして相手が口を開きました。
「
「かくのとおりにござる」
「何を隠しましょう、わたくしは越前松平家のお小姓にて、石川
さもあろうと思っておりましたから、右門は石川杉弥と名のったそのお小姓の告白をうちうなずきながら聞いていましたが、しかし問題は盗みとられたというその刀です。けっして世に出してはならぬといったその刀です。何者の作だろうとしばらくうち案じていましたが、まもなく推定がつきましたものですから、右門はずばりとほしをさしていいました。
「いや、よく打ち明けくだされて、てまえも心うれしく存ずるが、おそらくその刀、
すると、同時に石川杉弥がぎょッとなりながら、人に聞かれてはならぬというように、すばやくあたりを見まわしました。……一見不思議な態度に思われまするが、しかし、実は少しもこれが不思議でないので、なぜかならば、当時のごとき徳川もまだお三代ごろのご時勢においては、最もこの村正の作刀が忌みきらわれた絶頂だったのです。なぜ、あれほどの名刀がそんなにも
しかも、それを嫌忌した者はただに徳川一族の者ばかりではなく、
「いや、ご懸念は無用でござる。そなたがなにゆえきょうが日まで、密々にそのような
「すりゃ、あの、わたくしめにお助勢くださるとおっしゃるのでござりまするか!」
「さよう、
「ありがとうござります、ありがとうござります。あなたさまのお助力をうければもう千人力、やっぱりご相談に上がってよいことをいたしました」
しばしがほどは面すらもあげえないで、ただ感激にうちふるえていましたが、ようやくあでやかさをましてきたその美しい顔に感謝の色をみせると、石川杉弥は水色
3
かくて、いよいよむっつり右門の義によって奮いたった第七番てがらの端緒につくことになりましたが、第一にまずかれの目がけたところは江戸の剣術道場でありました。というのは、あの新墓の死に胴切りについて検分したところによると、その切り口のすばらしくあざやかなところから案ずるに、必ずやわざものは世に名をとった銘刀で、腕もまた相当の達人だろうとめぼしがついていたものでしたから、それにはあの左ききという判定のあったのをさいわい、まず道場出入りの剣士について、それなる左ききの、あるいは左り胴の癖ある者をあげてみようと考えついたからのことでしたが、しかし、いざ捜そうという段になると、肝心の道場なるものがまたなかなかたいへんな数でありました。将軍家お指南番役たる
当時はもちろんまだ
むろん、村正の一件なぞは知らないでのことでしょうが、しかしあの胴切りの下手人を左ききの達人とにらんだうえで、敬四郎も同じ道場洗いを始めたのだろうという推定がついたものでしたから、右門もちょっと舌を巻きながら、とぼけてまずあいさつをいたしました。
「きのうはいかい失礼をつかまつりました。また、妙なところでお出会いいたしましたな」
だが、敬四郎はもとより無言です。せめてもこういうときにあいさつを返すくらいの余裕だけなとあったならば、てがらの半分くらいは分かつにやぶさかならざる右門でしたが、なにをこの駆けだしが、というような
けれども、これは最初から先陣争いをしてみるまでもないことで、敬四郎の名まえの初耳であるのに反し、わがむっつり右門の
ところが、先陣争いではみごとに勝ちを得ましたが、残念ながら結果は徒労に終わったのです。疑問の逆胴名人でかつ左ききというのが、門弟中につごう三人ほどあるにはあったのですが、ひとりはすでに物故、ひとりは池田
右門がまず失望とともにへとへととなって八丁堀へ引き揚げ、つづいてひと足おくれながら伝六も帰りついて、やけにそこへからだを投げ出すと、いかにもむだ足に耐えぬというようにいったものです。
「ばかばかしいや、だれに頼まれてこんな商売始めたんですかね。あっしゃきょう一日で、三百匁ばかり目方をへらしましたぜ」
それを聞き流しながら、右門もそこにぐったりとからだを投げ出していましたが、と、やにわにむっくり起き上がると、突然くすくす笑いながらいいました。
「なあ、伝六」
「え?」
「どうやら、おれも焼きが回ったかな」
「不意にまたいくじのねえことおっしゃいますが、どうしてでござんす」
「だって、よく考えてみなよ。おれはかりにもむっつり右門といわれている男なんだぜ」
「でも、柳の下にゃどじょうのいねえときだってあるんだからね。時と場合によっちゃ、しかたがねえじゃござんせんか」
「いいや、そうじゃねえんだよ。おれにはもっとほかに、おれ一流の吟味方法があったはずじゃねえのかい」
「な、なるほどね、大きにそれにちげえねえや。だんなの口癖にしていらっしゃるからめての戦法というやつだ」
「だからよ、今はじめておれも気がついたところだが、とんだむだぼねをおったもんさ。肝心かなめのお小姓というたいせつなほしのいることを忘れているんだからな」
「ちげえねえ、ちげえねえ。逆胴切りの
「だから、ひとつ顔を洗い直して、今からその右門流を小出しにするかね」
「今から?」
「不足かい」
「だって、
「それだから、金葉へでもちょっくら寄って、中ぐしのふた重ねばかりも食べようかといってるんだよ」
「え? うなぎ?」
「おめえきらいか」
「どうつかまつりまして、うなぎときちゃ、おふくろの腹にいたうちから、目がねえんですがね。でも、この土川うちじゃ、目のくり玉の飛び出るほどぼられますぜ」
「しみったれたことをいうやつだな。その悲鳴が出るあんばいじゃ、ふところが北風だろうから、じゃこいつをおめえに半分くれてやろうよ」
「な、なんです?――こりゃだんな、切りもち包みじゃござんせんか」
「そうよ、その中にある品は、まさに判然と山吹き色をした二十五両だよ」
「近ごろ珍しく金満家になったもんですね」
「ねたを割りゃ、お
「ちッ、ありがてえ。持つべきものは、べっぴんの女房と、いいご主人さまだ。こうなりゃ、もうお大尽です。きょうのおあいそは、みんなあっしが持とうじゃござんせんか」
「天から降った小判だと思って、いやに大束を決めだしたね。では、そろそろ出かけようか」
いうと、
「ときに、うなぎの
「うちのは特別製ですから、この土用でも三日はだいじょうぶでございます」
「そうか、あした一日さえもってくれりゃいいんだから、じゃ五人まえばかり折り詰めにしてな、お代は食べたのといっしょに、そっちの男からもらってくんな」
だから、伝六が変な顔をして、だめを押したのは当然でありました。
「ね、だんな、いやみなことをいうようですが、いったんもらった以上はこっちの金ですぜ」
しかし、右門はいっこうに取り澄ましながら、でき上がってきた折り詰めを片手にすると、さっさと道を本郷台に向けて取りました。いうまでもなく、石川杉弥の屋敷を目ざしたので――。
ところが、その門のくぐり戸に手をかけようとしたときでありました。
「ね、だんな、だんな! あばたのだんなが、あとをつけてきていますぜ。やっこさんも道場洗いにしくじったとみえて、何かかぎ出そうという魂胆らしいですぜ」
そっとそでを引きながら伝六がささやいたものでしたから、右門もちょっとぎくりとなって、うしろの小やみをすかすと、なるほどことばどおり敬四郎でしたが、すでにもうかくのごとくに右門流の吟味方法を取り出した今となっては、たとえ百人の敬四郎がつけていようと、いっこう問題ではなかったので、かまわず案内を求めて、杉弥の居間に通るやいなや、真に
「
これには伝六も驚きましたが、それよりも杉弥の
「な、なにを不意に理不尽なことをなさりまするか! わたくしのどこがご不審でござりまするか!」
必死に抗弁したのをぎゅっと草香流でねじあげて、面くらっている伝六をせかしながらくくらせると、しかりつけるようにいいました。
「なまっちろい顔をして、だいそれたことをするやつだ。不審のかどがあればこそ、なわ打つんだ。さ! じたばたせずと歩け! 歩け!」
のみならず、自身そのなわじりを取って表へ出ていくと、その門のところにどろぼうねこのごとく目を光らしていた敬四郎へ、ことさら聞こえよがしに、突然第二の命令を伝六にいいつけました。
「そこの片町を本通りへ出ると、越前さまのお屋敷があるからな、ちょっとひとっ走り行って、こういってきな。お小姓の石川杉弥は、少しく不審のかどがあって、八丁堀の右門がめしとったから、その旨奥女中一統をはじめご家中の者残らずへ、こよいのうちにお忘れなくご
そして、伝六の帰りを待っていましたが、まもなく命を果たして駆けもどったのを見ると、だにのごとくにあとをつけているあばたの敬四郎をしりめにかけながら、さっさと伝馬町へ引き揚げていって、その場に石川杉弥を上がり屋敷へ投獄するように命じました。しかし、そのときこっそりと伝六へあの
「ご大身のお小姓に、ただのもっそう飯でもかわいそうだからな。これでもおかずにしてお上がりなさいといって、ほうり込んでおきなよ。それから、蚊いぶしでも特別にたくさんあてがってやってな」
「なるほど、がてんがめえりましたよ。うなぎの佃煮以来、どうもいろいろと変なことするなと思っていましたっけが、あれもこれもみんな右門流ですね。そうとわかりゃ、
わかったものか、伝六がまめまめしくいっさいを取りしきりましたので、右門はひたすらに、次の朝を待ちました。
4
さて、その翌朝です。起きるから右門はしきりとなにか人待ち顔でいましたが、と、それを裏書きするように、あわただしく表のかたにあたって、右門のお組屋敷を訪れた人の足音がありました。
「ほしかな」
つぶやいていましたが、伝六の取り次ぎによってそれが越前侯のご用人であることがわかると、右門はおそろしくぶあいそうに命じました。
「石川杉弥のお掛かり合いならば、私宅で面会はなりませぬといっておやりよ」
ぶりぶりしながら用人のたち帰ったのを聞きすますと、右門はなおなんびとか人待ち顔に、しきりと表のほうへ耳を傾けていましたが、それからおよそ一
「今度こそ、ほしだほしだ。丁重に案内しなよ」
はたして、伝六に導かれながら、おどおどとしてそこに姿を見せた者は、まだ十六、七の
「越前さまのご家中でござりましょうな」
「はい……お下屋敷の奥勤めをいたしておりまする
「おおかたその辺でござろうと、右門けさからお待ちうけいたしておりました。なんのためにお越しなさったかも存じてござるによって、けっしてお隠しなさってはなりませぬぞ。おそらく、石川殿と秘めごとがござりましょうな」
と、百合江と名のったそれなる少女は、胸中を射ぬかれたごとくに、ぱっと面を染めながら口ごもったので、のがさずに右門が追いかけました。
「察するところ、それあるために、杉弥どのめしとられたと聞いて、てまえに掛け合うためにお越しでござりましょうが、むだなお隠しなさりますれば、いとしいおかたの生死にもかかわる大事でござるぞ。まだ人目を忍ばねばならぬお仲なればお仲のように、拙者が誓ってお力となってしんぜようから、包まずにお明かしめされよ」
しかし、なお少女は言いためらっていましたが、ようやくにして思い決しましたか、案のとおり秘めごとを打ち明けました。
「よく納得が参りました。お恥ずかしい仕儀にござりまするが、お目がねどおり、まだ人目を忍ばねばならぬ仲にござります」
「いつごろからでござった」
「つい十日ほどまえのふとした夜さに、はじめてあのかたさまから熱いお心のうちを承りましたので、末始終の恋をお誓いしたのでござります」
「そのとき、だれぞに見とがめられたお記憶はござらぬか」
「いいえ、少しも……」
「では、どなたかほかの者で、まえからお身を慕っていた者にお心当たりはござらぬか」
「それもいっこう存じ寄りはござりませぬ…」
「ほう、ないとな」
ややめんどうになったなといいたげな面持ちで、しばらく右門はうち案じていましたが、まもなく質問の矢向きを変えて、また尋ねつづけました。
「では、異なことをお尋ねするが、そのとき言いかわすまで、杉弥どのとはお近づきでござらなんだか」
「いいえ、幼いころから存じてでござります」
「ならば、杉弥どのの
「はい、道場通いのころからのご朋輩を五人ほど存じてでござります」
「そのなかに左ききの腕達者の者はござらぬか」
「ござります、ござります、波沼様と申しまして、
「なに、ふたごの兄弟

「はい、おふたりとも杉弥さまよりか二つ上のはたちとかにござりまするが、お家がらもよろしいし、日ごろおとなしやかなおかたたちでござりましたので、ついおととしの春ご元服あそばされるまでは、やはりお小姓方をおふたりともお勤めでござりました」
「むろん、剣道達者でござろうな」
「はい、おふたりとも、そろいもそろって無念流とかのおじょうずにござりますので、家中のみなさまがたが、珍しいおふたごだと、もっぱらのご評判にござります」
聞くと同時に、右門のまなこはぎらぎらと異様な輝きを見せていましたが、突然、意外なことを少女に尋ねました。
「そなた水泳ぎはご
「ござりましたら、いかがなされまするか」
「そなたのいとしい杉弥どののお難儀を救ってしんぜるが、おできにござるか」
「できますでござります、できますでござります。杉弥さまをお救い願えますことならば、どのようなことでもいたしまするでござります」
「でも、男どもといっしょに泳ぐのでござるぞ」
「恋しいおかたのためならば、身の恥も悲しみも、けっしていといませぬ」
げにや恋ぞ強し!――
「では、夕月ごろまでに、それなるふたごの兄弟を巧みに誘い合わせて、なるべく薄着の水じたくをご用意しながら向島の水神へお越しめされい。少々ぐらいは
なにかは知らぬながらも、すぐと百合江がうちうなずいて、
「さ、伝六、これから英雄閑日月というやつだ。きさまにも今夜ちっとばかり目の毒になることを見せてやるから、今のうちにゆっくりと昼寝でもしておきなよ」
いったかと思いましたが、ほんとうにもうその閑日月ぶりをそこに始めました。
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かかるうちにも迫りきたったるは、十七夜の夕月のいまに空をいろどらんとした暮れ六つ下がりです。例のごとくの落とし差しで、伝六に
行きついたときは、いまし七月十七夜の夕月が、
「いかようなことが目前にあらわれてまいりましょうとも、けっして声をたてたり、おどろいてはなりませぬぞ」
杉弥はただいぶかり怪しんでいましたが、やがてしばし――。百合江は右門たち三人の姿をすでに途上で認めていたものか、かくれ忍んでいるその
と、同時に現われた雪白の裸体姿! いや、下半身にはひらひらと夕風になびいて、それゆえにひとしお悩ましき美しさを増す
「では、おあとからお越しなされませ。わたくしが先に参りますわ」
いっしょに水煙が上がって、波間に彼女の姿はくねくねと動いたとみえたが、まさにそれは人魚です。明るさまさった月光を浴びて、青の水に白を浮かして、ただ美しく悩ましき人魚です。さるをどうして波沼兄弟ばかりがあとを追わないでいられましょうぞ! うしろに右門がそれを手ぐすね引いて待っているとも知らず、おのおの腰帯一つになると、抜き手をきってつづきましたから、鋭く右門が杉弥に命じました。
「さ! このあいだに、あの両名の腰のものをお改めめされよ!」
はじめてわかったもののごとく、杉弥が駆けだして、伝六のさし出した
「ござりました、ござりました。兄の要介めが帯びていたこれなる一腰の刀身、たしかに見覚えの村正にござります」
きくと同時に、右門が水の上へ叫びました。
「百合江どの、百合江どの! 杉弥どののご難儀は救われましたぞ!」
さて、もうあとはぞうさがなかったのです。根が深い悪心のあったことではなかったものでしたから、要介は神妙にすぐ自白をいたしました。
それによると、動機はむろん百合江に対する恋ゆえで、幼なじみ以来の恋情と思慕をひそかに寄せていたところ、はしなくも彼女の心が杉弥に向かって傾いたことをその挙動で感づいたものでしたから、つい目がくらんで、おろかな悪計を思いたち、杉弥が殿から村正のひとふりを預かっていたことはちゃんと知っていたので、それを盗みとったら、おそらく杉弥は詰め腹か追放に会うだろうと思って、杉弥なきあとの百合江の恋を私することができるだろうと考えついたものでしたから、殿の怒りを激発させるために、かく秘蔵中の秘蔵の村正を盗みとったのです。しかし、盗み取ってはみたが、要介も根からの悪人でなかった証拠には、村正の世に出してはならぬ刀であることはよく知っていたものでしたから、ご恩をうけた君侯の名に傷をつけまいために、また二つには自分の犯跡をくらますために、平素身近に帯ぶることが最も
もちろん、新墓の死に胴ためしも要介のしわざで、村正のあまりによく切れそうな
そこで、いかに右門がこれを裁断するか、それが興味ある問題でしたが、むっつり右門はあくまでもうれしきわれらの右門です。よこしまな恋のために、友を裏切った若者を、たしなめるがごとくに、じゅんじゅんと言いきかせました。
「そなたもこれまでは一点非もなく育てられ、またこれから先も、望みのある身ではござらぬか。振り分け以来の
そして、目を転ずると、美しき恋のふたりたちにも、さとすごとくにいいました。
「越前さまも上さまのお血を引いたご名君でござるから、すべてのことは申しあげなくともおわかりくださるだろうによって、そなたたちもはようむつまじい実を結ばれたまえよ」
言い終わると、ただ感謝のために声もなき杉弥以下四人の者へ静かに黙礼をのこしながら、さっさと歩を運ばせていましたが、ふと思い出したように伝六へいいました。
「あばたの敬四郎めが、下手人はあのときであがったと思い違えて、ここまでつけてこなかったのは、もっけのさいわいだったな。あいつはむやみと人を罪におとしたがるやつだからな。――おお、いい月だ! 今はじめてお目にかかるんじゃねえが、いつ見てもお月さんはいい色をしておいでだな」
――かくて、義によって立ち、義をもってさばき終わった右門の第七番てがらは、その月のゆかしい光のごとくに、知る人の心にのみ、ゆかしくも高いかおりを残すことになりました。