放心教授

森於菟




「先達ては老生の面倒なる御願に対し早速御調査詳細の御回答下され難有存候。然る所貴文中○○大学教授○○○○氏現存の如く御認め有之候も同博士は××大学教授にしてたしかに昨年中物故せられ居候。賢弟も愈々完全なる Zerstreuter Professor になられたるものと感服仕候。呵々。」これは永年ドイツに滞在している親戚のH教授から私への書信の一節である。Zerstreuter Professor は訳すればボンヤリ教授で、ドイツでも昔から教授先生というものは世故にうといぼけ者と相場をきめ、アメリカ人を成り金、アイルランド人をけちん坊とするように、よく漫画雑誌などの材料にせられたものである。例えば雨の日に蝙蝠傘の代りにステッキを差して歩いたり茹で卵をつくるつもりで懐中時計を湯の中にほうりこみ卵を手にして見つめている類である。しかしかくのごとき放心家は現代の教授たる資格がないものでいわゆる眼から鼻へぬける底の明徹なる人物でなければならないとみえ、ドイツでも近来教授は一口噺の材料にはならない、将来学者たらんとするものは決して放心なるべからず、というのは実は先頃明朗冷徹を以て著名な某教授の隠退記念会の席上ある先生の話されたことであるが、実にごもっとも至極の次第、私も絶対賛成で、ここに放心教授伝を記して後進の戒めとする所以ゆえんである。
 実は題して放心教授列伝としたいが見渡したところ私の周囲には私に比肩し得る放心家はない。そこで一家の伝を以て満足せざるを得ないのである。蝙蝠傘を一月に一本、万年筆を二月に一本の割で紛失するなぞは誇るに足らない。蝙蝠傘の紛失記は別の雑誌に書いたことがあるが、警視庁の遺失品係を見学した時、これが一つの尨大なる倉庫をうずめているのを見て私の同輩が天下にあまねく充満しているのを知って意を強くした。一年間に警視庁管内における蝙蝠傘の紛失は二万を突破するそうで、電車の五、六台はそのまま楽に入ると思われる大倉庫の周囲の壁はもちろん、中には数十段を積み重ねた棚がいっぱいにならんでその間はわずかに人が体を横にして通りうるほどの隙間しかない。そしてすべての棚の各段に一本一本日附けと場所とを記した紙片を柄にくくりつけた無数の傘が並んでいる。この古着屋のごとく空家のごときかびの臭いが充ちている薄暗い室の隅々にはなお整理しきらぬ無数の傘が塵埃にまみれて山と積み重ねられている。なおこの中には少数のステッキ雨傘もあるが大部分は蝙蝠傘で中には将校の佩剣もあった。これは遺失物中でも別室にある遺骨壺や柱時計と共に珍物とすべきである。なお図書室の一隅に新刊雑誌の棚があるごとくここでは新着の傘はひとまとめにしてある。係りの人の話では朝から雨がふって昼から晴れた日の午後には百本内外は必ずここに運びこまれるという。また一年とめ置いて払い下げるがあまり多くなって整理に困るし一年倉庫に置くと布地がボロボロになるので半年で払い下げることにしようとよりより相談中だとのこと。このほかに行李いっぱいの懐中時計、万年筆、その他指輪貴金属等の数々を見せられたのは見聞のせまい私にとって十数年前米国シカゴのストックヤードで千余の豚の吊し斬りを参観した以来の深い印象を与えさせられた。
 かくて省線電車の中で座席のわきに立てかければ必ず置き忘れ、市内電車の出入口に近い手すりに柄の曲ったところを引っかけたまま置いてくる蝙蝠傘、郵便局や銀行の窓口で署名するたびに捨ててくる万年筆、講壇の上に放りぱなしで学校を出て昼頃ねじを巻こうとして気がつく懐中時計なぞはここに記す価値がないとなると、さて何を書いたものか。考えればまだいろいろある。それを思い出してポツポツ列べる前に、ありふれたかつ紛失物中最多数を占める蝙蝠傘の中に一つ変ったのがあったから一例報告しておこう。今年の春、雨の日の朝出勤の省線電車中である。いつも降りる御徒町駅についた時あいにく非常にこみあっていた。私は片手に傘を握り片手にカバンを下げて遮二無二突き進んで行った。ようやく出るとすぐ扉がしまったがやれやれと落ち付いて階段を下り、駅から出ようとして初めて雨が降っているのに気がついた。傘を開こうとすると既に私の手にはない。人混みの中を扉のしまらぬうちに出ようとする努力に気をとられて傘をいつの間にか手放したと見える。この時の私の蝙蝠傘はたぶん東京駅あたりまで押しあっている人の背中と背中の間に挟まれて直立したまま運ばれたにちがいない。
 私は毎日家へ帰る途中、本郷通りや上野広小路辺でよく買物をする。それも書籍その他自分の入用品を買うことは少くて、子供達への土産の玩具や画本、ないしお弁当のおかずになりそうなものなど、すこぶるよき父親ぶりを発揮するのである。その買物の場合の一〇パーセントにおいて何か忘れる。買物をすれば金を払う義務と品物をもってくる権利とがある。たいがいはその権利の方を忘れるのでことに紙幣を与えて釣銭を待つのに時間がかかるとその間に私の頭は遠く買物という事柄から離れてしまう。そして受け取った銀貨や銅貨を蟇口の中にザラザラしまい込むとやっと用がすんだという気分になってそのまま店を出てゆくのである。驚くのは店の子僧やおかみさんで水菓子の袋や絵本の包み、時によっては煮豆佃煮の類の竹の皮入れを持って私のあとを追いかける。先にいった権利と義務のうち、無意識に私を強く支配するものが義務の方らしいのでたいがいは買ったものを忘れるが稀に義務の方を忘れ、金を払ったつもりで包みだけぶらさげて出そうになることがある。この時は万引きみたいではなはだきまりの悪いおもいをするが私の態度が明らかに間が抜けているとみえて警官を煩わすほどの事件を惹き起したことは幸いにまだ一度もない。
 学生の時徴兵猶予願いを忘れて、これはお上のことに属するので何とも始末のつけようがなく、よんどころなく一般壮丁とならんで褌を一着に及び検査をうけたことはいつか書いたことがあった。結婚式の日には教室で実験していて時間を忘れていた。宅から猛烈な催促の電話をうけてあわてて帰って礼服を着て大神宮にまかり出た。その時の記念写真を見るとフロックコートはつけているがカラーは平日のダブルのままであった。
 留学中には旅行の都度チャンとプランをつくってゆく友人の尻についてまわったのでたいして失敗もしなかったが、ベルリンの郊外に住んでいたので大学に通うのにベルリン市の周囲をまわる東京の山手線のようなのを利用する。ある日いつも降りる駅を度忘れをしてベルリンのまわりを二まわりまわったことがあった。またある夏ドイツの北海のヘリゴランドという小島の研究所に行って魚をとっては解剖していたが、人の真似して海水浴に行こうとして島の小さい町で海水帽を買った。いろいろある中に麦藁帽むぎわらぼうの縁のひろいのが日よけによさそうだ。いろんなリボンがついてるが黒いのは男のだろうと思ってそれを買ってかねて用意の海水着と共に一着し意気揚々と海岸に出た。するとそこらにいる人が皆笑う。ことに娘達が笑う。私は内心はなはだおだやかでない。ベルリンでも日本人を見てヤップス(米国でいうジャップと同じ)などと嘲笑するものがあるがそれは多くは下層階級の無頼漢どもだ。ここでは相当の紳士淑女らしいのが皆見るような見ないような顔でニヤニヤしている。不愉快なのでそのままパンジオン(下宿)に帰ると老主婦が大きな腹をつきだし両手をつっぱって腰の所へ手をあてがった姿勢で皺だらけの顔の底にひっこんだ金壺眼をぐりぐりさせる。「ドクター、仮装会にはまだ早い。Damenhut をかぶってどうしたのだ」という。私の帽子は婦人専用のものであったらしい。帽子はお主婦かみさんにやってタオルを鉢巻にして出直したら今度は誰も笑わぬ。その夕方海岸の天幕張りの食堂で食事をしていた時、そこに一人の若い外国士官が飛行服をつけたまま入ってきたのを皆囁き合ってクスクス笑っていた。これは大戦後ドイツが飛行機の製作をとめられたための反感とこういう場所に飛行服のまま入り込む衒気に対する冷笑であったらしい。
 ネクタイを忘れることがしばしばある。ベルリンでも電車にのって気がついて頸を押えたまま下宿へとんで帰ったことがある。日本に帰ってから数えれば十回に近い。たいがいは電車にのって人のネクタイを見ると気がつくが大宮に住むようになってからはとりに帰ると間に合わないので上野駅まで我慢して駅の地下室の売店で買って結んで行ったことが二度、そしてまた一度は講堂へ出る前に初めて気がついた。時、折しも盛夏であったので、わざとカラーをはずしワイシャツの襟を折って流行の尖端を行く開襟党のごとくよそおって出たら学生がわっとはやした。それは何と鑑定してであったかつい聞かずにしまった。解剖実習の時カフスを取り外したまま忘れて会に出席したりすることは挙ぐるに暇がないくらいである。
 宅にいて和服をきるとしばしば裏返しにきる。綿入れや袷せはめったにそんなことがないけれども単衣ひとえの場合ははなはだ多い。私の考えでは綿入れや袷せはなるほど二枚の異なった布地をついであるから裏を出してはわるかろうが単衣は一枚だから裏も表もありはしない、縫目くらい出ていてもたいして差し支えはないと思うのだがどうも妻などは承認してくれないのである。浴衣をきる頃入浴の際これを脱ぎすてまた着る時にはなはだ多い。私は裏も表も区別していないから偶然率にして五〇パーセントは裏が出る次第である。これはずっと前であるが裏返しに浴衣を着たまま散歩に出た。学生時代で電車は本郷追分までしか来ていなかった。ここで電車にのると向い側に腰かけている娘が二人突つきあってクスクスやってるがしまいにはゲラゲラ笑い出した。私はむろん何のことかわからぬのですましていた。この時にも男の客は笑わない。紳士として人の欠点を笑わぬのではなく、やはり男はこんなところに気のつかぬものと見える。とかく女というものはつまらぬことに気づきやすいものである。そのうち私は本郷一丁目で電車を降りてその頃あの角にあった若竹亭という寄席に入った。今の学生諸君には映画レビュー、その他禁断の果をあさればダンス麻雀クラブその他我々の知らぬ種々の娯楽があろうがその頃には碁将棋か寄席か芝居の立見くらいのものであった。そこで落語か何かの掛行灯かけあんどんのある寄席に入ろうとすると、帳場に座っていた若い男が「はなはだ失礼で御座いますがお召物が裏のようで」と注意してくれた。ここではさすがに単物表裏無差別論を強調することもできずその男の好意を謝し、案内された別室で着直して観客席に入った。
 この例をいくらあげても私は最初期していたような興味がさらに乗ってこないからこの辺でやめるが大日本の教育機関という大きな機械の歯車の一つを勤めている私がかくのごとく Zerstreut であって今までどうやら大失態も仕出かさなかったのは、自分の上にも下にも同僚にもいわゆる鵜の眼鷹の眼リンクスの眼の鋭い人達がそろっていてこのボンヤリ者を支えていてくれたからであろう。しかしかくのごときものが現代ないし将来の Arzt にはもちろんのことその昔放心なる物の代表とせられた Professor にも適せぬのは本篇の冒頭に述べたようで深く諸君の戒めとして貰いたい。これにて今回の修養講話の終りと致します。





底本:「日本の名随筆 別巻44 記憶」作品社
   1994(平成6)年10月25日第1刷発行
底本の親本:「新編 解剖刀を執りて」筑摩書房
   1989(平成元)年5月15日初版第1刷発行
初出:「屍室斷想」時潮社
   1935(昭和10)年3月9日発行
入力:大久保ゆう
校正:富田晶子
2018年1月1日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。




●表記について


●図書カード