ようやくの事でまた病院まで帰って来た。思い出すとここで暑い
朝夕を送ったのももう三カ月の昔になる。その
頃は二階の
廂から六尺に余るほどの長い
葭簀を
日除に差し出して、
熱りの強い
縁側を
幾分か暗くしてあった。その縁側に
是公から貰った
楓の
盆栽と、時々人の見舞に持って来てくれる草花などを置いて、退屈も
凌ぎ暑さも
紛らしていた。
向に見える高い宿屋の
物干に
真裸の男が二人出て、
日盛を事ともせず、
欄干の上を
危なく渡ったり、または細長い横木の上にわざと
仰向に寝たりして、ふざけまわる様子を見て自分もいつか一度はもう一遍あんな
逞しい体格になって見たいと
羨んだ事もあった。今はすべてが過去に化してしまった。再び眼の前に現れぬと云う
不慥な点において、夢と同じくはかない過去である。
病院を出る時の余は医師の勧めに従って転地する覚悟はあった。けれども、転地先で再度の
病に
罹って、寝たまま東京へ戻って
来ようとは思わなかった。東京へ戻ってもすぐ自分の家の門は
潜らずに
釣台に乗ったまま、また当時の病院に落ちつく運命になろうとはなおさら思いがけなかった。
帰る日は立つ
修善寺も雨、着く東京も雨であった。
扶けられて汽車を下りるときわざわざ出迎えてくれた人の顔は半分も眼に
入らなかった。
目礼をする事のできたのはその
中の二三に過ぎなかった。思うほどの
会釈もならないうちに余は早く釣台の上に
横えられていた。
黄昏の雨を防ぐために釣台には
桐油を掛けた。余は
坑の底に寝かされたような心持で、時々暗い中で眼を
開いた。鼻には桐油の臭がした。耳には桐油を
撲つ雨の音と、釣台に付添うて来るらしい人の声が
微かながらとぎれとぎれに聞えた。けれども眼には何物も映らなかった。汽車の中で
森成さんが
枕元の
信玄袋の口に
挿し込んでくれた大きな野菊の枝は、降りる混雑の際に折れてしまったろう。
釣台に野菊も見えぬ桐油
哉
これはその時の光景を後から十七字にちぢめたものである。余はこの釣台に乗ったまま病院の二階へ
舁き
上げられて、三カ月
前に親しんだ白いベッドの上に、安らかに
瘠せた手足を延べた。雨の音の多い静かな夜であった。余の病室のある
棟には患者が三四名しかいないので、人声も自然絶え勝に、秋は修善寺よりもかえってひっそりしていた。
この静かな
宵を
心地よく白い毛布の中に二時間ほど送った時、余は看護婦から二通の電報を受取った。一通を開けて見ると「無事御帰京を祝す」と書いてあった。そうしてその差出人は満洲にいる
中村是公であった。他の一通を開けて見ると、やはり無事御帰京を祝すと云う文句で、前のと一字の相違もなかった。余は平凡ながらこの
暗合を面白く眺めつつ、誰が打ってくれたのだろうと考えて差出人の名前を見た。ところがステトとあるばかりでいっこうに要領を得なかった。ただかけた局が名古屋とあるのでようやく判断がついた。ステトと云うのは、
鈴木禎次と
鈴木時子の
頭文字を組み合わしたもので、
妻の
妹とその
夫の事であった。余は二ツの電報を折り重ねて、
明朝また
来るべき妻の顔を見たら、まずこの話をしようかと思い定めた。
病室は畳も青かった。
襖も
張り
易えてあった。壁も
新に塗ったばかりであった。
万居心よく整っていた。杉本副院長が再度修善寺へ診察に来た時、
畳替をして待っていますと妻に云い置かれた言葉をすぐに思い出したほど
奇麗である。その約束の日から指を折って
勘定して見ると、すでに十六七日目になる。青い畳もだいぶ久しく人を待ったらしい。
思いけりすでに幾夜の蟋蟀
その夜から余は当分またこの病院を第二の家とする事にした。
病院に帰り着いた十一日の晩、回診の後藤さんにこの頃院長の御病気はどうですかと聞いたら、ええひとしきりはだいぶ好い方でしたが、近来また少し寒くなったものですから……と云う答だったので、余はどうぞ
御逢いの節は
宜しくと
挨拶した。その晩はそれぎり何の気もつかずに寝てしまった。すると
明日の朝
妻が来て枕元に
坐るや否や、実はあなたに隠しておりましたが
長与さんは
先月五日に
亡くなられました。葬式には
東さんに代理を頼みました。悪くなったのは八月末ちょうどあなたの
危篤だった時分ですと云う。余はこの時始めて
附添のものが、院長の
訃をことさらに秘して、余に告げなかった事と、またその告げなかった意味とを悟った。そうして生き残る自分やら、死んだ院長やらをとかくに比較して、しばらくは
茫然としたまま黙っていた。
院長は今年の春から具合が悪かったので、この
前入院した時にも六週間の間ついぞ顔を見合せた事がなかった。余の病気の
由を聞いて、それは残念だ、自分が健康でさえあれば治療に尽力して上げるのにと云う
言伝があった。その
後も副院長を通じて、よろしくと云う
言伝が時々あった。
修善寺で病気がぶり返して、社から見舞のため
森成さんを特別に頼んでくれた時、着いた森成さんが、病院の都合上とても長くはと云っているその晩に、院長はわざわざ直接森成さんに電報を打って、できるだけ余の便宜を
計らってくれた。その文句は寝ている余の目には無論触れなかった。けれども枕元にいる
雪鳥君から聞いたその文句の
音だけは、いまだに好意の記憶として余の耳に残っている。それは当分その地に
留まり、充分看護に心を尽くすべしとか云う、森成さんに取ってはずいぶん
厳かに聞える命令的なものであった。
院長の
容態が悪くなったのは余の危篤に
陥ったのとほぼ同時だそうである。余が鮮血を多量に
吐いて
傍人からとうてい回復の見込がないように思われた二三日
後、森成さんが病院の用事だからと云って、ちょっと東京へ帰ったのは、生前に一度院長に会うためで、それから十日ほど
経って、また病院の用事ができて二度東京へ戻ったのは院長の葬式に列するためであったそうである。
当初から余に好意を表して、間接に治療上の心配をしてくれた院長はかくのごとくしだいに死に近づきつつある間に、余は不思議にも命の
幅の
縮まってほとんど絹糸のごとく細くなった上を、ようやく無難に通り越した。院長の死が一基の墓標で永く
確められたとき、辛抱強く骨の上に
絡みついていてくれた余の命の根は、
辛うじて冷たい骨の周囲に、血の通う新しい細胞を営み初めた。院長の墓の前に供えられる花が、
幾度か枯れ、幾度か代って、萩、
桔梗、
女郎花から白菊と黄菊に秋を進んで来た一カ月
余の
後、余はまたその一カ月余の間に盛返し得るほどの血潮を皮下に
盛得て、再び院長の建てたこの胃腸病院に帰って来た。そうしてその間いまだかつて院長の死んだと云う事を知らなかった。帰る
明る朝
妻が来て実はこれこれでと話をするまで、院長は余の病気の経過を東京にいて承知しているものと信じていた。そうして回復の上病院を出たら礼にでも行こうと思っていた。もし病院で会えたら
篤く謝意でも述べようと思っていた。
逝く人に
留まる人に
来る
雁
考えると余が無事に東京まで帰れたのは
天幸である。こうなるのが当り前のように思うのは、いまだに生きているからの
悪度胸に過ぎない。生き延びた自分だけを頭に置かずに、命の綱を
踏み
外した人の有様も思い浮べて、幸福な自分と照らし合せて見ないと、わがありがたさも分らない、人の気の毒さも分らない。
ただ一羽来る夜ありけり月の雁
ジェームス教授の
訃に接したのは長与院長の死を耳にした
明日の朝である。新着の外国雑誌を手にして、五六
頁繰って行くうちに、ふと教授の名前が眼にとまったので、また新らしい著書でも
公けにしたのか知らんと思いながら読んで見ると、意外にもそれが
永眠の報道であった。その雑誌は九月初めのもので、項中には去る日曜日に六十九歳をもって
逝かるとあるから、指を折って
勘定して見ると、ちょうど院長の
容体がしだいに悪い方へ傾いて、
傍のものが
昼夜眉を
顰めている頃である。また余が多量の血を一度に失って、
死生の
境に
彷徨していた頃である。思うに教授の
呼息を引き取ったのは、おそらく余の命が、
瘠せこけた
手頸に、有るとも無いとも片付かない脈を打たして、看護の人をはらはらさせていた日であろう。
教授の最後の著書「多元的宇宙」を読み出したのは今年の夏の事である。
修善寺へ立つとき、
向へ持って行って読み残した分を片付けようと思って、それを五六巻の書物とともに
鞄の中に入れた。ところが着いた
明日から心持が悪くて、出歩く事もならない始末になった。けれども宿の二階に
寝転びながら、
一日二日は少しずつでも前の続きを読む事ができた。無論病勢の
募るに
伴れて読書は全く
廃さなければならなくなったので、教授の死ぬ日まで教授の書を再び手に取る機会はなかった。
病牀にありながら、三たび教授の多元的宇宙を取り上げたのは、教授が死んでから
幾日目になるだろう。今から顧みると当時の余は恐ろしく衰弱していた。
仰向に寝て、両方の
肘を
蒲団に支えて、あのくらいの本を持ち
応えているのにずいぶんと骨が折れた。五分と
経たないうちに、貧血の結果手が
麻痺れるので、持ち直して見たり、甲を
撫でて見たりした。けれども頭は比較的疲れていなかったと見えて、書いてある事は
苦もなく
会得ができた。頭だけはもう使えるなと云う自信の出たのは大吐血以後この時が
始てであった。
嬉しいので、
妻を呼んで、
身体の割に頭は丈夫なものだねと云って訳を話すと、妻がいったいあなたの頭は丈夫過ぎます。あの
危篤かった二三日の間などは取り扱い
悪くて大変弱らせられましたと答えた。
多元的宇宙は約半分ほど残っていたのを、三日ばかりで面白く読み
了った。ことに文学者たる自分の立場から見て、教授が何事によらず具体的の事実を土台として、
類推で哲学の領分に切り込んで行く所を面白く読み了った。余はあながちに
弁証法を
嫌うものではない。また
妄りに
理知主義を
厭いもしない。ただ自分の平生文学上に抱いている意見と、教授の哲学について主張するところの考とが、親しい気脈を通じて
彼此相倚るような心持がしたのを愉快に思ったのである。ことに教授が
仏蘭西の学者ベルグソンの説を紹介する
辺りを、坂に車を転がすような
勢で
馳け抜けたのは、まだ血液の充分に通いもせぬ余の頭に取って、どのくらい嬉しかったか分らない。余が教授の文章にいたく推服したのはこの時である。
今でも覚えている。
一間おいて隣にいる
東君をわざわざ枕元へ呼んで、ジェームスは実に
能文家だと教えるように云って聞かした。その時東君は別にこれという
明暸な答をしなかったので、余は、君、西洋人の書物を読んで、この人のは
流暢だとか、あの人のは
細緻だとか、すべて特色のあるところがその書きぶりで、読みながら解るかいと失敬な事を問い
糺した。
教授の兄弟にあたるヘンリーは、有名な小説家で、非常に
難渋な文章を書く男である。ヘンリーは哲学のような小説を書き、ウィリアムは小説のような哲学を書く、と世間で云われているくらいヘンリーは読みづらく、またそのくらい教授は読みやすくて明快なのである。――病中の日記を
検べて見ると九月二十三日の部に、「午前ジェームスを
読み
了る。好い本を読んだと思う」と
覚束ない
文字で
認めてある。名前や標題に
欺されて下らない本を読んだ時ほど残念な事はない。この日記は正にこの裏を云ったものである。
余の病気について治療上いろいろ好意を表してくれた
長与病院長は、余の知らない間にいつか死んでいた。余の病中に、
空漠なる余の頭に
陸離の光彩を
抛げ
込んでくれたジェームス教授も余の知らない間にいつか死んでいた。二人に謝すべき余はただ一人生き残っている。
菊の雨われに
閑ある
病哉
菊の色
縁に
未し
此晨
(ジェームス教授の哲学思想が、文学の方面より見て、どう面白いかここに詳説する余地がないのは余の遺憾とするところである。また教授の深く推賞したベルグソンの著書のうち第一巻は昨今ようやく英訳になってゾンネンシャインから出版された。その標題は Time and Free Will(時と自由意思)と名づけてある。著者の立場は無論故教授と同じく反理知派である。)
病の重かった時は、
固よりその日その日に生きていた。そうしてその日その日に変って行った。自分にもわが心の水のように流れ去る様がよく分った。自白すれば雲と同じくかつ
去りかつ
来るわが
脳裡の現象は、
極めて平凡なものであった。それも自覚していた。
生涯に一度か二度の大患に相応するほどの深さも厚さもない経験を、
恥とも思わず無邪気に重ねつつ移って行くうちに、それでも他日の参考に日ごとの心を日ごとに書いておく事ができたならと思い出した。その時の余は無論手が
利かなかった。しかも日は容易に暮れ容易に明けた。そうして余の頭を
掠めて
去る心の
波紋は、
随って
起るかと思えば
随って消えてしまった。余は薄ぼけて
微かに遠きに行くわが記憶の影を眺めては、寝ながらそれを呼び返したいような心持がした。ミュンステルベルグと云う学者の家に賊が入った
引合で、他日彼が
法庭へ呼び出されたとき、彼の陳述はほとんど事実に相違する事ばかりであったと云う話がある。正確を
旨とする
几帳面な学者の記憶でも、記憶はこれほどに
不慥なものである。「思い出す事など」の中に思い出す事が、日を
経れば経るに従って色彩を失うのはもちろんである。
わが手の
利かぬ先にわが失えるものはすでに多い。わが手筆を持つの力を得てより
逸するものまた少からずと云っても
嘘にはならない。わが病気の経過と、病気の経過に
伴れて起る内面の生活とを、不秩序ながら断片的にも叙しておきたいと思い立ったのはこれがためである。友人のうちには、もうそれほど好くなったかと喜んでくれたものもある。あるいはまたあんな
軽挙をしてやり
損なわなければいいがと心配してくれたものもある。
その中で一番
苦い顔をしたのは
池辺三山君であった。余が原稿を書いたと聞くや否や、たちまち余計な事だと叱りつけた。しかもその声はもっとも
無愛想な声であった。医者の許可を得たのだから、普通の人の
退屈凌ぎぐらいなところと見たらよかろうと余は弁解した。医者の許可もさる事だが、友人の許可を得なければいかんと云うのが三山君の
挨拶であった。それから二三日して三山君が宮本博士に会ってこの話をすると、博士は、なるほど退屈をすると胃に
酸が
湧く恐れがあるからかえって悪いだろうと調停してくれたので、余はようやく助かった。
その時余は三山君に、
遺却新詩無処尋。
然隔
対遥林。
斜陽満径照僧遠。
黄葉一村蔵寺深。
懸偈壁間焚仏意。
見雲天上抱琴心。
人間至楽江湖老。
犬吠鶏鳴共好音。
と云う詩を
遺った。
巧拙は論外として、病院にいる余が窓から寺を望む訳もなし、また室内に
琴を置く必要もないから、この詩は全くの実況に反しているには
違ないが、ただ当時の余の心持を
咏じたものとしてはすこぶる
恰好である。宮本博士が退屈をすると
酸がたまると云ったごとく、
忙殺されて酸が出過ぎる事も、余は親しく経験している。
詮ずるところ、人間は
閑適の
境界に立たなくては不幸だと思うので、その閑適をしばらくなりとも
貪り
得る今の身の嬉しさが、この五十六字に形を変じたのである。
もっとも
趣から云えばまことに
旧い趣である。何の奇もなく、何の新もないと云ってもよい。実際ゴルキーでも、アンドレーフでも、イブセンでもショウでもない。その代りこの趣は彼ら作家のいまだかつて知らざる興味に属している。また彼らのけっして
与からざる境地に存している。
現今の
吾らが苦しい実生活に取り巻かれるごとく、現今の吾等が苦しい文学に取りつかれるのも、やむをえざる悲しき事実ではあるが、いわゆる「現代的気風」に
煽られて、三百六十五日の間、
傍目もふらず、しかく人世を
観じたら、人世は定めし窮屈でかつ殺風景なものだろう。たまにはこんな古風の趣がかえって一段の
新意を吾らの内面生活上に放射するかも知れない。余は
病に
因ってこの
陳腐な幸福と
爛熟な
寛裕を得て、初めて洋行から帰って平凡な米の飯に向った時のような心持がした。
「思い出す事など」は忘れるから思い出すのである。ようやく生き残って東京に帰った余は、病に因って
纔かに
享けえたこの
長閑な心持を早くも失わんとしつつある。まだ
床を離れるほどに足腰が
利かないうちに、三山君に遺った詩が、すでにこの太平の趣をうたうべき最後の作ではなかろうかと、自分ながら
掛念しているくらいである。「思い出す事など」は平凡で低調な個人の病中における
述懐と叙事に過ぎないが、その
中にはこの
陳腐ながら
払底な
趣が、珍らしくだいぶ
這入って来るつもりであるから、余は早く思い出して、早く書いて、そうして今の新らしい人々と今の苦しい人々と共に、この古い
香を
懐かしみたいと思う。
修善寺にいる間は
仰向に寝たままよく俳句を作っては、それを日記の中に
記け
込んだ。時々は面倒な
平仄を合わして漢詩さえ作って見た。そうしてその漢詩も一つ残らず
未定稿として日記の中に書きつけた。
余は年来俳句に
疎くなりまさった者である。漢詩に至っては、ほとんど当初からの門外漢と云ってもいい。詩にせよ句にせよ、病中にでき上ったものが、病中の本人にはどれほど得意であっても、それが専門家の眼に整って(ことに現代的に整って)映るとは無論思わない。
けれども余が病中に作り得た俳句と漢詩の価値は、余自身から云うと、全くその出来不出来に関係しないのである。
平生はいかに心持の好くない時でも、いやしくも
塵事に
堪え得るだけの健康をもっていると自信する以上、またもっていると人から認められる以上、われは
常住日夜共に
生存競争裏に立つ悪戦の人である。
仏語で形容すれば絶えず
火宅の
苦を受けて、夢の中でさえいらいらしている。時には人から勧められる事もあり、たまには
自ら進む事もあって、ふと十七字を並べて見たりまたは
起承転結の四句ぐらい組み合せないとも限らないけれどもいつもどこかに
間隙があるような心持がして、
隈も残さず心を
引き
包んで、詩と句の中に放り込む事ができない。それは歓楽を
嫉む実生活の鬼の影が風流に
纏るためかも知れず、または句に熱し詩に狂するのあまり、かえって句と詩に
翻弄されて、いらいらすまじき風流にいらいらする結果かも知れないが、それではいくら
佳句と
好詩ができたにしても、
贏ち
得る当人の愉快はただ二三
同好の評判だけで、その評判を差し引くと、
後に残るものは多量の不安と苦痛に過ぎない事に帰着してしまう。
ところが病気をするとだいぶ趣が違って来る。病気の時には自分が一歩現実の世を離れた気になる。
他も自分を一歩社会から遠ざかったように大目に見てくれる。こちらには
一人前働かなくてもすむという安心ができ、向うにも一人前として取り扱うのが気の毒だという遠慮がある。そうして健康の時にはとても望めない
長閑かな春がその間から
湧いて出る。この安らかな心がすなわちわが句、わが詩である。したがって、
出来栄の
如何はまず
措いて、できたものを太平の記念と見る当人にはそれがどのくらい
貴いか分らない。病中に得た句と詩は、退屈を
紛らすため、
閑に
強いられた仕事ではない。実生活の圧迫を逃れたわが心が、本来の自由に
跳ね返って、むっちりとした余裕を得た時、
油然と
漲ぎり浮かんだ
天来の
彩紋である。吾ともなく興の起るのがすでに
嬉しい、その興を
捉えて横に
咬み
竪に
砕いて、これを句なり詩なりに仕立上げる順序過程がまた嬉しい。ようやく成った暁には、形のない
趣を
判然と眼の前に創造したような心持がしてさらに嬉しい。はたしてわが趣とわが形に真の価値があるかないかは顧みる
遑さえない。
病中は知ると知らざるとを通じて四方の同情者から懇切な
見舞を受けた。衰弱の今の身ではその一々に一々の好意に
背かないほどに
詳しい礼状を出して、自分がつい死にもせず
今日に至った経過を報ずる訳にも行かない。「思い出す事など」を
牀上に書き始めたのは、これがためである。――
各々に向けて云い送るべきはずのところを、略して
文芸欄の一隅にのみ載せて、余のごときもののために時と心を使われたありがたい人々にわが近況を知らせるためである。
したがって「思い出す事など」の中に詩や俳句を
挟むのは、単に詩人俳人としての余の立場を見て貰うつもりではない。実を云うとその善悪などはむしろどうでも
好いとまで思っている。ただ当時の余はかくのごとき情調に支配されて生きていたという消息が、
一瞥の
迅きうちに、読者の胸に伝われば満足なのである。
秋の
江に打ち込む
杭の響かな
これは生き返ってから約十日ばかりしてふとできた句である。澄み渡る秋の空、広き江、遠くよりする杭の響、この三つの
事相に相応したような情調が当時絶えずわが
微かなる頭の中を
徂徠した事はいまだに覚えている。
秋の空
浅黄に澄めり杉に
斧
これも同じ心の
耽りを
他の言葉で云い現したものである。
別るるや
夢一筋の天の川
何という意味かその時も知らず、今でも分らないが、あるいは
仄に
東洋城と別れる折の連想が夢のような頭の中に
這回って、
恍惚とでき上ったものではないかと思う。
当時の余は西洋の語にほとんど見当らぬ風流と云う趣をのみ愛していた。その風流のうちでもここに
挙げた句に現れるような一種の趣だけをとくに愛していた。
秋風や
唐紅の
咽喉仏
という句はむしろ実況であるが、何だか殺気があって
含蓄が足りなくて、口に浮かんだ時からすでに変な心持がした。
風流人未死。 病裡領清閑。
日々山中事。 朝々見碧山。
詩に
圏点のないのは
障子に紙が
貼ってないような
淋しい感じがするので、自分で丸を付けた。余のごとき
平仄もよく
弁えず、
韻脚もうろ覚えにしか覚えていないものが何を苦しんで、支那人にだけしか
利目のない
工夫をあえてしたかと云うと、実は自分にも分らない。けれども(平仄
韻字はさておいて)、詩の
趣は王朝以後の伝習で久しく日本化されて
今日に至ったものだから、吾々くらいの年輩の日本人の頭からは、容易にこれを奪い去る事ができない。余は平生事に追われて簡易な俳句すら作らない。詩となると
億劫でなお手を
下さない。ただ
斯様に現実界を遠くに見て、
杳な心にすこしの
蟠りのないときだけ、句も自然と
湧き、詩も興に乗じて種々な形のもとに浮んでくる。そうして
後から顧みると、それが自分の
生涯の
中で一番幸福な時期なのである。風流を盛るべき
器が、
無作法な十七字と、
佶屈な漢字以外に日本で発明されたらいざ知らず、さもなければ、余はかかる時、かかる場合に臨んで、いつでもその無作法とその佶屈とを忍んで、風流を
這裏に楽しんで悔いざるものである。そうして日本に他の
恰好な詩形のないのを
憾みとはけっして思わないものである。
始めて読書欲の
萌した頃、東京の
玄耳君から小包で
酔古堂剣掃と
列仙伝を送ってくれた。この列仙伝は
帙入の
唐本で、少し手荒に取扱うと紙がぴりぴり破れそうに見えるほどの古い――古いと云うよりもむしろ汚ない――本であった。余は寝ながらこの汚ない本を取り上げて、その中にある仙人の
挿画を一々
丁寧に見た。そうしてこれら仙人の
髯の模様だの、頭の
恰好だのを互に比較して楽んだ。その時は
画工の筆癖から来る特色を忘れて、こう云う頭の平らな男でなければ仙人になる資格がないのだろうと思ったり、またこう云う
疎な髯を風に吹かせなければ仙人の
群に
入る事は
覚束ないのだろうと思ったりして、ひたすら彼等の
容貌に表われてくる共通な骨相を
飽かず眺めた。本文も無論読んで見た。平生気の短かい時にはとても見出す事のできない
悠長な心をめでたく意識しながら読んで見た。――余は今の青年のうちに列仙伝を一枚でも読む勇気と時間をもっているものは一人もあるまいと思う。年を取った余も実を云うとこの時始めて列仙伝と云う書物を開けたのである。
けれども惜しい事に本文は挿画ほど
雅に行かなかった。中には欲の
塊が
羽化したような俗な仙人もあった。それでも読んで行くうちには多少気に入ったのもできてきた。一番
無雑作でかつおかしいと思ったのは、何ぞと云うと、手の
垢や
鼻糞を丸めて
丸薬を作って、それを人にやる道楽のある仙人であったが、今ではその名を忘れてしまった。
しかし
挿画よりも本文よりも余の注意を
惹いたのは巻末にある附録であった。これは手軽にいうと
長寿法とか
養生訓とか称するものを諸方から取り集めて来て、いっしょに並べたもののように思われた。もっとも仙に化するための注意であるから、普通の深呼吸だの冷水浴だのとは違って、すこぶる抽象的で、実際解るとも解らぬとも片のつかぬ文字であるが、病中の余にはそれが面白かったと見えて、その二三節をわざわざ日記の中に書き抜いている。日記を
検べて見ると「
静これを
性となせば心
其中にあり、
動これを心となせば性其中にあり、心
生ずれば性
滅し、心滅すれば性生ず」というようなむずかしい漢文が曲がりくねりに
半頁ばかりを
埋めている。
その時の余は
印気の切れた
万年筆の端を
撮んで、ペン先へ墨の通うように一二度
揮るのがすこぶる苦痛であった。実際健康な人が片手で
樫の六尺棒を振り廻すよりも
辛いくらいであった。それほど衰弱の
劇しい時にですら、わざわざとこんな
道経めいた文句を写す余裕が心にあったのは、今から考えても
真に愉快である。子供の時
聖堂の図書館へ通って、
徂徠の
園十筆をむやみに写し取った昔を、
生涯にただ一度繰り返し得たような心持が起って来る。昔の余の
所作が単に写すという以外には全く無意味であったごとく、病後の余の所作もまたほとんど同様に無意味である。そうしてその無意味なところに、余は一種の価値を見出して喜んでいる。
長生の
工夫のための列仙伝が、長生もしかねまじきほど
悠長な心の
下に、病後の余からかく気楽に取扱われたのは、余に取って全くの偶然であり、また再び
来るまじき奇縁である。
仏蘭西の老画家アルピニーはもう九十一二の高齢である。それでも
人並の気力はあると見えて、この間のスチュージオには
目醒しい木炭画が十種ほど載っていた。
国朝六家詩鈔の初にある
沈徳潜の序には、
乾隆丁亥夏五長洲沈徳潜書す時に年九十有五。とわざわざ断ってある。
長生の結構な事は云うまでもない。長生をしてこの二人のように頭がたしかに使えるのはなおさらめでたい。
不惑の
齢を越すと間もなく死のうとして、わずかに助かった余は、これからいつまで生きられるか
固より分らない。思うに一日生きれば一日の結構で、二日生きれば二日の結構であろう。その上頭が使えたらなおありがたいと云わなければなるまい。ハイズンは世間から二
返も死んだと評判された。一度は
弔詩まで作ってもらった。それにもかかわらず彼は依然として生きていた。余も当時はある新聞から死んだと書かれたそうである。それでも実は死なずにいた。そうして列仙伝を読んで子供の時の無邪気な努力を繰り返し得るほどに生き延びた。それだけでも弱い余に取っては非常な幸福である。その頃ある知らない人から、先生死にたもう事なかれ、先生死にたもうことなかれと書いた見舞を受けた。余は列仙伝を読むべく生き延びた余を
悦ぶと同時に、この同情ある青年のために生き延びた余を悦んだ。
ウォードの著わした社会学の標題には
力学的という形容詞をわざわざ
冠してあるが、これは普通の社会学でない、力学的に論じたのだという事を特に断ったものと思われる。ところがこの本のかつて
魯西亜語に翻訳された時、
魯国の当局者は
直ちにその発売を禁止してしまった。著者は不審の念に打たれて、その理由を
在魯の友人に聞き合せた。すると友人から、自分にもよくは分らぬが、おそらく標題に力学的という字と
社会学という字があるので、当局者は一も二もなくダイナマイト及び社会主義に関係のある恐ろしい著述と速断して、この暴挙をあえてしたのだろうという返事が来たそうである。
魯国の当局者ではないが、余もこの力学的という言葉には少からぬ注意を払った一人である。平生から一般の学者がこの一字に着眼しないで、あたかも動きの取れぬ死物のように、研究の材料を取り扱いながらかえって平気でいるのを、常に
飽き足らず眺めていたのみならず、自分と親密の関係を有する文芸上の議論が、ことにこの
弊に
陥りやすく、また陥りつつあるように見えるのを
遺憾と批判していたから、参考のため、一度は魯国当局者を恐れしめたというこの力学的社会学なるものを一読したいと思っていた。実は自分の
恥を白状するようではなはだきまりが悪いが、これはけっして新しい本ではない。製本の
体裁からしてがすでにスペンサーの
綜合哲学に類した古風なものである。けれどもまた恐ろしく
分厚に書き上げた著作で、上下二巻を通じて千五百頁ほどある大冊子だから、四五日はおろか一週間かかっても楽に読みこなす事はでき
悪い。それでやむをえず時機の来るまでと思って、本箱の中へしまっておいたのを、小説類に興味を
失したこの頃の読物としては適当だろうとふと考えついたので、それを
宅から取り寄せてとうとう
力学的に
社会学を病院で研究する事にした。
ところが読み出して見ると、恐ろしく玄関の広い前置の長い本であった。そうして
肝心の社会学そのものになるとすこぶる不完全で、かつせっかくの頼みと思っているいわゆる力学的がはなはだ心細くなるほどに手荒に取扱われていた。今更ウォードの著述に批評を
下すのは余の目的でない、ただついでに云うだけではあるが、今に本当の力学的が出るだろう、今に高潮の力学的が出るだろうと、どこまでも著者を信用して、とうとう千五百頁の最後の一頁の最後の文字まで読み抜けて、そうして期待したほどのものがどこからも出て来なかった時には、ちょうどハレー
彗星の尾で地球が包まれべき当日を、何の変化もなく無事に経過したほどあっけない心持がした。
けれども道中は、道草を食うべく余儀なくされるだけそれだけ多趣多様で面白かった。その
中で
宇宙創造論と云う
厳めしい標題を掲げた所へ来た時、余は覚えず
昔し学校で先生から教わった
星雲説の記憶を呼び起して微笑せざるを得なかった。そうしてふと考えた。――
自分は今危険な病気からやっと回復しかけて、それを非常な
仕合のように喜んでいる。そうして自分の
癒りつつある間に、容赦なく死んで行く知名の人々や惜しい人々を今少し生かしておきたいとのみ
冀っている。自分の
介抱を受けた妻や医者や看護婦や若い人達をありがたく思っている。世話をしてくれた
朋友やら、見舞に来てくれた
誰彼やらには
篤い感謝の念を抱いている。そうしてここに人間らしいあるものが
潜んでいると信じている。その
証拠にはここに始めて生き
甲斐のあると思われるほど深い強い快よい感じが
漲っているからである。
しかしこれは人間相互の関係である。よし
吾々を宇宙の本位と見ないまでも、現在の吾々以外に頭を出して、世界のぐるりを見回さない時の内輪の
沙汰である。
三世に
亘る生物全体の進化論と、(ことに)物理の原則に
因って無慈悲に運行し情義なく発展する太陽系の歴史を基礎として、その間に
微かな生を営む人間を考えて見ると、吾らごときものの一喜一憂は無意味と云わんほどに勢力のないという事実に気がつかずにはいられない。
限りなき
星霜を経て
固まりかかった地球の皮が熱を得て溶解し、なお
膨脹して
瓦斯に変形すると同時に、他の天体もまたこれに等しき革命を受けて、
今日まで分離して運行した軌道と軌道の間が
隙間なく
充たされた時、今の秩序ある太陽系は
日月星辰の区別を失って、
爛たる一大火雲のごとくに
盤旋するだろう。さらに想像を
逆さまにして、この星雲が熱を失って収縮し、収縮すると共に回転し、回転しながらに外部の
一片を振りちぎりつつ進行するさまを思うと、海陸空気歴然と整えるわが地球の昔は、すべてこれ
々たる
一塊の瓦斯に過ぎないという結論になる。面目の
髣髴たる今日から
溯って、科学の法則を、想像だも及ばざる昔に
引張れば、
一糸も乱れぬ普遍の理で、山は山となり、水は水となったものには違かなろうが、この山とこの水とこの空気と太陽の
御蔭によって生息する
吾ら人間の運命は、吾らが生くべき条件の備わる間の一瞬時――
永劫に展開すべき宇宙歴史の長きより見たる一瞬時――を
貪ぼるに過ぎないのだから、はかないと云わんよりも、ほんの偶然の命と評した方が当っているかも知れない。
平生の吾らはただ人を相手にのみ生きている。その生きるための空気については、あるのが当然だと思っていまだかつて
心遣さえした事がない。その
心根を
糺すと、吾らが生れる以上、空気は無ければならないはずだぐらいに観じているらしい。けれども、この空気があればこそ人間が生れるのだから、実を云えば、人間のためにできた空気ではなくて、空気のためにできた人間なのである。今にもあれこの空気の成分に多少の変化が起るならば、――地球の歴史はすでにこの変化を予想しつつある――
活溌なる酸素が地上の固形物と
抱合してしだいに減却するならば、炭素が植物に吸収せられて黒い石炭層に運び去らるるならば、
月球の表面に
瓦斯のかからぬごとくに、吾らの世界もまた冷却し尽くすならば、吾らはことごとく死んでしまわねばならない。今の余のように生き延びた自分を祝い、遠く
逝く他人を悲しみ、友を
懐しみ敵を
悪んで、内輪だけの
活計に甘んじて得意にその日を渡る訳には行くまい。
進んで無機有機を通じ、動植両界を
貫き、それらを万里一条の鉄のごとくに
隙間なく発展して来た進化の歴史と
見傚すとき、そうして吾ら人類がこの大歴史中の単なる一
頁を
埋むべき材料に過ぎぬ事を自覚するとき、
百尺竿頭に
上りつめたと自任する人間の
自惚はまた急に脱落しなければならない。支那人が世界の地図を開いて、自分のいる所だけが中華でないと云う事を発見した時よりも、無気味な黒船が来て日本だけが神国でないという事を覚った時よりも、さらに
溯っては天動説が打ち壊されて、地球が宇宙の中心でなかった事を無理に
合点せしめられた時よりも、進化論を知り、星雲説を想像する現代の吾らは
辛きジスイリュージョンを
甞めている。
種類保存のためには個々の滅亡を意とせぬのが進化論の原則である。学者の例証するところによると、一
疋の
大口魚が毎年生む子の数は百万疋とか聞く。
牡蠣になるとそれが二百万の倍数に
上るという。そのうちで生長するのはわずか
数匹に過ぎないのだから、自然は経済的に非常な
濫費者であり、徳義上には恐るべく残酷な
父母である。人間の生死も人間を本位とする吾らから云えば大事件に相違ないが、しばらく立場を
易えて、自己が自然になり済ました気分で観察したら、ただ
至当の成行で、そこに喜びそこに悲しむ
理窟は
毫も存在していないだろう。
こう考えた時、余ははなはだ心細くなった。またはなはだつまらなくなった。そこでことさらに気分を易えて、この間
大磯で
亡くなった大塚夫人の事を思い出しながら、夫人のために
手向の句を作った。
有る程の菊抛げ入れよ棺の中
忘るべからざる八月二十四日の
来る二週間ほど前から余はすでに病んでいた。
縁側を絶えず通る湯治客に、吾姿を見せるのが
苦になって、
蒸し暑い時ですら
障子は常に
閉て切っていた。三度三度
献立を持って
誂を聞きにくる婆さんに、
二品三品口に合いそうなものを注文はしても、
膳の上に
揃った皿を眺めると共に、どこからともなく反感が起って、
箸を
執る気にはまるでなれなかった。そのうちに
嘔気が来た。
始めは
煎薬に似た
黄黒い水をしたたかに吐いた。吐いた
後は多少気分が
癒るので、いささかの物は
咽喉を越した。しかし越した
嬉しさがまだ消えないうちに、またそのいささかの胃の
滞うる重き苦しみに
堪え切れなくなって来た。そうしてまた吐いた。吐くものは大概水である。その色がだんだん変って、しまいには
緑青のような美くしい液体になった。しかも
一粒の飯さえあえて胃に送り得ぬ恐怖と用心の
下に、卒然として容赦なく食道を
逆さまに流れ出た。
青いものがまた色を変えた。始めて
熊の
胆を水に溶き込んだように黒ずんだ濃い汁を、
金盥になみなみと
反した時、医者は
眉を寄せて、こういうものが出るようでは、今のうち安静にして東京に帰った方が好かろうと注告した。余は金盥の中を
指していったい何が出るのかと質問した。医者は
興のない顔つきで、これは血だと答えた。けれども余の眼にはこの黒いものが血とは思えなかった。するとまた吐いた。その時は熊の胆の色が少し
紅を含んで、咽喉を出る時
腥い
臭がぷんと鼻を
衝いたので、余は胸を抑えながら自分で血だ血だと云った。
玄耳君が驚ろいて
森成さんに
坂元君を添えてわざわざ
修善寺まで寄こしてくれたのは、この報知が長距離電話で胃腸病院へ
伝って、そこからまた
直に社へ通じたからである。別館から
馳けて来た
東洋城が
枕辺に立って、今日東京から医者と社員が来るはずになったと知らしてくれた時は全く救われたような気がした。
この時の余はほとんど人間らしい複雑な命を有して生きてはいなかった。苦痛のほかは何事をも
容れ
得ぬほどに
烈しく活動する胸を
懐いて
朝夕悩んでいたのである。四十年来の経験を刻んでなお余りあると見えた余の頭脳は、ただこの
截然たる一苦痛を秒ごとに深く
印し
来るばかりを能事とするように思われた。したがって余の意識の内容はただ
一色の
悶に
塗抹されて、
臍上方三寸の
辺を日夜にうねうね行きつ戻りつするのみであった。余は明け暮れ自分の
身体の
中で、この部分だけを早く切り取って犬に投げてやりたい気がした。それでなければこの恐ろしい単調な意識を、一刻も早くどこへか打ちやってしまいたい気がした。またできるならば、このまま睡魔に
冒されて、前後も知らず一週間ほど寝込んで、しかる後
鷹揚な心持をゆたかに抱いて、
爽かな秋の日の光りに、両の眼を
颯と
開けたかった。少くとも汽車に揺られもせず車に乗せられもせず、すうと東京へ帰って、胃腸病院の一室に
這入って、そこに
仰向けに倒れていたかった。
森成さんが来てもこの苦しみはちょっと
除れなかった。胸の中を棒で
攪き
混ぜられるような、また胃の
腑が不規則な大波をその全面に向って層々と描き出すような、
異な心持に
堪えかねて、
床の上に起き返りながら、吐いて見ましょうかと云って、
腥いものを
面のあたり
咽喉の奥から
金盥の中に傾けた事もあった。森成さんの
御蔭でこの苦しみがだいぶ
退いた時ですら、動くたびに腥い
噫は常に鼻を
貫ぬいた。血は絶えず腸に向って流れていたのである。
この
煩悶に
比べると、忘るべからざる二十四日の出来事以後に生きた余は、いかに安住の地を得て静穏に生を営んだか分らない。その静穏の日がすなわち余の
一生涯にあって最も恐るべき危険の日であったのだと云う事を後から知った時、余は
下のような詩を作った。
円覚曾参棒喝禅。 瞎児何処触機縁。
青山不拒庸人骨。 回首九原月在天。
忘るべからざる二十四日の出来事を書こうと思って、原稿紙に向いかけると、何だか急に気が進まなくなったのでまた記憶を
逆まに向け直して、
後戻りをした。
東京を立つときから余は
劇しく咽喉を痛めていた。いっしょに来るべきはずでつい乗り
後れた
東洋城の電報を汽車中で受け取って、その意のごとくに
御殿場で一時間ほど待ち合せていた
間に、余は不用になった一枚の切符代を割り戻して貰うために、駅長室へ
這入って行った。するとそこに
腰囲何尺とでも形容すべきほど大きな西洋人が、
椅子に腰をかけてしきりに
絵端書の表に何か
認めていた。余は駅長に向って当用を弁ずる
傍、思いがけない所に思いがけない人がいるものだという好奇心を禁じ得なかった。するとその大男が突然立ち上がって、あなたは英語を話すかと聞くから、
嗄れた声でわずかにイエスと答えた。男は次にこれから京都へ行くにはどの汽車へ乗ったら好いか教えてくれと云った。はなはだ簡単な
用向であるから平生ならばどうとも
挨拶ができるのだけれども、声量を全く失っていた当時の余には、それが非常の困難であった。
固より云う事はあるのだから、何か云おうとするのだが、その云おうとする言葉が
咽喉を通るとき
千条に
擦り
切れでもするごとくに、口へ出て来る時分には全く
光沢を失ってほとんど用をなさなかった。余は英語に通ずる駅員の
助を
藉りて、ようやくのことこの大男を無事に京都へ送り届けた事とは思うが、その時の不愉快はいまだに忘れない。
修善寺に着いてからも
咽喉はいっこう好くならなかった。医者から薬を貰ったり、東洋城の
拵えてくれた手製の
含漱を用いたりなどして、
辛く日常の用を弁ずるだけの言葉を使ってすましていた。その頃修善寺には
北白川の
宮がおいでになっていた。東洋城は
始終そちらの方の
務に追われて、つい一丁ほどしか隔っていない菊屋の別館からも、容易に余の宿までは来る事ができない様子であった。すべてを片づけてから、夜の十時過になって、始めて
蚊
の外まで来て、
一言見舞を云うのが常であった。
そういう
夜の事であったか、または昼の話であったか今は忘れたが、ある時いつものように顔を合わせると、東洋城が突然、殿下からあなたに何か講話をして貰いたいという御注文があったと云い出した。この思いがけない
御所望を耳にした余は少からず驚いた。けれども自分でさえ聞かずにすめば、聞かずにいたいような不愉快な声を出して、殿下に御話などをする勇気はとても出なかった。その上
羽織も
袴も持ち合せなかった。そうして余のごとき位階のないものが、
妄りに
貴い殿下の前に出てしかるべきであるかないかそれが第一分らなかった。実際は東洋城も独断で先例のない事をあえてするのを
憚って、
確とした御受はしなかったのだそうである。
余の苦痛が咽喉から胃に移る間もなく、東洋城は
故郷にある母の
病を見舞うべく、去る人と入れ代ってひとまず東京に帰った。殿下もそれからほどなく
御立になった。そうして忘るべからざる二十四日の来た頃、東洋城は余に関する何の消息も知らずに、また東海道を汽車で西へ下って行った。その時彼は四五分の停車時間を
偸んで、三島から余にわざわざ一通の手紙を書いた。その手紙は途中で紛失してしまって、つい宿へ着かなかったけれども、東洋城が
御暇乞に上がった時、余の病気の事を御忘れにならなかった殿下から、もし
逢う機会があったなら、どうか大事にするようにというような
篤い意味の御言葉を承ったため、それをわざわざ病中の余に知らせたのだそうである。咽喉の病も
癒え、胃の苦しみも去った今の余は、
謹んで殿下に御礼を申上げなければならない。また殿下の健康を祈らなければならない。
雨がしきりに降った。裏山の絶壁を
真逆に
下る
筧の竹が、青く冷たく光って見えた幾日を、
物憂く
室の中に
呻吟しつつ暮していた。人が
寝静まると始めて夢を
襲う(
欄干から六尺余りの所を流れる)水の音も、風と雨に打ち消されて全く聞えなくなった。そのうち水が出るとか出たとか云う声がどこからともなく耳に響いた。
お
仙と云う下女が来て、
昨夕桂川の水が増したので門の前の
小家ではおおかたの荷を
拵えて、預けに来たという話をした。ついでにどことかでは家がまるで流されてしまって、そうしてその家の宝物がどことかから掘り出されたと云う話もした。この下女は伊東の生れで、浜辺か畑中に立って人を呼ぶような大きな声を出す癖のあるすこぶる殺風景な女であったが、雨に
鎖された山の中の宿屋で、こういう昔の物語めいた、
嘘か
真か分らないことを聞かされたときは、
御伽噺でも読んだ子供の時のような気がして、何となく古めかしい
香に包まれた。その上家が流されたのがどこで、宝物を掘出したのがどこか、まるで不明なのをいっこう構わずに、それが当然であるごとくに話して行く様子が、いかにも自分の今いる
温泉の宿を、浮世から遠くへ
離隔して、どんな
便りも
噂のほかには
這入ってこられない山里に変化してしまったところに一種の面白味があった。
とかくするうちにこの
楽い空想が、不便な事実となって現れ始めた。東京から来る郵便も新聞もことごとく
後れ出した。たまたま着くものは墨がにじむほどびしょびしょに
濡れていた。湿った
頁を破けないように開けて見て、始めて都には今
洪水が
出盛っているという報道を、
鮮やかな活字の上にまのあたり見たのは、
何日の事であったか、今たしかには覚えていないけれども、不安な未来を眼先に
控えて、その日その日の
出来栄を案じながら病む身には、けっして
嬉しい便りではなかった。夜中に胃の痛みで自然と眼が
覚めて、
身体の置所がないほど
苦い時には、東京と自分とを
繋ぐ交通の縁が当分切れたその頃の状態を、多少心細いものに観じない訳に行かなかった。余の病気は帰るには余り
劇し過ぎた。そうして東京の方から余のいる所まで来るには、道路があまり
打壊れ過ぎた。のみならず東京その物がすでに水に
浸っていた。余はほとんど
崖と共に
崩れる
吾家の光景と、
茅が
崎で海に押し流されつつある吾子供らを、夢に見ようとした。雨のしたたか降る前に余は
妻に宛てて手紙を出しておいた。それには好い部屋がないから四五日したら帰ると書いた。また病気が再発して
苦んでいると云う事はわざと知らせずにおいた。そうしてその手紙も着いたか着かないか分らないくらいに考えて寝ていた。
そこへ電報が来た。それは恐るべき長い時間と労力を
費して、やっとの事無事に
宛名の人に通ずるや否や、その宛名の人をして封を切らぬ先に少しはっと思わせた電報であった。しかし中は、今度の水害でこちらは無事だが、そちらはどうかという、見舞と
平信をかねたものに過ぎなかった。出した局の名が本郷とあるのを見てこれは
草平君を
煩わしたものと知った。
雨はますます降り続いた。余の病気はしだいに悪い方へ
傾いて行った。その時、余は夜の十二時頃長距離電話をかけられて、
硬い胸を抑えながら受信器を耳に着けた。茅ヶ崎の子供も無事、東京の家も無事という事だけが
微かに分った。しかしその他は全く不得要領で、ほとんど風と話をするごとくに
纏まらない雑音がぼうぼうと鼓膜に響くのみであった。第一かけた当人がわが
妻であるという事さえ
覚らずにこちらからあなたという敬語を何遍か繰返したくらい
漠然した電話であった。東京の
音信が雨と風と洪水の中に、悩んでいる余の眼に始めて暸然と映ったのは、坐る暇もないほど
忙しい思いをした妻が、当時の事情をありのままに
認めた
巨細の手紙がようやく余の手に落ちた時の事であった。余はその手紙を見て自分の
病を忘れるほど驚いた。
病んで夢む天の川より出水かな
妻の手紙は全部の引用を許さぬほど長いものであった。冒頭に東洋城から余の病気の報知を受けた由と、それがため少からず心を悩ましている
旨を記して、看病に行きたいにも汽車が不通で仕方がないから、せめて電話だけでもと思って、その日の中には通じかねるところを、無理な至急報にして
貰って、
夜半に山田の奥さんの所からかけたという説明が書いてあった。
茅ヶ崎にいる子供の安否についても
一方ならぬ心配をしたものらしかった。
十間坂下という所は水害の恐れがないけれども、もし万一の事があれば、郵便局から電報で宅まで知らせて貰うはずになっていると、余に安心させるため、わざわざ断ってあった。そのほか市中たいていの
平地は水害を受けて、現に江戸川通などは
矢来の交番の少し下まで
浸ったため、舟に乗って
往来をしているという報知も書き込んであった。しかしその頃は
後れながらも新聞が着いたから、一般の模様は妻の便りがなくてもほぼ分っていた。余の心を動かすべき現象は
漠然たる大社会の雨や水やと戦う有様にあると云うよりも、むしろ
己だけに密接の関係ある個人の消息にあった。そうしてその個人の二人までに、この雨と水が命の
間際まで
祟った
顛末を、余はこの書面の
中に見出したのである。
一つは横浜に
嫁いだ妻の妹の運命に関した報知であった。手紙にはこう書いてある。
「……梅子事
末の弟を
伴れて
塔の
沢の
福住へ参り居り
候処、水害のため福住は
浪に押し流され、
浴客六十名のうち十五名
行方不明との事にて、生死の程も分らず、
如何とも致し方なく、横浜へは汽車不通にて参る事
叶わず、電話は申込者多数にて一日を待たねば通じ
不申……」
後には、いろいろ込み入った
工面をして電話をかけた手続が書いてあって、その末に会社の小使とかが徒歩で箱根まで探しに行ったあげく、幽霊のように
哀れな姿をした
彼女を伴れて戻った模様が述べてあった。余はそこまで読んで来て、つい二三日前宿の下女から、ある所で水が出て家が流されて、その家の宝物がまたある所から掘り出されたという昔話のような物語を聞きながら、その裏には自分と利害の糸を
絡み
合せなければならない恐ろしい事実が
潜んでいるとも気がつかずに、
尾頭もない夢とのみ打ち興じてすましていた自分の無智に驚いた。またその無智を人間に
強いる運命の威力を恐れた。
もう一つ余の心を
躍らしたのは、草平君に関する
報知であった。
妻が本郷の親類で用を足した帰りとかに、水見舞のつもりで
柳町の低い町から草平君の住んでいる通りまで来て、ここらだがと思いながら、表から奥を
覗いて見ると、かねて
見覚のある家がくしゃりと
潰れていたそうである。
「
家の人達は無事ですか、どこへ行きましたかと聞いたら、
薪屋の
御上さんが、昨晩の十二時頃に
崖が
崩れましたが、幸いにどなたも
御怪我はございません。ひとまず柳町のこういう所へ御引移りになりましたと、教えてくれましたから、柳町へ来て見ると、まだ水の引き切らない
床下のぴたぴたに
濡れた貸家に
畳建具も何も入れずに、荷物だけ運んでありました。実に何と云って好いか
憐れな姿でお
種さんが、
私の顔を見ると
馳け出して来ました。……晩の御飯を
拵える事もできないだろうと思って、
御寿司を
誂えて御夕飯の代りに上げました……」
草平君は
平生から崖崩れを恐れて、できるだけ表へ寄って寝るとか聞いていたが、家の
潰れた時には、
外のものがまるで無難であったにもかかわらず、自分だけは少し顔へ
怪我をしたそうである。その怪我の事も手紙の
中に書いてあった。余はそれを読んで怪我だけでまず仕合せだと思った。
家を流し崖を崩す
凄まじい雨と水の中に都のものは幾万となく恐るべき叫び声を
揚げた。同じ雨と同じ水の中に余と関係の深い二人は身をもって
免れた。そうして余は
毫も二人の災難を知らずに、遠い
温泉の村に雲と
煙と、雨の糸を眺め暮していた。そうして二人の安全であるという
報知が着いたときは、余の
病がしだいしだいに危険の方へ進んで行った時であった。
風に聞け何れか先に散る木の葉
つづく雨の
或る
宵に、すこし
病の
閑を
偸んで、下の風呂場へ降りて見ると、
半切を三尺ばかりの
長に切って、それを細長く
竪に
貼りつけた壁の色が、暗く映る
灯の陰に、ふと余の視線を
惹いた。余は
湯壺の
傍に立ちながら、
身体を
濡めす前に、まずこの異様の広告めいたものを読む気になった。真中に
素人落語大会と書いて、その下に
催主裸連と記してある。場所は「山荘にて」と断って、
催しのあるべき日取をその傍に書き添えた。余はすぐ裸連の
何人なるかを
覚り得た。裸連とは余の隣座敷にいる泊り客の自撰にかかる
異名である。
昨日の
午襖越に聞いていると、
太郎冠者がどうのこうのと長い評議の末、そこんところでやるまいぞ、やるまいぞにしたら好いじゃねえかと云うような相談があった。その
趣向は寝ている余とは
固より無関係だから、知ろうはずもなかったが、とにかくこの議決が山荘での
催しに一異彩を加えた事はたしかに違ないと思った。余は風呂場の
貼紙に注意してある日付と、
裸連の趣向を
凝らしていた時刻を照らし合せつつ、この落語会なるものの、すでに
滞りなくすんだ昨日の午後を顧みて、裸連――少くとも裸連の首脳の
構成る隣座敷の泊り客……の成功を祝せざるを得なかった。
この泊り客は
五人連で
一間に
這入っていた。その
中の一番
年嵩に見える三十代の男に、その妻君と娘を合せるとすでに三人になる。妻君は
品のいい静かな女であった。子供はなおさらおとなしかった。その代り夫はすこぶる騒々しかった。あとの二人はいずれも二十代の青年で、その一人は一行のうちでもっともやかましくふるまっていた。
誰でも中年以後になって、二十一二時代の自分を眼の前に
憶い浮べて見ると、いろいろ回想の
簇がる中に、
気恥かしくて冷汗の流れそうな一断面を見出すものである。余は隣の
室に
呻吟しながら、この若い男の言葉使いや
起居を注意すべく余儀なくされた結果として、二十年の昔に経過した、自分の
生涯のうちで、はなはだ不面目と思わざるを得ない生意気さ加減を今更のように恐れた。
この男は何の必要があってか知らないけれども、絶えず
大道で講演でもするように大きな声を出して得意であった。そうして下女が来ると、必ず
通客めいた
粋がりを連発した。それを
隣坐敷で聞いていると、ウィットにもならなければヒューモーにもなっていないのだから、いかにも無理やりに、(しかも大得意に、)
半可もしくは
四半可を殺風景に
怒鳴りつけているとしか思われなかった。ところが下女の方では、またそれを聞くたびに不必要にふんだんな笑い方をした。本気とも
御世辞とも片のつかない笑い方だけれども、声帯に異状のあるような恐ろしい笑い方をした。病気にのみ
屈託する余も、これには少からず悩まされた。
裸連の一部は下座敷にもいた。すべてで九人いるので、
自ら九人組とも
称えていた。その九人組が丸裸になって幅六尺の
縁側へ出て踊をおどって一晩
跳ね廻った。便所へ行く必要があって、
障子の外へ出たら、九人組は
躍り
草臥れて、
素裸のまま縁側に
胡坐をかいていた。余は邪魔になる
尻や
脛の間を
跨いで用を足して来た。
長い雨がようやく
歇んで、東京への汽車がほぼ通ずるようになった頃、裸連は九人とも申し合せたように、どっと東京へ引き上げた。それと入れ代りに、森成さんと
雪鳥君と
妻とが前後して東京から来てくれた。そうして裸連のいた部屋を借り切った。その次の部屋もまた借り切った。しまいには新築の二階座敷を
四間ともに
吾有とした。余は比較的閑寂な月日の
下に、
吸飲から牛乳を飲んで生きていた。一度は
匙で突き
砕いた
水瓜の底から
湧いて出る赤い汁を飲まして
貰った。
弘法様で花火の
揚った
宵は、縁近く寝床を
摺らして、横になったまま、
初秋の
天を
夜半近くまで見守っていた。そうして忘るべからざる二十四日の来るのを無意識に待っていた。
萩に置く露の重きに病む身かな
その日は東京から杉本さんが診察に来る
手筈になっていた。雪鳥君が
大仁まで
迎に出たのは何時頃か覚えていないが、山の中を照らす日がまだ山の下に隠れない
午過であったと思う。その山の中を照らす日を、床を離れる事のできない、また
室を出る事の
叶わない余は、朝から晩までほとんど仰ぎ見た試しがないのだから、こう云うのも実は
廂の先に余る空の
端だけを
目当に想像した
刻限である。――余は
修善寺に
二月と
五日ほど滞在しながら、どちらが東で、どちらが西か、どれが伊東へ越す山で、どれが下田へ出る街道か、まるで知らずに帰ったのである。
杉本さんは予定のごとく宿へ着いた。余はその少し前に、
妻の手から
吸飲を受け取って、細長い
硝子の口から
生温い牛乳を一合ほど飲んだ。血が出てから、安静状態と流動食事とは固く守らなければならない
掟のようになっていたからである。その上できるだけ病人に営養を与えて、体力の回復の方から、
潰瘍の出血を抑えつけるという療治法を受けつつあった際だから、
否応なしに飲んだ。実を云うとこの日は朝から食慾が
萌さなかったので、吸飲の中に、動く事のできぬほど濁った白い色の
漲ぎる様を見せられた時は、すぐと重苦しく舌の先に
溜るしつ
濃い乳の味を予想して、手に取らない前からすでに反感を起した。強いられた時、余はやむなく細長く
反り
返った硝子の
管を傾けて、湯とも水とも
捌けない
液を、舌の上に
辷らせようと試みた。それが流れて
咽喉を
下る
後には、
潔よからぬ
粘り強い
香が
妄りに残った。半分は口直しのつもりであとから
氷クリームを一杯取って貰った。ところがいつもの
爽かさに引き更えて、
咽喉を越すときいったん
溶けたものが、胃の中で再び固まったように妙に落ちつきが悪かった。それから二時間ほどして余は杉本さんの診察を受けたのである。
診察の結果として意外にもさほど悪くないと云う報告を得た時、平生森成さんから病気の
質が面白くないと聞いていた雪鳥君は、喜びの余りすぐ社へ向けて好いという電報を打ってしまった。忘るべからざる八百グラムの吐血は、この吉報を逆襲すべく、診察後一時間後の暮方に、突如として起ったのである。
かく多量の血を一度に吐いた余は、その暮方の光景から、日のない真夜中を通して、明る日の天明に至る有様を
巨細残らず記憶している気でいた。
程経て
妻の
心覚につけた日記を読んで見て、その中に、ノウヒンケツ(
狼狽した妻は脳貧血をかくのごとく書いている)を起し人事不省に
陥るとあるのに気がついた時、余は妻は
枕辺に呼んで、当時の模様を
委しく聞く事ができた。徹頭徹尾
明暸な意識を有して注射を受けたとのみ考えていた余は、実に三十分の長い間死んでいたのであった。
夕暮間近く、にわかに胸苦しいある物のために襲われた余は、
悶えたさの余りに、せっかく親切に床の
傍に
坐っていてくれた妻に、暑苦しくていけないから、もう少しそっちへ
退いてくれと
邪慳に命令した。それでも
堪えられなかったので、安静に身を
横うべき医師からの注意に
背いて、
仰向の
位地から右を下に寝返ろうと試みた。余の記憶に
上らない人事不省の状態は、寝ながら
向を換えにかかったこの努力に伴う脳貧血の結果だと云う。
余はその時さっと
迸しる血潮を、驚ろいて余に寄り添おうとした妻の
浴衣に、べっとり
吐きかけたそうである。雪鳥君は声を
顫わしながら、奥さんしっかりしなくてはいけませんと云ったそうである。社へ電報をかけるのに、手が
戦いて字が書けなかったそうである。医師は追っかけ追っかけ注射を試みたそうである。後から森成さんにその数を聞いたら、十六
筒までは覚えていますと答えた。
淋漓絳血腹中文。 嘔照黄昏漾綺紋。
入夜空疑身是骨。 臥牀如石夢寒雲。
眼を開けて見ると、右向になったまま、
瀬戸引の
金盥の中に、べっとり血を吐いていた。金盥が枕に近く押付けてあったので、血は鼻の先に鮮かに見えた。その色は
今日までのように酸の作用を
蒙った
不明暸なものではなかった。白い底に大きな動物の
肝のごとくどろりと固まっていたように思う。その時枕元で
含嗽を上げましょうという森成さんの声が聞えた。
余は黙って含嗽をした。そうして、つい今しがた
傍にいる妻に、少しそっちへ退いてくれと云ったほどの
煩悶が
忽然どこかへ消えてなくなった事を自覚した。余は何より先にまあよかったと思った。金盥に吐いたものが鮮血であろうと何であろうと、そんな事はいっこう気にかからなかった。日頃からの苦痛の
塊を一度にどさりと打ちやり切ったという落ちつきをもって、枕元の人がざわざわする様子をほとんどよそごとのように見ていた。余は右の胸の上部に大きな針を刺されてそれから多量の食塩水を注射された。その時、食塩を注射されるくらいだから、多少危険な
容体に
逼っているのだろうとは思ったが、それもほとんど心配にはならなかった。ただ
管の先から水が
洩れて肩の方へ流れるのが
厭であった。左右の腕にも注射を受けたような気がした。しかしそれは
確然覚えていない。
妻が杉本さんに、これでも元のようになるでしょうかと聞く声が耳に
入った。さよう
潰瘍ではこれまで随分多量の血を
止めた事もありますが……と云う杉本さんの返事が聞えた。すると床の上に釣るした電気灯がぐらぐらと動いた。
硝子の中に
彎曲した一本の光が、
線香煙花のように
疾く
閃めいた。余は生れてからこの時ほど強くまた恐ろしく光力を感じた事がなかった。その
咄嗟の
刹那にすら、
稲妻を
眸に焼きつけるとはこれだと思った。時に突然電気灯が消えて気が遠くなった。
カンフル、カンフルと云う杉本さんの声が聞えた。杉本さんは余の右の
手頸をしかと握っていた。カンフルは非常によく
利くね、注射し切らない内から、もう反響があると杉本さんがまた森成さんに云った。森成さんはええと答えたばかりで、別にはかばかしい返事はしなかった。それからすぐ電気灯に紙の
蔽をした。
傍がひとしきり静かになった。余の左右の手頸は二人の医師に絶えず握られていた。その二人は眼を閉じている余を中に
挟んで
下のような話をした(その単語はことごとく
独逸語であった)。
「弱い」
「ええ」
「駄目だろう」
「ええ」
「子供に会わしたらどうだろう」
「そう」
今まで落ちついていた余はこの時急に心細くなった。どう考えても余は死にたくなかったからである。またけっして死ぬ必要のないほど、楽な気持でいたからである。医師が余を
昏睡の状態にあるものと思い誤って、
忌憚なき話を続けているうちに、
未練な余は、
瞑目不動の姿勢にありながら、
半無気味な夢に襲われていた。そのうち自分の生死に関する
斯様に大胆な批評を、第三者として床の上にじっと聞かせられるのが苦痛になって来た。しまいには多少腹が立った。徳義上もう少しは遠慮してもよさそうなものだと思った。ついに先がそう云う
料簡ならこっちにも考えがあるという気になった。――人間が今死のうとしつつある
間際にも、まだこれほどに機略を
弄し得るものかと、回復期に向った時、余はしばしば当夜の反抗心を思い出しては
微笑んでいる。――もっとも苦痛が全く取れて、
安臥の地位を平静に保っていた余には、充分それだけの余裕があったのであろう。
余は今まで閉じていた眼を急に開けた。そうしてできるだけ大きな声と
明暸な調子で、
私は子供などに会いたくはありませんと云った。杉本さんは何事をも意に介せぬごとく、そうですかと軽く答えたのみであった。やがて食いかけた食事を済まして来るとか云って
室を出て行った。それからは左右の手を左右に開いて、その一つずつを森成さんと雪鳥君に握られたまま、三人とも無言のうちに天明に達した。
冷やかな脈を護りぬ夜明方
強いて
寝返りを右に打とうとした余と、枕元の
金盥に鮮血を認めた余とは、
一分の
隙もなく連続しているとのみ信じていた。その間には一本の
髪毛を
挟む余地のないまでに、自覚が働いて来たとのみ心得ていた。ほど
経て
妻から、そうじゃありません、あの時三十分ばかりは死んでいらしったのですと聞いた折は全く驚いた。子供のとき
悪戯をして気絶をした事は二三度あるから、それから推測して、死とはおおかたこんなものだろうぐらいにはかねて想像していたが、半時間の長き間、その経験を繰返しながら、少しも気がつかずに一カ月あまりを当然のごとくに過したかと思うと、はなはだ不思議な心持がする。実を云うとこの経験――第一経験と云い得るかが疑問である。普通の経験と経験の間に挟まって
毫もその連結を
妨げ得ないほど内容に乏しいこの――余は何と云ってそれを形容していいかついに言葉に窮してしまう。余は眠から
醒めたという自覚さえなかった。
陰から
陽に出たとも思わなかった。
微かな
羽音、遠きに去る物の響、逃げて行く夢の
匂い、古い記憶の影、消える印象の
名残――すべて人間の神秘を叙述すべき表現を数え尽してようやく
髣髴すべき霊妙な
境界を通過したとは無論考えなかった。ただ
胸苦しくなって枕の上の頭を右に傾むけようとした次の瞬間に、赤い血を金盥の底に認めただけである。その間に
入り
込んだ三十分の死は、時間から云っても、空間から云っても経験の記憶として全く余に取って存在しなかったと一般である。妻の説明を聞いた時余は死とはそれほどはかないものかと思った。そうして余の頭の上にしかく卒然と
閃めいた生死二面の対照の、いかにも急劇でかつ没交渉なのに深く感じた。どう考えてもこの
懸隔った二つの現象に、同じ自分が支配されたとは納得できなかった。よし同じ自分が
咄嗟の際に二つの世界を横断したにせよ、その二つの世界がいかなる関係を有するがために、余をしてたちまち甲から乙に飛び移るの自由を得せしめたかと考えると、
茫然として自失せざるを得なかった。
生死とは
緩急、大小、寒暑と同じく、対照の連想からして、日常
一束に使用される言葉である。よし
輓近の心理学者の唱うるごとく、この二つのものもまた普通の対照と同じく同類連想の部に属すべきものと判ずるにしたところで、かく
掌を
翻えすと一般に、
唐突なるかけ離れた二
象面が前後して我を
擒にするならば、我はこのかけ離れた二象面を、どうして同性質のものとして、その関係を
迹付ける事ができよう。
人が余に一個の柿を与えて、今日は半分喰え、
明日は残りの半分の半分を喰え、その
翌日はまたその半分の半分を喰え、かくして毎日現に余れるものの半分ずつを喰えと云うならば、余は喰い出してから
幾日目かに、ついにこの命令に
背いて、残る全部をことごとく喰い尽すか、または半分に割る能力の極度に達したため、手を
拱いて
空しく
余れる柿の
一片を見つめなければならない時機が来るだろう。もし想像の論理を許すならば、この条件の
下に与えられたる一個の柿は、
生涯喰っても喰い切れる訳がない。
希臘の昔ゼノが足の
疾きアキリスと歩みの
鈍い亀との間に成立する競争に
辞を託して、いかなるアキリスもけっして亀に追いつく事はできないと説いたのは取も直さずこの消息である。わが生活の内容を
構成る個々の意識もまたかくのごとくに、日ごとか月ごとに、その
半ずつを失って、知らぬ間にいつか死に近づくならば、いくら死に近づいても死ねないと云う非事実な論理に
愚弄されるかも知れないが、こう一足飛びに片方から片方に落ち込むような思索上の不調和を
免かれて、生から死に行く
径路を、何の不思議もなく最も自然に感じ得るだろう。
俄然として死し、俄然として
吾に
還るものは、否、吾に還ったのだと、人から云い聞かさるるものは、ただ寒くなるばかりである。
縹緲玄黄外。
死生交謝時。
寄託冥然去。
我心何所之。
帰来覓命根。
杳
竟難知。
孤愁空遶夢。
宛動粛瑟悲。
江山秋已老。
粥薬
将衰。
廓寥天尚在。
高樹独余枝。
晩懐如此澹。
風露入詩遅。
安らかな夜はしだいに明けた。
室を包む影法師が
床を離れて
遠退くに従って、余はまた常のごとく
枕辺に寄る人々の顔を見る事ができた。その顔は常の顔であった。そうして余の心もまた常の心であった。
病のどこにあるかを知り得ぬほどに落ちついた身を床の上に
横えて、少しだに動く必要をもたぬ余に、死のなお近く
徘徊していようとは全く思い設けぬところであった。眼を開けた時余は
昨夕の騒ぎを(たとい忘れないまでも)ただ過去の夢のごとく遠くに眺めた。そうして死は明け渡る夜と共に
立ち
退いたのだろうぐらいの度胸でも
据ったものと見えて、何らの
掛念もない気分を、
障子から射し込む朝日の光に、
心地よく
曝していた。実は無知な余を
詐わり
終せた死は、いつの間にか余の血管に
潜り込んで、
乏しい血を追い廻しつつ流れていたのだそうである。「
容体を聞くと、危険なれどごく安静にしていれば持ち直すかも知れぬという」とは、
妻のこの日の朝の部に書き込んだ日記の一句である。余が夜明まで生きようとは、誰も期待していなかったのだとは後から聞いて始めて知った。
余は今でも白い
金盥の底に吐き出された血の色と
恰好とを、ありありとわが眼の前に思い浮べる事ができる。ましてその当分は
寒天のように固まりかけた
腥いものが常に眼先に散らついていた。そうして
吾が想像に映る血の分量と、それに起因した衰弱とを比較しては、どうしてあれだけの出血が、こう
劇しく
身体に
応えるのだろうといつでも不審に
堪えなかった。人間は脈の中の血を半分失うと死に、三分の一失うと
昏睡するものだと聞いて、それに
吾とも知らず
妻の肩に吐きかけた
生血の
容積を想像の
天秤に盛って、命の向う側に
重りとして付け加えた時ですら、余はこれほど無理な
工面をして生き延びたのだとは思えなかった。
杉本さんが東京へ帰るや否や、――杉本さんはその朝すぐ東京へ帰った。もっとおりたいが忙がしいから失礼します、その代り手当は充分するつもりでありますと云って、新らしい
襟と
襟飾を着け
易えて、余の枕辺に坐ったとき、余は
昨夕夜半に、
裄丈の足りない宿の
浴衣を着たまま、そっと
障子を開けながら、どうかと
一言森成さんに余の様子を聞いていた
彼人の様子を思い出した。余の記憶にはただそれだけしかとまらなかった杉本さんが、出がけに妻を顧みて、もう一遍吐血があれば、どうしても回復の見込はないものと
御諦らめなさらなければいけませんと注意を与えたそうである。実は昨夕にもこの恐るべき再度の吐血が来そうなので、わざわざモルヒネまで注射してそれを防ぎ止めたのだとは、
後になってその
顛末を
審らかにした余に取って、全く思いがけない報知であった。あれほど胸の
中は落ちついていたものをと云いたいくらいに、余は
平常の心持で苦痛なくその夜を明したのである。――話がつい
外れてしまった。
杉本さんは東京へ帰るや否や、自分で電話を看護婦会へかけて、看護婦を二人すぐ余の出先へ送るように頼んでくれた。その時、早く行かんと間に合わないかも知れないからと電話口で
急いたので、看護婦は汽車で走る
途々も、もういけない頃ではなかろうかと、絶えず余の生命に疑いを
挟さんでいた。せっかく行っても、行き着いて見たら、遅過ぎて間に合わなかったと云うような事があってはつまらないと語り合って来た。――これも回復期に向いた頃、
病牀の
徒然に看護婦と世間話をしたついでに、彼等の口からじかに聞いたたよりである。
かくすべての人に十の九まで見放された
真中に、何事も知らぬ余は、
曠野に捨てられた
赤子のごとく、ぽかんとしていた。苦痛なき生は余に向って何らの
煩悶をも与えなかった。余は寝ながらただ苦痛なく生きておるという一事実を認めるだけであった。そうしてこの事実が、はからざる
病のために、周囲の人の
丁重な保護を受けて、健康な時に比べると、一歩浮世の風の
当り
悪い安全な地に移って来たように感じた。実際余と余の妻とは、生存競争の
辛い空気が、
直に通わない山の底に住んでいたのである。
露けさの里にて静なる病
臆病者の特権として、余はかねてより
妖怪に
逢う資格があると思っていた。余の血の中には先祖の迷信が今でも多量に流れている。文明の肉が社会の鋭どき
鞭の
下に
萎縮するとき、余は常に幽霊を信じた。けれども
虎烈剌を
畏れて虎烈剌に
罹らぬ人のごとく、神に祈って神に
棄てられた子のごとく、余は
今日までこれと云う不思議な現象に遭遇する機会もなく過ぎた。それを残念と思うほどの好奇心もたまには起るが、平生はまず
出逢わないのを当然と心得てすまして来た。
自白すれば、八九年前アンドリュ・ラングの書いた「夢と幽霊」という書物を床の中に読んだ時は、鼻の先の
灯火を一時に寒く眺めた。一年ほど前にも「霊妙なる心力」と云う標題に引かされてフランマリオンという人の書籍を、わざわざ外国から取り寄せた事があった。先頃はまたオリヴァー・ロッジの「死後の生」を読んだ。
死後の生! 名からしてがすでに妙である。我々の個性が我々の死んだ
後までも残る、活動する、機会があれば、地上の人と言葉を
換す。スピリチズムの研究をもって有名であったマイエルはたしかにこう信じていたらしい。そのマイエルに自己の著述を捧げたロッジも同じ考えのように思われる。ついこの間出たポドモアの遺著もおそらくは同系統のものだろう。
独乙のフェヒナーは十九世紀の中頃すでに地球その物に意識の存すべき
所以を説いた。石と土と
鉱に霊があると云うならば、有るとするを
妨げる自分ではない。しかしせめてこの仮定から出立して、地球の意識とは
如何なる性質のものであろうぐらいの想像はあってしかるべきだと思う。
吾々の意識には敷居のような境界線があって、その線の下は暗く、その線の上は明らかであるとは現代の心理学者が一般に認識する議論のように見えるし、またわが経験に照らしても
至極と思われるが、肉体と共に活動する心的現象に
斯様の作用があったにしたところで、わが暗中の意識すなわちこれ死後の意識とは受取れない。
大いなるものは小さいものを含んで、その小さいものに気がついているが、含まれたる小さいものは自分の存在を知るばかりで、
己らの寄り集って
拵らえている全部に対しては
風馬牛のごとく
無頓着であるとは、ゼームスが意識の内容を解き放したり、また結び合せたりして得た結論である。それと同じく、個人全体の意識もまたより大いなる意識の
中に含まれながら、しかもその存在を自覚せずに、孤立するごとくに考えているのだろうとは、彼がこの
類推より
下し
来るスピリチズムに都合よき仮定である。
仮定は人々の随意であり、また時にとって研究上必要の活力でもある。しかしただ仮定だけでは、いかに臆病の結果幽霊を見ようとする、また迷信の
極不可思議を夢みんとする余も、信力をもって彼らの説を奉ずる事ができない。
物理学者は分子の容積を計算して
蚕の卵にも及ばぬ(長さ高さともに一ミリメターの)立方体に一千万を三乗した数が
這入ると断言した。一千万を三乗した数とは一の下に
零を二十一付けた
莫大なものである。想像を
恣まにする権利を有する
吾々もこの一の下に二十一の零を付けた数を思い浮べるのは容易でない。
形而下の物質界にあってすら、――相当の学者が綿密な手続を経て発表した数字上の結果すら、吾々はただ数理的の頭脳にのみもっともと
首肯くだけである。数量のあらましさえ応用の利かぬ心の現象に関しては云うまでもない。よし物理学者の分子に対するごとき
明暸な知識が、
吾人の内面生活を照らす機会が来たにしたところで、余の心はついに余の心である。自分に経験のできない限り、どんな綿密な学説でも吾を支配する能力は持ち得まい。
余は一度死んだ。そうして死んだ事実を、平生からの想像通りに経験した。はたして時間と空間を超越した。しかしその超越した事が何の能力をも意味しなかった。余は余の個性を失った。余の意識を失った。ただ失った事だけが明白なばかりである。どうして幽霊となれよう。どうして自分より大きな意識と
冥合できよう。臆病にしてかつ迷信強き余は、ただこの不可思議を
他人に待つばかりである。
迎火を焚いて誰待つ絽の羽織
ただ驚ろかれたのは
身体の変化である。騒動のあった
明る朝、何かの必要に
促がされて、
肋の左右に横たえた手を、顔の所まで持って
来ようとすると、急に持主でも変ったように、自分の腕ながらまるで動かなかった。人を
煩らわす
手数を
厭って、無理に
肘を
杖として、
手頸から起しかけたはかけたが、わずか何寸かの距離を通して、宙に短かい弧線を描く努力と時間とは容易のものでなかった。ようやく浮き上った
筋の力を利用して、高い方へ引くだけの精気に乏しいので、途中から断念して、再び元の位置にわが腕を落そうとすると、それがまた安くは落ちなかった。無論そのままにして心を放せば、自然の重みでもとに倒れるだけの事ではあるが、その倒れる時の激動が、いかに全身に響き渡るかと考えると、非常に恐ろしくなって、ついに思い切る勇気が出なかった。余はおろす事も上げる事も、また半途に支える事もできない腕を意識しつつそのやりどころに窮した。ようやく
傍のものの気がついて、自分の手をわが手に添えて、無理のないように顔の所まで持って来てくれて、帰りにもまた二つ腕をいっしょにしてやっと
床の上まで戻した時には、どうしてこう自己が空虚になったものか、我ながらほとんど想像がつかなかった。後から考えて見て、あれは全く
護謨風船に穴が
開いて、その穴から空気が一度に走り出したため、風船の皮がたちまちしゅっという音と共に収縮したと一般の吐血だから、それでああ
身体に
応えたのだろうと判断した。それにしても風船はただ
縮まるだけである。不幸にして余の皮は血液のほかに大きな長い骨をたくさんに包んでいた。その骨が――
余は生れてより以来この時ほど吾骨の硬さを自覚した事がない。その朝眼が
覚めた時の第一の記憶は、実にわが全身に満ち渡る骨の痛みの声であった。そうしてその痛みが、
宵に、酒を
被った
勢で、多数を相手に
劇しい
喧嘩を
挑んだ末、さんざんに打ち
据えられて、手も足も
利かなくなった時のごとくに吾を
鈍く
叩きこなしていた。
砧に
擣たれた布は、こうもあろうかとまで考えた。それほど正体なくきめつけられ
了った状態を適当に形容するには、
ぶちのめすと云う下等社会で用いる言葉が、ただ一つあるばかりである。少しでも身体を動かそうとすると、
関節がみしみしと鳴った。
昨日まで狭い
布団に
劃された余の天地は、急にまた狭くなった。その布団のうちの一部分よりほかに出る能力を失った今の余には、
昨日まで狭く感ぜられた布団がさらに大きく見えた。余の世界と接触する点は、ここに至ってただ肩と背中と細長く伸べた足の裏側に過ぎなくなった。――頭は無論枕に着いていた。
これほどに切りつめられた世界に住む事すら、
昨夕は許されそうに見えなかったのにと、
傍のものは心の
中で余のために観じてくれたろう。何事も
弁えぬ余にさえそれが
憐れであった。ただ身の布団に触れる所のみがわが世界であるだけに、そうしてその触れる所が少しも変らないために、我と世界との関係は、非常に単純であった。全くスタチック(
静)であった。したがって安全であった。
綿を敷いた
棺の中に長く寝て、われ棺を出でず、人棺を
襲わざる
亡者の気分は――もし亡者に気分が有り得るならば、――この時の余のそれと余りかけ
隔ってはいなかったろう。
しばらくすると、頭が
麻痺れ始めた。腰の骨が骨だけになって板の上に
載せられているような気がした。足が重くなった。かくして社会的の危険から安全に保証された余
一人の狭い天地にもまた相応の苦しみができた。そうしてその苦痛を
逃れるべく余は
一寸のほかにさえ出る能力を持たなかった。枕元にどんな人がどうして
坐っているか、まるで気がつかなかった。余を看護するために、余の視線の届かぬ
傍らを占めた人々の姿は、余に取って神のそれと一般であった。
余はこの安らかながら痛み多き小世界にじっと
仰向に寝たまま、身の及ばざるところに時々眼を走らした。そうして
天井から釣った長い
氷嚢の糸をしばしば見つめた。その糸は冷たい袋と共に、胃の上でぴくりぴくりと鋭どい脈を打っていた。
朝寒や生きたる骨を動かさず
余はこの心持をどう形容すべきかに迷う。
力を
商いにする
相撲が、四つに組んで、かっきり合った時、土俵の真中に立つ彼等の姿は、存外静かに落ちついている。けれどもその腹は一分と
経たないうちに、恐るべき波を
上下に描かなければやまない。そうして熱そうな汗の球が
幾条となく背中を流れ出す。
最も安全に見える彼等の姿勢は、この波とこの汗の辛うじて
齎らす努力の結果である。静かなのは
相剋する血と骨の、わずかに平均を得た象徴である。これを
互殺の
和という。二三十秒の現状を維持するに、彼等がどれほどの
気魄を
消耗せねばならぬかを思うとき、
看る人は始めて残酷の感を起すだろう。
自活の
計に追われる動物として、生を営む一点から見た人間は、まさにこの相撲のごとく苦しいものである。
吾らは平和なる家庭の主人として、少くとも衣食の満足を、吾らと吾らの
妻子とに与えんがために、この相撲に等しいほどの緊張に甘んじて、
日々自己と世間との間に、互殺の平和を
見出そうと
力めつつある。
戸外に出て笑うわが顔を鏡に映すならば、そうしてその笑いの
中に
殺伐の気に
充ちた我を見出すならば、さらにこの笑いに伴う恐ろしき腹の波と、背の汗を想像するならば、最後にわが必死の努力の、
回向院のそれのように、
一分足らずで引分を期する望みもなく、命のあらん限は一生続かなければならないという苦しい事実に
想い至るならば、我等は神経衰弱に
陥るべき極度に、わが精力を消耗するために、日に生き月に生きつつあるとまで言いたくなる。
かく単に自活自営の立場に立って見渡した世の中はことごとく敵である。自然は公平で冷酷な敵である。社会は不正で人情のある敵である。もし彼対我の観を極端に引延ばすならば、
朋友もある意味において敵であるし、妻子もある意味において敵である。そう思う自分さえ日に何度となく自分の敵になりつつある。疲れてもやめえぬ戦いを持続しながら、
然として
独りその間に老ゆるものは、
見惨と評するよりほかに評しようがない。
古臭い
愚痴を繰返すなという声がしきりに聞えた。今でも聞える。それを聞き捨てにして、古臭い愚痴を繰返すのは、しみじみそう感じたからばかりではない、しみじみそう感じた心持を、急に病気が来て
顛覆したからである。
血を吐いた余は土俵の上に
仆れた相撲と同じ事であった。自活のために戦う勇気は無論、戦わねば死ぬという意識さえ持たなかった。余はただ
仰向けに寝て、わずかな
呼吸をあえてしながら、
怖い世間を遠くに見た。病気が床の
周囲を
屏風のように取り巻いて、寒い心を暖かにした。
今までは手を打たなければ、わが下女さえ顔を出さなかった。人に頼まなければ用は弁じなかった。いくらしようと
焦慮っても、
調わない事が多かった。それが病気になると、がらりと変った。余は寝ていた。黙って寝ていただけである。すると医者が来た。社員が来た。
妻が来た。しまいには看護婦が二人来た。そうしてことごとく余の意志を働かさないうちに、ひとりでに来た。
「安心して療養せよ」と云う電報が満洲から、血を吐いた翌日に来た。思いがけない
知己や朋友が代る代る
枕元に来た。あるものは鹿児島から来た。あるものは山形から来た。またあるものは眼の前に
逼る結婚を延期して来た。余はこれらの人に、どうして来たと聞いた。彼等は皆新聞で余の病気を知って来たと云った。
仰向に寝た余は、天井を見つめながら、世の人は皆自分より親切なものだと思った。
住み
悪いとのみ観じた世界にたちまち暖かな風が吹いた。
四十を越した男、自然に
淘汰せられんとした男、さしたる過去を持たぬ男に、
忙しい世が、これほどの手間と時間と親切をかけてくれようとは夢にも待設けなかった余は、
病に生き
還ると共に、心に生き還った。余は病に謝した。また余のためにこれほどの手間と時間と親切とを惜しまざる人々に謝した。そうして願わくは善良な人間になりたいと考えた。そうしてこの幸福な考えをわれに
打壊す者を、永久の敵とすべく心に誓った。
馬上青年老。 鏡中白髪新。
幸生天子国。 願作太平民。
ツルゲニェフ以上の芸術家として、有力なる方面の尊敬を新たにしつつあるドストイェフスキーには、人の知るごとく、小供の時分から
癲癇の
発作があった。われら日本人は癲癇と聞くと、ただ白い泡を連想するに過ぎないが、西洋では古くこれを神聖なる
疾と
称えていた。この神聖なる疾に
冒かされる時、あるいはその少し前に、ドストイェフスキーは普通の人が大音楽を聞いて始めて
到り得るような一種微妙の快感に支配されたそうである。それは自己と外界との円満に調和した境地で、ちょうど天体の端から、無限の空間に足を
滑らして落ちるような心持だとか聞いた。
「神聖なる疾」に
罹った事のない余は、不幸にしてこの年になるまで、そう云う
趣に一瞬間も捕われた記憶をもたない。ただ大吐血後五六日――
経つか経たないうちに、時々一種の精神状態に
陥った。それからは毎日のように同じ状態を繰り返した。ついには来ぬ先にそれを予期するようになった。そうして自分とは縁の遠いドストイェフスキーの
享けたと云う不可解の歓喜をひそかに想像してみた。それを想像するか思い出すほどに、余の精神状態は尋常を飛び越えていたからである。ドクインセイの
細かに書き残した驚くべき
阿片の世界も余の連想に
上った。けれども読者の
心目を
眩惑するに足る
妖麗な彼の叙述が、
鈍い色をした卑しむべき原料から人工的に生れたのだと思うと、それを自分の精神状態に比較するのが急に
厭になった。
余は当時十分と続けて人と話をする
煩わしさを感じた。声となって耳に響く空気の波が心に
伝って、平らかな気分をことさらに
騒つかせるように覚えた。口を閉じて
黄金なりという古い言葉を思い出して、ただ
仰向けに寝ていた。ありがたい事に
室の
廂と、向うの三階の屋根の間に、青い空が見えた。その空が秋の
露に洗われつつしだいに高くなる時節であった。余は黙ってこの空を見つめるのを日課のようにした。何事もない、また何物もないこの大空は、その静かな影を傾むけてことごとく余の心に映じた。そうして余の心にも何事もなかった。また何物もなかった。透明な二つのものがぴたりと合った。合って自分に残るのは、
縹緲とでも形容してよい気分であった。
そのうち穏かな心の
隅が、いつか薄く
暈されて、そこを照らす意識の色が
微かになった。すると、ヴェイルに似た
靄が軽く全面に向って
万遍なく
展びて来た。そうして総体の意識がどこもかしこも
稀薄になった。それは普通の夢のように濃いものではなかった。尋常の自覚のように混雑したものでもなかった。またその中間に
横わる重い影でもなかった。魂が
身体を抜けると云ってはすでに語弊がある。霊が
細かい神経の末端にまで行き
亘って、泥でできた肉体の内部を、軽く清くすると共に、官能の実覚から
杳かに遠からしめた状態であった。余は余の周囲に何事が起りつつあるかを自覚した。同時にその自覚が
窈窕として地の
臭を帯びぬ一種特別のものであると云う事を知った。
床の下に水が廻って、自然と畳が浮き出すように、余の心は
己の宿る身体と共に、
蒲団から浮き上がった。より適当に云えば、腰と肩と頭に触れる堅い蒲団がどこかへ行ってしまったのに、心と身体は元の位置に安く
漂っていた。
発作前に起るドストイェフスキーの歓喜は、瞬刻のために十年もしくは終生の命を
賭しても
然るべき性質のものとか聞いている。余のそれはさように強烈のものではなかった。むしろ
恍惚として
幽かな
趣を生活面の全部に軽くかつ深く
印し去ったのみであった。したがって余にはドストイェフスキーの受けたような
憂欝性の反動が来なかった。余は朝からしばしばこの状態に
入った。
午過にもよくこの
蕩漾を
味った。そうして
覚めたときはいつでもその楽しい記憶を
抱いて幸福の記念としたくらいであった。
ドストイェフスキーの
享け
得た
境界は、生理上彼の
病のまさに至らんとする予言である。生を
半に薄めた余の興致は、単に貧血の結果であったらしい。
仰臥人如唖。 黙然見大空。
大空雲不動。 終日杳相同。
同じドストイェフスキーもまた死の
門口まで
引き
摺られながら、
辛うじて後戻りをする事のできた幸福な人である。けれども彼の命を
危めにかかった
災は、余の場合におけるがごとき
悪辣な病気ではなかった。彼は人の手に作り上げられた法と云う器械の敵となって、どんと心臓を
打ち
貫かれようとしたのである。
彼は彼の
倶楽部で時事を談じた。やむなくんばただ
一揆あるのみと叫んだ。そうして
囚われた。八カ月の長い間
薄暗い獄舎の日光に浴したのち、彼は
蒼空の
下に引き出されて、新たに刑壇の上に立った。彼は自己の宣告を受けるため、二十一度の
霜に、
襯衣一枚の
裸姿となって、
申渡の終るのを待った。そうして銃殺に処すの一句を突然として
鼓膜に受けた。「本当に殺されるのか」とは、自分の耳を信用しかねた彼が、
傍に立つ
同囚に問うた言葉である。……白い
手帛を合図に振った。兵士は
覘を定めた
銃口を下に伏せた。ドストイェフスキーはかくして法律の
捏ね丸めた熱い
鉛の
丸を
呑まずにすんだのである。その代り四年の月日をサイベリヤの野に暮した。
彼の心は生から死に行き、死からまた生に戻って、一時間と
経たぬうちに三たび鋭どい曲折を描いた。そうしてその三段落が三段落ともに、妥協を許さぬ強い角度で連結された。その変化だけでも驚くべき経験である。生きつつあると固く信ずるものが、突然これから五分のうちに死ななければならないと云う時、すでに死ぬときまってから、なお余る五分の命を
提げて、まさに
来るべき死を迎えながら、四分、三分、二分と意識しつつ進む時、さらに突き当ると思った死が、たちまちとんぼ返りを打って、新たに生と名づけられる時、――余のごとき神経質ではこの三
象面の一つにすら
堪え得まいと思う。現にドストイェフスキーと運命を同じくした同囚の
一人は、これがためにその場で気が狂ってしまった。
それにもかかわらず、回復期に向った余は、
病牀の上に寝ながら、しばしばドストイェフスキーの事を考えた。ことに彼が死の宣告から
蘇えった最後の一幕を眼に浮べた。――寒い空、新らしい刑壇、刑壇の上に立つ彼の姿、襯衣一枚のまま
顫えている彼の姿、――ことごとく鮮やかな想像の鏡に映った。
独り彼が死刑を
免かれたと自覚し得た
咄嗟の表情が、どうしても
判然映らなかった。しかも余はただこの咄嗟の表情が見たいばかりに、すべての画面を組み立てていたのである。
余は自然の手に
罹って死のうとした。現に少しの間死んでいた。後から当時の記憶を呼び起した上、なおところどころの穴へ、
妻から聞いた
顛末を
埋めて、始めて全くでき上る構図をふり返って見ると、いわゆる
慄然と云う感じに打たれなければやまなかった。その恐ろしさに比例して、
九仞に失った命を
一簣に取り留める
嬉しさはまた特別であった。この死この生に伴う恐ろしさと嬉しさが紙の裏表のごとく重なったため、余は連想上常にドストイェフスキーを思い出したのである。
「もし最後の一節を欠いたなら、余はけっして正気ではいられなかったろう」と彼自身が物語っている。気が狂うほどの緊張を幸いに受けずとすんだ余には、彼の恐ろしさ嬉しさの程度を
料り得ぬと云う方がむしろ適当かも知れぬ。それであればこそ、
画竜点睛とも云うべき
肝心の
刹那の表情が、どう想像しても
漠として眼の前に描き出せないのだろう。運命の
擒縦を感ずる点において、ドストイェフスキーと余とは、ほとんど詩と散文ほどの相違がある。
それにもかかわらず、余はしばしばドストイェフスキーを想像してやまなかった。そうして寒い空と、新らしい刑壇と、刑壇の上に立つ彼の姿と、
襯衣一枚で
顫えている彼の姿とを、根気よく描き去り描き
来ってやまなかった。
今はこの想像の鏡もいつとなく曇って来た。同時に、生き返ったわが嬉しさが日に日にわれを遠ざかって行く。あの嬉しさが
始終わが
傍にあるならば、――ドストイェフスキーは自己の幸福に対して、
生涯感謝する事を忘れぬ人であった。
余はうとうとしながらいつの
間にか夢に
入った。すると
鯉の
跳ねる音でたちまち眼が
覚めた。
余が寝ている二階座敷の下はすぐ中庭の池で、中には鯉がたくさんに飼ってあった。その鯉が五分に一度ぐらいは必ず高い音を立ててぱしゃりと水を打つ。昼のうちでも折々は耳に入った。夜はことに
甚しい。隣りの部屋も、下の風呂場も、向うの三階も、裏の山もことごとく静まり返った
真中に、余は絶えずこの音で眼を覚ました。
犬の眠りと云う英語を知ったのはいつの昔か忘れてしまったが、犬の眠りと云う意味を実地に経験したのはこの頃が始めてであった。余は犬の眠りのために
夜ごと悩まされた。ようやく寝ついてありがたいと思う間もなく、すぐ眼が
開いて、まだ空は白まないだろうかと、
幾度も
暁を
待ち
佗びた。
床に
縛りつけられた人の、しんとした
夜半に、ただ
独り生きている長さは存外な長さである。――鯉が
勢よく水を切った。自分の描いた波の上を
叩く尾の音で、余は眼を覚ました。
室の中は夕暮よりもなお暗い光で照らされていた。天井から下がっている電気灯の
珠は
黒布で
隙間なく
掩がしてあった。弱い光りはこの黒布の目を
洩れて、
微かに八畳の室を射た。そうしてこの薄暗い
灯影に、真白な着物を着た人間が二人
坐っていた。二人とも口を
利かなかった。二人とも動かなかった。二人とも
膝の上へ手を置いて、互いの肩を並べたままじっとしていた。
黒い布で包んだ球を見たとき、余は
紗で
金箔を巻いた
弔旗の頭を思い出した。この
喪章と関係のある球の中から出る光線によって、薄く照らされた
白衣の看護婦は、静かなる点において、行儀の好い点において、幽霊の
雛のように見えた。そうしてその雛は必要のあるたびに無言のまま必ず動いた。
余は声も出さなかった。呼びもしなかった。それでも余の寝ている位置に、少しの変化さえあれば彼等はきっと動いた。手を
毛布のうちで、もじつかせても、心持肩を右から左へ
揺っても、頭を――頭は眼が
覚めるたびに必ず
麻痺れていた。あるいは麻痺れるので眼が覚めるのかも知れなかった。――その頭を枕の上で
一寸摺らしても、あるいは足――足はよく
寝覚めの種となった。
平生の癖で時々、
片方を片方の上へ重ねて、そのままとろとろとなると、下になった方の骨が
沢庵石でも載せられたように、みしみしと痛んで眼が覚めた。そうして余は必ず強い痛さと重たさとを忍んで足の位置を変えなければならなかった。――これらのあらゆる場合に、わが変化に応じて、白い着物の動かない事はけっしてなかった。時にはわが動作を予期して、向うから動くと思われる場合もあった。時には手も足も頭も動かさないのに、眠りが尽きてふと眼を開けさえすれば、白い着物はすぐ顔の
傍へ来た。余には白い着物を着ている女の心持が少しも分らなかった。けれども白い着物を着ている女は余の心を
善く悟った。そうして影の形に
随うごとくに変化した。響の物に応ずるごとくに働らいた。黒い
布の目から
洩れる薄暗い光の
下に、真白な着物を着た女が、わが肉体の
先を越して、ひそひそと、しかも規則正しく、わが心のままに動くのは恐ろしいものであった。
余はこの気味の悪い心持を抱いて、眼を開けると共に、ぼんやり
眸に映る
室の天井を眺めた。そうして黒い布で包んだ電気灯の
珠と、その黒い布の織目から洩れてくる光に照らされた白い着物を着た女を見た。見たか見ないうちに白い着物が動いて余に近づいて来た。
秋風鳴万木。 山雨撼高楼。
病骨稜如剣。 一灯青欲愁。
余は好意の
干乾びた社会に存在する自分をはなはだぎごちなく感じた。
人が自分に対して相応の義務を尽くしてくれるのは無論ありがたい。けれども義務とは仕事に忠実なる意味で、人間を相手に取った言葉でも何でもない。したがって義務の結果に浴する自分は、ありがたいと思いながらも、義務を果した先方に向って、感謝の念を
起し
悪い。それが好意となると、相手の
所作が一挙一動ことごとく自分を目的にして働いてくるので、
活物の自分にその一挙一動がことごとく
応える。そこに互を
繋ぐ暖い糸があって、器械的な世を
頼母しく思わせる。電車に乗って一区を
瞬く間に走るよりも、人の背に負われて浅瀬を越した方が
情が深い。
義務さえ
素直には尽くして呉れる人のない世の中に、また自分の義務さえ
碌に尽くしもしない世の中に、こんな
贅沢を並べるのは過分である。そうとは知りながら余は好意の
干乾びた社会に存在する自分を
切にぎごちなく感じた。――或る人の書いたものの中に、余りせち
辛い世間だから、
自用車を節倹する格で、当分良心を質に入れたとあったが、質に入れるのは
固より一時の融通を計る
便宜に過ぎない。今の大多数は質に置くべき好意さえ
天で持っているものが少なそうに見えた。いかに
工面がついても受出そうとは思えなかった。とは悟りながらやはり好意の干乾びた社会に存在する自分をぎごちなく感じた。
今の青年は、筆を
執っても、口を
開いても、身を動かしても、ことごとく「自我の主張」を根本義にしている。それほど世の中は切りつめられたのである。それほど世の中は今の青年を虐待しているのである。「自我の主張」を正面から
承れば、
小憎しい申し分が多い。けれども彼等をしてこの「自我の主張」をあえてして
憚かるところなきまでに押しつめたものは今の世間である。ことに今の経済事情である。「自我の主張」の裏には、首を
縊ったり身を投げたりすると同程度に悲惨な
煩悶が含まれている。ニーチェは弱い男であった。多病な人であった。また孤独な書生であった。そうしてザラツストラはかくのごとく叫んだのである。
こうは解釈するようなものの、依然として余は常に好意の干乾びた社会に存在する自分をぎごちなく感じた。自分が人に向ってぎごちなくふるまいつつあるにもかかわらず、
自らぎごちなく感じた。そうして
病に
罹った。そうして病の重い間、このぎごちなさをどこへか忘れた。
看護婦は五十グラムの
粥をコップの中に入れて、それを
鯛味噌と混ぜ合わして、
一匙ずつ自分の口に運んでくれた。余は
雀の子か
烏の子のような心持がした。医師は病の遠ざかるに連れて、ほとんど五日目ぐらいごとに、余のために食事の
献立表を作った。ある時は三通りも四通りも作って、それを比較して一番病人に好さそうなものを
撰んで、あとはそれぎり
反故にした。
医師は職業である。看護婦も職業である。礼も取れば、報酬も受ける。ただで世話をしていない事はもちろんである。彼等をもって、単に金銭を得るが
故に、その義務に忠実なるのみと解釈すれば、まことに器械的で、
実も
葢もない話である。けれども彼等の義務の
中に、半分の好意を
溶き
込んで、それを病人の眼から
透かして見たら、彼等の
所作がどれほど
尊とくなるか分らない。病人は彼等のもたらす一点の好意によって、急に生きて来るからである。余は当時そう解釈して
独りで
嬉しかった。そう解釈された医師や看護婦も嬉しかろうと思う。
子供と違って
大人は、なまじい一つの物を
十筋二十筋の
文からできたように
見窮める力があるから、生活の基礎となるべき純潔な感情を
恣ままに吸収する場合が
極めて少ない。本当に嬉しかった、本当にありがたかった、本当に
尊かったと、
生涯に何度思えるか、
勘定すれば
幾何もない。たとい純潔でなくても、自分に活力を添えた当時のこの感情を、余はそのまま長く余の心臓の
真中に保存したいと願っている。そうしてこの感情が遠からず単に
一片の記憶と変化してしまいそうなのを
切に恐れている。――好意の
干乾びた社会に存在する自分をはなはだぎごちなく感ずるからである。
天下自多事。 被吹天下風。 高秋悲鬢白。
衰病夢顔紅。 送鳥天無尽。 看雲道不窮。
残存吾骨貴。 慎勿妄磨※[#「石+龍」、638-7]。
小供のとき家に五六十幅の
画があった。ある時は床の間の前で、ある時は蔵の中で、またある時は
虫干の折に、余は
交る交るそれを見た。そうして
懸物の前に
独り
蹲踞まって、黙然と時を過すのを
楽とした。今でも
玩具箱を
引繰り返したように色彩の乱調な芝居を見るよりも、自分の気に入った画に対している方が
遥かに心持が好い。
画のうちでは
彩色を使った
南画が一番面白かった。惜しい事に余の家の
蔵幅にはその南画が少なかった。子供の事だから画の
巧拙などは無論分ろうはずはなかった。
好き
嫌いと云ったところで、構図の上に自分の気に入った天然の色と形が表われていればそれで
嬉しかったのである。
鑑識上の修養を積む機会をもたなかった余の趣味は、その後別段に新らしい変化を受けないで生長した。したがって山水によって画を愛するの
弊はあったろうが、名前によって画を論ずるの
譏りも
犯さずにすんだ。ちょうど画を前後して余の
嗜好に
上った詩と同じく、いかな大家の筆になったものでも、いかに時代を食ったものでも、自分の気に入らないものはいっこう顧みる義理を感じなかった。(余は漢詩の内容を三分して、いたくその一分を愛すると共に、大いに他の一分をけなしている。残る三分の一に対しては、好むべきか
悪むべきかいずれとも意見を有していない。)
ある時、青くて丸い山を向うに控えた、また
的
と春に照る梅を庭に植えた、また
柴門の
真前を流れる小河を、垣に沿うて
緩く
繞らした、家を見て――無論
画絹の上に――どうか
生涯に一遍で好いからこんな所に住んで見たいと、
傍にいる友人に語った。友人は余の
真面目な顔をしけじけ眺めて、君こんな所に住むと、どのくらい不便なものだか知っているかとさも気の毒そうに云った。この友人は
岩手のものであった。余はなるほどと始めて自分の
迂濶を
愧ずると共に、余の風流心に泥を塗った友人の実際的なのを悪んだ。
それは二十四五年も前の事であった。その二十四五年の間に、余もやむをえず岩手出身の友人のようにしだいに実際的になった。
崖を降りて
渓川へ水を
汲みに行くよりも、台所へ水道を引く方が好くなった。けれども南画に似た心持は時々夢を襲った。ことに病気になって
仰向に寝てからは、絶えず美くしい雲と空が胸に描かれた。
すると小宮君が
歌麿の
錦絵を葉書に
刷ったのを送ってくれた。余はその
色合の長い間に
自と
寂びたくすみ方に
見惚れて、眼を放さずそれを眺めていたが、ふと裏を返すと、私はこの画の中にあるような人間に生れたいとか何とか、当時の自分の情調とは似ても似つかぬ事が書いてあったので、こんなやにっこい
色男は
大嫌だ、おれは暖かな秋の色とその色の中から出る自然の
香が好きだと答えてくれと
傍のものに頼んだ。ところが今度は小宮君が自身で枕元へ
坐って、自然も好いが人間の背景にある自然でなくっちゃとか何とか病人に向って古臭い説を
吐きかけるので、余は小宮君を
捕えて御前は
青二才だと
罵った。――それくらい病中の余は自然を
懐かしく思っていた。
空が空の底に沈み切ったように澄んだ。高い日が
蒼い所を目の届くかぎり照らした。余はその
射返しの大地に
洽ねき内にしんとして
独り
温もった。そうして眼の前に群がる無数の
赤蜻蛉を見た。そうして日記に書いた。――「人よりも空、
語よりも
黙。……肩に来て人
懐かしや
赤蜻蛉」
これは東京へ帰った以後の
景色である。東京へ帰ったあともしばらくは、絶えず美くしい自然の画が、子供の時と同じように、余を支配していたのである。
秋露下南
。
黄花粲照顔。
欲行沿澗遠。
却得与雲還。
子供が来たから見てやれと
妻が耳の
傍へ口を着けて云う。
身体を動かす力がないので余は元の姿勢のままただ視線だけをその方に移すと、子供は枕を去る六尺ほどの所に坐っていた。
余の寝ている八畳に付いた床の間は、余の足の方にあった。余の枕元は隣の間を仕切る
襖で
半塞いであった。余は左右に開かれた
襖の間から敷居越しに余の子供を見たのである。
頭の上の方にいるものを
室を隔てて見る視力が、不自然な努力を要するためか、そこに坐っている子供の姿は存外遠方に見えた。無理な
一瞥の
下に余の
眸に映った顔は、
逢うたと
記すよりもむしろ眺めたと書く方が適当なくらい離れていた。余はこの一瞥よりほかにまた子供の影を見なかった。余の眸はすぐと自然の角度に復した。けれども余はこの一瞥の短きうちにすべてを見た。
子供は三人いた。十二から
十、十から八つと順に一列になって隣座敷の真中に並ばされていた。そうして三人ともに女であった。彼等は未来の健康のため、
一夏を
茅が
崎に過すべく、
父母から命ぜられて、兄弟五人で
昨日まで
海辺を
駆け廻っていたのである。父が
危篤の報知によって、親戚のものに
伴れられて、わざわざ砂深い小松原を引き上げて、
修善寺まで見舞に来たのである。
けれども危篤の何を意味しているかを知るには彼らはあまり
小さ
過ぎた。彼らは死と云う名前を覚えていた。けれども死の恐ろしさと
怖さとは、彼らの若い
額の奥に、いまだかつて影さえ宿さなかった。死に
捕えられた父の身体が、これからどう変化するか彼らには想像ができなかった。父が死んだあとで自分らの運命にどんな結果が来るか、彼らには無論考え得られなかった。彼らはただ人に伴われて父の病気を見舞うべく、父の旅先まで汽車に乗って来たのである。
彼らの顔にはこの会見が最後かも知れぬと云う
愁の表情がまるでなかった。彼らは親子の哀別以上に無邪気な顔をもっていた。そうしていろいろ人のいる中に、三人特別な席に並んで坐らせられて、厳粛な空気にじっと行儀よく取りすます窮屈を、切なく感じているらしく思われた。
余はただ
一瞥の努力に彼らを見ただけであった。そうして
病を解し得ぬ可憐な小さいものを、わざわざ遠くまで引張り出して、
殊勝に枕元に坐らせておくのをかえって残酷に思った。
妻を呼んで、せっかく来たものだから、そこいらを見物させてやれと命じた。もしその時の余に、あるいはこれが親子の見納めになるかも知れないと云う
懸念があったならば、余はもう少ししみじみ彼らの姿を見守ったかも知れなかった。しかし余は医師や
傍のものが余に対して抱いていたような危険を余の病の上に
自ら感じていなかったのである。
子供はじきに東京へ帰った。一週間ほどしてから、彼らは
各々に見舞状を書いて、それを一つ封に入れて、余の宿に届けた。十二になる
筆子のは、四角な字を入れた整わない
候文で、「
御祖母様が雨がふっても風がふいても毎日毎日一日もかかさず御しゃか様へ
御詣を遊ばす
御百度をなされ御父様の御病気一日も早く御全快を祈り遊ばされまた高田の
御伯母様どこかの御宮へか御詣り遊ばすとのことに
御座候ふさ、きよみ、むめの三人の連中は毎日猫の墓へ水をとりかえ花を差し上げて早く御父様の全快を御祈りに居り候」とあった。
十になる
恒子のは尋常であった。
八になるえい子のは全く片仮名だけで書いてあった。字を
埋めて読みやすくすると、「御父様の御病気はいかがでございますか、私は無事に暮しておりますから御安心なさいませ。御父様も私の事を思わずに御病気を早く直して早く御帰りなさいませ。私は毎日休まずに学校へ行って居ります。また御母様によろしく」と云うのである。
余は日記の一
頁を寝ながら
割いて、それに、留守の
中はおとなしく
御祖母様の云う事を聞かなくてはいけない、今についでのあった時
修善寺の
御土産を届けてやるからと書いて、すぐ郵便で
妻に出さした。子供は余が東京へ帰ってからも、平気で遊んでいる。修善寺の
土産はもう壊してしまったろう。彼等が大きくなったとき父のこの文を読む機会がもしあったなら、彼等ははたしてどんな感じがするだろう。
傷心秋已到。 嘔血骨猶存。
病起期何日。 夕陽還一村。
五十グラムと云うと日本の二勺半にしか当らない。ただそれだけの飲料で、この
身体を終日
持ち
応えていたかと思えば、自分ながら気の毒でもあるし、
可愛らしくもある。また馬鹿らしくもある。
余は五十グラムの
葛湯を
恭やしく飲んだ。そうして左右の腕に
朝夕二回ずつの注射を受けた。腕は両方とも針の
痕で
埋まっていた。医師は余に今日はどっちの腕にするかと聞いた。余はどっちにもしたくなかった。薬液を皿に溶いたり、それを注射器に吸い込ましたり、針を
丁寧に
拭ったり、針の先に泡のように
細かい薬を吹かして眺めたりする注射の準備ははなはだ
物奇麗で心持が好いけれども、その針を腕にぐさと刺して、そこへ無理に薬を注射するのは不愉快でたまらなかった。余は医師に全体その
鳶色の液は何だと聞いた。
森成さんはブンベルンとかブンメルンとか答えて、遠慮なく余の腕を痛がらせた。
やがて日に二回の注射が一回に減じた。その一回もまたしばらくすると
廃めになった。そうして葛湯の分量が少しずつ増して来た。同時に口の中が
執拗く
粘り始めた。
爽かな飲料で絶えず舌と
顋と
咽喉を洗っていなくてはいたたまれなかった。余は医師に氷を請求した。医師は固い
片らが
滑って胃の
腑に落ち込む危険を恐れた。余は
天井を眺めながら、腹膜炎を
患らった
廿歳の昔を思い出した。その時は病気に
障るとかで、すべての飲物を禁ぜられていた。ただ冷水で
含嗽をするだけの自由を医師から得たので、余は一時間のうちに、何度となく含嗽をさせて貰った。そうしてそのつど人に知れないように、そっと含嗽の水を幾分かずつ胃の中に飲み下して、やっと
熬りつくような
渇を
紛らしていた。
昔の
計を繰り返す勇気のなかった余は、
口中を
潤すための氷を歯で
噛み
砕いては、正直に残らず吐き出した。その代り日に数回
平野水を一口ずつ飲まして貰う事にした。平野水がくんくんと音を立てるような勢で、食道から胃へ落ちて行く時の心持は痛快であった。けれども咽喉を通り越すや否やすぐとまた飲みたくなった。余は
夜半にしばしば看護婦から平野水を
洋盃に
注いで貰って、それをありがたそうに飲んだ当時をよく記憶している。
渇はしだいに
歇んだ。そうして渇よりも恐ろしい
餓じさが腹の中を荒して歩くようになった。余は寝ながら美くしい
食膳を
何通りとなく想像で
拵らえて、それを眼の前に並べて楽んでいた。そればかりではない、同じ
献立を何人前も
調えておいて、多数の朋友にそれを想像で食わして喜こんだ。今考えると普通のものの嬉しがるような
食物はちっともなかった。こう云う自分にすらあまりありがたくはない
御膳ばかりを眼の前に浮べていたのである。
森成さんがもう
葛湯も
厭きたろうと云って、わざわざ東京から米を取り寄せて
重湯を作ってくれた時は、重湯を生れて始めて
啜る余には大いな期待があった。けれども一口飲んで始めてその
不味いのに驚ろいた余は、それぎり重湯というものを近づけなかった。その代りカジノビスケットを
一片貰った折の
嬉しさはいまだに忘れられない。わざわざ看護婦を医師の
室までやって、特に礼を述べたくらいである。
やがて
粥を許された。その
旨さはただの記憶となって冷やかに残っているだけだから実感としては今思い出せないが、こんな旨いものが世にあるかと疑いつつ舌を鳴らしたのは確かである。それからオートミールが来た。ソーダビスケットが来た。余はすべてをありがたく食った。そうして、より多く食いたいと云う事を日課のように繰り返して森成さんに訴えた。森成さんはしまいに余の病床に近づくのを恐れた。
東君はわざわざ
妻の所へ行って、先生はあんなもっともな顔をしている癖に、子供のように
始終食物の話ばかりしていておかしいと告げた。
腸に春滴るや粥の味
オイッケンは精神生活と云う事を
真向に主張する学者である。学者の習慣として、自己の説を
唱うる前には、あらゆる他のイズムを打破する必要を感ずるものと見えて、彼は彼のいわゆる精神生活を新たならしむるため、その用意として、現代生活に影響を与うる在来からの処生上の主義に一も二もなく非難を加えた。自然主義もやられる、社会主義も
叩かれる。すべての主義が彼の眼から見て存在の権利を失ったかのごとくに説き去られた時、彼は始めて精神生活の四字を
拈出した。そうして精神生活の特色は自由である、自由であると
連呼した。
試みに彼に向って自由なる精神生活とはどんな生活かと問えば、
端的にこんなものだとはけっして答えない。ただ立派な言葉を秩序よく並べ立てる。むずかしそうな
理窟を
蜿蜒と
幾重にも重ねて行く。そこに学者らしい
手際はあるかも知れないが、とぐろの中に巻き込まれる
素人は
茫然してしまうだけである。
しばらく哲学者の言葉を平民に解るように翻訳して見ると、オイッケンのいわゆる自由なる精神生活とは、こんなものではなかろうか。――我々は普通衣食のために働らいている。衣食のための仕事は消極的である。換言すると、自分の
好悪撰択を許さない強制的の苦しみを含んでいる。そう云う風にほかから
圧しつけられた仕事では精神生活とは名づけられない。いやしくも精神的に生活しようと思うなら、義務なきところに向って
自ら進む積極のものでなければならない。束縛によらずして、
己れ一個の意志で自由に営む生活でなければならない。こう解釈した時、誰も彼の精神生活を評してつまらないとは云うまい。コムトは
倦怠をもって社会の進歩を
促がす原因と見たくらいである。倦怠の極やむをえずして仕事を見つけ出すよりも、内に
抑えがたき或るものが
蟠まって、じっと
持ち
応えられない活力を、自然の勢から生命の波動として
描出し
来る方が実際
実の
入った
生き
法と云わなければなるまい。舞踏でも音楽でも
詩歌でも、すべて芸術の価値はここに存していると評しても
差支えない。
けれども学者オイッケンの頭の中で
纏め上げた精神生活が、現に事実となって世の中に存在し得るや否やに至っては
自から別問題である。彼オイッケン自身が純一無雑に自由なる精神生活を送り得るや否やを想像して見ても
分明な話ではないか。間断なきこの種の生活に身を託せんとする前に、吾人は少なくとも早くすでに職業なき閑人として存在しなければならないはずである。
豆腐屋が気に向いた朝だけ石臼を回して、心の
機まないときはけっして豆を
挽かなかったなら
商買にはならない。さらに進んで、
己れの好いた人だけに豆腐を売って、いけ好かない客をことごとく謝絶したらなおの事商買にはならない。すべての職業が職業として成立するためには、店に公平の
灯を
点けなければならない。公平と云う美しそうな徳義上の言葉を裏から言い直すと、器械的と云う醜い本体を有しているに過ぎない。
一分の遅速なく発着する汽車の生活と、いわゆる精神的生活とは、正に両極に位する性質のものでなければならない。そうして普通の人は十が十までこの両端を
七分三分とか
六分四分とかに
交ぜ
合わして自己に
便宜なようにまた世間に都合の好いように(すなわち職業に忠実なるように)生活すべく
天から余儀なくされている。これが常態である。たまたま芸術の好きなものが、好きな芸術を職業とするような場合ですら、その芸術が職業となる瞬間において、真の精神生活はすでに
汚されてしまうのは当然である。芸術家としての彼は
己れに
篤き作品を自然の気乗りで作り上げようとするに反して、職業家としての彼は評判のよきもの、
売高の多いものを
公けにしなくてはならぬからである。
すでに個人の性格及び教育次第で融通の
利かなくなりそうなオイッケンのいわゆる自由なる精神生活は、現今の社会組織の上から見ても、これほど応用の範囲の狭いものになる。それを一般に
行き
亘って実行のできる大主義のごとくに説き去る彼は、学者の通弊として統一病に
罹ったのだと酷評を加えてもよいが、たまたま文芸を好んで文芸を職業としながら、同時に職業としての文芸を
忌んでいる余のごときものの注意を呼び起して、その批評心を
刺戟する力は充分ある。大患に
罹った余は、親の厄介になった子供の時以来久しぶりで始めてこの精神生活の光に浴した。けれどもそれはわずか一二カ月の中であった。
病が
癒るに
伴れ、自己がしだいに実世間に押し出されるに伴れ、こう云う議論を公けにして得意なオイッケンを
羨やまずにはいられなくなって来た。
学校を出た当時小石川のある寺に下宿をしていた事がある。そこの
和尚は内職に身の上判断をやるので、薄暗い玄関の次の間に、
算木と
筮竹を見るのが常であった。
固より看板をかけての
公表な
商買でなかったせいか、
占を
頼に来るものは多くて日に四五人、少ない時はまるで筮竹を
揉む音さえ聞えない夜もあった。
易断に重きを置かない余は、固よりこの道において和尚と無縁の姿であったから、ただ折々
襖越しに、和尚の、そりゃ当人の望み通りにした方が好うがすななどと云う縁談に関する
助言を耳に
挟さむくらいなもので、面と向き合っては互に何も語らずに久しく過ぎた。
ある時何かのついでに、話がつい人相とか方位とか云う和尚の
縄張り内に
摺り
込んだので、冗談半分
私の未来はどうでしょうと聞いて見たら、和尚は眼を
据えて余の顔をじっと眺めた
後で、大して悪い事もありませんなと答えた。大して悪い事もないと云うのは、大して好い事もないと云ったも同然で、すなわち御前の運命は平凡だと宣告したようなものである。余は仕方がないから黙っていた。すると和尚が、あなたは親の死目には
逢えませんねと云った。余はそうですかと答えた。すると今度はあなたは西へ西へと行く相があると云った。余はまたそうですかと答えた。最後に和尚は、早く
顋の下へ
髯を生やして、地面を買って
居宅を御建てなさいと勧めた。余は地面を買って居宅を建て得る身分なら何も君の所に厄介になっちゃいないと答えたかった。けれども顋の下の髯と、地面
居宅とはどんな関係があるか知りたかったので、それだけちょっと聞き返して見た。すると和尚は
真面目な顔をして、あなたの顔を半分に割ると上の方が長くって、下の方が短か過ぎる。したがって落ちつかない。だから早く顋髯を生やして上下の
釣合を取るようにすれば、顔の
居坐りがよくなって動かなくなりますと答えた。余は余の顔の
雑作に向って加えられたこの物理的もしくは美学的の批判が、優に余の未来の運命を支配するかのごとく容易に説き去った和尚を少しおかしく感じた。そうしてなるほどと答えた。
一年ならずして余は松山に行った。それからまた熊本に移った。熊本からまた
倫敦に向った。和尚の云った通り西へ西へと
赴いたのである。余の母は余の十三四の時に死んだ。その時は同じ東京におりながら、つい臨終の席には
侍らなかった。父の死んだ電報を東京から受け取ったのは、熊本にいる頃の事であった。これで見ると、親の死目に
逢えないと云った和尚の言葉もどうかこうか的中している。ただ
顋の
髯に至ってはその時から
今日に至るまで、
寧日なく
剃り続けに剃っているから、地面と
居宅がはたして髯と共にわが手に
入るかどうかいまだに
判然せずにいた。
ところが
修善寺で病気をして寝つくや否や、頬がざらざらし始めた。それが五六日すると一本一本に
撮めるようになった。またしばらくすると、頬から
顋が
隙間なく隠れるようになった。
和尚の
助言は十七八年ぶりで始めて役に立ちそうな
気色に髯は延びて来た。
妻はいっそ
御生やしなすったら好いでしょうと云った。余も半分その気になって、しきりにその辺を
撫で廻していた。ところが
幾日となく洗いも
櫛ずりもしない髪が、
膏と
垢で余の頭を
埋め
尽くそうとする
汚苦しさに
堪えられなくなって、ある日床屋を呼んで、不充分ながら寝たまま頭に手を入れて顔に
髪剃を当てた。その時地面と居宅の持主たるべき資格をまた
奇麗に失ってしまった。
傍のものは若くなった若くなったと云ってしきりに
囃し立てた。
独り妻だけはおやすっかり
剃っておしまいになったんですかと云って、少し残り惜しそうな顔をした。妻は夫の病気が本復した上にも、なお地面と居宅が欲しかったのである。余といえども、髯を落さなければ地面と居宅がきっと手に
入ると保証されるならば、あの顋はそのままに保存しておいたはずである。
その
後髯は始終剃った。朝早く床の上に起き直って、向うの三階の屋根と
吾室の
障子の間にわずかばかり見える山の
頂を眺めるたびに、わが頬の
潔よく剃り落してある
滑らかさを
撫で廻しては
嬉しがった。地面と居宅は当分断念したか、または老後の楽しみにあとあとまで取っておくつもりだったと見える。
客夢回時一鳥鳴。 夜来山雨暁来晴。
孤峯頂上孤松色。 早映紅暾欝々明。
修善寺が村の名で
兼て寺の名であると云う事は、行かぬ前から
疾に承知していた。しかしその寺で鐘の代りに太鼓を
叩こうとはかつて
想い至らなかった。それを始めて聞いたのはいつの頃であったか全く忘れてしまった。ただ今でも余が鼓膜の上に、想像の太鼓がどん――どんと時々響く事がある。すると余は必ず去年の病気を
憶い出す。
余は去年の病気と共に、新らしい
天井と、新らしい
床の
間にかけた大島将軍の従軍の詩を憶い出す。そうしてその詩を朝から晩までに何遍となく読み返した当時を明らさまに憶い出す。新らしい天井と、新らしい床の間と、新らしい柱と、新らし過ぎて
開閉の不自由な
障子は、今でも眼の前にありありと浮べる事ができるが、朝から晩までに何遍となく読み返した大島将軍の詩は、読んでは忘れ、読んでは忘れして、今では
白壁のように白い絹の上を、どこまでも同じ幅で走って、
尾頭ともにぷつりと折れてしまう黒い線を認めるだけである。句に至っては、始めの
剣戟という二字よりほか憶い出せない。
余は余の
鼓膜の上に、想像の太鼓がどん――どんと響くたびに、すべてこれらのものを憶い出す。これらのものの中に、じっと
仰向いて、尻の痛さを
紛らしつつ、のつそつ夜明を待ち
佗びたその当時を回顧すると、
修禅寺の太鼓の
音は、一種云うべからざる連想をもって、いつでも余の耳の底に卒然と鳴り渡る。
その太鼓は最も無風流な最も殺風景な音を出して、前後を切り捨てた上、中間だけを、
自暴に夜陰に向って
擲きつけるように、ぶっきら棒な鳴り方をした。そうして、一つどんと
素気なく鳴ると共にぱたりと留った。余は耳を
峙だてた。一度静まった夜の空気は容易に動こうとはしなかった。やや
久らくして、今のは錯覚ではなかろうかと思い直す頃に、また一つどんと鳴った。そうして
愛想のない音は、水に落ちた石のように、急に夜の中に消えたぎり、しんとした表に何の活動も伝えなかった。寝られない余は、待ち伏せをする兵士のごとく次の
音の至るを思いつめて待った。その次の音はやはり容易には来なかった。ようやくのこと第一第二と同じく
極めて
乾び
切った響が――響とは
云い
悪い。黒い空気の中に、突然無遠慮な点をどっと打って
直筆を隠したような音が、余の
耳朶を
叩いて去る
後で、余はつくづくと夜を長いものに観じた。
もっとも夜は長くなる頃であった。暑さもしだいに過ぎて、雨の降る日はセルに羽織を重ねるか、思い切って朝から
袷を着るかしなければ、
肌寒を防ぐ
便とならなかった時節である。山の端に落ち込む日は、常の短かい日よりもなおの事短かく昼を
端折って、
灯は容易に
点いた。そうして
夜は中々明けなかった。余はじりじりと昼に食い入る夜長を夜ごとに恐れた。眼が
開くときっと夜であった。これから何時間ぐらいこうしてしんと夜の中に生きながら
埋もっている事かと思うと、我ながらわが病気に
堪えられなかった。新らしい天井と、新らしい柱と、新らしい障子を見つめるに堪えなかった。真白な絹に書いた大きな字の
懸物には最も堪えなかった。ああ早く夜が明けてくれればいいのにと思った。
修禅寺の太鼓はこの時にどんと鳴るのである。そうしてことさらに余を待ち遠しがらせるごとく
疎らな間隔を取って、暗い夜をぽつりぽつりと縫い始める。それが五分と
経ち七分と経つうちに、しだいに調子づいて、ついに夕立の
雨滴よりも
繁く
逼って来る変化は、余から云うともう日の出に間もないと云う報知であった。太鼓を打ち切ってしばらくの
後に、看護婦がやっと起きて
室の廊下の所だけ雨戸を開けてくれるのは何よりも嬉しかった。外はいつでも薄暗く見えた。
修善寺に行って、寺の太鼓を余ほど精密に研究したものはあるまい。その結果として余は今でも時々どんと云う
余音のないぶっ切ったような響を余の鼓膜の上に錯覚のごとく受ける。そうして一種云うべからざる心持を繰り返している。
夢繞星
露幽。
夜分形影暗灯愁。
旗亭病近修禅寺。
一
疎鐘已九秋。
山を分けて谷一面の
百合を
飽くまで眺めようと心にきめた
翌日から床の上に
仆れた。想像はその時限りなく咲き続く白い花を
碁石のように点々と見た。それを
小暗く包もうとする緑の奥には、重い
香が沈んで、風に揺られる折々を待つほどに、葉は息苦しく重なり合った。――この間宿の客が山から取って来て
瓶に
挿した一輪の白さと大きさと
香から推して、余は有るまじき広々とした
画を頭の中に描いた。
聖書にある野の百合とは今云う
唐菖蒲の事だと、その唐菖蒲を床に活けておいた時、始めて
芥舟君から教わって、それではまるで野の百合の感じが違うようだがと話し合った
一月前も思い出された。聖書と関係の薄い余にさえ、
檜扇を熱帯的に
派出に仕立てたような唐菖蒲は、深い沈んだ
趣を表わすにはあまり強過ぎるとしか思われなかった。唐菖蒲はどうでもよい。余が想像に描いた
幽かな花は、一輪も見る機会のないうちに立秋に
入った。百合は
露と共に
摧けた。
人は病むもののために裏の山に
入って、ここかしこから手の届く
幾茎の草花を折って来た。裏の山は余の
室から廊下伝いにすぐ
上る
便のあるくらい近かった。
障子さえ明けておけば、寝ながら
縁側と
欄間の間を
埋める一部分を鼻の先に
眺める事もできた。その一部分は岩と草と、岩の
裾を縫うて
迂回して
上る
小径とから成り立っていた。余は余のために山に
上るものの姿が、縁の高さを辞して欄間の高さに達するまでに、一遍影を隠して、また反対の位地から現われて、ついに余の視線のほかに没してしまうのを大いなる変化のごとくに眺めた。そうして同じ彼等の姿が再び欄間の上から曲折して
下って来るのを
疎い眼で眺めた。彼らは必ず
粗い
縞の
貸浴衣を着て、日の照る時は
手拭で
頬冠りをしていた。
岨道を行くべきものとも思われないその姿が、花を
抱えて岩の
傍にぬっと現われると、一種芝居にでも有りそうな感じを病人に与えるくらい
釣合がおかしかった。
彼等の
採って来てくれるものは色彩の
極めて乏しい野生の秋草であった。
ある日しんとした真昼に、長い
薄が畳に伏さるように活けてあったら、いつどこから来たとも知れない
蟋蟀がたった一つ、おとなしく中ほどに
宿っていた。その時薄は虫の重みで
撓いそうに見えた。そうして
袋戸に張った新らしい銀の上に映る幾分かの緑が、
暈したように淡くかつ
不分明に、
眸を誘うので、なおさら運動の感覚を
刺戟した。
薄は大概すぐ
縮れた。比較的長く持つ
女郎花さえ眺めるにはあまり色素が足りなかった。ようやく秋草の
淋しさを
物憂く思い出した時、始めて
蜀紅葵とか云う燃えるような赤い
花弁を見た。留守居の婆さんに
銭をやって、もっと折らせろと云ったら、銭は
要りません、花は預かり物だから上げられませんと断わったそうである。余はその話を聞いて、どんな所に花が咲いていて、どんな婆さんがどんな顔をして花の番をしているか、見たくてたまらなかった。蜀紅葵の
花弁は燃えながら、
翌日散ってしまった。
桂川の岸伝いに行くといくらでも咲いていると云うコスモスも時々病室を照らした。コスモスはすべての
中で最も
単簡でかつ長く持った。余はその薄くて規則正しい花片と、
空に浮んだように超然と取り合わぬ咲き具合とを見て、コスモスは
干菓子に似ていると評した。なぜですかと聞いたものがあった。
範頼の
墓守の作ったと云う菊を分けて貰って来たのはそれからよほど
後の事である。墓守は鉢に植えた菊を貸して上げようかと云ったそうである。この墓守の顔も見たかった。しまいには
畠山の
城址からあけびと云うものを取って来て
瓶に
挿んだ。それは色の
褪めた
茄子の色をしていた。そうしてその一つを鳥が
啄いて
空洞にしていた。――瓶に
挿す草と花がしだいに変るうちに気節はようやく深い秋に
入った。
日似三春永。 心随野水空。
牀頭花一片。 閑落小眠中。
若い時兄を二人失った。二人とも長い間
床についていたから、死んだ時はいずれも苦しみ抜いた
病の影を肉の上に
刻んでいた。けれどもその長い間に延びた髪と
髯は、死んだ
後までも
漆のように黒くかつ濃かった。髪はそれほどでもないが、
剃る事のできないで不本意らしく
爺々汚そうに生えた
髯に至っては、見るから
憐れであった。余は一人の兄の太く
逞しい髯の色をいまだに記憶している。死ぬ頃の彼の顔がいかにも気の毒なくらい
瘠せ
衰えて
小さく見えるのに引き
易えて、髯だけは健康な壮者を
凌ぐ
勢で延びて来た一種の対照を、気味悪くまた
情なく感じたためでもあろう。
大患に
罹って生か死かと騒がれる余に、幾日かの怪しき時間は、生とも死とも片づかぬ
空裏に過ぎた。存亡の領域がやや明かになった頃、まず
吾存在を確めたいと云う願から、とりあえず鏡を取ってわが顔を照らして見た。すると何年か前に世を去った兄の
面影が、卒然として冷かな鏡の裏を
掠めて去った。骨ばかり意地悪く高く残った頬、人間らしい
暖味を失った
蒼く黄色い皮、落ち込んで動く余裕のない眼、それから無遠慮に延びた髪と髯、――どう見ても兄の記念であった。
ただ兄の髪と髯が死ぬまで
漆のように黒かったのにかかわらず、余のそれらにはいつの間にか銀の筋が
疎らに交っていた。考えて見ると兄は
白髪の生える前に死んだのである。死ぬとすればその方が
屑よいかも知れない。白髪に
鬢や頬をぽつぽつ冒されながら、まだ生き延びる
工夫に余念のない余は、今を盛りの年頃に容赦なく世を捨てて
逝く壮者に
比べると、何だかきまりが悪いほど未練らしかった。鏡に映るわが表情のうちには、無論はかないと云う心持もあったが、
死に
損なったと云う
恥も少しは交っていた。また「ヴァージニバス・ピュエリスク」の中に、人はいくら年を取っても、少年の時と同じような性情を失わないものだと書いてあったのを、なるほどと
首肯いて読んだ当時を
憶い出して、ただその当時に立ち戻りたいような気もした。
「ヴァージニバス・ピュエリスク」の著者は、長い病苦に責められながらも、よくその快活の性情を
終焉まで持ち続けたから、
嘘は云わない男である。けれども惜しい事に髪の黒いうちに死んでしまった。もし彼が生きて六十七十の高齢に達したら、あるいはこうは云い切れなかったろうと思えば、思われない事もない。自分が二十の時、三十の人を見れば大変に懸隔があるように思いながら、いつか三十が来ると、二十の昔と同じ気分な事が分ったり、わが三十の時、四十の人に接すると、非常な差違を認めながら、四十に達して三十の過去をふり返れば、依然として同じ性情に活きつつある自己を悟ったりするので、スチーヴンソンの言葉ももっともと受けて、
今日まで世を
経たようなものの、外部から
萌して来る
老頽の徴候を、
幾茎かの白髪に認めて、健康の常時とは心意の
趣を
異にする
病裡の鏡に臨んだ
刹那の感情には、若い影はさらに
射さなかったからである。
白髪に
強いられて、思い切りよく
老の敷居を
跨いでしまおうか、白髪を隠して、なお若い
街巷に
徘徊しようか、――そこまでは鏡を見た瞬間には考えなかった。また考える必要のないまでに、病める余は若い人々を遠くに見た。病気に
罹る前、ある友人と会食したら、その友人が短かく
刈った余の
揉上を眺めて、そこから白髪に
冒されるのを苦にしてだんだん上の方へ
剃り
上げるのではないかと聞いた。その時の余にはこう聞かれるだけの色気は充分あった。けれども
病に
罹った余は、
白髪を看板にして事をしたいくらいまでに
諦めよく落ちついていた。
病の
癒えた
今日の余は、病中の余を引き延ばした心に活きているのだろうか、または友人と食卓についた
病気前の若さに立ち戻っているだろうか。はたしてスチーヴンソンの云った通りを歩く気だろうか、または中年に死んだ彼の言葉を否定してようやく老境に進むつもりだろうか。――白髪と人生の間に迷うものは若い人たちから見たらおかしいに違ない。けれども彼等若い人達にもやがて墓と浮世の間に立って去就を決しかねる時期が来るだろう。
桃花馬上少年時。 笑拠銀鞍払柳枝。
緑水至今迢逓去。 月明来照鬢如糸。
初めはただ
漠然と空を見て寝ていた。それからしばらくしていつ帰れるのだろうと思い出した。ある時はすぐにも帰りたいような心持がした。けれども床の上に起き直る気力すらないものが、どうして汽車に揺られて半日の遠きを行くに
堪え得ようかと考えると、帰りたいと念ずる自分がかなり馬鹿気て見えた。したがって
傍のものに自分はいつ帰れるかと
問い
糺した事もなかった。同時に秋は幾度の昼夜を巻いて、わが心の前を過ぎた。空はしだいに高くかつ
蒼くわが上を
掩い始めた。
もう動かしても大事なかろうと云う頃になって、東京から別に二人の医者を迎えてその意見を確めたら、今二週間の
後にと云う
挨拶であった。挨拶があった
翌日から余は自分の寝ている地と、寝ている
室を見捨るのが急に惜しくなった。約束の二週間がなるべくゆっくり廻転するようにと
冀った。かつて英国にいた頃、
精一杯英国を
悪んだ事がある。それはハイネが英国を悪んだごとく
因業に英国を悪んだのである。けれども立つ
間際になって、知らぬ人間の
渦を巻いて流れている
倫敦の海を見渡したら、彼らを包む
鳶色の空気の奥に、余の呼吸に適する一種の
瓦斯が含まれているような気がし出した。余は空を仰いで町の
真中に
佇ずんだ。二週間の後この地を去るべき今の余も、病む
躯を
横えて、
床の上に
独り佇ずまざるを得なかった。余は特に余のために造って貰った高さ一尺五寸ほどの偉大な
藁蒲団に佇ずんだ。静かな庭の
寂寞を破る
鯉の水を切る音に佇ずんだ。
朝露に
濡れた
屋根瓦の上を
遠近と尾を
揺かし歩く
鶺鴒に佇ずんだ。枕元の
花瓶にも佇ずんだ。廊下のすぐ下をちょろちょろと流れる水の
音にも佇ずんだ。かくわが身を
繞る多くのものに
徊しつつ、予定の通り二週間の過ぎ去るのを待った。
その二週間は待ち遠いはがゆさもなく、またあっけない不足もなく普通の二週間のごとくに来て、尋常の二週間のごとくに去った。そうして雨の
濛々と降る暁を最後の記念として与えた。暗い空を
透かして、余は雨かと聞いたら、人は雨だと答えた。
人は余を運搬する目的をもって、一種妙なものを
拵らえて、それを座敷の
中に
舁き
入れた。長さは六尺もあったろう、幅はわずか二尺に足らないくらい狭かった。その一部は畳を離れて一尺ほどの高さまで上に
反り
返るように工夫してあった。そうして全部を白い
布で
捲いた。余は抱かれて、この高く反った前方に背を託して、平たい方に足を長く横たえた時、これは葬式だなと思った。生きたものに葬式と云う言葉は穏当でないが、この白い布で包んだ
寝台とも
寝棺とも片のつかないものの上に横になった人は、生きながら
葬われるとしか余には受け取れなかった。余は口の中で、第二の葬式と云う言葉をしきりに繰り返した。人の一度は必ずやって貰う葬式を、余だけはどうしても二
返執行しなければすまないと思ったからである。
舁かれて
室を出るときは
平であったが、
階子段を降りる
際には、台が傾いて、急に
輿から落ちそうになった。玄関に来ると同宿の
浴客が大勢並んで、左右から白い輿を
目送していた。いずれも葬式の時のように静かに控えていた。余の寝台はその間を通り抜けて、雨の降る
庇の外に
担ぎ出された。外にも見物人はたくさんいた。やがて輿を
竪に馬車の中に渡して、前後相対する席と席とで支えた。あらかじめ寸法を取って
拵らえたので、輿はきっしりと
旨く馬車の中に納った。馬は降る中を動き出した。余は寝ながら
幌を打つ雨の音を聞いた。そうして、
御者台と幌の間に見える窮屈な空間から、大きな岩や、松や、水の断片をありがたく拝した。
竹藪の色、
柿紅葉、
芋の葉、
槿垣、熟した稲の
香、すべてを見るたびに、なるほど今はこんなものの有るべき季節であると、生れ返ったように
憶い出しては
嬉しがった。さらに進んでわが帰るべき所には、いかなる新らしい天地が、寝ぼけた古い記憶を蘇生せしむるために展開すべく待ち構えているだろうかと想像して
独り楽しんだ。同時に
昨日まで
徊した
藁蒲団も
鶺鴒も秋草も
鯉も小河もことごとく消えてしまった。
万事休時一息回。
余生豈忍比残灰。
風過古澗秋声起。
日落幽篁瞑色来。
漫道山中三月滞。
知門外一天開。
帰期勿後黄花節。
恐有羇魂夢旧苔。
正月を病院でした経験は
生涯にたった
一遍しかない。
松飾りの影が眼先に散らつくほど暮が押しつまった頃、余は始めてこの珍らしい経験を目前に控えた自分を異様に考え出した。同時にその
考が単に頭だけに働らいて、
毫も心臓の鼓動に響を伝えなかったのを不思議に思った。
余は白い
寝床の上に寝ては、自分と病院と
来るべき春とをかくのごとくいっしょに結びつける運命の
酔興さ加減を
懇ろに
商量した。けれども起き直って机に向ったり、
膳に着いたりする折は、もうここが
我家だと云う気分に心を
任して少しも怪しまなかった。それで歳は暮れても春は
逼っても別に感慨と云うほどのものは浮ばなかった。余はそれほど長く病院にいて、それほど親しく患者の生活に根をおろしたからである。
いよいよ
大晦日が来た時、余は
小さい松を二本買って、それを自分の病室の入口に立てようかと思った。しかし松を支えるために
釘を打ち込んで美くしい柱に
創をつけるのも悪いと思ってやめにした。看護婦が表へ出て梅でも買って参りましょうと云うから買って貰う事にした。
この看護婦は
修善寺以来余が病院を出るまで
半年の間
始終余の
傍に附き切りに附いていた女である。余はことさらに彼の本名を呼んで
町井石子嬢町井石子嬢と云っていた。時々は間違えて
苗字と名前を
顛倒して、石井町子嬢とも呼んだ。すると看護婦は首を
傾げながらそう改めた方が好いようでございますねと云った。しまいには遠慮がなくなって、とうとう
鼬と云う
渾名をつけてやった。ある時何かのついでに、時に御前の顔は何かに似ているよと云ったら、どうせ
碌なものに似ているのじゃございますまいと答えたので、およそ人間として何かに似ている以上は、まず動物にきまっている。ほかに似ようたって容易に似られる訳のものじゃないと言って聞かせると、そりゃ植物に似ちゃ大変ですと
絶叫して以来、とうとう鼬ときまってしまったのである。
鼬の町井さんはやがて紅白の梅を二枝
提げて帰って来た。白い方を
蔵沢の竹の
画の前に
挿して、
紅い方は太い
竹筒の中に投げ込んだなり、
袋戸の上に置いた。この間人から貰った支那水仙もくるくると曲って延びた葉の間から、白い
香をしきりに放った。町井さんは、もうだいぶん病気がよくおなりだから、
明日はきっと
御雑煮が祝えるに違ないと云って余を慰めた。
除夜の夢は例年の通り枕の上に落ちた。こう云う大患に
罹ったあげく、病院の人となって幾つの月を重ねた末、雑煮までここで祝うのかと考えると、頭の中にはアイロニーと云う
羅馬字が明らかに
綴られて見える。それにもかかわらず、感に
堪えぬ
趣は少しも胸を刺さずに、四十四年の春は
自ずから南向の縁から明け放れた。そうして町井さんの予言の通り
形ばかりとは云いながら、
小さい
一切の
餅が元日らしく病人の
眸に映じた。余はこの一椀の雑煮に自家頭上を照らすある意義を認めながら、しかも何等の詩味をも感ぜずに、小さな餅の
片を平凡にかつ一口に、ぐいと食ってしまった。
二月の末になって、病室前の梅がちらほら咲き出す頃、余は医師の
許を得て、再び広い世界の人となった。ふり返って見ると、入院中に、余と運命の
一角を同じくしながら、ついに広い世界を見る機会が来ないで
亡くなった人は少なくない。ある
北国の患者は入院以後病勢がしだいに
募るので、
附添の
息子が心配して、
大晦日の
夜になって、無理に郷里に連れて帰ったら、汽車がまだ先へ着かないうちに途中で死んでしまった。
一間置いて隣りの人は自分で死期を自覚して、
諦らめてしまえば死ぬと云う事は何でもないものだと云って、気の毒なほどおとなしい往生を遂げた。向うの
外れにいた
潰瘍患者の高い
咳嗽が
日ごとに薄らいで行くので、大方落ちついたのだろうと思って町井さんに尋ねて見ると、衰弱の結果いつの間にか死んでいた。そうかと思うと、
癌で見込のない病人の癖に、から景気をつけて、回診の時に医師の顔を見るや否や、すぐ起き直って
尻を
捲るというのがあった。附添の女房を
蹴たり
打ったりするので、女房が洗面所へ来て泣いているのを、看護婦が
見兼て慰めていましたと町井さんが話した事も覚えている。ある
食道狭窄の患者は病院には
這入っているようなものの迷いに迷い抜いて、
灸点師を連れて来て灸を
据えたり、
海草を
採って来て
煎じて飲んだりして、ひたすら不治の
癌症を
癒そうとしていた。……
余はこれらの人と、一つ屋根の下に寝て、一つ
賄の給仕を受けて、同じく一つ春を迎えたのである。退院後一カ月
余の
今日になって、過去を
一攫にして、眼の前に並べて見ると、アイロニーの一語はますます鮮やかに頭の中に
拈出される。そうしていつの間にかこのアイロニーに一種の実感が伴って、
両つのものが互に
纏綿して来た。鼬の町井さんも、梅の花も、支那水仙も、
雑煮も、――あらゆる尋常の景趣はことごとく消えたのに、ただ当時の自分と今の自分との対照だけがはっきりと残るためだろうか。