「まあ
と、B歩兵聯隊附のS中尉が話し始めたのです。かう云ふと、定めて戰爭の手柄話でも聞かされるのかと、お思ひになるでせう。處が大違ひなんです。この間Mの家で、
寒さの隨分嚴しい晩でしたが、しつきりなしに
「どうだい。久し振りの罪滅しに戀愛に關する告白をし合はうぢやないか……」
と、座の一人が提議しました。
「賛成、賛成……」
と、調子づいてゐた
初めの話手はMでした。彼は法科大學生らしい口調と、少し眞面目過ぎるやうな態度である年上の女との戀を語りました。次に商店の番頭のYは、非常にセンチメンタルな調子で、ある娼婦と心中未遂に到るまでの捨て鉢な戀の告白をしました。其處には流石に世間の苦勞を甞め盡して來た男らしい眞實味がありました。温厚で、純で、そして一番年弱だつた技手のHは、少し顏を赧らめながら、或る海軍將官の娘に對する片戀の痛みを物語りました。非常にはしやいでゐた一座がだんだんに沈んで來て、中にもHは自分の話半ばに眼に涙を溜めてゐました。
「どうも
と、四番目の話手に當つたS中尉が頭を掻きながら云ひました。
山の手の屋敷町にあるMの家は、募つてくる夜の寒さに軋む雨戸の音さへ身に染む程の靜けさで、殊に
「さあS、君の番だぞ……」
と、自分の物語を終つたHは、煙草の烟の輪を吹きながら興奮した
「
と、S中尉はピンと撥ね上げた、少し貧弱なカイゼル髭を撫でながら、私を見て皮肉に笑ふのです。
「馬鹿あ云ひ給へ。君にだつて君の領分があるぢやあないか……」
と、私も笑ひ返しながらせき立てました。實を云へば、
「おい、夜が明けるぞ……」
と、口の惡いMは叫びました。
「まあ待てよ……」
やがてグラスを取り上げて、ベルモットに
「どうも戀物語と云つちやあ、僕のは少し可笑しいんだ。」
「結構、結構……」
と、一人が囃し立てました。
「さう半疊を入れるなよ。とに角まだ一月ばかり前のほやほやな話なんだ。何でも四谷の大番町にゐる友達を訪ねて、僕が大通りから九段兩國行の電車に乘つたのは丁度夜の八時過ぎだつたと思ひ給へ。中は好い工合に空いてゐて、釣革にぶら下がつてゐる人もなかつたので、僕は直ぐ中程の座席の隙へ腰を降したんだ。友達の家で飮んだ酒の醉ひはまだ醒めてゐなかつた。處でひよいと顏を上げて筋向うの座席を見ると、馬鹿に綺麗な女がゐるぢやあないか。而もその途端に向うも
「
と、Yは慓輕に膝を乘り出しました。
「とに角すつかり僕は氣になつてしまつてね、電車が止まつてまた動き出す、ひよいと向うを見ずにはゐられなくなる。處がまた妙に向うが此方を見るんだ。そして拍子を合せるやうに視線がぶつかる。まるで無線電信の火花さ。僕も初めの二三度こそきまりが惡かつたが、そんなことを繰り返してゐるうちに、とうとう仕舞ひには大膽になつて來て、ぢつと見詰めてゐてやつた。處が向うも負けないんだから、尚不思議なんだ。そはそはしてるやうな處があるかと思ふと、厭やに落ち着いた著いた處のある女なんだね。」
「ははあ、Sの奴、ひと眼で女に參つてしまつたな。」
と、恐らく四人の聞き手はさう思つてゐたでせう。S中尉はだんだん眞顏になつて來ました。
「で、僕は腹の中で考へたね。此奴高等淫賣かなんかかな――と。處が女の著物の
丁度その時、十一時が打ちました。然し時計の音なんかは、
「さあ其處で、糞つ――と、僕が度胸を極めたから話が面白くなるんだ。尤も其處からなら番町の下宿までさう遠くもないと思つたし、それに何と云つても酒のつけ元氣さ。で、電車がぎいつと止まつて、女が降りたのを見ると、僕はわざと運轉手臺から降りたんだ。處が君、女の樣子を見ると、僕の降りたのをちやんと知つてるらしいんだ。そしてすたすたと舊見附の方へ這入つて行くぢやあないか。僕は流石に氣がさしたので、新開の鐵橋の方へ歩きかけたんだが、そのまま樹蔭から女の後姿を見てゐると、やつぱり此方を振り返り振り返りするんだ。其處でとうとう第二の決斷は僕をして、舊見附の方へ足を進ませるに至つたんだね。」
「S中尉
と、誰かが思はず聲を擧げました。
「何だか咽喉が渇いたよ。」
と、少し調子づいて、
「女は舊見附を越すと、あの松の生えた
『何か御用で御座いますの……』
僕は大にどぎまぎした。
『いいえ、用があるわけぢやあないですが、あなたが大變綺麗な方だつたもんですから……』
確に變てこに硬くなつてゐたよ。が、笑つちやあいけない、平生ならとてもこんなことが
『まあ……』
と、女は優しく、そして Coquettish な聲を暗闇の中に響かせた。で、
『少し歩かうぢやありませんか。』
と、僕は思ひきつて云つてのけたんだ。
自分でも、自分がだんだん大膽になり行きつつあることははつきり分るんだ。然し、白状すれば、女の方が確に役者は一枚上だつたね。で、僕にして見れば、それだけ女の生體を掴まうとする好奇心が波打つてくるわけだ。それに君、風はなかつたが、凍るやうな寒い晩で、澄み切つた空には星がぴかりぴかりやつてゐるのさ。とうとう不思議な spazieren[#「spazieren」は底本では「spazielen」] zu gehen が始まつたんだ。」
「今夜の傑作だ……」
とぢつと聽き入つてゐたHが、少し紅味を帶びた、輪廓の整つた、品の好い顏を上げて呟きました。S中尉の話には次第に油が乘つて來ました。
「まあ聞き給へ。それから初めに肩を並べてゐた二人が、次に手と手を握り合ひ、やがて肩から腰へと手を掛け合つて、身を寄せて、あの濠端の暗い道を二時間も行き來して、語り續けたんだ。ちよいと見て高等淫賣と見極めをつけてゐた僕は、初めのうちはありふれた世間話でお茶を濁してゐたが、そのうちに女はだんだん眞劍になつて來て、まるで僕を戀人のやうな位置に置いて、
『世間て、どうしてこんなに薄情なんでせうね。私程不幸なものはない――と、時時さう思つて、悲しくなりますの……』
と、大に同情を求めて、仕舞ひには身を震はして泣き出すんだ。いささか持て餘したね。そして勿論はつきりしたことを云つたわけぢやあないが、僕が軍人であることをほのめかすと、
『軍人の方は頼もしい。』
などと云つて、僕の手を執つて、何度か
『今夜はどうしたんです。』
と、僕が聞くと、なんでも今はその濠端の或る華族の家へ、臨時の奧女中とかに雇はれてゐるのださうで、その晩はちよつと自分の家まで行つた歸りがけだつたんだね。そしてわざわざ自分の名前と、その雇はれてる家の電話番號まで教へて、用があつたら掛けろつてまで云ふのさ。驚いてしまつたよ。何しろ、あんな大膽――さう云ふのかな、大膽な女に會つたのはそれこそ生れて初めてなんだからね……」
「よくその晩、連れ出さうと云ふ氣にならなかつたね。」
と、Yが少しからかふやうな調子で云ひました。
「まさか、さうも行かないさ。此方が何しろ弱味なんだからね。それに僕としては體面もあるから、さう馬鹿なことも出來ないよ。さうさう、それから君、話の最中に自分の指輪を僕に遣らうとまで云ひ出したんだぜ。僕にはよくは分らないが、きらきら光る寶石入りで、それが安い物でなかつたことだけは確だ。然し、其處まで圖圖しくは流石になれなかつた。そして指輪は強ひて返したが、見も知らない他人の僕に對して、どうしてそんなことが出來るものか、分らないのは女の心持さ。そしてその晩は女がその家の門を這入るのまで見屆けて別れたんだ。」
「御苦勞樣だね……」
と、Mは笑ひ出しました。
「まあ、もう少し聞き給へ。それから四五日經つてから、無論半信半疑で、その家へ電話を掛けると、間違ひもなくその女が出て來たんだ。で、その時打ち合せをして、或る處で出會ふ約束をしたんだ。その翌日だ。まさか來てやしまいとは思つたが、其處は欲目で行つて見ると、案の定ゐなかつた。さあ、さうなると、此方は未練があるだけに口惜しい、殘り惜しさが身を責める。
さう、最後の詞を途切ると、S中尉は如何にも口惜しさうに溜息をして、口を噤んでしまひました。
私は彼の性格や、生活をよく知つてゐました。郷里に貧しい兩親を殘してゐる彼の生活は決して華かな、樂しいものではありませんでした。そして女なんかに縁のなささうな、忌憚なく云へば、戀の出來るやうな型の男ではなかつたのです。勿論、戀の出來ると云ふことが人間にとつて、それ程重大な事柄ではありますまい。然し、彼が時時私に打ち明けた内心の寂しさや、よそ眼にもそれと知れる心の焦燥は、頭の單純な男だけに、一面は其處にあつたと言はねばなりますまい。何しろ若い generation にとつては、それが心の滿足と、慰藉の[#「慰藉の」は底本では「慰籍の」]、見方によつては重要な部分になると云ふことは、少くとも確な事實でせうから……。
「面白い話だ……」
と、叫んだのはYです。
「だが、其處でぽつんと糸のやうに切れた處が、極めて意味深長で好い……」
と、にやにや笑ひながら云つたのはMでした。
「意味深長かも知れないさ……然し僕にはこれが生れて初めての、オンリイ一つの戀物語と云へば戀物語だ。若い時の思ひ出にこれを大事にしまつて置くよ。僕はとてももう一生女に惚れられさうな男ぢやあないからね。」
と、S中尉はやがて諦めたやうに云つて、寂しく笑ひました。
面白がつて聞いてゐた三人も私も、ふいと下を向いて口を噤んでしまひました。そして、暫く變にあらたまつた沈默を續けました。
勿論、その時の
「すべてが運命の
その瞬間、五人が五人ともぢつと沈默したまま、そんなことをしみじみ思ひ浮べてゐるやうに見えました。
「然し考へて見ると、戀愛なんて結局つまらないものだ。」
と、Yは言はずにはゐられないと云つたやうな樣子で、いきなりその重い沈默を破つてしまひました。が、
「だがねえ、君、僕の場合に於てさ、その時の女の心持つて一體どう云ふのだらう。どう考へても、わけが分らないんだ……」
暫くうつむいて考へ込んでゐたS中尉は、やがて思ひ出したやうに身を起すと、どうしても解けない謎を持ちあぐんだやうにかう云ひました。
「そりやあ君、分つてゐるさ。女は屹度月經期だつたに違ひないよ……」
と、Mは苦もない調子で、はつきりと云つてのけてしまひました。
S中尉は幽かに苦笑しました。座は明かに白け渡りました。
丁度十二時少し前でした。
(七年一月作)