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サイレーンがどんな歌を歌ったか、またアキリースが女たちの間に身を隠したときどんな名を名のったかは、難問ではあるが、みなみな推量しかねることではない。
トマス・ブラウン卿(1)
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分析的なものとして論じられている精神の諸作用は、実は、ほとんど分析を許さぬものなのである。ただ結果から見て、それらを感知するにすぎない。そのなかでもわかっていることは、精神の諸作用を過分に身につけている人にとっては、これこそなによりも生き生きとした楽しみの源泉である、ということだ。ちょうど、強健な人が筋肉を働かせる運動を喜んで自分の肉体的能力を誇るのと同じように、分析家はものごとを解き明かす知的活動に熱中する。彼は、この才能を発揮できることなら、どんなつまらない仕事でも楽しんでやるのだ。彼は、
分析の能力は数学の研究によって、おそらく大いに活躍させられるだろう。ことに、その最高の部門であって、ただ逆行的なやり方をするというだけで、不当にも、とくに解析学と呼ばれているものによってだ。しかし、計算することはもともと分析することではない。たとえば、
ホイスト(2)は、いわゆる計算力を養うものとして早くから知られていて、最高級の知力を持つ人々はチェスをつまらないものとけなして、ちょっと不思議なほどホイストに凝ったものだ。たしかに、この種のものではホイストほど分析能力を働かせるものはほかにない。キリスト教国中で一番のチェスの名人だといっても、つまりはただチェスの名人だというにすぎない。ところがホイストの
分析力と、単なる工夫力とを、混同してはならない。なぜなら、分析家は工夫がうまいと決っているが、工夫のうまい人でも恐ろしく分析力のない人がときどきあるからである。この工夫力が普通あらわれるのは、構成力とか結合力によってであって、骨相学(4)者たちはこの力を本源的能力と想像して別の器官をこれに割当てている(これは誤っていると私は信ずる)のであるが、この力は他の点ではまるで白痴に近い知力をもつ人々に実にしばしは見られるので、いままでにも倫理学者の間に広く注意をひいたくらいである。工夫力と分析力のあいだには、非常によく似通った性質のものではあるが、空想と想像のあいだの相違よりも、実にもっと大きな相違があるのである。
これから語す物語は、いままで語った命題の注釈のように、読者諸君には見えるであろう。
一八――年の春から夏にかけてパリに住んでいたとき、私はC・オーギュスト・デュパン氏という人と知合いになった。この若い紳士は良家の――実際に名家の出であったがいろいろ不運な出来事のために貧乏になり、そのために気力もくじけて、世間に出て活動したり、財産を
我々が初めて会ったのはモンマルトル街の名もない図書館で、そこで二人が偶然にも同じたいへん貴重な
ここでの我々の日常生活が世間に知れたなら、我々は狂人と――もっともたぶん、害のない狂人と――思われたにちがいない。我々の
夜そのもののために夜を
そうしたときに私は、デュパンの特殊な分析的能力を認めたり、感嘆したりせずにはいられなかった(彼の豊富な想像力から十分に期待していたことだが)。彼はまた、その能力を働かせることを――なにもそれを見せびらかすことではないとしても――たいそう喜ぶらしく、またそのことから生ずる愉快さを、私にあっさり白状しもした。彼は、低い含み笑いをしながら、たいていの人間は自分から見ると、胸に窓をあけているのだ、と私に向って自慢し、そういうことを言ったあとでは、いつも、私の胸のなかをよく知っている実にはっきりした驚くべき証拠を見せるのであった。そんなときの彼の態度は冷やかで放心しているようだった。眼にはなんの表情もない。声はいつもは豊かな
いま言ったことから、私がなにか神秘的なことを語ったり、なにかロマンスを書いたりしようとしているなどと思ってはならない。私がこのフランス人について語ったことは、単に興奮した、もしかすると一種の病的な知性の結果にすぎないのだ。だが、こんなときの彼の言葉の調子については、例を挙げるのがいちばんよくわかるだろう。
ある夜のこと、我々はパレ・ロワイヤール付近の、長い、きたない街をぶらぶら歩いていた。二人ともなにか考えこんでいたらしく、少なくとも十五分間はどちらからもひと言もものを言わなかった。と、まったく突然に、デュパンがこう話しかけた。
「いやまったく、あいつは小男さ。そりゃあ
「たしかに、そのとおりだね」と、私は思わず返事をしたが、初めは私が心のなかで考えていたことに話し手がちゃんと調子を合わせていた不思議なやり方に気がつかなかった(それほど私は考えに夢中になっていたので)。それからすぐ我に返って、ひどくびっくりした。
「デュパン」と私は真面目に言った。「これは僕にはちっともわからないね。あっさり白状するが、僕はびっくりしたよ。自分の感覚が信じられないくらいだ。どうして君にわかったんだい? 僕の考えていたあの――」と、ここで私は、彼がほんとうに私の考えていた人間のことを知っているかどうかをはっきり確かめるために、ちょっと言葉を切った。
「――シャンティリのことだろう」と彼は言った。「なぜ君はあとを言わないんだ? 君はあの男は小柄で悲劇には不向きだと腹のなかで言っていたじゃないか」
これはまさしく私の考えていたことだった。シャンティリというのは、もとサン・ドニイ街の靴直しだったが、芝居気違いになり、クレビヨン(5)の悲劇のクセルクセスの
「どうか話してくれたまえ」と、私は大声で言った。「どんな方法で――もし方法があるならだよ――僕の心のなかを見抜くことができたのかということを」事実、私は口で言うよりももっとびっくりしていたのだ。
「あの果物屋さ」と友は答えた。「クセルクセスとか、すべてそういった役をするにはあの靴底直しでは寸が足りないという結論を、君にさせたのはね」
「果物屋だって! ――驚くねえ、――果物屋なんて僕は一人も知りやしないよ」
「僕たちがこの通りへ入ったときに君にぶっつかったあの男さ、――もう十五分も前だったろう」
そう言われて私は思い出した。いかにも、我々がC――街からこの通りへ曲ったときに、頭に大きな
デュパンの様子には
まあ自分の生涯のある時期に、自分の心がある結論に到達した道順をさかのぼってみることを、面白いと思わない人は、あまりないだろう。この仕事はときどき実に興味のあるもので、初めてそれを試みる人は、出発点と到着点とのあいだにちょっと見ると無限の距離と無連絡とのあることに驚くのだ。だから、このフランス人がいま言ったことを聞いて、それが真実であることを認めるほかなかったときの、私の驚きはどんなであったろう。彼はつづけて言った。
「もし僕の記憶がまちがってなければ、C――街を出るすぐ前に、僕たちは馬のことを話していたのだ。それが僕たちの最後の話題だったね。この通りへ曲ったとき、頭に大きな籠をのせた果物屋が急いで僕たちとすれちがって、歩道を修繕しているところに集めてあった舗石の積山の上に君を押しやった。君はそのばらばらの石ころを踏んで、すべり、
君はずっと地面に眼を落していた、――むっとした表情をしたまま、舗石の穴や
“Perdidit antiquum litera prima sonum.”(初めの文字は昔の音を失えり)
という詩句のことさ。これはもとウリオンと書いたのをいまではオリオンとなっていることを言ったものだと話したことがある。で、この説明に関したある辛辣な皮肉から、君がそれを忘れるはずがないのを僕は知っていた。だから、君がオリオンとシャンティリという二つの観念をかならず結びつけるだろうということは明らかだった。はたして君がそうしたということは、君の唇に浮んだ微笑の様子でわかった。君はあのかわいそうな靴直しがやっつけられたことを考えたのだ。それまでは君はこごんで歩いていたが、そのとき体をぐっと十分に伸ばした。そこで僕は君がシャンティリの小柄なことを考えたということを確信したよ。で、そのときに君の黙想をさえぎって、ほんとにあいつは――あのシャンティリは――小男だから、寄席のほうが向くだろう、と言ったのさ」それからしばらくたったころ、『ガゼット・デ・トゥリビュノー』の夕刊に眼を通していると、次のような記事が我々の注意をひいたのである。
「奇怪なる殺人事件。――今暁三時ごろ、サン・ロック区の住民は、レスパネエ夫人とその娘カミイユ・レスパネエ嬢との居住する、モルグ街の一軒の家屋の四階より洩れたらしい、連続して聞える恐ろしい悲鳴のために、夢を破られた。通常の方法で入ろうとしたが不可能だったので少し遅れ、
室内は実に乱雑を極め――家具は打ちこわされ四方に投げ散らされている。寝台はただ一個あるだけで、その寝具は取りのけられ、床の中央に投げだされていた。椅子の上には血にまみれた
ここではレスパネエ夫人の姿は見えなかった。が、炉のなかに非常に多量の
家のあらゆる部分をくまなく捜索したが、それ以上はなんの発見もなく、一同はこの建物の裏にある石敷きの小さな中庭へ出ると、そこに老婦人の死体が横たわっており、その咽喉が完全に切られていたので、体を起そうとすると頭部が落ちてしまった。頭も胴もおそろしく切りさいなまれ、――胴のほうはほとんど人間のものとは見えないくらいであった。
この恐るべき怪事件には、いまのところ、まだ少しの手がかりもないようである」
翌日の新聞は、さらに、次のような詳報を付け加えた。
「モルグ街の惨劇。この最も奇怪な恐ろしい事件〔フランスでは『
洗濯女、ポーリン・デュプールの証言。過去三年間、洗濯の御用を聞いていたので、被害者両人を知っていた。老婦人と娘との仲はよく、――互いに深く愛し合っていた。代金は滞りなく払ってくれた。二人の暮し方や暮し向きについては知らぬ。レスパネエ夫人は占いを業としていたと思う。金を
煙草商、ピエール・モローの証言。いままで四年間、レスパネエ夫人に少量の煙草および
近所の多くの人々も同様な意味の証言をなした。この家へしばしば出入りする者といっては一人もないということだった。レスパネエ夫人と娘との親戚で生きている者があるかどうかもわからなかった。表の窓の鎧戸はほとんど開かれたことがない。裏の窓の鎧戸は、四階の大きな裏側の室をのぞいて、いつもしめてあった。家はよい家で、あまり古くない。
憲兵、イジドル・ミュゼエの証言。朝の三時ごろその家へ呼ばれ、戸口のところに約二、三十人の人が入ろうとしているのを見た。ついに銃剣をもって――鉄梃ではなく――その戸口をこじあけた。二枚門つまり両開き門になっていて、下にも上にも
隣人、銀細工業、アンリ・デュヴァルの証言。初めにその家へ入った連中の一人であった。大体のところミュゼエの証言を確証する。彼らは家へ押し入るとすぐ、夜更けにもかかわらず、わっと集まってきた群集を入れないために扉をふたたび閉じた。鋭い声というのは、この証人はイタリア人の声だと思っている。フランス人の声でないことは確かだ。男の声だったかということは確かではない。女の声だったかもしれぬ。イタリア語には通じていない。言葉は聞きとれなかったが、音の抑揚で、言ったのはイタリア人だと確信する。レスパネエ夫人とその娘とを知っている。二人としばしば話し合ったことがある。その鋭い声はどちらの被害者の声でもないことは確かだ。
料理店業、オーデンハイメルの証言。この証人は自分から進んで証言した。フランス語を話せないので、通訳をとおして調べられた。アムステルダムの生れである。悲鳴の聞えたときにその家の前を通りかかった。悲鳴は数分――たしか十分くらい――の間つづいた。長くて、大声で、――実に恐ろしく、苦しげだった。その建物へ入った連中の一人である。一点をのぞいてすべての点で前にあげた証言を確証する。鋭い声は男の――フランス人の声であることは確かだ。言った言葉は聞きとれなかった。声高く、速くて、――高低があり、――明らかに怒りと恐れとから発せられたものであった。耳ざわりな声で――鋭いというよりも耳ざわりなものであった。鋭い声とは言えぬ。荒々しい声のほうは『
ドロレーヌ街ミニョー父子銀行の頭取、ジュール・ミニョー――老ミニョーの証言。レスパネエ夫人は多少の財産を持っていた。――年(八年前)の春から彼の銀行と取引を始めた。ときどき少額ずつ預け入れた。死亡の三日前までは少しも払い出したことはなかったが、その日彼女は自分でやって来て四〇〇〇フランの金額を引き出した。この額は金貨で支払われ、一人の行員が金を家まで届けた。
ミニョー父子銀行の行員、アドルフ・ル・ボンの証言。当日の正午ごろ、彼は四〇〇〇フランを二個の袋に入れてレスパネエ夫人とその住宅へ同行した。扉が開くとレスパネエ嬢があらわれて彼の手から一つの袋を受け取り、老婦人はもう一つを取ってくれた。彼はそれからお辞儀をして立ち去った。そのとき、路上には誰も見えなかった。裏通りで、――ひどく淋しいところである。
仕立屋、ウィリアム・バードの証言。その家へ入った者の一人であった。イギリス人で、パリに二年住んでいる。最初に階段をのぼった者の一人で、争う声を聞いた。荒々しい声はフランス人の声であった。数語わかったが、いま全部は思い出せない。『
以上の証人のうち四名は当時を思い出して、さらに証言した。レスパネエ嬢の死体の見つかった室の扉は、一同がそこへ着いたときには、内側から錠が下りていた。まったくひっそりしていて、――
葬儀屋、アルフォンゾ・ガルシオの証言。モルグ街に住んでいる。スペイン生れで、家へ入った者の一人であった。階上へは上がらなかった。神経質なので、興奮の影響を気づかったのである。争う声を聞いた。荒々しい声はフランス人の声であった。なんと言ったのか聞きとれなかった。鋭い声のほうはイギリス人の声であった、――これは確かだ。英語はわからないが、音の抑揚でそうと判断する。
菓子製造人、アルベルト・モンターニの証言。最初に階段をのぼったなかの一人であった。例の声を聞いた。荒々しい声はフランス人の声であった。いくらか聞きとれた。声の主はたしなめているようだった。鋭い声の言葉はわからなかった。早くて乱れた調子でしゃべっていた。ロシア人の声だと思う。一同の証言を確証する。この証人はイタリア人で、ロシア人と話したことはない。
再び呼び出された数人の証言したところによれば四階のあらゆる部屋の煙突は、せまくて人間は通れない。『煙突掃除器』というのは、煙突掃除人たちの使うような円筒形の掃除ブラッシのことである。このブラッシを家じゅうのあらゆる
医師、ポール・デュマの証言。夜明けごろ死体を検視するために呼ばれて行った。そのとき死体は二つとも、レスパネエ嬢の見つかった室の寝台の麻布の上に横たわっていた。若い婦人の死体はひどい打撲傷と擦り傷がついていた。煙突のなかへ突き上げられたために、そんなふうになったものにちがいない。咽喉はひどく擦りむけていた。
外科医、アレクサンドル・エティエンヌは死体を検視するためにデュマ氏とともに呼ばれた。デュマ氏の証言と鑑定を確証する。
そのほか数名の者が調べられたが、以上のほかに重要なことはなにも得られなかった。すべての点でこんな不思議な、こんな不可解な殺人事件――まあかりに、ほんとの殺人が行われたものとしてだが――はパリではいままで行われたことがなかった。警察はまったく途方に暮れている。――この種の事件では珍しい出来事である。しかも手がかりらしいものの影もない」
同紙の夕刊は、サン・ロック区ではまだ大騒ぎがつづいていること、――犯罪の行われた家がふたたび念入りに探索されたこと、改めて証人を呼び出して取り調べたが、なんの得るところもなかったこと、を報じた。しかし、付記として、アドルフ・ル・ボンが、既報の事実以上になにも有罪とすべきところがないにもかかわらず、逮捕されて収容されたことがしるしてあった。
デュパンはこの事件の進展に奇妙なくらい興味を感じているらしかった。――彼はなにも批評めいたことは言わなかったが、少なくとも私はその態度からそう判断した。彼がこの殺人事件について私の意見を尋ねたのは、ル・ボンが収容されたという報道があってからのちのことだった。
この事件を解きがたい怪事件と考える点で、私はパリ市民と同じ意見であるにすぎなかった。殺人犯人を探り出す手段は、私には少しもわからなかった。
「こんな見せかけだけの調査で、手段を判断してはならない」とデュパンが言った。「パリの警察は明敏だと褒められているが、ただ小利口なだけなんだよ。彼らのやり方には、ゆきあたりばったりの方法以上に、方法というものがない。彼らは手段をたくさん見せびらかすが、それがときによるとその目的にうまく合っていないのでね。例のジュールダン(9)どのが、
この殺人事件について言えばだ、それについての僕たちの意見を立てる前に、僕たち自身で少し調べてみようじゃないか。調査は僕たちを楽しませてくれるだろうよ。〔楽しみというのはこんな場合に用いるには妙な言葉だと思ったが、私は何も言わなかった〕それにまた、ル・ボンには前に世話になったことがあって、僕はその恩を忘れてはいない。出かけて行って、僕たち自身の眼でその家を調べてみよう。僕は警視総監のG――を知っているから、必要な許可をとるのは簡単だろう」
許可が得られたので、我々はさっそくモルグ街へと出かけた。そこはリシュリュー街とサン・ロック街との間にあるみすぼらしい通りである。この区域は我々の住んでいた区域とずっと離れているので、そこへ着いたのは午後遅くであった。家はすぐわかった。まだ大勢の人が、べつに目的もないのに好奇心から、しまっている鎧戸を往来の向う側から見上げていたからだ。普通のパリ風の家で、門があり、その片側にガラス窓のついた番小屋があって、窓に一つすべり戸がついていて
あと戻りして、――我々はふたたび家の前へ来て、ベルを鳴らし、証明書を見せて、管理人に入れてもらった。二人は階段をのぼり、――レスパネエ嬢の死体の見つかった、被害者二人がまだ横たわっている室へ行った、例のとおり、部屋の乱雑さはそのままにしてあった。私には『ガゼット・デ・トゥリビュノー』に報ぜられていた以上のことはなにも見えなかった。デュパンはなにからなにまで、被害者の死体をも、精細に調べた。我々はそれから他の部屋部屋を歩きまわったり、中庭へ行ったりした。一人の憲兵がずっと付きそってきた。調査は暗くなるまでかかり、それから我々はひき上げた。家へ帰る途中で、私の連れはある新聞社へちょっと立ちよった。
前に言ったように、友にはさまざまなむら気があって、Je les m

「変った」という言葉に力を入れた彼の様子には、なぜか知らないがなにか私をぞっとさせるものがあった。
「いいや、変ったことってなにもなかったよ」と私は言った。「少なくとも、僕たち二人が新聞で見たこと以上にはなにもね」
「あの『ガゼット』はこの事件の異常な恐ろしさを理解していないようだよ」と彼が答えた。「しかしあんな新聞のくだらん意見なんぞは相手にせずにおこう。この怪事件は解決が容易だと思われるのだが、そう思われる理由のために――つまり、その外観が異様な性質なので――かえって不可解だと考えられている、と僕には思われるのだ。警察は、動機がわからないために――殺人そのものよりも、殺人があまりに凶暴なために当惑している。また、彼らは、あの争っているように聞えた声と、階上には殺されたレスパネエ嬢のほかに誰も見あたらず、また階段をのぼってゆく一行の者に気づかれないで逃げる手段がないという事実との、
私はびっくりして黙ったまま彼を見つめた。
「僕はいま待っているのだ」と彼は、部屋の扉の方に眼をやりながら、言葉をつづけた。――「僕はいま、たぶんこの凶行の犯人ではなかろうが、その犯行にいくらか関わっているにちがいない一人の人間を待っているのだ。この犯罪のもっとも凶悪な部分には、おそらくその男は関係がないだろう。この推定があたっていればいいがと思う。というのは、僕はこの
私はピストルを手にしたが、自分のしたことにまるで気もつかず、また自分の聞いたことも信じられなかった。そのあいだにデュパンはまるで
「階段の上にいた連中の聞いた争うような声が」と彼は言った。「あの二人の女の声ではないということは、証言によって十分に証明された。だから、母親のほうが初めに娘を殺し、そのあとで自殺をしたのではなかろうかという疑いは、いっさいなくなるわけだ。僕は殺人の手段ということのために、この点を話しておくんだよ。レスパネエ夫人の力では、娘の死体をあんなふうに煙突のなかに突き上げるなんてことはとてもできまいし、また彼女自身の体についている傷の性質から言っても、自殺などという考えをぜんぜん許さないものなんだからね。とすると、殺人は誰か第三者がやったのだ。そしてこの第三者の声が、争っているように聞えた声だったのだ。今度は、――この声についての証言全体ではなく――その証言のなかの特異な点を、注意してみようじゃないか。君はそれについて何か妙なことに気づかなかったかね?」
私は荒々しい声をフランス人の声だと推定することにはすべての証人の意見が一致しているのに、あの鋭い、あるいは一人の証人の言うところによれば耳ざわりな、声に関してはひどい意見の相違がある、ということを言った。
「それは証言そのものなんだ」とデュパンが言った。「だが証言の特異な点じゃない。君は特殊なことはなにも気づかなかったんだね。しかし何か気づくべきものがたしかにあったのだ。君の言うとおり、証人たちは荒々しい声については意見が一致していた。この点では彼らは一人残らず異議がなかった。けれども鋭いほうの声に関しては、その特異な点は、――彼らの意見が異なっていたということではなくて――イタリア人と、イギリス人と、スペイン人と、オランダ人と、フランス人とがそれを説明しようとしているのに、めいめいがみんなそれを外国人の声だと言っていることなのだ。一人一人がみんな自分の国の者の声ではなかったと信じている。みんながそれを――自分がその国語を知っている国の人の声と思わないで――その反対に思っている。フランス人はスペイン人の声だと思い、『自分がスペイン語を知っていたならいくつか言葉を聞きとれたかもしれない』などと言っている。オランダ人はフランス人の声だと言っているが、『フランス語がわからないので、この証人は通訳をとおして調べられた』と書いてある。イギリス人はドイツ人の声だと考えているが、『ドイツ語はわからない』のだ。スペイン人はイギリス人の声であることは『確かだ』と思っているが、『彼は英語を少しも知らないので』、ぜんぜん『音の抑揚で判断する』のだ。イタリア人はロシア人の声と信じているが、『ロシア人と話したことはない』のだ。そのうえ、もう一人のフランス人は、前のフランス人と違って、その声をイタリア人の声だと思いこんでいるが、その国語を知らないので、スペイン人と同様に『音の抑揚で確信』しているのだ。さて、こういう証言の得られる声というのは、ほんとうに実に奇妙なただならぬものだったにちがいないね! ――その声の調子には、ヨーロッパの五大国の人間にさえ聞きなれたところが少しもなかったんだぜ! 君はアジア人の――アフリカ人の声だったかもしれんと言うだろう。アジア人もアフリカ人もパリにはたくさんいない。が、その推定を否定しないで、僕は単に今、三つの点を君に注意してもらいたい。その声を一人の証人は『鋭いというよりも耳ざわりな』ものと言っている。他の二人は『速くて高低のある』ものであったと言っている。どの証人も、言葉――言葉に似た音――を聞きとれたとは言っていない」
「僕がこれまで」とデュパンはつづけて言った。「君の理解力にどんな印象を与えたかは知らない。が僕は、証言のこの部分――あの荒々しい声と鋭い声とについての部分――だけからの正しい推定でも、この怪事件の調査の今後いっさいの進展に一つの方向を与える十分な手がかりになると、はっきり言いきれるね。いま『正しい推定』と言ったが、これでは僕の言いたいところは十分に言いあらわせない。僕は、その推定は唯一の正しい推定であるということ、また、その手がかりはそのただ一つの結果としてそれから必ず起ってくるものであるということ、を言いたかったのだ。だが、その手がかりというのがどんなものかは、今すぐは言わないでおこう。ただ、それは僕にとっては、あの室内での僕の調査に、ある一定の形――ある確実な傾向――を与えるに足りるほど力のあるものだった、ということを心にとめてもらいたい。
いま、かりに、二人があの部屋へ行くとしてみよう。第一に僕たちはそこでなにを探すだろう? 殺人犯人の逃走した手段さ。僕たち二人とも超自然的なことなど信じはしないのだ。レスパネエ夫人親子は幽霊に殺されたんじゃない。殺人をやった者は実体のあるもので、その実体で逃げたんだ。ではどうしてか? 幸いにも、この点については唯一の推理の方法があって、その方法がある一定の結論に導いてくれるにちがいない。――逃走できる手段を一つ一つ調べてみようじゃないか。一同が階段をのぼっていたとき、レスパネエ嬢の見出された室か、少なくともその隣の室に、加害者がいたことは明らかだ。とすると、出口を探さなければならんのはこの二つの部屋だけだね。警察は床や、天井や、璧の石を、四方八方はいでみた。どんな秘密の出口があっても彼らの眼にとまらぬはずはない。しかし、僕は彼らの眼に頼らないで、自分自身の眼で調べてみた。と、ほんとに秘密の出口なんぞは一つもなかった。部屋から廊下へ出る扉は二つとも、しっかり錠がかかっていて、鍵が内側にあった。今度は煙突を見ようじゃないか。これは炉の上八、九フィートばかりは普通の広さだが、それから先はずっと、猫でも大きいのは通れはしないだろう。いままで言った手段で逃げ出ることの不可能なのはこれで確実だから、もう残っているのは窓だけになる。表の部屋の窓からは、誰だって通りにいる群集の眼にとまらないで逃げることができるはずがない。とすると、犯人は裏の部屋の窓から出たにちがいないのだ。さて、この断定に、こういうはっきりした方法で来たからには、それが一見不可能に見えるという理由でしりぞけるということは、僕たち推理家のすべきことではない。この一見『不可能』らしく見えることが実際はそうではないということを証明することが、僕たちに残されているだけなんだ。
あの室には窓が二つある。一つは家具などの邪魔がなくて、すっかり見える。もう一つの窓は、かさばった寝台の頭がそれにぴったり押しつけてあるために、下の方が隠れて見えなくなっている。初めに言った窓は内からしっかりとしめてあった。それを上げようとした人たちが全力を出してみたが上がらなかった。
僕自身の調査はもう少し念入りだった。それはさっき言ったような理由から念入りにやったのさ。――つまり、一見不可能らしく見えるすべてのことが実際はそうでないということを証明しなければならんのは、この点にあるのだ、ということを僕は知っていたんだから。
僕はこんなふうに――
そこで今度は、釘をもとのとおりにさして、それを注意ぶかく眺めた。この窓から出た人間は窓をまたしめたかもしれない、そして弾機はかかったろう、――が釘はどうしてももとのとおりさせるはずがない。この断定は明らかで、ふたたび僕の調査の範囲はせばまった。加害者はもう一つの窓から逃げたにちがいないのだ。そこで、両方の窓枠についている弾機が同じだと想像すれば、両方の釘に、あるいは少なくともその釘のさしこみ方に、相違がなければならんわけだ。僕は寝台の麻布の上へ上がって、その頭板の上から第二の窓を丹念に調べてみた。板のうしろへ手を下ろしてみると、すぐ弾機が見つかったので、押してみたが、想像していたとおり、その弾機は第一の窓についていたのと同じ性質のものだった。今度は釘を見た。それは前のと同じく丈夫なもので、見たところ、同じようなぐあいに――ほとんど頭のところまで――打ちこんであった。
僕が途方に暮れたろうと、君は言うだろう。が、もしそう考えるなら、君は帰納的推理ということの性質を誤解しているにちがいない。猟の言葉を用いて言うなら、僕は一度も『
謎はここまではもう解けたのだ。加害者は寝台に面している窓から逃げたんだよ。彼が出ると窓はひとりでに落ちて(あるいはわざとしめたのかもしれんが)、弾機でしっかりしまってしまった。そして、この弾機でしまっているのを警察は釘でしまっているのだと思い違いをして、――それ以上調査することは不必要だと考えた、というわけさ。
つぎの問題は下へ降りる方法だ。この点については、僕は君と一緒にあの建物のまわりを歩いているあいだにわかっていた。例の窓から五フィート半ばかり離れたところに避雷針が通っている。この避雷針から窓へ直接手をかけることは誰にだってできないだろう。入ることは言うまでもない。だが、僕は、あの四階の鎧戸がパリの大工がフェラード(12)と言っている特殊な種類のものであることに眼をとめた。――いまではめったに用いられないが、リヨンやボルドーなどのごく古い屋敷によく見られる種類のものだね。普通の扉(両開き扉ではなくて一枚扉)のようになっていて、ただ違うのは上半分(13)が格子造り、すなわち格子細工になっていることだ。――だから手をかけるにすこぶる都合がいい。さていまの場合では、この鎧戸は幅がたっぷり三フィート半もある。僕たちが家のうしろから見たときには、この鎧戸は二つとも半分ほど開いていた。――つまり、壁と直角になっていた。警察の連中も僕と同様に家のうしろを調べたろう。が、それにしても、このフェラードを正面から見たので(そうにちがいない)、彼らはあの幅の大きいことに気がつかなかったか、なんにしてもそれを考えに入れなかったのだ。実際、この方面から逃げ出たはずがないといったん思いこんでしまったので、自然ここはざっとしか調べなかったんだろうな。しかし僕には、寝台の頭のほうの窓にある鎧戸を十分に壁の方へ押し開けば、避雷針から二フィート以内のところまでとどく、ということは明らかだった。また、ごく並外れた勇気と活動力とがあれば、避雷針からこうして窓の内へ入ることができたかもしれない、ということも明らかだった。――二フィート半も手をのばせば(いまその鎧戸がすっかり開いていると想像して)、強盗は格子細工のところをしっかり掴むことができたろう。それから、避雷針をはなし、足をしっかり壁にかけて踏んばり、思いきってそれを
こういうきわどい、こういうむずかしい離れわざをうまくやってのけるには、ごく並外れた活動力が要る、と僕が言ったのを特に覚えていてもらいたい。第一には、そんなこともやれたかもしれんということを君に示すのが僕の意図だ。――が、第二には、そしてこのほうが主なんだが、そんなことをやる敏捷さはごく異常な――ほとんど超自然的な性質のものだということを君によくわかってもらいたいのだ。
君はきっと、法律の術語を使って、『自己の陳述を立証する』ためには、この事件に要せられた活動力を十分に評価するよりも、むしろそれを低く評価すべきではないか、と言うだろう。法律の慣例ではそうかもしれんが、理論ではそうはいかない。僕の最後の目的は真実だけだ。で、さしあたっての目的は、いま言ったそのごく並外れた活動力と、どこの国の言葉か一人一人の意見がみなまちまちで、ひと言も聞きわけられなかった、あのごく特異な鋭い(あるいは耳ざわりな)、高低のある声とを、君に考え合せてもらいたいことなんだよ」
こう言われると、デュパンの言っていることの意味の、おぼろげな、いくらか形をなした概念が、私の心をかすめた。私は今にもわかりかけているようで、わからなかった。――ちょうど人がときどき、いまにも思い出せそうで、結局は思い出せないといったことがあるように。友は話をつづけた。
「僕が問題を、逃げ出す手段から」と彼が言った。「入りこむ手段に移したことは、君にはわかっているだろう。出るのも入るのも、同じ場所から、同じ手段で、やったのだということを暗示したかったのだ。今度は部屋のなかへ戻ってみよう。そこの有様を調べてみようじゃないか。
今度は、僕がいままで君の注意をひいた点――あの特異な声と、あの並外れた
今度は、実に驚くべき力を用いた証拠がもう一つあるのを見よう。炉の上には人間の灰色の髪の毛のふさふさした束――非常にふさふさした束――があった。これは根元から引き抜いたものだった。頭からこんなふうに二、三十本の髪の毛だって一緒にむしり取るには大した力のいることは君も知っているだろう。君も僕と同様その髪の毛を見たんだ。あの根には(ぞっとするが!)頭の皮の肉がちぎれてくっついていたね。――まったく一時に何十万本の髪の毛をひっこ抜くときに出すような恐ろしい力の証拠だ。老夫人の咽喉はただ切られていただけではなく、頭が胴からすっかり離れてしまっていた。道具はただの剃刀なんだぜ。このやり方の獣的な残忍性も見てもらいたい。レスパネエ夫人の体にある打撲傷のことは僕は言わない。デュマ氏と、その助手のエティエンヌ氏とは、それはなにか鈍い形の道具でやったものだと言っている。そこまではこの方々の説はまことに正しい。鈍い形の道具というのは明らかに中庭の舗石なのだ。被害者は寝台の上にあるほうのあの窓からそこへ落ちたのだよ。この考えは、いまから見ればどんなに単純なものに見えようとも、鎧戸の幅に気がつかなかったと同じ理由で、警察の連中には気がつかなかったのだ。――なぜかと言えば、釘があんなふうになっていたので、彼らは窓があけられたかもしれんということなどはまるで考えなかったんだからね。
いまもし君が、こういうようなすべての事がらに加えて、部屋がへんに乱雑になっていたことを正しく考えてみるなら、僕たちはいよいよ、驚くべき敏捷さ、超人間的な力、獣的な残忍性、動機のない惨殺、まったく人間離れのした恐ろしい奇怪な行為、いろんな国の人たちの耳にも聞き慣れない調子の、はっきり理解できる言葉がひと言も聞きとれなかったという声、などの観念を結びつけるところまできたのだ。とすると、どんな結果になるかね? 君の想像に僕はどんな印象を与えたかね?」
デュパンがこう尋ねたとき、私は思わずぞっとしたのだった。「狂人がやったんだね」と私は言った。「――誰か近所の
「ある点では」と彼が答えた。「君の考えは見当違いじゃないよ。だが、狂人の声は発作のもっともはげしいときでも、階段のところで聞えたあの変な声と決して符合するものではないね。狂人だってどこかの国の人間だし、その言葉は、たとえ一語一語がどんなに切れ切れでも、音節はいつもちゃんとくっついているはずだよ。そのうえに、狂人の髪の毛は僕がいまこの手に持っているようなこんなものじゃあない。僕はこの少しの束を、レスパネエ夫人の固くつかんでいた指からほどいたんだ。君はこれを何だと思う?」
「デュパン!」と、私はすっかりびくついて言った。「この髪の毛はとても変だね、――これは人間の毛じゃないよ」
「僕も人間の毛だとは言っちゃいないのだ」と彼が言った。「しかし、この点をきめる前に、この紙にここに僕が描いておいた小さな見取図をちょっと見てもらいたいな。これは、証言のある部分にレスパネエ嬢の咽喉にある『黒ずんだ傷と、深い爪の痕』と記されてあり、また他の部分に(デュマとエティエンヌとの両氏によって)『明らかに指の痕である一つづきの鉛色の斑点』と書かれているものの模写なんだ」
「君も気づくだろうが」と友は、テーブルの上に、二人の前へその紙をひろげながら、つづけて言った。「この図を見ると、固くしっかりとつかんだことがわかる。指のすべった様子もない。一本一本の指が、初めにつかんだとおりに、――おそらく相手の死ぬまで――ぎゅっとつかんだままだったのだ。今度は、これに描いてある一つ一つの跡に、君の指をみんな、同時に、あててみたまえ」
私はやってみたが駄目だった。
「それではまだほんとに試したんじゃないかもしれないな」と彼は言った。「この紙は平面になってひろがっている。が人間の咽喉は円筒形だ。ここに咽喉くらいの太さの棒切れがある。その図をこいつに巻いて、もう一度やってみたまえ」
私は言われたとおりにやってみた。ができないことは前よりもいっそうはっきりした。「こりゃあ人間の指の痕じゃないよ」と私は言った。
「じゃあ今度は」とデュパンが答えた。「キュヴィエ(14)のこの章を読んでみたまえ」
それは東インド諸島に
「指について書いてあることは」と、私は読み終えると言った。「この図とぴったり一致しているね。なるほど、ここに書いてある種の猩々でなければ、君の描いたような痕はつけられまい。この朽葉色の髪の毛の束も、キュヴィエの書いている獣のと同じ性質のものだ。しかし、僕にはとてもこの恐ろしい怪事件の細かいところはわからないね。そのうえ、争っていたような声が二つ聞えて、一つはたしかにフランス人の声だったと言うんだからねえ」
「そうさ。それから君は、この声について証言がほとんどみんな一致してあげている言葉――あの『
彼は私に一枚の新聞を渡した。それには次のように書いてあった。
「捕獲。――ボルネオ種のたいそう大きい黄褐色の猩々一匹。本月――日早朝〔殺人事件のあった朝〕、ボア・ド・ブローニュにて。所有者(マルタ島(15)船舶の船員なりと判明した)は、自己の所有なることを十分に証明し、その捕獲および保管に要した若干の費用を支払われるならば、その動物を受け取ることができる。郭外 サン・ジェルマン――街――番地四階へ来訪されたし」
「どうしてその男が船員で、マルタ島船舶の乗組員だということが、君にわかったかね?」と私は尋ねた。
「僕にはわかっていないのだ」とデュパンが言った。「僕もたしかには知らないのさ。が、ここにリボンのきれっぱしがある。この形や、脂じみているところなどから見ると、明らかにあの水夫たちの好んでやる長い
このとき、階段をのぼってくる足音が聞えた。
「ピストルを用意したまえ」とデュパンが言った。「しかし僕が合図をするまでは撃ったり見せたりしちゃあいけないぜ」
家の玄関の扉はあけっ放しになっていたので、その訪問者はベルを鳴らさないで入り、階段を数歩のぼってきた。しかし、そこでためらっているようだった。やがて、その男が降りてゆくのが聞えた。デュパンは急いで扉のところへ歩みよったが、そのときふたたびのぼってくる音が聞えた。今度はあと戻りせず、しっかりした足どりでのぼってきて、我々の部屋の扉をとんとんと叩いた。
「お入りなさい」と、デュパンが快活な親しみのある調子で言った。
一人の男が入ってきた。まちがいもなく水夫だ。――背の高い、頑丈な、力のありそうな男で、どこか向う見ずな顔つきをしているが、まんざら無愛想な顔でもない。ひどく
「やあ、おかけなさい」とデュパンが言った。「あなたは猩々のことでお訪ねになったのでしょうな。いや、たしかに、あれを持っておられるのは
その水夫は、なにか重荷を下ろしたといったような様子で、長い
「わたしにはわからないんです、――が、せいぜい四歳か五歳くらいでしょう。ここに置いてくだすったんですか?」
「いやいや、ここにはあれを入れるに都合のいいところがありません。すぐ近所のデュブール街の
「ええ、できますとも」
「私はあれを手放すのが惜しいような気がしますよ」とデュパンが言った。
「あなたにいろいろこんなお手数をおかけして、なんのお礼もしないというようなつもりはありません」とその男は言った。「そんなことは思いもよらなかったことです。あれを見つけてくだすったお礼は――相当のことならなんでも――喜んでするつもりです」
「なるほど」と友は答えた。「それはいかにもたいそう結構です。こうっと! ――なにをいただこうかな? おお! そうだ。お礼はこういうことにしてもらおう。あのモルグ街の殺人事件について、君の知っているだけのことを、一つ残らずみんな話してくれたまえ」
デュパンはこのあとのほうの言葉を、非常に低い調子で、非常に静かに言った。また、同じように静かに扉の方へ歩いて行って、それに錠を下ろし、その鍵をポケットに入れた。それから彼は懐中からピストルを出し、まったく落ちつき払ってそれをテーブルの上に置いた。
水夫の顔は、ちょうど窒息しかけて苦しんでいるかのように、赤くなった。彼はすっくと立ち上がって、棍棒を握った。しかし次の瞬間には椅子にどっかと腰を下ろし、がたがた震えて、まるで死人のような顔色になってしまった。彼はひと言も口を利かなかった。私は心の底からこの男をかわいそうに思った。
「ねえ、君」と、デュパンは親切な調子で言った。「君は必要もないのにびくついているんだ、――まったくさ。僕たちはなにも
デュパンがこう言っているあいだに、水夫はよほど落ちつきを取りもどしてきた。しかし、彼の初めの大胆な態度はもうまるでなくなってしまった。
「じゃあ、ほんとうに」と、しばらくたってから彼は言った。「あの事件についてわたしの知っていることをすっかりお話ししましょう。――だが、わたしの言うことの半分でもあんたが信じてくださろうとは思いません。――そんなことを思うなら、それこそわたしは馬鹿です。でも、わたしには罪はないのです。だから、殺されたっていいから、残らずうち明けましょう」
この男の述べたことは大体こうであった。彼は近ごろインド群島(17)へ航海してきた。彼の加わっていた一行が、ボルネオに上陸し、奥地の方へ遊びの旅行で入って行った。そのとき、彼と一人の仲間とが猩々を捕えたのだ。この仲間の男が死んだので、その動物は彼一人のものになった。そいつの手に負えない
あの殺人のあった夜、いや、もっと正確に言えばあの朝、彼は船乗りたちの遊びから帰ってくると、その獣が、厳重に閉じこめておいたと思っていた隣の小部屋から、自分の寝室の中へ入りこんでいるのを見つけたのだった。猩々は剃刀を手に持ち、
そのフランス人は絶望しながらもあとを追った。猩々はなおも剃刀を手にしたまま、ときどき立ち止って振りかえり、ほとんど追いつかれそうになるまで、手まねをして見せた。それからまた逃げ出した。こんなふうにして追跡は長いあいだ続いた。かれこれ朝の三時ごろのことであったから、街路はひっそりと静まりかえっていた。モルグ街の裏の小路へ通りかかったとき、レスパネエ夫人の家の四階の部屋の開いた窓から洩れる明りに、猩々は注意をひかれた。その家の方へ走りより、避雷針を眼にとめると、想像もつかぬほどのすばやさでよじ登り、壁のところまですっかり押し開かれていた鎧戸をつかみ、その鎧戸で寝台の頭板のところへじかに跳びついた。これだけの離れわざが一分もかからなかったのだ。鎧戸は猩々が部屋へ入ったとき蹴かえされてふたたび開いた。
その間、水夫は喜びもしたが、当惑もした。猩々の跳びこんでいった
水夫が覗きこんだとき、その巨大な動物はレスパネエ夫人の髪の毛(ちょうど
猩々がその切りさいなんだ死体をかかえて窓へ近づいてきたとき、水夫は胆をつぶして避雷針の方に身をすくめ、その避雷針を
もうこの上につけ加えることはほとんどない。猩々は、扉がうち破られるすぐ前に、避雷針を伝って部屋から逃げ出したにちがいない。窓はそこから出るときにしめて行ったのだろう。その後、猩々は持主自身に捕えられ、
「なんとでも言わしておくさ」べつに返事をする必要もないと思っていたデュパンはこう言った。「勝手にしゃべらせておくさ。それでご自分の気が安まるだろうよ。僕は
原注 ルソーの“Nouvelle H
lo
ses.”


(1)Sir Thomas Browne(一六〇五―八二)――イギリスの医師、著作家。引用文は“Urn-Burial”の一節。
(2)whist ――四人でやる一種のトランプ遊び。互いに向い合った二人が組になる。
(3)Edmund Hoyle(一六七二―一七六九)――種々の競技に関する書物を著したイギリス人で、特にホイストの法則を最初に組織的にした人として知られている。この「ホイルの法則」は一八六四年ごろまで権威的なものと見なされていたものだから、ポーの生きていたころにはまだそれに代る新しい法則がなかったのである。
(4)頭脳の形状、大きさなどによって人間の精神的能力を判知し、その心意性質を解釈しようとした学問。現代では科学としての価値は認められないが、ポーの時代にはまだ新しい学説であった。
(5)Prosper Jolyot de Cr
billon(一六七四―一七六二)――フランスの悲劇詩人。“Xerxes”は一七四一年の作。

(6)Epicurus(前三四二―前二七〇)――ギリシャの哲学者。エピキュロス派哲学の創始者。彼は快楽が理性的行為の唯一の可能な目的であり、究極の快楽は自由であると説いた。また、彼はデモクリトスの原子運動説を採用してそれに偶然原因の説を加えた。ここに原子のことからエピキュロスの学説を連想したとあるのは、無論、後者の原子説をさすのである。
(7)Napoleon ――ナポレオン一世の鋳造した二十フラン金貨。表面にナポレオン一世の頭像が刻してある。
(8)mansarde ――フランスの古風な建築によくある二重勾配 屋根、あるいはその下にある屋根部屋を言う。ここでは後者のことである。この二重勾配屋根をフランスに一般に流行させた建築家 Fran
ois Mansard(一五九八―一六六二)の名からきた語。

(9)Monsieur Jourdain ――モリエールの喜劇“Le Bourgeois Gentilhomme”の主人公。商人で、金持となり、しきりに完全な紳士と思われたがっている男。
(10)Eug
ne Fran
ois Vidocq(一七七五―一八五七)――ポーと同時代に在世したフランスの名探偵。若いときには軍人であり、泥坊もやって数回投獄されたことがあるが、一八〇九年以来探偵となり、のち、パリ警視庁の探偵部長となった。“M
moires”(ポーはこの書から多少の思いつきを得たと言われている)その他の著書がある。以下すべて過去形の動詞を用いてあるのは、この作の書かれたころには探偵を罷 めていたからであろう。



(11)この文章はイングラム版には「真理はわれわれがそれを探し求める渓谷にはなくて、それの見出される山巓 にあるのだ」となっている。
(12)ferrades ――すぐあとに本文で説明されているような一種の鎧戸であろう。
(13)この「上半分」は「下半分」となっている版も多い。鎧戸として見れば、「下半分」が格子造りになっているほうが自然であり、それをつかんで寝台の頭板のぴったり押しつけてある窓の中へ跳びこむには、「上半分」のほうでなければ都合が悪い。これは作者が最初は「下半分」とし、のちに上述の理由で、「上半分」と書き直したものと思われる。
(14)Georges L
opold Chr
tien Fr
d
ric Dagobert Cuvier(一七六九―一八三二)――フランスの博物学者。“Le r
gne animal,”“Anatomie compar
e,”[#「“Anatomie compar
e,”」は底本では「“Anatomie compar
e‘”」]“Recherches sur les ossements fossiles.”その他多くの著書がある。








(15)Malta ――地中海のシシリー島の南にある小島。
(16)Neufchatel ――スイスの西部のフランスに接した州の名。この州ではフランス語が主として用いられている。
(17)the Indian Archipelago ――マレー群島のこと。アジア大陸の南方および南東にあるスマトラ、ジャヴァ、ボルネオ、セレベス、以下の諸島を言う。
(18)Jardin des Plantes ――植物園ではあるが、パリでは動物およびその他種々の博物標本をも十分に備えたところを言う。
(19)Laverna ――たぶん冥府 の神の一人であったろうと言われているローマの女神。