一
汽船
冬期における北海航路の天候は、いつでも非常に険悪であった。安全な航海、愉快な航海は冬期においては北部海岸では不可能なことであった。
万寿丸
万寿丸は右手に北海道の山や、高原をながめて走った。雪は船と陸とをヴェールをもってさえぎった。悲壮な北海道の
生命のあらゆる危難の前に裸体となって、地下数千尺で掘られた石炭は、数万の炭坑労働者を踏み台にして地上に上がって来た。そして、今、海上では同じく生命の赤裸々な危険に、その全身を船体と共に暴露しつつある、船員の労働によって運送されるのであった。
ランプ部屋はブリッジに向かい合って、水夫室と火夫室の間に、みじめに、小さくこしらえられてあった。藤原はそこでランプのホヤをふきながら、水夫たちが、デッキを掃除しているのを見ていた。彼はこのごろボースンにも、一等運転士にも見込みが悪いことを知っていた。「ストキ(倉庫番)にもワシデッキの時には手伝ってもらわなきゃならん。一万トンも八千トンもある船とはちがうんだからな」と、いつか水夫たち全部がそろって飯を食ってる時にボースンにいわれたことがあった。
「ふん、ストキとは倉庫番てことだ。倉庫番は倉庫の番さえしてりゃ、それで沢山だろう」と、彼は答えた。
――それ以来、どうも、おれは水夫たちの仲間からまでも受けがよくない――と、さびしそうに、ストキは考えた。
二
船のエンジンはフルスピードをかけていたが、風と浪とで速力がまるで出なかった。未明に
その夜、高等船員側では室蘭へ引きかえそうかとの相談も行なわれたが、それは実行されるには至らなかった。
水夫たちは、暴風雪がだんだん猛烈になって来るにつれて、その作業も平常とは趣を
浪はその山と山との間に船をはさんでしまう。その谷になった部分が船のヘッドから胴体へ進む時、次の山の部分がヘッドに打ちあたる。鉄製のわが万寿丸も、この
機関室の方も
汽罐室のま上のコック場では、コックが、いつも一度で
コロッパス(石炭運び)は、石炭庫の中で、頭じゅうをこぶだらけにするのを、どうしても免れるわけには行かなかった。
水夫らは、デッキを洗う波浪からダンブル内への浸水を
彼らはそのからだが、そのまま凍るような風の下に、メスのように光る、そして痛い波浪に刺された。そしてそれは、あまり動かない部分をカンカンに凍らせた。
船体の危険と、船体と共にする自分自身の危険と、そして、てきめんに自分の凍えんとする肉体に対する危険とは、火事が
まだ二つのハッチが船尾の方に残っていた。そして、時間は今夕食に迫っていた。水夫たちは、飢えを感じた。けれども、海も飢えを感じて、わが万寿丸をのもうとしているのであった。
船は絶えずもがき、マストは絶えず悲鳴を上げ、リギンは絶えず恐怖に叫んだ。船首の船底は、波浪と決闘するように打ち合った。船尾ではプロペラーが、その手を
自然と人力とはその最大の力と、あらゆる知恵とをもって戦闘した。
三
船を一郭として、人間と機械とが完全に協力して、自然と戦っている時に、船員たちは、自分たちが、
水夫らは、船首の方を済まして、船尾のハッチへ行くために、サロンデッキに
セーラーたちは、ビクリとした。のみならず、コック場のコックやボーイや交替で休んでいた機関長や、ブリッジの上の船長やは、全部が小倉の飛んでった
小倉は、船尾へ駆けつけた。そこには、ブリッジからあやつるスティームギーア(蒸気
小倉は、水夫見習いが楽に出るようにと思ったのであったが、しかし舵機は同位に船首を保つために、一刻も
そこへ水夫らは全部かけつけた。あるものは、カバーの
水夫全体の力と小倉との力は水夫見習いを、鎖とカバーの間から引っぱり出すことができた。けれども見習いは、引きずり上げられた
仕事着を彼から脱がせることは最大の急務であった。が同時に最大の困難でもあった。まるで帆布作りの仕事着ででもあるように、それは凍りついていたのである。ついて来た藤原は、その腰のメスを抜いて見習いの仕事着を
ボーイ長の右手と右の肺の部分に紫暗色の打撲傷ができていた。そして左足の
ストーブがないために、水夫らははなはだしく寒かった。見習いは、傷と、凍えのために、もしこのままにして置くならば、必ず、始末は早くつくということを皆知っていた。そこでついて来たストキと、水夫二人は各水夫の巣から、ありったけの毛布を集めて、それをかけてやった。
そして、そのまま、全部彼らは船尾ハッチのカバー作業に駆けて行った。
船尾のハッチは船首のそれと同様の危険と困難さをもって、作業された。手の届きそうな低空を、雪雲が横飛びに飛んだ。中に、濃い雪雲は、マストに引っかかってそれを抜いてでも行くかのように、はげしくマストを揺すぶった。水平線は、頭上はるかにのぼるかと思うと、
船尾部分のハッチはこの上もなく厳密に密閉された。そして、次のは、機関室と、その上部にある士官室、サロンデッキとの陰になっていたために、以前の三つに比べて、作業は楽であった。そこで、藤原は、ランプをともす準備をするために、再び「おもて」(船首部分)へ帰って行った。
ランプ部屋へはいる前に、彼はまず水夫室へはいった。まだ十七歳の少年、水夫見習いは、痛さに
まだ、チーフメートは、何らの手当てもしには来なかった。
彼は、ボーイ長を慰めた。そしてすぐにチーフメートが「
万寿丸は
水夫らはボートやサンパンを吹き飛ばされないように、それを、より一層ほとんど、吹き出したいくらいに、
水夫たちは、一本のロープを持って、ボートの下へ仰向けにもぐり込んだり、ボートの外側――そこはデッキ板一枚の幅しかなくて、海面まで一直線にサイドなのだ――に、今縛りつける、そのボートにつかまって綱をからげるために、サイドへ足を踏んばって、海の方へからだを傾けたりした。
ボースンは、すぐ前のブリッジから、船長が作業を見ていたために、その
四
だのに、おれたちは、凍えるような風と、メスのような
ことに家持ちの下級船員はそうであった。彼らは、そうでなくてさえも、その家庭にたまらなくひきつけられているのに、
尻屋の燈台はセンチメンタルにまたたく。日は暮れかけて、
と、本船の前
船長もチーフメートもだれもがブリッジの左舷へ集まって、望遠鏡のレンズを向けた。
この少し前から、ボートデッキで、サンパンの下にもぐり込んで仕事していた、水夫の
ブリッジでは望遠鏡があるために、その汽船は救助信号を掲げて、難破漂流しつつあるものであることがわかった。
ブリッジからは、直ちにエンジンへ向けて、フルスピードを命令した。一つ救助に出かけようというのであった。
全乗組員は難破船が見えると、その救助に向かうことを直ちに知ってしまった。そして、全員はボートデッキへスタンバイした。
わが勇敢な、しかも自分も腹半分水を飲んだ半
船長は、今いったばかりであったにもかかわらず、方位を元へ返した。本船はきわめて短い五分とかからぬ
難破船のやや近くへ近づくことはできたが、本船はその船首を非常な努力の
難破船を救うということは、本船を一緒に沈める計画になるというので、船首はもうその向きを換えなかった。けれども哀れな
その小さな五百トンぐらいの小蒸汽船は、北海道沿岸回りの船らしかった。今やその煙筒からは燃え残りの
それにしても船員は、ブリッジにも、マストにも、デッキにも、どこにも見えなかった。津軽海峡を越す時に命を捨てて、ボートででも本船を捨てたのであったのかもしれない、または、その
「ああ、おれは二度まで沈没船に乗っていた。一度は胴っ腹を乗り切られ、一度は衝突だった。が、どちらも瀬戸内海で、一度は春の末、一度は真夏であった。そして、そのどちらの時も救われた。けれども、北海道の冬の海ではとても助かりっこはあるまい。おれは、瀬戸内海で沈められた時に、海の中に飛び込みざま『助けてくれ』と怒鳴った悲鳴を今でも思い出せる。その叫びをあげる
難破船はますます近づいた。日は暮れたけれども、まだ夕明りである。船は、今ならば、もっと難破船へ近づくことができるのであった。が、わが、勇敢な万寿丸は船員全体の希望にもかかわらず、船長の一言によって、冷ややかに姉妹の死を見捨てて去ることになった。そして、本船には、救助不能の信号が揚げられた。相手へ知らすためのでなく、乗組船員をごまかし、同時に海事日誌をごまかすための。
実際、この時
そのかわいい小柄な船は四十五度以上五十度近く傾いて、今にもそのまま、沈み行きそうに見えた。そして人はどこにも見えなかった。甲板の上は見事に
これは、やがて、わが万寿丸の運命でもあった。われらが、船底に飢えと寒さとに倒れて漂流する時に、も少し大きな船がまた、われらの
そして、ようやく、最後の
このようにして、わが万寿丸は汽笛を鳴らして通過した。その汽笛をかすかに聞いて、今立ち上がろうとして、その凍えたからだに最後の努力ともがきとを試みている兄弟が、その船の中にいないだろうか、そのたよりない捨てられた犬の子のように哀れな形をした船の中に。
鐘が鳴った。夕食である。水夫は水夫室に、火夫は火夫室に、
難破船は、薄やみの中に、
藤原は、船尾にランプをつり上げながら、残された船を見送って、
「あの船には、少なくとも二十人の乗組員はあっただろう。それが養っている、同じ数くらいの家族もあっただろう。あの中で二十人は凍死したか、ボートで
「人間が生きて行くためには、どうしても人間の生命を失わねば生きて行けないのか、
五
水夫室では、水夫たちが、犬ころがうなり合いながら食べると同じように、騒ぎながら、夕飯を食っていた。
負傷したボーイ長のそばには、藤原と、波田とがいた。波田のベッドは、ボーイ長のとL字形に隣り合っているので、自分のベッドで、頭をかがめながら、うまい夕食を
「チーフメートは来たかい」
「まだだよ」藤原は、まるでそれが波田のせいでありでもするかのように、ふくれっ
「随分無責任じゃないか[#「ないか」は筑摩版では「ないかい」]。三時間も打っちゃらかしとくなんて」
「距離が遠いんだよ。距離が、やつらのはね」藤原はなぞのようにいった。
「ハハハハ、なるほどね、サロンから、おもてまでじゃ三時間じゃ来られねえや」波田は、冗談だと思って笑った。
「五感と、神経中枢との距離がさ。鼻と口との距離と同じほどなんだよ」
ストキはひどく憤慨しているように見えた。「それに、こういうことになれて、無神経になるってことは、それが仲間のことであると、なおさらよくないね」
藤原は、話がむずかしいので、有名であった。彼は漢語みたいなもの――仲間の間でそういった――を使いたがる癖が骨にしみ込んでいるのであった。
まだ食事が、始められて間もなく、チーフメートは、ボーイに「救急箱」を持たせて[#「持たせて」は底本では「持せたて」]、「大急ぎ」で駆け込んで来た。
水夫たちは食事を中止した。そして、水夫見習いのベッドを、チーフメートと一緒にとり巻いた。
「ボースン! こんなに暗くちゃ何もわからんじゃないか、
かくて、蝋燭はつけられた。ボーイ長がそこへ寝始めてから、三時間目に初めて、彼の室は
彼は、陸上でひどく苦しんだ。彼の家はひどく貧乏の上に、兄弟が十一人もあった。彼は、小さい時分から、自分を養うのは自分でなければならぬことを感じさされて来たのであった。
彼は、訴えるような目つきで、また、彼のそのような負傷にもかかわらず、チーフメートに直接物を言うことを恐れて、遠慮がちに「痛あーい」とうめいた。
チーフメートは何でもかまわず、ボーイ長の左半身全体に、イヒチオールを塗りまくった。彼は一分間でも早く彼の義務が終わればいいのであった。医者のやるようなことが、彼の義務であることも
チーフメートは、限りなき
「おもては全く、寒いね、そしてまるでまっ暗じゃないか」と黒川は口を切った。彼はボーイ長の胸部にイヒチオールを塗布しながらいった。
「満船の時はどうも仕方がありません」と、ボースンは
「これじゃいくらお前らでもたまらないなあ」
「なあに、メートさん、新造船だから、いい方ですよ」とボースンは答えた。
「暗くて寒いことあ今始まったこっちゃないや、おまけに
チーフメートは
「ボーイ長の傷は存外軽くてすんだね。おれはもうとてもだめだと思っていたんだよ、命拾いしたわけだね」
「そうさ、すぐくたばりゃもっと傷が軽いわけさ、手がかからねえからな」また藤原が口を出した。
セーラーたちは、何か起こりはしないかと内心好奇心に駆られて「事」の起こるのを待っていた。
「黙ってろ! よけいな口をたたくな!」チーフメートはとうとう爆発した。
「黙ってろ? 黙るさ、だが、
戦争はすぐ開かれるか、あとで開かれるか、どんな形において開かれるか、それは水夫ら全体を興奮の極に追い上げた。
黒川一等運転手は彼の策戦が失敗したことを承認した。そして、多分この事はこれだけで片がつかないだろうと、いうこともわかった。長びくような事件にならねばよいがと彼は心配していた。特にそれは、この場合では、彼にとって絶対に都合のわるいことであった。彼は、黙って、早く手当てを済ますに限ると思ったので、その手当てを急いだ。
かくして、イヒチオールはそれが、その本来塗らるべきところであろうと、または、傷をなして赤い肉の出たところであろうと、出血しているところであろうと、おかまいなしに塗りたくられた。また、いかなることが起きても、起こらなくても、ボーイ長の左半身全体をまっ黒くするということは、彼の三時間にわたる熟慮の結果であった。
そしてチーフメート黒川鉄男は、そのプログラムに従って他意なくやってのけた。何ら親味な情からでもなく人間的な気持ちからでもなく、
安井はうめいた。「おかあさん、おかあさん」と叫んで救いを求めた。そして目を開いては、絶望のどん底にまっ暗になって落ち込んでしまった。
彼は、からだの
六
安井の手当てがすむと、水夫たちは、改めて、食卓についた。そして、いつでもは安井がボーイ長の職務として、食事の準備、あと片づけ等はするのであったが、
「安井君、何か食べたくはないかい」と、波田はボーイ長にきいた。
「のどがかわいて、腹がすいて、たまらない」と、彼はかろうじて答えた。
「そいじゃ今持って来るから待ってくれよ」
波田は、コックに、卵をくれるように頼んだ。
「卵なんぞぜいたくなものが、おもてに使えるかい、ぼけなすめ!」波田は一撃の
「どうだろう、ボーイ長が固い物は食べられないだろうと思うんだが、何か寝てて食べるようなものはないだろうか、とも(高級海員の事)のコーヒーへ入れるミルクを一
「それじゃシチャード(
「この野郎、鼻持ちのならねえ野郎だ」と思いながら、波田は、シチャードへ、ミルク一罐と、卵十個分けてもらえないかと交渉した。
「ボーイ長にやるんだって、ああ、いいとも、持って行きな、そうかい、じゃあパンを一斤ばかり持ってって、牛乳と卵とで湿してやるといいや、ほら、ここに砂糖と、……それだけでいいかい、そしてどうだね、ボーイ長の容態は」シチャードは親切に倉庫から、それらのものを
「どうもありがとう。金はあとでおもてから払うからね、当分済まないが借しててくれないか」波田は全くうれしかった。
「いいよ、そんなこたあ、気をつけてやりな、若いもんだ。先のあるもんだからな」
「ああ、そいじゃ、ありがとうよ」
波田は、ともかくそれらのものを持って来て、ボーイ長に与えた。
彼は飢えた
彼が安井のために、食事のしたくをする間にだれもが食事を終わっていた。そして、
波田は、それらのことには、ほかのだれもと同じくなれ切っているので、二度目の夕食をうまく食うことができた。
彼は、腹には詰め込みながら、耳には、セーラーたちの「煙草」の話を聞いた。しけたあとでは、きっと話がしんみりするのであった。いつでもふざけるにきまっている
畳敷きにはできない形ではあるが、それをその面積に換えれば六畳ぐらいは敷けるだろうと思われる「おもて」には、上下二段にベッドを作りつけて、水夫長、大工、
わが万寿丸ははなはだしく
そして、窓はすべて、二重に厳密に閉ざされ、デッキへの鉄の
その間にボーイ長は、その負傷の
彼らは、自分たちが人間であることを知っていた。そして、人間らしからぬ生活に追いまくられていることを知っていた。そして、彼らはどうすれば、これらの不都合な生活から人間らしい生活へはいれるかを、絶えず考え、その機会をうかがっていた。そして彼らはその考えをまとめることも、機会を捕えることもできないで「小資本を
その夕、ボーイ長のベッドのそばに集まった藤原、波田、小倉の三人は、皆ひどくしんみりしていた。
七
「おれたちは何だってこんなに泥棒
「それゃ君、泥棒猫だからさ」と小倉がひょうきんに答えた。彼は人に落胆させまいとして、いつでも骨を折る気のいい正直者であった。
「どうしてなんだろう」藤原はおとなしくきいた。
「十匹の[#「十匹の」は底本では「十四の」]猫の中の二匹が泥棒猫であっても、その全体が泥棒猫と思われるんだからな。まして君、十匹の[#「十匹の」は底本では「十四の」]のうち八匹がそうだったら、もちろん泥棒猫団だろうよ」
小倉は答えた。
「それじゃ、僕らは一体、生まれつき泥棒猫だったろうかね」
「多くはそうだね。つまり僕らが泥棒猫であったにしても、それは僕らの知ったことじゃないことになるわけだ」
「というと」と藤原は小倉にききかえした。
「つまりさ。僕らは、その飼い主から見れば役に立たない泥棒猫なんだ。ね、いつ主人のものをかっぱらうか油断もすきもありゃしない、とこう、見られているんだ。だから、主人の方じゃ僕らを泥棒猫扱いするんだ。扱いだけじゃないんだ、僕らを
「フーン、して見ると、僕らもその考えに適応しなければならないのかい」藤原は、小倉にきいた。
「適応する必要はもちろんないさ。しかしただ適応する者のあることだけは事実なんだ。僕は資本家が自分自身の肉体の構成と、労働者の肉体構成とが、全然、異なるものであると考えているだろうと思う」
「それで、そうなら僕らはどうだってんだね」と藤原はきいた。
「それで、僕らは、僕らとしての『意識』を持つ必要が生じて来るんだ。資本家や、資本家の
「どうして、それを考え、どうしてそれを知ればいいんだ」藤原は問いをやめなかった。
「それは、あまり困難な問題だ。僕はそれで悩んでるんだ」と小倉は答えた。
「小倉君『人間は万物の霊長なり』という人間の造った言葉があるだろう。そこでね。僕は、昔から、一番苦しい、貧しい、不幸な階級の中で、またことに貧しい不幸なのろわれた人々でも、万物の霊長だったんだろうか? と考えることがあるんだよ。『おれはあの犬になりたい』と
「それや僕もそう思うなあ。僕だって
「人間は万物の霊長であるないにかかわらず、人間だってことは僕は信じるよ。だが、人間が万物の霊長だってことは、僕も、もっとも僕は今まで、そのことをそんなふうに問題にしたことがなかったがね、人間は、ともかく賢い動物だとは思っていたよ。賢いくせに、詰まらぬところに力こぶを入れたり、どんな劣等動物でもしないような詰まらないことを、人間の特徴と誇りながらしたりする動物だろう、人間ってものは。ハハハハハハ」これが小倉の人間観であった。
「人間が万物の霊長だなんて問題に、コビリつくことはもうよそう。が、全く人間も他の動物と同様に食うため、生殖するために、地上で
「食うことと、生殖することだけで活動してるから、それで蠢動してるというのかい」今度は小倉が皮肉な聞き手になった。
「まあそうだね」と藤原はちょっと苦笑した。
「ところが君、ブルジョアはそれ以上の高利貸的官能のために、あるいはまた倒錯症的欲望のために、食わせないこと、と、生殖させないこととで蠢動してるんじゃないのかい」といって小倉は大声立てて笑ったが、フト気がついたように、ボーイ長の方を見やって口をつぐんだ。
「安井君、痛むだろうね」と、波田はボーイ長にきいた。
「ええ、痛くて、痛くて、他の人の痛くないのが不思議で……」と答えた。
「困ったね。航海中だから、まあ、できないだろうけれど仕方がないから、我慢するんだね。横浜へついたら病院へ入院ができるさ」と波田が慰めた。
「ところが、できないんだ。ボーイ長はまだ雇い入れがしてないんだ。これは確かに船長の失敗なんだ。この点から攻撃すれば、解雇手当や負傷手当などはもちろん、取りうると思うんだ」藤原はこういった。
「雇い入れがしてなくったって、入院はできるさ。この重傷を入院ささんてことはないさ。それに、雇い入れと、負傷とは、どんな関係がありようもないじゃないかね」波田は、藤原が入院を拒みでもするように食ってかかった。
セーラーの
「そんなことは、海員手帳にチャンと書いてあるこった。議論の余地なんぞありゃしないさ」と、ストキの藤原はいった。(事実それは海員手帳に記入されてあることであった。そして、いかなる場合でも船長はこれを怠ってはならないのであった。法文の上でも、実際から行ってもそれはそうでなければならず、またそうあるべきであるのだったが、さて、それがそうされなかった場合は問題はどうなるかということは、ほぼ、そうあるべき通りに、行かないのであった。要するに、理論からも、実際からも、人間は、平等に、幸福でなければ困るが、一部の人間は、平等は困る。おれたちだけのぜいたくがいいんだ。搾取の痛快味こそ生活の意義だというので、わかり切ったことがわからなくなるように、ボーイ長の場合においても、明白に、ボーイ長が有利な立場にあるにもかかわらず、その全体の利益と権利とをフイにするところの一要素である「労働者」で、ボーイ長があった。だから、これは、それほど簡単に、数学的の結果を見ることは困難であろう。その代わりに、法律的ないしは、商業会議所式の結果を見るであろう)と、三人が話し合いの末、そこまで落ち着いたのであった。
「だから、おれたちは、これに対してはたたかわなけりゃならん」と藤原はいった。
この時、ブリッジからコーターマスターが降りて来た。そしてボースンの室の入り口から怒鳴った。
「今から、ディープシーレット(深海測定器)を入れろッ」と、それから水夫室へ来てそのまん中で大声に「スタンバイ」と怒鳴った。
八
皆は、
水夫たちは起きるとすぐ、
波田は、自分の仕事着がまだ、今かわかされたばかりであるので、いくら汽罐場の上でもまだ生がわきであることを知っていた。従って彼は、猿股一つの上に
「それでも、ロンドンで買ったんだぜ」小倉はいった。
「舶来の
水夫たちは皆
暗黒は海を横にも縦にも包んでいた。
わが万寿丸は、その一本の手をもって、相変わらず
水夫たちは、倉庫からグリスを取り出して、ウエスにつけてその手に握った。
そして、ボースンが、ランプを持って、レットの機械を照らした。
ともからは、波田が以前から、その後頭の左寄りのところにインチ丸ぐらいで深さ二寸ぐらいの穴を「ブチあけ」てやりたい、とつねづねねがっていたセキメーツ(二等運転手)が来た。
ガラス管は
レットが、その
それはきわめて、それそのものとしては軽いものであった。けれども船の進行と、浪の抵抗とは、釣った魚がいよいよ陸上に上がるまでは、その幾倍もの大きさのように思われる、より以上に、その小さな沈錘を重くした。そして、その手巻きウインチは、きわめて小さくできていたために、ワイアを、一回転に、きわめて小距離、最初は二インチ後に三インチぐらいより巻き取ることができなかった。そして、それが車軸へ来るまでに、
巻き方は骨が折れた。と同時にグリスの
寒さは全く著しかった。
寒さに対しては、彼らは必要以上に、からだを揺り動かした。眠さに対しては、彼らは
セキメーツは絶えず、怒鳴り散らした。実際セキメーツにとっては、水夫らがそんな格好をすることは、仕事の能率の妨げになり、ことに「おれをばかにして」いるのであった。水夫らは、セキメーツの怒鳴るのと、波浪のほえるのと、スクルーの
セキメーツは自分の怒鳴るごとに、わざと、一度ずつ余分に入れるようにしてやろうと計画した。「こいつらをあくる朝まで巻かせてやるぞ!」と彼は決めたほど
沈錘は長い間反抗して、とうとう上がって来た。錘の中からガラス管を取り出して、それに代わりを入れて、入り口を、グリスでしっかり塗るのである。そのガラス管が錘の内へ収まるやいなや、セキメーツは「レッコ」と怒鳴る。ボースンはバネをとる。沈錘と、ワイヤとは投げられた石のように飛んで行く。
この作業を水夫らは繰り返さねばならなかった。それは我慢のならぬことであった。けれども我慢せねば、またならないことであった。
水夫らは、八度、それを繰り返した。それは、八日、航海するよりも、八日拘留されるよりも長かった。その間に四時間半を費やした。彼らはぬれた
セキメーツは徹夜の決心を、自分のために撤回した。彼も今はぬれた麩であった。
水夫がその
九
一切を夢の中に抱擁して、夜はふけた。夜、そのものは、それでいいのであるが、おもての船室は、一八六〇年代の英国におけるレース仕上げの家内労働者が、各
われわれはしけの場合は、ことにオゾーンが多いにもかかわらず、ほとんど窒息死の瀬戸ぎわまで眠る。そのために、われわれのからだじゅうは、一晩じゅうに鈍く重くなっている。そして、睡眠が与える元気回復ということは思いもよらないことであった。
われわれは、水夫室なる罐詰の、
罐詰の内部に、生きたものがいるという結果は、どんなものであるかは、明らかにだれにでも想像のつくことであった。ただそれは、その
彼らが五時間眠っている間に、海は
発作の静まったあとのように、彼女はおとなしく、静かに進んだ。
室蘭出帆の日は日曜であって、作業、それも並み並みならぬ難作業だったので、
「それは願うまでもなく至当の事じゃないか。黙って休みゃいいさ」と藤原は闘争的に主張した。
「これは、一々その都度都度、頼んだり願ったりしちゃ、面倒だし、そのたびにかけ合いに行く者が悪者になるようだから、一つ永久的の取りきめにしたら、『日曜日、出帆入港にて休日フイとなりたる節は、翌日を公休日となすこと』とか何とか、四角ばって、約束しといたら、そんなに、毎々まごつかないでも済むだろうじゃないか」波田は提案した。
「そんなにしなくたって、そういつもあることじゃないんだから、今日だけ願っといたらいいじゃないか」とボースンはなだめた。
哀れなボースンよ! 年は寄ってるし、子供は多いし、暮らしは苦しいし、かかあは病気だし、この憶病な
ボースンは、顔をあわてて洗うとそのまま、チーフメーツのところへ頼みに行った。
船は大うねりに乗って、心持ちよく泳いで行く。右手にははるかに本州北部の山々が、その海岸まで突出して、豪壮なる姿をまっ白く見せた。寂しい
風は、今日は昨日ほど寒くなかった。黒潮の影響を受けているので、デッキへ上がって[#「て」は筑摩版では「ても」]、メスで
水夫たちは皆、それぞれの
労働者は、自由や幸福や、人間性が、賃銀を得つつある間に自分に与えられ、あるいは自分からそれを得ようとすることが、全然不可能なことであることを知るようになる。人間が牛肉を食うと同じように、人間が人間を食う時代の存続する限り、労働者は、その生命が
彼らは、陸でも、これより月給がいいのに、おれは海の上でなぜこんなに少ないのだろう。おれも陸に上がって働けないだろうか、とても働けまい。口があるまい。と、彼らは法則どおりに思い込んでいるのであった。
ボースンが「とも」から帰って来た。そして「特に今日は休暇を与える」といったことを伝えた。
この報告は、何らの批評もなく皆に受け入れられ、喜ばれた。
「ばかにしてやがらあ『特に』だとよ」と、うれしそうに叫びながら、だれもが、何をするためにともわからずに、そのベッドへと駆け込んで行った。
そしてこの貴重なる、出し渋られた休日を彼らは大抵眠ってしまうのであった。全く、いつもの例のごとく、この時も、一人残らず、その巣へもぐるが早いか、眠ってしまったのであった。
唯一の切実なる欲求を睡眠に置いているセーラーたちは、そのことから見ただけでも、どのくらい彼らが過労し、酷使されているかがわかる。
一〇
朝食は八時である。波田は、ボーイ長が負傷したため、仕事の間に炊事の方をやらねばならなかった。二時間ばかり間があるので、彼はその時間を、自分のベッドへともぐり込んだ。彼は、八時になると、コックから起こされた。彼は、おもての人たちが食べるように、大きなみそ汁
ボーイ長には、昨夜どおりに、みそ汁を添えて与えて、彼は第一番に朝食についた。それは、全くうまい飯であった。みそ汁もうまかった。
波田が食っているうちに皆も眠い目をこすりこすり起きて、飯にとりかかった。
船の飯はうまかった。それは、全く沢山食われた。それは味としては実にまずさこの上もないものであった。みそ汁にしろ、沢庵にしろ、味という点から味わう時にそれは
ストキは波田に、セーラーたちが、まずいものを多く食べることには、心理的な部分も非常に手伝っているといったことがあった。ストキに従えばこうであった。
セーラーは食物を定期に与えられる。彼らは、どの食事の前にも少なくとも、四時間の労働を課せられている。彼らは十分空腹である。時間が来ると、彼らは食卓へかけつける。食卓には、盛り切りの
セーラーたちが、食事をそれほど待ち、むさぼるのは、それが自分自身のためにする(これは資本家のために、再生産することにもなる)唯一の生活手段であるからだ。自分のためにする何らの仕事のない時、ただ一つの自分自身の事があるならば、それはだれにでも、重大に取り扱われねばならないことだ。ことにそれがパンの問題に関する時は、なおさらそうでなければならない。
実際彼らは、その食事を、実際より以上に、想像をもって調理して食うのである。じゃがいものうでたのが塩で味をつけて盛られてあると、彼らは、それをキントンと呼ぶのである。そして、それは全くきんとんのようにうまいのである。
外国航路における船では、決してこんな状態ではないが、それにしても心理的には、やはりそうである。けれども、万寿丸は、これがはなはだしい。万寿丸では、船主は甲板部に豚を飼っているつもりででもあるらしい。
「こんな状態では、だれでも、心細さからだけでも、のどまで詰め込みたくなることは事実である」と。これがストキのプロレタリア哲学であった。
事実、ストキは
食事は、藤原の皮肉なる観察のごとくにして終わった。終わるやいなやまた元のごとく寝床へ犬のようにもぐり込んだのが、三上であった。西沢は
今は、藤原も、波田も、にげ出すわけに行かなかった。ほかにだれも西沢のローマンスを引き受けてくれるものがないからであった。藤原は辛抱する気でこれもむやみに、煙草をふかした。
西沢の話が、その巧妙なる山にはいって、今まさに落ちようとする時、藤原がいった。
「君の話は大変うまい。そして大層おもしろい。ただ、一度だけ純粋なほんとの話をして聞かしてもらったら、なおおもしろいだろうと思うよ」
「アハハハハ、君の皮肉の方が
「君は全く、無産階級芸術家の宝玉だ。全くだよ」と藤原は、全くまじめにいった。
「小銃だと受けこたえができるが、藤原君がタンクを使用し始めると、僕も退却以外に応戦の法がねえや。ハッハハハハ」
西沢も、そのベッドへ上がって、ころがってしまった。
「どうだい、だれもかも皆寝ちゃったね。『寝るほど楽はなかりけり、浮世のばかが起きて働く』って歌があるじゃないか、皆賢くなっちゃったね」といいながら波田は、自分の巣から本を持ち出して来て、それを、
藤原はしばらく、暗い室の中で、煙草の火だけを、時々明るくさせては
「波田君、君は感心に本を読むね、それは何て本だい。航海学かい」
「ナアニ、友人から借りて来たんだが、とてもむずかしくて、わからねえんだ」
「ちょっと見せたまえ、ヘヘー、マルクス全集、第一巻

藤原は、自分もその本を非常に読みたく思っていたが、あまり高価なので今まで買うことができなかった。彼は中をめくって見ながら「おもしろいかい」ときいた。
「おもしろいか、おもしろくないか、ためになるか、ならぬか、まるでわからぬよ。意味がわからないんだ。ところどころサーチライトで照らし出したほど部分的にわかるところがあるんだ。そこはね、本文の論旨を説明するために引例したところさ。その例だけはわかる。そしてすてきにおもしろい。おもしろいというより、何だか、僕たちのことが、僕たちの知ってるより以上にくわしく書かれているよ。だけど、その例以外はまるでわからないんだよ」波田は正直に答えた。
「僕にも読ましてくれ、ね」藤原は頼んだ。
「ああ、いいとも、読んでくれたまえ、まだ続きが三冊あるからね」
「僕も本を読むことは好きだったよ。随分よく読んだものだよ」といって彼は、波田と並んで木のベンチへ腰をおろした。彼は、人を人とも思わないような、ブッキラ棒な男であった。そして必要以上は口をきくことがきらいなように見えた。
「全く君は読書家だね」と波田は藤原に同意した。「そして、どんな本を君は好んで読んだかい」
「僕はね。ありとあらゆる詰まらない本を読みあさったよ。珠算
一一
藤原は、そのいつもの、無口な、無感情な、石のような性格から、一足飛びに、情熱的な、鉄火のような、雄弁家に変わって、その身の上を波田に向かって語り初めた。
「僕が身の上を、だれかに聞いてもらおうなんて野心を起こしたのは、全く詰まらない感傷主義からだ。こんなことは、話し手も、聞き手も、その話のあとで、きっと妙なさびしい気に落ち入るものだ。そして、話し手は、『こんなことを話すんじゃなかった。おれはなんてくだらない、泣き言屋だろう』と思うし、一方では、『ああ、あんなに興奮して、あの男に話さすんじゃなかった。この話はあとあとの生活の間に何かの、悪い障害になるかしれない』と、思うに決まってる。ところがそんな結果をもたらすような話だけが、何かのはずみで、どうしても話さずにはいられない衝動を人に与えるものなんだ。あとで何でもないような話は、何かのはずみに、だれかを駆り立てて、話さずには置かないというような、興奮や衝動を与えはしないんだ。僕は、
それで僕は見事に頭をこわしてしまった。今から考えると、そのころ、僕は何を読むかという大切な読書の要件がわかっていなかったんだ。時によると、図書館で、目録だけを半日かかって読んだ。そして結局、本を読むことは、僕に何も与えないことを知ったんだ。そして今になって考えると、そのころの僕には、生活がなかったんだ。生活が、このころの僕は煙みたいにフラフラして、地についていない、生意気な学生だったんだ。本を読むことのむだを知り、僕の頭の従って、カラッポであることを自覚した僕は、生活を得ようと考えたんだ。生活は学校を出て、その免状で月給にありついて、その範囲外は家からの補助で送るのが、生活じゃないことを僕はさとったんだ。生活とは、燃えるものだと僕は思ったんだ。焼け尽くすような、爆発するようなものが生活だと僕は考えたんだ。おれは親の金で教育を受けている。それやおれが生きてるという事にはならないんだ。おれが生きてるためには、おれが自分を
工場生活は、非常に苦しかった。学生の生活とくらべて、
こんな生活は、あそこがこういけない、ここがあアいけないとすっかりわかってるんだ。そこで、いい生活はここをああ、あそこをこうと、旋盤をにらみながら一日に十四時間も十六時間も考えるんだ。それを、やっぱり仲間たちも、多いか少ないかだけで、考えるには考えているんだ。
『いい生活を人類のために求める。そこにおれの生活があるんだ』と、こう僕は、フト旋盤に送りをかけて、腰をおろす途端に考えたんだ。それから僕は、本を読む代わりに、自分たちの生活を見つめるようになった。僕はまるで僕自身を
そして僕には、僕が学生であった時代が恥ずかしくなった一時代が来た。僕はそれから、性格が一変したんだ。それまでは、僕は、ほとんどだれからも愛される
『人間はなぜ働かねば食えないんだか知ってるか、お前』とそいつがいうんだ、僕はしばらく黙っていた。すると、
『人間はなぜ働かねえやつがぜいたくだか知ってるか、え』とそいつがまたいうんだ。
『人間は苦しんでるんだ』と僕がいったんだ。
『そうだ。一人のために千人が、十人のために一万人が』とそいつがいったんだ。僕はわかった。その労働者は、
それから僕はその男とつき合うようになったんだが、その白水という男は全く珍しく意志の強固な、感情を理知でたたき上げて、火のような革命的な思想を持ち、それを僕らが飯でも食うように、平気で、はた目からは習慣的に見えるほど、冷静に実行する男だった。A工場では、だれもその男を尊敬していた。会社では、その男を
一二
藤原は熱心に語った。彼は、白水を目の前に置いて、話してでもいるように、感激し、幸福そうに自分の話に酔っているのであった。彼は、ここまで話して来て、その好きな
波田は、熱心に聞いていた。そして、白水というのは、藤原の前名のことではあるまいか、と、藤原の話の合い間合い間には疑ったりしていた。それは、藤原によって語られ、表わされる白水ではあるにしても、あまりによく藤原に似すぎていた。けれどもそれはどうでもいいことであった。
「フーム、鉄工産業の労働者は頼もしいね」と、波田は詠嘆的にいった。
「労働者は、主人になるんだからね、労働者の手によって、平和と幸福とがあがなわれるんだからね」ストキは、ホッとしたようにしていった。
「それから、その男はどうしたんだね」と、波田は本をいじりながらきいた。
「白水は、自分の六畳の薄暗いというより、ほとんどまっ暗な
白水は、彼の室では、またはその集まりでは、まるで工場における彼とは別人のように柔和に、そして気軽になるのだった。最初の間は、だれでも不思議に思うのだった。だれかが『白水君は、工場と、家とに別々な全く
『それや僕に限ったこっちゃないぜ。君だってそうじゃないか、機械の付属品たる君と、妻君のための君と、奴隷としての君と、君の主人としての君と、だれだって、労働者はこの二つの人格を持っていないものはないだろう。君だって、機械の付属部分として働いてる時の顔つきや気持ちと、今の、それ、細君や、子供のための君としての顔つきや気分の方が、どのくらいなつかしい、親しい人間だかわからないよ。燈台下暗しだぜ、ハッハッハハハ』と。そこに居合わせた者も、皆声をそろえて笑った。彼の説明は
そして、話はいつも、こういったふうな冗談から口を切られて、なぜ労働者が機械の付属部分であるか、という質問が生じて来るのだった。それには白水君がだれも返答しない時に、ゆっくりと、よくわかるように、説明を加えるんだ。
こういうふうにして、そこに集まって来る労働者は、必ず、一つずつか、二つずつか、自分自身の身の上の解剖を会得して帰って行くようになった。
こうしている間にも、白水は、絶えず、警察から、尾行されたり、張り込みされたり、呼び出しを受けたりするんだった。そして、それが、毎晩そこに集まることが原因であることが、そこへ集まってくる人たちにもわかって来るのだった。
そのうちに、そこへ絶えず集まる者には、たとえばぼくらなどにも、時々警察の目が光るようになって来たんだ。それがなぜだかわからなかったんだ。しかし、若い者は警察からかれこれいわれることに対して、非常な反感と、従って、それを激成するような、立場になって行くのだった。彼らは今まで無邪気に聞いていた。しかし、警察が彼らの私宅を訪問したり、その工場を
『おれたち自身が何であるかを、おれたち自身で研究することが、なぜ悪いんだ』と、若い労働者たちは、警察の刺激の洗礼を受けると、一種の無産階級信念――を
そして、ついに、警察によって刺激された
ある年の秋だった。A工場のあるN市は、日本全国を襲った暴風雨の襲撃をこうむった。その程度は日本の諸都市中で最もみじめな部分に属するほどであった。
風が強くて、雨が横から吹いて、
A工場の[#「A工場の」は底本では「N工場の」]労働者も、この天災から逃避し得なかった。のみならず、彼らはその住む地域の関係上、より一層はなはだしい程度に、その惨害を受けた。彼らは少し受け取って多く養うために、安い家賃を選んだ。そこは海岸の低地であったんだ。
A工場の労働者で、白水と同じ部に出ている男が、十分にその浸水の塩の辛さをなめさされた。彼の家は床上二尺浸った。畳がまさに汚濁せる潮水のために浸ろうとする時、まさにその時期にかっきり達している彼の妻君は、生理上の法則に従って、赤ん坊を
太陽がだれをも待たないと同様な公平さと、正確さとで、その汚濁した潮水は、その水量を増して来た。叫喚があった。失心があった。泣き声が上がった。
この労働者は、
もし、この男が苦労になれなかったか、貧乏になれなかったかで、ちょっと神経質ででもあったのならば、僕らが考えても、首をくくった方が気がきいていそうに思われるくらいなんだ。ところが、この男は我慢したんだ。あとで知る事だが、この男は我慢するんだ、何でも、
彼は、この
この去勢された、馬のようになり切った兄弟は、二、三日の後会社へ行ったんだ。
『積善会の積立金をいただきとうございますが、こうこういうわけで』と事実の[#「事実の」は筑摩版では「事実」]ありのままを純客観的に――彼には、今では、彼自身のことが客観的にしか見えなくなったようだった――くどくどと述べ立てたんだ。
この積善会ってのはね、労働者の賃銀の百分の五を毎月強制積み立てをさせるんだ。そして、その金を一定の額だけ、吉凶禍福に応じて、会社からいくらかの補助金と共に『給与』してもらうんだ。そして毎年一回この金で運動会を開いて、一金一封(五十銭)を酒代として、いただくんだ。工場法の役目を、労働者の負担に転化した型が、すなわちその積善会なるものだったんだ。その積善会のお金の中で私の積立金をくださいと、この男は申し出たんだ。
もちろんそれは言下にはねつけられて、見舞料として、積善会から二円だけもらえたわけなんだ。ところが二円では何とも話が煮えんとその男はいうんだ。何とかならないでしょうかと、相談を白水に持って行ったんだ。
『それは、積立金を取ったらいいだろう。積立金は職工の貯金だろう。それを取ったらいいだろう。積善会の方はまた話が何とかつくだろう』ということで、白水は事務所へ、その節くれ立った木の切り株のような男と一緒に行ったんだ。
工務係の
おふくろと、妻と赤ん坊とを、押入れへ押し上げた、この哀れな男は、くどくどと、なぜ波が敷居より上へ上がって来たか、とか、畳と畳の間から、まず
彼の話は、決して腹の立つべき
『それで、どうだというのだね』と後明は、この男にきいた。
『へー、それで』と、この哀れな男はおうむ返しに答えた。そしてそれっ切りで先が出なくなってしまったのだ。彼はもう、自分の要件は今までの話の中で話した、それも繰り返し繰り返し話したような気がしていたのであった。もうこれ以上何を申し上げましょうといった顔つきをしていた。
一三
『そういう悲惨な事情であるから、自分の労働賃銀の一部を積み立ててある、積立金を払い戻してくださいというのです』白水が代わって話した。
『君は頼まれて来たのかね』後明は、それの方が先決問題だというような顔つきできいた。
『そうです』
『そうかね』と、今度はその男にきいた。
『へー』と、どっちだかわからぬ返事をその男はした。
『その事が、その積立金払い戻しについて、それほど重大な先決問題じゃないではありませんか、問題はきわめて簡単でしょう。労働者がその売った労働力に対して支払った金額の一部を、会社が労働者のために積み立ててある、強制的に。その金額を、労働者が返してくれというのは、まるで一分の思考をも要しないことじゃありませんか』白水はまくし立てた。
『そりゃね、だれも払わんとはいわんのだが、どういう手続きで持って行こうってんだね』
『支払い伝票さえ書けばいいこっちゃありませんか』
『つまり、退職しようというんだね』と、意地わるの後明人事係はいった。
『退職! だれが、いつ退職なんていったんです』と白水は少しずつ興奮してやり始めた。
『だが、会社の規則では、積立金は、退職の時に支払うということになってるもんだからね。従って、積立金を受け取る者は、同時に、賃銀の残額をも一緒に支給されることになるわけだね』と、その豚めは、いやに
『もちろん』と、白水は口を切ったんだ。やつが、何か心に決することがある時の重々しい口調でね。
『労働者が退職して行く時に、積立金が賃銀と同時に支払われるのは、当然なんだ、それは工場法にも明記されてあることなんだ。しかし、それはいかなる事情があっても、会社に損害のかかった場合でも、それから差し引くことができない、性質の金なんだ。その金が本人退職後もなお会社に残っていたとすれば、明らかに委託金横領ではないか、その金が支払われるのが、いつも最後の例だからって、その金を受け取ることによって、辞職を意味するなんて、そんな
白水がその重々しい論調で、
『しかし、私はまだ、
『悪い例なら破ったらどうだというんだ。旧来の
『いや、君のように興奮しちゃ困りますよ。そういうお気の毒な事情ならお払いするようにしましょうが、何しろ前例のないことですから、一度重役まで伺って見なければなりませんが、今すぐでなければいけないんですかね』と白水にいって、
『オイ、どうだい、すぐいるのかい』と、哀れな切り株にきいた。
『もちろんすぐです。
『それじゃお話しして来ますからしばらく待っててくれたまえ』といい残して、バリカンでいたずらに毛をきられたむく犬のような格好で、後明人事係は出て行ったんだ。
長いこと待たせて後明は帰って来て、紙っ切れを渡して、
『それへ金額を書いてください、そして、その金額は向こう三か月間に分割して、収入から差し引いて積み立てますから、そのつもりでいてください』と抜かしやがったんだ。
『何をこのむく犬め』と、白水はいきなり怒鳴りつけて、そこにあった
『へえ、ありがとうごぜえます。今さえ助かりゃ、あとは三月で間違いなくお返しいたしますから』と、一方で白水を引っぱりながら、一方で後明に、承知をした上、ご丁寧なお辞儀を一つしたんだ。
『へえ、何に、今の都合がつきゃあとはまた、まっ黒になってかせぎますから』と白水にいったんだ。
その事件があって後の白水は、会社側からはなはだしく忌みきらわれた。そして白水の
この家屋浸水事件後、僕と白水その他の多数の兄弟たちが、A工場に対して、N市における最初の大規模な応戦を試みて、全部が、見事に陣頭に倒れ、おまけに僕と白水とほかに四人の兄弟が、その争議のため、
僕らは、警察から検事局、検事局から未決監、予審と、順を追うて進むべき道を進んだんだ。そして、そこへ送られた五人の初犯囚は、警察の恐るべきでないと知ったごとく、****なる[#「なる」は筑摩版では「る」]べきでないことをまた知るに至ったのであった。その争議は、N市に永久に、無産者運動を据えつける基礎になった。
そして、その刑を終えると、同志はそれぞれ
ストキはポケットから
「波田君、僕の話がいや味になりやしなかったかい。うんざりしちゃったろうね」
「いいや、おもしろかった。僕は、君らが経験した監獄の話を聞きたいんだ」
「監獄の![#「!」は筑摩版では「?」] 監獄の話は単調なものだ。単調無為という苦痛だけさ。社会では、僕らの生命はそれを顧みる暇のないほど多忙に搾取され、その
「さあ、それじゃ、僕は昼食のしたくをしなきゃ」といって、波田は、コック
デッキでは、藤原は、波よけにもたれて、荒涼たる本州北部の風光に見入っていた。
一四
わが万寿丸は、三日間の道を歩んで、その夜十一時ごろ横浜港外へ仮泊するはずだった。船は
横浜は、水夫ら、火夫らの
東京湾の波浪も、太平洋の余波と合して高かった。
それでも、もう本船が、酔っぱらいのように動揺する。というようなことはなかった。
一時に一切が静かになった。一切の興奮と緊張とが、一時に沈静した。
「一切は
水夫らは、船首上甲板に立っていたが、錨が投げられると共に、その
「オーイ、これからサンパンをおろすんだぞ」
あたかも強い電波にでも打たれたように水夫たちはこの言葉に打たれた。
古今共に
この漕ぎ手に白羽の矢が立ったのは、
二人の漕ぎ手は、一里余の暗黒の海上を、サンパン
船長は、「秘密」で、上陸して、その家庭へ帰るのであった。そして、その翌朝、「秘密」に、ランチで本船へ帰って、それから、「公然」入港するという手順になっていたのである。
それらの面倒で危険な、
船長は、船長室でしたくをしていた。彼は、彼の家庭についてだけ
彼はトランクに種々のものを押し込んだ。そしてはまた出した。そしてため息をついた。「サンパンの準備は何だってこんなに手間取るんだ! わかり切ったことじゃないか、一度や二度のことじゃあるまいし、チェッ!」だが、彼は、まだ催促については我慢していた。そして彼は自分の室を見回した。
船内において一番きれいな、広い、凝った、便利な室ではあった。が、彼にとってそれは、ビール箱の内側であった。それはすこしも愉快なものではなかった。それはかわいた
ボーイがコーヒーを持って来た。
「まだ、したくはできないか、ボースンを呼べ!」と彼は、ボーイに命じた。そして、ボーイに対しても腹を立てた。「チョッ! こんな気の抜けたコーヒーを持って来やがって、コーヒーの保存法も知らないんだ、やつらは」彼は、煮えつくようなコーヒーにのどをうるおした。
「ソーッと、出し抜けに、おれは帰らなきゃならん。自動車は家へ知れないくらいのところで、帰してしまわなくちゃ、そして……」船長は、絶えず妻にやきもちを焼いた。そして、彼も、それほど妻を愛してはいないことを、誇示するつもりで寄港地ごとに遊郭に行った。そこではよく、水夫と一つ女を買い当てたものだ!
それは、全くおもしろい、こっけいな、喜劇の一幕を演ずるのだが、今は、サンパンが用意されようとしている。
一五
水夫らは、ともの、三番のウインチに
綱は少しずつ繰り延べられた。それは板の上へおろされるのであるならば、サンパンにかかっている
ボートデッキで綱の操作をしている二人の水夫も、
今、伝馬は波の斜面に乗った。波田はともの
波田は、
彼が伝馬をタラップにつけた時は、そのからだじゅうは洗ったように汗になっていた。波を削る風はナイフのように鋭かったが、それが、快く彼の
おもてへは、みな帰って、船長が帰ることについて、ものうさそうに、一言か二言ずつの批評を加えていた。
三上と小倉とは、からだじゅうを
「オーイ、行くぞーっ」と、当番のコーターマスターがブリッジから怒鳴った。
「ジャ頼みます。ご苦労様、願います」と残る者は
二人の船頭さんは、船長の私用のために、船長の二倍だけの冒険をしなければならなかった。
船長はボーイに導かれてタラップ口へ出て来た。
彼が何かを入れたり、出して見たりしていたトランクを、ボーイはさながら貴重品ででもあるかのように、もったいらしく持っていた。
船長は、やきもちをやきながら、ローマの
船長以外のすべての者は、鉛のように重い鈍い心に押えつけられた。伝馬の
水夫たちは、おもてへ帰った。そして船長を送り届けてサンパンの帰るまでは、眠ってもよいのであった。けれども、だれも黙って、ベンチへ並んで腰をおろして、
過度労働のために、水夫たちは、無抵抗的に催眠されていた。そしてそこには死のような
時々だれかの神経が少しさめると、そこにはその神経を待っていた多くの不快な刺激が、それをムズムズとくすぐるのだった。それは
船員たちは、こんなことが「労働」だとは思っていなかった。彼らは、自分が寝るも起きるも賃銀労働者であることは知っていた。けれども、それを絶えず意識の中にしっかり、握り詰めているわけには行かなかった。ことにその労働場が船であったために、彼らは一軒の家に住んでいるように心得がちになるのであった。彼らは、えて、自分に課せられる不当な労働、支払われない労働を、ついうっかり、「つとめ」だと思い込んでしまうことが多かった。
「一つ
そのうちに、
「あああ、人間がいやになったわい」と西沢は、一番奥の彼の巣からうなった。
「どうだ、種馬になったら」と、波田が混ぜっかえして、そのまま、死のような
一六
本船を離れた伝馬は、その航海に本船が経験した、より以上の難航であった。港口は、すぐそこのように見えた。けれども、小倉と三上との腕のさえにもかかわらず、まるで港口に近づこうとはしなかった。船長はじれ切っていた。
「あの灯のあたりがおれの家だ」と、乗って二十分ぐらいの間は、思っていた。ところが、いつまでたっても港口が近づかなかった。しかし、まっ暗やみであったが、
伝馬は、
しかし、彼らは二人とも、本船を離れるが早いか、これはむずかしいと直感したのであった。櫓は、振り回す
本船は、黒く、小さく、港口の方に見えた。
彼らは流されつつあることを知った。しかし、彼らは、彼らの持っている最大の力以上は出せなかった。その上彼らは三十分全力を尽くしたのだ。彼らは、その潮流と、その風とに到底打ち
一切の物がその息を潜め、その目をつぶっている。その時に、その何物も見得ない
ことにそれは、この
今は、二人の
それは、だれもみてもいないし、聞いてもいないし、感ずることもできない、全く暗黒な[#「暗黒な」は底本では「黒暗な」]闇の中であった。そこには、どんな叫び声をも一のみにする
「そして、あいつは、たった
小倉は同じような考えを別な方から
おれが、人類の歴史を見て泣くように、おれはまた泣かねばならぬ歴史を、書き足しつつあるんだ。おれは、そういう
「おい!
「船長! 引き潮だから、いくら押してもだめだ。港口に行きゃあ、また流れっちまうだけのもんだ。それよりゃ上げ潮を待った方がいいや」三上はまだ獲物のそばにでもいるように薄気味わるく、ぞんざいな言葉を使った。
「ばかなことをいうな! 夜が明けちまうじゃないか、しっかり押せ!」
「自分でやって見るといいや、これ以上おれたちの腕にゃ合わねえんだから」三上はいよいよ
「何だ! やらないというのか! よし! 覚えておれ!」船長も仕方がなかった。こんなまっ暗がりの海の上でけんかをすれば自分が負けにきまっているのだった。彼は
「何だと! 覚えておれ? この野郎!
三上は、低能だといわれていた。彼にはいろんな発作的の行動があるのだ。船長は、それを知っていた。それでいじけ込んでしまった。ばかに相手になってこの暗い海へほんとにたたき込まれたら、全くそれ切りだってことは、十分に船長も知っていた。
「三上、そう
「着けば『わかる』んだね。よし来た」仙台はまた、ぼつぼつと
小倉は、おかしかった。「着けばわかる!」三上の野郎首を切られるのがわかるだろう、ばか野郎め! せっかくおもしろいところまで筋が運んだと思ったら「わかる」で済ましちまやがった。フ、これが「労働者」なんだ。だれにでも、たった一言できれいにだまされちまうんだ。これだから、人間の歴史がいつまでも[#「いつまでも」は筑摩版では「いつでも」]、歯がゆくて
しかし全く、心細い「航海」ではあった。海はすぐその足の下でうなっていた。
三上と、小倉とは、その生活の大部分がそうであると同じに、今もただ機械的に働いているに過ぎなかった。けれども、彼らは、恐ろしく
船長も、今は強圧的に、頭ごなしにやっつけるわけに行かなかった。もちろん[#筑摩版ではここに「彼は」が入る]、その精鋭なるピストルは本船に置いて来たのであった。このために彼は、幾分かその憶病さの度が募ったのでもあったが、何しろ、彼は、ただ一人であった。その権力――与えられたる――を保証し、それを暴力化せしめるところの背景が、全然、今、彼に与えられていなかったのだ。
「力が一切を決定するのだ。民衆は、今恐ろしい勢いで力を得つつあるのだ。力が正しく働くか、力が悪く働くか、力が搾取的に働くか、力が共存的に働くか、によって、人類が幸福であるか、不幸であるか、惨虐であるか、平和であるかに分かれるんだ」
小倉は、船内において最大、最高の、公、私、いずれにもわたる権力の所有者である船長が、その一切の暴力的背景を置き忘れて来たために、この短時間の間に、五倍の太さの腕を有する三上の一
「おれたちが力を個々には持っていても、それが組織されていない、訓練されていない、というところに一切の敗因が巣食っているのだ!」小倉は、それが個々に露頭の突き合ったおもしろさから、あとから、あとからと、それについての考えが、わき出て来るのだった。
「だが、おれたちは、今、この万寿丸の状態で、労働者の個々の力を組織することができるだろうか、発作的な、衝動的な、同志打ち的な暴力の発動は、おれたちの仲間にある。(以下八字不明)はおれたちの上にあるのだ。おれたちは、十分に組織された暴力をもって傷つけられる上に、まだ足りないで、自分自身の暴力まで用いて、自分を傷つけるんだ」
小さな伝馬は、その危険なる海上を、その暗黒の中に、船長の地位も権力をも完全に
船長は、
彼にとっては、三上が一秒間でも彼を侮辱したことは、三上の生涯を通じて所罰さるべきであり、そのそばに黙って
「それにしても身のほどを知らない、ゴロツキだ。一体このごろの労働者は生意気だったり、
船長は、三上が癪にさわってたまらなかった。それはありうべからざることだ。想像だもつかないことなのだ。奴隷に等しいものが「どうも、これははなはだおもしろくない現象だ。そういうことは、根絶しなければならない。いや、全く法律が不完全だ」
船長は、変わった解雇方法で三上をいじめてやろうと決心した。
一七
潮は今、引き潮の最頂点に達した。
万寿丸の
十一時におろされた伝馬は、今、十二時半まで、まっ黒やみの中に、吸いつかれでもしたように一つところに止まっていたのだった。
日本波止場まで一時間はかかるのであった。
小倉は勘定していた。「一時半について、それから三時に船に帰って、三時半に伝馬を巻き上げて、四時から、おれはワッチだ。チェッ! 畜生![#「畜生!」は底本では「畜生」] ここでこのままへたばって眠った方が気がきいてらあ、畜生!」
三上は、この時すこぶるおめでたい、がしかし実際的な、そして架空的な、とっぴな計画を立てていた。そして、その計画は、船長が「わかる」ようにしてくれれば、やらずに済むのであったが、もし、おれをだましでもしたら、かまわないから、やってやろうとした、復讐的な意味をも含んだところのものであった。
三上はこう考えた。船長はおれをきっと女郎買いにやってくれるつもりに相異ない。船長だっておれが上陸ごとに女郎買いに行くのは、知ってるんだから、それに今夜は、あんなふうにいってたんだから、きっと「サンパンは
「もし、万が一、そのままうっちゃらかしてでも行きゃがったら、その時はきっとやってやるから」と、すごい目つきを、
三上は、変態性欲的というか、あるいは不飽性性欲的というか、または、彼の肉体が立派なように、従ってその性欲も、船員のような性的に不都合きわまる条件の
彼が、もしその
西沢は、三上と一緒によく遊びに上がったものだが、それは、いくら西沢が逃げても隠れても、三上があとから、付いて行くことに原因したことだった。そして、三上は、西沢の室の前に、腹ばいになって、西沢の寝物語をすっかり聞いたりなどするのであった。それは、何のためであるかはだれにもわからない。ただ、西沢は、「おれと一緒に上がった晩」こういったというのだ。つまり「西沢が相手の女に向かって、『お前はどうしてお女郎になるような身になったんだ。いずれ、深い事情があるだろう』と、きいたところが、その女郎め『わしのうちは、おとうさんが百姓で貧乏だったところへ、不作が三年続いて、地主に
この話は三上の直接の、彼自身だけに関する露骨な
「そうすると、西沢のど助平め、何というかと思ったら『や、義理ほどつらいものは全くない。そして、そのつらい義理を守るのは貧乏人ばかりだ。義理を守るから貧乏にもなるんだ。私の家も貧乏で、ちょうどお前さんくらいの妹がある。その妹も、やはりお前さんのように、このつらい商売をして、私と一緒に信州の親たちに仕送っているんだ。私は妹からのたよりで、お前さんたちが、どんなにつらい
わが兄弟たちは、船乗りになるまでに非常に多くの苦しい経験をなめて来ている。そして、小倉などは、一村の運命をになって志を立てようとしていた。地理的にいっても、社会的にいっても、海は最も低いところで、そこへ流れて来た「人間のくず」どもは、現社会の一切ののろいを引き受けて来ているように見えた。
女郎買いをすることは、船員の常習であると[#「常習であると」は底本では「学習であると」]いわれていた。ことに下級船員は、そのために、全収入を
彼らも女郎買いをしたくはないのだ。愛人が必要なのだ。だが、今の社会で口のあいた
ブルジョアどもは、その娘をダンスホールへ陳列し、プロレタリアの娘を、監獄のよりも高い
ブルジョアどもは、人間を、自分たちを除いた一切の人間たちを、字義どおりの「馬車馬」的賃銀
そして、労働者は、生きたまま、何万馬力の電動機によって運転されている「
こうして、賃銀奴隷は最後まで、人間でありたいという希望と努力を挽き砕かれて、無機物か何ぞのように、ブルジョア文化の路傍へほうり出されるんだ。そして、それは、ブルジョア道路を永久的にするためのコンクリート中の一石塊となって、永久に、道路の一部をなすように、計画されてあるのだ。
だが、今はもうその計画どおりには行かないだろう! われらに教育がないということは、われらから、教育の機会を
一八
船長は、飛び上がった。トランクも投げ上げられた。
小倉は、
船長は、まだ十分その権力が裏づけられていなかった。船長は、ポケットから、その金時計を出して、機械マッチで今が一時四十分であることを知った。彼は自動車で十五分、二時には家へ帰りつける。で早く、「この油断のならないナラズ者」どもを、本船へ帰してやらねばならなかった。
彼はポケットから、五十銭銀貨を二枚つかみ出して、それが確かに二枚であることを知って、それを、小倉に渡した。
「
「船長!」と、三上は、思わず叫んだ。
船長はビックリした。危うくトランクを取り落とそうとしたほどビックリした。そして何も考える間もなく、三上は船長の前に立ちふさがった。
「どうしたんだ。わからねえや」三上は
小倉は、静かに、黙って、成り行きを見ていた。「おれはこの場合すべき事を知っているんだ。ものは始まってからでなければ済むものではない。だが、それはまだ始まっていないんだ!」
「小倉に金を渡しといたから、あれで何か食べて帰れ!」船長は、自分の立っているところが、まだ波止場であることは、非常に形勢を不利にすると、考えていた。――逃げるには逃げられぬわい――
三上は、黙って、船長の前に突っ立っていたが、やがて、身を引いた。
船長はホッとしながら歩きかけた。三上はまた突然その前へ行って立ちふさがった。
――今度は何か起こる――と、船長も、小倉もとっさに感じた。
三上は万寿丸で、一番強力だった。
「忘れちゃいないね」と、三上はうなった。
「あ、そうか、そうか」と、船長はいって、またポケットへ手を突っ込んだ。そしてガサガサあわてながら、また五十銭銀貨を二枚つかみ出した。「スッカリ忘れてた」
「まだ忘れてるよ」三上は押っかぶせるようにいった。
船長は、五十銭玉を二つつかんだまま、ブルブル震えながら、そこへ突っ立っていた。早く帰りたいのになあ。チェッ!
「いくらいるんだね」とうとう船長はごまかし切れなくなってきいた。
「十円」三上は答えた。
「十円!」船長は、すっかり驚いた。二円出したことが彼にとっては、とても思い切った奮発だったのに。三上は十円を要求するのである。
「それや
「明日は明日だ」といったが、三上の心中には、今、口から出したくらいでは、とてもはけ切れない激怒の情が、その全身の中に爆発した。
「今夜帰れば途中で凍えるわい!」と、彼は、船長の頭の上から、ハンマーででも打ちおろしたように怒鳴りつけた。
「
船長は十円に非常な執着を感じたが、それよりも彼はやっぱり、その命の方に
そして、彼はそのまま、波止場を出て、
彼はそのまま、警察へ電話をかけようとしてまたやめた。今夜かけると、おれは家で寝るわけには行かなくなる。それにおれは今夜は上陸してはならないはずなんだ。それはごまかしはついても、とにかく、今夜は家へ!
彼は、暖かい家庭の人となった。妻は、彼がおそくなった事情は、「水夫の
二人は床の中で夜の明けるまで話した。
一九
三上と小倉は、水からはい上がった犬のような格好で、サンパン小屋の前へ行った。そこは、ルンペンプロレタリアがサンパン押しとして、
死にかけた犬にも
その夜は、それらの夜店も見えなかった。
三上と、小倉とは、その凍寒と、飢餓とから
それは彼らが今さまよっている海岸付近か、でなければ遊郭の付近であった。
彼らは、大通りに出た。そして十五、六間も歩いた時、その横丁に港町独特の飲食店がまだ起きているのを見いだした。二人はすぐ、そこにはいった。二人の異様な風態も、その凍えたぬれたところなども港町の飲食店はなれていた。幸いに、二人は、そこの一室へ、そのズブぬれの靴を脱ぎ、その着物をかわかしうることになった。二十七、八になる女中がすぐに
「どうしたの、ちょいと、今ごろ、今入港したの! そうじゃない? まあ! 随分ぬれててね。若いからよ、ホホホホ。脱いでかわかしなさいな。ね、私、着物を持って来て上げるわ、泊まってくんでしょう。もちろんだわね。ホホホホホホ」
彼女は全くの親切からのようにそういった。そして、下へ降りて行った。どてらでも持って来るのらしかった。
三上はもちろん喜んだ。そして彼はもちろん泊まる気でいた。小倉も
「ねえさん、おそくなって済まないがね、もしできたらすきやきがやりたいんだがね。寒いんだから、すきやきでないととても暖まらないからね」と小倉は注文した。
「ええ、できるわ、きっと、あなたの事だから。ホホホホホ、お
「酒を持って来るんだ」三上が受けた。
「ホホホホホ、一切合財皆もちろん、――だわね」と
二人は、どてらに着換えて、その着てたもの全部を、柱にかけた。
彼らは人が恋しかった。ことに女が恋しかった。どんな動機からであろうとも、彼らに優しい言葉をかけてくれる女性は、この地上に、もし生きていればその母か姉妹だけであった。
けれども、彼らは、それらをまるで失ってしまっていたか、まるで知らなかったか、または、それをはるかに遠くへ残して来ているのであった。
優しい女性! それは、彼らには、何物よりも
彼らは女性を慕った。そして、それが
表面的の関係は買い、売った、ことになっても、彼らにきわめてわずかに残された人間性が、それを、人間的に引き戻す機会もあり得た。そして彼らはどちらも、プロレタリアであった。
女はやがて牛肉を
女がいたり、酒があるということは三上を有頂天にした。彼は
「どうしてあなたは少しも飲まないの」と、若い方のが、小倉にもたれかかりながらきいた。
「その代わり食ってるだろう」
「だって、私たちもいただいてるんですもの。少しは飲むものよ、男ってものは、ね」
彼女は小倉が
「ところが、僕は酒が飲めないんだ。船のりらしくもないだろう。でもやっぱり飲めないんだ。虫がきらいというんだろうね」といいながら、小倉は肉や
で彼は、三上が、しきりに女をからかったり、例の変態的な性格でいやがらせたりしながらも、小倉の方に時々探るような目を注ぐのに気がつかないのだった。
三上は、やはり、船長との一件で小倉の意見が聞きたかったのであったが、それよりも、彼は、その場の喜び、形式だけであるかもしれない、事実それに違いないところのその浅い喜び、ほとんど通常の陸上の人から考えると
三上は小倉を盗み見しては飲み、かつ、その
「あの男はね、かわいそうな男なんだよ。あの男の事を僕は心配してるんだ」と小倉は答えた。
「どうして、あの人がかわいそうなの。私ならあんたの方がかわいそうだわ」と女は、しんみりといった。
「陽気に見えたからって、その人間は何もかもが苦労がないわけじゃないだろう。あれはね、さびしくてたまらないからはしゃいでるんだよ。それにあの男にはね、苦労があるんだ。私もあの男のために一つの苦労を持っておるんだ」と小倉は女が、しいて彼のきげんをとるに及ばないことを暗示しようとした。
「まあ! あんたは若いおじいさんね。あの人より若いんでしょう。だのに
「どうしたんだ。大変おそいね、便所が」と、小倉は女にきいた。
「あら!」と女はわざと驚いて見せて、「もうおやすみになったんだわ、あなたまだ
「もう幾時ごろだろう」
「三時よ、もうじきに。やすみましょうよ。ね」
「だけど、僕今夜じゅうに船にあの男と一緒に帰らなけれゃならないんだがなあ」小倉は困ったようにいった。
「なぜ? 私がいやなの。だったら私代わってもいいわ。そんなこといわないでね。
女は、小倉が自分をきらって
「ねえさん。間違っちゃいけないよ。僕、ねえさんが、きらいでなんかありゃしないんだよ。ただ、船長がね、今夜じゅうに船に帰れといって、帰っちゃったんだよ。それにね、船じゃあ、みんなが、この
「じゃ、あたし、そんなわけならあの人にきいて来て上げますわ。どうなさるかってね。だけど、ずいぶんしけてなくって? あぶないわね」といいながら障子を明けて出たが、それを締める時にちょっと振りかえって、「ちょっと待ってらっしゃいね」といって、三上の方へと行った。
「無産階級には共通な感情がある」と小倉は思うと、急にセンチメンタルな気持ちになって、その女が帰って来たらいきなり熱いキッスを与えてやろうと思った。
やがて女は帰って来た。そして、小倉のそばに遠慮がちにすわりながら、
「ねえ、あの方、三上さんてえの、あなたが小倉さん、ね、小倉さん、三上さんはね、あなたを巻き添えにして済まないけれどね、とても今夜は帰れないんですって、
「ああ、いいよ。それじゃ僕も泊まらせてもらおうか。ねえさん。僕はね、ねえさんがきらいでなんぞないんだよ。抱きしめて、キッスしたいくらいだよ。だけど、僕にはね、僕が愛してると同じように僕を愛してる人があるんだよ。だから、僕は一人で寝るから、ねえさんは、帳場の具合が悪かったら、床を二つ敷いて、並んで寝ようね。そして寝物語に、ねえさんのほんとの恋人の話でも聞こうよ」といって、さびしく気の毒そうに小倉は笑った。
「まあ!」と立って床を延べようとしていた女は、急に小倉の
「どうしたの。一体、え、そんなに帳場に都合が悪けりゃ一緒だって、ちっともかまわないから、泣くのはおよしよ。ね」
小倉は女を起こそうとした。女は起きなかった。そしてなおも泣き続けるのだった。
「およし、ね。泣くのはもうおよし。どんな、苦しい事情があるか知らないが、聞かなけりゃわからない。泣くほどの事があるんだったら膝とも談合ってこともあるから、僕にでも話して気が紛れないこともないかもしれない。とても力にゃなれまいけれど、もし役に立つことがあったら、役に立つから、泣いてばかりいないで、話してごらんな。ね、僕明日の朝早く帰らなきゃならないんだからね。また二、三日か四、五日は
「ええ、今、床を敷くわ、ちょっと待っててね、片づけるから」ハンケチで目を押えてさびしそうに彼女はそこらの食べ散らしを片づけ始めた。小倉も彼女に手伝って、
二〇
寝床はそこへ敷かれた。それは一つであった。
「どうしたんだい、お前さんはなぜ泣いたりしたんだね」と小倉は、そのまま床の中へもぐり込みながら、気の毒そうに聞いた。
「私はね。この家へ来てから、あんた見たいな人に会ったのは初めてなの。初めの間は、私もあなたを『お客』だと思ってたの」といいながら、彼女は枕もとの
「だけど、だんだん話したり、聞いたり、見たりしたりしてるうちに、あなたは船乗り見たいじゃないように思えて来たの。私ね、こう思ったのよ。この人はきっと間違えてここへはいったんだ。そうでしょう。ほんとに牛肉のすきやきだけしか食べられないところだと思って来たのでしょう。そういう人の前へ出ることは私たちには恥だとはあなたは思わないの。相手が野獣であるときだけ、私たちだって野獣にもなれるのよ。私たちは、何でものろってやるわ、何でも、神様や仏様なんぞ、とっくの昔に、のろって、私はそばに寄せ付けないようにしてるわ。だけどもね、私たちの家に、私たちの肉以外のものを、まるで坊っちゃん見たいな、素直な気持ちで求めに来たあなたには、私たちの気持ちはわからないでしょうね。
私たちはね、あなたのような人を見ることはないのよ。監獄にはいってる女の人が、男の人を見ることよりも、もっともっと、ずっと、私たちがあなた見たいな人を見ることの方が少ないのよ。それはね、男の人は、皆
ええ、全く獣なのよ。私はそう断言できてよ。だけどね。それや男の人の罪でもないんだわ。それはね、神様や仏様の罪なんだわ。そうでしょう。ね、自分で人間を作って置いて、自分でこれはいいあれは悪いと決めて置いて、そして、自分の作った人間を、自分の作った罪悪の中へ、まるで
「じゃ何がこわいんだね」小倉は眠くてたまらなかったが、女の珍しい言葉につい興奮さされて起きていたのだった。
「私寒いから、あなたのそばへはいってもいいでしょう。ね、ただはいるだけなのだから、ね、いいこと」
といいながら、女は帯も解かずに小倉の寝床へはいって来た。そして床のすみに小さく
「私たちはね、ほんとに心から『愛そう』と思う人を見つけることができないのよ。
私たちが、第一、
彼女は、まるで夢遊病者か何かのように、天井を向いたっきり、その大きく開いた目を、自分の
小倉は、よく話がわかった。そして、自分が、気取り屋でばかであることを、十分にこっぴどくやっつけられていることも知っていた。けれども、それにしても、「何という
「そしてね、そんなばかげたことは、あるはずがないのだけれどね、私たちも、また、ばかなのよ。なぜだと思って? それはね、私たちはいつでもきまり切ってばかだけに
「ああ、それはほんとの事だ!」と、小倉は口走った。
「僕は、社会の、秩序という大きな看板に隠れて、自分の利欲のみを得ようとしていた。それは全くだ」
「ほうら、白状してしまったわ。あなたはね。高々船長ぐらいになって、三上さん見たいな人をいじめて、ご自分はまた、自動車か何かに乗った
私そんなこと、夢にも思わないんだけれど、たとえばね、もしか、私があんたを愛したくっても私が淫売ならその資格がないとでも、あんたはいいたいんだわね。いいえ、そうよ、ま、黙ってらっしゃい」彼女は、小倉が何もいおうとしてもいないのに、あわてて彼のいうのをさえぎった。
「私はあんたに愛させてくれるように、頼む資格もないと思ってるのね。だけどね、小倉さん、私は幻の階段を追うような利己主義者は、私の方でいくら頼まれてもいやなのよ。それは
だけどもね、小倉さん、もしあんたが、そうでなかったら、もしあんたが立派な人間で階段なんぞ認めない人だったら、私は、私は、あんた見たいな人に初めて会ったことを白状してよ。そして、私は、あんたを、世界じゅうで一番強い、弱い者の味方としてなら、私はあんたを愛したいの。だけどもね、何だって私はばかなんだろう。あんたにはいい人があったのね、私、私、私だって、私はね、小倉さん。あんたが高等海員の試験を受けて、船長に立身するように、試験を受けてでも、願ってでもなく、この商売に、むりやりにほうり込まれたんだわ。私のいうことがわかって、ホホホホホホ。私のいうことはね、こんな商売してても、それは私の知ったことじゃないってつもりなのよ。あなたが船乗りをしてるのも、私がこんな汚らわしいことをしてるのも、性質は同じなのよ。そしてね。私の方が、ほんとうは、もっと尊敬してもらわなければならないほど苦痛な部分を引き受けてるのよ。わかって? 人間が生きるためには、どんな苦痛でも忍ぶもんだわ。生きるためには、より早く死ぬ方法までに、飛びつくものよ。
私なんぞ死ぬまでに、ほんとに自分のしたいと思ったことの、反対のことばかしさせられてとうとう死んじゃうんだ。自分の思う通りになることは一つだってありゃしないんだわ。私はね初めはね、あんたをただのお客と思ったの、そして次には坊っちゃんと思ったの、その次はほんとに物のわかったおとなしい人だと思ったの、そしてね、今ではね、あなたは、そうね、何だろう、何といえばいいだろう、私のおとうさんだわ。私を産んだ、私の知らない、ほんとの私のおとうさんだわ、ホホホホホホ……私おとうさんに……」
二一
その夜は全く悪魔につかれた夜であった。人間の神経を
三上にも、小倉にも、それは回視するに忍びないような、
人間の一生のうちに、その人の一切の事情を、一撃の
三上と、小倉とは、
一夜は明けた。そして、重大なる事件は未解決のままに、夜を持ち越して、明けたのであった。それは、一夜を持ち越したために、事実の形を千倍もの太さにしてしまった。一夜――五時間――
ところが、それの舞台を、社会から、万寿丸にまで縮めると、問題が
とまれ、小倉は「階段」のことは忘れたにしても、一応は、本船へ帰ってから、万事を解決した方がいいと考えた。ところが、三上は、それはばかなやり方だ、と考えた。そこに、三上と小倉との差違があった。
二人はその家を出た。そして、海岸を伝馬のある方へ逆に歩きながら、その事件の締めくくりについて考え合った。[#底本では「。」なし]
「おらあ帰らんよ」と三上は、さっきからいい続けていた。
「でも帰らなきゃ様子がわからないじゃないか」これは小倉の言い草だった。
「様子はわからんでもいいよ。あの伝馬をたたき売るか、質に入れるかして、おれたちはどっかへ行った方がいいよ」三上は自分の計画を初めて口に出した。
「でも、そいつあ困るなあ。僕は海員手帳が預けてあるし
「だから、さようならって僕がさっきからいうのに、いつまでも君がぐずぐず、ついて来るからよ。君はサンパンを雇って帰れ。そして、三上が伝馬を盗んだとでも、何とでもいって、置けばいいじゃないか。僕はこれを売って、どこかへ行くんだから。行李や、手帳なんぞほしくもないや。早く君は帰れ!」
三上はクルッと反対の方を向いて、桟橋の方へ歩を返した。小倉も無意識にそれに従った。
「だって、すこしも君だけが悪いことはないじゃないか、大体船長が無理なんじゃないか、だから、帰ったって何ともないよ。帰った方がいいよ」小倉は、しきりに穏便な方法をとることを三上にすすめた。
「何でもかんでもいやだよ、おれは。もし帰る気になったら、出帆間ぎわに帰る。それまでおれは隠れてて船の様子を見ることにするよ」
彼はこういってズンズン歩いて行った。
小倉は夢でも見続けているように、ボンヤリしながら、三上のあとから無意識に歩いた。
三上は波止場に来て、昨夜つないだ船の伝馬にヒョイッと飛び乗った。小倉も乗ろうとすると、手を振って「みんなに、出帆間ぎわにこれ――といって伝馬を指さして――で帰るからといっといてくれよ。なあ」といいながら、グーッと波止場を押して、離れてしまった。
小倉は失心したようにたたずんでいた。
三上は、その五人前もあるような腕に力をこめて橋の下をくぐって見えなくなってしまった。
「なるほど、三上は帰れないはずだ。船長を
「船の伝馬に乗って来て、サンパンをやとって帰る! 一体どうしたんだ。そしてこの責任は、三上と僕とに、あるんだからなあ。どうなるんだ、一体。ままよ! 帰って見れやどうにかなるだろう」
彼はサンパンをやとって、万寿丸へ行くように頼んだ。
「万寿はいつはいったんだい」と
「
「けさここへ
「こいつらも知ってら。へ、知ってるはずだ。七時だもんなあ。だが、一体
二二
小倉は万寿丸へ帰った。当番のコーターマスターは、
「どうしたんだい。心配したぜ、昨夜は、流されやしなかったかって。そして伝馬はどうしたんだ、やっぱりやられたのかい」
船に残った者は、なるほど一切の事情を知らないはずであった。そして、サンパン
「ナアに、やられやしないんだよ。妙なことになっちまって困ったんだよ」小倉はほんとに、今そのことについて、口を切って「実際これはおれの考えてるように簡単に片のつく問題じゃない、全く困ったことだ」ということを痛切に感じた。
「どうしたんだ。一体、そして三上は?」
「三上が伝馬で、けさ帰って来てるはずなんだよ」小倉は、三上が伝馬を売り飛ばすか質に入れるかするといった、その、とても実現できそうもない、彼の計画だけはいうまいと決心した。
「冗談いっちゃいけない。だれも帰って来やしないぜ」
「それじゃ、おもてでよく、すっかりその事情をくわしく話そう。ちょっと困ったことが起こったんだ。船長と三上とがけんかしたんだ。それを、今おもてで話そう。皆いるかなあ」小倉はこういいながら、もうおもてへのタラップを降りて、駆けて行った。
おもてでは、ボースンから、大工、水夫たち、全部が、いつでも入港のできるように、準備を整えて、船長の帰るのを待っていた。それよりももっと、三上と小倉との消息について待ち切っていた。
「どうも済まなかった。ただいま」と叫びながら小倉はそこへ駆け込んで来た。
「どうしたい三上は」
「さては女郎買いをしやがったな」
「伝馬で帰ったのかい」
「うまくやってやがらあ」
各人が考え、想像していたことの最初の言葉が、彼のまわりに、桟橋から船に落ちる石炭のように
小倉は、かいつまんで昨夜の困難な航海から、船長の態度から、三上の行為から、宿屋へ――
セーラーたちは黙って聞いていた。そうして、三上が一足先へ出て、まだ帰って来ないということを、小倉ほどに心配しないのみならず、むしろそれをひどく痛快がった。
「いっそ本船へ乗って逃げたらおもしろかったな」などと茶化しさえした。一向だれもその事に対して「こうしたらいいだろう」という意見を持ち出す者はなかった。だれもが、その単調でない、奇抜な話を聞いて、その話と、事件とに満足してしまった。
小倉はここでもまた彼が事柄をあまり簡単に見過ごしていたこと、今では彼
小倉は、非常に善良ではあるが、意志の弱い、そしていわゆる冷静な、分別のある若者だった。それで従っていつでも「事なかれ主義」であった。その逃避的な彼が、旋風的事件の中心に巻き込まれたのだから、たまらなかった。彼は何をどうしていいか、自分自身が何であるか、一体全体どうしたらいいんだか、さっぱり一切がわからなかった。
だれもがそれまで打ち明けてもいないのに、いつでも、その人間の最も重大な秘密なことになって、自分の手で収まりがつきかねそうになると、だれもが、決して普段それほど親密でもないように見える、藤原へ、相談を持ちかけるのがきまり切った例になっていた。小倉も、この例によって、藤原へ意見を求めようと決心した。
藤原は、今まで自分が中心になっていた、その話から、避けて、一方のすみで、黙ってその事件の話を聞いていた。そして、
「藤原君。君はどうしたらいいと思うかい」と、小倉は藤原と向かい合って腰をおろしながらきいた。
「よくはまだわからないけれど、僕の知ってる範囲では、君にも、三上君にも何らの責任はないと思うよ」と彼は答えた。
「そうだろうか、だけど、三上は十円無理じい見たいにして借りたもんなあ。それに、
小倉は途方に暮れていた。彼はその事柄が帳消しになるためなら、今から裸になって、海へ飛び込めといわれれば、そうすることの方をはるかに喜んで、かつ安心したであろう。彼は「これほどの問題が、まだ片づかない」という、宙ぶらりんの状態であることを極度に恐れた。彼は、この問題が、「いつかは現われるが、まだいつかそれはわからない」ような状態で、一、二か月も続くとすれば、彼は自分と三上との二つの行為をくるめて、道徳的にも、法律的にも――もしありとすれば――物質的にも、一切合切を自分で責任を背負った方がどのくらい楽だったかしれなかった。
「おれはもう、これが三年越し引き続いた事柄のように考えられる」小倉は、ヒステリーの女のように伝馬の事以外から頭を持ち出すことができなかった。
「船長にあやまりに行く? それもいいだろう。だが、お前、何を一体あやまるつもりなんだい。雇い入れもしないボーイ長の負傷を打っちゃらかしといて、自分だけは、夜中に上陸したことをかい。難破船のそばをスレスレに涼しい顔をして通過したことをかい。あやまる理由と、事柄とがあるなら進んであやまるがいいさ。だがあやまることのない時にあやまるのは、自分の正しさを誇示することになるか、または、単なるオベッカに
藤原は、まるっ切りおれとは違った見方をしてる。だが、あれも一つの見方だ。随分乱暴な見方だが真実の見方だ。どうだろう。ほんとうに、ほんとうのことをやってもかまわないだろうか。と、小倉はまだ考えを決め得ずにいるのだった。
「藤原のいうことは、
小倉は元気よく、まるで今にも、ブルジョアに出っくわしさえすれば飛びつきそうに、こう考えたが、それは彼には絶対に不可能な事であった。彼は、依然事大主義者だった。一切が腐ってしまっても、
小倉はその性格が煮え切らないところから、この事件の進展に対し、何らの役目を勤めることのできない一の
三上が船長に与えた、侮辱は、下級船員全体への
そして、この事が、ここに述べるところの、同盟
二三
三上は、伝馬を押して、一度
彼は、
ボーレンのおやじは、
おばさんはいた。
このおばさんはおやじのおかみさんではなかった。おやじの世話で船に乗って、今外国船に乗って、ここ四年ほど前ハンブルグから、近いうちに帰るという手紙と、金二百円とを送ってよこした水夫の、おかみさんだった。
そのおかみさんが、今帰るか、今帰るかと待ってるうちに、二百円と一年とが消えてなくなってしまった。そこで、三年ばかり前から、やもめの、ここのおやじのところへ、飯たきに来て、亭主の帰るのを「網を張って」待ってるのであった。
「まあ、三上さんだったわね。どうしたの、いついらしったの?」
三上が、のっそりはいったのを見たおばさんは、
「おやじはチャンス取りか」三上はブッキラ棒にきいた。
「ええ、相変わらず、急いでるの? それともゆっくりできて?」とおばさんはきいた。
「急がねえよ、上がらしてもらおう」といって、彼はもうそこへ上がってるんだったが、長火鉢の前の座ぶとんの上へ「上がらしてもらって」おばさんの長煙管で、スパスパと
「随分ごぶさたね、三上さん。あっちにはこんなにごぶさたしやしないでしょうね。おこられるからね」
「
「十一人、暮れに迫って、口はないし、はいるところはないし、おやじさん、困っててよ」と指で丸をこしらえて見せた。十一人の船員たちが今休んでいるのであった。
「おばさんのご亭、まだ帰らないかい?」三上はきいた。
「帰らないよ、まだ。向こうで髪の毛の赤い、青い目の女房でも持ってるだろうよ」
「そのつもりで浮気をしてると、えらいことになるぜ。ハッハハハハ」
「相手さえあればね。ホホホホホ」
「僕は下船したんだから、当分また厄介になるよ。頼むよ、いいかい。チョッと出かけて来るから、おやじが帰ったらそういっといとおくれよ」三上が
「そして荷物は? 小屋? おやじさんこのごろ工面がよくないんだから、十でも十五でも入れないと、だめだよ。わかってるね」と、おばさんは、だめを押した。前金を十円か十五円は入れなけりゃ、とても置かないというのであった。
「大丈夫だよ。そんなこたあ、いうだけ
彼は近所の質屋へ行った。それは彼の常取引の質店であった。
「いらっしゃい、しばらくで、お品物は?」主人はきいた。
「実はね。品物はここまで持って来られないんだが、二日だけ、
「伝馬じゃちょっと困りますね。
三上は、驚いた。彼は驚いたのである。彼は、まだ今度の事ほど綿密に、長い間かかって、企てたことはなかった。それは
「さよなら」彼はそこを飛び出した。そして今までより少し彼はあわてて歩いた。彼は歩きながら、これほどの船つき場でありながら、一軒もサンパン屋が店を出していないことを不便がった。「靴でさえ中古の夜店を出してるのに――」彼は全く残念であった。
彼はその日一日、ありとあらゆる質屋で断わられ、貸舟屋で断わられ、全くみじめな気持ちになってしまった。
「伝馬は売れねえや、急にはだめだな、だが、おやじになら売れるだろう」小突きまわされた犬のように、身も心もヘトヘトになりながら、彼はボーレンのおやじを目標に持って来た。彼には絶望がなかった。
彼は夜十一時ごろ、ボーレンの表戸をあけた。
おやじは起きていた。そして、彼が上がって行くのをじろりとながめた。三上は、長火鉢の前へ、すわって、煙草に火をつけた。そこは六畳の間であった。すみの方には、船員が
おやじはしばらく黙って、これも煙草を吸っていた。
「おやじさん。おらあ今日下船したぜ。また、しばらく頼むよ」三上は切り出した。
「下船した。で、また船に乗る気なのかい」おやじは妙なふうに返事をした。
船乗りが、下船してボーレンに休めば、次の船に乗るまでの間、そこに休んでその間に、口をさがすのが、その唯一の道であった。
「ああ、万寿丸にゃもうあきたからなあ、今度はほんとうの遠洋航路だ」どうも、だが、おやじめ様子が怪しいぞ、今日万寿に行ったんじゃないかな、と思ったが、できるまで空っとぼけた方がいいと思いついた。
「そうか、遠洋航路もいいだろう。だが、遠洋航路は履歴が美しくないといけないな。おまえの手帳をちょっと見せな、預かっとこう」
手練の手裏剣見事に三上の胸元を刺した。
「あ! 船員手帳!」と驚いて三上は
「冗談いっちゃいけない。三上、おれは今日万寿で、すっかり様子を聞いて来たんだぞ。いい加減にしろ、伝馬まで乗り逃げやりやがって。どうしたい伝馬なんか」
「ええ! こうなりゃ
「どこにあるんだい」
「おやじのサンパンのつないであるところさ」
「何だってあんな邪魔っけなものを、のろのろと
「売り飛ばすつもりなんだ!」
「買い手はあるつもりかい」
「売り物だったら買い手もあろうじゃないか」
おやじは、もう三上と「まじめ」な話をすることは「やめた」と決めた。が、それにしても、こんな野郎に「踏み
「お前もう横浜じゃとてもだめだから、
「おらあ、万寿が帰って来るまで待ってるよ。浜で。船員手帳はおれのもんだからなあ」
「万寿の船長は、お前を監獄にほうり込んでやるといってたそうだぜ」
「船長が、しかしそうはしないだろうよ。おれが監獄へほうり込まれる前に、やつが海ん中へたたっ込まれるだろうよ」
「お前は、船長を、おどかしたってえじゃないか、『海ん中へたたっ込むぞっ』て。どえらいことをやったもんだなあ、だが、おもてはみな大喜びだったぜ。『何だったって三上はえらい、やる時になりゃあのくらいやるやつあない』ってさ。だが、少し気をつけないといけないぜ、しばらくお前は横浜を離れてた方がいいんだがなあ。どうだい神戸か長崎へでも行って見ちゃ」
「おやじが海員手帳を取ってくれるかい?」
「それや取ってやってもいいが、渡さねえだろう。おれんとこに、あれよりもよっぽどいい履歴のがあるから、それを持って行けよ」
三上は、別人の手帳を持って、別人になって、神戸へ行った。伝馬は、ボーレンのおやじが預かって、万寿が入港したら返すことにした。
海員の雇い入れは、その手続きが全く面倒であった。きわめて、厳格なる手続きの
しかも、それに対して、命はおおっぴらに投げ出してあるのだ!
二四
北海道万寿炭坑行きのボイラー三本を、万寿丸は、横浜から、室蘭への航海に、そのガラン
珍しい荷物であったので、退屈を紛らし、単調を破って、その積み込みの終えた時は、何だか、愉快なことでもなし遂げたように、水夫らは感じたくらいであった。
横浜から、室蘭へは、万寿丸は、その船体が室蘭から横浜への時の三倍の大きさに見えた。というのは、荷がないから、まるでその赤い腹のほとんど全部をむき出して、スクルーで
こうなると、便所
パイプ――直径一尺ぐらいの鉄管は――下水だめが、そのまま凍ったような形において凍るのであった。それが凍った際は、波田は、何よりもまず機関場へおりて行って熱湯をもらって来るのであった。機関場から、おもてまでの距離の遠さよ――、第一、罐場までの
彼は熱湯と竹の棒とで、化学的及び物理的の作用を応用して、
彼は熱湯を
と、たちまちにして、はなはだしい臭気が、発煙硝酸の
波田は、その熱湯を汚物の
それはきたない仕事であった。そしていやな、困難な仕事であった。それはちょうどわれらが便所へかがむのと同様不愉快なことであった。それはまた、勢いよく、一切が飛び出すことは、われわれが便所へかがんだ時と同様、腹の中がきれいになることを意味し、かつ快いことであった。
波田はスカッパーから、太平洋の
「これでおれも気持ちがいいし、だれもがまた気持ちがいいわい」波田は、その着物を洗って
そして彼は、その
「なぜならば、もし神や仏があるとしたならば、彼らが愛するところの人間が豚小屋に住み、あるいは寺院の床下に、神社の縁下に住む時に、どうして、自分だけが、そのだだっ広い場所を独占することができ得よう? もしそうしている神仏でもあるならば、それは岩見重太郎によって退治されねばならない神仏であって、決して
波田によると神は恐ろしく、きたないところにもぐる必要があった。
「おれは便所に神を見た。それ以外で見たことがない」と波田は、いつ、どこででも主張するのであった。
「で、その神様は、おれのによく似た菜っ葉服を着て、おれより先にいつでも便所を掃除してる! それは労働者だった。賃銀をもらわない労働者の形をしていた!」と。
「で、もし、神様が、労働者でもなく、便所にもいなかったら、おれは、とても上陸して寺院や
これが波田の宗教観であった。
「その神様が賃銀を月八円ずつさえ得てれば、そのまま波田君なんだがなあ。惜しいことには、たった一つ違うんで困ったね」藤原はそういって笑ったものだ。
船には、宗教を信ずるものは
話は飛んでもない
二五
万寿丸は、室蘭の荷役を早く済まして、
そんなわけであったから、わが、
冬期の北海道は霧がはなはだしかった。汽船で鳴らす霧笛、燈台で鳴らす号砲のような霧信号。海へころがり込んだフットボールのような万寿丸は、霧のために、目隠しをされたものであるから、九マイルの速力をどうしても、もっと下げなければならないはずであった。けれどもそれは、正月のことを考える時に、船長はこれから上速力を下げるわけには行かなかった。その代わり彼はむやみやたらに霧笛を鳴らした。
それは何かの事変の前兆を知らせるという、犬の遠ぼえに似ていた。それを聞くものに、きっと不安な予感に似たものを吹き込まねば置かぬ音色であった。同じ汽笛でも、出帆の汽笛は寂しく、入港の汽笛は、元気よく勝ち誇ったように聞こえるものだ。霧笛の場合は同じ汽笛でも、不吉な、落ちつかない、何だかソワソワした気持ちに人を引き込んだ。自らその糸をひいている船長自身が、その音色に追っかけられるようにあとからあとからと、糸をひいた。霧笛は、ますます深く、人から
精密なる海図と
西沢と波田とは、ブリッジに上がって、小倉の
自動車の運転手がそのハンドルを絶えず、回しているように、汽船の
一時間九ノットの速力も、この船全体をその権力の下に支配する、船長の心理に及ぼす影響は、このブリッジにのぼって、一望ただ海波であり、一船これわが配下である時に、決してのろい速力ではなかった。
暗がり中で、だれも見ていないと知ると、急に二歩ばかり威張って、警察署長のような格好に歩いて見ることが、大抵だれにもあるように、万寿丸は、巨船のごとくに気取って航行しているように見えた。
が、それにしても不思議であった。室蘭港口に
わが万寿丸は九ノットのフルスピードをもって、船長自身ブリッジに立って、小倉の
波田と、西沢とは
彼らは、何も見えない濃霧の中を、コンパスと海図とだけで、夢中になって飛んで行く船が不思議でたまらなかった。
万寿丸は、その哀れな犬の遠ぼえを、絶えず吹き鳴らしながら、かくして進んで行った。
霧の上に、夜の
と、突然、ブリッジに立ってる者は船長から、波田に至るまで急に飛び上がった。おそろしい速力を持った巨大な軍艦が、その主砲を
「ハールポール」と船長は、
機関室への信号機は「フルスピードゴースターン」全速後退を命令して、チンチンチンチンとけたたましく鳴りわたった。
船長初め、小倉らブリッジにあるすべては「
波田に西沢は、何だかまるでわけがわからなかった。
これらは息をつく間もない瞬間に一切が行なわれた。そして、本船はグッと回った。波田も西沢も、船長までもが、そのなれにかかわらずよろめいたほど急速に。そして、今にも衝突しそうに思えた、山のような怪物、(それは軍艦だと波田と西沢は思っていた)は全速力をもって、まるで風のように
哀れなる小犬のような、わが万寿丸は、今は立ちすくんでしまった。いわば、腰を抜かしたのである。むやみに非常汽笛を鳴らし、救いを求め、そこへ
今、それほど万寿丸を驚かした、軍艦のように速力の速い怪物は、百年一日のごとく動かない大黒島であり、大砲は霧信号であった。
わが万寿丸はその二十
あぶなかった。錨がはいると、皆は、期せずしてホッとした。
大黒島の燈台では、乱暴にも自分を目がけて勇敢に突進して来る船を認めたので、危険信号を乱発したのだった。幸いにして、この無法者は、間ぎわになってその乱暴を思い
万寿丸は「動いてはあぶない」とばかりに、立ちすくんだ盲人のように、そこに
奇妙きてれつなる一夜であった。船も高級船員もソワソワしていた。おもてのものだけは、一夜を楽に寝ることができた。
二六
翌朝万寿丸は、雪に照り
船員たちは、自分の目の前に、手の届きそうなところに、大黒島の雪におおわれた、[#「、」は底本では「。」]
彼女は、その醜体を見られるのが恥ずかしそうに、抜き足さし足で早朝、何食わぬ顔をして、室蘭港へはいった。
すぐに石炭積み込み用の高架桟橋へ横付けになるべきであったが、ボイラーの荷役の済むまでは沖がかりになるので、室蘭湾のほとんどまん中へ、今抜いたばかりの錨を何食わぬ顔をして投げた。
万寿丸が属する北海炭山会社のランチは、すぐに勢いよくやって来た。
とも、おもてのサンパンも、赤
水夫たちは、ボイラー揚陸の準備前に、朝食をするために、おもてへ帰って来た。
食卓には飯とみそ汁と
船員は、どんな酒好きな男でも、同時に菓子好きであった。それは、監獄の囚人が、昼食の代わりに食べるアンパンを持って通る看守を見て、看守はアンパンが食べられるだけ、この世の中で一番幸福な人間だと思うのと同じであった。監獄と、船中においては、甘いものは、ダイアモンドよりも
波田は、その全収入をあげて、沖売ろうに奉公していた。彼は、船員としての因襲的な悪徳にはしみない性格であったが、「菓子で身を持ちくずす」のであった。彼はきわめて貧乏――月八円――であった。それだのに、彼は金つばを三十ぐらいは、どうしても食べないではいられないのであった。しかし、財政の方がそれほど食べることを許さないのであった。彼は沖売ろうがいっそのこと来ねばいいにと、いつも思うのであった。そのくせ沖売ろうの来ない日は、彼は元気がないのであった。全く彼は「甘いものに身を持ちくずす」のであった。
この場合においても彼は、ソーッと、自分の
「どうしてもおれは仕事着と、
彼は、神様を便所から見つけたが、菓子箱には貧乏神がいるとこぼしていた。「しかし、正月になれば、それも何とかなるだろうさ、くよくよしたもんでもないや」
彼は自分に言い訳をしながら、沖売ろうのねえさんの所有に属する、菓子箱へと近づいた。
「どうだね、うまい菓子があるかね」
「みんな、うまいかすだわね」菓子屋のねえさんは、東北弁まる出しで答えた。
波田は、うまそうな菓子を一種ずつ取って食べた。そして、そのたんびに計算を腹のなかで忘れなかった。金つばが食いたかったが、これは沖売ろうは持って来なかった。
室蘭では、東洋軒という、室蘭一の菓子屋が作るだけであった。彼はそこのケークホールへ、その格好で平気で押しかけるのであった。
ろくに食べた気のしないうちに波田は五十銭の予定額だけを食い尽くした。それ以上は借款によるよりほかに道がないので、彼はやむを得ず、小倉が帰って来るまで待つことにした。
波田にとっては、一切の欲望の最高なるものを菓子が占めていた。
もし三上がいるとすれば、沖売ろうのねえさんは、ボースンと、大工と、三上との共同戦線の
彼女は、実に気の毒なほど醜かった。それは形容するのが
彼女は、水夫たちから、ことに、彼女を見るも気の毒なくらいに恥ずかしめる、ボースンや大工らは、彼女が、「インド
彼女は、それでも一緒になって、キャッキャッとはしゃぎながら、自分の商売の菓子箱のくつがえるのも忘れて、抵抗したりふざけたりするのだった。
彼らは、薄暗いデッキの上を、小犬のようにころがり回ってふざけていた。
彼女が菓子のほかに、彼女の肉をも売るということを、波田は耳にしたことがあったが、それは想像するだけでも不可能のように思えた。彼女は女性として男性に持たせうる、どんな魅力もないように見えた。きたない男よりも醜い彼女であった。
だのに、彼女は、やはり、うわさのように菓子以外のものも、提供することがズッとあとになって波田にもわかった。それはボースンの
これは、
だが、その日は、それらのことは一切起こらなかった。彼女の菓子は、食事の済んだ水夫らによって一つ二つ摘ままれた。
ボースンと大工とは、彼女を、波田の寝箱の中へ押し倒すことだけは、形式的に忘れなかった。波田の寝箱の隣では、負傷のために、弱り、やせたボーイ長が、まだうめいているのであった。
波田は、ボーイ長に、朝鮮
疾病や負傷や死までが、生活に疲れ、苦痛になれた人たちにとっては軽視されるものだ。生活に疲れた人々は、その健全な状態においてさえ、疾病や負傷の時とあまり違わない苦痛にみたされているのだ。人間がそれほどであることは何のためか、だれのためか、なぜそれほどに人間は苦しまねばならないのか、それはここで論ずべきことじゃない。
おもしろいことは、この沖売ろうの娘は、おもてのコックと後になって、――四年もこれの書かれた後――二週間だけ一緒になって世帯を持った。二週間の後彼女はコックのために酌婦に売り飛ばされて、
水夫たちの食事が終わると、ボースンは、チーフメーツのところへ仕事の順序をききに行った。
チーフメーツは、クレインが来るから、それまでのあいだに、ボイラーの方を用意して置けと命じた。ボースンはおもてへ帰って来て「今からハッチの
そこで水夫らはデッキへと出て行った。
二七
おもてはストキから、ボースン、大工まで、全部出て行ったので、あとは傷を負って、むなしく一週間余りを暗室――それはほとんど暗室であった――の、寝箱の中でもだえ苦しんだ、ボーイ長の安井と、おもての通い船のおやじと、それから、沖売ろうのその娘とだけになった。
沖売ろうの娘は、波田の寝箱の縁へ腰かけていた。サンパンの船頭は、ストーヴの前へ腰をおろして、皆黙々としていた。
おもての、デッキでは、ビームがデッキへ
ボーイ長は、自分では大して自由にならないからだを持ち扱って退屈し切っていた。
「ねえさん、わしに少し菓子をくれないか」ボーイ長は
「アア、びっくらしたよう。だれかおるだがよ、ここに」と彼女は飛び上がって、ボーイ長の暗室をのぞいた。そこにはボーイ長が確かに寝ているのであった。
「あ、見習いさんでねえか、びっくりしただがよ」彼女は菓子箱を持って来て、ボーイ長の前へひろげて見せた。
ボーイ長はそれを三十銭買った。そうして、うまそうに、むさぼり食べるのであった。
「船頭さん! おれ
「ああ、いいとも、お女郎買いかい?」船頭はすばらしく大きいからだの、気のいい五十格好のじいさんだった。
「うんにゃ。わしゃけがしたので、病院へ行くんだ」彼は今度こそ病院へ行けると思った。
ボーイ長は思うのであった。「わしのけがをしたということは、もうだれも彼もみな忘れてしまっているのだろう。わしのけがをしたことは、全く他の人たちにとっては
「船頭さん、室蘭にいい病院があるの?」ボーイ長はたずねた。
「ああ、いい病院があるよ、室蘭病院てのが、山の手の高いところにあるよ」
「そこまで、波止場から、どのくらいの
「そうさなあ、十二、三町ぐらいなもんだろうなあ」
それではとても
「市立病院かい、それは?」ボーイ長はたずねた。
「市立じゃないけれど、公立だよ」船頭さんは答えた。「だけど、どうしてまたけがなどしたのかい」ときいた。
「ほらこの前の航海ね。室蘭を出帆する日からしてえらい
「その日、私はともの倉庫にキャベツを出しに行ったんだよ。おもてのおやじが、とって来いというからね。で、キャベツを三つ
労働力を売って生活するこの青年も、今その売ろうとする労働力が、大きな障害を与えられたことについては、どこかはっきりしない
水夫たちが、仕事に出て行って、おもてにだれもいなくなると、彼は、今までためていた苦痛の叫びをあげるのであった。彼は、出任せに何でも叫んだ。そして自分の声に一生懸命聞き入った。彼の足の痛みは負傷後五、六時間を経て、はなはだしくなって来た。彼は、そのぬれた
水夫らは帰って来て、この
水夫らは、自分の負傷のように、ボーイ長の負傷によって陰気にされていた。そして自分の負傷のように、いらいらさせられた。彼らは、それから逃れようとして、あせっていた。冷淡な、無関心な態度は、彼らが鈍らされた神経を持っていることと、も一つは「なれている」ことと、今一つは、その自分自身の運命を、あまりにハッキリ見せつけられることから、免れようとする心から出たことであった。
波田は、石油
安井は、だれも見えなくなると、その便器へ用を足した。その時の彼の努力は全くおびただしいものであった。彼は、用を
彼は、一切のことが、二度目であるというような幻覚にとらわれるのであった。それはちょうど、濁った方解石を
彼はその疼痛の絶頂においては、感ずるのであった。
「こんな苦痛をハッキリ味わわねばならないってのは、何て惨酷なことだろう。それよりも、もっとひどい苦痛を、もっとぼんやりの方がいいのに」などと、
船には、その船に対して、会社から、傷病費の予算が請求に応じて提供されてあるのだ。だがそれは、高級海員の家族の病気療養費、あるいは特別収入といった方が正当であった。そして、このための支出から、かくのごとき場合の負傷は、船長によって「節欲」せられるのであった。
船における一切の事は、船長だけがトルコの
もし
そこでは、何でもふんだくる者が紳士であることは、十八世紀の英国のゼントルマンとすこしも変わることはなかった。そして奪われるものは、いつでも、ゴロツキであるのだ! 全く奪われるものは、いつでも、ゴロツキであるのだ! 奪うものと奪われるものとの間、ゼントルマンとゴロツキとは絶えないのだ!
「生存権すら主張ができない」ことは、どんなに、ボーイ長をいらだたせたことだろう。そこに人間の生命の疾患に対しての、病院がいくつも
それは確かにそうあるべきだ。なぜかならばそれは「階級」と「身分」とが違うからであった。それはまたなぜかならば「階級」と「身分」とは人間と
かくて、ボーイ長の負傷は、水夫らに何とはなしに、陰惨な印象を与え、
ボーイ長は、自分にとっては何よりも尊い自分の生命のために、相手は船長であれ何であれ、「
二八
一方水夫らは、ボイラー揚陸のために、ハッチの
クレインは今、室蘭駅の機関庫の見える方から、その怪物のような図体を、渋々とランチに引っぱられて、万寿丸を目がけて近づいて来るのであった。四角な浮き箱の上に、二十五トンの重さの物を引っぱり上げるだけの力と、骨組みとを持った鉄の腕と、ウインチが装置されてあるのだ、けし粒ほどの
船の方では、いつでも、引き上げられるように、ボイラーはそのあらゆる拘束から釈放された。今はただ大きな腕が、自分をその
クレインは近づいた。そしてその偉大な腕を、ヌッと本船のハッチの上へ差し延べた。それから、ワイアロープがブラ下がって来た。そのロープの
水夫たちも荷役に手伝った。が、何にしても足場は、ボイラーの
ところが、船長が、このボイラー揚陸に当てた時間は、きわめて短いのであった。それはチーフメーツも心得ていた。チーフだって正月は横浜でしたかったことはいうまでもないことだ。従って、これも、ボイラーを急いでいた。かくのごとく二重にボイラーは急がれていたが、仲仕は人数が少ない上に、横浜の仲仕ほどなれていなかった。なかなか仕事ははかどらなかった。チーフメーツはハッチに片足を載せて、
「そのワイアを引っぱるんだ! ちがう! そっちからこっちへだ! ボースン、そのワイアをあれへかけて引っぱるんだ、そら、シャックルがはずれた! だめだ! ボースン! ばか! 違う! そらホックをかけて、ヒーボイ、チェッ、またはずれた。スライク、スライク!」彼はまっ
彼のこの焦燥にもかかわらず、ボイラーはクレインからホックに、すこしも引っかかろうとしなかった。チーフメーツは、自分の声で、ホックをワイアに引っかけようとでもするように、だんだんその声を大きく張り上げた。そして、鉤の大きいのは、ボースンや水夫たちの責任ででもあるように、ボースンや水夫たちを口ぎたなくののしり始めた。
紳士の番頭はその
「大工、なぜすみへ行く、そのワイヤを抜くんだ! ボースン、何だ、まいまいつぶろ見たいに、グルグル回ってやがって、グルグル回ったって、ボイラーは上がりゃしないぞ、どこへ行くんだ、そら、ばか!」まるでボースンがばかであることをはやし立てているのであった。
ボースンが、上から見るとただ、ボイラーのまわりをグルグル回るだけのように見えると同様に、チーフメーツはボースンの周囲をグルグル回りながら、ボースンがばかであることを、ハッキリ飲み込ませてしまったよりほかには、何もしなかった。
ボースンはあわててしまった。どこから手を出していいか、わからなくなってしまったのだ。
藤原はボイラーの上に上がって、
「ほんとに貴様らはばかだ!
彼は、それこそ、抜けかけたボールトのように、ボイラーの上へ突っ立っていた。
ホックはうまく彼と、向かい合って立ってる波田との間へおりた。波田は腕ほどの太さの、ワイアの鉤穴を持ち上げた。それは一秒間とは持ち続けることのできない重さであった。藤原は、ホックを、彼のからだの重みをもたせて、波田の持っている鉤穴の方へ揺るがした。それはちょうどそこへ行ったが、少しおり足らなかった。
だめだった! はまらなかった。
「何だ、ボケナス、どうしてはめないんだ! ばか! よせッ!」チーフメーツは頭から、ストキへ
「波田君、降りたまえ! チーフメーツがよせという命令だ」そのまま藤原は、ボイラーからワイアを伝って飛びおりた。波田も続いた。
「どうした、ストキ、どこへ行くんだ! 畜生!」チーフメーツはまるで狂っていた。
藤原は下へ降りて、西沢をデッキから見えないところへ呼んだ。
「君、仕事があれでやれるかい、ばかとか、よせとか、怒鳴り散らされて? え? よそうじゃないか、おれたちあ、船を桟橋まで着けないで下船しちゃおう、ばかばかしいや! 奴隷じゃねえや」藤原はジロリとボースンをにらんだ。
「よせ! よせ! 全く、こんなボロ船いつだっておりるぜ」西沢も賛成した。
「ストライクか、それや、ぜひやらにゃならないこった」波田も賛成であった。
チーフメーツはデッキの上で、
ボースンは下で
「ストキ、どうしたんだね、何か腹の立つことでもあったのかね」ボースンはまるでチーフメーツがも
「ボースンはすこしもおこっていないようだね。おれたちゃ、チーフメーツから、仕事をやめろと命令されたから、今やめたまでの話さ。そして、荷役の加勢はもうよそう、ということに決めたんだ。陸から、そのために来た仲仕があるからね。それに、仲仕の前で、ああがなられちゃ仕事もできないしね」藤原は答えた。
「そんなことをいわないで、頼む、あとで何とでも話をつけるから、気を直してやってくれ、わしなんぞはどうだ、まるで畜生だが、頼む、ナ、ストキ、やってくれ」ボースンは自分が畜生のようにいわれることを知ってはいたのだ。だが、ボースン対チーフメーツの関係と、水夫対チーフメーツとの関係はまるで違っていた。
前者には、高利貸とその手代という関係があり、後者は、高利貸対労働者という関係であった。
「やるもやらぬもねえじゃないか、いいつけを守って、やめてるだけのもんじゃないか、ボースンもさっきから大分やめろといわれてるようだが、よさないとあとでまたうるさいだろうぜ」
全くボースンにとっては、どちらにしても、あとでうるさい、面倒な事になったものであった。
ボースンは、ストキから、西沢、西沢から、波田へ、その
デッキでは、チーフメーツは青くなってしまった。彼は様子が悪いことを見てとった。しかし、どうにもならなかった。クレインの方では、チーフメーツの合図一つで、いつでも巻き上げようと、腕をたくし上げて待ってるのであった。デッキの上に、チーフメーツの怒鳴るために、人のことながらウロウロしていた仲仕たちは、にわかにボイラーの上から、水夫たちがおりたので、ぼんやりしてしまった。
二九
チーフメーツはデッキから、「ボースン!」と怒鳴った。
ボースンは、いよいよあわてて、いよいよ急にその
彼はこんなことをしゃべりながらも、チーフメーツの声に応じて、そのたびに、マストの
「おれたちゃチーフメーツの命令でやめただけのもんだ。ボースンからやれっていわれたってどうも、やるわけにゃ行かないぜ」ストキはがんばった。
「困ったなあ、ほんとに、チョッ! 頼む、わしは今ちょっとチーフメーツさんが呼んでるから上がって来るから、その間頼むよ。いいかい。おれを助けると思って。な」
ボースンは発育不良な、旅芸人のジョーカー見たいな格好で、マストにとりつけてある
三人の水夫は、そこに腰をおろしてしまった。彼らは、彼らの力が偉大であるということを知った。わずか三人のセーラーであった。しかも、それが、ただ何ともいわずに、ボイラーからおりただけであった。それだけなのに、このボイラーが動かず、あのクレインがむなしく待ち、仲仕が徒手傍観し、本船の出帆がおくれ、チーフメーツは青くならなければならない。
そして、これは、ただ労働を一時中止するというだけの簡単な理由からなのだ! そしてこれは、社会の一切の根本は、労働者の労働によって、維持される、ということを語るものだ。きわめて簡単であるのに、われわれの知らされない、唯一の事実なんだ!
水夫たちはそんなふうに感じて、
藤原は、西沢と波田とに、「これはまだ何でもないんだ。僕らは、こんな詰まらない理由でストライクには移れない。これは、労働者の発作的の
「僕らは、しかし、この船の船長や、チーフや、ボースンには、あらゆる機会に反抗しなきゃならないんだぜ。船長チーフメーツは共謀で、おれたちあての食費を、会社から前月末に受け取るものだから、それをボースンに月二割で、おもての者に貸しつけさせてるんだぜ。見ろ、だから借金しないと、給料も上がらないし、受けが悪いじゃないか。向こう半年も頭なしのやつはどんどん給料が上がるじゃないか。やつらは、借金の利子を回収するためだけで、給料を上げるんだ。だから、彼らはおれたちに女郎買いを奨励するんだ。借金があれば、月二割の途方もない利益があるのと、それに頭を上げられないし、足止めすることもできるんだからな。だから藤原君なんか、いつまでたってもストキなんだ。だから波田君なんざ、僕よりもいつも進給がおそいんだ」西沢は自分たちのことを例に話した。全く藤原はその驚くべき独学の努力のおかげで、学校出の船長などよりも、はるかによく社会的事情にも、一般学術的常識にも、通じていた。
小倉は藤原から、英語、数学、その他の学科を習った。彼は高等海員の試験を受けるつもりで勉強しているのであった。小倉も頭はよかったので、一年余りでナショナルリーダーを五まで上げてしまい、代数は高次までやってしまったのであった。そして、船長にしろチーフにしろ、頭脳が
ボースンはデッキからおりて来た。そして三人が煙草をのんでいるところへ来て、チーフメーツは非常におこって、すぐに下船を命ずるといっていたが、自分はやっと頼んで、やめてもらって来たから、どうか、一服したらすぐに荷役にとりかかってもらいたい、そうしないと、チーフメーツは、すぐボーレンへ代わりを連れに行く気でいるのだから、といって来た。
藤原は、産業予備軍が海員においては、組織的に、ボーレンによって動員準備されてある、かつ事情不明のためストライク・ブレーキングが平気で行なわれることを知っていた。そしてこの場合もそれが行なわれうることを知っていた。で、彼は、仕事につくことが得策であることを知った。
「それじゃ、一服したらやると、チーフメーツへ返事して来てくれ」と、わけなくストキが承諾したので、おどり上がったボースンはデッキへ上がって行った。
藤原は、西沢と、波田とに、形勢は全く不利であるから、これは時期を見なければいけない、これほどの少数で、完全に勝つためには機会を握ることが第一だ。その時は今ではない。だから、その時を待って力を示すために、今は忍んだ方がいい。それに今はなんでもないことなんだからと、
「だが、今はいい時だがなあ、正月前だし、横浜にはギリギリに帰れるかどうか、という時なんだからなあ。条件がそろってるんだがなあ、ただ冬であるってことが悪いだけだ。ボーイ長は雇い入れなしで負傷させて打っちゃってあるし、おれたちは、全く馬車馬か奴隷かで甘んずるなら、それでもいいだろうけれど、――それに、いま時分、室蘭に休む者はありゃしないと思うんだがなあ」と波田は主戦論を唱えた。
「だから、今は仕事をしなければならないんだろう。今は、室蘭に休んでる者があるかないか、ハッキリしてないから、今は仕事をしなければならないんだろう。その代わり、今夜上陸した時に、僕らは休んでる者があるかないかを探ることができる。で、もしいないということになれば、出帆間ぎわに船を動かさないことができるだろう。横浜まで、電報でセーラーを呼ぶにしても、いくら早くても、四日や、五日はかかるだろう。おまけに正月だ。正月早々なんだ。ね。それに、ボーイ長を
まずいのは、三上の問題が、未解決で残ってることなんだ。船長側では、それを仕掛けの種に使うだろうと思われるんだがね。
要するに、ほんとに、僕らの力がその一切を現わしうるのは、一切の奴隷的条件が、僕らに痛切に感得され、彼らの野獣的
ボースンは降りて来た。衆議は一決して、藤原と波田とはボイラーの上に、西沢は、船底でそれぞれの仕事の持ち場についた。
ボイラーは、ハッチの口よりも長かったので、非常にその作業は困難であった。けれどもその日の夕方には、三本のボイラーをうまく無事に積みおろすことができた。
さて、それから、万寿丸は、高架桟橋の、石炭
三〇
ボイラーが、
錨を巻き始めると、おもての室の中は、一切合財がガラガラにゆるんでしまいはせぬかと、気がもめるほど震動した。とどろきわたった。ボーイ長は、その弱った神経がこわれるのを、心配するような格好で、耳に
水夫室のまん中にある
波田は、この箱のドブドブの中へ、カンテラをさげてはいるのであった。そして、金棒の先の
波田は暗い顔をして、チエンロッカーへおりて行った。彼は全く、それへはいる時は
彼はチエンロッカーについて悲惨な物語を聞いていたが、それは、いつでも彼がチエンロッカーへはいる場合に、彼の記憶の中から、ムクムクと起き上がって来ては、彼を
それは一九一〇年代の事であった。英領植民地のシンガポーアの、マレーストリートとバンダストリートとの二街に、赤色
密航婦はどんな状態でも、我慢しなければならなかった。哀れな彼女らは、フォーアピークの中で、窒息して死んでしまったほどにも、我慢しなければならなかった、彼女らはビール箱の中で五昼夜も、いいようのない状態で、半死のどたん場まで我慢しなければならなかった。
ことにチエンロッカーと彼女らとの関係は
彼女らにとっても、その航海はビール箱や、フォーアピークなどよりも、**であったに違いなかった。船員たちは浮かれ気味の航海を続け、彼女らは一日も早く、動揺しない大地を踏みたいとねがっていた。
ところが、ホンコン入港の時に、密航婦を、フォーアピークへ移しかえることを忘れなかったボースンは[#「忘れなかったボースンは」は底本では「忘れなかった。ボースンは」]、何と考え違いしたものか、大切のシンガポーアで、有頂天になり過ぎていて、密航婦を、チエンロッカーから出すことを忘れてしまった。
そこで状態は、
波田は、チエンロッカーが、そんな歴史を持っていることによって、その困難な労働をなお一層不快ないやな、
彼は肉体的にはもちろんであるが、精神的にもこの上ない疲労を感じて、チエンロッカーから上がった時はまるで
その仕事着には海底の粘土が、所きらわずにくっついていて、彼の手や顔は、それでいろどられて、くまどりしたように見えた。顔の色は劇動のために土色であった。心臓はむやみやたらに、はね上がった。頭が痛く、目がくらんで、彼は、しばらくデッキへ
だれかが、このチエンロッカーにはいらなかったならば船は動き得ないのであった。波田は、破れそうな心臓に苦しみながら、どんなに多く与え、少し得ているかを思わずにはいられないのであった。
「おれたちは死ぬほど苦しんで、こんなありさまだのに、遊び抜いて、住みもしない別荘を、十も持った人間が、この船を持ってるのだ!」
万寿丸はかくして桟橋へ横付けになることができた。
桟橋の上は、夕張炭田から、地下の坑夫らの[#「坑夫らの」は底本では「抗夫らの」]手によって、掘り出された石炭が、沢山の炭車に満載されて、船の上の
数十間の高さに、海中に突き出している高架桟橋上の駅夫や、仲仕の仕事は、たとえように困るほど寒いものに相違なかった。
人はストーブにあたって、暖かいコーヒー、暖かい肉を
そこでブルジョアどもは新年宴会をやるのであった。二次会が開かれるのであった。
が、そんなところまで、話を飛び越えてはならない。
三一
ボイラーを吐き出すと、すぐに飯を食った水夫たちはそのまま船首甲板へ上がって、桟橋横付けの作業にとりかかった。ボーイ長は、食事の時に藤原に頼んで、
「今夜はぜひ病院へやってもらうように、船長に頼んでくれませんか、もうこの上とても辛抱がなりません」というのであった。
「いいよ。だがね、今から、桟橋だから、桟橋へついてからにした方がいいと思うよ。それにまず、そんなものはどうでもいいとしても、順序ってものがあるそうだから、ボースンに一度話して、ボースンから最初に話し込んでもらって、僕も、その時、一緒について行って話をつけたらいいと思うよ。ま、何にしても、苦しいだろうが、今夜まで待ってくれたまえね。今度は僕も、そのつもりでいるんだから」と藤原は快く、請け合ってくれた。ボーイ長は非常に喜んだ。
桟橋にも、
万寿丸は桟橋へついた。桟橋の
船員たちは、船長から、水火夫に至るまで、自分を、完全に縛りつけている、その動揺する家屋から、解放しようとして、それぞれ準備に忙しかった。
船長は、室蘭から少し内地へはいった
一般に北海道に美人が多いかどうかは、わからないが、しかし、飛び抜けた美人を時々、われわれは北海道で見る。色が「抜ける」ほど白くて、顔立ちの非常に高雅な美人を、われわれは、雪に
彼は、今夜も、そこへ行くために、汽車の時間表とにらめっこをしながら、したくを急いでいた。
船長が、そのダイアモンドのピンを、ネクタイに「優雅」にさそうとしている時に、純白の服を着けたボーイは船長室の
「何だ?」船長は怒鳴った。
「ボースンとストキとが、お目にかかりたいといって、サロンで待っております」
「用事だったらチーフメーツへ話せ、といえ」彼はピンの格好について、研究を続けた。ボーイはサロンに待っていた、ボースンとストキに、その由を伝えた。
「それじゃ」と、ボースンは、それをいいしおに、ストキにいいかけた時であった。
「どうしても、会わなきゃならないんだ! ぜひ、会いたいって、も一度取り次いでくれたまえ」ストキは、ボースンをおさえてボーイにいった。
ボーイは「何だい一体」とストキにきいた。
「ナアに、ちょっと会って話せばいいことなんだよ」気軽に藤原は答えた。
「
「ところが、こっちはもっと急ぎの用事なんだ、ちょっと頼む」
ボーイは再び船長室の扉をたたいた。
「ぜひお目にかかりたいといっています」
「だめだ! 時間がないんだ!」船長は鏡の中の自分に見入っていたが、チェッと舌打ちをした。
「うるさいやつらだ、用事は何だときいて見ろ」ばか野郎めらが、と、彼は考えの中でつけ足した。――
「ボーイ長の負傷の手当てをするために、室蘭公立病院へやっていただきたい、というのだそうでございます」
「ボーイ長! そんなものはだめだ、と、そういっとけ」何だ一体ボーイ長の負傷とは、ばかな。そんなものは船の費用から出せるかい。べら棒な。冗談も休み休み、
一体それはいつのことだ。横浜でやるべきではないか、今ごろになってそんなことをいうのは因縁をつけるというものだ! しかし、これは彼の思い違いであった。横浜では船長に話す間がなかったし、それに、チーフメートは、船長に相談してからにするというので、横浜では、フイになったのであった。
船長は、登別の温泉に、彼女――それは全く美しい若い女であった。そしてそれは、
「どうしても、それが必要なら、それはチーフメーツがうまく片をつける事柄なんだ!」船長は、ズボン――押し出してしまったあとの絵の具チューブかなんぞのように、ピッタリ一
「北海道じゃちょっと類がない、すがすがしい気持ちなもんだ。ズボンの折り目の立っているのは」彼はちょっと足を前へ踏み出すように振って見た。「上等」それで彼のズボンの試運転は通過した。
彼は十八の少年のように急ぎながら、彼女に与える指輪を、自分の小指へ光らしながら、理想的に船長らしい、スッキリした立派な服装と、その姿勢とを、サロンデッキへ現わした。
そこには、その寒さにもかかわらず、ストキとボースンとが立って、彼の出て来るのを待っていたのであった。彼はハッとして立ち止まった。
ボースンは、とっつかまえられた、コソ泥棒みたいに、しきりに
ボースンは、ストキの顔をせっぱ詰まって拝むようにながめ、そしてまた、船長にあわてて敬礼をした。
船長は黙って行きすぎようとして、タラップの方へ歩みかけた。
ストキはボースンを小っぴどくつついた。ボースンは目だけをパチパチさせて、口は固くつぐんでいた。それは一秒おそくてもいけなかった。続いて第二発目のストキの
「船長」と太い、低い、重々しい声がおさえつけるように、ストキの口から呼ばれた。
そしてストキは、ボースンを打っちゃらかしたまま、船長が今おりてゆこうとするその前へつっ立った。
「船長! 水夫見習いの安井
「それがどうしたんだ」と船長は頭のさきから、足の
「上陸禁止にでもなっているのか、そうでなかったら、今日でも
藤原はそのあらゆる激怒と、
「だが、負傷手当を船から出すべきじゃありませんか。それに、足を負傷して寝ているものが、この雪の中を歩いて行くというわけにも行きませんからね。
船長は、爆発した。
「負傷手当を船から『出すべき』だ? べきだとは何だ! べきだとは! そんな生意気な
船長は怒鳴りつけると、そのまま、桟橋へとおりて行った。
藤原は自分の足の下に踏んでいたかんしゃく玉を、そうと、やっぱりおさえつづけた。彼はアハハハハハと、船長の後ろ姿に向かって
船長は桟橋の上へ飛び上がった。ポケットで金が鳴った。彼は、ひどく
「
彼は、しばらくすると、ほとんど全速力で駆け足に移った。何だか、メスが、自分の心臓に向かって光りそうで気になってならないのであった。このごろはどうも、おかしい。三上――藤原――、どうもよくない傾向だ。彼は、後ろを振り向いた、
やがて桟橋が尽きて、海岸に出た。雪は二尺余り積もっていた。海岸に
室蘭の町は
停車場は室蘭の町をズッと深く入り込んで、
冷酷な、荒涼たる自然であった。その前では人は互いにくっつき合い、互いが、互いに
何だか、人なつっこくなるのであった。
船長はストキや船員を
ストキはわめくような笑いを船長に浴びせると、そのままグルリと振りかえって、おもての方へ帰って行った。ボースンは、すごすごとついて行った。
おもてでは大工は、ボースンが来るのを、したくをすっかり済まして待っており、水夫たちは藤原の帰るのを待ちくたびれていた。
藤原は、おもてへはいった。食卓の前のベンチへ倒れるように腰をおろした。
「どうだったい」と皆はきいた。
「だめだ! 今度はチーフメーツだ」と彼は答えた。もし彼は、彼がボーイ長が診察を受け、治療を受けるだけの金を持っていたならば、チーフメーツへなんぞ、再び交渉に行くわけがなかった。その結果は、あまりに彼にはハッキリ見え透いている。けれども、彼がもし、ボーイ長を自分の費用で連れて行き得ない限りは、彼はありとあらゆる手段を試みる必要があったのである、[#「、」は筑摩版では「。」]そして、それは、また、彼を救うと同時に、ボーイ長を絶望から、しばらくでも引き止めて置くところの、唯一の残された方法なのであった。
「チーフメーツの方もどうなるかわからないから、もし、それがだめだったら、おもてで出し合うってことにしよう。そうすることは、まるで船主にロハでくれてやるようなもんだが、この際仕方が、ほかにあるまい。そして大丈夫チーフもだめだと思うんだ。船長の許さないものをおれが、というに相場はきまってるんだ。だから、
彼は出て行った。波田は、彼が出て行ってしばらくすると、ボースンに、五円貸してくれと頼んだ。そして二円をボーイ長へ
波田は――それでは、藤原君はどこへ行ったんだ?――と思いながら、おもてへ帰って来た。
藤原はもう帰って来て、水夫たちに、チーフメーツは、船長よりも先にサンパンで、海から上陸したあとだったことを報告したところであった。
そこで、ボーイ長はどうしよう、という相談が水夫らと、四人の
三二
相談の結果、病院が夜では都合が悪くはないかという動議のあったため、なるほど、それは昼の方がいいだろう。では
安井は、そのきたない、暗い、寒い寝箱の中で、その傷の
しかし、何ともならなかった、事情は彼も聞いていた通りであった、「とも」の人間にとっては、彼は、その生命でも一顧の価値なきものだということが、念入りに繰りかえされて聞かされたに過ぎないのであった。そして、彼は、自分の生命がほとんど、生まれ落ちてから、一顧の価値だもなく、それはちょうど産みつけられた
「いっそ、産まれなければよかった」と思われるほど、あるいは事実において、その人間を餓死か、自殺かに導くような、「いっそ、死んでしまった方がましだ」と痛切に感ぜざるを得ないような状態が、なぜ存在するのか? そして、それは永久に存在しなければならないものか?
一方には「腹がすかない」という「病気」のために、薬を飲む階級があり、一方には「飯が食えない」という「健康」のために死ぬ階級があるということは、地球が
藤原は、ボーイ長の寝箱のそばに腰をおろして、
「労働階級は、君の場合のように、ハッキリ現われた場合だけ、資本制生産のために、その生命の危難に面するということを
それは、ボーイ長へ話してるというよりも、彼がひとり言をいってる、と言った方が正当であったくらいだった。
波田、西沢、小倉などはまだ上陸をせずに、一緒に、彼の話を聞いていた。
水夫では、波田、コーターマスターでは小倉が、今夜の当番であった。
波田、小倉、西沢、藤原と、四人の中で、酒を飲む[#「飲む」は底本では「飯む」]のは西沢だけであった、あとの三人は酒よりも甘いものであった。特に波田と来ては、前にもいったように、菓子のために「身を持ちくずす」ほどだったのだ。
「みんなで、東洋軒へ行って、お茶でも飲みながら、話をしようか」と、藤原は、皆が自分を待っててくれたのが、――上陸を十分延ばすことが、どんなにつらいことかは、読者は船長の例で知っているはずだ――気の毒になって、皆を菓子屋へ誘った。
「よかろう」波田は、懐中の三円――その月末には二割の利子で月給から天引きされるところの借金――をおさえながら叫んだ。
皆はそろって出かけた。出がけに、波田は、ボーイ長に言った。
「すぐ帰って来るよ。菓子を買って来るぜ、待ってたまえよ。そして、
西沢たち三人はタラップを降り切ったところで彼を待っていた。
それは寒い夜であった。水夫たちは不完全な防寒具で、皆震え上がっていた。オーバーを持っていたのは藤原と小倉とだけであった。彼らは、どこかの古着屋で、それを買ったのだ。藤原のは上着の大き過ぎるくらいに小さかったし、小倉のは米一斗袋に三升詰めたくらいにダブダブしていた。
彼らは
「メリヤスの新しいシャツが一枚あれば」波田は「どのくらい暖かいだろうなあ」と思いながら油と
西沢はオーバーがない代わりに、スェーターを着込んでいた。それは、「買いかぶった」綿製の物であった。「随分商人はひどいことをしやがる」もっとも、彼はそれに一円二十銭を夜店で出したということは、あまり
こうしてめいめいがはなはだしく貧弱な防寒具の
左側は、駅から
彼らは、石炭と海との
セーラーたちは、テーブルの方の室へ、油だらけな同勢を押し込んだ。けれども東洋軒は驚かなかったというのは、波田は、いつもその格好で来て、必ず二円ぐらいは食って行くからであった。
テーブルには白い布がかけてあった。それを力をいれて指でこすると、黒くなるのであった。どんなに手に
彼らは、まるで
何かを人間から、奪うならば、たちまち奪われたものが、奪われたものにとっては一番切実な要求となり、願望となるのであろう。光線を奪えば光線、空気を奪えば空気を、活動、音声、
菓子には、銀色の小さなフォークが
三三
彼らは甘いものに対する渇望がややいやされた。そこでボーイ長へ持って帰る菓子が注文された。それから彼らは、ボーイ長の負傷について「とも」の取った態度について、われわれは、どういう形において抗議するか、また、三上のような、事件をひき起こさずには置かない、船長のめちゃくちゃな態度に対して、そしてこれらのことを交渉するならば、労働時間もハッキリと決めてもらうこと、それに賃銀がまるで相場はずれだから、も少し上げてもらうこと。――当時欧州大戦乱時代であって、石炭は水夫たちの寝るべき室にまで詰め込まれたほどであり、従って、汽船会社の利益は
「それは、交渉をチーフメーツに対してやるか、または最初っから船長に対してやるべきものか、それが問題だね」と小倉は言った。
「もちろんそれは決定権を持っている船長との最初で最後の交渉にならねばならんだろう」藤原が答えた。
「君の言うように、それが最初で最後であると言うならば、交渉を拒絶された場合には、どうなるんだろう」小倉はその点をおそれていた。もし交渉が不調になったりした場合、同盟下船とでもいうことになれば自分は明らかに乗船停止を食うだろう。そうすると、自分は高等海員の免状をとる資格がなくなってしまうんだ! 彼は苦しい立場にあった。彼はもし、高等海員になってやや多い収入を得ないならば、
彼の村は、山陽道と山陰道を分ける中国の
でもし、彼が、これに参与して、この企てが失敗するならば、彼は、今まで三年間、全力を傾倒してそれに向かって進んだ高等海員どころでなく、下級船員からさえもその職業的生命を奪われることになるのであった。
彼は三上とサンパンを押した時にも、同様な感じを味わった。深い
「それは闘争になるだろう。僕らは、何の武器も持たないから、ただ固まって、何もしないだけの方法をとるだろう。そうすると、船では雇い止めして、乗船停止を食わすだろう。事によれば桟橋から道は監獄へ続いてるかもしれないよ」藤原は答えた。
「それは僕らの生活の破滅にはならないだろうか、いや、僕らだけではなくて、僕らの背後にある老人や幼児たちの運命を破滅に導くだろう。僕は僕の故郷のことを考えると、どんな忍耐でもやりたいと思うよ」小倉は彼の哀れな気の毒な心の中に、涙と共に浮かぶ考えを述べるのであった。
「そうだ! 君は君の忍びうる最大の『忍耐』をなし得た時に、君は君のなしうる最大の力で同胞を
「そうは思われないよ。僕が今職業を失えば、僕の故郷では、どんなに嘆くか知れやしないよ。それだけではないんだ。僕の家では食う物に困ってしまうんだ!」小倉は感情がたかぶって来た。彼の頭には、彼が村を去る時の悲痛な光景が涙に曇って浮かんで来るのであった。
「同情する! 労働者はほとんどすべてが、
「だが、小倉君、君はどっちにしてもだれかの死には、関係しないわけには行かないだろう、ボーイ長は、自分のパンを求めに来て、
だが、小倉君、君の言うことはわかる。僕らは馬車馬のように生活するか、餓死するかどちらかなんだ。ほんとうに、僕らが、僕らの持っている偉大な力に、自分から驚く時の来るまでは、いたずらに、僕らは犬死にをしなければならないんだ」上陸の時以外に彼らが口にすることのできない一杯の紅茶は、彼らを興奮せしめたように見えた。藤原は自分でもそう思いながら、自分に追っかけられて話しつづけるのであった。
「わかったよ、藤原君! 僕らは、一飛びに
「それで」と西沢は口を切った。「だれが船長に
「おれたちじゃとても
「じゃあ、今夜要求条件をこしらえて、それに全部で連印して、それを船長に提出しようじゃないか」波田がいった。
「いいだろう」皆が賛成した。
「だがそれはいつやるか? その時を選ぶことが、[#「、」は底本では「。」]勝つも負けるも、時を選定すると言うことになるだけだと僕は思うんだ、ことに、船長は帰りを急いでるからね。正月は目の前だしね。おれたちの用事がなくなった時に、おれたちが力を示そうとしたって、それやだめなことだから」藤原は、実戦家としての提案をした。
「だがさっきも言ったことだが、要求がはねつけられた時はどういう対策を取るんだね」小倉はそれを聞いた。「始めることになれば、おれも徹底的にやらねばならん」と彼も覚悟したのであった。
「それは、ストライクが皆の意志で決定されるように皆で、決定しなければならない重大な問題だ。要求条件を出しただけでは、まだなんでもないんだからね、それで
「そんなことは、一体どこで相談をするんだい」西沢がたずねた。
「それは、もし、コーターマスター全部が承知したら、コーターマスターの室でやろうじゃないか」と小倉が言った。
「それはいいだろう」で、本部は三畳敷きに足りない
「それで、いつ一体やるのかい」波田が今度は聞いた。
「いつがいいと思う」と藤原は反問した。「それは皆が一番いいと思った時が、いいんだ」
「おれは出帆の時がいいと思うぜ。出帆の時におれたちが遊んだら、第一ワイアやホーサーが桟橋からはずれっこねえんだからな。ヘッヘッヘヘヘヘ」と西沢は、戦闘を開始したような気でいた。
「そうさなあ……出帆の間ぎわに要求書をブリッジへ持って行くか?」小倉が言った。「『これを承認してください。何でもあたり前のことです』とやるか」
「そうじゃないよ。要求書を、やつの目の前へつきつけるんだよ。『やい見えるかい、え、これに判をつけ、さもねえと、正月は横浜じゃできねえぜ』と
「出帆の時はいいだろう。第一、おれはチエンロッカーにはいらないよ」波田は、自分のあの困難な仕事が、船の出帆に際して、どうしても省略することのできない重大な作業であることを、ハッキリ見ることができた。「おれたちを月給
「だが、これがよし通ったにしても、これが最後の勝利ではないということを、よく考えて、なるたけ大事をとってくれないと困るよ。たとえば要求は通ったけれど、あとで気をゆるめたために、毎航海毎航海、
彼らはねじ釘の本質に基づいて、船体に錆びついているものと見なければならなかった。
「よっぽど例外ででもなけれや、あいつらが船長に闘争を宣言するなんてこたあないよ」とストキもいった。
「それやあたり前さ、今夜だって、ボースン、大工は、チーフメーツに大黒楼に呼ばれて、そこで飲んでるんだぜ。もちろんやつらあ、ねじ釘さ! だがやつらはかえっていない方が足手まといがなくっていいよ。今夜は貸金の利子を勘定する日さ」西沢は、すばしこくスパイしていたのだった。
「おれたちは毎月の収入の五分ノ一ずつ出し合って、やつらに芸者買いをさせ酒を飲ましとくんだなあ」波田が言った。
「では」藤原が言った。「要求書は僕が原稿を作って、それがまとまった上で、清書して判をおして、それから提出ということにしようね。それまではもちろん、絶対に秘密、しかし内容を秘してコーターマスターを説くことは小倉、君に一任しよう。ね、それでいいかしら、ほかにまだ考えて置くことはなかったかしら」彼はちょっと頭を軽くたたいて考えた。
「もういいようだね」西沢が答えた。「だが波田君には菓子が、僕には酒と女とが足りないような気がするね」彼は大口をあいて笑った。空気まで寂しさに凍りついたような、静けさを破って、声は通りへ響いた。
「波田君、どうだい、そんなにいけるかい」藤原は立ちながらきいた。
「もういいよ。でも食えば食えないことは無論ないけれどもね。財政が許さないさ。ハハハハ」と笑った。
四人はおもてへ出た。西沢は「ひやかして、一杯ひっかけてくる」と言って坂を遊郭の方へ上がって行った。三人はそろって、どこか、そこが外国の町ででもあるような感じを
ボーイ長は波田から菓子のみやげをもらって喜んだ。
三人は、紅茶のおかげで眠られぬままに、ボーイ長のそばで、ストーブに石炭をほうり込みながら、前のボースンが、
三四
それは、ここに今書くべきことではないかもしれない。けれども、それは書いた方が都合がいい。船長とは一体何だ? それの答えの一部にはなるだろう。
それは夏の終わり、秋の初めであった。時々暑い日があって、また、時々涼しすぎる夜があるような時であった。万寿丸は同じく
本船が秋田の
波田、三上、藤原、西沢らは元気盛りではあるし、船長をそれほど「
全くこれは予想外の悪い結果を水夫たちはもたらしたものだ。水夫たちでは、漁船じゃあるまいし、全裸で「船長」の見て「いられる」前で作業することは無礼だと、船長は考えるだろう。だが、ウォーニンを取りはずすことは、また急いでいるんだろう。だから、こういう時を利用して、やつの鼻先におれらの×を拝ませてやれというつもりだったのだ。
ところがその晩ボースンは船長から「ねじ」のぐらつくほど「油をしぼられた」のであった。「そんなふうでは非常の時に役に立たない、かえって邪魔になるくらいなもんだ」というんだ。
それにはボースンはひどくしょげた。水夫たちも、方角違いの飛ばっちりに、いささか、恐縮したのだった。
だがそれは、問題にならずに、直江津に着いた。直江津の初秋! それは全く、日本海特有のさびしい
ところが困ったことには直江津の海はきわめて遠浅であって、おまけに少し風が吹くと、そこはのべったらな曲線をなした海岸であるために、汽船は
佐渡へ避難する! それもまたセーラーたちには結構であった。そこにも、珍しい
万寿丸は別に錨を巻いて逃げるほどのことはないが、石炭積み取りの
そうかといって、わが万寿丸が、不良少年のように、ノコノコ佐渡までも女狂いには出かけられないのであった。
ちょうど、その時日曜が来た。船長は直江津の
この計画が発表されると、同時に、ボースンと、今の大工、三上の三人は
直江津の町は、沖から見ると、砂浜から、松がところどころに上半身を表わしていて、
「ここの女郎は、皆亭主持ちなんだぜ! そして、みんな自分の家を持ってるんだぜ、自分の家へ連れていくんだぜ、
それは、全くおそろしいほど、彼らの好奇心をそそった。素人の
この興奮剤は、恐ろしい偉力を現わした。伝馬は直ちにおろされた。
彼らは大騒ぎをしておろした。それは難なく、海面へおりた。そして、三上は、実際直江津の漁夫を笑うかのように、楽々とおもてへ
波の山、波の谷を、見えつ隠れつして、それを漕いで行った。
そして、そのまま、どこへ行ったか、見えなくなってしまった。カッターはそのあとでおろされた。そしてそれは、サードメーツ、チーフメーツまで乗り込んで、ほんとうに漕ぎ方の練習をやった。「伝馬は」といって、チーフメーツはカッターの上へ立って方々をながめたが、それは見えなかった。
カッターは引き上げられた。そして日は暮れた。伝馬はもちろん帰って来なかった。伝馬の連中が、もし、船長を連れて行ってるならば、このような問題は起こらないのだったが、船長は船に残っていたのだ。
船長は、たたき落とされた
自分の妻君の
「まるで狂人病室だ! 看護人はたまらん」ボーイは背中をボリボリかきながらこぼした。
全く船長にしてみれば、その誇りを傷つけられ、自分の優越感を裏切られ、自分の特権を
彼は時々ベッドから、飛び上がっては、ボーイを怒鳴った。それは足へ煮えたぎった湯でもかかった時のように飛び上がるのだった。そして、彼は飛び上がるたびごとに、「きゃつら」に対する
ボースン、ナンバンらが「出し抜いて」直江津の、自分自身の家を一軒独立に構えている女郎買いに行ったことは、憤怒の余り、船長を発作的の熱病患者みたいにした。
わずか、しかし、このくらいの事で、何のために、それほどまでに船長が、
三五
その夜は、船長にとっては、全く不愉快きわまる長い夜であった。その夜は、ボースン一行にとっては、全く愉快きわまる短い一夜であった。そして、おもての者たちにとっては、それは、灰色に塗りつぶされた、懲役囚の一夜のように惰力的な一夜であった。
その夜が明けると、ボースンらは、陸地近くの、日本海特有のまき
よせばいいのに、ボースン――海軍出のおもしろい男だった――は、伝馬の
それは、客観的には浦島太郎が、龍宮の
黒青い、大うねりのある海には、外には一
一切が澄みわたって、静かであった。それは一九一四年のことではなくて、紀元二百年の日本海と名のつかない、前の海面であった。
そしてボースンは乙姫様からもらった箱をさげて、ハンケチを振っていた。
ボーイが、船長にボースンの伝馬が見えると報告した時の、彼の
彼は、ドイツ製の双眼鏡をオッ取って、ブリッジに駆けのぼった。彼の双眼鏡は伝馬を拡大した。
「
水夫たちも、火夫たちもデッキへ出て、悲惨な
彼らは、おもてからロープをおろしてもらって上がった。
彼らが、皆まだ上がり切らないうちに、コーターマスターが飛んで来た。
「伝馬はそのままにしといて、ボースンにすぐ来いって、船長が」とボースンにいって、
「オイ、ボースン、気をつけないと、まっ
ボースンは、女房と、六人の子供が、打ち上げられた
彼の共犯者? たちも、霜寄りした魚のように、一つところに集まって「困った」のであった。三上だけが
その話によると、若い船員たちにとっては、その
三上はこう説明した。「ほんとに、自分の亭主のように親切にした」と。
彼らは、人間の「愛」には、うそにもほんとにも、
彼女らが、彼らに、ほんとに人間として、仲間として接近された時、彼女らも、時としては、その夜、強い反抗と、自暴自棄とから、涙の多いその女性としての一面をフト、見せることがあるものだ。それは、よくないことであろう。だが、それから先には、なおらないであろう。
船長はサロンに待っていた。チーフメートもそこにいた。セコンド、サードもそこにいた、陳列されたように頭をそろえていた。船長はそれらの人間にとっても、犯すことのできない人間であった。従って、ボースンなどは「陪臣」であった。
ボースンは落ちて来た
そこは、まるで法廷のようであった。そこでは、善人と悪人とは決定されてあった。
ボースンのしたことは、論ずる余地がなかった。
「お前に下船を命ずる! 今からすぐに。荷をまとめて、あの伝馬で上陸して行け、合意下船ではないぞ、下船命令だ! それでよろしい」
きわめて簡単であった。抗弁もなかった。ありもしなかった。余裕もなかった。船長は自分の室へ、赤くなった目を休めに引っ込んだ。それぞれメートらも幽霊のごとく引き取った。
ボースンはおもてへかえった。そして、どっかと自分の寝箱の中へ、からだを投げつけた。一切は決定した。ボースンは業務怠慢で下船命令を食ったから、一年間乗船を海事局の名によって停止されるのだ。それだけの事実なのだ!
悲惨なる事実は、新聞の三面に「死んだ人」の欄に一括して載せられる。ブルジョアの結婚が破れたことは、全紙を数日間にわたって
(以下十九字不明)凍死し、飢え死にし、病死し、自殺し、
もし、それらの悲惨なる事実がなかったならば、それらの悲惨事の上にのみ建つ、ブルジョアの社会建築はどうなるのだ。それは、だから、実は悲惨事ではないのだ。貧窮のために死滅して行くことは、すこしも悲惨ではないのだ。死滅して行くほどに多数が貧窮であるからこそ、これほど、ブルジョアが富んでいるんだ!
だから、一切は、最上の状態なので、「これを動かしてはならない!」のだ。
ボースンは、そこらの物を片づけ始めた。帆布で作った袋の中へ、一切合財押し込み始めた。そして、その間に、アーッとため息をもらした。曇った夕暮れのように、どんよりと考え、どんよりと感じた。彼は寝床の下から、長いこと、そこにつっこんであった、破れたゴムの
ナンバン、大工などの連累者は、ボースンの命
「お前が、国の者でなかったら、お前も一緒なんだぞ!」大工は、船長にそう怒鳴りつけられて、失望したような、ホッと安心したような、何だか浮き浮きしてうれしそうな気にまでなりながら、おもてへかえって、「だめだった」ことを報告した。そして、心の中では口笛でも吹きたいような元気元気した気になった。
三上は、何とも思わなかった。それは、人のことなのだ! ナンバン、ナンブトーも、同様であった。
読者は、作者に対してこのことで
ボースンはばかな子が、その帯をくわえるように、その靴をいつまでもいじくっていた。
しばらくして、彼は、その靴を床へ力一杯たたきつけた。そして、しばらくまた考えていたが、また、それを拾い上げて、その破け目を子細に調べて、ソーッと、下へ置いた。彼は、寝床の
水夫たちは、ボースンの室をのぞいては、気の毒そうな顔をした。波田は、ボースンを、月二割も利子をとるので、船長の模型ぐらいに評価していたのであったが、彼が「
彼は、
ともからは、ボースンはまだ上がらないかと、しきりに
「人間ほどわからんものはない。ああ人間ほどわからんものはない」と、ボースンはため息と共に言った。
ボースンは、三上に送られて、自分も一本の
ブリッジからは、船長とチーフメーツが望遠鏡でこれを見送った。伝馬はだんだん小さく、波山と波谷との上にのりつつ見えつ、沈みつして行った。
ちょうど、その日も荷役がなかった。また別に仕事もなかったので、水夫らは、船首甲板にウォーニンを張って、その下で寝ころびながら、ボースンの伝馬を見送っていた。
伝馬はどんどん進んで行った。そして、陸岸近くなって、もう一、二間と、いうくらいのところまで進んだ時に、後ろから追っかけられた、例の巻き
岸には、石炭の人足たちが、もう少し
人足の四、五[#「四、五」は筑摩版では「四五」]の者は直ちにおどり入った。そして、
もし、人足が助けてくれなかったならば、伝馬はもちろん、流されているし、ボースンにしても、三上にしても、死に得た。彼らは足が立たなかったといっていた。そのはずであった。どんな大男でも、海の幅ほど
二人は、櫓と、舟板と洋傘とをしっかり握りしめて、人足に助け上げられた。
ボースンの荷物は、
それは、ブリッジから、望遠鏡で見る時に、流れて行く
「これは痛快だ、こいつあおもしろい、ワッハッハハハハハハ、ワッハッハッハハハハハ、とてもたまらない[#「たまらない」は底本では「たまらい」]、ワッハッハハハハハ、あれを見たまえ! 舟板を
おもてのウォーニンの下でも、砂丘の上の粒のような人間たちが、動揺し始めたことを見た。何だろう? と伝馬の
彼らは、ウォーニンの柱やレールに
夕方になって、三上は、ふくれっ
三上は、再びボースンを送って行って、夜になって帰った。
ボースンは、横浜へ帰って、全く、くず鉄の山の中の一本のねじ
これが、船長の偉業であり、これが、ボースンが、「当然」受けねばならない報いであった!
三六
私がまるで酔っぱらいのように、千鳥足で歩き、一つのことをクドクドと、繰り返している。だが、これは、私が船のりであるからで、小説家でないからのことだ。全く、こんなことを、いや、「書く」ということは、とてもむずかしいものだ!
ボーイ長は、もうこれですっかり傷も、それから来た病気も、「これでいよいよなおるんだ!」と思った。それは、今から室蘭の公立病院に行くからであった。
そこに行くためには、どうしたって、海も見るだろうし、家も見るだろうし、木々も見えるだろうし、また、町の人々も、そのほかいろいろなものを見ることができるんだ! そうだ、彼は頭の上の、上段の寝箱の底板ばかりを一週間ばかりながめつづけていたのだった。
こんな場合には、人は恐らく、どんなものでも、見るもの一切がなつかしいものだ、どうかすると、自分にけんかを吹っかける、酔っぱらいでさえも。それは放免された囚人の心と同じであった。
彼を連れて行く、藤原と、波田とはしたくをしていた。したくをしながら、二十五歳のキビキビした青年、波田は悲痛な冗談をいっていた。
「病院には、看護婦がいるぜ、色の白い、無邪気な、それほど
「何だい、こいつすみに置けねえなあ、君は病院に行ったことがあるかい」波田にしては珍しい話なので、藤原が一本突っ込んだ。
「その目がいいんだ! 目がね、
「似合わねえな。波田君、
「マ、待ちたまえ、先回りしちゃいけないよ。実際だね。僕だって、もう二十五になるんだからね。恋も、愛も十分に知ってるさ。その時に、もし、そんな処女に病院で出会ったらだね。この糞のにおいのする仕事着にでも近づいて来るだろうかってことを考えてるんさ、ハッハハハハハ」彼は笑った。その
「だって、君は、自分でも言ってるじゃないか、『女難
「悲観悲観、おれが女のことなどいい出したのが、よくねえんだな、おれの妹だって、こんなきたない労働者とは結婚したがらねえだろうからな。ハッハッハハハハハ」
「それは全くだよ、波田君」藤原は感に
さてしたく、――それは、その通すべきところへ、手、足を通して、はめるべきところへボタン、
波田は、ボーイ長を背中に
「済みません」と、ボーイ長はうれし涙に詰まったような鼻声で言った。
三人は、四本の足で出発した。
子供を負んぶすることでさえも、非常に肩が痛く、また重いものである。ボーイ長の場合にははなはだしく重かった。そして、困ったことには、その胸が痛く、なおより悪いことは、砕けた左の足が、ともすればダラリと下がって、雪の中をひきずるのであった。ボーイ長は、足を引き上げていようとして、全身の注意を左足に集めて、それを、ひきずらすまいとしたが、だめであった。ボーイ長の足の下がると同様に、波田の手までが下がるのだった。
波田が、ボーイ長を揺すり上げるのは、二十歩から十歩になり、今では一歩ごとに揺すり上げるようになった。ボーイ長は、痛さと寒さとのために、顔色をなくしていたが、それでも辛抱した。
彼らは、桟橋から、二十間ぐらいのところにある、[#「、」は底本では「。」]番小屋へはいった。そして、ボーイ長をベンチへおろした波田は、額の汗をぬぐった。
「アア、ご苦労様」藤原は言った。ボーイ長は、心臓の鼓動がくたびれていて、額から冷汗が出て、ものを言う気に、どうしてもなれなかった。ただ、アーッと小さくため息をもらした。
番小屋で休んでいた男女の人足たちは、彼らが取りめぐっていた、ストーブの一辺をあけて三人に与えた。そして、ボーイ長の負傷に同情と
「おれたちあからだが
ボーイ長の左足は、銃剣の
ボーイ長は、そこで、変わった人々の慰めの言葉を聞いて、涙ぐまれてしようがなかった。
彼の母ぐらいの年配の老いたる婦人も、あの劇労に従うのであろう、ショベルを
働き盛りの者は、
「おれも、片輪になって帰らねばならないだろうか」ボーイ長は、灰になりかけた石炭のような、味気ないさびしさに心を虫食われた。
「サア、行こうか、今度は僕が
人足の人たちも手伝ってくれて、ボーイ長は藤原に負われた。三人は、また、四本の足をもって、
三人は、それほど黙っていないで、まれには一言ぐらい何か言ったらいいだろうと思われるほど、黙ってくっついて歩いた。三人も自分で、何かその不愉快な苦痛な沈黙に反抗したいとは思っても、口をきくだけの気力がないのであった。それは何か官庁の手続きででもあるように、非常に面倒臭いことのように思われるのであった。
道は、藤原と、波田にとっては、昨夜歩いたと同じ道であるのに、道の方が先へ向こうへすべり抜けでもするように遠く思えた。
しかし、彼らはやがて、第二の小屋まで来た。そこは、港の最奥部で、馬蹄形の頂点になっていた。その小屋からしばらく行くと、彼らは、左へ、海岸から離れて、石炭の連峰の間に、こしらえられたトンネルを抜けて、それから、室蘭駅の機関庫のある、数十条のレールの平原を横切って、
彼らの一行は、第二の小屋で息を入れた。
そこにも、沢山の人足の人たちが、まっ
三人は、また、そこで、人足たちに席を与えられて、そして、前と同じようなことを繰りかえした。一休みごとに、彼らは、少しずつぬれるのであった。
やがて、一行は、レールの平原を通り越して、街に出た。そこで、ボーイ長に
三七
受付で、診察券を買って、外科の待合室で順番を待った。まるで、言葉の通わない国へ上陸したように、不案内であった。船の生活が、彼らを、だんだん陸上においては、不具者同様にするのだ。
白い服を着て、看護婦たちはいた。そして、美しいのもいた。けれども、波田の考えたような夢のような、女はとうとう見つからなかった。けれども、彼らは、ペンキのにおいの代わりに薬のにおいをかいだ。殺風景の代わりに、清い女の声が流れ、看護服の
そのうちに「安井さん」と呼ばれて、ボーイ長は
「どうしたんです」医者はきいた。
ボーイ長は、かいつまんでけがをした時のようすと、痛いところとを話した。蒸気のラジエーターが、白い湯げを吐いていた。
ボーイ長は、寝台の上で巨細に診察を受けた。そして、足は、改めてナイフで切り開かれたり、ピンセットで、神経を引っぱられたり、血管を引っぱり出して、それを糸で縛ったりした。
「どうして、こんなに、いつまでもほっといたんです。夏だったら、もうこの辺から切り取らねばならぬようなことになってたかしれないよ」といって、
「船長が、どうしても
「何か、船長と、例のごとくけんかでもしてるんだろう。船では、よくあるこったからね。君たちも強く出たんだろう」若い医者は、近視眼鏡の奥で、その人のよさそうな目で、笑いながら言った。
「そんなことじゃないんです。全く、話にならないんです」と、藤原は簡単に
医者は、大きく、うなずきながら聞いていたが、
「足は、これで一週間もすれば、糸を
といった。
「それじゃ、胸を内科で診察してもらうんですか」波田がきいた。
「そう、その方がいいね。足は絶対に動かしちゃいけないよ。五日か一週間のうちに、もう一度来てください」
「は」と藤原は答えて、二人はボーイ長を
一週間、以内なんぞに来られやしない――ことは皆を困らし、途方に暮れさせた。が、まあ、内科の方が、済んでから考えることにしようと、言い合わせたように、皆が考えた。それは、痛い傷に触れたくないような状態であった。
内科の医者は「熱が夕方になると出るだろう」とたずねた。ところが船には、ともは知らずおもてには、検温器などは見たこともなかった。従って、熱もあるにはたしかにあるんだが、高すぎるのか、低すぎるのか、皆目見当がつかなかった。
「計ったことがないんですが、実は、検温器がないんですから」藤原が答えた。
「夕方になると、気分が悪くなったり、寒けがしたりしやしないかい」医者はきいた。
「ええ、しょっちゅう傷は痛いんですが、気分がぼんやりして来るのは、夕方です。何だか、妙な夢なんぞ見て、うなされたりします。それに、寒けも夕方になると、きっと来ます」安井は答えた。
医者は、背中から呼吸器を聴診しながら首を傾けていた。
「入院ができるかい。入院をした方がいいんだがなあ」医者は、藤原の方に問いかけた。
「何でございましょう病気は。入院も、できなかないと思いますが、船の方から経費が出ないと、私たちでは、入院費がとても支払えないと存じますので」藤原は、正直なところを打ち明けた。
「病気ってのは、打撲から来たものだ、やっぱりね。足のように、中から骨と肉とででき上がったところはいいが、こういうところは、内部に複雑な、機関があるからね」といって、七面倒なむずかしい病名をいった。
「で、病気の原因が、負傷から来たものだということがわかれば、船から出るのかね? 診断書を書いて上げようかね」といって、医者は、診断書を書いて渡した。
「どうもありがとう、いずれ帰船して、相談いたしましてから」
三人は、礼を言って、ボーイ長は、波田に負われそこを出た。
診断書が、百通あってもだめだろうとは思ったが、とにかく、それは、一つの有力な味方であった。
今では、実際の負傷や疾病よりも、診断書の方が、重大な意義を持っているのだ。ことに、それは、労働階級の負傷疾病の場合、そうであるのだ。工場医は、資本家の診断によって診断書を書く、という役目だけを勤める場合が多かった。
資本家は、機械に
炭坑主は、自分の炭坑が、ガス爆発をした時に、五百人の男女工が、坑内で蒸し焼きにされていることには、決して驚かないのだ。彼は、その坑口の密閉が三年後にか、五年後にか開かれた時、まだ掘る部分が焼けずに残されているか、どうかに心配しているのだ!
汽船においても同じことだ。一緒に沈んだ人間は何でもない――しかし、船体は資本家にとって大きな永久の嘆きなのである。
船長も、ボーイ長の負傷そのものに対しては、驚くべき「理由」がなかった。だが、この診断書は、幾分なりとも、何らかの衝動を与えまいものでもない、と三人は空頼みにした。
小学校の子供たちが、本と弁当とを載せた小さい
これは、ボーイ長にとって、たまらぬほど、愉快なことであった。いい気散じであった。
三、四年前までの彼の姿が、無数に雪の上をすべったり、ころんだりするのである。彼は、足のことを忘れてしまって、自分の
彼を負んぶした波田は、汗をたらしていた。
「波田さん、菓子屋まで、まだ大分寄り道になるの」ボーイ長はフト菓子が食べたくなった。「きんつば」が食いたくなった。できれば、上等の蒸し菓子の中へ入れる
「そいつあいい思いつきだ」波田は、そのつもりで航路をそっちへとっていた。
東洋軒は、また、その日も、珍無類なお客を迎えた。
ボーイ長は、足がきかないので、日本間の方に三人は通された。
全く、波田がどのくらい甘いものに対して、真実の愛をささげているか、それは、私のよく表わし得ないところだ。彼は、ほんとの酒好きが、酒に目をなくす以上に、菓子には参っていた。それは「病的」だった。しかし、一体に、船員は、何物、何事に対してでも「病的」に欲望を持っていた。安井、藤原なども量的には、時とすると波田以上であっただろう。
三人は、木炭の
一八六三年、法刑及び懲役にされた、囚徒の給養や労働状態について、英国政府が調査した結果からマルクスは、ポートランドの監獄囚徒が、農業労働者や、植字工などよりも、よい営養をとっていたことを証明している。(資、一ノ三、二三八ページ)
一八五五年、ベルギーにおいても、デュクペシオー氏は、書物の中で、悲惨でないと思われている標準的の労働者が、同国における囚人の営養よりも、十三サンチームだけ営養が少なかったと書いている。(資、一ノ三、二二四ページ)
世の中には、監獄よりも、食物や、労働においては、中には一切にわたって、苦しい、生活をしている者もあるのだ。
ボーイ長は、負傷して、見舞金をもらって、初めて、そんな――炭火の
――私は、読者に、断わって置かねばならないのは、以上のことによって、監獄がいいところだということには、ならないことを承知してもらいたい、監獄よりも悪い条件が、あるということは、監獄が、いいということの、一つの条件にもなり得ないからだ。――
ボーイ長は、その注意を足や胸から、しばらくの間は、引き離すことも、できるようになった。彼は、つまり、いくらかほかのことも、考えることができるようになった。というのは、手術をしたり、薬の香をかいだりしたのが、彼を、いたわったのだ。
「船に乗ってるとこういうものは、とても食べられないね」などといって、彼は「
「全く、この家の菓子はうまいよ。横浜にだって、たんとありゃしないよ」波田は通がった。
「菓子の鑑別にかけちゃ、波田君は、ブルジョア的の
三人は、胸の焼けるほど菓子を食った。その間に、疲労も回復された。そして、しばらくは、船のことや、一切のいやなことを、忘れてることもあった。が、藤原の心は、ストライクが、いつ起こさるべきであるかが、ほとんど、忘れられなかった。
彼は、菓子を食いながら――「万人が、パンを獲るまでは、だれもが、菓子を持ってはならぬ」というモットーを思っていた。この言葉、このモットーは、どのくらい、藤原を教育したことであろう。この簡単でわかりのいいモットーは、全世界の、労働者たちの間に、どんなに、親しい響きをもって、口から口へ、村から
藤原は、勘定を払った。「済まないなあ、僕が、おれいにおごるつもりだったのに」とボーイ長は、藤原に
ボーイ長のまっ白の
しかし、本船に帰り着いた時は、彼らは、グッタリくたびれていた。ボーイ長は、そのひきずった足のために、再びその神経は、かき荒らされてしまった。それは、美しい夢から目ざめた、
一切は、また狭い、低い、騒々しい、不潔な、暗い、船室の生活へ帰った!
三八
万寿丸は、横浜へ帰ると、そのまま正月になるのであった。従って、船体は化粧をしなければならなかった。船側は、すでに塗られた。次はマストが、塗られねばならない。
マストのシャボンふき、ペン塗り、――この仕事は、夏はよかったが、正月の準備などは、冬に決まっていたので、困難であった。シャボン水は凍ってヨーグルト見たいになるし、ブラシが凍るし、全く、始末に行かなかった。
中でも、最も困ることは、からだの凍ることであった。
冬の日電柱に寒風がうなり、
全くそのマストを相手の仕事はあぶなくもあるし、寒くもあった。
仕事は一番のマストから始められた。自分で自分のからだをロープに縛りつけて、それを、マストのテッペンへプロッコを縛りつけ、それへそのロープを通して、一端を自分が持っているのだ。塗りながらだんだんそのロープを延ばし、延ばしては塗り、塗っては延ばして下の方へ下がって来るのだ。
われわれの仕事はペン塗りは夏においては、大変やりいいのである。それはペンキがのびるからである。だが、この場合、ペンキはいくら油でのばしても、夏の時よりも、はるかに濃い。波田は濃くて堅くて延びの悪いペン
向こう側を西沢が塗っていた。
高架桟橋は、マストのテッペンから四、五間下に見えた。
「桟橋は高いようだが、マストよりは低いんだなあ」波田は西沢にいった。
「そらそうだ、だがどうだい、寒いこたあ、手に感じなんぞありゃしないぜ」
「オイオイ、こっちはおれの領分だぜ!」
「冗談言っちゃいけない」
そこで二人は横をながめる。桟橋が左の方にあれば、西沢が正しいのだ。西沢は船首から船尾を向いて、船首部分を塗るのだった。
彼らをつるしたロープまで、堅く凍ったように感ぜられた。彼らはもちろん「棒だら」のように凍って堅くならないのが不思議であった。
「こんな
「やつあ、おいらが、マストにくっついて凍ったのが見たいんじゃなかろうかい? え、おれは、あいつの魂胆はてっきりそこだと思うよ」波田も震えていた。
「きまってらあね、金魚が凍りついたのよりゃ、よっぽど、人間がマストへ凍りついた方が珍しいからね」西沢が答えた。
大きなマストも、その高い部分では、随分揺れた。それは、その
「はたちやそこらでペンカンさげて、マストにのぼるも――親のばちかね」西沢は坑夫の
――シューシュ、どころか
「何だ捨てられた小犬みてえな音を出してやがる」西沢が冷やかした。
「おめえのはペン罐をたたいてるようだよ」波田がやりかえした。そして彼は下を見た。
「オイ、まだ大分あるぜ、何とかうまい便法はねえかなあ」波田はこぼした。
「あるぜすてきにいいことが」西沢がいった。
「ヘッ! 下におりてストーブにあたるこったろう」
「もっといいんだ。マストのテッペンから海へ飛び込むんだ! そうすれや、どんな難病でも、いやな仕事でも一度に片がついてしまわあ」
「全くだ」
彼らはほとんど、無意識に、マストを、こすっていた。水の中で金魚が凍るように、彼らは、宙天の空気の中で凍りそうであった。
西沢と、波田とは、マストのペンキ塗りを「やりじまい」で命じられたのであった。「やりじまい」とは字のごとく、やってしまえば、その日の仕事のしまいということであった。つまり仕事を、請け負ってやることであった。
それは大抵都合の悪いことであった。なぜかならば、仕事を当てがう方では、普通の一日行程ではなし遂げ得ないで、しかも急いでいる仕事を「やりじまい」に出すのであった。すると、出された方では、
「やりじまいだぞ、二時には済まあ」セコンドメートは、未熟の
彼らは「やりじまい」という「わさびおろし」で自分をすりおろすのだ!
それは、陸上における請負仕事、あるいは「せい分」仕事、と同じものだ。
「やりじまい」の仕事で、時間のおくれるのは、それは労働者に「腕がない」のであった。仲間から言っても、それは「だらしのない」ことだった! 自分からいえばそれは「自業自得」であった。そして、資本家から言えば、「だからこれに限る」のだった。それで、「おれたちがもうかる」のであった。
彼らは、ほとんど骨の髄までも冷たくなって、夕方、ほかの水夫たちが、飯を食ってしまったあとでようやく、その「やりじまい」を終えた。それは彼らの言うのが正当であった。「やりづらい!」と。
三九
一切はともかくも順当に行った。
高架桟橋からは、予想以上に、石炭を吐き出した。それは黒い
彼らは、苦しさと暗さとから、その身を救うために、そのありたけの力で、石炭をすみの方へかき寄せた。そのショベルの音、石炭のザクザク鳴る音、彼らが何か呼ぶ声が、デッキの上をあるいていると、初めての者にはどこから聞こえて来るかわからないのと、その音がまるでもしあるなら
労働者たちは、時とすると半日も石炭に密閉されて、
それはセーラー中での食い
石炭の運賃は、そのころ一トンについて室浜間が五円であった。従って、石炭は水夫室にまで積み込まれた。水夫の月給は八円ないし十六円であり、仲仕、人足らは八十銭の日賃銀をもらっていた。そしてその途方もない握り飯に釣られると、一円三十銭だけ、一昼夜でもらえるのであった! そして石炭の運賃はトン五円であった!
ありとあらゆるすき間は石炭をもって
船主や株主らにとっては、黄金時代であった。水夫たちや、労働者たちにとっても過度労働の黄金時代であった。
たとえば、汽船はゼンマイ仕掛けのおもちゃのそれのようだった。ゼンマイのきいている間は、キチキチとすこしも休むことなく動いた、従って、水夫たちも船長にしても、同じようなことであった。船長はややそのために水火夫へ対して当たったのかもしれない、迷惑な話だ!
人足たちは、桟橋から
しかし、よかった。一切がわからなかった。一切が知られなかった。馬車馬のように
その時であった! わが日本帝国の
その時であった! 日本が富んだのは。その時であった、日本の資本主達が富んだのは! 労働者はその代わり過度労働ですっかり、からだをブチこわしてしまった!
夕食は船ではとっくに済んだのに、昼ごろふさがってしまったハッチ口はまだ開かなかった。デッキの下では、――テーブルの下あたりでも、ボーイ長の寝箱の下あたりでも、あちこちで、ゴトゴトと、異様な響きが絶えず続いた。そして時々うなるような人声が聞こえた。そして、それらも七時を過ぎると、ようやく穴があいた。それは難治の
そして、その例外に太い握り飯にありつくのであった。
彼らはこうして、ダンブルの中で
それは高架桟橋上の労働者であった。それは船のマストと高さを競うほども高いのであるから、その風当たりのよいことは、送風機のパイプの中のようであった。
彼らは、石炭車の底部にある
北海道の寒風がりんごの皮を
だが高速度鋼のカッターは、鋳物を、ナイフで大根でも削るように削る。と同様に北海道の寒風は、労働者たちから、その体温をどんどん奪ってしまう。桟橋の上で働いていることは、
彼らは、その労働を終えた時、帰って行く、
「まあ、生きながら凍ったようなものずら」と。
しかし、労働者は、生きて行くためには死をおそれてはならなかった。
四〇
藤原は、自分の寝箱の中で、腹ばいになって、紙きれに何か書いていた。それは、何か本の抜き書きでもするように、そばには二、三冊書物が置いてあった。彼は、
ダンブルには、ほとんど石炭が一杯に詰まった。本船は、予定どおり、明朝出帆して、横浜へ帰って正月を迎えることができそうであった。横浜で正月を迎えることは、すべての船員の希望であった。「
横浜には船長も、機関長も、だれも彼もが、世帯を持っていた。その自分の世帯で、お正月を迎えたいということは人情として当然であった。万寿丸は、三十一日の午前十時ごろか、もっとおくれて横浜へ帰りつける予定であった。従って、その予定は、一時間も延長しうるものでなかった。
明朝一番で船長は
船長が、船へ上がり切ると同時に、ブリッジには、彼の姿が現われるだろう。そこで、彼は「ヒーボイ」と、
それまでは、今までとすこしも変わらないだろう。だが、それからが変わるだろう。彼らは「横浜正月」が、すでに実現されうるものと信じていた。その安心を、はなはだしく揺り動かされ、のみならず、その他のことも一切が、まるで、プログラムと違った方向に脱線して、
そして、それらの原因は、水夫らが、要求条件を提出して、目下交渉中であるから、彼らは、働いていないのだ。それで、船が動かないのだ! ということが、船内一般に知られるだろう。われわれの要求条件は、エンジンの労働者によっても、吟味せられるだろう。この要求条項は、彼らにも、何らかの衝動を与えるだろう。そして、そのために、この要求条件は、よく考えて、作られなければならない!
藤原は、煙草の煙の間から、こんなことを考えていた。
彼は、その紙っきれをながめた。それには、要求条件の原案らしい文句が、書かれてあった。労働時間の制定、労銀増額、公休日、出帆、入港は翌日休業、公傷、公病手当の規定及び励行、深夜サンパン不可、などが乱雑に書かれてあった。
彼は今、それらの条項に、要求書としての形を与えるために、苦しんでいるのであった。「チェッ!」藤原は舌打ちをした。そして、煙草の灰を本の表紙の上に、やけに払い落とした。「こんなことを今さら、要求しなければならないなんて」
彼は、その紙きれをポケットに入れて、寝箱からおりた。そして、波田へたずねた、「小倉君の方は、どうなったんだろう」
「さあ、それを、まだ何とも聞かないんだがね」波田も、心配しているのであった。
「小倉は、
「どうだか」波田は、出入り口まで行ってブリッジを見た。
小倉は、ブリッジを、アチコチ歩きまわっていた。
「いるよ、
「じゃ僕が、都合はどうだか、きいて来るから、君は、エンジンの上で、待っててくれたまえ」
波田は、そのまま、気軽に飛び出して行った。藤原は、一度奥まではいって、そこで、ベンチに腰をおろした。そして、煙草へ火をつけた。しばらくすると、フト何か、忘れものでも考えついたように、立ち上がって、デッキの方へ出て行った。
幸いに、メーツらは、明朝出帆の
三人は、チャートルームへ集まった。
「西沢君に来て、もらわなきゃ」小倉が言った。
「今、女郎買いの話で、おもてを持てさせてるから、目立ったらいかんだろう、と思うんだがね」藤原が答えた。
「あいつあ、全く、しようがないよ。女郎買いの話となったら、まるで、夢中になっちまやがるんだからね、も少しまじめな時は、まじめに、やってくれなくちゃ、困るんだけどなあ」波田は、くやしがった。
「しかし、中には、中にはじゃないや、ほとんどだれもが、それ以外に何もないのに、それ以外のものを、あの男は持ってるだけ、いいじゃないか、味方に対しては、われわれは、徹底的に寛容な、態度を取らなきゃならないよ。そうしないと、味方の戦線から、自然に壊滅しちまうからね」藤原はなだめた。
「で、コーターマスターの方はどうだろう。まだ、話してもらえなかったかしら」藤原は、小倉にきいた。
「まだ、話さないんだよ。どこから切り出していいんだか、話が、すっかり、
「そうだね。その方がいいだろうね」藤原は賛成した。「その方が、秘密を保つ上にも、かえっていいだろうよ」波田も賛成であった。
「じゃあ、僕は、西沢君を連れて来よう。そして決めちまわなきゃ、
「ちょっと」と小倉は手で制した。「僕は、もう十五分で非番だから、非番になったら、ともの倉庫で寄り合ったらどうだろう」時計は、八時前十五分を[#「八時前十五分を」は底本では「八時十五分を」]さしていた。
「そう、そうしよう。一人ずつ、チョッと上陸すると、いった格好をして、出ればいいからなあ」
「じゃあ、そうしよう」そこで、
おもてへ帰った波田は、西沢に、八時の鐘がなったら、ともの倉庫で、相談があるから、わからないように抜けて来て、くれるようにといった。西沢はうなずいた。
ストキは、ベンチへ聴衆の一人と、いったような顔つきで腰をおろして、例によって、煙草をふかし続けた。
四一
八時が鳴った。その時には、もう藤原はいなかった。波田は、ボーイ長のそばに、腰をおろして話していた。「じゃ、正月までの菓子を、食いためて来るからね。おみやげを忘れやしないから、待っていたまえよ、え、相変わらず、東洋軒さ、ハハハハハ」と、波田は、ともの倉庫を東洋軒にしてしまった。
「え」西沢は
藤原は、目玉ランプを
それで、一切は動員された――というわけであった。
「そこで、僕らは、いつ
「そりゃ、ぜひ必要なこった」西沢が言った。
「しかし、規則の点だが、委員会で、おもての意志が、はたして貫徹するだろうか、僕は、その点に疑いを持つよ」波田が言った。
「そうだ、だから、こちらから二人、向こうから一人と、いう割合にしといたんだがね」藤原が答えた。
「そりゃ、形ではそうなるけれども、実際に、その委員会は、ともの一人のために、おもての二人が支配されることに、なりはしないだろうか? もし、おもての二人が、支配されまいためには、僕は単に、その条件のみについても、一度ストライクが、起こされやしないかと思うんだよ。そうなれば、それは、二重の手間をとることになるからね」波田が言った。
「そうさなあ、それじゃ、どうすればいいんだろう」小倉が言った。
「なるほどね。こっちからの委員は、
「で、結局、どういうふうにすればいいだろう」
「僕の考えでは、こっちで作ってしまって、向こうには、ただ、それを承認するか、しないかの二つの回答のうち一つを、選ばせるだけでいいと思うんだがね。でないと、何しろ出帆前のとっさの間に、決する勝敗だから、出帆後に持ち越せば、こちらの負けになるに決まってるんだからなあ。だから一切の条件は、それを承諾するか、しないかどちらかにのみ、決定のできるように、ハッキリしたものにして置いて、そして出帆間ぎわの致命傷を突くということが、一等よかないかと思うんだがね」波田の考えはこれだった。
「そう、その方法はいいと思うね、今室蘭には、一人も、休んでるものはないそうだ。二、三日前まで休んでいた者が、二人ばかりあったそうだが、
「だから、その要求条件を、ここで作ろうじゃないか」西沢が言った。
「それは、藤原君に草案が一任してあるから、それでもって作って行こうじゃないか」波田が言った。
そこで、藤原の原案によって、新しい要求条件が、巻き重ねられたロープの上で、その夜十一時ごろまでかかって作り上げられた。
それは、
一、労働時間を八時間とすること。(現在十二時間以上無制限)
八時間以上は、必要なる場合労働するも一時間に付き、正規労働時間の倍額の賃銀を支給すること。
二、労働賃銀増額、――水火夫、舵手 、大工ら下級船員全体に対して、月支給額の二割を左の方法によって増給すること。
方法、下級(下級とは何だ!)船員全体の月収高の総計の二割を、下級船員の人頭数に平均に配分し、これを在来の賃銀に付加すること。
三、日曜日公休を励行すること。
四、公休日に出入港したる時は、その翌日を休日とすること。
五、作業命令は一人より発し、幾人ものメーツより同時に幾つも発せられぬようにすること。
六、横浜着港の際深夜、船長私用にてサンパンをもって、水夫を使用して、上陸することに対して、吾人 これを拒絶すること。
七、公傷、公病に対しては、全治まで本船において、実費全部を負担し、月給をも支払うこと。
以上
というようなものであった。それは、小倉が、舵手室へ帰って清書して、波田に手渡しする。交渉の順序は、明早朝、出帆準備にとりかかる前に、チーフメーツに手交して、われわれは全部の要求が承諾されるまでは船室から出ない――ということに決定した。
要求条件は、労働時間と、労銀増額と、公傷病手当の三つは完全に利害をファヤマンの方と一致した。そして、その三つは、要求条項中重要なものであった。「だから、われわれは、この要求をファヤマンの方へ無断でやるというわけには行かないだろう」「もちろん」
そこで、小倉がファヤマン(火夫)コロッパス(石炭運び)に報告し、藤原がオイルマン(油差し)に、水夫たちはこういう要求条件を出して戦う、戦線を共同してもらえれば、この上もない事だが、そうでなかったら応援をしてもらいたいと、いうことを申し込むことになった。しかし、それは、われわれの要求条件がチーフメーツの方へ持って行かれると、同時でなければなるまい。なぜかならば、それは、セーラーの方で計画実行しなければならなかったほど、セーラーによっては、緊密な要求だが、火夫の方では、ある者にとっては、そうでないかもしれないし、より一層われわれがおそれるのは、スパイだ。スパイに対しては、われわれは絶対に、気をつけねばならない。それはペストのバクテリヤよりもこわいんだから。スパイはいつでもいそうなところにいないことは、柳の下の
そして、今一つ重大なことが、決定された。それは、この要求提出を機会として、それが成功しようが失敗しようが、とにかく、要求を出したということにだけは、成功したわけなんだから、その記念として、われわれは海員組合――それがないならば作ろうし――へ加盟しようではないか。確か、それはごく最近生まれたように、おぼろげながら聞いた。それは、浜に帰った上で、
公傷病手当の規約については、直ちに実行するのは、もちろんであるが、ボーイ長の手当は、その新しく決定された規約によってなすこと、を忘れないように交渉すること、これも、その通りに決定した。
彼らが、こうして、彼らの必要なる要求をするのに、何か、不都合ななすべからざる行為を企てでもしているように、彼ら、自身がまず、これを秘密にし、それが、ならない時は――という善後策をも考えねばならなかったことは、何を意味しているか。
それが、何を意味していようが、私の知ったことじゃない。ただ、私は、彼らが、人間としてあたり前のことを最小限度に要求する時に当たって、いつでも、その企ては、慎重に秘密にされる習慣を知っている。だれでも、地獄に落ちたくはないのだ。だれが、人間をこんなに、コソコソするように仕込んでしまったのか。
ちょうどこの時、船長は、そのマストがきれいになり、サイドが化粧し、うまい具合に満船したという報知を、チーフメーツから受け取って、彼女と、酒を飲んでいた。彼女は、「これが、この年のお別れで、来年は、また、すぐ会えるのね」と言ったふうな意味のことを言った。
「おれは、お前の美しいのが好きだけれど、そこがまた、おれを心配させもするんだよ」と、彼は杯をなめた。それは登別の温泉宿の一室で、燃えるような、
ボーイ長は、その時、鉄のサイドが、同時に彼のベッドの一方である、その寝箱の中で、海のものとも山のものともつかない傷と、
水夫らは、彼らを、あまりしっかり締めすぎる鎖を、少しゆるくするように、要求する相談の最中であった。
四二
夜が明けた。風がヒューヒューうなっていた。灰色の空は、どこからともなく、山となく平原となく水平線となく、とけ合ってしまっていた。その間を粉のような灰色の雪が横っ飛びにケシ飛んでいた。だが、大した雪ではなかった。目も、鼻も、あけられないと言う、あの特徴的のやつではなかった。風は、大黒島を代われば必ず、前航海ほどには吹いているだろうとは想像された。
ハッチは、まだその口をあけたままであった。それは
ボースンはチーフメーツのところへ、その作業の順序を聞きに行った。すぐそのあとからストキ藤原が、清書された要求書を持って続いて行った。小倉は、起きると共に火夫室へ行った。
水夫らは、それはいつもの朝とは何だか大変違った朝のような気がした。全く実際違った朝ではなかっただろうか。
ボースンは、チーフメーツの室にはいった。そして彼はあとを締めようとすると、もうストキがすっかりそのからだを入れていた。そして
「お早うございます」とボースンはいった。
「うんすぐ……」チーフメートが仕事の命令を発しようとすると、ストキはすぐに、チーフメートの机の上に、その要求条件を載せた。
「水夫一同は、その要求書どおり要求しますから、要求を
ボースンはそこへ凍りついた棒のように立っていた。
チーフメーツは、
それはありうることではなかった。暗礁はありうるが、水夫らが要求書を出すなんてことが! 彼は
「何だ、要求だ! どんな要求だ! 乗船停止の要求か!」チーフメーツは怒鳴った。
ボースンは縮み上がった。彼は、私は知りませんと言いたかったが、――そこにストキが立っているではないか――ああ、困った。彼は字義どおり立ち往生した。
ストキは平気だった、「初めやがった」と彼は思っていた。
「そこに書かれてある通りの要求です。ご質問があればお答えいたします」
ストキは「
「どんな要求でも今はいけない。横浜へ帰ってからだ!」チーフメーツは、事態が自分の考えてるように簡単でもなく、また予想どおりにも行かないだろうということをさとった。
「私たちは、室蘭で片がつかなければ働かないだろうと思います。この要求はほとんど海事法に定められてある最小範囲から、きわめてわずか出ているか、いないくらいのものだし、その他の問題も普通の問題です。今ごろ要求するのは、われわれの
ストキはまるで小学校の生徒が読まされる時のように、「まじめ」くさってそう言った。
ボースンはもじもじしていた。逃げるにも逃げられないわけであった――
「とにかく、おれには何とも返事ができない。船長が帰ってから、船長と相談して返答する。だが、ストキ、こんなこたあよした方がいいぜ、これはお前のためにおれは言うがなあ、もうお前も三十三なんだから、考えてもいい年じゃないか、これや全くよした方がいいぜ、船長がウンというはずがないと思うぜ。そうすれや、お前たちゃ一年か三年ぐらいの停船命令は食わにゃなるまいぜ、え、どうだ、おもてへかえって、水夫らに思いかえすようにすすめたら」
チーフメーツは、そのコースを転換した。
「私はそういうわけには行きません。ひっ込められるような、どうでもいいような要求を私たちは出しはしません。それはわれわれの生命や生活にとって切実な事柄ばかりなんですから。冗談や退屈しのぎ半分でこんなことをしはしません。私たちは乗船停止なんてことを今ごろ恐れているようでは、こんな要求ができないことを知っています。要するに、私たちは、この要求が、
「それじゃどうしてもきかんというのなら、船長におれから渡すまでだ。だが、それは承認されないよ、そしておれの顔も踏みつぶすつもりなんだな」チーフメーツは自分の手で納めたかった。
「そうです! 船長に渡してください。それから、あなたの顔をつぶすとかつぶさないとか言うのは、おかしいと思います。そんなことはどうだっていいようなものだけれど、誤解があるといけないからいっときますが、この要求書は最初あなたに出したんですよ。そうするとあなたはおれでは決められんから船長へといわれるのでしょう。で船長へ渡すことを頼めば『おれの顔をつぶす』といわれるのですね」
「そうではないか、おれの言うことを聞かんじゃないか」チーフメーツは一つグッと押した。
「それではあなたは、私たちの要求書の決定権を持たないというときながら、握りつぶす権利を持ってることになりはしませんか、握りつぶすことは否定することじゃありませんか、否定する権利だけ持っていて肯定する権利を持たないと言うことは、このごろの流行にしても、理屈には合わないじゃありませんか。だから、あなたに対して、今ではわれわれは何らの要求もしません。ただ取り次いでいただけばいいのです」ストキはやっぱりまじめに、急がず、何か相談でもしてるような調子で話した。
それは全くチーフメーツの顔をつぶしてしまった。彼はうんともすんともいわなかった。
「船長が帰ったら渡すよ」
「どうぞ願います」ストキはいった。
大工はフォックスル(おもての甲板)へ上がって
ボースンはチーフメーツの室で、おそろしくきまりの悪い思いをしながらまだ、そこに突っ立っていた。
「どうしたんだい。ボースン、お前はこれを知らなかったのかい」チーフメーツはその机の上の要求書を指さしてきいた。
「早いことをやるものです。私はまるで存じませんでした」ボースンはよみがえったように答えた。彼はもう先刻から、何でもいいから一言口がききたくてたまらなかったのだ。
「すこしも知らないじゃ困るじゃないか、お前に責任があるんだぜ。一体どうするつもりなんだ。それに
「私は……、困りましたなあ、ボイラーを揚げる時もようやくなだめて仕事をさせたのですけれどもなあ、とにかく全く私もぬかっていたのですから、おもてへ行ってできるだけ仕事するように話して見ます……」彼は確信でもあるもののようにあわててそこを立ち去ろうとした。
四三
船長は帰って来た。
ボースンは、水夫たちへ「無分別」をしないように頼みに行こうとしているところへボーイはチーフメートの室へ現われた。
「チーフメートさん、スタンバイだそうです。船長は今ブリッジに上がられました」
そのままボーイは去ってしまった。
何と言うこったろう。「始末がつかない」ボースンも、チーフメーツもこれからなぐり合いでもしそうな格好で、
「とにかく、お前はおもてへ行ってスタンバイしてくれ、何とでもごまかして水夫らを働かしてくれ! 僕もすぐ行くから」チーフメーツはようやくそういうと、急いで帽子をとった。
ボースンは追っかけられた
チーフメーツはブリッジへ駆け上がった。右の手には要求書を引っつかんでいた。
船長はスタンバイをかけたのに、チーフメーツがフォックスルに現われないので、彼女との別れ前からそのまま保っていた幸福感が、爆発しかけていたところであった。彼はチーフメーツが上がって来たのでチョッとニッコリした。
「どうも、サア、スタートしよう」船長はいった。そうして息を切らしながら彼の前に突っ立っている、チーフがただじゃないのを見てとった。そしてその紙っきれへ目をつけた。
「水夫めらが要求書を出しているのです。
水夫の出入り口では、三尺幅の出入り口へ、一尺幅のベンチを
船長はチーフメーツの要求書を見ようともしなかった。そんなものはチーフメーツが、引き破いてしまえばそれで円満解決が、船長に言わせるとつくのであった。それだのに、チーフは、そんなくだらないことまでもおれに持ち込んで来るのであった。
「そんなものは、引き裂いちまいたまえ! そんなもの、大体君がビクビクしてるからいけないんだ! 万事は横浜へ帰ってから聞いてやるとそう言いたまえ」船長はまるでチーフメーツが
「私もやって見たんです。ところが、それが
「どんな寝言が書いてあるんだか見せたまえ」船長は要求書を取った。
「そら、やつは受け取ったぞ!」藤原が低い力のある声で言った。
「フン、フン」船長は
「セーラーを呼べ!」船長は無視するわけには行かなかった。無視すれば船も動かないだろうし、横浜で正月もできないし、それに、彼のサンパンに対して、文句をつけるとは全く、けしからぬのであった。
船長は、スタンバイの命令を出しっ放して、サロンへはいって、そこで、水夫らを「とっちめ」てやろうと待ち構えた。船員手帳は、チーフメーツに持って来さして、テーブルの上へ積み上げた。
かわいそうに、ボースンと大工は、フォックスルで鼻水を凍らせていた。
機関長はエンジンへはいって、ハンドルへ、手をかけて待っていた。
蒸気は、どんどん上がって来た。セーフチィヴァイヴァルヴが、吹きそうになって来た。サロンのテーブルにはメーツが船長の両側に並んだ。チーフ、セコンド、サードと。
ボーイはおもてへ飛んで行った。
「セーラー全部、ボースン、大工、コーターマスター、みな、残らず、サロンまで来てくれと、船長が言ってるよ。大至急!」煙のように、彼は、また、飛んで去った。
そこで水夫らは出かけた。
「やつは、高圧的に出るつもりだな」藤原は思った。波田、小倉、西沢、
ボースン、大工も青くなって来た。
この時、ファヤマンの方でも小倉が、持って行って見せた要求条件が、問題になって、主戦論と非戦論との猛烈な論戦が行なわれていた。だが、全体として階級闘争ということは、ハッキリ頭にはいっていなかった。従って、それは適当ではある、けれども、まだ直接の刺激、衝動が来ない、というような「感じ」が、彼らを、水夫らと共に立たせることを妨げた。しかし、彼らは、立たないにしても動揺はしていた。それは、立つまいものでもない気配に見えた。
彼らの出入り口の前を水夫らが通る時に、彼らは、
それは、サロンまで響き渡った。
これらのことは、万寿丸ができて、海に
水夫たちは、
何となく、いつもと違っていた。スタンバイがかかったのに、船体はピク[#「ピク」は筑摩版では「ビク」]ともしない。
オイルマンは機関室からのぞいた。
サロンでは、交渉が開始された。もっとも、船長は、一撃の
四四
「これは、だれが、書いたんだ! これは! この要求書は?」船長は、その一声をこの文句によって切って離した。
「私が、書きました」
「お前が?」船長は、その回転
「だれかが、お前に、それを書かしたんだろう。お前が自分で、こんなものを書くと言うわけがない、だれだ、この文章を作ったのは」彼はストキをにらんだ。
「私が、作ったのです」ストキが今度は答えた。
「そうだろう。お前だと思った。大体貴様は、横着だからな。貴様が、小倉や皆をおだててこんなものを出さしたんだろう」彼は裁判官のごとくに
「そんなことは、きわめて枝葉の問題と思います。私たちは、食うために船乗りになっているのです。であるのに、船の仕事のために負傷しても、手当をしてもらえないということになれば、私たちは、命をすててかかったも同然です。もっとも、船では命をすててかかってることは、当然だといえば当然ですがね。しかし、ただ、私たちだけが、命を安売りするということは、私たちにも、承知ができないことです」
藤原は、最初の探照弾を
「それじゃ、勝手に下船して行ったらどうだったい。だれが、いつお前に、どうぞ、下船しないで乗ってくださいと頼んだ! 頼んだのはどっちだったか、よく考えて見ろ」
船長が言った。
「私たちは、どこへ行っても、いいところはないのです。だから、自分の『今』の生活を、よりよくする方法をとるよりほかはないのです。この船ばかりへ日が照らないと言って、下船したところで、他の船でも、陸でも同じことです。だから、自分の今いるところで、より良い条件の
「私たちは、どこへ行ったっていいところはないのです? え、それは、一体、だれの責任だ。おれの責任だとお前は言いたいんだろう。おれは、今も言ったじゃないか、だれが、頼んで乗ってくれといったと。それに『よりいい条件』の生活がしたかったら、なぜもっと、勉強して上の方へ、
「ご忠告は、ありがとうございますが、勉強して上へ上がって行く人間があまり多くなると、セーラーなんぞするものが、なくなるだろうと思いまして」彼は危うく笑おうとするところであったが、それだけは取りとめた。
「ばか! お前は、おれを
船長は、だんだんストキの話の相手になってしまった。
「私たちは勉強しても、船長はおろかボースンにも、なれないだろうと思っているのです。ですから、なおさら、私たちは、今のままで、幾分でもいい条件の
「資本家と思っている。お前らをか? ハッハッハハハハハ」とうとう船長も、あまりのストキの言葉にふき出してしまった。「恐ろしい資本家もあったものだ! ハッハッハハハハハ、
メーツらは皆笑った。セーラーたちが、資本家とは珍しい言葉だった。
「もし、私たちを資本家だと思っていないのならば、
それに、私たちは、いつまでも、どんな奴隷ででもありたくはなくなったんです。どんな機会にでも私たちは、私たちを縛る鉄の鎖を打ち切る用意をしているのです。
私たちは、人間として、生きようとしているのです。そこへ持って来て、どうです! 私たちは蚤と南京虫の資本家! なんでしょう、私たちは、その要求が通ればよし、通らなければ、私たちの力がどのくらいあるかを、お目にかけるまでです」
ストキは最後の言葉に、力をこめて言い切った。
「フン、それもよかろう。だが何かね。波田、おまえは自分から進んで、この要求書に
「私は、どの船でもストライクの種を、見つける役目をするつもりで、船のりになったんです。私は、この船に乗った最初の日から、
船長は、意外に、水夫らが結束を固めているのを見た。それは、発作でもなかったし、衝動でもなく、計画されたものであったのを知った。
この時、火夫室ではまた、
出帆時刻は、どんどんとおそくなる! 正月はどんどん近くなる!
船長は、いら立って来た。
「西沢、貴様はどうだ。
その結果は、水夫らは、
ボースンは驚いた。その職業と、月二割の利子――もっともうち、一割はチーフメーツ(実は船長かもしれない)が、上前をはねるんだが――とが、フイになるのである。しかも、彼は、何をしたんだ! ただ、忠実な番犬だったのみではなかったか。彼は、功労こそあれ何の過失があったか、すでに、彼は、いったんの危急をチーフメーツのために、救助さえしたではないか。
「しかし、これは船長に何かの深い考えがあることだろう。一度、皆の前でそう言って、ボースンは代わりがいない――と言うようなことにするつもりなんだろう。でなきゃ、船長だっておれの首を切れた義理じゃなかろう、おれがいなけゃ、あの
哀れなボースン、彼は憶病犬みたいに、半信半疑で、主人の心を探っていた。だが、ボースン、君が、君自身のことを考えるようには、他の人は決して君のことを考えてはいないんだ。君自身が食えなくて餓死する
だが代わりは、ボースンに限ってないわけではなかった。それは、室蘭じゅうに一人のボーイ長の代わりだってなかった。
チーフメーツはややこの点に、その考えを向けるだけの余裕を持っていた。
「船長」と彼は、船長の回転椅子の背後から、低い声で船長を呼んだ。
「チョッと」と彼はあとしざりした。
「何だね? うん、ああそうか、じゃあ室へ」チーフメーツへ言った。チーフは船長室のドーアの中へ消えた。
「お前らは、ここへ待ってろ!」水夫たちにこういうと、船長は、チーフメーツのあとを追って自分の室へはいった。
船長も、その辞書の中から、不可能という字を、削る冒険はするくらいな男であった。従って、チーフは、船長に室蘭でそれだけの労働者を、即時に得るということは「不可能」だと、いいたかったのであった。が、船長は、全く、始末にいかぬタイラントであった。それは、コセコセしたちしゃの葉のような感じのするタイラントだ。
「船長、室蘭にはボーレンが一軒切りありませんが、ね、……」彼は、どうだろうといったふうに、
「正月前だから、休んでいるものがないだろうと思うんですがね」チーフメーツは切り出した。
「もし、室蘭になかったら
「実は、入港するとすぐきいて見たのですがね。二、三日前までは、三、四人休んでいたが、便をかりて横浜へ行ったとか言ってたんです。だから、それから一週間にもならないんだから、とてもだめだろうと思うのですよ。で、なけれや私もストキは、早く処分しなけりゃならないとは思っていたのですから、代わりさえあれば、ここで下船させるつもりだったんです。あれさえいなけりゃ、
チーフメーツもボーレンを探っていたのだ!
「そうだなあ! 僕も、浜で正月をしたいと思ってるんだが、それさえなけりゃ、十日や二十日
「それがいいと、思うんですがね。ただ、その方法です。どういうふうにしたらいいか、皆の前でやるか、それとも一人だけ呼んでやるかですがね。で、もし、水夫ら全体があいつについて行くというような時には、二十か三十やって追っぱらうよりほかに、仕方がないと思うんですよ」チーフは何でもいいから、彼が、この船から「消えてなくなれ」ばいいと思うのであった。
「そう! 何にしても、この際時間を争うんだからね。どんないい方法も遅れちゃいけないんだから。じゃ、ストキのやつに下船を命じよう」船長は言った。「だが、一体、やつらは何という不都合なやつらだろうな。これが横浜だったらなあ」
船長は、横浜でないことを、返すがえすもくやしがった。やつらを「殺しても、あき足らないほどなのに、場合によっては、下船どころか金まで出すとは!」全く、彼のくやしがるのは
「何にしても時が、悪いもんですからなあ。ところで、ストキが、海事局にボーイ長の雇い入れ未済のことと、負傷のこととを申告しやしないかと思うんですがね。そいつをやられると、どうもおもしろくないから、なるべくうまく、ごまかす必要があると思いますね」チーフメーツは、外に出ようとしながら言った。
「だが、全く、
それは、船長が
二人は、まだ何かこそこそと話した。一々そんな話を書くのは、面倒臭くて
四五
船長と、チーフメーツとはサロンへと出て行った。
ところが、これはどうだ。サロンの入り口へ火夫たちがまっ黒に集まって、中をのぞき込んでいるのだ。口笛を鳴らす者があった。足踏みをするものがあった。
船長とチーフメーツとがサロンへはいると、彼らは、水夫たちへの激励から、船長、チーフメーツへの示威運動へと移った。
口笛が盛んに鳴った。足踏みが
「何だ! そんなとこから、のぞき込みやがって、あっちへ行け?」船長は怒鳴りつけた。
「何言ってやがるんだい(以下六字不明)!」だれかが後ろから叫んだ。
これは早く、片をつける必要があると考えた。[#「。」は筑摩版では「、」]船長は、入り口の方へ、その「物すごい」目を一
「どうだろう。これは即答もできないから、横浜へつくまで保留したら」彼は切り出した。
「船長、それはいけません。私たちは、これが室蘭だから、要求として成立することを知ってるのです。横浜まで行けば、産業予備軍が捨てるほどおります。私たちは、ここで要求が
あなたたちが、一か月の俸給だけで四百円――彼はこれを聞くのに苦心したのだ――取って、戦時利益特別賞与が年四十五か月分ある。この現在、私たちが、月給十三円から十八円で、命をかけて労働するということは、私たちは、あまりいいこととは考えられません。あなた方は、自分の懐中の裕福なので、夢中になっていられる間に、私たちは俸給の三倍もの率で、物価が上がってるので、非常な減給を受けた形になっているのです。おまけに、労働時間は、船が忙しいと同じ比例で、私たちをかり立てています。一日に十四時間は、まるで、懲役囚よりも長時間です。その上公休日なしです。けがはしっ放し、死に放題、しけだろうが、夜中だろうが、おれは宅へ帰るからサンパンを押せ、お前たちは夜明け前に帰れ! これが私たちなんです。どうですか、聞いていて恥ずかしくなるような労働条件ではありませんか、実際、監獄だってこれよりは、はるかにいい待遇が与えられていますよ。その監獄よりひどいのが、万寿丸で、その船長が
藤原は、また思い切ってやったものだ!
船長及び士官らの、憤慨ぶりは頂点に達していた。彼らは、椅子のクッションのように赤くなったり、海のように青くなったりした。彼らの憤慨と同じ比例で、水夫らは喜んだ。
「全くだ!」とうとう波田が怒鳴ってしまった。
「そうだ!」波田の気合のかかった言葉につり込まれた、
「第一、私たちは、肉体を売る資本家かもしれない! だが、要するに、私たちは生きているんです。おまけにまだこの上も、生きて行きたいと思っているんだ。生きて行きたくなけや、こんな船になんぞだれが乗るもんか、畜生!」波田は、まだまだ言わなければならないことが、山のようにあった。あまり言うことが多くて、彼の言葉がスラスラと出なかったために、畜生! で爆発してしまった。
「だれが畜生だ! 失敬な」船長は、夢中になって立ち上がった。
私はこの「燃やしちゃうぞ」と言う言葉の来歴を話したいが、ごらんの通り今はとても
「そうではないか!」波田は立ち上がった。
「尊い人間の生命を等閑にしたのは、どいつだ! ボーイ長でも、父と母とから生まれて、人間としての一切の条件を、貴様らとすこしも異なるところなく、具備しているんだ! それだのに、どうだ! ボーイ長が負傷してから、一度でも、貴様は、彼のことを考えたことがあったか、貴様に、人間の生命を
彼は夢中になってしまった。
「もし、貴様が、この上も、ボーイ長に対して、畜生の態度をとるなら、おれにも、覚悟がある! 貴様がボーイ長を見殺しにするなら、おれは……」とうとう波田は、その腰にさしていたシーナイフを引き抜いた。
「あぶないっ!」と皆が叫ぶ前に、彼は、それをテーブルの上に、背も通れと突きさした。
「おれは、畜生に対して、人間として振る舞われないんだ!」
一座は、死んだように静かになった。扉の外の連中は、目ばかりになって、息を殺して成り行きを見張っていた。
「貴様は、権利を持っている。この地上には、むやみに多くの権利が、他の権利を
ストキは、波田の突き刺したナイフを静かにテーブルから抜き取った。そして、自分の席の前に置いた。
船長は、ピストルを持って来なければならなかったが、そこを立つわけに行かなかった。彼は、初めて、彼が、ほとんど、
彼は一度立ち上がって、途中で、グズグズとすわったことを悔いた。その、彼の前に立っている労働者が彼からその「煮える」ような眼光を放さなければ、彼は立てなかったのだ。
それは、彼の職業的な、因襲的な、尊厳を傷つけるものであった。そして、一度負けたが最後頭の上がらない鶏のように、その後は、彼を永久に
「貴様は、大きな錯覚に陥っていることを、自分で知らないんだ! 貴様だって、被搾取材料だ! でなきゃ[#「でなきゃ」は底本では「できなきゃ」]
波田はその椅子の上へ、ドカッと腰をおろした。そしてシーナイフを藤原の前から取って彼の
人々は初めてホッとした。彼がライオンのように、あばれ回らなくて幕になったことが、だれもを安心させた。実際、それはまあよかったとだれもを感じさせた。
船長は、まるで、ばかにしたような態度を、要求書へ向けていたのだが、今では、それが非常に尊いものででもあるように、チーフメーツの前から、自分の前へ引き寄せて、ながめ初めたのであった。この紙っきれに、あの情熱と
それを引き裂きでもしていようものなら!
「それで、その要求書にある条項を、一々説明しましょうか、もし、お求めになるならば」藤原は言った。
「いいや、説明には及ばないだろう。大抵わかってるだろうから。しかし、一応メーツたちと相談しなければならないから、お前たちは、ここでちょっと待っててもらいたいね。ちょっと相談をして来るから」と藤原へ言って、「どうぞ私の室まで」とメーツらに目くばせをして、彼は船長室へ
「波田ってやつあ、どえらいやつじゃねえか」とサロンの外では、波田の行動に対して、賞賛の辞を惜しまなかった。「あれに限るよ。あれで行きゃ、こちとらだって、いつでもこんなに苦労しなくても済むんだが」
「そうさ、力の強いのが勝つんだ。おれたちゃのまれてるんだ」などと火夫たちは、その場から去ろうとはしなかった。
水夫たちは、相手がいなくなったので、極度の緊張から解放されて、
「どうだい、ボースン、お前の代わりまでいいつけられたじゃないか」波田は、ボースンの方を向いて言った。ボースンは、まるで、ひどく頭でも打たれた者のように、ボンやりしていた。出し抜けに船長を
波田は、酒も飲まず、女郎買いもせず、おとなしくして、よく仕事をする評判な青年だったのだ。「全く、人は見かけによらないものだ!」
「え、どうだいボースン?」今度は藤原がぼんやりしてるボースンにきいた。
「え、ああ、おれあぼんやりしてたよ」彼はほんとにぼんやりしていた。
「冗談じゃないぜ、しっかりしてくれよ。皆大汗で働いてるんじゃないか」
西沢と小倉と宇野と波田と、この四人は交渉条件のことについて、何かしきりに話し合っていた。
そこへテーブルの上へ、機関部のボーイ長が、紙っきれを持って来て載せた。そして「これを機関部から」といってそのまま、逃げるようにして飛んで行った。
西沢は、その紙っきれを開いて見た。
フントウ ヲ シャス、セイコー ヲ イノル、キカンブカフ 一ドー セーラー ショクン
と電報文みたいに片仮名で書いてあった。彼らはそれを見て、戸口の方を向いて、手をあげて合図をした。
「徹底的にやれ、
四人はそれを藤原に見せた。彼は「ありがとう」と叫ぶのを忘れなかった。
やがて、船長室に密議を凝らしに行ったメーツらはサロンへ引っかえして来た。
要求条件には念入りにも、船長と、チーフメーツとの判が並べておしてあった。
「皆と相談の結果、要求を
「バンザーイ」「
「それじゃ、今からすぐに仕事にかかってくれ」チーフメーツは言った。
「ヘー、かしこまりました」ボースンは答えた。
「どうもありがとう存じました」藤原は、判のおされた要求書を、ポケットに収めながら言った。
彼らはおもてへ帰って行った。
水夫らは勝利を得た。だが、何だか物足りない感がだれもの、心のすみにわだかまっていた。彼らは、何かの予感を感じていたのであった。
火夫室の前では、彼らは、万歳を三唱してセーラーを迎えた。
その日の出帆は、それでも、水夫らにとっては、「
四六
その航海は異様な航海だった。水夫たちは人間として、取り扱われ初めたように見えた。命令を発するところのメーツらは、彼らが単に、作業の分担的任務から、行動するように命令した。そして、その内容も
船長にしろ、ほかのどのメーツにしろ、今では「ゴロツキ」の下級船員たちが、ただもう「みじめに働いている」と言うことだけに、その興味を持たなくなったように見えた。下級船員たちが、「人間」らしくあるということが、今では、彼らの権威を傷つけるという、その
どことなしに、いや、それどころではない、はっきりと彼らは、あまりに現金すぎるほどに、水夫たちはおろか火夫たちにまでも遠慮していた。
それは、内実を知らない人々から見ると、平和であった。そして万事が控え目であった。「謙譲なるメーツらよ!」と知らない人は、それが労働者であっても、ほめたであろうほど、静かであった。従って、船員たちも「ゴロツキ」ではなかった。
彼らも、彼らが人間らしく振る舞い得、また、そうすることを、禁じられさえしなければ、彼らは立派に――人間らしく振る舞った。
水夫らは、自分らに
彼らの行動はまるで相反するようにも見えた。そのことについて彼ら同志の間にけんかさえも起こった。だがそうしたのは、彼らの上に重っ苦しくおおいかぶさった「苦役」と、「困窮」とであった。それをあやつっている資本制の糸であった。彼らは、自分たちのやっていたことと、藤原のやっていたこととがまるっ切り違ったことであって、そのくせ一つものを目あてにしていたのだと言うことをさとった。彼らはものにはやり方があると言うことを教わった。
これまでは彼らは「一つ
「女郎買い」の友だちから「
それは、藤原が説き
私たちは、多くの労働争議が、唯物史観に基づいて行なわれ、唯物史観に基づいて罰せられることを知っている。
この小さな物語も、その一つの定められたる軌道を
この航海は、
それは、そんなことのあとには普通のことであった。そしてその普通のことは、労働者階級にとっては悲しいことであり、つらいことであった。憤慨すべきことであった。が、資本家にとっては、まだ食い足りないことであり、手ぬるいことであり、歯がゆいことであったが、やや「愉快」なことでもあった。だが、それは何だ? 私はまたあまり先走りすぎた。それは横浜についてからのことだ!
今度の航海――横浜入港は、どの船員の心にも大きな期待を持たれていた。そして出帆も四日ごろまでは早くてもかかるのだった。正月の一日はだれでも休むのだ。そして、彼らは一様に、――ちょうど炎天の下を強行軍する軍隊の兵士が一様に水を欲しているように、――陸上における、陸上であれば木賃宿でもいい、生活に飢えていたのだった。それに、そこは正月ではないか。そのために彼らの足は地についていなかった!
本船は、立派に化粧して入港するのだ! 船は二、三日
高い鉄の窓、あるいは高い赤い
それは左ねじの電球が、右ねじのソケットにはまらないのと同じく、彼らを専門的にし、不具的にしたのだ。
万寿丸は一晩港外に仮泊しないでも済むように順序よく、進んだ。
水夫たちはフォックスルにスタンバイしていた。雪もよいの風は鋭く
十二月三十一日、午前九時――全く、うまく行ったものだ――万寿丸は横浜港内深くはいって、ほとんど
本船が港内にはいるや、すぐに会社からのランチが、本船のまわりを水ぐものようにグルグル回りながらついて来た。
それは十二月三十一日であった。
人足の
万寿丸は荷役を初めそうに見えた。ウインチは仲仕らにかかってはむやみに手荒く取り扱われる。バルブ明けっ放しで、ハンドル一つのゴーヘーゴースターンだ。
私はこんなふうに書いていたら、切りがないだろうということに気がついた。私はまだ船長と三上とが、室蘭で同じ女郎を買い当てて兄弟になったということも、書くつもりでいた。が、そんなことは別に不思議なことでも珍しいことでもない。やめてしまおう。
ランチから、会社員が船長室へはいって行った。そこで、彼らはコーヒーを飲みながら、なにか話した。
船長は、水夫らの「不都合なる行為」について厳罰を与えようと、室蘭においてすでに決心していた。で、彼は会社から来た社員に対して、簡単に「水夫たちがいかに不当な要求を、横着な態度でした」かを話した。だから、彼ら、水夫ら全部を下船させると同時に、引っ縛ってやる必要がある。「ついでに三上の
一方チーフメーツは
水上署のランチは、チーフメーツと共に、屈強なる巡査五、六名を載せて、威勢よく出動した。
ランチは万寿丸のタラップについた。チーフメーツは警官たちをサロンに案内した。そこで、巡査諸君は、りんごと、菓子と、コーヒーとの「前で」しばらく待たなければならなかった。
水夫たちは、ウインチに油をさしたり、種々な道具類を片づけたりしていた。そして彼らは、「その夜は、
船長は、今は、前航海の、夜中におけるサンパンの中の船長でも、出船前の室蘭における彼でもなかった。彼は今は暴力的であり得た。最も露骨なタイラントだった。
船長の命を受けたとものボーイは、おもてへ来た。そして、ボースンに言った。
「ボースン、荷物を片づけて、下船の用意をして、ボースンと、藤原と、波田と、西沢と、小倉と、宇野と、サロンまで来いと、船長がいったよ。それからね、オイ」彼は今度は彼自身の部分の話に移った。「水上署の巡査が十五、六人サロンへ来て待ってるぜ、きっと波田があばれると思って連れて来たんだぜ。すこしあばれた方がいいんだ全く。皆にそういってくれよ、いいかい」彼は、ともへと帰って行った。
そのことは、もう皆に特に通知するまでもなかった。とものボーイが来れば、何かの命令だということはわかるので、水夫たちはボースンの室の前で立って聞いていた。
「まずかった!」藤原は感じた。「しかし、これほど徹底的だとは思わなかった。これじゃまるで船はカラッポだ! だが!」彼はじっと我慢した。彼にはもう彼が歩いて行く道筋がハッキリわかっていた。それは白くかわいた
波田もさとった。おれたちは「それでは行くんだな」と思った。「おれたちの行く道は、右は餓死だ、左は
四七
彼らは
彼らは、食って着るだけでなお不足であったので、従って、その最初船に乗る時に買った行李、その中へ詰まっていた種々の物が、だんだん減っては行ってもふえて行くなどと言うことはほとんどなかった。
その
彼らの去ることを知ったボーイ長の悲嘆ははなはだしかった。彼は、藤原と、波田との手にすがって、何か言いたそうにしていたが、ようやく出た言葉は、はげしい
そして、彼を保護し、愛してくれた人々は、今警官のいるところへ、船長に下船の用意をして来いといわれて、出かけて行くのだ。その船長は何だ! 自分の生命にさえ一顧を与えない勇猛果断な男だ。ボーイ長は、自由を奪われて以来病的に発達した神経によって、そこには何かよからぬことが待ち受けてるに違いない、ことを直感したのであった。藤原さんや、波田さんたちはもう下船させられるんだ。そして、おれは動けもしないこの足で、あの冷酷なメーツたちの下にどうなるんだろう。忘れっ放されるんだ! 彼は泣いた。
泣くということは、それは船では今までなかったことだ。血気な青年が壮年の労働者たちの間に泣くということは見られないことであった。
ボーイ長は歯を食いしばって、
藤原のほとんど冷酷な、動いたことのない意志そのもののような目の中にも、重く、鋭く、悲しみがひらめいた。
波田も歯を食いしばった。そして力をこめてボーイ長の手を握った。そして、
「からだを大切にして、早くなおりたまえね」と言った。が、彼は、自分たちが去ったあとではボーイ長はどうなるだろう、その傷や
「またどこかで、会うこともあるだろう。それまで、お互いに丈夫でいようよ、じゃ大切にしたまえ、さようなら」藤原は一握して立ち去った。
「からだを大切にしてください。さようなら」とボーイ長はいって、その
「資本主義制度は、くもの巣みたいに、おれたちを引っくるんでいるんだ。どうあがいてもそれは気味悪くからみついて来るばかりだ、畜生! 今に見ていろ土ぐもめ!」藤原は考えながらデッキを大またに歩いた。
サロンには、船長以下メーツらは、その装飾した上陸姿を並べていた。
警察の巡査は後ろの方に立っていた。
「フン、無意識的にブルジョアやその(以下十四字不明)、(以下十字不明)!」藤原はその情景を外からながめて感じた。
波田は、全身の血が頭に逆流した。彼は、心臓でもえぐるように、船長の顔に燃えるような目を注いだ。
船長は、しかし、今は充分に「因襲的尊厳」の
一同は、その
「皆そろったね」と船長はチーフメーツに言った。
「ええ、これで全部です」チーフメーツは答えた。
「それじゃ、いい渡してください」
「ボースン、小倉、宇野、西沢、とこの四人は、下船命令、藤原、波田も同様皆、僕と一緒に海事局まで行ってくれ、それから、藤原と波田とは海事局には行かないでよろしい。手帳はあとで渡すから。
「自分によくいって聞かせとくがいいや、おれらのことならお世話にゃならないや。道が
「あれが波田ってやつです。あんな乱暴なやつです!」船長が言った。
「何を! べら棒め! 死にかけた人間を打っちゃらかしとくようなやつが、人のことがいえるかい。
「マ、せいぜいあばれて、警察で油をしぼられるがいいさ」船長は言った。
「おれの出て来るまで、手前は丈夫で生きているように、おれは祈ってらあ。途中で燃やされちゃわねえように気をつけな」
だが、船長は、
チーフメーツは、ボースン、小倉、宇野、西沢を連れて、二人の警官と共に海事局に行った。
彼らはそこで物の見事に首を
これが十二月三十一日だ。
藤原と波田とはランチで水上署へ行った。
正月の四日までは警察も休みだった。従って、藤原と波田は、留置所の中で正月を休むことができた。
彼らは正月の仕事初めから、司法で調べを受けた。そして治安警察法で検事局へ送られた。
検事は彼らを取り調べるために、彼らを監獄の未決監に拘禁した。
彼らには面会人も差し入れもなかった。あたかも彼らは
食事窓や、のぞき窓や、その他のすき間からは、
彼らは、そこで刑の決定されるのを待った。
――終――