私の思い出

柳原白蓮




 歴史は繰り返すと申しますが、つくづくと考えてみますと、私の生まれる少し前と現代とが、不思議なほどよく似ていると思うのです。徳川三〇〇年の幕府ばくふが倒れて多くの大名だいみょうが、それぞれ国境を撤廃てっぱいしてめいめいが持っていたさむらいすなわち、軍隊をやめ、両刀をなくしたことはつまり軍備をすててしまって日本という一つの国に統一しました。これで国内の平和は完全なものとなりました。
 それからというもの、日本はまったく旭日昇天きょくじつしょうてんの勢いでした。その希望にみちみちた、明治は一八年に私は生まれました。
 私の父は何代となく宮廷に仕えた公卿くげの家で、明治維新めいじいしんのためにもいくらかの功労者でありましたから相当の役にもついていましたし父の妹は、官名を早蕨典侍さわらびのすけとよばれて、明治天皇の側近に仕えていました。だから私の若い日ことに少女の日の思い出というものはかなり現代離れのしたものでした。
 家庭にしては、父は公卿の出、母は大名の出でしたから、何かにつけて父と母との間にも、思想のちがいがあったようでした。召使っている女中たちの中にも公卿風、これを堂上方どうじょうがたといっていました。それと大名の武家風とが互いにはっきりと言葉の先にも区別させていました。
 公卿の方は元が京都の出ですから京都風、つまり御所言葉になるわけ、京都といっても民間のそれとは大部違っていました。たとえばあなた、というところは目上の人なら誰でも、ごぜん、と呼ぶのです。私はまだ子供でしたけどこの少女をつかっても、年をとった女中はごぜんと言いました。
 普通東京ではその頃の高位高官といった人々を料理屋のおかみなんかはごぜんといったようでした。世に時めく新華族の主人公などは新派の芝居を見てもそんなふうにいってるのをきいたことがありました。
 それが母の里方の関係の人々はお前様、というのです。よくお芝居なんかで「御意ぎょいあそばしませ」というのがありますが、私の子供の頃ききなれた御意遊ばせはあまり口達者に発音するせいかゲエときこえるのです。「まあおまえさまのゲエ遊ばしますこと」っていったふうに。
 少女の頃に見たあの御所ごしょの中のお局にゆくお廊下の長かったこと、いくつもいくつも曲がったり折れたり五〜六段の段を下ったり上ったり向こうから来る人が自分が下だとなると廊下に片よって座って平伏へいふくしてしまって私どもが通ってしまうまで頭も上げません。あの中の言葉はまた何とした古風なものでしたろう。お廊下のことをおめんどうといい、草履ぞうりのことをおこんごうといってる。『源氏物語げんじものがたり』をそのまま地でいってるような生活の中でも結構憎まれ口や人に大っぴらで聞かせられないような大口たたくのにも何不自由なく優美に風流にやってのけるのですから、どんなところにも言葉というものは不自由はないものです。
 私の父は私が一〇歳の時病死いたしました。その前に父の弟資秀すけひでが、分家の養家先を出てしまったのでした。その不義理の埋め合わせに私はこの子爵家に養女にやられました。養父というのが、明治天皇の前の孝明天皇のそのまた前の天子様の御稚児ちごに上っていたという人なんですからずい分古い話。ちょうど武内宿禰たけのうちのすくねみたいな上品なおじいさんでした。この養父母を、おでいさん、おたあさんとよび一〇の時から育てられた私は、その頃の仕合わせ多い学友とは、およそかけはなれたものでした。
 つい先だっても、その頃華族女学校といった時の同級生が、今年は私たちの卒業五〇年の記念のクラス会をするのだとて私も仲間入りさせられました。何しろ会うのが五十何年ぶりなんですから、お互いに名乗らねばまったく変わってしまってます。それでもだんだん話してるうちに昔のおもかげがよみがえってきてなつかしがるのでした。
 あの頃の友達の多くは馬車ばしゃ人力車じんりきしゃで、大切なお姫様、お嬢様、美しい友禅ゆうぜんやおめしちりめんの矢がすりの着物などきて通ったもの。私は養家が護国寺ごこくじの近くにありました。そこから永田町ながたちょうの学校までおよそ二里はありましたろう。まだ電車もバスもない時代、ユキも帰りも歩いたものでした。お蔭で足は今でも達者です。
 これで思うのに人間というものは一六、一七、一八頃までにたたき込んだことは一生身につくものだと思います。
 だが今のように自動車が通るではなし、往来はそれはのんきなもの、お正月は往来が羽根つき場所だったのです。ですから『金色夜叉こんじきやしゃ』にあるとおり、道を通る人力車の中に追羽子おいはごの羽子が落ちて、貫一のいいなずけの宮が見そめられるくだりがあるのです。
 叔父が二一の時養家を出たそうですが、私も二一の時この家を出ました。妙に二一に因縁があるといって養父母はなげいていました。そして二五歳で九州に再婚したのです。
 それまでに私はミッションスクールに二〜三年いましたのでキリスト教の愛と、家庭では仏教、ことに日蓮宗を信仰していましたから、仏教のことも幾分知りました。
 それゆえ私は再婚の夫が、たとえ自分より二五年も年上であろうとも、無学であろうとも、ただ愛情さえ深ければそれに満足できる私でありました。
 いつか終戦後でしたがある映画会社で私の九州時代の歌を多くとり入れて映画をこしらえたことがありました。その筋は貧乏華族のむすめが家を救うために金持ちのところにお嫁にいきました。夫は何とかして妻のご機嫌をとろうとしてあらゆる手段をつくしているのにガンとして夫の意に添わずとうとう若い学生と恋に落ちて家出をするのです。
 私はこれを見た時映画というものはこんなふうに作らなければ面白くないものかと思いました。真実私の心は決してそうではありませんでした。
 この映画を見た私はどんなに羨しいと思ったことでしょう。私としてはよしんば夫が炭鉱の成り上がりであろうと、字もろくによめない人であろうと、初めからそれは覚悟のうえのことでしたもの。破れた魂を持った女は今さら恋愛の何のと考える身の上ではなかったのでした。私の望みは夫の作り上げた財産で世の中の人のため社会事業でもして哀れな人々の友となれるならと、これはミッションスクールが教えた私の望みだったのです。
 ところが夫になった人は私に決してよぶんなお金を自由にさせません。毎月まったお小遣いで、かえって私の友人の大学教授夫人の方がよっぽど豊かで自分勝手に着物や帯を買ってるのを見て羨ましかったのでした。
 その頃の着物や帯は決して自分で好きなものを買うのではなく、夫が見立て私にあてがわれるものだけなのです。何かで毎月の定まり以上に入用な時は夫からお金を借りることはありました。またよく貸してもくれました、がしかしこれは借りたものですから必ず後で返したのです。夫はあたりまえの顔をしてうけとりました。
 家庭の中に親のちがう養子が何人もいたり、夫はこれらに対しても愛情を持たなかったので、情愛というものをまったく忘れた冷たい家庭でした。
 追々私のお小使いを上げてもらうためには夫の妾が私をカバって夫に頼んでくれていくらか都合のよいこともありましたのも、考えてみれば妙ちきりんなものでした。だから始終嘘をついていなければ日が送れないのです。苦痛はそこにありました。
 しまいにはほとほと空おそろしくさえなりました。心も魂も汚れはててゆくばかりでした。そこで人間の運命というものはたしかにあります。私は運命を信じます。
 といって私は今になってこの九州時代を決して恨んではいません。夫が冷酷と思ったのはあるいは偉大な善知識であったかもしれません。
 あの時あの映画にあるような甘やかされ大切にされたら、私は大満足で今もあそこに年をとっていたことでしょう。
 だが運命は、私を思い切った道に誘いました。今の夫をたよって私は突然家出をしたのです。世間のあらゆる人々はさんざんに私をののしりあざけりました。肉親のすべての人からは私を勘当かんどうして絶交を申し渡されました。それはあたりまえのことです。私はあの場合どんなにいわれても、辛いとは思いませんでした。
 この中にいて忘れられないのは九條武子くじょうたけこ夫人でした。あの人だけは私の心をそっと温かく抱いてくれた友でした。世間から無惨に軽べつされている人を、たとえ内証にしろ蔭ながらいたわり愛しかつ同情したということはやはり相当の勇気のいることにちがいありませんもの。
 昨年でしたかアメリカの新聞社からとて、日本婦人の先覚者だとかいってききにこられた人がありました。私自身先覚者とも何とも思ってはいません。ただ自然に運命がああしたものですもの。
 今はこうして老年になりましたが、しかしふしぎに、魂は年とともに、いきいきと、若く新しく育ってゆくような気がします。一九四五年(昭和二〇)、最愛の息子の戦死から、私の魂に革命を起こしました。
 幾百万戦死者を犬死いぬじにさせてはならない。この世は平和でありよろこびの天地でなければならないと思うのです。人間にどうにもならない運命があるように、国にも運命があると思うのです。世界は何か目に見えない運命の動きが足音たてて進んでいるのです。
 明治維新の雛形は小さかったがこのたびはもっともっと大きく世界の維新がこの地上に現れる日を、人類のすべては待ち望んでいいと思うのです。私は私自身、そのためのけし粒のような小さい種であってほしいとの念願に今日も生きています。(於・放送局)
(白蓮『ことたま』一九五四年[昭和二九]八月 日本出版広告社)





底本:「柳原白蓮エッセイ集 ことたま」河出書房新社
   2015(平成27)年11月30日初版発行
底本の親本:「ことたま」日本出版広告社
   1954(昭和29)年8月
初出:「ことたま」日本出版広告社
   1954(昭和29)年8月
※()内の編者による注記、並びに本文末尾の編者による注記はそれぞれ省略しました。
入力:雪森
校正:富田晶子
2018年1月1日作成
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