歴史は繰り返すと申しますが、つくづくと考えてみますと、私の生まれる少し前と現代とが、不思議なほどよく似ていると思うのです。徳川三〇〇年の
それからというもの、日本はまったく
私の父は何代となく宮廷に仕えた
家庭にしては、父は公卿の出、母は大名の出でしたから、何かにつけて父と母との間にも、思想のちがいがあったようでした。召使っている女中たちの中にも公卿風、これを
公卿の方は元が京都の出ですから京都風、つまり御所言葉になるわけ、京都といっても民間のそれとは大部違っていました。たとえばあなた、というところは目上の人なら誰でも、ごぜん、と呼ぶのです。私はまだ子供でしたけどこの少女をつかっても、年をとった女中はごぜんと言いました。
普通東京ではその頃の高位高官といった人々を料理屋のおかみなんかはごぜんといったようでした。世に時めく新華族の主人公などは新派の芝居を見てもそんなふうにいってるのをきいたことがありました。
それが母の里方の関係の人々はお前様、というのです。よくお芝居なんかで「
少女の頃に見たあの
私の父は私が一〇歳の時病死いたしました。その前に父の弟
つい先だっても、その頃華族女学校といった時の同級生が、今年は私たちの卒業五〇年の記念のクラス会をするのだとて私も仲間入りさせられました。何しろ会うのが五十何年ぶりなんですから、お互いに名乗らねばまったく変わってしまってます。それでもだんだん話してるうちに昔の
あの頃の友達の多くは
これで思うのに人間というものは一六、一七、一八頃までにたたき込んだことは一生身につくものだと思います。
だが今のように自動車が通るではなし、往来はそれはのんきなもの、お正月は往来が羽根つき場所だったのです。ですから『
叔父が二一の時養家を出たそうですが、私も二一の時この家を出ました。妙に二一に因縁があるといって養父母はなげいていました。そして二五歳で九州に再婚したのです。
それまでに私はミッションスクールに二〜三年いましたのでキリスト教の愛と、家庭では仏教、ことに日蓮宗を信仰していましたから、仏教のことも幾分知りました。
それゆえ私は再婚の夫が、たとえ自分より二五年も年上であろうとも、無学であろうとも、ただ愛情さえ深ければそれに満足できる私でありました。
いつか終戦後でしたがある映画会社で私の九州時代の歌を多くとり入れて映画をこしらえたことがありました。その筋は貧乏華族の
私はこれを見た時映画というものはこんなふうに作らなければ面白くないものかと思いました。真実私の心は決してそうではありませんでした。
この映画を見た私はどんなに羨しいと思ったことでしょう。私としてはよしんば夫が炭鉱の成り上がりであろうと、字もろくによめない人であろうと、初めからそれは覚悟のうえのことでしたもの。破れた魂を持った女は今さら恋愛の何のと考える身の上ではなかったのでした。私の望みは夫の作り上げた財産で世の中の人のため社会事業でもして哀れな人々の友となれるならと、これはミッションスクールが教えた私の望みだったのです。
ところが夫になった人は私に決してよぶんなお金を自由にさせません。毎月
その頃の着物や帯は決して自分で好きなものを買うのではなく、夫が見立て私にあてがわれるものだけなのです。何かで毎月の定まり以上に入用な時は夫からお金を借りることはありました。またよく貸してもくれました、がしかしこれは借りたものですから必ず後で返したのです。夫はあたりまえの顔をしてうけとりました。
家庭の中に親の
追々私のお小使いを上げてもらうためには夫の妾が私をカバって夫に頼んでくれていくらか都合のよいこともありましたのも、考えてみれば妙ちきりんなものでした。だから始終嘘をついていなければ日が送れないのです。苦痛はそこにありました。
といって私は今になってこの九州時代を決して恨んではいません。夫が冷酷と思ったのはあるいは偉大な善知識であったかもしれません。
あの時あの映画にあるような甘やかされ大切にされたら、私は大満足で今もあそこに年をとっていたことでしょう。
だが運命は、私を思い切った道に誘いました。今の夫をたよって私は突然家出をしたのです。世間のあらゆる人々はさんざんに私を
この中にいて忘れられないのは
昨年でしたかアメリカの新聞社からとて、日本婦人の先覚者だとかいってききにこられた人がありました。私自身先覚者とも何とも思ってはいません。ただ自然に運命がああしたものですもの。
今はこうして老年になりましたが、しかしふしぎに、魂は年とともに、いきいきと、若く新しく育ってゆくような気がします。一九四五年(昭和二〇)、最愛の息子の戦死から、私の魂に革命を起こしました。
幾百万戦死者を
明治維新の雛形は小さかったがこのたびはもっともっと大きく世界の維新がこの地上に現れる日を、人類のすべては待ち望んでいいと思うのです。私は私自身、そのためのけし粒のような小さい種であってほしいとの念願に今日も生きています。(於・放送局)
(白蓮『ことたま』一九五四年[昭和二九]八月 日本出版広告社)