奇怪な再会

芥川龍之介




        一

 おれん本所ほんじょ横網よこあみに囲われたのは、明治二十八年の初冬はつふゆだった。
 妾宅は御蔵橋おくらばしの川に臨んだ、く手狭な平家ひらやだった。ただ庭先から川向うを見ると、今は両国停車場りょうごくていしゃじょうになっている御竹倉おたけぐら一帯のやぶや林が、時雨勝しぐれがちな空を遮っていたから、比較的町中まちなからしくない、閑静な眺めには乏しくなかった。が、それだけにまた旦那だんなが来ないなぞは寂し過ぎる事も度々あった。
「婆や、あれは何の声だろう?」
「あれでございますか? あれは五位鷺ごいさぎでございますよ。」
 お蓮は眼の悪いやとい婆さんとランプの火を守りながら、気味悪そうにこんな会話を交換する事もないではなかった。
 旦那の牧野まきのは三日にあげず、昼間でも役所の帰り途に、陸軍一等主計りくぐんいっとうしゅけいの軍服を着た、たくましい姿を運んで来た。勿論もちろん日が暮れてから、厩橋うまやばし向うの本宅を抜けて来る事も稀ではなかった。牧野はもう女房ばかりか、男女なんにょ二人の子持ちでもあった。
 この頃丸髷まるまげったお蓮は、ほとんど宵毎よいごとに長火鉢を隔てながら、牧野の酒の相手をした。二人の間の茶ぶ台には、大抵たいていからすみや海鼠腸このわたが、小綺麗な皿小鉢を並べていた。
 そう云う時には過去の生活が、とかくお蓮の頭の中に、はっきり浮んで来勝ちだった。彼女はあの賑やかな家や朋輩ほうばいたちの顔を思い出すと、遠い他国へ流れて来た彼女自身の便りなさが、一層心にみるような気がした。それからまた以前よりも、ますますふとって来た牧野の体が、不意に妙な憎悪ぞうおの念を燃え立たせる事も時々あった。
 牧野は始終愉快そうに、ちびちびさかずきめていた。そうして何か冗談じょうだんを云っては、お蓮の顔をのぞきこむと、突然大声に笑い出すのが、この男の酒癖さけくせの一つだった。
「いかがですな。お蓮のかた、東京も満更まんざらじゃありますまい。」
 お蓮は牧野にこう云われても、大抵は微笑をらしたまま、酒のかんなどに気をつけていた。
 役所の勤めを抱えていた牧野は、滅多めったに泊って行かなかった。枕もとに置いた時計の針が、十二時近くなったのを見ると、彼はすぐにメリヤスの襯衣シャツへ、太い腕を通し始めた。お蓮は自堕落じだらくな立て膝をしたなり、いつもただぼんやりと、せわしなそうな牧野の帰り仕度へ、ものうい流し眼を送っていた。
「おい、羽織をとってくれ。」
 牧野は夜中よなかのランプの光に、あぶらの浮いた顔を照させながら、もどかしそうな声を出す事もあった。
 お蓮は彼を送り出すと、ほとんど毎夜の事ながら、気疲れを感ぜずにはいられなかった。と同時にまた独りになった事が、多少は寂しくも思われるのだった。
 雨が降っても、風が吹いても、川一つ隔てた藪や林は、心細い響を立て易かった。お蓮は酒臭い夜着よぎの襟に、冷たいほおうずめながら、じっとその響に聞き入っていた。こうしている内に彼女の眼には、いつか涙が一ぱいに漂って来る事があった。しかしふだんは重苦しい眠が、――それ自身悪夢のような眠が、もなく彼女の心の上へ、昏々こんこんくだって来るのだった。

        二

「どうしたんですよ? その傷は。」
 ある静かな雨降りの、おれん牧野まきのしゃくをしながら、彼の右の頬へ眼をやった。そこには青い剃痕そりあとの中に、大きな蚯蚓脹みみずばれが出来ていた。
「これか? これはかかあに引っかれたのさ。」
 牧野は冗談かと思うほど、顔色かおいろも声もけろりとしていた。
「まあ、嫌な御新造ごしんぞだ。どうしてまたそんな事をしたんです?」
「どうしてもこうしてもあるものか。御定おさだまりのつのをはやしたのさ。おれでさえこのくらいだから、お前なぞがって見ろ。たちまち喉笛のどぶえへ噛みつかれるぜ。まず早い話が満洲犬まんしゅうけんさ。」
 お蓮はくすくす笑い出した。
「笑い事じゃないぜ。ここにいる事が知れた日にゃ、明日あしたにも押しかけて来ないものじゃない。」
 牧野の言葉には思いのほか、真面目まじめそうな調子もまじっていた。
「そうしたら、その時の事ですわ。」
「へええ、ひどくまた度胸どきょういな。」
「度胸が好い訳じゃないんです。わたしの国の人間は、――」
 お蓮は考え深そうに、長火鉢の炭火すみびへ眼を落した。
「私の国の人間は、みんなあきらめが好いんです。」
「じゃお前は焼かないと云う訳か?」
 牧野の眼にはちょいとのあいだ狡猾こうかつそうな表情が浮んだ。
「おれの国の人間は、みんな焼くよ。就中なかんずくおれなんぞは、――」
 そこへ婆さんが勝手から、あつらえ物の蒲焼かばやきを運んで来た。
 その晩牧野は久しぶりに、妾宅へ泊って行く事になった。
 雨は彼等がとこへはいってから、みぞれの音に変り出した。お蓮は牧野が寝入ったのち何故なぜかいつまでも眠られなかった。彼女のえた眼の底には、見た事のない牧野の妻が、いろいろな姿を浮べたりした。が、彼女は同情は勿論、憎悪ぞうお嫉妬しっとも感じなかった。ただその想像に伴うのは、多少の好奇心ばかりだった。どう云う夫婦喧嘩をするのかしら。――お蓮は戸の外の藪や林が、霙にざわめくのを気にしながら、真面目にそんな事も考えて見た。
 それでも二時を聞いてしまうと、ようやく眠気ねむけがきざして来た。――お蓮はいつか大勢おおぜいの旅客と、薄暗い船室に乗り合っている。円い窓から外を見ると、黒い波のかさなった向うに、月だか太陽だか判然しない、妙に赤光あかびかりのするたまがあった。乗合いの連中はどうした訳か、皆影の中に坐ったまま、一人も口を開くものがない。お蓮はだんだんこの沈黙が、恐しいような気がし出した。その内に誰かが彼女のうしろへ、歩み寄ったらしいけはいがする。彼女は思わず振り向いた。すると後には別れた男が、悲しそうな微笑を浮べながら、じっと彼女を見下している。………
きんさん。」
 お蓮は彼女自身の声に、け方の眠から覚まされた。牧野はやはり彼女の隣に、静かな呼吸を続けていたが、こちらへ背中を向けた彼が、実際寝入っていたのかどうか、それはお蓮にはわからなかった。

        三

 おれんに男のあった事は、牧野まきのも気がついてはいたらしかった。が、彼はそう云う事には、頓着とんちゃくする気色けしきも見せなかった。また実際男の方でも、牧野が彼女にのぼせ出すと同時に、ぱったり遠のいてしまったから、彼が嫉妬しっとを感じなかったのも、自然と云えば自然だった。
 しかしお蓮の頭の中には、始終男の事があった。それは恋しいと云うよりも、もっと残酷ざんこくな感情だった。何故なぜ男が彼女の所へ、突然足踏みもしなくなったか、――その訳が彼女には呑みこめなかった。勿論お蓮は何度となく、変り易い世間の男心に、一切の原因を見出そうとした。が、男の来なくなった前後の事情を考えると、あながちそうばかりも、思われなかった。と云って何か男のほうに、やむを得ない事情が起ったとしても、それも知らさずに別れるには、彼等二人の間柄は、余りに深い馴染なじみだった。では男の身の上に、不慮の大変でもおそって来たのか、――お蓮はこう想像するのが、恐しくもあれば望ましくもあった。………
 男の夢を見た二三日のち、お蓮は銭湯せんとうに行った帰りに、ふと「身上判断みのうえはんだん玄象道人げんしょうどうじん」と云う旗が、ある格子戸造こうしどづくりの家に出してあるのが眼に止まった。その旗は算木さんぎを染め出す代りに、赤い穴銭あなせんの形をいた、余り見慣れない代物しろものだった。が、お蓮はそこを通りかかると、急にこの玄象道人に、男が昨今どうしているか、うらなって貰おうと云う気になった。
 案内に応じて通されたのは、日当りのい座敷だった。その上主人が風流なのか、支那シナの書棚だのらんの鉢だの、煎茶家せんちゃかめいた装飾があるのも、居心いごころい空気をつくっていた。
 玄象道人は頭をった、恰幅かっぷくい老人だった。が、金歯きんばめていたり、巻煙草をすぱすぱやる所は、一向道人らしくもない、下品な風采ふうさいを具えていた。お蓮はこの老人の前に、彼女には去年行方ゆくえ知れずになった親戚のものが一人ある、その行方を占って頂きたいと云った。
 すると老人は座敷の隅から、早速二人のまん中へ、紫檀したんの小机を持ち出した。そうしてその机の上へ、うやうやしそうに青磁せいじ香炉こうろ金襴きんらんの袋を並べ立てた。
「その御親戚は御幾おいくつですな?」
 お蓮は男の年を答えた。
「ははあ、まだ御若いな、御若い内はとかく間違いが起りたがる。手前てまえのような老爺おやじになっては、――」
 玄象道人はじろりとお蓮を見ると、二三度びた笑い声を出した。
「御生れ年も御存知かな? いや、よろしい、一白いっぱくになります。」
 老人は金襴の袋から、穴銭あなせんを三枚取り出した。穴銭は皆一枚ずつ、薄赤い絹に包んであった。
「私の占いは擲銭卜てきせんぼくと云います。擲銭卜は昔かん京房けいぼうが、始めてぜいに代えて行ったとある。御承知でもあろうが、筮と云う物は、一爻いっこうに三変の次第があり、一卦いっけに十八変の法があるから、容易に吉凶を判じ難い。そこはこの擲銭卜の長所でな、……」
 そう云う内に香炉からは、道人のべたこうの煙が、あかるい座敷の中にのぼり始めた。

        四

 道人どうじんは薄赤い絹を解いて、香炉こうろの煙に一枚ずつ、中の穴銭あなせんくんじたのち、今度はとこに懸けたじくの前へ、丁寧に円い頭を下げた。軸は狩野派かのうはいたらしい、伏羲文王周公孔子ふくぎぶんおうしゅうこうこうしの四大聖人の画像だった。
惟皇これこうたる上帝じょうてい、宇宙の神聖、この宝香ほうこうを聞いて、ねがわくは降臨を賜え。――猶予ゆうよ未だ決せず、疑う所は神霊にただす。請う、皇愍こうびんを垂れて、すみやかに吉凶を示し給え。」
 そんな祭文さいもんが終ってから、道人は紫檀したんの小机の上へ、ぱらりと三枚の穴銭をいた。穴銭は一枚は文字が出たが、跡の二枚は波の方だった。道人はすぐに筆を執って、巻紙にその順序を写した。
 ぜにげては陰陽いんようさだめる、――それがちょうど六度続いた。おれんはその穴銭の順序へ、心配そうな眼をそそいでいた。
「さて――と。」
 擲銭てきせんが終った時、老人は巻紙まきがみを眺めたまま、しばらくはただ考えていた。
「これは雷水解らいすいかいと云うでな、諸事思うようにはならぬとあります。――」
 お蓮はず三枚の銭から、老人の顔へ視線を移した。
「まずその御親戚とかの若いかたにも、二度と御遇おあいにはなれそうもないな。」
 玄象道人げんしょうどうじんはこう云いながら、また穴銭を一枚ずつ、薄赤い絹に包み始めた。
「では生きては居りませんのでしょうか?」
 お蓮は声が震えるのを感じた。「やはりそうか」と云う気もちが、「そんな筈はない」と云う気もちと一しょに、思わず声へ出たのだった。
「生きていられるか、死んでいられるかそれはちと判じにくいが、――とにかく御遇いにはなれぬものと御思いなさい。」
「どうしても遇えないでございましょうか?」
 お蓮に駄目だめを押された道人は、金襴きんらんの袋の口をしめると、あぶらぎった頬のあたりに、ちらりと皮肉らしい表情が浮んだ。
滄桑そうそうへんと云う事もある。この東京が森や林にでもなったら、御遇いになれぬ事もありますまい。――とまず、にはな、卦にはちゃんと出ています。」
 お蓮はここへ来た時よりも、一層心細い気になりながら、高い見料けんりょうを払ったのち※(「勹<夕」、第3水準1-14-76)そうそううちへ帰って来た。
 その晩彼女は長火鉢の前に、ぼんやり頬杖ほおづえをついたなり、鉄瓶てつびんの鳴る音に聞き入っていた。玄象道人の占いは、結局何の解釈をも与えてくれないのと同様だった。いや、むしろ積極的に、彼女がひそかにいだいていた希望、――たといいかにはかなくとも、やはり希望には違いない、万一を期する心もちを打ち砕いたのも同様だった。男は道人がほのめかせたように、実際生きていないのであろうか? そう云えば彼女が住んでいた町も、当時は物騒な最中だった。男はお蓮のいるうちへ、不相変あいかわらず通って来る途中、何か間違いに遇ったのかも知れない。さもなければ忘れたように、ふっつり来なくなってしまったのは、――お蓮は白粉おしろいいた片頬かたほおに、炭火すみび火照ほてりを感じながら、いつか火箸をもてあそんでいる彼女自身を見出みいだした。
きん、金、金、――」
 灰の上にはそう云う字が、何度も書かれたり消されたりした。

        五

きん、金、金、」
 そうおれんが書き続けていると、台所にいた雇婆やといばあさんが、突然かすかな叫び声を洩らした。このうちでは台所と云っても、障子一重ひとえ開けさえすれば、すぐにそこが板のだった。
「何? 婆や。」
「まあ御新ごしんさん。いらしって御覧なさい。ほんとうに何だと思ったら、――」
 お蓮は台所へ出て行って見た。
 かまどが幅をとった板の間には、障子しょうじに映るランプの光が、物静かな薄暗をつくっていた。婆さんはその薄暗の中に、半天はんてんの腰をかがめながら、ちょうど今何か白いけものき上げている所だった。
「猫かい?」
「いえ、犬でございますよ。」
 両袖を胸に合せたお蓮は、じっとその犬を覗きこんだ。犬は婆さんに抱かれたまま、水々みずみずしい眼を動かしては、しきりに鼻を鳴らしている。
「これは今朝けさほど五味溜ごみための所に、いていた犬でございますよ。――どうしてはいって参りましたかしら。」
「お前はちっとも知らなかったの?」
「はい、その癖ここにさっきから、御茶碗を洗って居りましたんですが――やっぱり人間眼の悪いと申す事は、仕方のないもんでございますね。」
 婆さんは水口みずぐちの腰障子を開けると、暗い外へ小犬を捨てようとした。
「まあ御待ち、ちょいと私も抱いて見たいから、――」
御止およしなさいましよ。御召しでもよごれるといけません。」
 お蓮は婆さんの止めるのも聞かず、両手にその犬をきとった。犬は彼女の手の内に、ぶるぶる体をふるわせていた。それが一瞬間過去の世界へ、彼女の心をつれて行った。お蓮はあの賑かなうちにいた時、客の来ない夜は一しょに寝る、白い小犬を飼っていたのだった。
可哀かわいそうに、――飼ってやろうかしら。」
 婆さんは妙なまたたきをした。
「ねえ、婆や。飼ってやろうよ。お前に面倒はかけないから、――」
 お蓮は犬を板のおろすと、無邪気な笑顔を見せながら、もうさかなでも探してやる気か、台所の戸棚とだなに手をかけていた。
 その翌日から妾宅には、赤い頸環くびわに飾られた犬が、畳の上にいるようになった。
 綺麗きれい好きな婆さんは、勿論もちろんこの変化を悦ばなかった。殊に庭へ下りた犬が、泥足のままあがって来なぞすると、一日腹を立てている事もあった。が、ほかに仕事のないお蓮は、子供のように犬を可愛がった。食事の時にもぜんの側には、必ず犬が控えていた。夜はまた彼女の夜着の裾に、まろまろ寝ている犬を見るのが、文字通り毎夜の事だった。
「その時分から私は、嫌だ嫌だと思っていましたよ。何しろ薄暗いランプの光に、あの白犬が御新造ごしんぞの寝顔をしげしげ見ていた事もあったんですから、――」
 婆さんがかれこれ一年ののち、私の友人のKと云う医者に、こんな事も話して聞かせたそうである。

        六

 この小犬に悩まされたものは、雇婆やといばあさん一人ではなかった。牧野まきのも犬が畳の上に、寝そべっているのを見た時には、不快そうに太いまゆをひそめた。
「何だい、こいつは?――畜生ちくしょう。あっちへ行け。」
 陸軍主計りくぐんしゅけいの軍服を着た牧野は、邪慳じゃけんに犬を足蹴あしげにした。犬は彼が座敷へ通ると、白い背中の毛を逆立さかだてながら、無性むしょうえ立て始めたのだった。
「お前の犬好きにもあきれるぜ。」
 晩酌ばんしゃくの膳についてからも、牧野はまだ忌々いまいましそうに、じろじろ犬を眺めていた。
「前にもこのくらいなやつを飼っていたじゃないか?」
「ええ、あれもやっぱり白犬でしたわ。」
「そう云えばお前があの犬と、何でも別れないと云い出したのにゃ、随分手こずらされたものだったけ。」
 おれんは膝の小犬をでながら、仕方なさそうな微笑を洩らした。汽船や汽車の旅を続けるのに、犬を連れて行く事が面倒なのは、彼女にもよくわかっていた。が、男とも別れた今、その白犬をあとに残して、見ず知らずの他国へ行くのは、どう考えて見ても寂しかった。だからいよいよ立つと云う前夜、彼女は犬を抱き上げては、その鼻に頬をすりつけながら、何度も止めどないすすり泣きを呑みこみ呑みこみしたものだった。………
「あの犬は中々利巧だったが、こいつはどうも莫迦ばからしいな。第一人相にんそうが、――人相じゃない。犬相けんそうだが、――犬相が甚だ平凡だよ。」
 もうよいのまわった牧野は、初めの不快も忘れたように、刺身さしみなぞを犬に投げてやった。
「あら、あの犬によく似ているじゃありませんか? 違うのは鼻の色だけですわ。」
「何、鼻の色が違う? 妙な所がまた違ったものだな。」
「この犬は鼻が黒いでしょう。あの犬は鼻があこうござんしたよ。」
 お蓮は牧野の酌をしながら、前に飼っていた犬の鼻が、はっきりと眼の前に見えるような気がした。それは始終よだれに濡れた、ちょうど子持ちの乳房ちぶさのように、鳶色とびいろぶちがある鼻づらだった。
「へええ、して見ると鼻のあかい方が、犬では美人のそうなのかも知れない。」
美男びなんですよ、あの犬は。これは黒いから、醜男ぶおとこですわね。」
「男かい、二匹とも。ここのうちへ来る男は、おればかりかと思ったが、――こりゃちと怪しからんな。」
 牧野はお蓮の手をつっつきながら、彼一人上機嫌に笑いくずれた。
 しかし牧野はいつまでも、その景気を保っていられなかった。犬は彼等がとこへはいると、古襖ふるぶすま一重ひとえ隔てた向うに、何度も悲しそうな声を立てた。のみならずしまいにはそのふすまへ、がりがり前足の爪をかけた。牧野は深夜のランプの光に、妙な苦笑くしょうを浮べながら、とうとうお蓮へ声をかけた。
「おい、そこを開けてやれよ。」
 が、彼女が襖を開けると、犬は存外ゆっくりと、二人の枕もとへはいって来た。そうして白い影のように、そこへ腹を落着けたなり、じっと彼等を眺め出した。
 お蓮は何だかその眼つきが、人のような気がしてならなかった。

        七

 それから二三日経ったある夜、おれんは本宅を抜けて来た牧野まきのと、近所の寄席よせへ出かけて行った。
 手品てじな剣舞けんぶ幻燈げんとう大神楽だいかぐら――そう云う物ばかりかかっていた寄席は、身動きも出来ないほど大入おおいりだった。二人はしばらく待たされたのち、やっと高座こうざには遠い所へ、窮屈きゅうくつな腰をおろす事が出来た。彼等がそこへ坐った時、あたりの客は云い合わせたように、丸髷まるまげったお蓮の姿へ、物珍しそうな視線を送った。彼女にはそれが晴がましくもあれば、同時にまた何故なぜか寂しくもあった。
 高座には明るいつりランプの下に、白い鉢巻をした男が、長い抜き身を振りまわしていた。そうして楽屋がくやからは朗々と、「踏み破る千山万岳の煙」とか云う、詩をうたう声が起っていた。お蓮にはその剣舞は勿論、詩吟も退屈なばかりだった。が、牧野は巻煙草へ火をつけながら、面白そうにそれを眺めていた。
 剣舞の次は幻燈げんとうだった。高座こうざおろした幕の上には、日清戦争にっしんせんそうの光景が、いろいろ映ったり消えたりした。大きな水柱みずばしらを揚げながら、「定遠ていえん」の沈没する所もあった。敵の赤児をいた樋口大尉ひぐちたいいが、突撃を指揮する所もあった。大勢の客はそのの中に、たまたま日章旗が現れなぞすると、必ず盛な喝采かっさいを送った。中には「帝国万歳」と、頓狂な声を出すものもあった。しかし実戦に臨んで来た牧野は、そう云う連中とは没交渉に、ただにやにやと笑っていた。
「戦争もあの通りだと、らくなもんだが、――」
 彼は牛荘ニューチャンの激戦の画を見ながら、半ば近所へも聞かせるように、こうお蓮へ話しかけた。が、彼女は不相変あいかわらず、熱心に幕へ眼をやったまま、かすかにうなずいたばかりだった。それは勿論どんな画でも、幻燈が珍しい彼女にとっては、興味があったのに違いなかった。しかしそのほかにも画面の景色は、――雪の積った城楼じょうろうの屋根だの、枯柳かれやなぎつないだ兎馬うさぎうまだの、辮髪べんぱつを垂れた支那兵だのは、特に彼女を動かすべき理由も持っていたのだった。
 寄席がはねたのは十時だった。二人は肩を並べながら、しもうたばかり続いている、人気ひとけのない町を歩いて来た。町の上には半輪の月が、霜の下りた家々の屋根へ、寒い光を流していた。牧野はその光の中へ、時々巻煙草まきたばこの煙を吹いては、さっきの剣舞でも頭にあるのか、
鞭声べんせい粛々しゅくしゅくよるかわを渡る」なぞと、古臭い詩の句を微吟びぎんしたりした。
 所が横町よこちょうを一つ曲ると、突然お蓮はおびえたように、牧野の外套がいとうの袖を引いた。
「びっくりさせるぜ。何だ?」
 彼はまだ足を止めずに、お蓮の方を振り返った。
「誰か呼んでいるようですもの。」
 お蓮は彼に寄り添いながら、気味の悪そうな眼つきをしていた。
「呼んでいる?」
 牧野は思わず足を止めると、ちょいと耳を澄ませて見た。が、寂しい往来には、犬の吠える声さえ聞えなかった。
空耳そらみみだよ。何が呼んでなんぞいるものか。」
「気のせいですかしら。」
「あんな幻燈を見たからじゃないか?」

        八

 寄席よせへ行った翌朝よくあさだった。おれん房楊枝ふさようじくわえながら、顔を洗いに縁側えんがわへ行った。縁側にはもういつもの通り、銅の耳盥みみだらいに湯を汲んだのが、鉢前はちまえの前に置いてあった。
 冬枯ふゆがれの庭は寂しかった。庭の向うに続いた景色も、曇天を映した川の水と一しょに、荒涼を極めたものだった。が、その景色が眼にはいると、お蓮はうがいを使いがら、今までは全然忘れていた昨夜ゆうべの夢を思い出した。
 それは彼女がたった一人、暗いやぶだか林だかの中を歩き廻っている夢だった。彼女は細い路を辿たどりながら、「とうとう私の念力ねんりきが届いた。東京はもう見渡す限り、人気ひとけのない森に変っている。きっと今にきんさんにも、遇う事が出来るのに違いない。」――そんな事を思い続けていた。するとしばらく歩いている内に、大砲の音や小銃の音が、どことも知らず聞え出した。と同時に木々の空が、まるで火事でも映すように、だんだん赤濁りを帯び始めた。「戦争だ。戦争だ。」――彼女はそう思いながら、一生懸命に走ろうとした。が、いくら気負きおって見ても、何故なぜか一向走れなかった。…………
 お蓮は顔を洗ってしまうと、手水ちょうずを使うためにはだを脱いだ。その時何か冷たい物が、べたりと彼女の背中にれた。
「しっ!」
 彼女は格別驚きもせず、なまめいた眼をうしろへ投げた。そこには小犬が尾を振りながら、しきりに黒い鼻をめ廻していた。

        九

 牧野まきのはその二三日すると、いつもより早めに妾宅へ、田宮たみやと云う男と遊びに来た。ある有名な御用商人の店へ、番頭格にかよっている田宮は、おれんが牧野にかこわれるのについても、いろいろ世話をしてくれた人物だった。
「妙なもんじゃないか? こうやって丸髷まるまげっていると、どうしても昔のお蓮さんとは見えない。」
 田宮はあかるいランプの光に、薄痘痕うすいものある顔を火照ほてらせながら、向い合った牧野へさかずきをさした。
「ねえ、牧野さん。これが島田しまだっていたとか、赤熊しゃぐまに結っていたとか云うんなら、こうも違っちゃ見えまいがね、何しろ以前が以前だから、――」
「おい、おい、ここの婆さんは眼は少し悪いようだが、耳は遠くもないんだからね。」
 牧野はそう注意はしても、嬉しそうににやにや笑っていた。
「大丈夫。聞えた所がわかるもんか。――ねえ、お蓮さん。あの時分の事を考えると、まるで夢のようじゃありませんか。」
 お蓮は眼をらせたまま、ひざの上の小犬にからかっていた。
「私も牧野さんに頼まれたから、一度は引き受けて見たようなものの、万一ばれた日にゃ大事おおごとだと、無事に神戸こうべへ上がるまでにゃ、随分これでも気をみましたぜ。」
「へん、そう云う危い橋なら、渡りつけているだろうに、――」
「冗談云っちゃいけない。人間の密輸入はまだ一度ぎりだ。」
 田宮は一盃ぐいとやりながら、わざとらしい渋面じゅうめんをつくって見せた。
「だがお蓮の今日こんにちあるを得たのは、実際君のおかげだよ。」
 牧野は太い腕を伸ばして、田宮へ猪口ちょくをさしつけた。
「そう云われると恐れ入るが、とにかくあの時は弱ったよ。おまけにまた乗った船が、ちょうど玄海げんかいへかかったとなると、恐ろしいしけくらってね。――ねえ、お蓮さん。」
「ええ、私はもう船も何も、沈んでしまうかと思いましたよ。」
 お蓮は田宮のしゃくをしながら、やっと話に調子を合わせた。が、あの船が沈んでいたら、今よりはかえってましかも知れない。――そんな事もふと考えられた。
「それがまあこうしていられるんだから、御互様おたがいさまに仕合せでさあ。――だがね、牧野さん。お蓮さんに丸髷が似合うようになると、もう一度また昔のなりに、返らせて見たい気もしやしないか?」
「返らせたかった所が、仕方がないじゃないか?」
「ないがさ、――ないと云えば昔の着物は、一つもこっちへは持って来なかったかい?」
「着物どころか櫛簪くしかんざしまでも、ちゃんと御持参になっている。いくら僕が止せと云っても、一向いっこう御取上げにならなかったんだから、――」
 牧野はちらりと長火鉢越しに、お蓮の顔へ眼を送った。お蓮はその言葉も聞えないように、鉄瓶のぬるんだのを気にしていた。
「そいつはなおさら好都合だ。――どうです? お蓮さん。その内に一つなりを変えて、御酌を願おうじゃありませんか?」
「そうして君もついでながら、昔馴染むかしなじみを一人思い出すか。」
「さあ、その昔馴染みと云うやつがね、お蓮さんのように好縹緻ハオピイチエだと、思い出し甲斐がいもあると云うものだが、――」
 田宮は薄痘痕うすいものある顔に、くすぐったそうな笑いを浮べながら、すりいもはしからんでいた。……
 その晩田宮が帰ってから、牧野は何も知らなかったお蓮に、近々陸軍を止め次第、商人になると云う話をした。辞職の許可が出さえすれば、田宮が今使われている、ある名高い御用商人が、すぐに高給で抱えてくれる、――何でもそう云う話だった。
「そうすりゃここにいなくともいから、どこか手広いうちへ引っ越そうじゃないか?」
 牧野はさも疲れたように、火鉢の前へ寝ころんだまま、田宮が土産みやげに持って来たマニラの葉巻を吹かしていた。
「このうちだって沢山ですよ。婆やと私と二人ぎりですもの。」
 お蓮は意地のきたない犬へ、残り物を当てがうのにいそがしかった。
「そうなったら、おれも一しょにいるさ。」
「だって御新造ごしんぞがいるじゃありませんか?」
かかあかい? 嚊とも近々別れる筈だよ。」
 牧野の口調くちょうや顔色では、この意外な消息しょうそくも、満更冗談とは思われなかった。
「あんまり罪な事をするのは御止しなさいよ。」
「かまうものか。おのれに出でて己に返るさ。おれの方ばかり悪いんじゃない。」
 牧野はけわしい眼をしながら、やけに葉巻をすぱすぱやった。お蓮は寂しい顔をしたなり、しばらくは何とも答えなかった。

        十

「あの白犬が病みついたのは、――そうそう、田宮たみや旦那だんなが御見えになった、ちょうどそのくる日ですよ。」
 おれんに使われていた婆さんは、わたしの友人のKと云う医者に、こう当時の容子ようすを話した。
大方おおかた食中しょくあたりか何かだったんでしょう。始めは毎日長火鉢の前に、ぼんやり寝ているばかりでしたが、その内に時々どうかすると、畳をよごすようになったんです。御新造ごしんぞは何しろ子供のように、可愛がっていらしった犬ですから、わざわざ牛乳を取ってやったり、宝丹ほうたんを口へふくませてやったり、随分大事になさいました。それに不思議はないんです。ないんですが、いやじゃありませんか? 犬の病気が悪くなると、御新造が犬と話をなさるのも、だんだん珍しくなくなったんです。
「そりゃ話をなさると云っても、つまりは御新造が犬を相手に、長々と独りごとをおっしゃるんですが、夜更よふけにでもその声が聞えて御覧なさい。何だか犬も人間のように、口をいていそうな気がして、あんまりい気はしないもんですよ。それでなくっても一度なぞは、あるからっかぜのひどかった日に、御使いに行って帰って来ると、――その御使いも近所のうらなしゃの所へ、犬の病気を見て貰いに行ったんですが、――御使いに行って帰って来ると、障子しょうじのがたがた云う御座敷に、御新造の話し声が聞えるんでしょう。こりゃ旦那様でもいらしったかと思って、障子の隙間から覗いて見ると、やっぱりそこにはたった一人、御新造がいらっしゃるだけなんです。おまけに風に吹かれた雲が、御日様の前を飛ぶからですが、膝へ犬をのせた御新造の姿が、しっきりなしに明るくなったり暗くなったりするじゃありませんか? あんなに気味の悪かった事は、この年になってもまだ二度とは、出っくわした覚えがないくらいですよ。
「ですから犬が死んだ時には、そりゃ御新造には御気の毒でしたが、こちらは内々ないないほっとしたもんです。もっともそれが嬉しかったのは、犬が※(「勹<夕」、第3水準1-14-76)そそうをするたびに、掃除そうじをしなければならなかった私ばかりじゃありません。旦那様もその事を御聞きになると、厄介払やっかいばらいをしたと云うように、にやにや笑って御出でになりました。犬ですか? 犬は何でも、御新造はもとより、私もまだ起きない内に、鏡台きょうだいの前へたおれたまま、青い物を吐いて死んでいたんです。気がなさそうに長火鉢の前に、寝てばかりいるようになってから、かれこれ半月にもなりましたかしら。……」
 ちょうど薬研堀やげんぼりいちの立つ日、お蓮は大きな鏡台の前に、息の絶えた犬を見出した。犬は婆さんが話した通り、青い吐物とぶつの流れた中に、冷たい体を横たえていた。これは彼女もとうの昔に、覚悟をきめていた事だった。前の犬には生別いきわかれをしたが、今度の犬には死別しにわかれをした。所詮しょせん犬は飼えないのが、持って生まれた因縁いんねんかも知れない。――そんな事がただ彼女の心へ、絶望的な静かさをのしかからせたばかりだった。
 お蓮はそこへ坐ったなり、茫然と犬の屍骸しがいを眺めた。それからものうい眼を挙げて、寒い鏡のおもてを眺めた。鏡には畳にたおれた犬が、彼女と一しょに映っていた。その犬の影をじっと見ると、お蓮は目まいでも起ったように、突然両手に顔をおおった。そうしてかすかな叫び声を洩らした。
 鏡の中の犬の屍骸は、いつか黒かるべき鼻の先が、あかい色に変っていたのだった。

        十一

 妾宅の新年は寂しかった。門には竹が立てられたり、座敷には蓬莱ほうらいが飾られたりしても、おれんは独り長火鉢の前に、屈托くったくらしい頬杖ほおづえをついては、障子の日影が薄くなるのに、ものうい眼ばかり注いでいた。
 暮に犬に死なれて以来、ただでさえ浮かない彼女の心は、ややともすると発作的ほっさてきな憂鬱に襲われ易かった。彼女は犬の事ばかりか、いまだにわからない男の在りかや、どうかすると顔さえ知らない、牧野まきのの妻の身の上までも、いろいろ思い悩んだりした。と同時にまたその頃から、折々妙な幻覚にも、悩まされるようになり始めた。――
 ある時はとこへはいった彼女が、やっと眠にこうとすると、突然何かがのったように、夜着の裾がじわりと重くなった。小犬はまだ生きていた時分、彼女の蒲団の上へ来ては、よくごろりと横になった。――ちょうどそれと同じように、柔かな重みがかかったのだった。お蓮はすぐにまくらから、そっとかしらを浮かせて見た。が、そこには掻巻かいまき格子模様こうしもようが、ランプの光に浮んでいるほかは、何物もいるとは思われなかった。………
 またある時は鏡台の前に、お蓮が髪を直していると、鏡へ映った彼女のうしろを、ちらりと白い物が通った。彼女はそれでも気をとめずに、水々しいびんき上げていた。するとその白い物は、前とは反対の方向へ、もう一度咄嗟とっさに通り過ぎた。お蓮はくしを持ったまま、とうとううしろを振り返った。しかしあかるい座敷の中には、何も生き物のけはいはなかった。やっぱり眼のせいだったかしら、――そう思いながら、鏡へ向うと、しばらくののち白い物は、三度彼女のうしろを通った。……
 またある時は長火鉢の前に、お蓮が独り坐っていると、遠い外の往来おうらいに、彼女の名を呼ぶ声が聞えた。それは門の竹の葉が、ざわめく音にまじりながら、たった一度聞えたのだった。が、その声は東京へ来ても、始終心にかかっていた男の声に違いなかった。お蓮は息をひそめるように、じっと注意深い耳を澄ませた。その時また往来に、今度は前よりも近々ちかぢかと、なつかしい男の声が聞えた。と思うといつのまにか、それは風に吹き散らされる犬の声に変っていた。……
 またある時はふと眼がさめると、彼女と一つとこの中に、いない筈の男が眠っていた。迫ったひたい、長い睫毛まつげ、――すべてが夜半やはんのランプの光に、寸分すんぶんも以前と変らなかった。左の眼尻めじり黒子ほくろがあったが、――そんな事さえくらべて見ても、やはり確かに男だった。お蓮は不思議に思うよりは、嬉しさに心をおどらせながら、そのまま体も消え入るように、男のくびへすがりついた。しかし眠を破られた男が、うるさそうに何かつぶやいた声は、意外にも牧野に違いなかった。のみならずお蓮はその刹那せつなに、実際酒臭い牧野のくびへ、しっかり両手をからんでいる彼女自身を見出したのだった。
 しかしそう云う幻覚のほかにも、お蓮の心をさわがすような事件は、現実の世界からも起って来た。と云うのは松もとれない内に、噂に聞いていた牧野の妻が、突然訪ねて来た事だった。

        十二

 牧野まきのの妻が訪れたのは、生憎あいにく例の雇婆やといばあさんが、使いに行っている留守るすだった。案内を請う声に驚かされたおれんは、やむを得ず気のない体を起して、薄暗い玄関へ出かけて行った。すると北向きの格子戸こうしどが、軒さきの御飾りをすかせている、――そこにひどく顔色の悪い、眼鏡めがねをかけた女が一人、余り新しくない肩掛をしたまま、俯向うつむき勝にたたずんでいた。
「どなた様でございますか?」
 お蓮はそう尋ねながら、相手の正体しょうたいを直覚していた。そうしてこのの抜けた丸髷まるまげに、小紋こもんの羽織のそでを合せた、どこか影の薄い女の顔へ、じっと眼を注いでいた。
わたくしは――」
 女はちょいとためらったのち、やはり俯向き勝に話し続けた。
わたくしは牧野の家内でございます。たきと云うものでございます。」
 今度はお蓮が口ごもった。
「さようでございますか。わたくしは――」
「いえ、それはもう存じて居ります。牧野が始終御世話になりますそうで、私からも御礼を申し上げます。」
 女の言葉は穏やかだった。皮肉らしい調子なぞは、不思議なほどこもっていなかった。それだけまたお蓮は何と云っていか、挨拶あいさつのしように困るのだった。
「つきましては今日こんにちは御年始かたがた、ちと御願いがあって参りましたんですが、――」
「何でございますか、私に出来る事でございましたら――」
 まだ油断をしなかったお蓮は、ほぼその「御願い」もわかりそうな気がした。と同時にそれを切り出された場合、答うべき文句も多そうな気がした。しかし伏目ふしめ勝ちな牧野の妻が、しずかに述べ始めた言葉を聞くと、彼女の予想は根本から、間違っていた事が明かになった。
「いえ、御願いと申しました所が、大した事でもございませんが、――実は近々きんきんに東京中が、森になるそうでございますから、その節はどうか牧野同様、私も御宅へ御置き下さいまし。御願いと云うのはこれだけでございます。」
 相手はゆっくりこんな事を云った。その容子ようすはまるで彼女の言葉が、いかに気違いじみているかも、全然気づいていないようだった。お蓮は呆気あっけにとられたなり、しばらくはただ外光にそむいた、この陰気な女の姿を見つめているよりほかはなかった。
「いかがでございましょう? 置いて頂けましょうか?」
 お蓮は舌がこわばったように、何とも返事が出来なかった。いつか顔をもたげた相手は、細々と冷たい眼をきながら、眼鏡めがね越しに彼女を見つめている、――それがなおさらお蓮には、すべてが一場の悪夢あくむのような、気味の悪い心地を起させるのだった。
「私はもとよりどうなっても、かまわない体でございますが、万一路頭に迷うような事がありましては、二人の子供が可哀かわいそうでございます。どうか御面倒でもあなたの御宅へ、お置きなすって下さいまし。」
 牧野の妻はこう云うと、古びた肩掛に顔を隠しながら、突然しくしく泣き始めた。すると何故なぜか黙っていたお蓮も、急に悲しい気がして来た。やっときんさんにもえる時が来たのだ、嬉しい。嬉しい。――彼女はそう思いながら、それでも春着の膝の上へ、やはり涙を落している彼女自身を見出みいだしたのだった。
 が、何分なんぷんか過ぎ去ったのち、お蓮がふと気がついて見ると、薄暗い北向きの玄関には、いつのまに相手は帰ったのか、誰も人影が見えなかった。

        十三

 七草ななくさ牧野まきのが妾宅へやって来ると、おれんは早速彼の妻が、訪ねて来たいきさつを話して聞かせた。が、牧野は案外平然と、彼女に耳を借したまま、マニラの葉巻ばかりくゆらせていた。
御新造ごしんぞはどうかしているんですよ。」
 いつか興奮し出したお蓮は、苛立いらだたしいまゆをひそめながら、剛情になおも云い続けた。
「今の内に何とかして上げないと、取り返しのつかない事になりますよ。」
「まあ、なったらなった時の事さ。」
 牧野は葉巻の煙の中から、薄眼うすめに彼女を眺めていた。
かかあの事なんぞを案じるよりゃ、お前こそ体に気をつけるがい。何だかこの頃はいつ来て見ても、ふさいでばかりいるじゃないか?」
わたしはどうなってもいんですけれど、――」
くはないよ。」
 お蓮は顔を曇らせたなり、しばらくは口をつぐんでいた。が、突然涙ぐんだ眼を挙げると、
「あなた、後生ごしょうですから、御新造ごしんぞを捨てないで下さい。」と云った。
 牧野は呆気あっけにとられたのか、何とも答を返さなかった。
「後生ですから、ねえ、あなた――」
 お蓮は涙を隠すように、黒繻子くろじゅすの襟へあごうずめた。
「御新造は世の中にあなた一人が、何よりも大事なんですもの。それを考えて上げなくっちゃ、薄情すぎると云うもんですよ。私の国でも女と云うものは、――」
「好いよ。好いよ。お前の云う事はよくわかったから、そんな心配なんぞはしない方が好いよ。」
 葉巻はまきを吸うのも忘れた牧野は、子供をだますようにこう云った。
「一体このうちが陰気だからね、――そうそう、この間はまた犬が死んだりしている。だからお前も気がふさぐんだ。その内にどこかい所があったら、早速さっそく引越してしまおうじゃないか? そうして陽気に暮すんだね、――何、もう十日もちさえすりゃ、おれは役人をやめてしまうんだから、――」
 お蓮はほとんどその晩中、いくら牧野が慰めても、浮かない顔色かおいろを改めなかった。……
御新造ごしんぞの事では旦那様だんなさまも、随分御心配なすったもんですが、――」
 Kにいろいろかれた時、婆さんはまた当時の容子ようすをこう話したとか云う事だった。
「何しろ今度の御病気は、あの時分にもうきざしていたんですから、やっぱりまあ旦那様始め、御諦おあきらめになるほかはありますまい。現に本宅の御新造が、不意に横網よこあみへ御出でなすった時でも、わたくしが御使いから帰って見ると、こちらの御新造は御玄関先へ、ぼんやりとただ坐っていらっしゃる、――それを眼鏡越しににらみながら、あちらの御新造はまたあがろうともなさらず、悪丁寧わるでいねい嫌味いやみのありったけを並べて御出でなさる始末しまつなんです。
「そりゃ御主人が毒づかれるのは、蔭で聞いている私にも、い気のするもんじゃありません。けれども私がそこへ出ると、余計事がむずかしいんです。――と云うのは私も四五年まえには、御本宅に使われていたもんですから、あちらの御新造に見つかったが最後、かえって先様さきさまの御腹立ちをあおる事になるかも知れますまい。そんな事があっては大変ですから、私は御本宅の御新造が、さんざん悪態あくたいを御つきになった揚句あげく、御帰りになってしまうまでは、とうとう御玄関のふすまの蔭から、顔を出さずにしまいました。
「ところがこちらの御新造は、わたくしの顔を御覧になると、『婆や、今し方御新造が御見えなすったよ。わたくしなんぞの所へ来ても、嫌味一つ云わないんだから、あれがほんとうの結構人けっこうじんだろうね。』と、こうおっしゃるじゃありませんか? そうかと思うと笑いながら、『何でも近々に東京中が、森になるって云っていたっけ。可哀そうにあの人は、気が少し変なんだよ。』と、そんな事さえおっしゃるんですよ。……」

        十四

 しかしおれんの憂鬱は、二月にはいってもない頃、やはり本所ほんじょ松井町まついちょうにある、手広い二階家へ住むようになっても、不相変あいかわらず晴れそうな気色けしきはなかった。彼女は婆さんとも口をかず、大抵たいていは茶のにたった一人、鉄瓶のたぎりを聞き暮していた。
 するとそこへ移ってから、まだ一週間も経たないある夜、もうどこかで飲んだ田宮たみやが、ふらりと妾宅へ遊びに来た。ちょうど一杯始めていた牧野まきのは、この飲み仲間の顔を見ると、早速手にあった猪口ちょくをさした。田宮はその猪口を貰う前に、襯衣シャツを覗かせたふところから、赤い缶詰かんづめを一つ出した。そうしてお蓮の酌を受けながら、
「これは御土産おみやげです。お蓮夫人。これはあなたへ御土産です。」と云った。
「何だい、これは?」
 牧野はお蓮が礼を云うあいだに、その缶詰を取り上げて見た。
貼紙ペーパーを見給え。膃肭獣おっとせいだよ。膃肭獣の缶詰さ。――あなたは気のふさぐのが病だって云うから、これを一つ献上します。産前、産後、婦人病一切いっさいによろしい。――これは僕の友だちに聞いた能書のうがきだがね、そいつがやり始めた缶詰だよ。」
 田宮は唇をめまわしては、彼等二人を見比べていた。
「食えるかい、お前、膃肭獣おっとせいなんぞが?」
 お蓮は牧野にこう云われても、無理にちょいと口元へ、微笑を見せたばかりだった。が、田宮は手を振りながら、すぐにその答えを引き受けた。
「大丈夫。大丈夫だとも。――ねえ、お蓮さん。この膃肭獣おっとせいと云うやつは、おすが一匹いる所には、めすが百匹もくっついている。まあ人間にすると、牧野さんと云う所です。そう云えば顔も似ていますな。だからです。だから一つ牧野さんだと思って、――可愛い牧野さんだと思って御上おあがんなさい。」
「何を云っているんだ。」
 牧野はやむを得ず苦笑くしょうした。
「牡が一匹いる所に、――ねえ、牧野さん、君によく似ているだろう。」
 田宮は薄痘痕うすいものある顔に、一ぱいの笑いを浮べたなり、委細いさいかまわずしゃべり続けた。
「今日僕の友だちに、――この缶詰屋に聞いたんだが、膃肭獣おっとせいと云うやつは、牡同志が牝を取り合うと、――そうそう膃肭獣の話よりゃ、今夜は一つお蓮さんに、昔のなりを見せてもらうんだった。どうです? お蓮さん。今こそお蓮さんなんぞと云っているが、お蓮さんとは世を忍ぶ仮の名さ。ここは一番音羽屋おとわやで行きたいね。お蓮さんとは――」
「おい、おい、牝を取り合うとどうするんだ? その方をまず伺いたいね。」
 迷惑らしい顔をした牧野は、やっともう一度膃肭獣おっとせいの話へ、危険な話題を一転させた。が、その結果は必ずしも、彼が希望していたような、都合つごういものではなさそうだった。
「牝を取り合うとか? 牝を取り合うと、大喧嘩をするんだそうだ。その代りだね、その代り正々堂々とやる。君のように暗打ちなんぞは食わせない。いや、こりゃ失礼。禁句禁句きんくきんく金看板きんかんばん甚九郎じんくろうだっけ。――お蓮さん。一つ、献じましょう。」
 田宮は色を変えた牧野に、ちらりと顔をにらまれると、てれ隠しにお蓮へさかずきをさした。しかしお蓮は無気味ぶきみなほど、じっと彼を見つめたぎり、手も出そうとはしなかった。

        十五

 おれんとこを抜け出したのは、その夜の三時過ぎだった。彼女は二階の寝間ねまうしろに、そっと暗い梯子はしごを下りると、手さぐりに鏡台の前へ行った。そうしてその抽斗ひきだしから、剃刀かみそりの箱を取り出した。
牧野まきのめ。牧野の畜生め。」
 お蓮はそうつぶやきながら、静に箱の中の物を抜いた。その拍子に剃刀の※(「均のつくり」、第3水準1-14-75)においが、ぎ澄ましたはがね※(「均のつくり」、第3水準1-14-75)が、かすかに彼女の鼻を打った。
 いつか彼女の心の中には、狂暴な野性が動いていた。それは彼女が身を売るまでに、邪慳じゃけん継母ままははとの争いから、すさむままに任せた野性だった。白粉おしろい地肌じはだを隠したように、この数年間の生活が押し隠していた野性だった。………
「牧野め。鬼め。二度の日の目は見せないから、――」
 お蓮は派手な長襦袢ながじゅばんの袖に、一挺の剃刀をおおったなり、鏡台の前に立ち上った。
 すると突然かすかな声が、どこからか彼女の耳へはいった。
御止およし。御止し。」
 彼女は思わず息を呑んだ。が、声だと思ったのは、時計の振子ふりこが暗い中に、秒を刻んでいる音らしかった。
「御止し。御止し。御止し。」
 しかし梯子はしごあがりかけると、声はもう一度お蓮をとらえた。彼女はそこへ立ち止りながら、茶のの暗闇を透かして見た。
「誰だい?」
「私。私だ。私。」
 声は彼女と仲がかった、朋輩の一人に違いなかった。
一枝いっしさんかい?」
「ああ、私。」
「久しぶりだねえ。お前さんは今どこにいるの?」
 お蓮はいつか長火鉢の前へ、昼間のように坐っていた。
御止およし。御止しよ。」
 声は彼女の問に答えず、何度も同じ事を繰返すのだった。
何故なぜまたお前さんまでが止めるのさ? 殺したって好いじゃないか?」
「お止し。生きているもの。生きているよ。」
「生きている? 誰が?」
 そこに長い沈黙があった。時計はその沈黙の中にも、休みない振子ふりこを鳴らしていた。
「誰が生きているのさ?」
 しばらく無言むごんが続いたのち、お蓮がこう問い直すと、声はやっと彼女の耳に、懐しい名前をささやいてくれた。
きん――金さん。金さん。」
「ほんとうかい? ほんとうなら嬉しいけれど、――」
 お蓮は頬杖ほおづえをついたまま、物思わしそうな眼つきになった。
「だってきんさんが生きているんなら、私に会いに来そうなもんじゃないか?」
「来るよ。来るとさ。」
「来るって? いつ?」
明日あした弥勒寺みろくじへ会いに来るとさ。弥勒寺へ。明日あしたの晩。」
「弥勒寺って、弥勒寺橋だろうねえ。」
「弥勒寺橋へね。夜来る。来るとさ。」
 それぎり声は聞こえなくなった。が、長襦袢ながじゅばん一つのお蓮は、夜明前の寒さも知らないように、長いあいだじっと坐っていた。

        十六

 おれん翌日よくじつひる過ぎまでも、二階の寝室を離れなかった。が、四時頃やっととこを出ると、いつもより念入りに化粧をした。それから芝居でも見に行くように、上着も下着もことごとく一番い着物を着始めた。
「おい、おい、何だってまたそんなにめかすんだい?」
 その日は一日店へも行かず、妾宅にごろごろしていた牧野まきのは、風俗画報ふうぞくがほうを拡げながら、不審そうに彼女へ声をかけた。
「ちょいと行く所がありますから、――」
 お蓮は冷然と鏡台の前に、鹿の帯上げを結んでいた。
「どこへ?」
弥勒寺橋みろくじばしまで行けば好いんです。」
「弥勒寺橋?」
 牧野はそろそろいぶかるよりも、不安になって来たらしかった。それがお蓮には何とも云えない、愉快な心もちをそそるのだった。
「弥勒寺橋に何の用があるんだい?」
「何の用ですか、――」
 彼女はちらりと牧野の顔へ、侮蔑ぶべつの眼の色を送りながら、静に帯止めの金物かなものを合せた。
「それでも安心して下さい。身なんぞ投げはしませんから、――」
莫迦ばかな事を云うな。」
 牧野はばたりと畳の上へ、風俗画報をほうり出すと、忌々いまいましそうに舌打ちをした。……
「かれこれその晩の七時頃だそうだ。――」
 今までの事情を話したのちわたくしの友人のKと云う医者は、おもむろにこう言葉を続けた。
「お蓮は牧野が止めるのも聞かず、たった一人うちを出て行った。何しろ婆さんなぞが心配して、いくら一しょに行きたいと云っても、当人がまるで子供のように、一人にしなければ死んでしまうと、駄々だだをこねるんだから仕方がない。が、勿論お蓮一人、出してやれたもんじゃないから、そこは牧野が見え隠れに、ついて行く事にしたんだそうだ。
「ところが外へ出て見ると、その晩はちょうど弥勒寺橋の近くに、薬師やくし縁日えんにちが立っている。だからふた往来おうらいは、いくら寒い時分でも、押し合わないばかりの人通りだ。これはお蓮の跡をつけるには、都合つごうが好かったのに違いない。牧野がすぐうしろを歩きながら、とうとう相手に気づかれなかったのも、畢竟ひっきょうは縁日の御蔭なんだ。
「往来にはずっと両側に、縁日商人えんにちあきんどが並んでいる。そのカンテラやランプの明りに、飴屋あめやの渦巻の看板だの豆屋の赤い日傘だのが、右にも左にもちらつくんだ。が、お蓮はそんな物には、全然側目わきめもふらないらしい。ただ心もち俯向うつむいたなり、さっさと人ごみを縫って行くんだ。何でも遅れずに歩くのは、牧野にも骨が折れたそうだから、余程よっぽど先を急いでいたんだろう。
「その内に弥勒寺橋みろくじばしたもとへ来ると、お蓮はやっと足を止めて、茫然とあたりを見廻したそうだ。あすこには河岸かしへ曲った所に、植木屋ばかりが続いている。どうせ縁日物えんにちものだから、大した植木がある訳じゃないが、ともかくも松とかひのきとかが、ここだけは人足ひとあしまばらな通りに、水々しい枝葉えだはを茂らしているんだ。
「こんな所へ来たはいが、一体どうする気なんだろう?――牧野はそう疑いながら、しばらくは橋づめの電柱の蔭に、めかけ容子ようすうかがっていた。が、お蓮は不相変あいかわらず、ぼんやりそこにたたずんだまま、植木の並んだのを眺めている。そこで牧野は相手のうしろへ、忍び足にそっと近よって見た。するとお蓮は嬉しそうに、何度もこう云う独りごとつぶやいてたと云うじゃないか?――『森になったんだねえ。とうとう東京も森になったんだねえ。』………

        十七

「それだけならばまだいが、――」
 Kはさらに話し続けた。
「そこへ雪のような小犬が一匹、偶然人ごみを抜けて来ると、おれんはいきなり両手を伸ばして、その白犬をき上げたそうだ。そうして何を云うかと思えば、『お前も来てくれたのかい? 随分ここまでは遠かったろう。何しろ途中には山もあれば、大きな海もあるんだからね。ほんとうにお前に別れてから、一日も泣かずにいた事はないよ。お前のかわりに飼った犬には、この間死なれてしまうしさ。』なぞと、夢のような事をしゃべり出すんだ。が、小犬は人懐ひとなつこいのか、きもしなければみつきもしない。ただ鼻だけ鳴らしては、お蓮の手やほおめ廻すんだ。
「こうなると見てはいられないから、牧野まきのはとうとう顔を出した。が、お蓮は何と云っても、きんさんがここへ来るまでは、決してうちへは帰らないと云う。その内に縁日の事だから、すぐにまわりへは人だかりが出来る。中には『やあ、別嬪べっぴんの気違いだ』と、大きな声を出すやつさえあるんだ。しかし犬好きなお蓮には、久しぶりに犬をいたのが、少しは気休めになったんだろう。ややしばらく押し問答をしたのち、ともかくも牧野の云う通り一応はうちへ帰る事に、やっと話が片附いたんだ。が、いよいよ帰るとなっても、野次馬やじうまは容易に退くもんじゃない。お蓮もまたどうかすると、弥勒寺橋みろくじばしの方へ引っ返そうとする。それをなだめたりすかしたりしながら、松井町まついちょううちへつれて来た時には、さすがに牧野も外套がいとうの下が、すっかり汗になっていたそうだ。……」
 お蓮はいえへ帰って来ると、白い子犬を抱いたなり、二階の寝室へのぼって行った。そうして真暗な座敷の中へ、そっとこの憐れな動物を放した。犬は小さな尾を振りながら、嬉しそうにそこらを歩き廻った。それは以前飼っていた時、彼女の寝台ねだいから石畳の上へ、飛び出したのと同じ歩きぶりだった。
「おや、――」
 座敷の暗いのを思い出したお蓮は、不思議そうにあたりを見廻した。するといつか天井からは、火をともした瑠璃燈るりとうが一つ、彼女の真上に吊下つりさがっていた。
「まあ、綺麗だ事。まるで昔に返ったようだねえ。」
 彼女はしばらくはうっとりと、きらびやかな燈火ともしびを眺めていた。が、やがてその光に、彼女自身の姿を見ると、悲しそうに二三度かしらを振った。
「私は昔の※(「くさかんむり/惠」、第3水準1-91-24)けいれんじゃない。今はお蓮と云う日本人にほんじんだもの。きんさんも会いに来ない筈だ。けれども金さんさえ来てくれれば、――」
 ふとかしらもたげたお蓮は、もう一度驚きの声をらした。見ると小犬のいた所には、横になった支那人が一人、四角な枕へひじをのせながら、悠々と鴉片あへんくゆらせている! 迫った額、長い睫毛まつげ、それから左の目尻めじり黒子ほくろ。――すべてが金に違いなかった。のみならず彼はお蓮を見ると、やはり煙管きせるくわえたまま、昔の通り涼しい眼に、ちらりと微笑を浮べたではないか?
「御覧。東京はもうあの通り、どこを見ても森ばかりだよ。」
 成程なるほど二階の亜字欄あじらんの外には、見慣ない樹木が枝を張った上に、刺繍ぬいとりの模様にありそうな鳥が、何羽も気軽そうにさえずっている、――そんな景色を眺めながら、お蓮は懐しい金の側に、一夜中いちやじゅう恍惚こうこつと坐っていた。………
「それから一日か二日すると、お蓮――本名は※(「くさかんむり/惠」、第3水準1-91-24)もうけいれんは、もうこのK脳病院の患者かんじゃの一人になっていたんだ。何でも日清戦争中は、威海衛いかいえいのある妓館ぎかんとかに、客を取っていた女だそうだが、――何、どんな女だった? 待ち給え。ここに写真があるから。」
 Kが見せた古写真には、寂しい支那服の女が一人、白犬と一しょに映っていた。
「この病院へ来た当座は、誰が何と云った所が、決して支那服を脱がなかったもんだ。おまけにその犬が側にいないと、金さん金さんとわめき立てるじゃないか? 考えれば牧野も可哀そうな男さ。※(「くさかんむり/惠」、第3水準1-91-24)けいれんめかけにしたと云っても、帝国軍人の片破かたわれたるものが、戦争後すぐに敵国人を内地へつれこもうと云うんだから、人知れない苦労が多かったろう。――え、金はどうした? そんな事はくだけ野暮だよ。僕は犬が死んだのさえ、病気かどうかと疑っているんだ。」
(大正九年十二月)





底本:「芥川龍之介全集4」ちくま文庫、筑摩書房
   1987(昭和62)年1月27日第1刷発行
   1993(平成5)年12月25日第6刷発行
底本の親本:「筑摩全集類聚版芥川龍之介全集」筑摩書房
   1971(昭和46)年3月〜1971(昭和46)年11月
入力:j.utiyama
校正:かとうかおり
1998年12月19日公開
2004年3月10日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。




●表記について