「有名な幽霊塔が売り物に出たぜ、新聞広告にも見えて居る」
未だ多くの人が噂せぬ中に、直ちに買い取る気を起したのは、検事総長を辞して閑散に世を送って居る叔父
素より叔父が買い度いと云うのは不思議で無い、幽霊塔の元来の持主は叔父の同姓の家筋で有る。昔から其の近辺では丸部の幽霊塔と称する程で有った。夫が其の家の零落から人手に渡り、今度再び売り物に出たのだから、叔父は兎も角も同姓の旧情を忘れ兼ね、自分の住居として子孫代々に伝えると云う気に成ったのだ。
買い受けの相談、値段の打ち合せも
其の後は此の主人が幽霊に成って出ると云う事で元は時計塔と云ったのが幽霊塔と云う綽名で通る事と為り、其の後の時計塔は
余が下検査の為此の土地へ着いたのは夏の末の日暮頃で有ったが、先ず塔の前へ立って見上げると如何にも化物然たる形で、扨は夜に入るとアノ時計が、目の玉の様に見えるのかと、此の様に思ううち、不思議や其の時計の長短二本の針がグルグルと自然に廻った。時計の針は廻るのが当り前とは云え、数年来住む人も無く永く留まって居る時計だのに、其の針が幾度も盤の面を廻るとは余り奇妙では無いか、元来此の時計は塔其の物と同じく秘密の仕組で、
誰が
勿論番人も無い、入口の戸も数年前に外した儘で、今以て鎖して無い、
爾して其の殺した方の養女と云うは直ぐに捕まり裁判に附せられたが、丁度余の叔父が検事をして居る頃で、叔父は我が為に本家とも云う可き同姓の元の住家へ又も不吉な椿事を起させた奴と睨み、多少は感情に動かされたが、厳重に死刑論を唱えて目的を達した。勿論其の女は決して自分が殺したので無いと
余は此の忌わしい話を思い出し、少し気が
登り登りて四階まで行くと、茲が即ち老女輪田お紺の殺された室だ。伝説に由ると室の一方に寝台が有って、其の上からお紺が口に人の肉を咬え
すると其の寝台の上に、何だか人の姿が有って起き直る有様が殆ど伝説の通りで在る、此の様な時には暗いのが何より不利益(幽霊にとっては利益かも知らぬが)だから余は窓の方へ寄り、
「能く其の戸が
之が幽霊の発した初めての声で音楽の様に麗しい、余は荒々しく問い詰める積りで居たが、声の麗しさに、
と、問いつつ
「ハイ今し方、此の時計を捲いたのは私ですよ」
仮面で無い、仮面で無い、本統の素顔、素顔。
此の美人は何者だろう、第一、此の荒れ果てた塔の中に、而も輪田お紺の幽霊が出ると云われる室の中に、丁度其のお紺の寝たと云う寝台の上に、唯一人で居たのが怪しい、第二には此の世に知った人の無い秘密、即ち時計の捲き方を知って居るのが怪しい、第三に、
「貴女は全体何者です」と余は問い
其のうちに美人は堀の土堤を、庭の奥の方へ歩み初め、一丁余も行って終に堤下に降りた、茲に大きな榎木が五六本聳えて居る、其の一本の下に余り古く無い石碑が立って居る、土の盛り方や石の色では昨年頃誰かを葬った者でも有ろうか、屋敷の中に墓の有るのも不思議、誰も住んで居ぬ空屋敷へ新墓の出来るも不思議、余は益々異様に思い、口の中で、思わずも「怪美人」と呟いた、実に怪美人だ、此の美人の身に就いての事は皆な「怪」だ言葉も振舞も着物も飾り物も、爾して妙に此の屋敷の秘密を知って居る事も地図などを持って居る事も、一の怪ならざるは無しだ、頓て美人は新墓の前に跪づいて、拝み初めたが、何だか非常に口惜しいと云う様子が見え、次には
養母殺しの大罪人の墓へ参詣するなどは余り興の醒めた振舞ゆえ余は容赦なく「貴女は此の女の親類か友達ですか」と問うた、怪美人は「イイエ、親類でも知人でも有りません」と答えた。益々不思議だ、是が貞女烈女の墓とか賢人君子の墓とか云えば、知らぬ人でも
「其の様にお問いなさらずとも、分る時が来れば自然に分りますよ」と云い、其のまま今度は玄関の方を指し
余は
「イヤ夫は不思議です、私も其の宿屋へ行くのです、御一緒に参りましょう」
美人は宿屋まで送られるのを有難く思う様子も見えぬ、単に「爾ですか」と答えたが、併し別に拒まぬ所を見れば同意したも同じ事だ、此の時は既に夜に入り、道も充分には見えぬから、余は親切に「私の腕へお縋り成さっては如何です」美人「イイエ、夜道には慣れて居ます」食い切る様な言い方で、余は取り附く島も無い、詮方なく唯並んで無言の儘で歩いて居たが其の中にも色々と考えて見るに、松谷秀子と云うも本名か偽名か分らぬ、全体何の目的でアノ幽霊塔へ入り込んだ者であろう、真逆に時計を捲き試して相当の人へ教え度いと云う許りではあるまい、何にしても余ほど秘密の目的が有って、爾して其の身の上にも深い秘密が有るに違い無い、果して「分る時には自然に分る」だろうか、其の「分る時」が来るだろうか。
此の様に思って歩むうち、忽ち横手の道から馬車の音が聞こえて、燈光がパッと余の顔を照らすかと思ったが、夫は少しの間で其の馬車は早や余等を追い越して仕舞った、併し余は其の少しの間に馬車の中の人を見て、思わず「アレ叔父が来ましたよ」と叫んだ、確かに馬車の中に余の叔父が乗って居る、尤も馬車の中から余の顔を見たと見え馬車は十間ほど先へ行って停り、其の窓から首を出して「アレ道さん、道さん」と余を呼ぶ者が有る。
「道さん」などと
何者が何の為嘘の電報など作って余の叔父を呼び寄せたのだろう、余は電信局で
是だけで肝腎の誰が発したかは分らぬ故、余は此の地の田舎新聞社に行き広告を依頼した、其の文句は「何月幾日の何時頃人に頼まれて此の土地の電信局へ行き、
何も是ほどまで気に掛けるには及ばぬ事柄かは知らぬが斯う落も無く取り計ろうが余の流儀で、何事にも
是で宿へ帰り、是だけの事を叔父に話し、爾して更に、彼の時計の捲き方を知って居る人の有る事を話した、叔父は非常に喜び、若し其の人に逢う事が出来るなら贋電報に欺されて此の地へ来たのが却って幸いだと云い、是非とも晩餐を共にする様に計って呉れと云うから、余は
余は喜んで叔父の室へ帰ろうとすると、美人は何か思い出した様に追っ掛けて来て呼び留め「愈々叔父様が幽霊塔を買い取れば貴方もアノ屋敷へ棲む事になりますか」余「ハイ」美人「では必ず、今日私のお目に掛ったアノ室を貴方のお居間と為し、夜もあの室でお寝み成さい」実に不思議な忠告だ、余「エあの、お紺婆の殺されて、幽霊の出るという室ですか」美人「大丈夫です、幽霊などは出や致しません、私は先刻もお紺婆の寝たと云う寝台へ長い間寝て見ましたが何事も有りません」成るほど此の美人はあの寝台から幽霊の様に起きて来たので有った。併し余り不思議な註文ゆえ「ですが貴女は何故其の様な事をお望みなさる」美人「分る時には分りますよ」と、先刻も余に云った同じ言葉を繰り返し、更に続けて「貴方が若し此の事を承知為さらずば、私は貴方の叔父御にお目に掛りません」余「ト仰有っても幽霊の出る室、イヤ出ると言い伝えられて居る室を、私の居間にするとは其の訳を聞いた上で無ければ私もお約束は出来ません」美人「イヤ私は自分では神聖と思う程の或る
何所までも人を
幾等驚いたにもせよ、余の叔父が男の癖に気絶するとは余り意気地の無い話だ、併し叔父の事情を知る者は無理と思わぬ、叔父は仲々不幸の身の上で近年甚く神経が昂ぶって居る、其の
此の様な人だから今夜も気絶したのだろう、兎に角余は驚いて抱き起こした、卓子の上の皿なども一二枚は落ちた、余は抱き起しつつ「水を、水を」と叫んだが、一番機転の利くのは怪美人で、直ぐに卓子の上の水瓶を取り
怪美人は余ほど立腹するかと思いの外、真実叔父を気の毒と思う様子で「イヤお騒がせ申して誠に済みません、
美人も
叔父の其の言葉に美人も留まる気に成って、政治家の言葉で言えば茲に秩序が回復した、斯うなるとお浦を
食事の間も叔父の目は絶えず怪美人の顔に注いで居る、余ほど怪美人に心を奪われた者と見える、斯うなると余も益々不審に思う、叔父が怪美人をば昔の知人に似て居ると云うたのは誰にだろう、叔父の心を奪うほども全体何人に似て居るだろう、是も怪美人の言い草では無いが分る時には自から分るか知らん。
且食い且語る、其のうちに話は自然と幽霊塔の事に移った、叔父は怪美人を見て「貴女が塔の時計の捲き方を御存知とは不思議です、屡々アノ塔へ上った事がお有りですか」怪美人「ハイ以前は時々登りました、何しろ昔から名高い屋敷ですから、年々に荒れ果てるのを惜く、茲を斯う修復すればとか彼処を何う手入れすればとか、自分の物の様に種々考えた事なども有りました」叔父は熱心に「夫は此の上も無い幸いですよ、実は私が那の屋敷を買い取る事になりましたから、必ず貴女の御意見を伺って其の通りに手入れを致しましょう」怪美人「イエ実は先頃も甥御から事に由ると貴方がお買い取り成さるかも知れぬ様に伺いましたから、一度はお目に掛り私の知った事や思う事なども申し上げ度いと思いました」此の通り話の持てるは甚くお浦の癪は障ると見える、お浦は機さえ有れば此の話を遮り叔父と怪美人の間を引き割こうと待って居る有様で、眼の光り具合も常とは違う、叔父「孰れにしても此の後、屡々貴女へお逢い申し、又場合に依れば逗留の積りで塔へお出をも願い度いと思いますが、貴女のお住居は何ちらでしょう」怪美人は少し当惑の様で、「イエ住居は定らぬと申すより外は有りません、なれど是から大抵の宴会には招きに応ずる積りですから、貴方が交際社会へお出掛けにさえなれば、一週間とお目に掛らぬ事は有りますまい」叔父「イヤ私は更に左様な招きには応ぜぬ事にし、今まで宅に閉じ籠ってのみ居ましたが貴女にお目に掛れるとならば此の後は欠さず宴会には出席しましょう」此の丁寧な挨拶を傍から聞いて、お浦は耐え兼ね「叔父さん、其の様な勿体を附けて住居さえ明らかに云わぬ方の後を、何も追い掛るには及ばぬでは有りませんか」叔父は赫っと立腹したが直ぐに心を取り直して美人に謝し、「誠に我儘者で致し方が有りません、何うか此の女の云う事はお気に留めぬ様に」といい更に余に向ってお浦を取り鎮めよと云わぬ許りの
叔父も非常な不機嫌で、余がお浦に成り代ってお詫びする間も無いうちに室へ退いて仕舞った、後に余はお浦に向い、荒々しく叱った位では迚も追い附かぬから、無言の儘目を見張って睨み附けた、此の時の余の呼吸はお浦の顔を焼くほどに熱かったに違い無い、本統に火焔を吐くほど腹が立ったのだ、お浦は少しも驚かぬ「貴方の其の大きな眼は何の為に光って居ます、貴方は叔父さんが何れほど深くあの何所の馬の骨とも知れぬ女を見初めたかを知りませんか、貴方は本統に明き盲目です、此のまま置けばアノ女に釣り込まれて叔父さんは二度目の婚礼までするに極って居ます、爾なれば叔父さんの身代を相続する為に待って居るお互いの身は何なります」エ、益々忌わしい根性を晒け出すワ余は決して叔父の身代に目を附ける様な男で無い、相続する為に待って居るお互いなどは余り汚らわしい言い様だ、幾ら乳婆の連れ子にもせよ斯くまで心が穢かろうとは知らなんだ、若し知ったなら決して今まで一つ屋根の下には住まわれぬ、余りの事に余は呆れて猶も無言のまま睨んで居たが、お浦は忽ち椅子を
折角の晩餐が斯う殺風景に終ったは実に残念だ、けれど今更仕方がない、余は兎も角も怪美人と虎井夫人とに逢い充分謝せねばならぬと思い、お浦を捨て置いて怪美人――イヤ最早怪美人ではない単に松谷秀子だ――其の松谷秀子の居る室の前まで行った、何と云って謝した者か、事に由ればお浦を狂女だと言い做しても好い、あの今夜の振舞は狂女よりも甚しい、爾だ狂女とでも言わねば到底充分に謝する道はない、と斯う思って少し戸の外で考える間に、中浦から異様な声が聞こえた。確かに松谷秀子と虎井夫人とが争って居る。「イイエ、貴女が何と仰有っても嘘を吐いたり人を欺いたりする事は私には出来ません。正直過ぎて夫が為に失敗するなら失敗が本望です」と
翌朝は少し早目に食堂へ行って見た、お浦も早や遣って来て居たが、勿論余とは口を利かぬ。何でも給仕に金でも与えて、怪美人の素性を聞き糺して居たらしい、何だか余の顔を見て邪魔物が来たと云う様な当惑の様子も見えたが給仕は更に構いなく「ハイお紺婆を殺した養女お夏というは牢の中で死にましたが、同じ年頃の古山お酉と云う中働きが矢張り時計の捲き方を知って居た相です」お浦は耳寄りの事を聞き得たりと云う様子に熱心になり「その古山お酉とは美しい女で有ったの」給仕「ハイ之は最う非常な美人で、イヤ私が此の家へ雇われぬ先の事ゆえ自分で見た訳ではありませんが人の話に拠ると背もすらりとして
お浦は是だけで満足したか、問うのを止めて余の傍へ来て、最と勝ち誇った様子で「今の話を何と聞きました」余「何とも聞きませんよ」お浦「道さん、貴方の
併し別に争い様もないから、無言の儘で、何とかお浦の疑いを挫く工夫は有るまいかと、悔しがって居ると、丁度叔父朝夫が這入って来た、叔父は甚く落胆の様子で「ア、今朝篤と松谷秀子嬢に逢い、昨夜の詫びも云い
愈々幽霊塔の検査に行く事と為って、余は一番先に此の宿の店先まで出掛けた、叔父とお浦は未だ出て来ぬ、多分は叔父がお浦に向い、昨夜の小言を云って居るので有ろう、余の居る所で小言を云うのを余り気の毒だと思い、故と余を先へ出したらしい。
余は待ちながら帳場に在る客帳を開いて見た、見ると松谷秀子と虎井夫人との名が余の直ぐ前へ
夫から又怪美人は今朝何時頃に立ったかと問うた、帳場の返事では六時前に怪美人が一人で帳場へ来て二人の勘定を済ませ其のまま立ち去ったが七時頃に虎井夫人は怪しむ様子で降りて来て、既に怪美人が勘定まで済ませて立ったと聞き、驚いて二階へ行き例の狐猿と荷物とを携えて、
其のうちに叔父もお浦も来て、共々に用意の馬車に乗り、間も無く幽霊塔には着いたが、別に異様な事もない、相変らず陰気な許りだ、塔の上は後として先ず下の室々から
とは云え怪美人は何故に今朝故々此の塔へ来て此の秘密戸を開けたのだろう、余は何とやら余等に対する親切で故々此の戸を開けた儘で置いて呉れたのだと思う、爾すれば外にも猶室の中に何か怪美人の来た印が有るかも知れぬと思い、室の中を見廻すと、お紺婆の寝台の上に一輪の薔薇の花が落ちて居る、余よりも先にお浦が之を看て「オヤオヤ今朝か昨夜か此の寝台へ来た人が有ると見える此の花は未だ萎れて居ぬ」と云って取り上げた、全く余の思う通りだ、怪美人が今朝茲へ来たという事を余に知らせるのだ、余は親切の印ともいう可き此の花をお浦風情に我が物にされて成る者かと殆ど腕力盡で
爾して余と叔父とが上の時計室を検めて居る間に、其の鍵を方々の錠前へ試みたと見え忽ち声を上げ「オヤ茲に此の様な物が有ります」と叫ぶから行って見ると寝台の枕の方にある壁の戸棚を開けて居る、今の鍵は確かに此の戸棚に用うるのだ、戸棚の中には一冊の大きな本が有る、今度は余が此の本を取り出して見ると昔し昔しの厚い聖書だ、是ほど立派なのは図書館にも博物館にも多くはない、之を若し考古家に見せたら千金を抛っても書斎の飾り物にするだろう、何しろ珍しい書籍だから「是は丸部家の宝物の一つでしょうね」といゝつゝ表紙を開いて見ると、これは奇妙、表紙裏も総革で、金文字を打ち込んで有る、文字の中にも殊に目に附くは、最初に記した「咒語」の二字だ、思えば昨夜、怪美人がこの室に丸部家の咒文が有るといゝ余に暗誦せよと告げた、即ち此の咒語に違いない、咒語か、咒語か、何の様な事を書いて有る、文字は
明珠百斛 (めいしゆひやくこく) 王錫嘉福 (わうかふくをたまふ)
妖偸奪 (えうこんたうだつ) 夜水竜哭 (やすゐりようこくす)
言探湖底 (こゝにこていをさぐり) 家珍還 (かちんとくにかへる)
逆焔仍熾 (ぎやくえんなほさかんなり) 深蔵諸屋 (ふかくこれををくにざうす)
鐘鳴緑揺 (しようなりみどりうごく) 微光閃 (びくわうせんよく)
載升載降 (すなはちのぼりすなはちくだる) 階廊迂曲 (かいらううきよく)
神秘攸在 (しんひのあるところ) 黙披図 (もくしてとろくをひらけ)
妖偸奪 (えうこんたうだつ) 夜水竜哭 (やすゐりようこくす)
言探湖底 (こゝにこていをさぐり) 家珍還 (かちんとくにかへる)
逆焔仍熾 (ぎやくえんなほさかんなり) 深蔵諸屋 (ふかくこれををくにざうす)
鐘鳴緑揺 (しようなりみどりうごく) 微光閃 (びくわうせんよく)
載升載降 (すなはちのぼりすなはちくだる) 階廊迂曲 (かいらううきよく)
神秘攸在 (しんひのあるところ) 黙披図 (もくしてとろくをひらけ)
何にしても此の咒文は幽霊塔の秘密を読み込んで有るに違いない、この意味が分れば、幽霊塔の秘密も分るに違いない。
「
昔の韻文で、今人の日常には使用せぬ文字も多いが、併し兼ねて余が聞き噛って居る幽霊塔の奇談と引き合せて考えれば、初めの方だけは薄々に斯う云う意味だろうかと推量は附く、平たく云えば「沢山な宝を(第一句)国王から恵まれた(第二句)怪しい悪僧が盗み去って(第三句)暗い水の中へ落した(第四句)いま水海の底を探して(第五句)我が家の宝が元の箱へ還った(第六句)今は物騒な世の中だから(第七句)人の知らぬ様に家の中へ隠して置く(第八句)」と、此の様な事でも有ろうか、併し此の次の四句は更に分らぬ、鐘が鳴るの、緑が動くの、微かな光が閃めくの、昇るの降るのとて、全体何の事だ、此の四句が能く分れば多分は其の宝の在る所へ行く路も分り、従って其の宝と云う物は全くあるかないか此の伝説が虚か誠かと云う事を見極める事も出来ようけれど、到底此の意味は分らぬから仕方がない、唯余に分らぬのみでなく恐らくは誰にも分らぬで有ろう、分らねばこそ今まで何百年も秘密と為って存して居るのだ、とは云え末二句には聊か頼もしい所がある「神秘の在る所、黙して図を披け」と云うは「詳しい事は図面で見よ」と云う様な心ではあるまいか、爾とすれば其の図とか云う図面を見れば、
此の様に考え回す所へ、叔父は時計室から降りて来て「何う見ても時計の捲き方は分らぬ、夜前の松谷秀子嬢に最一度逢って教えて貰うより外はない」と云ったが、頓て背後から此の咒語此の聖書を見、驚いて「ヤ、ヤ、是は大変な物が出て来た、此の聖書は昔から丸部家の家督を相続する者に伝えて来た宝の一だ、咒語は到底何の事だか分らぬけれど丸部家の当主たる者は誕生日毎に此の咒語を暗誦して其の意味を考えねばならぬと云う事に成って居たのだ、全体此の聖書は何所から出た」余「今此の戸棚に在りました」叔父「それは益々もって不思議だ、此の聖書は輪田お紺婆が此の塔を買い取るより数年前に紛失して、時の当主は大金を掛けて詮索したが到頭出ずに仕舞ったのだ、若しその時に此の戸棚に在ったなら直ぐに当主が見出す可き筈で有る、勿論此の戸棚などは空にして探したけれど出て来なんだ、何でも一旦紛失した物が時を経て茲へ返ったのだ、聖書が独りで返る筈はないから誰かが持って来て密っと入れたのだ」余は益々怪美人の言葉を思い合せ、彼の美人が余に此の咒語を解かせ度いとでも云う親切で此の聖書を茲へ入れたに違いないと思う、併し彼の美人が何うして此の聖書を持って居たかなど云う点は更に分らぬ、分らぬけれど分らぬ事だらけの怪美人のする事だから、何も是のみを怪しむにも及ばぬ訳サ。
叔父は聖書の表紙などを検めて「表紙に塵などが溜って居ぬ所を見ると此の頃まで人手に掛って居た者だ、何うも己の推量が当って居る様だ」余「エ、貴方の推量とは」叔父「昔、此の書が紛失したと聞いた時、己は多分其の頃老女を勤めて居たお紺婆が盗んだのだと思った、アノ婆は非常な慾張りで有ったから、此の塔に宝物が隠れて有ると云う伝説を聞き、咒語さえ見れば其の宝の在る所が分る事と思い、先ず此の聖書を盗み、爾して其の後此の塔を買い取ったのだ」余「では此の聖書が何うして茲に在ります」叔父「多分はお紺の相棒が有ったのだろう、お紺自身は咒語を読む事などは出来ぬから其の相棒へ之を渡して研究でもさせたのだ、其の相棒が研究しても分らぬから終に絶望して聖書を茲へ返したのだろう」果して其の推量の通りならば、怪美人が其の相棒と云う事になる、余は何うも爾は思わぬ。アノ様な美しい女が其の様な悪事に加担する筈はない、若し加担したのならば此の聖書を余の手に這入る様に茲へ入れて置く筈はない、叔父とても若しアノ美人が此の聖書を茲へ置いた者と知れば、お紺の相棒などと云う疑いは起さぬに違いない、併し余は今、アノ美人の事を叔父に告げ、美人が此の聖書を持って来たらしいなどと知らせる事は出来ぬから、唯無言で聞いて居ると、智慧逞しいお浦は其の辺の事情を察したのか「爾です叔父さんの御推量の通りでしょう」と云い更に余にのみ聞える様に「是で益々アノ松谷秀子が、お紺の仲働き古山お酉だと云う事に成るでは有りませんか、何でもアノお酉が自分一人の力では行かぬから貴方をタラシ込んで相棒に引き込む為、薔薇の花も銅製の鍵も置いて行ったのです、あの女は叔父さんが此の屋敷を買う事を知り、叔父さんの家族の中に相棒がなくては了ぬと思って居ます、若し貴方を相棒にする事が出来ねば直接に叔父さんを欺し、後々此の家へ自由自在に入り込む道を開いて爾して宝を盗み取る積りです、叔父さんへ贋電報を掛けたのもあの女ですよ」
余は此の疑いには賛成せぬけれど、爾でないと云えば八かましくなる故、
図とは何の様な者だろう、余も叔父も首を差しのばして検めたが、全く幽霊塔の内部を写した図面であるが、悲しい事には写し掛けて中途で止めた者で、即ち出来上らぬ
併し叔父が此の塔を買おうと云うのは元々咒文や図の為ではない。噂に伝わる宝とても初めから叔父の眼中にはないので有る、図が充分に分らぬからとて何も失望する事はない、けれど兎に角此の図は聖書と共に丸部家の血筋へ伝え来たった者で、今では叔父が其の最も近い血筋だから之を預って保管して置くと云う事に成った、之にはお浦も故障を入れる事は出来ぬ、併しお浦の拾い上げた銅製の鍵だけはお浦が何うしても放さぬ「他日必ず役に立ててお目に掛けます」と余に向って断言した。ハテな、何の様な役に立てる積りなのか。
塔の検査は之だけで終り、吾々三人直ちに倫敦へ帰ったが、翌々日は早や買い受けの約条も終り、何の故障もなしに幽霊塔は本来の持主丸部家の血筋へ復った、是からは修繕に取り掛る可きで有るが、叔父は修繕の設計に付いては是非とも松谷秀子の意見を聞き度いと云い、此の後は何の様な招待にも必らず応じて出掛けて行く事にした、是は総ての招待に応ずれば一週間と経ぬ中に廻り逢う様に言ったあの怪美人の言葉を当てにしての事らしい、勿論余も最一度怪美人に、逢い度いから必ず叔父に随いて行く、お浦も同じく逢い度いのか随いて行く、けれど仲々廻り逢う事が出来ぬ、其の中に叔父は何所で探ったか一冊の本を買って来て余に示したが、其の本は「秘書官」と題した小説(だか実験談だか)で、米国で出版した者だ、著者は「松谷秀子」とある、叔父は之を余に示して「アノ方は米国の令嬢と見える、爾して此の様な書を著す所を見ると仲々学問も有る、事に依ると女ながらも米国政治家の私雇の書記でも勤めて居た者では有るまいか」と云われた、余は受け取って其の本を読んで見た、小説としては少しも面白い所はないが、如何にも米国の政治家の内幕を能く穿った者で、文章の美しい事は非常で有る、大体の目的は米国の平民主義の共和政治とを嘲り暗に英国の貴族制度と王政とに心を寄せた者だ、此の様な書は米国で好く言われまいけれど、英国の読書家には非常に歓迎せられるだろうと、余は此の様に思ったが、果せる哉是より数日を経て評論雑誌に此の書の評が出て、甚く著者の才筆を褒め、猶此の書の著者が先頃より此の英国へ来て居る、一部の交際社会に厚く待遇されて居ることや、目下サリー地方を漫遊して居る事まで書き加えて有る。
此の時宛も其のサリー地方の朝倉と云う家から叔父の許へ奇妙な招待状が来て居た、奇妙とは兼ねて色々な遊芸を好む其の家の主人(朝倉男爵)が此の頃新たに覚えた手品を見せ度いと云うので有る、素人手品は総ての素人芸と同じく当人には甚く面白いが拝見や拝聴を仰せ付けられる客仁に取っては余り有難い者でない、朝倉男爵は通人だけに其の辺の思い遣りも有ると見え、猶隣の郷へ恰もチャリネとて虎や獅子などを使う伊太利の獣苑興行人が来て居るから夫をも見せると書き添えて有る、虎にしろ獅子にしろ叔父は余り其の様な事を好まぬ気質で、此の招待は断るなどと云って居たが、評論雑誌の記事を見てから急に行く気になり、相変らず余とお浦とは附き随われて出掛けて行ったが、途中で大変な事件を聞いた、夫は外でもない、チャリネ先生が印度とか亜弗利加とかから生け捕って来た大きな虎が、夜の間に柵を破って行方知らずと成ったと云う事で、警官などが容易ならぬ顔をして立ち騒ぎ、旅人にも夫々注意を与えて居る、実に是は容易ならぬ、
斯う云う評議に成って暫く途中で停ったが、常の場合ならば無論引き返す所だけれど彼の評論雑誌の記事を思い出すと如何にも引き返えすのは惜しい、事に由れば才媛と云われる「秘書官」の著者も朝倉家へ来て居るかも知れぬ、猶深く気遣えば若しや其の才媛が其の虎に食われるかも知れぬ、真逆に斯くまでは口に出さぬが叔父もこの通りの考えと見え、思い切って行く事に成った、お浦だけは少し苦情を唱えたけれど、余と叔父とが行くと云えば決して自分一人帰りはせぬ、併し此の評議の為、予定の時間より余ほど後れ、愈々朝倉家へ着いたのは夜の九時であった。
着くと朝倉夫人が独り出迎え、三人の遅いのを気遣って居た旨を述べて「サア丁度手品が是から興に入る所です、今お客の中で籖を引き、一人其の手品の種に使われる約束で、大変な方が其の籖に
幻燈の影が何時の間にか本統の美人と為るのは別に珍しくは無い芸だ、併し素人としては仲々の手際だから客一同は喝采した。真に満堂割るる許りの喝采で、中には「朝倉男爵万歳」とまで褒める者も有った。猶も見て居る中に此の美人、即ち松谷秀子は、充分主人に頼まれた者と見え、其の所に在る音楽台に行き、客一同に会釈して音楽を奏し始めた、その上手な事は実に非常だ、爾して謡う声も
再び満堂が明るくなると松谷秀子は元の席へ復って居る、客は口々に主人を褒め又秀子を褒めたが、主人の芸は最一度と所望する人無けれど松谷秀子の音楽は是非最一度と後をネダる人が多い、シテ見ると秀子の芸が主人よりも上か知らん、其のうちにも余の叔父は嬉し相に立って行き再会の歓びを述べて最う一回をと言葉を添えたが其の様は恋人の有様で有る、秀子も甚く余の叔父を懐かしく思う様子で、特別の笑顔を現わしたが併し「私の音楽は二度目をお聞きに入れると荒が出ます」と謙遜して所望に応ぜぬ、其の辺の応対の様や物の言い振りの仇けない所を見ると余は実に矢も楯も耐らぬ、自分の魂が鎔けて直ちに秀子の魂に同化するような気がした、勿論余は秀子の身に何か秘密の有る事は知って居る、余自ら怪美人と云う綽名を加えた程だから、
すると此の時、余の背後で、満場の人々に聞こえよがしに、大きな声をする者がある、それは浦原嬢だ、イヤ浦原嬢と許りでは読者に分るまい、例のお浦である、お浦の本姓は浦原と云い他人からは浦原嬢と呼ばれて居るのだ、浦原嬢は強いて此の怪美人の傍へ来るは見識に障ると思ったか
お浦の言い方は実に毒々しい、乙に言葉を
斯う軽く受け流されて浦原嬢は全く
叔父も非常に当惑の様子、余も捨て置き難い事に思い、お浦を取り鎭めようとすると、物慣れた当家の夫人がお浦を抱いて、宛で、小供を取り扱う様に「貴女は未だ幼い時から我儘に育った癖がお失せ成さらぬから了ません、第一其の様に人を疑う者ではなく、疑ったとて此の様な所で口に出す者では有りません、口に出せば自分の方が恥ずかしい思いをするに極って居ますよ、殊に松谷さんは「秘書官」の著者でも有り立派な紹介を以て此の国へ来た方ですもの」此の当然な戒めに少しは合点が行ったか「ハイ私が悪う御座いました、相手は下女の癖に大勢の人様に、全くの令嬢だと思わせる様に智慧に逞しい女ですもの私一人の力に余るは知れた事です、爾と気附かずに相手にして此の様な目に逢ったは全く私が馬鹿な為です」と何処までも怪美人を下女にして仕まって憤々と怒ッて此の室を出た。
余は松谷秀子にも済まぬが兎も角お浦を捨て置く訳に行かぬから引き続いて室を出たが、見るとお浦は当家の夫人に送られて、慰められつつ自分に
其のうちに客も一人二人と次第に退き去り、全く残り少なと為って愈々会も終りになった、秀子は曲を終って降りて来たが、第一に余の傍へ来て「本統に私は浦原嬢にアノ様に立腹させて済みませんでした、直ぐに私も自分の室へ退こうと思いましたが皆様が夫では猶更本統の喧嘩らしくなるとて達ってお留め成さる者ですから」余「イエ何も貴女が済まぬなど仰有る事はありません、全くお浦が貴女へアノ様な無礼な言い掛りをしたのですよ」秀子「此の様な時は虎井夫人でも居て呉れますと又何とか皆様へお詫びをして呉れますのに」余は此の言葉を聞き、初めて虎井夫人の居ぬに気が附き「オヤあの夫人は何うしました」秀子「ハイ獣苑の虎が抜け出したと聞いて、若しも大事の狐猿を噛み殺されては成らぬと云い倫敦まで逃げて帰りました」
言って居る所へ給使の一人が何か書き附けの様な者を持って来て秀子に渡し「直ぐに御覧を願います」と言い捨て立ち去った、秀子は「誰が寄越したのだろう」と云って開き読んだが、余はチラと其の文字を見て確かにお浦が寄越したのだと知った、扨は男ならば決闘状の様な者では有るまいかと、此の様に思ううち秀子は読み終って立ち去ろうとする、余「お浦から呼びに寄越したのなら、何もお出なさるに及びません、私が貴女に代ってお浦に逢いましょう」秀子「イヽエ、自分で行かねば宜く有りません、益々我が身に暗い所でも有る様に思われましては」と、斯う云い捨て廊下へ出た、此の時叔父は外の紳士と何事をか話して居て秀子を送る様子も無いから、余は自分で送ろうと思い続いて廊下へ出た、実はお浦と秀子の間に又何の様な争いが有ろうかと多少は心配にも堪えぬのだ、爾して廊下へ出ると早や秀子はズット先に居て右の方へ曲ろうとして居る、其所まで行くと又既に先の方の階段の所まで行って、丁度其の階段の下に在る銃器室とて鉄砲ばかり置いて有る室の中へ這入って仕舞った、銃器室で面談とは奇妙だと思ううち、階段の影から女の姿が忍び出た、之はお浦だ、其の忍び出る様は宛も泥坊猫が物を盗みでもする時の姿の様に見えた、扨は続いて銃器室へ這入るのかと思って居るうちお浦は這入りはせず、外から銃器室の戸へ錠を卸した、オヤオヤお浦は怪美人を銃器室へ閉じ込めたのだ、何の為だか少しも分らぬ、余は足を早めて其の所へ行ったが此のときお浦は早や階段の中程より上まで登り、其所から銃器室の窓を
余は何れほど驚いたかは、読者自ら此の時の余の地位に成り代わって考えれば分るだろう、此の時の驚きは到底筆や口に盡す事は出来ぬ。読者銘々の想像に任せるより外はない。
真に咄嗟の間では有るけれど余が心は四方八方に駈け廻った、第一お浦の邪慳なのに驚いた、如何に腹が立ったにもせよ人を虎穴も同様な所へ欺き入れ、爾して外から錠を卸して立ち去るとは何事だろう、余はお浦を斯くまでも邪慳な女とは思わなんだが実に愛想が盡きて仕舞った。今まで
何とかとて何と仕様もないけれど、ないと捨て置く事は出来ぬ、余は必死と考えて、何うしても余自から虎と秀子との間へ飛び降り自分を秀子の身代りとして虎に噛ませ、爾して其の間に秀子を逃げさせる外はないと決心した、余の今瞰いて居る窓から、銃器室へ飛び降りるは左まで六ずかしいことでない、けれど飛び降りると、虎と秀子との間へは行かず、丁度虎の背後へ落ちる事になる、併し夫も好かろう、虎は自分の背後へ急に何者か落ちて来たを知り、驚いて振り向くに違いない。振り向いて何うするだろう、直ちに余を取って押えて噛み殺すが一つ、驚いて元自分の這入って来た窓から逃げ出すが一つだ、若し逃げ出すとせば此の上もない幸いよ、丁度虎の這入って来たと思われる窓は、秀子の這入って来た入口と相対し、庭の方に開け放しに成って居る、虎が立ち去る気に成れば、何時でも立ち去ることは出来るのだ、唯少し工合の悪い事は、其の窓から立ち去るには、背後に落ちた余の身体を踏み越して行かねばならぬ、虎が少しも余を害せずに穏かに踏み越して行く様な事をするだろうか、少々覚束無いけれど仕方がない、運を天に任せて遣って見るのサ。
余が此の通り決心したのは少しの間だ、話すには長く掛かるけれど、実際は二分とは経って居ぬ、余は何事も決心すると同時に実行する流儀ゆえ、思案の定まるが否や直ぐに窓の横木へ手を掛けて足から先へ虎の背後の方へブラ下り、自分の身を真直ぐに垂れて置いて爾して手を離し、丁度虎の背後へドシリと大きな音をさせて落ちた、兼ねて余は体操に熟達して居る故、是しきの事は訳も無く不断ならば下へ落ちて倒れもせずに其のまま立って居る所だのに、此の時は余ほど心が騒いで居たと見え、落ちると共にと横様に倒れて仕舞った、今まで泰然自若として虎と睨み合っていた松谷秀子も是には痛く驚いたと見え、声を立てて打ち叫んだ、何でも「アレ丸部様」と云った様で有った、併し其の声と殆ど同時に虎は早や余の上へ傘の様に被さって来た、余は殺されても仕方がないと断念めては居る者の、何の抵抗もせずに
誰が虎を射殺して呉れただろう其の人こそは実に余が命の親だ。
全体余は、単に怪美人の危急を救い度い一心で自分の力をも計らずに此の室へ飛び込んだ者の、思えば乱暴極った話で、如何に腕力が強くとも赤手空拳で虎を制する事の出来る筈がない、若し此の通り虎を射殺して呉れる人がなかったなら、余は唯自分が殺されるのみでない、怪美人秀子までも虎に遣られて、余の助け度く思う本来の念願も届かぬ所だ、爾すれば今此の虎を射留めて呉れた人は秀子に対しても命の親だ、イヤイヤ斯う云う中にも秀子は実際何うしただろう、果して助かって居るか知らんと、余は起き上って見廻したが、直ぐに我が目の前に、鉄砲を手に持ったまま立って居るは確かに秀子だ、余は呆れて一語をも発し得ぬ間に、秀子は落ち着いた声で「オヽ貴方はお怪我がなかったのですか、万一にも貴方を射ては為らぬと私は深く心配しましたが」と、早や鉄砲を一方の卓子の上に置き、介抱でも仕ようと云う面持で余の傍へ寄って来る、嗚呼余は怪美人を助ける積りで却って怪美人に助けられた、扨は余が命の親は此の美人で有ったかと思えば憎うはない、余「実に貴女の落ち付いて居らっしゃるには驚きました、全く其のお蔭で私は助かりました」怪美人は頬笑みて「貴方は私を助けて下さる為に、アノ窓から飛び込んだのでしょう」余「ハイそうでは有りますが、迚も私の力で虎を退治する事は出来ず、反対に貴女に助けて戴いたのは」怪美人「イヽエ、全く私が貴方に助けられたのです。私は此の室に這入って初めて虎の居るのに気の附いたとき、射殺すより外はないと思いましたが、若し遽てて鉄砲を取り上ぐれば虎が悟って直ぐに飛び附くだろうと思い、何うかして虎が少しの間でも他の方角へ振り向く時は有るまいかと唯夫を待って居たのです、或る旅行家の話に何でも猛獣に出会ったとき少しでも恐れを示しては到底助からず、極静かに大胆に先の眼を睨み附けて居れば先も容易に飛び附く事は出来ず、ジッと此方の様子を伺って居る者だと兼ねて聞いて居ましたから私は其の通りにして居たら、貴方が飛び込んで下さって、虎が貴方へ振り向きましたから夫で初めて鉄砲を取り上げる隙が出来たのです、取り上げてからは、モッと早く射る事も出来ましたけれど何でも急所を狙って一発で射留めねば成らぬと思い、夫に若し誤って貴方を射てはと、充分に狙いを附けた者ですから」余「イヤ夫にしても能く
此の時鉄砲の音に驚き、此の室へ駆け附けた人は多勢有った、其の真先に立つは此の家の主人で、外から此の室の戸を
客一同も口々に「何うして一発や二発で射殺しました」「何うして虎を見附けました」「虎は何だって此の室へ這入って居ました」など、宛も余と秀子とが虎の心まで知って居る様に問う者さえ有ったけれど、秀子は敢て浦原お浦に疑いの掛るを好まぬと見え、成る丈け事もなげに答えた故、客一同は虎が此の室で眠って居るのを余と秀子とが見附け忍び寄って射留めたのだと思って仕舞った、斯う思わせたのは全く秀子の力で、余は益々深く其の心栄の美しいに感心したが、客の中に唯一人心の底で聊か事情を疑った人が有る、夫は余の叔父だ、叔父は物静かでは有るけれど多年検事を勤めただけ、斯様な場合には幾分か当年の鋭い所が未だ残って居る、叔父「夫にしても此の室の戸へ外から錠を卸し爾して鍵まで見えなく成って居たのが聊か不審ではないか」と言いだした。
叔父の不審は成るほど
併し叔父自身は猶疑いの解けぬ様で、客一同が或いは虎の死骸を評し或いは松谷嬢の狙いを褒め或いは昼間より鉄砲を籠めて万一に備えて置いた主人男爵の注意を称するなど我れ先に
此の外には別に記すほどの事もなく此の夜は済んだ、翌朝余は早くに叔父の室へ機嫌伺いに行った、叔父は余よりも早く起きたと見え既に卓子に向い、宛も昔検事で居た頃、罪案を研究した様に、深く何事をか考え込んで居たが、余に振り向いて、言葉短かに「お浦を是へ呼んで来い」と云った。扨は早やお浦の仕業に気が附いたかと、少し驚きながら其の命に従ったが、何うだろうお浦は叔父よりも猶早く起きたと見え、今朝早々に荷物を纒め倫敦へ立ったとの事だ、風を喰って逃げたとは此の事だろうか。
余は直ぐに叔父へ其の旨を復命した、叔父は聞き終って別に驚きもせず前よりは更に
余は直ぐに倫敦へ帰ったが、お浦は早や茲でも荷物を引き纒めて出奔した後だ、唯余に一通の走り書きを残して有る「貴方が命を捨ててまで折角の私の計略を邪魔するとは驚き入り候、貴方がアノ女を何れほど愛するか又私を何れほど愛せぬかは明らかに分り候、勿論私も御存じの通り初めより貴方を愛する心はなく、唯丸部家の相続が全く他人に渡るを惜しみ貴方と夫婦約束をなせしまでゆえ、今は約束を取り消して綺麗に他人となり互いに誰と婚礼するも自由自在の身に帰る可く候。愛無くして夫婦と為らば末は互いに妨げ合いて不愉快に終ること既に昨夜までの事にて思い知られ候、私は根西夫人に従い今日出発して大陸へ旅立ち、貴方が私に分れて如何に淋しきかを思い知る頃帰り来る可く候、私の留守中にあの仲働が叔父様を(併せて貴方を)
余は「何の小癪な」と嘲笑ったが、兎に角お浦から夫婦約束を解かれて自由自在の身と為ったのが嬉しい、此の後は最う何れほど秀子を恋慕い、縦しや夫婦約束を仕たとても差し支えは無い、斯う思って重い荷物を解き捨てた様な気がしたが併し自分の仕合せを喜んでのみ居る場合で無い、兎に角お浦に逢わねばと直ぐに兼ねて知る根西夫人と云う人の許を尋ねたが間の悪い時は悪い者で、一歩違いに行違い、追い掛けて行く先々で毎もお浦の立った後へ行って、到頭一日無駄に暮した、勿論叔父には其の旨を電報した、爾して翌日も日の暮まで馳せ廻ったが逢う事は出来ず、三日目にはドバの港まで追い掛けたが是も一船先にお浦と根西夫人との一行が立った後で有った、落胆して倫敦の叔父の家まで帰って見ると、叔父からは「最う来るには及ばぬ、己は近日帰る」と云う電報が来て居る、来るには及ばぬとは何事ぞ。人に之ほどの苦労を掛けて、扨は余の便を待たずに怪美人へは充分に詫びをして其の心を解く事が出来たと見える、爾すれば最う倫敦へ帰る筈だのに近日帰るとは是も何事ぞ、扨は、扨は、怪美人松谷秀子と分るるに忍びずして便々と日を送る気か。事に由ると是はお浦の手紙に在る事が当るか知らんなど、余は気が揉めて成らぬけれど、来るに及ばぬと明らかに制して来たのを、押し掛けて行く事も出来ず、身を掻きむしる程の思いで控えて居ると二日、三日、四日を経って、叔父はニコニコ者で帰って来た、帰って来て直ぐに余を一室へ呼び、今迄の陰気な顔を、見違える程若返らせて「コレ道九郎、其の方に祝して貰わねば成らぬ事が有る、何しろ目出度いよ」余は
「何時御婚礼を為されます」との余の問いに、叔父は甚く驚いた様子で「其の方は何を云うのだ婚礼などと」余は怪訝に思い「松谷秀子と貴方の御婚礼は」叔父「アハヽ是は可笑しい、其の方は五十に余った己が再び婚礼すると思うのか、爾ではないよ、松谷秀子を己の養女にするのだよ」斯う聞いては実に極りが悪い、極りは悪いが併し嬉しい、彼の秀子が此の叔父の養女として永く此の家に、余と一緒に棲む事と為れば、其のうちに又何の様な好い風の吹くまい者でもない。
叔父は猶説明して「己は直ぐにも披露し度いけれど、当人の望みに由り、愈々幽霊塔の修繕が出来上り己が引き移って転居祝いの宴会を開く時に、一緒に養女の披露をする。夫まで秀子は今まで通り此の土地の宿屋に居て日々此の家へ来る筈だ」余「何しに来ます」叔父「己の書き物などを手伝いに来るのサ実は朝倉家に居る間も手紙の代筆などを頼んで見たが流石『秘書官』の著者だけに、己が在官中に使って居た書記よりも筆蹟文章ともに旨い。是から日々此の家へ来て幽霊塔の修繕に就いての考案などを己と相談し其の傍ら己の書斎をも整理して呉れる筈だ、其の様な事柄には仲々面白い意見を持って居るよ、己は先ア娘兼帯の秘書官を得た様な者だ」と云い、更に思い出した様に「シタがお浦は何うした」と問うた。余はお浦が根西夫人と共に外国へ行った一部始終を告げ、
話の
小供の説き出した所に由ると、幽霊塔から僅かに七八丁離れた所に、草花を作って細々に暮して居るお皺婆と云う寡婦が有る、其の家は
此ののち秀子は毎日又――一日置きほどに此の家へ来た、多くは虎井夫人が附いて居る、偶には一人の時も有る、叔父とは既に養父養女の約束が出来て居るから親密なは当り前だが、余とも仲々親密に成った、彼の虎殺しの一条から余は秀子を命の親と思い、イヤ余の方は何うでも好い、虎殺しがなくとも何がなくとも秀子を命の親と思う、秀子が顔を見せて呉れねば余の命は長く続かぬ、秀子も自ら余の為に助かった様に思う、殊に余が一身の危険をも構わずに虎の背後に飛び降りた心意気を深く喜び、此の後とても余にさえ縋って居れば何の様な敵をも防いで呉れると思って居るらしい、余は実に有難くて耐えられぬ、勿論何の様な敵だとて防いで遣る、遣るは遣るが余も其の防いで遣る可き権利の有る身分に早く成り度い、敵に向って「何故己の妻でも何でもない女を
先ず此の様な様で幾月をか経たが其のうちに幽霊塔の大修繕が出来上り、愈々引き移って、茲に転居の祝いと秀子を養女に仕た披露とを兼ね宴会を開く事に成った、叔父は一方ならぬ喜びで、最う恨みだの悲しみだのと云う事は一切忘れ、成る丈世を広く、余命を面白く送ると云い、朋友は勿論、是まで疎遠に成って居る人や多少の恨みの有る人にまで招状を発し、来る者は拒まずと云う珍しい開放主義を取った、余は今まで幽霊塔、幽霊塔と世人から薄気味悪く思われた屋敷が斯くも
ブラブラと歩み、幽霊塔の間近まで行くと聊か余の注意を引いた事がある。幽霊塔には隣と云う可き家がない、一番近い人家は、小さい別荘風の建物で、土地の人が
けれど取り糺す訳に行かぬから余は其のまま去って幽霊塔まで行ったが、前に見た時とは大違い、手入れ一つで斯うも立派に成る者かと怪しまるる程に、塔の年齢が三四代若返って居る、殊に屋敷の周囲に在る生垣などは、乱雑に生え茂って垣の形のない程に廃れて居たのが、今は綺麗に刈り込んで結び直し、恐らく英国中に是ほど趣きの有る生垣は有るまいと自慢じゃないが思われる、余は内よりも先に外の有様を検め度いと思い、生垣に添うて一廻り巡って、終に裏庭から堀端へ出て土堤を上った、土堤を猶も伝うて行くと、読者の知っての通り、お紺婆を殺して牢死した殺人女輪田夏子の墓が有る、先に怪美人が此の墓に詣でたのを見て余は非常に怪しんだが、今度も亦詣でて居る人が有る、イヤ詣でたか詣でぬかは知らぬが、様子有りげに墓の前にたたずんで居るが、此の人は女でない。三十四五歳に見ゆる立派な紳士だ。
余の足音を聞き、悪い所を見られたとでも思ったか素知らぬ顔で立ち去ろうとする、勿論余は引き留める事も出来ぬが、何うか其の顔を見たいと思い、顔の見える方へ足を早めた。先は真逆に逃げ走る訳にも行くまい、墓より少し離れた所で三間ほど隔てて余と顔を合わせたが、余は最早此の後十年を経て此の人を人込の中で見るとも決して見違える恐れはない、別に異様な顔ではないけれど、妙に妙に、ノッペリして、宛かも女子供に大騒ぎせられる
余は何うも鳥巣庵の事が気に掛かる、誰が借りたで有ろう、何故に借りたで有ろう、彼の窓から余を瞰いた女は誰で有ろう、爾して彼の家に住む一人が殺人女の墓を見て居たのは何の為で有ろう。
其のうちに宴会の時刻と為った。叔父は此の前日に数名の
所天で無くて差し図するとは聊か怪しいけれど未だ未来の所天が定まらぬとは何よりも安心だ、余は我知らず笑顔と為って、今疑った詫びを述べようとして居ると、此の所へ遽ただしく虎井夫人が遣って来た、夫人はいきなり秀子の手を取り「大変ですよ、あの人達が来ましたよ、早くお逃げなさい、サア早く」と秀子を引き立て、殆ど悔しそうに「茲まで漕ぎ着けて彼の人に逢うとは実に残念です」何の事やら余には少しも分らぬが、早く逃げよとは尋常の事では無い、虎井夫人は秀子が急に逃げようともせぬを
お浦は全く秀子に対し戦争の仕直しに遣って来たのに違い無い、前の戦争は秀子を虎の顋に推し附け充分の勝利と云う間際で失敗した、今度は高輪田長三と云う恐る可き後押しを連れて居る、万に一つも失敗せぬ積りで有ろう。
成るほど、若しもお浦の疑う通り秀子を仲働き古山お酉とやらに化けた者とすれば、此の高輪田長三に一目見られたなら直ぐに看破される筈だ、夫にしてもお浦は何うして此の様な屈強な味方を得たで有ろう、後で聞けば、お浦が根西夫人と三ヶ月ほど旅行して居るうち偶然に伊太利の宿屋で懇意に成ったと云う事だ、道理で分った、お浦は先頃より頻りに叔父の所へ詫び手紙を寄越して居た、一刻も早く此の高輪田長三を連れて秀子の化の皮を
真逆にとは思うけれど余は何となく心配で寧そ叔父が何時迄もお浦の帰参を許さねば好かったのにと、今更残念だけれど仕方がない、お浦は余に反し最う全くの勝利が見えたと安心してか、充分落ち着いて居て、今迄の様に粗暴でない、真に貴婦人の如く、物静かだ、言葉も振舞いも一寸と奥底の計り難い所がある、猶も余に向い説き明す様に「此の高輪田さんは輪田お紺の養子ですから此の頃まで単に輪田長三と云ったのですが、養子になる前の姓が高田と云い、此の頃実家の相続をも兼ねてせねば成らぬ事と成った為、実家の姓と養家の姓とを合わせて高輪田と改めた相です。今夜は私の知って居る方へは大抵お引き合せ申す筈です」とて、言葉の中へ秀子にも引き合わせろと云う意味をこめて居るらしい、余は唯「爾ですか」と云うより上の言葉は出ぬ、お浦「爾して此の度根西さんが此の隣の鳥巣庵を借り、私も高輪田さんも、根西夫人が再び旅行に出る迄は一緒に居る筈ですから、此の後は最う隣同志で、毎日お目に掛られます」余は呆れて「アア根西夫妻が隣の家を借りましたか。分りました。先刻窓から私を見て急に姿を隠したのは浦原さん、貴女でしたネ」と極めて他人行儀に恭々しく云うた、お浦「爾です、彼処に居る事を知らさずに不意に来た方が貴方も叔父様もお喜びなさるだろうと思いましたから認められぬ様に姿を隠しましたのさ」旨く口実を設けるけれど、全くの所は秀子へ少しも覚らせずに出し抜けに来て看破すると云う計略の為で有ったに違いない、斯う云う中にもお浦は夫となく室中を見廻して居る、秀子は何処に居るだろうと夫とはなく捜して居るのだけれども秀子の姿は見えぬ、終には耐り兼ねたか「今夜は秀子さんにも逢ってお祝いを述べましょう、ナニ道さん、イヤ丸部さん、私は少しも秀子さんを恨みはしませんよ、元は私が此の家の娘分で、今は追い出されて、其の後を秀子さんが塞いだと云えば世間の人は定めし私が恨む様に思うかも知れませんが夫は邪推です、御存じの通り私は叔父に追い出されたのではなく、自分から出たのですもの、叔父の圧制に堪え兼ねて。夫ですから後へ養女の出来たのを寧そ嬉しいと思って居ます、ハイ全くです」と余に向って斯まで空々しく云うは余り甚い、恨みの満ち満ちた置き手紙を残して置いた癖に、最う夫さえ忘れたのかしらんと、余は之にも聊か呆れた、幼い頃は我儘でこそ有れ斯う嘘など云う女ではなかったのに、イヤイヤ人を欺いて虎の居る室へ追い込み、爾して外から戸の錠を卸して去る様な女だもの、偽りを云う位は何で不思議がある者か。
お浦は、夫となく再び問うた、「エ、丸部さん、今夜の女主人公は何処に居ます、松谷秀子さんは」余は止むを得ず「多分舞踏場に誰かと踊って居るのでしょう」お浦は思い出した様に「ドレ私も舞踏しましょう、サア高輪田さん」と云って、高輪田を引き立てる様にして舞踏室の方へ行こうとする、此の時丁度塔の上の時計が、一種無類の音を発して時の数を打ち始めた、何故だか知らぬけれど、高輪田は、此の音に、震い上る程に驚き、歩み掛けた足をも止め「ア十二時か知らん」と殆ど我知らずの様に呟いて其の数を指で
盆栽室は中に様々の仕切などが有って、密話密談には極々都合の好い所だ、舞踏室で舞踏が進む丈益々此の室へ休息に来る人が多くなる、中には茲で縁談の
此の様に思って再び盆栽室へ這入り、植木などの最も沢山に茂って居る所へ腰を卸し、
「ナニ運のつきと云う事は有りません、今まで物事が極めて好く運び、先ず思ったより寧ろ旨く行って居るでは有りませんか」と聊か慰める様に云うは全く権田時介だ、余は久しく彼の声を聞かぬけれど充分に覚えて居る、彼は猶語を継いで「私は寧ろ運が貴女を助けて居るのだと思いますが」秀子「運が助けて呉れるならどうして此の様な辛いことに成りましょう」権田「左様さ貴女の身の上も随分不思議は不思議ですネエ」秀子「ハイ是ほど
権田「ハイ紳士か紳士でないか知らぬが、有らゆる手を盡していけぬ時は私も恐迫も用います、腕力も用います」
争いは次第に荒々しく成って権田は終に秀子の手を捕えようとした様子だ、秀子は逃げる様に立って、丁度余の居る所へ馳せて来た、余は茲に潜んで居た事を知られ、秀子に紳士らしくないと思われるは辛いけれど最早立ち上らぬ訳に行かぬ、秀子を保護したい一心で、殆ど其の他の事は打ち忘れて秀子の前へ立ち上った、権田も秀子を追う様にして茲へ来た、
顔見合わせた三人の中、一番驚かなかったのは秀子である。一旦は驚いたが直ぐに鎮まり、宛も余の保護を請う様に余の蔭へ立ち寄った、実に女にしては珍しいほど胆の据った落ち着いた気質で有る、男にしても珍しかろう。
権田時介は殆ど譬え様の無いほど驚いた。暫くは無言で余の顔を見て居たが、頓て余と知るが否や、「ヤ、ヤ、丸部道九郎君」と云って途切れ「人もあろうに、丸部君が茲に居られたとは、エ、不注意過ぎました」と、非常に、余に立ち聴せられたのを悔む体だが、併し流石は男だ、愚痴も何にも云わずに庭の方へ立ち去った。
余は何う考えても権田と秀子の関係が分らぬ、夫婦約束などのない事は無論で有る、思い思われる仲ですらないのだ、イヤ権田の方は一生懸命に思って居るけれど秀子の方では何とも思って居ない、夫だのに秀子が一身の命令権を権田に与えて有るのは何の訳だろう、権田の秀子に迫ったのは恐迫と云えば恐迫で有るけれど、
秀子は余の蔭に寄り添うたを恥ずかしく思ったか、権田の立ち去ると共に身を退いて、舞踏室の方へ行こうとする、其の様子は余ほど打ち萎れて居る、余は其の前へ廻り「秀子さん、私は立ち聞きしたのでは有りません、私の居る所へ貴女と権田君とが来て、私は立ち去る機会を失ったのです」秀子は簡単に「ハイ貴方が立ち聞きの為に茲へ来たとは思いません」余「ですが秀子さん、貴女は今、男が無報酬で女を助ける事は出来まいかと此の様にお嘆き成さったが、他人は知らず此の丸部道九郎ばかりは全く兄と妹の様な清い心で、貴女を助け度いと思います、貴女の敵とか運の盡きとか云うのは何ですか、助ける事の出来る様に私へ打ち明けて下さらば」秀子「イイエ貴方では私を助ける事は出来ません、権田さんの外には私を助ける事の出来る人はないのです」余「でも権田は貴女の応じ得ぬ様な無理な報酬を迫るではありませんか、私ならば、貴女を妹と思って助けます、尤も何時までも妹と云う丈で満足する事は出来ぬかも知れませんけれど」秀子は打ち萎れた仲から異様に笑みて「オホホホ、妹と云う丈で満足の出来ぬ時が来るなら権田さんも同じ事です、生涯愛などを説かぬ男は此の世にないと
けれど余は猶も後に随って行ったが、秀子は愈々舞踏室へ歩み入った、果せる哉だ、第一に秀子の前へ遣って来たのはお浦だ。大敵――だろうと余の鑑定する――高輪田長三も一緒である、余の叔父も附き添って居る、秀子は高輪田長三に逢うのを覚悟の上で茲へ来たのか、夫とも長三に逢いは仕まいと油断しての事だろうか、或いは又逢って見破られるなら夫までと絶望の余り度胸を据えての事だろうか、余は心配に堪えられぬ、若し秀子が実は古山お酉で、茲で高輪田に見破られる様なら、全く姿を変じて人を欺くと云う者で、女詐偽師も同様だから少しも憐れむには及ばぬとは云う様な者の、夫でも何だか気懸りに堪えられぬ、若しも高輪田長三の口から無礼な言葉でも出ようなら一語をも終らぬ中に彼を叩き殺して呉れようか知らんと、余は此の様にまで思って一歩も去らずに秀子の傍に附いて居る。
叔父が先ず秀子に向って「実は是なるお浦が是非とも
後で考えるに、人の
仮面ではないが此の時の秀子の顔は何となく人間以上に見えた、殆ど凄い程の処がある、と云うて別に当人が、強いて顔の様子を作って居る訳でもなく、少し高輪田を怪しむ様は見えるけれど其の外は唯平気に静かなのだ、其の平気な静かな所に一種の凄味が有るから妙だ、余は此の時高輪田の顔をも見た、彼は同様な心を以て秀子の顔を見て居るだろう。
彼の顔は前にも云った通り、男としては珍しいほど滑らかで、余り波瀾の現われぬ質では有るがそれでも初めて秀子の顔を見た時には確かに彼の顔に一種の悪意が浮動した、何でも彼は兼ねてお浦から、此の秀子は古山お酉に違いないと云われて、全くお酉に逢う事とのみ思い詰め、己れ面の皮を引剥いて遣ろうと楽しんで遣って来たに違いない、爾なくば顔に斯う悪意の浮動する筈がない、所が彼は一目見て痛く驚いた、悪意は消えて寧ろ恐れと云う様な色になった、何でも人違いと覚ったが為らしい、併し彼仲々根強い気質と見え、
余も心配だが、余よりもお浦に至っては殆ど必死だ、高輪田よりも猶一層眼を輝かせる、と云う事は到底人間の目には出来ぬけれど、若し出来る者とすれば、必ず高輪田よりも猶強く輝かせる所で有ろう、余の叔父も何だか対面の様子が変だから少し怪しみ掛けたのか怪訝な顔をして居る、中で一番平気、一番何ともない様なのは秀子だ、秀子は最早高輪田が充分顔を見盡くしたかと思う頃、静かに口を開き「私は何も合点が行きませぬ、私の昔の友達と仰有った様に思いますが、幾等考えても分りません、多分私がお見忘れ申したのでしょう、失礼ですが何処でお目に掛りましたかネエ」とあどけなく問うた、高輪田は何と返事する言葉さえ知らぬ様子だ「左様です、私も、何うも、イヤ何とも、考えが附きません」秀子「夫に私は高輪田さんと仰有る御苗字さえ今聞くが初めての様に思いますが」
余は全くホッと息した、秀子は此の恐ろしい試験、イヤ当人は恐ろしくも有るまいが、余の心には非常に恐ろしく感じた、此の大試験も苦もなく通り越したと云う者だ、お浦の疑う様な仲働きでない、古山お酉でない、姿を変えて人を欺く女詐偽師ではない、幽霊塔の前の持主たる高輪田長三さえ見た事のない全くの松谷秀子だ、米国で政治家の秘書を勤めて居た事も確か立派な書籍を著わしたことさえも確かだから、無論良家の処女である、夫を疑ったお浦も無理だ、一時たりとも此の試験に落第するかの様に心配した余とても余り秀子に対して無礼すぎた。
古い事を説く様では有るが、聞く所に由ると此の高輪田長三は幼い頃からお紺殺しの夏子と云う女と共にお紺婆に育てられた男で、お紺婆の心では夏子と夫婦にする積りで有ったのだ、所が何う云う訳か物心の附く頃から夏子が長三を嫌い、何うしても婚礼するとは云わぬ、婆は色々と夏子の機嫌を取り、遂に夏子を自分の相続人と定め、遺言状へ自分の財産一切を夏子の物にすると書き入れた相だ、夏子は大層有難がって婆には孝行を盡したけれど長三を嫌う事は依然として直らぬ、長三は婆が自分を相続人とせぬのを痛く立腹し、是から道楽を初めて果ては家を飛び出し倫敦へ行ったまま帰らぬ事に成った、婆は余ほど夏子を大事にして居た者と見え、長三が家出の後でも猶夏子を
是だけが余の知って居る長三の履歴である、けれど此の様な事は何うでも好い、話の本筋に立ち返ろう。
高輪田と秀子とが全く見知らぬ人と分ったに付いてお浦の失望は見物で有ったけれど、流石はお浦だ、何うやら斯うやら胡魔化して秀子に向い「オヤ爾ですか、夫にしても高輪田さんは此の屋敷の前の持主で塔の事など能く知って居ますから必ず貴女とお話が合いましょう、是から何うかお互いに昔なじみも同様に、サア高輪田さん秀子さんと握手して御懇意をお願い成さい、ネエ秀子さん、ネエ叔父さん、爾して下さらねば私が余り極りが悪いでは有りませんか」と極めて外交的に場合を繕った、高輪田は声に応じて手を差し延べた、秀子も厭々ながらこの様に手を出したが、高輪田の手に障るや否や、宛も
秀子と長三との対面が、兎も角も秀子の勝利となって終ったは嬉しい、けれど余は何となく気遣わしい、猶何所にか禍の種が残って居はせぬか、再び何か不愉快な事が起りはせぬかと、此の様な気がしてならぬ、其の心持は宛も、少し風が
此の気遣いは当ったにも、当ったにも、実に当り過ぎるほど当った、読む人も後に到れば、成るほど当り様が余り甚すぎると驚くときが有るだろう、併し夫は余程後の事だ。
此の夜は事もなく済み、客一同も「非常の盛会であった」の「充分歓を盡した」のと世辞を述べて二時頃から帰り始めた、余も頓て寝床に就く事になった。
寝床と云うは、彼のお紺婆の殺された塔の四階だ、時計室の直ぐ下の室である、余自ら好みはせぬが秀子の勧めで此の室を余の室にし、造作なども及ぶだけは取り替えて何うやら斯うやら紳士の
が余は幽霊などを信じ得ぬ教育を受けた男ゆえ、自分の目の所為とは思ったけれど念の為
茲で一寸と此の室の大体を云って置きたい、此の室は塔の半腹に在るので、昇り降りの人が此の室へ這入るに及ばぬ様に室の四方が四方とも廊下に成って居る、塔の中でなくば恐らく此の様な室はない、けれど四方のうち一方だけは何時の頃直した者か物置きの様にして此の室で使う可き雑な道具を置く事に成って居る、此の様な作りだから今の物音が壁の外か壁の内かは余に判断が付かぬ、余は又も燐燧を摺り、今度は新しい蝋燭へ
余は蝋燭を手に持ち、寝台、読書室、談話室と三つに仕切ってある其の三つとも隈なく廻ったが、室の中には異状はない、壁の
爾して廊下へ出、窓を開くと最う夜が明け掛けて居る、何者の血で有るか、真にお紺婆の幽霊が出たのか、
誰ぞと怪しむ迄もなく其の姿の
余は彼が足を踏み直すを待ち、砕けるほどに彼の手を握った、秀子は真実に有り難そうに余の顔を見て「此の方は昨夜初めて逢った許りだのに、護衛のない女と見て実に無礼な事を成されます」長三も余に向い「イヤ別に無礼と云うでは有りませんが、少し合点の行かぬ事が有って見極め度いと思いまして」余「夫が無礼と云う者です、私の眼の前で、此の令嬢にお謝し成さい」長「ハイ貴方には謝しますが、此の令嬢には――篤と見届けて疑いの晴れた上で無ければ」余「謝さねば私が相手ですよ」と云って余は益々堅く彼の手を握り緊めた、彼は少し立腹の体で有ったが此の様な優さ男、素より余の力に敵し得る筈はない、夫でも勇気ある男なら真逆に黙して止む事は出来まいに、彼は存外臆病な男と見え「イヤ、貴方が爾までに仰有れば謝しますよ、謝しますよ」とて秀子に向い「実に無礼を致しました、何うか此の場限りにして下さる様、
余は秀子の手を取って、慰さめ慰さめ家の方へ帰ろうとした、若し是が余でなくて叔父だったら秀子は必ず昨夜の様に取り縋って泣き、顔を余の胸へ隠すだろう、真に泣き出しそうな顔をして居る、けれども真逆に余に縋り附く訳に行かぬ、唯手を引かれたまま首を垂れて居る、余は実に断腸の思いだ、憐みの心が胸一ぱいに湧き起った、殆ど我れ知らずに片手で秀子の背を撫で「秀子さん貴女は迚も独りでは此の様な敵に
若し公平に考えたら、秀子の身には定めし怪しむ可き所が多かろう、密旨などと云うも分らず、夏子の墓へ参るも分らず、高輪田長三から異様に疑われて居る其の仔細も分らぬ、併し余は少しも疑わぬ、第一秀子の美しい顔が余の目には深く浸み込んで居る。決して人に疑われる様な暗い心を持った女でない、成るほど自分で云う通り何か密旨は帯びて居るだろうよ、併し人を害する様な
斯う思うと唯可哀相だ、女の身で兎も角も密旨の為に働き「何の様な目に逢って此の世を去るかも知れぬ」とまで覚悟して居るとは
余は此の様に思いつつ秀子を家の内へ送り入れた、頓て朝
余は何うも秀子の云う事が充分には合点行かぬ、アノ咒語に解釈の出来るほどの確かな意味が籠めて居ようとも思わず、縦し解釈した所で此の家の為になる事もなかろう、従って他人に解釈せられた所で爾まで害にも成りはしまいと唯之ぐらいに思う丈だ、秀子「誰が盗んだか、実に分りませんよ、若し昨夜変った事でも有りはしませんでしたか――」余「イエ別に――」と言い掛けたが忽ち思い出して、「ナニ大変な事が有りました」とて幽霊の一部始終を語った、秀子は直ぐに合点して「其の幽霊が
成るほど爾だ、少しも疑う所はない、余「イヤ貴女の眼力には感心です」秀子「イエ眼力ではなく、熱心です、熱心に心配して居る者ですから此の様な考えが附くのです、けれど丸部さん、貴方が此の室を退きさえすれば幽霊は必ず毎夜の様に此の塔へ上って来て私の手帳に引き合せて此の塔を研究します、貴方は此の室を空けては可ませんよ」余「併し恐れた振りをして誘き寄せ爾して捕えるのも一策では有りませんか」秀子「イイエ夫は非常に危険です。最う一夜でも其の幽霊を再び此の塔へ上らせたら何の様な事をせられるかも知れません」と云って少し考え、考え「貴方が、若しお厭なら、貴方は下の室へお
盗人が幽霊の真似をするとは全く例のない事ではない、余は誰かの話に聞いた、併し実際
夫にしても其の盗坊は誰であろう、昨夜此の家へ泊った客は随分あるけれど、それは皆紳士貴婦人とも云う可きで、仲には品行の宜しくない人も有りは仕ようが、真逆に盗坊をする様な人はない、爾すれば此の盗坊は外から這入ったので有ろうか、イヤ其の様な形跡も見えぬ、実に不思議千万な事だ、余は猶も秀子に向い「若しも心当りはないのか」と繰り返して問うたが、秀子の様子では何だか腹の中で誰かを疑って居るらしい、けれど口には発せぬ、口では唯、少しも心当りがないと云って居る。
此の後余は秀子へ約束した通り、誰をも塔の上へ揚げぬ事にし、自分は番人に成った積りで成る可く此の室を離れぬ様に勉めた、其の為再び幽霊らしい者は出なんだ。
併し幽霊の出るよりも猶厭な猶恐ろしい事は沢山あった、先ず順を追って話して行こう。
此の日の夕暮、余は日頃見知らぬ一紳士が此の家へ這入って来るのを見た、取り次の者に聞いて見ると此の土地の医者だと云う事、成るほど後には多少懇意に成ったが全くの医者であった、何の為に迎えられたと問えば、秀子の附添人虎井夫人が病気だと云う事だ、そう聞けば昼飯の席へも虎井夫人は見えなんだ。晩餐の時に至り夫人は出て来たが顔の色が何となく引き立たぬ、余は其の傍に行き「御病気だと聞きましたが、如何です」と問うた、夫人は少し怪しむ様に余の顔を見て「病気だなどと誰が、云いました」余「でも先ほど此の村の医師が来たでは有りませんか」夫人「そう知れては仕方が有りません、余り極りの悪い話で、誰にも隠して居ましたが、病気ではなく怪我ですよ、アノ狐猿に甚く手先を引っ掻れました。自分の飼って居る者に傷つけられるとは年甲斐もなく余り不注意ですから」余「併し相手が是非の
是から数日の間、夫人は一室へ籠った儘だ、何でも狐猿の爪の毒に
嫌な仕事だとは思ったが、一旦男が承知した事だから
郵便に差し出して家に帰ると又も廊下で彼の医者に逢った、余は一礼して「先生、何うも狐猿の毒は恐ろしい者ですネエ」医者は合点の行かぬ顔で「エ、狐猿とは」余「貴方に掛かって居ます虎井夫人の怪我の事です」医者「アア、あれですか、あれは何でも古釘で引っ掻いた者です、錆びた
若し此の翌日、恐ろしい一事件が起らなんだら、余は必ず養蟲園へ行き、穴川甚蔵と云う者が何の様な男かを見届けた上で少しでも怪しむ可き所があれば、第一に秀子に話して虎井夫人が此の甚蔵に送った小包が果して秀子の盗まれた手帳であるや否や究めねばならぬ。
併し養蟲園へ行く前に、一応調べて見たいのは狐猿の爪に果して毒があるや否やの一条だ、若し毒が有って、之に引っ掻れたなら古釘で傷つけられたと同様の害を為すと云う事でも分れば、虎井夫人に対する余の疑いは大いに弱くなる。
余の書斎には斯る事を調べる丈の参考書はないけれど当丸部家の書斎には必ずある、尤も引越々で未だ書斎は整理して居ぬ、けれど其の室だけは
余が此の室へ入ろうとする時、室の中に人声が有って、戸を開くと、同時に、余の耳へ「ナニ私の心を疑う事は有りませんよ、安心の者ですよ」との言葉が聞こえ、一方の窓の外から庭へ走り去る人の姿がチラリと見えた、少し怪しんで中へ入ると窓に
余「シタが、私に逢いに来たと云う其の御用事は」お浦「折入ってお詫びに来たのです、先ア其の様な恐い顔をせずと、何うか憐れと思ってお聞き下さい」と余ほど打ち萎れた様で余を一方の隅へ連れ行きて腰を卸させ、自分も坐を占めて、直ちに余の両手を握り「済みませんが道さん、何うぞ昔の約束に返って下さい」余「エ、昔の約束とは」お浦「貴方と私は末は夫婦と云う約束で育てられたでは有りませんか」余が驚いて只一言に断ろうとするを推し留め「先ア否だなどと仰有らずに聞いて下さい。少しも貴方を愛せぬなどと言い切って私はアノ約束を取り消し、爾して外国へ立ち去りましたけれど、アレは貴方が素性も知れぬ松谷秀子に心を寄せて居る様に思いましたから嫉妬の余りに云うた事です、外国へ行って居ると益々貴方が恋しくなり、今では後悔に堪えません、夫に此の家の養女で居る時は、何処へ出ても人から大騒ぎをせられましたが、今では誰も構い附けて呉れず、実に残念に堪えません、今までは我儘ばかりでお気に入らぬ事も有りましたろうが、是からは心を入替え、貴方の為ばかりを考えますから、何うぞアノ約束の取り消しを取り消して下さいな、ネエ、道さん」と余の顔を差し窺いたが、余は余りズウズウしいに呆れ、容易には返辞も出ぬ、お浦「道さん、お返事は出来ませんか」余「イエ返事は出来ますけれど貴女の望む様な返事は出来ません」お浦は恨めしげに「私は、斯まで貴方に嫌われる様な厭な女でしょうかネエ、あの高輪田さんなどは、私の外に女はない様に云い
余は何故に、何者に、斯くは刺されたのであろう、是既に容易ならぬ疑問であるが、是よりも猶怪しいは余が
曾て或る書物で読んだ事がある、印度の或る部落に住む土人が妙な草の葉を
併し余は耳も聞こえる、心も全く確かである、誰か来て助けて呉れれば好いと只管心に祈って居ると、次の室へ誰だか庭の方から這入って来た、直ぐ話声で分ったがお浦と秀子と二人である、何の為に来たのであろう、それも二人の話で分る、秀子「浦原さん、貴女は道九郎さんがお出でだと仰有ったが、茲には見えぬでは有りませんか」お浦「確かに居ましたが、何所へか行きましたか」秀子「貴女は道九郎さんの前で私に話したい事があると仰有ったけれど、アノ方がお出でなければ其のお話とやらも出来ますまい」と、云って秀子は立ち去ろうとする様子だ、お浦「イイエ、お待ちなさい、道九郎さんが居なくとも話して置きましょう」秀子「何のお話か知りませんが成る可く言葉短かに願います」
双方何となく殺気を帯びて居る、お浦「ハイ言葉短かに言いますが、私と道さんとが、夫婦になる筈であったのを御存じでしょう」秀子「道さんとは道九郎さんの事ですか、夫ならばハイ聞いて知って居ます」お浦「貴女が其の仲を割いたのは実に――」秀子「怪しからぬ事を仰有る」お浦「イエ、貴女が御自分で道さんの妻になり度い為道さんを迷わせたのは私共の仲を割いたも同じ事です」秀子「私は道九郎さんの妻になり度いなどと其の様な心を起した事は有りません、殊にアノ方を迷わせるなどと余り甚いお疑いです」
お浦「夫なら貴女は道さんの前へ出て「丸部さん決して貴方の妻に成る事は出来ません」と言い切りますか」秀子「ハイ言い切ります、けれどアノ方が私へ妻に成れとも何とも仰有らぬに、私から其の様な事を云うとは余り可笑しいでは有りませんか」お浦「唯云えば可笑しいでしょうが私と一緒に道さんの前へ行き、爾して私が道さんに「貴方は此の婦人をゆくゆくは妻にするお積りですか」と問いますから、道さんが何と返事するかに拘わらず貴女が其所で断われば好いのです」秀子「貴女の仰有る事は、罪人をでも取り扱う様な風で、常ならば私は決して応ずる事は出来ませんが、唯貴女が根もない嫉妬を起し、爾して様々の邪推をお廻し成さるのがお気の毒ですからお言葉に従いましょう」お浦「爾して道さんに向い、猶私の肩を持って『是非此の方と元の通り夫婦の約束にお立ち帰り成さい』と勧めて呉ねば可ませんよ」秀子は少し笑いを催した様子で「ハイ」と答えた、お浦「夫だけでは未だいけません、貴女は私が此の家の娘分で有った事も御存じでしょう」秀子「ハイ、夫も聞いて知っています」お浦「夫だのに私の追い出された後へ貴女が更に娘分と為ったのですから、是も辞退して貰わねばなりません」秀子「エエ」お浦「イイエ矢張り叔父に向い『最う此の家の娘分で居る事は出来ません』と言い切って、爾して此の家を立ち去らねば了ません、貴女さえ立ち去れば自然と私が元の通り此の家の娘分と云う地位へ
お浦「イエ、有ります、顔などは何うでも好い、貴女の素性が――」秀子「私の素性を御存じも成さらずに、矢張り古山お酉と云う以前の此の家の奉公人だと仰有るのですか、猶篤と高輪田さんとやらに見究めて戴くがお宜しいでしょう」お浦「ハイ高輪田さんはお紺婆の殺される頃まで仲働きお酉や養女お夏などと一緒に此の家に居たのですが、不幸にして貴女を見破る事が出来なんだのです、けれど貴女の身に就いて、猶恐ろしい疑いを抱き、貴女の左の手を包んで居る其の異様な手袋を取りさえすれば必ず分ると云って居ます、ナニ高輪田さんより私が見究めて上げますよ」と云って、余の察する所では、出し抜けに秀子の左の手へ飛び附き、手首を捕えて其の手袋を引き抜こうとしたらしい、秀子「余り乱暴な事をなさる」お浦「ナニ乱暴も何も有りません」と云って、何だか組み打ちでも始めた様に、暫し床板を踏み鳴らす音が聞こえる、余はお浦の憎さに堪えぬ、起って行って叩き殺し度いほどにも思うが、身動きさえも叶わぬから如何ともする事が出来ぬ、併し組み打ちも少しの間で、何しろ不意を襲うた事とてお浦の勝利に帰したと見え、お浦は「オー抜き取った、貴女の秘密は此の手に在ります」と勝ち誇る様に叫んだが、此の手とは定めし秀子の左の手の事で有ろう、秀子の左の手に何の秘密が有ったか知らぬがお浦は其の秘密に一方ならず驚いた様子で又一声「オオ恐ろしい、恐ろしい、此の様な此の様な」と云ったまま、後の語を発し得ぬ。
秀子の左の手の手袋の下に何が隠れて居たであろう、お浦は何の様な秘密を見たのであろう、余は実に怪しさの想いに堪えぬ。
暫くしてお浦は全く敵を我が手の中に取り押えたと云う口調で「此の秘密を見届けたからは秀子さん貴女は最う死骸も同様です、私に抵抗する事も出来ず、イイエ娘分として此の家に居る事さえ出来ますまい、何れ
未来永久、悔んでも帰らぬ目とは何の様な目に遭わせる積りだろう、茲で殺すぞと云う様な意味にも聞こえる、孰れにしても余の身体が自由でさえあればと、余は心の中で地団駄踏むほどに悶くけれど仕方がない、只紙一重を隔てられて何うしても其の紙を破る事の出来ぬ様な気がする、実に情けない、お浦は一声「其の鍵をお渡し成さい」と叫んだが直ちに秀子に飛び附いた様子だ、再び組み打ちの音が聞こえる、何方が勝つかは分らぬが双方とも必死と見える、頓て一方は、足を踏み辷らせた様子で「アッ」と云って床の上に倒れた、其の声は確かにお浦の方であった。
余は此のとき、悶きに悶いて、
極めて少しの間ではあるが、自分と世間とが遠く遠く離れるかと思った、死んで
少しは身体の痺れが薄らいだか、此の声で目を開く事も出来た、聊かながら声を出す事も出来た、余「オヽ秀子さんですか」と云う中にも秀子の左の手に何の様な秘密が有るか知らんと、見ぬ振りで見た、けれど秀子は
余の居直った所から次の室の出口は一直線に見える、余は秀子が何うするかと見て居ると、今投げた鍵を拾い上げて、室の中を見廻し「先ア浦子さんも余り子供らしいでは有りませんか、此の様な場合に何所かへ隠れてお了い成さってサ」と云い捨て、其の鍵で戸を開けて出て行った、余は其の後で何もお浦に来て貰い度くはないけれど、或いは介抱に来るかと思い、絶えず次の室を見て居たけれど遂に遣って来ぬ、去ればとて秀子が開け放して行った出口から出で去る様子もない、扨は日頃の捻けた了見で又も何事をか企んで居るのかと思ううちに、秀子が二人の下部を連れて帰って来て「オヤ浦子さんは私の後でも未だ貴方のお傍へ来ませんか」と云いつつ余の傍へ
余は直ちに、二人の下部に
余の怪我と聞いて、頓て叔父を初め大勢の人も馳け附けた、叔父は取り敢えず余を一番近い寝間へ寝かせようと云ったけれど、余は矢張り塔の四階に在る余の寝間へ連れて行って貰い度いと言い張った、怪我人の癖に塔の四階とは不便だけれど、余は兼ねて秀子に約束し、必ず塔の四階に寝ると云ってあるから、其の約束を守る積りだ、四階に寝て居れば又何の様な怪しい、寧ろ面白い事があるかも知れぬ。
間もなく余は塔の四階へ舁ぎ上げられたが、何となく気に掛かるは、お浦の消えて了った一条だ、幾等考えてもアノ室より外へ出た筈はなく室の中で消えたに違いないけれど、人一人が燈火の様に吹き消される筈はないから、或いは何う云う事でアノ室を抜け出て鳥巣庵へ帰ったかも知れぬ、念の為だから鳥巣庵へ人を遣って見ねば成らぬと思い、叔父に其の事を頼んだ所、叔父は、「何も茲へお浦が来るには及ぶまい」と云ったけれど又思い直したか、
「爾だ、医者の所へ遣る使いの者に、帰りに鳥巣庵へ寄る様に言い附けよう」と、斯う云って下へ降りた。
三十分ほどを経て、其の使いは帰って来たが、お浦は未だ鳥巣庵へも帰って居らぬと云う事だ、余は
併し猶能く考えて見ると、お浦の紛失よりも余の怪我の方が一入不思議だ、アノ室にはアノ時余の外に誰も居なんだ、今思うと刺される前に余の背後で微かな物音が聞こえたかとも思うけれど、刺された後で逃げ去る人の姿さえ見えなんだ、
其のうちに叔父は医師と共に又上がって来た。医師の診断に由ると、余の傷は剃刀よりも薄い非常に鋭利な両刃の兇器で刺したのだと云う、其の様な刃物が何所にあるだろうと聞くと、昔
大怪我ではないのに創口の燃える様に痛く、爾して全身の機関が働きを失ったは何う云う者だろう、医師の説は余の考えと同じく印度に産する Curare と云う草と Granil と云う草の液を混ぜて調合した毒薬を剣の刃に塗って有ったに違いないとの事だ、医師は語を継いで「之は専門の刺客のする業です。イヤ刺客に専門と云う事はないが、兎に角余ほど人を刺す術に通じて居る者で無くば、此の様な事は出来ません、薄い刃物で人を刺すには今云う通り遣り損ずる事が有ります、
叔父は其の言葉に従い翌日直ぐに倫敦へ電報で探偵を一人注文して遣った、翌々日に注文に応じて来着した探偵は、森
森探偵は其の道に掛けては評判の老練家ゆえ、余の刺された件に就いてもお浦の消滅した件に就いても遺憾なく取り調べるに違いない。
彼が余の寝室へ上って来たのは、既に下で以て秀子に様々の事を聞いてから後であったとの事だ、余は何と問わるるも有りの儘に答えねば成らぬ、が、若し有りの儘では秀子の身に何等かの疑いが掛りはすまいか、お浦の紛失する前に秀子とお浦との間に一方ならぬ争いが有って、秀子がお浦を永久悔むとも帰らぬ目に遭わせるぞと言い切った一条などは探偵の心へ何う響くか知らん、勿論余の知って居る所では、お浦の紛失は秀子の仕業ではない、お浦が床の上へ仆れると同時に秀子は余の傍へ馳け附けて来た、其の後でお浦が紛失した、爾して秀子は暫く経って後までもお浦が何処かへ隠れて居るのだと信じて居た事は其の時の挙動に分って居る、それだから秀子がお浦の紛失に関係のない事は余がそれに関係のないのと同じ事だけれど、探偵はそうは思うまい。
余はお浦と秀子との争いを何の様に言い立てて好いか未だ思案が定まらぬに探偵は早や余の枕許へ遣って来た、幸いに彼は秀子の事を問わぬ、余の刺された件のみを問い始めた、余は有りの儘を答え、全く壁から剣が出た様に思ったと云い、猶刃物や毒薬の事に就いては医師の説を其のまま繰り返して耳に入れた、彼は職業柄に似合わず打ち解けた男で、自分の意見を隠そうとせず「イヤ毒薬などの事は、来る道筋で医師の家を尋ねて聞いて来ました、けれど貴方自身が壁から剣が出た様だと云うのでは少しの手掛りも有りませんねエ、シテ見ると矢張り手掛りの有る方から詮議せねば」余「手掛りの有る方とは」探偵「浦原浦女の失踪です」余「お浦の紛失には手掛りが有るのですか」探偵「ハイ手掛りと云う程でなくとも、兎に角、浦女と喧嘩して、永久悔むとも帰らぬ目に遭わせるとまで威した人が有りますから」余「エ、エ、其の様な事を誰に聞きました」探偵「其の当人に聞きました。松谷秀子嬢に」余「秀子が其の様な事を云いましたか」探偵「オオ貴方がそう熱心に仰有る所を見ると貴方と秀子さんは満更の他人では有りませんネ、浦原浦女は貴方の以前の許婚だと云うし両女の間に嫉妬などの有った事は勿論の事ですネ」余は寝床の中から目を
探偵は少し笑って「オオ忘れて居ました、貴方に今、心を動かせる様な事は云っては可けぬと医師から堅く断られて来たのです」と云って巧みに此の場を切り抜けて去って了った、後で余は
暫くすると今度は秀子が上って来た、余はアノ左の手を何うしたろうと思い、夫とはなく目を注ぐに、例の異様な手袋はお浦に取られてお浦と共に消えて了ったと見え、別に新しい手袋を被めて居るが、此の手袋も通例のとは違い、スッカリ腕まで包む様に出来て居る、けれど余は其の様な事には気も附かぬ振りで「秀子さん貴女は森探偵にお浦と争った事を話したと見えますネ」秀子「ハイ浦子さんの失踪に付き何か心当りの事はないかと問われましたが、アノ争いより外には何も知った事は有りませんから争いの事を告げました」余「貴女が御自分で密旨を帯びて居らっしゃる事も告げましたか」秀子「イイエ私の密旨は少しも浦子さんには関係はなく、爾して探偵などに告げ可き事柄で有りませんから告げません」余は聊か安心した、密旨などと云うと其の性質の如何には拘わらず、探偵などの疑いを引く者だ、夫を言われなんだは
此の所へ余の叔父も上って来た、続いて彼の鳥巣庵を借り、昔からお浦に一方ならず目を掛けて呉れる根西夫婦も遣って来た、此の度の事件に就いては、
根西夫人も少し驚いた様子で「オヤ高輪田さん貴方はあの朝、又も浦子さんに縁談を申し込んだのですか、私が尚早いから気永く成さいとアレほど貴方に忠告して置きましたのに」高輪田「でも尚早くは有りませなんだ、嬢の承諾して呉れたのが何よりも証拠です」根西夫人「承諾しても失踪したのが尚早かった証拠でしょう、承諾したのを後悔して夫で姿を隠したでは有りますまいか」此の言葉で見ると此の夫人も余ほど高輪田を憎んで居ると見える、高輪田は顔を赤らめたが其のまま叔父に向って言葉を継ぎ「此の様な訳ですから私は何うしても浦子嬢を探し出さねば成りません、夫に就いては今度の森探偵へ千円の懸賞を附したいと思いますが、何うか貴方の御承諾を」叔父「其の様な事なら私から、願いこそすれ故障などは有りません」高輪田「そうして此の探偵が終る迄は私は此の土地に留まります」根西夫人は又聞き咎め「此の土地に留まるとて私共は近々鳥巣庵を引き払いますよ、彼の家を借りたのも全く浦原嬢の望みに出た事で、嬢の行方が知れぬとあれば、アノ家に居るも不愉快ですから、倫敦へ引き上げる積りですが、爾なれば貴方は何所へ逗留なさるのです」と根城から攻め立られ、高輪田は当惑げに、唯「爾なれば――、左様さ爾なれば」と口籠るばかりだ、叔父は見兼ねて「イヤ其の時は此の家へ御逗留なさる様に」高輪田は渡りに船を得た面持で「そう願われれば此の上もない幸いです」と喜んだが、此の男を此の家へ逗留させる事に成っては何の様に不幸が来るかも知れぬと余は窃に眉を
高輪田長三は余ほどお浦に執心で居た者と見え、愈々千円の懸賞を其の探偵に賭けた、爾して全で血眼の様で探偵の後を附け廻って、鳥巣庵へは帰らずに大概は此の家に居る、尤も鳥巣庵の主人根西夫婦は未だ鳥巣庵を引き払いはせず、時々余の病気見舞などに来る、余の叔父朝夫も、出来る丈は探偵と高輪田との便利を与える様にして居る。
探偵は千円の懸賞の為には
斯う云う様では迚も探偵が進みはせぬ、と云って外に探偵の仕ようもないから、一同余の室へ落ち合っては唯不思議だ不思議だと云う許りだ、其のうちに一週間の日は経ったが、余は医者の云うた通り寝床を離れて運動する事の出来る様になった、自分の気持では最う平生の通りで、何の様な労にも堪えるけれど医者が未だ甚く力を使っては可けぬと云うから先ず大事を取って戸外へは出ぬ、けれど階段の昇降などは平気で遣って居る。
斯うなると余は又余だけの仕事が有る、お浦の紛失などは何でも好い、怪我する前に仕掛けて置いた取り調べを片附けて了い度い、取り調べとは果して狐猿に引っ掻れた傷が古釘の創と似寄った禍いをするか否やの一件だ、余が之を取り調べる為に書籍室へ行き、書籍を尋ねる間に壁から剣の出た事は読む人が猶覚えて居るだろう、お浦の紛失と云う大問題の出来た今と為って此の様な小問題は殆ど取るに足らぬけど、大問題を取り調べる手掛りがないのだから、小問題と
余が此の室を去ると共に秀子は、廊下まで附いて来て、余を引き留め、小さい声で「変な事を伺いますが若しや貴方は過日虎井夫人に頼まれて夫人の
養蟲園とは真に蜘蛛を養う所であろうか、蜘蛛屋とは聞いた事もない商売柄だ、爾して人を大きな蜘蛛に与えて其の糸で巻かせて了うだろうか、余は秀子が恐ろしげに身震いする様を見て思わずゾッと全身を寒くした、猛き虎に出合ってさえ泰然自若として其の難を逃れた秀子が、話にさえ身を震わす程だから、余ほど恐ろしい所に違いない、とは云え昔の怪談では有るまいし今の世に人間を喰うほどの大きな蜘蛛が有る筈はない、猛獣や毒蛇ばかり
併し之よりも差し当り余が不審に思うのは虎井夫人と秀子との間柄だ、問うは今だと思い「ですが秀子さん、虎井夫人は貴女の附添人であるのに貴女の手帳を盗むとは余り甚いでは有りませんか」秀子「ハイ私の附添人ですけれど少しも気の許されぬ人ですよ、身体の健康な時には色々の事を
此の日は是で済んだが、翌日は例のお浦の消滅一条を詮索する為此の屋敷の堀の底を網で探ると云う事になった、真逆にお浦が死骸になって堀の底に沈んで居ようとは思われぬ、成るほどお浦が余に約束の回復を迫った末、身でも投げるかの様に見せ掛けて堀の方を指し走って行った事の有るのは余は知って居るけれど仲々身投げなどする女ではない、其の後で直ぐに秀子を誘って引返して来た丈でも分って居る、或いは誰かに投げ込まれた者とせんか、それも取るに足らぬ考えだ、お浦の消滅は閉じ切った室の中で起った事件で、少しも堀などに関係はない、だから余は堀の底を探ると聞いて直ぐに叔父に問うた「何の為に堀の底と云う見当を附けたのです」と、叔父は少し当惑の体で「イヤ見当を附けたのではない、何の手掛りもなくて探偵も高輪田氏も甚く心配して居て、此の方は其の心配を坐視するに忍びぬから、高輪田に向い「最早尋ねる所がないから念の為堀の底でも探って見ますか」と云うた、すると高輪田氏は飛び附く様に「私も実は堀の底を探り度いと思って居ましたが御主人が其の御了見なら早速探らせて頂き度い」とて先に立って探偵に説き付けた、探偵は躊躇の気味で「何の手掛りも得ずに、唯深い堀が有るからと云って堀を探るは職業上の恥辱だ」と答えたけれど何しろ千円の懸賞をまで出した人の言葉を無下に聞き流す事も出来なんだか夫に又高輪田氏が「ナニ手掛りのないのに困じて堀を探るのではなく、既に土堤の芝草を踏みにじった所が有ったではないか、是だけの形跡が有れば、兎にも角にも探らずには置かれまい」と云い此の方も自分の口から言い出した事だから傍から賛成の意を表した、夫で探偵も遂に同意し、既に先刻から其の用意を始め、舟も
堀の底から何が出るか、既に捜索に着手して居ると云うから、余は行って見たく思うけれど、猶だ医者から外出の許しを得て居ぬゆえ、塔の上から見るとしよう、ナニ堀端まで行った位で余の身体が悪く成る気遣いはないけれど、今は充分に此の身を自重せねば成らぬ
塔の四階に在る自分の室へ登ったけれど、少しの事で充分には見えぬ、もう一階上へ行けばと日頃メッタに昇った事のない時計室へ上って見たが茲ならば先ず我慢が出来る。堀から
見て居るうちに余の頭の上で、大きな鳥が羽叩きでもするかと思われる様な物音がした、之は兼ねて秘密の組織と云う此の塔の時計が時を報ずる間際なので、先ず此の様な音を発するのだ、傍で聞くと物凄い程に聞こえる、余は今まで秀子の忠告は受けたけれど深く此の時計の組織などを研究した事はないが、時を打つ時には何か異様な事が有るか知らんと思って、立って検めて見たが、時計の大きさは直径一丈ほども有る、下から見るよりは三倍も大きいのだ、而して其の時刻盤の裏の片隅に直径三尺ほどの丸い鉄板を張ってある、何故か此の鉄板は緑色に塗って有る、何の為の板であろう、時計の機械に甚く関係のある様にも思われぬが、或いは取り脱す事でも出来るか知らんと、力を籠めて動かして見ると仲々動く所ではない、叩いて見ると厚さも可なり厚いと見え、宛も鉄の戸扉を叩く様な音だ。
何しろ余り類のない組織だから余は一時、堀の事を打ち忘れる程になって其の鉄板を検めたが、板の真中に、
夫にしても虎井夫人が何の為に夜深けに此の塔へ上り、鉄板の穴へ手を入れて見る様な異様な事をしたのだろうと、今更の如く怪しんで居るうち、時計は時を打ち始めた、時は即ち午後の四時である、所が奇妙な事には、時計の鐘が一つ打つ毎に、其の鉄板が少し動いて、自然に右の方へ廻る、若し時計が十二時を打つ時には鉄板は必ず一廻りだけ回って了うだろう、爾して其の廻る度に真中の穴へ外から光明が洩れて来る、変だなと、余は光明の洩れる度に其の穴へ目を当てて窺いて見たが光明は上の方から、斜めに指すので、全く天の
外でもない、丸部家の咒語の中に、全く無意味かと思われる句が有ったが其の句は全く此の時計の此の鉄板と此の穴とを指した者だ、読者は覚えて居るだろう、第九句に「鐘鳴緑揺」とあって第十句に「微光閃」とあった事を、是だ是だ、鐘鳴りとは時計の時を打つ事で、緑揺くとは時計の緑色に塗った鉄板が動くと云う事、爾して微光が穴から閃いて輝いた、アア知らなんだ、知らなんだ、是で見るとアノ咒語は決して狂人の作った
成るほど、秀子がアア心配する所を見るとアノ手帳には余ほど詳しく書いて有ったに違いない、夫も其の筈よ、一寸と茲へ登って来た許りの余ですらも是だけ発明するのだから、久しい以前から毎日の様に研究して居る秀子は、事に由ると最う悉く秘密を解釈し盡くして居るも知れぬ、是は堀の中の詮索よりも、塔の上の詮索の方が遙かに好い結果を来すのだ
網に掛かって
其のうちにヤットの事で網から其の品物を取り脱して船の中へ入れたが、オヤオヤ不恰好な其の包みの一方から何か長い物が突き出て居る、何であろう、何であろうと、余は双眼鏡の玉を拭いて見直したが、何だか人間の足らしい、泥の附いた合間々々が青白く見えて居る所は何うも女の足らしい、扨は叔父や高輪田などの見込みが当たって、全くお浦が死骸と為って水底に沈んで居たのだろうか。
余は実に気持が悪い、けれど双眼鏡を自分の目から離す事は出来ぬ、探偵も巡査も余ほど驚いた様子である、頓て舟は土堤の下へ漕ぎ附けた、大勢が其の所へ馳せて行った、風呂敷包みは土堤へ上げられた、余の叔父は見るに忍びぬと云う様で顔を
後で聞いたら此の相談は、風呂敷包みを直ぐに其の所で開こうか家の中へ運び入れて開こうかとの評議であった相だ、警察の規則では総て斯様な品は現場から少しも動かさずに検査せねば成らぬので巡査等は家の中に運び入れては可けぬと言い張ったけれど余の叔父が事に由りては一家の家名に拘わろうも知れぬから、是非とも他人の見ぬ所で検めて呉れとて探偵に頼み、漸くに聴かれた相だ。
暫くすると巡査数人が風呂敷包みを舁いで此の家の方へ来る、最早塔の上に居たとて仕方がない、余は双眼鏡を衣嚢に納めて下へ降りて行った、風呂敷包みは玉突き室の隣に在る土間へ入れられ、茲で開かれる事になったが、余は第一に其の風呂敷包みを見て驚いた、何故と云うに尋常の風呂敷ではなく、東洋の立派な織物で、実は先の日お浦が消滅した時、其の室の卓子に掛かって居た卓子掛けである、其の卓子掛けは確かにお浦の消滅する時まで無事で有ったが、お浦と共に紛失したと云う事で、余は病床に居る間に其の事を聞いた、確かに叔父が「大事の卓子掛けが無く成ったが其の方が何所か外の室へ持って行きはせなんだか」と余に聞かれた事がある、是が即ちその卓子掛けである。
探偵が先ず此の場合の主人公と云う位置を占め、其の包みを
何しろ余り無惨な有様に、叔父は勿論余さえも此の上見て居る勇気はない、水の中で恨みを呑んで沈んで居たお浦の顔を見るのが如何にも辛い次第だから、
読者は未だ首のない死骸を見た事は有るまい、非常に恐ろしく見ゆるは勿論の事、非常に背丈の短く、非常に不恰好に見ゆる者だ、お浦は随分背も高く、スラリとした好い姿で有ったが、何となく優美な所を失った様に見える、成るほど身体の中の第一に位する首と云う大切の
何しろ此の恐ろしい有様に一同は暫しの間、一言をも発し得ぬ、顔と顔とを見合わす事も出来ぬ程だ、ミルトンの所謂、自分の恐れを他人の顔で読むのを気遣うとは、茲の事だ、其のうち第一に口を開いたのは探偵森主水だ、彼は独言の様に「是が愈々浦原浦子の死骸とすれば実に失望だよ」と云った、何故の失望だろう、彼は更に語を継いで「今までこうああと心に描いた推量が悉く間違って了う事になる」と云うた、此の語で見ると彼は今までお浦が未だ死んでは居ぬと思って居た者と見える。
探偵の言葉を聞き、今迄
余の叔父は最早此の有様を見ては
此の土地の犯罪を倫敦で捜すとは余り飛び離れた言葉だから、余「此の犯罪は何か倫敦に関係が有ると云うお見込みですか」探偵「イヤ未だ何の見込みも定まりませんが、今までの経験で、小さい犯罪は其の土地限りで有りますけれど此の様な重大な異様な犯罪は必ず倫敦で取り調べる探偵に勝ちを得られます」余「では倫敦へお出ですか」探偵「ハイ、ですが、兎に角検屍官が此の死骸を何う検査するか其の結果を見た上でなければ私の実の判断は定まりません」
斯う云って猶綿密に死骸の諸々方々を検めたが、頓て「オヤオヤ、此の様な物が」と云って、探偵は死骸の着物の衣嚢から何やら
余も今は殆ど此の所に居かねて、探偵に其の旨を告げて退いたが、家の内の人々は孰れも青い顔して、少しの物音を立てるさえ憚る如く、言葉も
明日の死骸検査で、何の様な事が分って来るか知らぬが、余は何うしても心に安んずる事が出来ぬ、此の夜は殆ど眠らずに考えた、けれども取り留めた思案は出ぬ。
全体誰がお浦を殺しただろう、秀子が殺したとすれば何も彼も明白だ、秀子は実際お浦を殺さねば成らぬ場合に迫って居た、お浦に何事かの秘密を看破せられ、殺す外には口留めの工夫がなく、殺すと云って
是だけで考えて見ると何うも秀子の仕業と
けれど余は秀子が其の様な事をする女とは思わぬ、イヤ少くとも此の時は未だ思わなんだ、アノ美しい顔で、若しも此の様な事をするとせば、人間第一の看板とも云う可き顔の美しさは何の値打ちもなくなって了う、尤も今までとても顔の美しさに似ぬ心の恐ろしい女は有りはするけれど、顔は七部通りまで愛情の標準にもなる、大抵の愛は顔を見交したり又は顔に現われる喜怒哀楽を察し合ったりする所から起こる者だ、若し秀子の様な美しい顔が美しい心の目録でないとすれば、全く人間の愛情や尊敬などの標準は七部まで破壊されて了うではないか。
と云った所で、秀子の外にお浦を殺す者が有ろうとは猶更思われぬ、秀子でなくば誰だろう、自殺だろうか、お浦が自分で自分の首を切り、其の首を何所かへ隠し、爾して自分の腰へ石を結び、身体へ卓子掛けを捲き附け、堀へ行って飛び込んだ、イヤ首のない身体で是ほどの働きは出来ぬ、然らば誰が殺した、と云って誰と目指す可き者は一人もない。
余は此の様に色々と翌朝まで思い廻して、漸くに只一つ思い附いたは、お浦の首は何うなっただろうとの疑いだ、又思うと何故に首のない者に仕て了っただろう、全体探偵が此の様な所を怪しまぬは不行き届きだと、斯う思ったから翌朝第一に探偵を尋ねた、けれど何所に居るか分らぬから、廊下をそちこちと歩んで居ると探偵は彼の虎井夫人の室から出て来た、オヤオヤと思い其の傍に行って「貴方は何で虎井夫人の室に居ました」探偵「秀子さんの素性を詳しく聞きたいと思いまして」余「シタが夫人は病気ゆえ好く答える事は出来なんだでしょう」探偵「イエ病気は昨日熱が引いてから大いに好くなったと云い差し支えなく問答が出来ました、アノ様子では今明に起きるでしょう、心配で最う寝て居られぬなどと云って居ました」余「爾して秀子の素性を詳しく聞きましたか」探偵「イイエ彼の夫人は唯附添人として雇われた丈で詳しくは知らぬと云いました」扨は彼の夫人、自分が秀子の乳婆であった事を推し隠し、昨今の知り合いの様に云ったと見える、余「貴方は余ほど秀子を疑うと見えますネ」探偵「イエ探偵と云う者は人を疑っては間違います、私は誰をも疑わず唯公平に証拠を詮索するばかりですが、併し秀子さんは今の所確かに誰からも疑われる地位に立って居ます、浦子さんと
何故か此の問いに森探偵は殆ど急所でも衝かれたと云う様にビクリとして、能く喋る其の口を噤んで了った、余「首は何うしたのでしょう」探偵は漸くに「其所が此の事件の眼目ですよ、特に其の点へお気が附いたとすれば貴方は余ほど着眼がお上手です」褒められても何の為に是が此の事件の眼目か余には分らぬ、余があたふたとする様を見て探偵は、扨は何の故もなくただ首のないのを怪しんだ丈かと見て取った様子で、少し軽侮の口調と為り「多分は殺した丈で未だ恨み癒えず、復讐の積りで殊更に首まで切ったのでしょう、首と胴と別々に埋めれば魂が浮ばれぬなどと能く世間で云うでは有りませんか。此の様な事をするのは女に限って居ますよ、嫉妬などの為に此の顔の美しいのが恨めしいなどと云って殺した上で顔を
愈々お浦の死骸検査は始まった、余は読者に対し茲で死骸検査の事柄を簡単に説明して置きたい。
死骸検査とは一種の裁判の様な者だ、検査官の外に警察医の立ち会うは勿論の事、十二名の陪審員がある、此の陪審員が種々の事を判断するので、決して死骸を検査するのみではない、第一に此の死骸は誰の死骸か、第二に自分で死んだのか他人に殺されたのか、第三に殺されたとすれば謀殺か、故殺か、第四に之を殺した下手人は何者か、第五に其の殺した者の目的は何であるか、第六に其の者を本統の裁判に持ち出す可きや否やと、凡そ第六条を詮議するのだ、だから通例の死骸検査で以て嫌疑者が定まり、裁判に移す値打ちの有るかないかも定まる、若しも陪審員の疑いが松谷秀子に掛かっては大変だ、秀子は到底、裁判所へ引き出されずには済まぬ、余は何うか秀子を助けて遣り度い、自分が証人として此の検査官の前で審問せられるを幸いに、何うか秀子の利益になる事を申し立て、陪審員をして此の死骸に就いては一人も嫌疑者を見出す事が出来ぬと云う判決を下させ度い、所が悲しい事には秀子の利益に成る様な事柄は一個もない、余が知って居るだけの事を述べ立てたら秀子は決して助かりッこがない、イイエ此の女は悪事などする様な者では有りませんと余の信ずる所を述べたとて何の益にも立たぬ。
家の人誰も彼も、殆ど残らずと云っても好いほどに秀子を疑って居るのだから何うも陪審員なども秀子を疑うであろう、殊に高輪田長三などは秀子を捕縛せしむるまでは
余は此の様に思って、只管検屍を恐れたが、恐れても其の甲斐はない、定めの時刻に少しも違わずに検屍は始まった、場所は彼の玉突き場の隣に在る広間である、お浦の死骸も其所に在るのだ。
証人として第一に呼び出されたのが余の叔父だ、叔父は堀の底を探っては何うだと言い出した発頭人である為、何故に堀の底へ目を附けたかとの
秀子が退くと引き違えて余は呼び入れられたが、何と言い立てる思案もないから胸は波の様に起伏した、検査の室を指して行く間も、屠所に入る羊の想いも斯くやと自分で疑った、室の入口へ行くと中から森探偵と警察医とが何か細語つつ出て来るのに逢った、摺れ違い様、余は警察医の言葉の中に「三十位」と云う語の有ったのを一寸と小耳に挾んだ、「三十位」とは何の事だろう、此の一語が何の役に立とうとも思わなんだが、後になって見ると大変な事柄の元と為った、頓て検査官の前に立ち、式の通りに聖書を嘗めて「嘘は言いませぬ」との誓いを立てたが、検査官は第一に此の死骸を誰と思うとの事を聞いた、余も前の幾証人の通り「浦原浦子と思います」と答えようとしたが、此の時忽ち「三十位」の一語を思い出し、少し躊躇して、「能く見た上でなければ誰とも答える事が出来ません」と少し捻くった答をした、幾等熟く見たとて何の甲斐もないには極って居るけれど「お浦の死骸だ」と答えるのは殆ど「秀子が殺しました」と答えると同じ様に検査官や陪審員に聞こえはせぬかと思い如何にも心苦しい、一寸でも其の答えを伸したい、検査官は尤と云う風で「では篤と見るが好い」と云われた、余「何れほど検めても差し支えは有りませんか」と問い「ない」との返事を得た上で余はお浦の死骸を、手から足から、充分に調べたが、読者よ、余は実に此の暗澹たる事件をして更に一入不思議ならしむる最も異様な事を発見した、読者は是からして余が検査官に答える言葉を真実心の底から発する者とは思い得ぬかも知れぬ、けれど全くの真実で有る、余は思うままを知るままを答えるのである、余が再び検査官に向って、第一に答えた言葉は「此の死骸は誰のであるか少しも認めが附きません」と云うに在った、検査官は疑いを帯びた様子で「是までの証人等は其の方の前の許婚浦原浦子の死骸だと認めて居るが其の方は爾は思わぬか」余「爾う認めた証人等の認め違いです、私は断言します、此の死骸は決して浦原浦子の死骸では有りません」
此の死骸がお浦の死骸でないと云う事は、余自らさえ嘘の様に思う、お浦の着物を着、お浦の指環をはめ、此の家の一品たる卓子掛けに包まれて居て、爾してお浦でないなどは、理に於いて有られもなく思われる、けれどもお浦でない、余は確かにお浦でない証拠を見出した。
勿論検査官は驚いた、陪審員も驚いた、満場誰一人驚かぬ者はないと云っても好い程だ、検査官は暫く考えた末、余に向い「何故にお浦でないと認めるか」と問うた、余は明細に説明した。昔余が十二三の頃、叔父が余とお浦とを連れてシセックと云う土地へ避暑に行った事がある、其の時お浦は余と共に土地の谷川へ這入って居て(勿論跣足で)足の裏へ甚い怪我をした事がある。其の頃は其の谷川の上手の山から石を切り出して居たので、切石の
是よりも猶確かな証拠は、お浦が十六七の時で有った、余は自分の懇意な水夫に
余が此の二カ条を言い立てると検査官は驚き、直ぐに又叔父を呼び出して、尋問したが叔父も足の裏の大創の事は覚えて居た、次に根西夫人を呼び出して又尋問したが夫人も成るほど浦原嬢の腕に繍身が有って夕衣を着て居る時には何うかすると見えた事を今思い出したと陳べた。
畢竟するに余が此の死骸を斯うまで検める事に成ったのは、唯、入口で医師が「三十位」と探偵に細語くのを洩れ聞いた為である、誰も彼も死骸の事にのみ気を奪われて居る際ゆえ「三十位」と云うのは死骸の事に違いないが、扨死骸の何が三十位であろう、或いは其の年齢では有るまいか、果たして年齢とすれば若しやお浦と別人ではなかろうかと此の様な疑いが一寸と浮かんだ、若し此の言葉をさえ洩れ聞かなんだら、一も二もなくお浦と思い、二ヶ条の事柄さえ殆ど思い出さずに終ったかも知れぬ。
読者は何と思うか知らぬが此の死骸がお浦でないとすれば実に大変な事になる。
第一にお浦の消滅に関する今までの探偵は全く水の泡に帰し、お浦の
第三の不審は実に重大だ、此の死骸へお浦の着物を被せるには、お浦を捕えて着物や指環を剥ぎ取った者があるか、左なくばお浦自らが自分の着物や指環を脱ぎ、此の者に着せたに違いない、着せて置いて殺したのか、殺した後で着せたのか、孰れにしても奇中の奇と云う者だ。
併し其の辺は先ず捨て置いて、何の為に斯様な事が出来たであろう、目的なしにお浦の着物を他の女へ着せ、堀の底へ沈めるなどと云う筈はない、何でも此の死骸と見せ掛けて人を欺き度いと云う目的に違いない、夫なら何故に人を欺き度いのであろうか、第一はお浦が死んだ者と見せ掛けて置いて、お浦自身が遠く落ち延びるとか或いは何か忍びの仕事をするとか云う目的ではあるまいか、第二には若しやお浦が死んだ様に粧い、人殺しの嫌疑を誰かに掛けると云う
愈々秀子に疑いを掛ける為とすればお浦自身の仕業でなくて誰の仕業だ、お浦は秀子を虎の穴へ閉じ込めて殺そうとまで
孰れにしても、余や秀子の為には、否、丸部一家の為には、物事が益々暗く、暗くなる許りだ、此の様な次第では此の末何の様な事になるかも知れぬ。
併し此の間に於いて、唯一つ余の合点の行ったのは死骸に首のない一条だ、首を附けて置いては、直ぐにお浦でない事が分る、幾等お浦の着物を被せても、幾等お浦の指環をはめさせても駄目な事だ、首を取ったのは全く着物を被せ指環をはめさせたのと同一の了見から出た事だ、成るほど、成るほど、是で森探偵の言葉も分る、彼は余が何故に死骸の首がないだろうと尋ねたとき、異様に驚き、旨い所へ目を掛けたと云う様に余を褒めたが、彼奴既にアノ時から、此の死骸がお浦でないと疑い、首のないのが即ちお浦でない証拠だと思って居たに違いない、道理で彼は初めて此の死骸を見た時に、是が浦子の死骸なら失望だと云い、自分の今までの推量が悉く間違って来るなどと呟いたのだ、流石は彼だ、シテ見ると彼は初めから此の事件に就いて余ほどの見込みを附け、確かに斯くと見抜いて居る所があるに違いない、何の様に見抜いて居るか聞き度い者だ、と云って聞かせて呉れる筈も有るまい、唯事件の成り行きを待つ外はないか知らん、夫も余り待ち遠しい話だよ。
疑わしい
「何者とも知れざる一婦人に対し、何者とも知れざる一人又は数人の行いたる殺人犯」
殺した人も殺された人も分らぬは、検査官も残念であろうが仕方がない、直ちに此の死骸は共同墓地へ埋められる事となって此の家から持ち去られた、陪審員も解散した、探偵森主水は、愈々此の事件は倫敦へ帰って探らねば此の上の事を知る事は出来ぬと云って立ち去った、根西夫妻も此の様な恐ろしい土地には居られぬと云って鳥巣庵を引き上げ倫敦の邸へ帰った、高輪田長三は死骸がお浦で無かったのは先ず好かったとて一度は安心したが、夫に附けても本統のお浦は何所に居るだろうとて甚く心配の体ではある、尤も之は鳥巣庵に居る事が出来なくなったに就いて、当分(お浦の行方を探るに必要な間だけ)叔父との約束の通り此の家に逗留する事になった、余は何となく此の事が気に喰わぬ、秀子とて、無論其の通りであろう、併し広い家の事だから食事時の外は彼の顔を見ぬ様にするのは容易だ。
兎に角も検屍官が「何者とも知れぬ者の死骸、何者とも知れぬ者の殺人犯」と判決したに付いて秀子に対する恐ろしい嫌疑は消えて了った、余は直ちに此の事を秀子に知らせて喜ばせたいと思い、早速其の室へ行こうとすると廊下で虎井夫人に逢った、夫人は遽しく余を引き留めて「お浦さんの死骸ではない様に貴方が言い立てたと聞きましたが、其の言い立てが通りましたか、判決は何うなりました」余「判決は何者とも知れぬ女となりました」夫人「オオ夫は有難い、松谷嬢もさぞ喜びましょう、嬢は先ほどから此の様な疑いを受けて悔しいと何んなに嘆いて居るでしょう」余「夫にしても貴女は病気の身で」夫人「イイエ熱が冷めましたから最う病気ではないのです、御覧の通りヨボヨボしては居ますが、松谷嬢が傷わしゅうて、知らぬ顔で居られませんゆえ、先刻から検屍の模様を立ち聞きしては嬢に知らせて遣って居ます」悪人でも流石は乳婆だ、嬢の事がそうまでも気になるかと思えば余は聊か不憫に思うた、余「では直ぐに判決の事を貴女の口から嬢に知らせてお遣りなさい」夫人「イイエ最う私は安心して力が盡きました、室へ帰って休まねば耐りませんから嬢へは何うぞ貴方から」と言い捨て、全く力の盡き果てた様でひょろひょろして自分の室の方へ退いた。
余は其の足で直ぐに秀子の室へ行ったが、秀子は全く顔も青ざめ、一方ならず心配に沈んで居る、余の姿を見ても立ち上る気力もないから、余は其の背を撫でる様にして「秀子さんお
余は夢の様に恍惚として「秀子さん、其のお言葉を聞けば私は身を捨てても――イヤ貴女の身に人の妻と為られぬ何の様な事情が有ろうとも其の事情を払い退けます、如何なる困難を冒して成りとも」秀子は飛び離れて「了ません、丸部さん、私は大変な事を忘れて居ました、此の度の事は貴方のお蔭で助かりましたが、之よりも恐ろしい、
「権田弁護士」と取り次の者の名乗る声が此の時聞こえた、引き続いて権田時介が此の室へ入って来た。
権田時介が来た為に、余は実に肝腎の話を妨げられた、若し彼の来るのが半時間も遅かったら、余は必ず秀子を説き伏せて末は夫婦と云う約束を結んだのに、惜しい事をした。
時介が秀子に何を云うか、又秀子が時介に何を頼むか、余は茲に居て聞き取り度いと思ったけれどもまさかにそうも出来ぬ。既に秀子から
余は詮方なく此の室を退いて、我が心を鎮める為庭に出て徘徊したが心は到底鎮まらぬ、益々秀子の事が気に掛かる一方だ、何で秀子は権田の様な者を呼び寄せただろう、余に打ち明ければ何の様な事でもして遣るのに、何でも権田は秀子の身の秘密に、久しく関係して居るに違いない、今初めて怪しむ訳ではないが其の秘密は何であろう、秀子は到底此の世に活きて居られぬと迄に云った、シテ見ると余ほど切迫して居る事に違いない、唯一度余に打ち明けて呉れさえすれば余は骨身を粉にしても助けて遣るのに、権田には打ち明けて余には隠して居る、何の秘密だか少しも見当が附かぬ、見当が附かぬのに助けると云う訳には行かず、と云って助けずに、知らぬ顔で済ます訳にも猶更行かぬ、困った、実に困った、只問う丈では幾度問うたとて打ち明ける事ではなし、矢張り此の上は、秘密にも何にも構わずに、余の妻になると云う約束をさせ、爾して許婚の所天と云う資格を以て充分の親切を盡くし、追々に其の信任を得て、爾して打ち明けさせるより外はないか知らん、追々と云う様な気の永い話では此の切迫して居る今の場合に間に合わぬかも知れぬけれど、外には何の道もないから仕方がない。
余は此の様に思って再び秀子の室へ行ったが、中は大層静かだ、猶だ権田と話して居るか知らん、斯うも静かな様では余ほど湿やかな話と見える、余が這入るのは勿論悪い、悪いけど此の様な大事の場合に権田の都合の好い様に許りはしては居られぬと、今思うと半ば殆ど狂気の様で、戸を推し開いて中へ這入った、オヤオヤ、オヤ、権田は居ぬ、秀子が一人で泣いて居る、余は安心もしたが拍子も抜け「権田弁護士は何うしました」秀子は泣き顔を隠して「
彼の急いで去ったのは愈々秘密が切迫して居る為と見る外はない、余の運動も、少しも早くなくては可けぬと、余は咄嗟の間に思案を定めて、我が思う丈の事を秀子に述べた、秀子は一時「其の様なお話を聞いて居れる時では有りません」と云って、腹を立てて、余に出て行って呉れと云わん許りの様を示したが、併し余の今までの忠実と親切とは充分腹に浸みて居るに違いない、此の後とても余の親切は多少嘉納するに足ると思って居るらしい、腹を立ったも少しの間で再び余の言葉に耳を貸す事に成ったが、愈々論じ詰めた結果が、何時も云う「到底人の妻に成れぬ身です」との一語に帰した、それならそれで宜しいから「若しも人の妻になる事の出来る時が来たなら私の妻になりますか」と云うと「其の様な時は決して来ません」「其の来ぬ者が若しも来る者と仮りに定めれば」「其の時は貴方の妻にでも誰の妻にでも成りますよ」「誰の妻にでもでは了けぬ、私の妻になるとお約束成さい」「約束したとて履行と云う時のない約束だから無益です」「無益でも宜しいから約束なさい」「其の様な
空とは云っても空ではない、既に此の約束がある以上は、秀子は生涯
殊に又秀子の心も此の約束で分って居る、幾等空な約束にせよ、真実余を嫌って居るなら承諾する筈がない、成るほど本心は生涯所天などを持つ様な安楽な事は来ぬと充分覚悟を仕て居るだろうよ、覚悟は仕て居るだろうけれど、若しも婚礼の出来る時が来れば余と婚礼すると云う積りに違いない、之を如何ぞ余たる者
けれど秀子の災難は余の思ったより切迫して居て、又実際余の力で払い除ける事の出来ぬ様な恐ろしい秘密的の性質であった。
余は秀子に向って、問い度い事、言い度い事、様々にあるけれど、此の日も翌日も其の暇を得なんだ。と云う訳は、首のない死骸の事件が
イヤ忍び出たのではない当り前に出たけれど余の目には忍び出る様に見えた、若しや秘密とか密旨とか云う事の為では有るまいかと、余も引き続いて出て見たが、早や廊下には秀子の姿が見えぬ、居間へ行っても居らぬ、或いは虎井夫人の許かと又其の室へ尋ねて行けば、虎井夫人さえも居らぬ、既に病気は直ったと自分では云って居ても未だ客の前へも出得ない夫人が夜の十二時過ぎに室を空けるとは、何うも尋常の事ではない、若しやと思って余は庭へ出たが、月のない夜の事とて樹の下の闇が甚だ暗く、何と見定める事も出来ぬけれど、其所此所を辿って居るうち、一方の茂みの蔭から、
二人は余の居る所から二三間先まで来て、立ち止った、余が居るを疑っての為ではなく、話が大変な所へ掛った為足を運ぶのを忘れたのだ、秀子の声「幾等大胆でも真逆に茲へは来ませんよ」虎井夫人の声「来ますとも、開放も同様の此の家ですもの、庭まで来たとて誰に見咎められる恐れもなく」秀子「恐れがないから来るが好いと貴女が云うて遣ったのでしょう」夫人「ナニ私が云うて遣りますものか」秀子「夫なら決して来る筈は有りません、自分の身に悪事が重なって居るのですもの」夫人「論より証拠実は最う来て居ますよ、先刻から向うの榎木の蔭で貴女の出て来るのを待って居ます」
何者の事かは知らぬが、何うせ秀子の身に害を為す奴に違いないから、余は其の榎木の蔭へ馳せ附けて引捕えて遣ろうかと思ったが、爾も出来ぬ、承諾も得ずに横合いから手を出して、後で秀子に喜ばれるか恨まれるか夫も分らぬから先ア静かに事の成り行きを見て、秀子が甚く当惑するとか其の者が暴行でもする場合に現われようと、此の様に思い直して、暗の中で自分の身へ力を入れて見るのに、創は勿論既に癒えて、力も充分に回復したらしい、何うも其の様な気がする、是なら悪人の一人や二人を
秀子は、既に来て居るとの虎井夫人の言葉に余ほど驚いた様子で「エ、今夜来て居るのですか」と叫んだ。虎井夫人「私にも制する事が出来ぬから致し方が有りません、最う逃れぬ所と
暗の中で何を指さして、彼処へ遣って来たなどと云うかと思い、余は四辺を見廻したが、三十間ほども離れた彼方に、一点星の様な光が有って、何だか此方へ寄って来る様子だ、分った、葉巻煙草を
安煙草の臭気と共に星の様な光は段々と寄って来る、ハテな何の様な男だろう、秀子との間に何の様な応対があるだろう、全体此の場の一
虎井夫人は「仕ようがない事ネエ」と呟いたが、病後の身で秀子を追い掛けたり引き留めたりする事は出来ぬと見え、其のまま呟き呟き星の光の方へ行って了った、サア余は何うしたら好かろう、夫人と同じく星の光の方へ行き、彼の男を捕えて呉れ様か、イヤ捕えたとて仕方がない、夫より彼奴の立ち去るを待ちその後を附けて彼奴の何者かと云う事を見届けて呉れよう、何でも此の様な悪人だから身に様々の旧悪が在るに違いない、何うかして其の旧悪の一を捕えて置けば幾等秀子に
一先ず家へ帰って客間を窺いて見ると、秀子は何気もない体で、猶起き残る宵ッぱりの紳士三四人の相手になり笑い興じて居る、実に胸中に何れ程余裕のある女か分らぬ、是ならば秀子の事は差し当って心配するにも及ばぬと思い、其のまま
見ると安煙草は早や切符を買い、橋を渡って線路の向う側へ行き、上り汽車を待って居る、時間表に依ると上り汽車は夜の十二時から先は唯二時五分に茲に通過するのが有る許りだ、未だ半時間ほどの猶予がある、何でも彼が如きシレ者を附けるには余ほど用心して掛らねば可けぬと思い、ズッと心を落ち着けて先ず前後を見廻すと、第一に不都合なは余の衣服だ。余は客間に居た儘で来たので小礼服を着けて居る、是では疑われるに極って居るが、家へ引っ返す事は出来ず止むを得ず駅夫に向い、五ポンドの貨幣を二片見せ、夜寒の用意にお前の着替えを売って呉れぬかと云うと存外早く承知して、何所へか走って行き、間もなく風呂敷包みを持って来て、是ではと差し出すのを開けて見ると少し着古したけれど着るに着られぬ事はない、紺色の
それから切符を、先ず倫敦まで買ったが、先の人が何所まで買ったかと思い、夫となく今の駅夫に聞いて見るとローストン駅まで買ったと云う事だ、扨は倫敦迄行くのではないと見えるが、何でもローストン駅は何処かへ分れる乗り替える場所だ、是も駅夫に聞いて見ると、駅夫は今の売物で非常に機嫌が好く為って居るので、其の乗替えの汽車が通過する駅々を、指を折りつつ読み上る様に話して呉れた。外の名前は耳に留まらぬけれど其の五番目に数えたペイトン市と云うのが何だか余の耳に此の頃聞いた所の様に感じた、爾だ、爾だペイトン市在の養蟲園と虎井夫人の手紙の上封へ書いて遣ったのだ、扨は彼の男、其の蜘蛛屋とか云う処から来たのであろうか、人を食い殺す毒蜘蛛が網を張って居るとて秀子の身震いをした其の養蟲園へ、余は彼の悪人の後に就いて歩み入る事になるか知らん、斯う思うとわれ知らず右の手が腰の短銃、衣嚢の処へ廻った、撫でて見ると残念な事には短銃を持って居ぬ、エエ何うなる者か、真逆の時には此の拳骨と気転とに頼るまでさ。
其のうちに二時五分の上り汽車が来る刻限と為ったから、余も橋を渡り、線路の向う側へ行き、頓て彼と同じ汽車へ乗り込んだが、幸か不幸か外に相乗りはない、車室の内に余と彼の只二人である。
車室を照らす電燈の光に余は初めて能く彼の姿を見たが、年は五十位でもあろうか、背が低くて丸々と肥え太って居る。顔の色は紅を差した様に真赤だ、蓋し酒に焼けたのであろう、酒好きの人には得てある色だ、爾して顔の趣きは、恐ろしげと云い度いが実に恐ろしげでなく存外柔和だ、ニコニコとして子供でも
余は余り彼の様子を見るも宜くないから、唯夫となく一通り見た儘で、彼の反対の側に身を安置し、背後へ寄り掛って眠そうな風を示して居た、茲で読者に断って置くが、昨年の秋ローストンの附近で、線路の故障の為に汽車が転覆した事は、読者が新聞紙で読んだ所であろう、此の汽車が即ち其の汽車で、余も乗り合わして居る一人であったが、勿論其の場に着き其の事変に逢うまでは神ならぬ身の露知らずであった、夫は扨置いて余が眠そうに背後へ寄り掛って居る間に、彼、安煙草は安煙草を咬えた儘で、腰掛けの上へゴロリと横に為ったが、悪人ながらも仲々気楽な質と見え直ちに雷の如き鼾を発して本統に眠って了った、尤も夜の二時より三時の間だから、誰しも眠くなる時ではあるのだ。
彼の鼾と汽車の音と轟々相い競うて、物思う余の耳には誠に蒼蝿く感じたが、余も何時の間にやら眠って了った、何時間経ったか此の時は知らなんだが後で思うと二時間余も寝たと見え、フト目の覚めたは夜の引き明ける五時頃であった、見ると彼、安煙草が早や余よりも先に起き直って余の寝顔をジッと見詰めて居る、勿論別に悪気が有っての為ではなかろう、余り所在のない時に、同乗の客の顔を見て居るなどは、誰もする事である、余は茲ぞ彼と話を始める機会と思い、ナニ彼が何も言わなんだのは知って居るけれど、故と「オヤ貴方は今、何か私に仰有いましたか」と寝ぼけた様に問うた、彼は平気で「イイエ何も言いは致しませんよ」と、返事する言葉は此の国此の近辺の声ではなく、確かに仏国の訛を帯びて居る、多分本国を喰い詰めて、此の国に渡って来た人であろう、余「併し最う何時でしょう。夜汽車は随分淋しい者ですネエ」と言うを手初めに話の口を開いたが、彼は宵のユスリの旨く行かなんだを猶だ気に
けれど其のうちに彼は新しい安煙草に火を附け直し、一寸近くも吸うた上で漸くに「貴方は塔の村の停車場から乗りましたネ」と余に問い掛けた、占めたぞ此奴幽霊塔を自分の出稼ぎ場か戦場の様に思って居るので其の近辺の事柄を問う積りと見える、斯なれば余り口数を利かぬ方が却って安心させる元だろうと思い、唯「ハイ」とのみ答えた、果して彼は進み出て「アノ土地に住んで居ますか」余「ハイ彼の村の
全く悪人にしては少し喋り過ぎる様だけれど、余は夫よりも異様に感じたは秀子の素性だ、此奴に何か秘密を知られて居るのは無論であろうが、夫にしても決して賤しい身分ではなく、生れ附き立派な令嬢であろうと余は確かに思い詰めて居るのに、此奴の言葉では何だか賤しい素性の様にも聞こえる。「立派な身分になったと思い」などの言葉はそうとしか思われぬ、彼は猶言葉を継いで「旨く仮面などを被って居やがって、ヘン仮面を剥って見るが好いワ、イヤ仮面は剥らずとも、左の手の手袋を脱いで見るが好い、中から何の様な秘密が出て来るか、夫こそ丸部の養女では居られまい。如何な養父も驚いて目を廻すわい」と今は全くの独語となり、いと腹立しげに呟いて居る。
仮面を被るとは勿論譬えの言葉で、地金を隠して居ると言う意味に違いない、秀子が本統に仮面など被って居る筈はない、併し余は此の言葉を聞き、余は初めて秀子に薄暗い所で逢って、余り其の顔が異様に美しいから若しや仮面では有るまいかと思った時の事を思い出す、勿論其の後は見慣れたから、何とも思わず、唯絶世の美人と尊敬する許りではあるが、夫にしても偶然に此の男が仮面という言葉を用うるも、奇と言えば奇だ。
併し彼様な
此奴め、昨夜旨く秀子を劫えさせる事が出来なんだので、先ず近辺へ秀子の身に秘密があると言う噂を立たせ爾して秀子に驚かせて置いて再び行く積りである、余を近所の者と思う為、是くらい聞かせて置けば、余の口から村中へ好い加減に広まって爾して秀子が不安の想いをする時が来ると此の様に思って居るのだ、手もなく余を道具に使う積りだ、人つけ、汝等の道具に使われて耐る者かと腹の底で嘲り、更に彼に向い、然る可く返辞せんと思う折しも、汽車は何物にか衝突して、真に百雷の一時に落ちるかと思われる程の響きを発し、オヤと叫ぶ間もない中に早や顛覆し破砕した。乗客一同粉々に為ったかと余は疑うた。
汽車の転覆は、遺憾ながら随分例の有る事ゆえ、管々しく書き立てずとも、何の様な者か能く読者が知って居られる筈だ、此の度の転覆は僅かに一間ばかりある小河の橋が落ちて居るのを気附かずに進んだ為に起ったと言うことだ、怪我人は十四五人あったが幸いに死人は無かった、怪我人の中の最も重い一人は余と同車して居る例の安煙草で、無難の中の最も無難な一人は余であった。
勿論余も汽車の衝動と共に
此奴死んで了ったのか知らん、兎も角斯の様な目に遭えば当分秀子を虐めに来る事は出来ぬと有体に云えば余は聊か嬉しかった、けれど助けぬ訳には行かぬ、茲で恩を着せて置けば後々此奴を取り挫ぐに何の様な便宜を得るかも知れぬと得手勝手な慈悲心を起して台板を持ち挙げて遣った、軽い物かと思ったら仲々重い、力自慢の余の腕にさえヤットである、此の重みに
何しろ混雑の中で、余一人の力では此のうえ何うする事は出来ぬが、幸い近村の人も馳け附けて来たから、其の一人に番を頼んで置いて、余は遠くもあらぬローストンの町へ馳け附け自分の馬車と医者とを呼んで来た。兎も角も停車場のある所まで馬車で此の者を運んで行く外はない、医者の見立てでは此の者は余ほど大怪我だから早速家へ送り届け、厚く手当をせねば可けぬとの事だ、家とて何所が此の者の家だろう、多分ペイトン在の蜘蛛屋であろうとは既に察しては居るけれど、若し衣嚢の中には姓名を書いた手帳でもあろうかと探って見ると手帳もある名刺もある、名刺の表面を見ると覚悟した。余も流石に胸を騒がせた、真中に「博士穴川甚蔵」とあって端の方にペイトン在養蟲園とある、是が養蟲園の主人で、曾て余が虎井夫人の為に手紙の宛名として認めて遣った其の穴川甚蔵であるのだ。
穴川は
養蟲園と聞いて馬丁まで好い顔をせぬ所を見ると余り評判の宜くない家と言う事が分る、余は様々に聞き糺したが今の主人「穴川甚蔵」は六七年前に此の土地へ来た者で、何所から移住して来たかは誰も知る者がなく、殊に町から離れた淋しい土地だから誰も度外に置いてあるとの事だ。
併し馬車は余が充分の賃銭を約束したから行く事になった。馬丁は「アノ様な淋しい所で帰りに乗せる客があるではなし、余計に貰わねば引き合わぬ」と呟いた。余は馬車の中で
成るほど淋しい所である、町を離れて野原を過ぎ、陰気な林の中に分け入って、凡そ五哩も行ったかと思う頃、養蟲園へ達した。見れば草の茫々と茂った中に、昔の大きな石礎などが残って居る、問うまでもなく零落した古跡の一つで、元は必ず大きな屋敷であっただろう、それが火事に逢って家の一部分だけ焼け残ったのを、其のまま修繕して住居に直したらしく、家の横手に高大な煉瓦の壁だけが所々に立って、低く崩れたもあり高く聳えたもある、但し焼けたのは今より五七十年も前だろうと余の目では鑑定する。
今住居と為って居る家だけでも可なり広い、家の背後は山、左は林、右は焼跡から矢張り林へ連なって居るが、何しろ人里から離れた土地で山賊でも住んで居そうだ、爾して焼けた古煉瓦を無造作に積み上げたのが門の様に成って居て戸が締って居る、誰も此の様な家へ侵入する者はあるまいに戸には錠までも卸してある、後で分ったが外から入る人を防ぐよりも、寧ろ内から出る者を妨げる為であった、不束ながら門に続いて疎な丸木の垣がある、犬猫なら潜って出る事は出来ようが人間には六かしい。
余は門を推してもあかぬから軽く叩いて見ると馬車の中から、今まで無言で居た甚蔵が声を出したから「何事ぞ」と返って問うと「此の鍵がなければ開きません」とて鉄の大きな鍵を差し出した、彼は肩も腰も骨を挫かれて居るけれど右の手だけは達者で、自分で衣嚢を探り鍵などを取り出す事が出来るのだ、何しろ主人が外へ出ると、門に錠を卸してその鍵を持って去るとは全で番人のない家の様だが、内はガラ空か知らんと、此の様に思いつつ進み入ろうとすると、甚蔵は馬車の中から又呻いて余を呼び「門が開いたらその鍵を返して下さい」と請求した、半死半生の癖に仲々厳重な男である、是も何か家の中に秘密がある為に、斯う用心の深い癖と成ったのに違いない、余はその秘密を看て取る迄は此の家を去らぬ事に仕よう。
鍵を返して門を入れば玄関に案内の鐘を吊り、小さい槌を添えてある、槌を取って鐘を叩いたが中からは返事がなく、唯何所からか犬の吠える声が聞こえる、幾度叩いても同じ事だ、再び馬車に返って甚蔵に問うと、彼は鍵を取り返して安心したのか、痛く力が脱けた様子で、唯「裏へ、裏へ」と云う声を微かに洩し、差し図する様に顋を動かす許りである、今度は其の意に従って家の裏口へ廻って見ると茲も戸が閉って居るが、窓の硝子越しに窺くと薄暗い中に、何とも評し様のないほど醜い老人の顔が見えて居る。人間よりは寧ろ獣に近い様だと、怪しんで見直したが獣に近い筈よ犬だもの、此の国にては余り見ぬが仏蘭西には偶に居る、昔から伝わるボルドウ種と云う犬の一類で、身体も珍しいほど大きいが顔が取り分けて大きいのである、爾して大犬の中では此の種類が一番賢いと云う事だ、併し幾等賢いにせよ犬一匹に留守をさせるは余り不思議だと、更に台所の方の窓を窺くと、居るわ、居るわ、是は犬でない全くの人間だ、年頃は七十以上であろう、白髪頭の老婆である、其の顔と来たら実に
余は窓の硝子を叩きつつ、婆に向いて「穴川甚蔵が怪我したから、茲を開けて入れて下さい」と大声に叫んだが、婆は一寸顔を上げた許りで返事をせず、其のまま立って犬の居る方を振り向いた、爾して馳せて来る犬を随がえ、次の室の入口とも思われる一方の戸を開いて、素知らぬ顔で引込んで了い、待っても待っても出ては来ぬ。
余り腹の立つ仕打ちだから、余は
余は此の様な有様を見た事がない、壁の表面、柱の表面、総て右往左往と動き、静かな様で少しも静かでない、殊に天井の下に横たわって居る梁などは恰で大きな
余は兎に角も能く心を鎮めた上でなければ、此の室に永くは得留まらぬ、真逆に蜘蛛が銅網を破って追い掛けて来る訳ではなけれど、逃る様に室を出てその戸を閉め切り、爾して先刻婆の居た台所の一方に立った、此の時は最う眼も暗いに慣れて、暗いと感ぜぬ様になったから、茲にもかと四辺を見廻すに茲には蜘蛛らしい物は見えず、却って余の求める鍵が、戸の錠前の穴へ差し込んだ儘であるのが目に入った、多分は婆が次の間に在ったのを持って来て是へ填て置いたのであろう、婆の姿は何所へ行ったか更に見えぬ。
若し余に深い目的がないのなら此の家へは再び這入らぬ、秀子と同様に、此の家の事を思い出してさえ身震いをするであろう、けれど余は再びも三たびも、此の家の秘密を腹へ入れる迄は這入らねば成らぬ、此の家の秘密を知れば秀子の身の秘密も自然に分るに違いない、斯う思って、腹の中で「ナニ蜘蛛などが恐ろしい者か」と繰り返してお題目の様に唱え、馬車の所へ
「寝間は二階の二室目です」と彼は答えたが、此の怪我人を二階まで運び上げる訳には行かぬ。下の何所かへ寝台だけ降して来て寝かさねばならぬ、更に其の
見廻しつゝ登ると階段の中程の横手の壁に
余が其の前を過ぎようとすると、中から誰か黒い
余は其の前を通って二階に入り、甚蔵の寝室と云うへ行って見ると、茲も一方ならず荒れて居て古い寝台二脚の外に蒲団
婆は此の様を見て「アア貴方は甚蔵の敵でない、敵なら此の犬が斯うは
気の違って居る婆の言葉を茲へ一々記すにも及ばぬが、其の中に、医学士と云う言葉が二三度あり、又夜半に甚蔵が庭の木の下へ穴を掘り何物をか埋めたと云う様な言葉もあった、何を埋めたのかと此の点は特に問い直したが、何だか人を殺して埋めたかの様にも思われる、而も其の事は一度ならず二度も三度も有ったらしい。
若し此の辺の秘密が一つでも、充分に分ったならば、彼の運命を余の手の中に握ったも同様ゆえ、此の後決して彼に頭を擡げさせぬのに、能く分らぬは惜しい者だ、此の上は唯先刻の潜戸を開き其の中を検める外は有るまい、アノ中には、秘密其の者か
此の様に思って猶も婆の話を引き出す様に仕向けて見たが、此の婆全くの狂気ではない。狂と不狂との間に在るので、時々は常の人と余り変らぬほど心の爽かな場合もある、後で聞いた所に由ると数年前に二階から落ちて頭を打ち、一時は全くの狂人と為って了ったが、此の頃は幾分か軽くなり、偶に精神の爽やかな時が来ると云う事だ、併し此の様な事は何うでも好い、唯甚蔵の咽喉を握る様な秘密をさえ手に入るれば。
斯くて暫く話の途切れた頃、頭の上の方で、何だか
余は殆ど思案の暇もなしに、仰いで天井を眺め「オヤ今の音は何だろう」と問うたが、此の一言は忽ち婆の暗い脳髄を明るくする力があったと見え、婆は急に
早口に弁ずる様は通常の人でもないが今までの狂人とも思われぬ、併し蜘蛛を育てるが何の様な商業に成るだろう、是も後で分ったが、酒造家などが、自分の貯えてある酒の瓶へ、時代の附いて居る様に見せる為様々の蜘蛛を其の貯蔵室へ入れる相だ、スルと蜘蛛が何の瓶へも、何の瓶へも絲を附け、一年も経ると百年も経た瓶の様に見えるので、
夫は扨置き婆は暫く弁解の様に、又余を攻撃する様に、述べ立てて居るうち、其の弱い脳髄は早や疲れたと見え、徐々と言葉の筋道が立たなくなり、最後に「オヤ、私は何を云って居たか知らん」と云い少し考え込んだまま元の狂人に復って了った、此の様を見ると多少は気の毒にもなる。
婆に再び問い試みたとて此の上好結果を得る見込みはない、余は無言と為って甚蔵の枕許に控えて居たが、彼は傷から熱を発しでもしたか、目は醒したけれど
暗さも暗いけれど、迷うほどの込み入った路ではない、
此奴が穴川甚蔵と云う立派な博士の相棒の其の医学士とすれば、余は後々の為に此奴の素性や挙動までも一応は探って置き度く思うから、今は此奴に成る可く油断をさせて置かねばならぬ。
咄嗟の間に此の様に思案を定め、余は口から出任せの名を名乗り、実は偶然穴川と同車して彼の怪我を救い、其の家まで送り届け、医者を迎えに遣ったけれど、其の来ようが余り遅い故、何時までも待つ訳に行かず、自分で医者の家へ立ち寄った上、其のまま立ち去る積りであるとの旨を答えた、彼は聞き終って「でも私を医学士と呼び掛けたは何う云う訳です」と問い返した。ヘンお出でだな、此奴が世間一般に医学士として知られて居る男なら、誰に医学士と呼び掛けられても自ら怪しみは仕まいけれど、医学士と云うは唯穴川などから呼ばれる一種の綽名か符牒の様な者なので、呼び掛けられて自分で少し後暗く思うのだ、余は是も言葉巧みに「イヤ彼の家に変な婆さんが居て、最う医学士が来そうな者だなと云って居ましたゆえ、夫で私は医学士ですかとお尋ね申したのです」彼は合点し「爾でしたか。私は唯知らぬ人から医学士と呼び掛けられ、別に自分の肩へ医学士と云う建札をして居る訳でもないのに、何うして分ったかと怪しみましたが、併し貴方は私と共に彼の家へ引き返しますか」余「ハイ引き返さねば済みませんが、実は取り忙いだ用事を控えて居ますので、成ろう事なら、此のまま立ち去り度いと思います、素人の私が怪我人の枕許に居たとて貴方のお手伝いも出来ませず」と非常に当惑の体を粧うて云うた。彼は少し考え「貴方は別に荷物などを彼の家へ残しては有りませんか」勿論荷物とては初めから一点も持って居らぬけれど「イヤ荷物は悉く停車場へ預けて有ります、其の中には日を経ると傷む者も有りますので猶更グズグズは仕て居られません」彼「御尤も、夫では宜しい怪我人は私が引き受けました」と一通りの挨拶を言って其のまま医学士は進んで行った。
余は直ぐに彼の後を見え隠れに尾けて帰ろうかと思ったが、外に多少の用意もあるから爾はせずに真直ぐにペイトン市へ行き第一には食事を済ませ、第二には人の家へ忍び込むとき足音のせぬ様に、
再び養蟲園へ着いたは夜の十二時頃で有った。若し彼の潜戸の中が何れほど恐ろしい所かと云う事を前以て知って居たなら余は斯う引き返す勇気は出なんだかも知れぬ、茲が世に云う盲蛇だ、知らぬほど強い者はない、愈々帰り着いて様子を見ると、宵に少しばかり降った雨も
話は聞こえるが勿論姿は見えぬ、医学士は婆と何の様な事をして居るだろう、
医学士は猶言葉を継いで「大事な時に怪我をしたなあ、何でも甚蔵は美人に逢いに行って、其の帰りに汽車が転覆したのだ、美人の口から彼の秘密を聞き取ったか知らん、博士の腕前だからよもや聞き取らずに帰りは仕まいが、聞いたのなら己も早く聞かせて貰い度い、生憎
婆は例の間の抜けた声で「美人とは誰だネ、倅が情婦でも拵えたのかネ」と問うた、医学士は腹立しげに舌鼓して「エエお前もそう
忘れたは余に取って幸いである。若し覚え居て有の儘を話したら、悪に鋭い此の医学士は決して余を
是が秀子の過ぎし身の事かと思えば、余の身体は石の様になり、爾して此の後は何の様な事を聞くかと、動悸が胸を張り裂く様に打った。婆「誰だったか忘れたよ」医学士「虎井夫人で有ったじゃないか」婆「爾だ、爾だ、娘だった、オオ最う何も彼も思いだした、爾してお前が、第一に仮面を被せねば了けぬと云って」医学士「エエ、思い出す時には余計な事まで思い出す、其の様な事は忘れて居るが好い」婆「爾して私が、其の美人の左の手を見ると、ネエ医学士、其の時には私の智恵が一同から褒められたじゃないか、アノ左の手にさ、エ医学士、お前は忘れなさったか」扨は愈々秀子が身の秘密まで今此の悪人等の口より聞くかと、余は凝り固まって我れ知らず身動きしたが、自分では何の響をさせたとも知らぬけれど、中に居る例の犬が早くも聞き附けたと見え、異様に警報を伝える様に一声吠えた、医学士「オヤ此の犬が吠えるとは奇妙だぞ、婆さん、お前の耳には、何か聞こえたか」婆「イイエ」医学士「真逆に戸の外で誰も聞いて居る訳でもあるまいが」と云って早や立って来る様子である。
余は実に
斯う思ううちにも「例のか」と言い「鉄鎖を緊く」など云った医学士の言葉が耳に残って居る。何だか薄気味の悪い言葉だ、併し此の意味も其のうちには分るだろうと、
又手探りと跼き足で階段を上って行き、茲辺だと思う所で壁を探った。潜戸は有るには有るが堅く締って居て、動かざること巌の如しだ。最早
恐々ながら燐燧を擦った、爾して潜戸を見ると鍵穴は有るけれど鍵は填めてない、真逆の時には錠前を捻じ開ける積りで、様々の道具の附いた小刀は買って来たけれど、何うしても此の危険な所で此の戸を捻じ開けて見ようと云う度胸は出ぬ。兎も角も先ず廊下へ誰が出たとて容易には見附からぬ無難な所へ身を隠して篤と考えて見ねばならぬ、夫には二階へ上り、甚蔵の元の寝間に入るが第一だ。
思い定めて二階へ登り甚蔵の寝間の空いて居るのへ這入り、真っ暗の中で先ず胸を撫でて気を鎮めた、爾して色々と思い廻すにアノ潜戸を開ける事は到底出来ぬ。何でも彼は内から錠を卸して有る者に違いない、愈々内からとすれば、外の方面に最う一つ出這入りの戸がなくては成らぬ、宜し宜し、表口は捨てて置いて其の裏口を探して遣ろう。
是から二階の廊下へ出て、相変らず手探りと跼き足とで、奥へ奥へと進んで見た、所々では燐燧を擦ったが、実に奇妙な構造だよ、普通の感覚から遠く離れた昔の貴族か何かが建った家でなければ此の様な不思議なのはない、廊下を
エエ茲も厭な蜘蛛室であると見える、余は遽てて戸を締め、更に廊下をズッと奥へ行くと行き止りに戸が閉って幸に鍵穴に鍵が填って居る。之を取って戸を開けば、下へ降りる様に成って居る、降りれば果して中二階らしい、何う考えても茲が彼の潜戸の中に当たる。
占めた、占めた、最う秘密は手近で有ろうと又も燐燧を擦って見ると只の広い板の間で少し先の方に室らしい処が見え、入口の戸が新しく目立って居る、是だなと其の前へ立ち、暫く戸に耳を当てて居たが、其のうちに微かながらも異様な声が内から聞こえた。人だか獣だか夫までは分らぬけれど、長く引く
余が何よりの失念は蝋燭を買い調えて来なんだ一事で有る。此の様な時に燐燧の明かりほど便りない者は無い、少しの間、少しの場所を照すけれど、直ぐに燃えて了って其の後は一層暗くなる様な感じがする。若し衣嚢の中に忍び蝋燭が一挺あったら、何れほどか助かるだろうに、殊に心細い事は、生憎余が持って居る燐燧が残り少なく成って居る、数えて見ると僅かに十二本しか無いのだ、十二本の燐燧で暗い暗い此の蜘蛛屋の大秘密を見究める事が出来ようか。
けれど唯一つ幸いなは戸の鍵穴に鍵が填った儘である、猶予すれば益々恐ろしく成って気が怯む許りだから余り何事も考えずに、目を瞑って猛進するが宜かろうと、余は直ぐに其の戸を明けて中へ這入った。仲々重い戸である、牢獄の戸かとも思われる戸の中が、暫しの間矢張り廊下になって居る様子だが、狭い事は非常である、決して二人並んで通る事は出来ぬ。余は此の狭い所をば、挾まれる様になって三間ほども歩んでヤッと広い所へ出た。茲が即ち室に違い無い。獣類だか人だか分らぬ声を発したも此の室の中に住んで居る何かの業であろう。
多分此の室は今、医学士の婆と話して居る頭の上に当たるらしい。「アレが動くのだ」と云った物音も此の室だろう。アレの本体も此の室で分るだろう。余は狭い所から身体を半分出して様子を伺ったが、室の中には不潔極まる臭気が満ちて居るけれど、何の物音もせぬ。茲こそはと、燐燧を
暗がりでは命にも譬う可き燐燧を、箱ぐるみ叩き落されては、何うする事も出来ぬ。余は真に途方に暮れ、唯身を蹐めて床の上を探る許りだ、何でも燐燧の箱を探し出さぬ事には一寸の身動きもせられぬ場合だ。
ソロソロと探る手先に、塗れ附く様な気のするのは床の埃で、仰山に云えば五六分も積んで居ようか。此の様な所で、人にもせよ獣にもせよ、能く命が続いたものだ。燐燧の箱も或いは埃の中へ埋まったかも知れぬ、夫とも何処かへ飛び散ったのか、余の手の届く丈の場所には無い。斯して居る間にも何者かが暗の中から余の挙動を伺って居る者と見え、手に取る様に其の呼吸が聞えるのみならず、呼吸の風が温かに余の頬に触わるかとも疑われる。
余は漸くに燐燧の箱を探り当てたが、何うだろう中は全く飛び散って空になって居る、之には全く絶望した。箱さえも埋まるかと思う埃の中で、細い燐燧に何うして探り当てる事が出来よう。と云って探らずには居られぬから、今は
斯う思うと余は聊か気丈夫に成った。先が余を恐れるならナニも余が先を恐れるには及ばぬ、寧ろ声を掛けて安心さして遣るが宜いと、低い声で「コレ何も己を恐れる事はない、お前の敵ではなく味方だよ、助けに来たのだよ」と云った、けれど少しも通ぜぬ様子だ、シテ見ると或いは人ではなく、矢張り獣物だか知らんと、又一応探り廻して見ると確かに
余は不意の事に、思わず背後へ手を突いたが、有難い其の手の下に正に一本の燐燧がある。早速に之を取り上げ、自分の被物で擦って見ると、明かりと共に余の目に映ずるは双個の光る眼である。次には大きな口から白い歯を
医学士は早や狭い廊下を通り盡して此の室の入口に全身を現わした。其の腋の辺から彼の婆が首を出して窺いて居る、彼は左の手に燭を持ち右には抜身の光る長剣を提げて居る、余を殺す積りか知らん。
併し彼は、余の姿を見て驚いた様子だ、多分此の室に此の様な他人が居ようとは思わず、唯何だか物音のするを聞き、此の室の兼ねての住者が騒ぐ者とのみ思い、威かして取り鎮める積りで長剣を光らせて来たので有ろう。余は彼の驚き怪しむ顔色を見て確かに爾だと見て取った。
彼は暫く余の姿を眺めた末、厳重な余の身体に少し恐れを催したか、身を引いて狭い入口の道へ這入った。スハと云えば逃げ出す覚悟と思われる。成るほど思えば尤もではある。医学者などと云う者は縦しや如何ほど悪党でも、腕力で以て直接に人と格闘して取り挫ぐなど云う了簡はないもので、一身の危い様な場合には兎角に
医学士の姿を見て此の室の住者は、全く畏縮して余の背後へ小さく隠れた。余は斯る間にも、医学士の持って居る手燭のお蔭で聊か看て取る事を得たが住者は全く人間で有る、獣物ではない、爾して鎖で繋がれて居た者と見え、一方に鎖が横たわって居る、併し其の鎖は切れて居る、是で先刻医学士が、最っと鎖を緊ねば可けぬなど云った意味も分る。
頓て医学士は顔に怪しみの色を浮かべたままで婆に振り向き「オヤオヤ婆さん茲に此の様な紳士がいるぜ」と云った。紳士とは痛み入る叮嚀なお言葉だが、商売柄だけ誰を見ても紳士と云うのが口癖に成って居ると見える、婆は医学士の背後から「イエイエ、お待ちなさいよ、グリムを呼んで来て噛み殺させるから」と云い早や立ち去ろうとする様子だ。グリムとは例の犬の名と察せられる、男たる物が犬を相手に、而も彼の猛き中の最も猛きボルドー種の犬を相手に、命の取り遣りをせねば成らぬかと思えば余り好い気持でない、医学士は之を留めて「イヤ婆さん、お前は此の紳士を知って居るのか」
婆「アア先っき伜を馬車に乗せて連れて来た人だよ」医学士「爾かい。では先刻途中で私を医学士とお呼び掛け成すったは貴方ですか」と是だけは余に向って云った。余は勿論叮嚀に、且つ厳かに、「ハイ私です」
医学士「ハハハハ
彼は急に真面目になり「成るほど私に油断をさせたのですネ、夫は兵法の「いろは」ですが、併し何で此の家へ忍び入り度いと思ったのです、貴方は探偵ですか」余「イイエ」医学士「成るほど探偵ではない、物の言い振りで分って居るが、矢張り唯の紳士ですな、唯の紳士が何の為に他人の家へ、物取りですか」余「先ア其の様な事とお思いなさい。兎も角私は忍び込んで既に多少見届ける所が有りましたから目的の一部は達しました。之で此の室の住者と共に茲を立ち去りますから、サア其所を退いてお通しなさい」
余は全く此の住者を連れて立ち去る積りである、此の住者が、何者か又何の為に茲に居るか、少しも考えは附かぬけれど、鎖まで附けて繋いである所を見れば、当人の意に背いて引き留めてある事は確かだから此の者を連れて去るのは此の者を救うのも同様だ。医学士は考えつつ「イヤ勿論貴方の立ち去るのを吾々が邪魔する権利は有りませんから勝手にお立ち去りなされですが、併し私は此の家の主人ではなく、只主人と懇意な間柄と云う許りで、御存知の通り主人は大怪我の為前後も知らず寝て居ますから、後で正気に返った時、若し私に向い、何故に他人の家へ忍び入る紳士を其のまま帰したかと問わるれば私は一応の返事もせねば成りません。其の時何と返事を致しましょう、是だけは貴方から伺って置かねば成りません」余「其の時は――左様サ、私が一枚の名刺を残して置きますから私の許へ親しく聞きに来いと言って下されば宜しいのです」医学士「では茲へ此の手燭を置きますから、余り時間の経たぬ中にお立ち去りを願います。お名札は下で戴きましょう、其の節猶一言申し度い事も有りますから」
斯う云って狭い出口を悠々と去って了った。婆は気を揉んで「お前、アノ様な者を何故立ち去らせる。お前は好かろうが、後で私が甚蔵から何の様な目に遭うかも知れぬ」と頻りに苦情を云う声も聞こえた。けれど何の甲斐もなく医学士に連れ出されて了った。
とさ、斯う思って居る中に早や外から入口の戸を
戸を閉じる音を聞きて余はハット驚いた、若しや医学士に一ぱい陥められたのではなかろうか、斯う思って狭い廊下を、戸口の所へ馳せ附けたが、残念、残念、事既に遅しである。外から既に戸に閂木を差し了った後である。
今思うと余は実に愚かであった、医学士が意外に弱い音を吐いて、少しも余の立ち去るのを妨げぬ様に云った時、余は彼の心に一物ある可きを看て取らねば成らぬ処であった。真逆に少しも疑わなんだ訳でもないが、斯様な巧みとまでは気附かなんだ、殊に手燭を置いて行かれた嬉しさに、此の燈光で室の中を見ようと思い、イヤ見ようと思うほどの暇もなく、只浮っかり見廻して居る間に、早くも斯様な目に逢ったのだ。
戸の外には未だ医学士と婆とが居るらしいから、余は戸を叩いて「モシモシ何で此の戸をお締めなさる」と叫んだ。医学士は鍵穴の辺へ口を接近させた様子で「イヤ貴方は其の室の中の住者を大層お可愛がり成さる様子だから当分同居させて上げようと思いまして」と無体極まる言葉を吐いて
此の様な横着な、狡猾な、爾して癪に障る仕打ちが又と有ろうか、余を飢えさせて弱らせて其の上で相手にする積りで居やあがる、余「では四五日も私を此の室へ閉じ籠めて置くと云うのですか」医学士「ハイ抵抗力のなくなるまでお宿を致す外は有りません」余「実は貴方がたのする事は人間に有るまじき所業です、何等の卑劣、何等の卑怯です、私の立ち去るのを少しも邪魔せぬなどと云い欺いて油断させて置いて、出し抜けに私を此の室へ閉じ込むなどと」医学士「ハイ夫が貴方に教わった兵法のいろはですよ。確か停車場へ荷物を取りに行くとか云って私に油断させ、爾して此の家へ忍び込んだは貴方でしたねえ、唯貴方の名刺を頂かなんだは残念ですが、夫を戴いたりする間に気が附かれては成らぬと、何れほどか私の心が
無益とは知っても斯う冷かされては其の儘止む訳に行かぬ、最一度突き当たって驚かせて遣ろうと、身構えをして居ると、忽ち室の中が暗くなって来た。余は此の時までも気附かずに居たが、医学士の置いて行った手燭の短い蝋燭が段々に燃え下り、到頭燃え盡きて了ったのだ。エエ残念な事をしたと、是も今更後悔の念に堪えぬけれど仕方がない、医学士は鍵穴から此の様を窺いて知ったと見え「サア婆さん最う行こうよ、己はな、油断させる為に手燭を室の中へ置いて来たから、夫が気に成り何でも蝋燭の盡きるまで
余は実に痛い目に遭った、真暗な一室へ閉じ籠められ、今は如何ともする事が出来ぬ。
何うすれば好いだろうと様々に考えても何の思案も浮んで来ぬ。此のまま茲に飢死にせねば成らぬだろうか。そうだ何うも飢え死ぬるまで此の室の囚人となって居る外はない、余を閉じ籠めた悪医学士の目的は分って居る、余に此の家の秘密を探られ自分等の罪悪を察せられたと思うから、唯余を此の世になき者とする一方だ、徒らに余を
誰か余を助けて呉れる者は有るまいか。イヤ有る筈がない。余が此の家に居る事は誰も知らぬ。真の夜中に、誰一人知らぬ間に我が家を脱出し、尤も途中でローストンの停車場から秀子に宛て電報を出したけれど用事の為
此の家の奴等は人を殺すのを商売の様にして居るのだから、余一人を殺すのを爾まで臆劫にも思うまい。庭の樹の下へ穴を掘ると婆の喋ったので分って居る、今まで幾人も此の室で殺して屋敷うちへ埋めたに違いない、余が此の通りの目に遭ったとて、誰がそうと知る事が出来よう。単に倫敦から行衛知れずに成った者と見做されて了うのだ。
実に辛い、残念だ、自分の死ぬるを厭わぬとしても、後で秀子が何の様な目に遭うだろうか。余の外に保護者とてはなく、叔父は有ってもなきが如しだ、少しも真逆の時の役には立たぬ。事に寄ると今既に秀子は肝腎の時に余が不在と為ったのを心細く思って居るかも知れぬ。
お浦が紛失して未だ幾日も経たぬのに、又も余が消滅したのならば、世間の人が幽霊塔を何の様に言うだろう。叔父も住み兼ねて他へ引き移るかも知れぬ。
併し空しく考えたとて詮ない訳だ、何とかして逃げ出さねば成らぬ。命の残って居る限りは逃げ出す道も求めねば成らぬ、併し此の暗やみで室の中の様子さえ分らぬでは道を求める由もないのだ。何時まで暗い訳ではなく、五六時間も経てば自ら夜は明ける、とは云え昼間では益々逃げ出すに都合が悪い。扨は明日の晩まで此の室に居ねば成らぬのか知らん。
如何にも癪に障る訳だ、夜の明けるまで寝るとしても埃の一寸も溜って居る室の中に身を横たえる訳に行かず、室の何所かに寝台でも有れば好いのに、爾だ、手探りに探って見よう、探って少しでも能く室の様子を知り、縦し身を横たえる所はないにしても少しでも早く逃げ出る道を得ねばならぬ、斯う思って余は探り探り元の室へ来、中の住者にも構わず、只管四方の壁を探ったが、一方には昔火を焚いたと思われる
又一方の壁には入口と違って通常の戸の締った出口の様な所が有る。アア此の室は一室ではなく、幾室か続いて一組の座敷を為して居るのであろう。次の室、居室、寝室と元は立派に備わって居たのかも知れぬと、更に其の戸を開けて見ると錠も卸りて居ぬ、全く次の室らしい、之へ歩み入って又探ると、茲は前の室と違い、様々の造作がある、押入、戸棚、化粧台の様な物も手に触わる、爾して片方には、オヤオヤ寝台がある、最一つ次の室が有ろうかと探って見ると、成るほど一つの戸口は有るけれど、此は固く締って居る、此の上に探ったとて同じ事よ、先ず寝台の有るのを幸いに、矢張り夜の明けるまで寝るより外は仕方がない。
寝台は爾ほど汚れても居ぬ様に思われる、埃の臭気は鼻に慣れて別に感じぬが、其の外に何だか鼻なれぬ香いがある、扨は女が此の間に居て今に化粧品でも残って居るのか知らん、余り心持の悪くない香いだ、臭気ではなく寧ろ香気だ、爾だ爾だ化粧台の有ったのを見ても女の住んだ事は分る、斯う思うと幾分か心の中も
余は唯是だけの事に大いに心を打ち
絵姿は余り古くもなく勿論見事でもない。多分は名もない絵工が内職に描いたのであろう。併し大きさは絵絹が勿体ないほど大きい、姿は女の立った所である、何も別に取り所とてはないが、唯其の眼が、真成に生きた様な光を発し、余を
余が今の境遇は、知りもせぬ女の画姿などに気を留めて居るべきでない、夫だのに何となく其の眼だけが気に掛かる、扨は余が未だ寝呆けて居るのか知らんと自分ながら怪しんで自分の目を擦って見た。爾して再び頭を上げて見直したが、是は何うだ、画姿の眼の生気は全く失せて居る、何の意味も何の光もなく、矢張り画相応に無趣味無筆力の眼である、余は何うしても合点が行かぬ、或いは寝呆けて見誤ったのかも知れぬが、併し此の画像の眼に何等かの曰くがあるに違いない、決して自分の見損いとのみは思えぬ。
けれど其の詮索は、今は仕て居られぬ、第一に見たいのは昨夜の、次の室の住者である、彼は何者か何の様な姿形か、斯う思って次の室へ行って見たが、室の向うの片隅に小さくなって
先ア何しろ此の態では可哀相だ、救い出して人間並みの待遇を受ける事に仕て遣り度い。縦しや秘密の場所へ隠すにしても、是では遙かに犬猫に劣る仕向だから、若し余が茲を脱け出る事が出来れば必ず此の者を連れて出よう、夫が出来ずば此の者と共に留まり自分の手で傷わって遣ろうと、余は今までに覚えぬほど惻隠の心を起した。
夜前は飛んだり跳ねたりして居たのに、アア爾だ今朝食物の差し入れの時、更に繋ぎ直されたのだ、誰が此の様な事をするか、是も医学士だ、シテ見ると医学士が今朝茲へ這入って来たのだ。実に大胆不敵な奴、余が此の室に居るのも構わず、イヤ夫とも余の眠って居たのを知って居たか知らん、爾だ知って居た、知って居た、爾なくば到底も這入って来はせぬ、併し待てよ余の眠ったを知って居たとすれば、何処かからひそかに余の挙動を窺いて居ると見える、ハテ其の様な窺く所があるか知らん。オオ、分ったぞ、分ったぞ、アノ絵姿の眼がそれだ、目の所が
余は胸の中に工風をたたみ、先ず此の住者の足の鎖を解いて遣ろうと、衣嚢から例の小刀を取り出して、其の中の錐や旋抜きなどを、鎖に附けて有る錠前に当て、智恵の限りを盡して見たが凡そ三十分の余に及んで到頭錠前を外して了った。
白痴ながら住者は
余は何か返礼をと思い、次の室へ行った、化粧台の中にある小箱や抽斗の戸などを外して来て夫等を砕いて煖炉に火を焚いて遣った。ナニ此の室の造作は悉く薪にしても惜しくはない、手当り次第に持って来て投げ込むと中々大きな火が燃え出したが、秋とは云えど朝などは早や肌寒を覚える頃だから、彼白痴の喜ぶ事、手を拍って煖炉の前で
煖炉の燃えて居る間に余は次の室に行き戸棚の中を検査したが、殆ど無一物の有様では有るけれど棚の隅に二三の薬壜が埃に埋まった儘である。若し余の想像の通り秀子が此の室に入った事が有るとすれば或いは是等の薬を呑んだかも知れぬと、取り出して埃を吹き払い、其の貼紙を見ると、一個は「阿片
今一枚、妙な浅黄色のが有るから最後にそれを検めると、余は実に気分が悪くなった。何うだろう、其の服は英国の監獄署で女の囚人が着ける仕着せである。真逆に秀子が此の様な物を被た筈はない。虎井夫人であろう、爾だ虎井夫人だ、虎井夫人だ、念の為衣嚢を引っ繰返して見れば、或いは中から誰のだか分る様な品物が出るかも知れぬ、ドレ引っ繰返そうかと余は手を出したけれど容易にそれほどの勇気が出ぬ、万に一つも秀子のと云う証拠でも出たなら取り返しが附かぬ、イヤ其の様な筈はない、何で秀子が囚人の服などを着ける者かと、又思い直して終に其の中を取り調べたが有難い事には中に何にもない。矢張り誰のとも分らぬのだ、エエ余計な心配をしたと、つまらぬ事を安心して是から残らずの着物の衣嚢を検めたが、唯一つ秀子のと思われる日影色の着物から一枚の名刺が出た、唯夫だけの事だ。
名刺の活字は鉛筆で甚く消して有る。けれど熟く視れば読める、「医学士大場連斎」とある、これが彼の医学士であろうか、更に名刺の裏を見ると、同じ鉛筆の文字で細かく「今の境遇にて真に御身を助け得る人は仏国巴里ラセニイル街二十九番館ポール・レペル氏の外には決して之なく候、既に同氏へ御身の事を通信致し置き候間、直々に行きて御申込成さる可く候」とある。何の事だか分らぬけれどこれこそは大切の手掛りとも云う可きだ。余が此の室を逃げ出し得ずして死んで了えばそれ迄だが、若し死骸と為らずして此の室を出る事が出来たなら必ず此のポール・レペルと云う巴里人をも尋ねて見よう。秀子を助け得るは此の人の外に無いと云う意味だから、秀子が何の様な境遇で何の様に助けられたのか夫とも茲に「御身」とあるは、秀子ではないのか、其の辺の事を突き留めずには居られぬ。
其のうちに早や午後と為り日暮と為った。余は空腹が益々空腹と為る許りだ。此の上に取り調べる所もないから、もう逃げ出す道を求める一方だが、さて何うしたら逃げ出されよう、少しも見込みが附かぬ。
考えながら次の室へ行って見ると、彼の白痴は煖炉の前に仆れ、眠ったかと思えば可哀相にサ、余が眠らぬ為此の者にまで食物の差し入れがないと見え弱り果てて、物欲し相にサ、余の顔を眺める許りだ。余は
見れば既に煖炉の火も消えて居る。猶焚く物は有るのだから、再び火を起すのは容易だが、何しろ燐燧が乏しいから夜に入って寒くなるまで此のままに置くが好かろう。
夜に入らぬうち逃げ道を探すのが肝腎だと、余は又立って室中の窓を悉く検めたが、孰れも真の牢屋の様に、鉄の棒を入れてある棒の中に、若しや上下の弛んで居るのはなかろうかと、一本々々を揺さぶって見るけれど孰れも堅固だ。幾等余の力を加えたとて其の甲斐はない。最早落胆せざらんと欲するも得ずだ。其のうちに愈々夜に入った、万感
何処に出口が有って彼の白痴は居なく成ったか。二度目の
斯う旨々と眠て居る者を、起すのも罪だから其のまま余は煖炉の前にかえり燃える火を眺めて居たが、余ほど身体が疲れたと見え、椅子に
是だ、是だ、穴を掘って死骸を埋めるとは、此の事だ、ハテな今夜は誰を埋めるのだろう、考える迄もない。余を埋める積りなのだ。医学士の言葉では余が空腹の為疲れるのを待ち、爾して取って押えると云う事で有ったから四五日は間があるかと思ったが、何かそう長く待たれぬ事情でも出来たのか、夫とも余が既に疲れて了ったと見込んだのか、ナアニ、未だ中々彼等の手に取り拉れる男ではない。来るならば来て見るが好いと、腹立たしさと共に俄かに勇気が出、身を引き緊めて瞰て居ると、穴は最う余ほど前から掘って居た者と見え、早や掘り上げて、医学士は身を延ばして見直した上、婆と共に家の方へ帰って来た。
サア、愈々余を殺しに来るのだと、余は彼の小刀を手に持って、入口の戸の所へ行き立って居ると忽ち次の室に当たり、非常な物音が聞こえた。何の物音とも判断は附かぬが、何しろ尋常ではないと思い、徐々次の室に行き、三本残る燐燧のうち一本を擦って見たが、余は余りの事に「アッ」と叫んだ。何うだろう、彼の白痴が寝て居た寝台がなくなって床へ夫だけの穴が開いて居る、全く、彼の寝台が陥穽で、床が外れて、寝て居る人ぐるみ下へ落っこちる様になって居るのだ。
此の様な惨酷な仕組みが有ろうとは思わなんだが、何でも昔此の家へ住んだ貴族か何かが敵を殺す為に此の様な秘密の仕掛を作って置いたのだ、夫を医学士が利用して、今まで幾人の命を奪ったであろう、実に残忍極まる奴等だ、夫にしても何が為にアノ白痴を此の仕掛けで殺しただろう。殆ど鶏を割くに牛の刀を以ってする様な者だと、余は少し怪しんだが、アア分った、彼等は此の寝台に白痴が寝て居ようとは思わず、全く余が寝て居ると思ったのだ。
余は其の穴へ近づいて下を瞰いたが、真っ暗で何れほど深いか更に分らぬ。仕方なく手に有る燃え残りの燐燧を其のまま落して見ると、凡そ二丈ばかりの深さはあるかと思われる。燐燧は光を放ちつつ落ちて妙な音がして消えて了った。是で見ると下は水だ、何でも古井戸の様な者で、白痴は余の身代りと為り其の中へ入って水死したのだ。
実に可哀相な事をした、と云って此のまま居れば遠からず人違いと云う事が分り、彼の医学士が驚いて何の様な事をするかも知れぬ、成るにもせよ成らぬにもせよ、何とか此の室を出る工風をせねば成らぬ、彼が充分に用意して、余を殺し直しに来るのを便々と待って居て
余は先ず小刀を以って抉って見たが、大して骨も折れずに其の刃が
爾すればアノ戸を破ったのも実際何の役にも立たぬかと、聊か残念におもい、先ず
今考えて見ると彼の絵姿を貼ってあった所は元の戸口で有ったけれど、其の戸がなくなったので板を填めそうして壁の色の違うのを隠す為に詰まらぬ絵を貼り、旁々外から内の様子を窺く便利に供して置いたのだ。つまり彼の室の内で一番破り易い所であった。余が彼処へ目を附けたのは幸いで有った。其の上に丁度甚蔵の寝室の戸の開いて居る時に出て来たのは殆ど天の助けとも云う可きだ。
余が甚蔵の室へ這入ると、彼は寝て居ながら直ちに
余が喫べて居る間に室の外では頻りに足音がする。何でも医学士と婆とだろう。音の様子では余の閉じ籠められて居た室を検めに行ったらしい。今に驚いて降りて来るだろうと思う間もなく、果たしてドサクサと降りて来て室の外から「博士、博士、大変だよ、彼奴巧みに様子を察し、身代りを立てて置いて逃げて了った」確かに医学士の声だ。穴川「ナニ逃げはせぬ、今此の室で、貴殿の用意して置いた、夜食を喫べて居るのよ」医学士「エエ彼奴がか、余っぽど腹が空いたと見える、拙者の今までの経験では空腹ほど人を意気地なくする者はない。先ア好かった拙者は最う、貴殿が彼奴に絞め殺されては居ぬかと気遣ったが」穴川「ナニ身体は利かずとも短銃を持って居るからそう易々絞め殺される様な事はない、安心したまえ」医学士「でも茲を開けて呉れと云って貴殿が起きて来て開ける事は出来ず、全体此の戸は何うして錠を卸したのだ」云いつつ、頻りに戸の引き手を廻して居る。穴川「ナニ短銃で差図して彼奴に
叱り附ける声で、婆も黙って了った。余も此の時、器だけを残して丁度食事を終ったが、是等の有様に依り熟々感じた。成るほど秀子が、毒蜘蛛が網を張って居て、人を捕えて逃がさぬ様に話したのは茲の事だ、毒蜘蛛と云ったのは全く言葉の上の
余は穴川に大談判をせねば成らぬが、兎に角彼の手に在る短銃が気に掛かる。折さえ有れば奪い取り度い、アレを取って了いさえせば、彼は骨も筋もない
余は故と短銃に少しも頓着せぬ様な風を見せて、愈々言葉を発した。「扨穴川さん、私が貴方と汽車に同乗して貴方を助け、爾して此の家へ来る様に成ったのは偶然の様で、偶然でない、実は貴方と談判を開く積りで幽霊塔から尾けて来たのだよ」と云って先ず余の名刺を出して渡した。彼は幽霊塔と云う言葉に既に驚いた様子であったが、余の名刺を見て益々驚き「エ、エ、貴方が丸部道九郎さんですか」と呆れた様な顔をした。是が彼の運の盡きで有った、呆れる拍子に少しの隙が有ったから、余は直ぐに彼の手から短銃をぎ取った、真に咄嗟の間で、彼に少しも抵抗の猶予を与えなんだのは我ながら手際で有った。
彼が立腹の一語をも発し得ぬ間に、余「此の様な物が有っては話の邪魔に成って仕方がない。話の済むまで私が預って置きましょう」彼「夫は非道い、出し抜けに奪い取るとは紳士に有るまじき――」余「イヤ紳士の談話には短銃の
唯是だけで、早や主客処を異にした有様と為った。彼は猶グズグズ云うを「お黙り成さい、男らしくもない」と一言に叱り鎮めて置いて「実は私は茲で貴方に射殺されて了い度いのだ。勿論生きては還らぬ積りで、夫々後の用意をして貴方を尾けて来たのですから」甚蔵は独語の如くに「アア夫だから秀子が意地が強かったのだ、何の様な目に逢っても面会はせぬから勝手にするが好いなどと、失敬な返事を言伝にして」余「或いはそうかも知れません、兎に角私は叔父朝夫に相談して、此の身が若し三日目までに帰らなんだら、殺された者だから直ぐに其の筋へ訴えて捕吏を此の養蟲園へ差し向けて呉れと云うて有ります。夫だから何うしても明日中に帰らねば好くないのです、今夜此の通りアノ室を脱け出したのは私よりも寧ろ貴方の為と云う者です」穴川「だって短銃を取られた上は、貴方を殺す訳にも行かず、捕吏が来たとて私を捕える
彼の顔附きは見るも憐れな有様である。立腹と当惑と、決心と恐れとが戦って居る、頓て彼は弁解する様な口調で「罪跡とて私に何の罪跡が有るのです、正直に蜘蛛を養って一家を立てて居る殖産家ですが、エ、二階に白痴を留め置いたのが罪跡ですか。彼は私の知った事ではなく、唯大場医学士、イヤ医学士ではないけれど仮に医学士と云いますが、監獄医大場連斎の頼みに応じ二階の空間を貸した迄で、貸した室へ大場が何を入れて置くか私の知った事では有りません」偖は彼の医学士は監獄の医者を勤めて居た者と見える、余「勿論大場の罪と云う事は逃れますまいが――」穴川「イイエ大場とても爾ほどの罪ではないのです、世間の医者が誰もする一通りの事をして居るのです」余「エ、世間一通りの事」穴川「ハイ夫は最う素人が聞けば驚きましょうが、医者と云う他人の家へ立ち入る商売から云えば当り前です。孰れの家にも随分家名に障る様な家族は有る者で、公の養育院や
余が愈々立ち去ろうとするを見て、穴川はあわてて熱心に引き留めた。「お待ち成さい、お待ち成さい丸部さん、少し云う事が有りますから」
偖は彼全く閉口したと見える、余は言葉短かに「何ですか」穴川「貴方は未だ秀子の身の上を知らぬのです、私を追い払えば秀子が助かると思うから間違いです。秀子の身の幸福にする事の出来るは広い世界に唯一人しかないのです、其の人は私では有りません」実に異様な言い分で、余は合点し兼ねるけれど、何だか口調が嘘らしくも見えぬから「エ、何ですと」穴川「其の人の許へ行って頼みさえすれば、イヤ其の人が
余は問い返さぬ訳に行かぬ。
「其の人は誰ですか」穴川「サア其処が私の秘密ですよ、只は聞かせる事が出来ません、貴方から堅い約束を得た上でなくては」余「何の様な約束です」穴川「私を其の筋へ訴えたり、又は外国へまで遣ったりする前に、屹度其の人の所へ行くという約束です」余「其の様な約束が何になります」穴川「私に取っては重大な事柄です」余「何んで」穴川「貴方が其の人の所へ行って頼みさえすれば成るほど是では穴川を
成るほど夫もそうである、其の人に逢って見て、若し余が穴川に欺されたと分れば其の上で散々に穴川に仇を復す事が出来る。欺される気で、其の人に逢って見るも一策だ。余「では其の人の住所姓名を聞かせて下さい」穴川「
余り異様な言葉だから、多分は余を馬鹿にする積りだろうと幾度か思い直したけれど、実地に試さねば分らぬ事、エエ欺されて見ようと思い「必ず其の人の許へ行く事を約束しますから住所姓名を聞かせて下さい、サア誰ですか」穴川は此の際になり、嘘か誠か、惜し相に少し躊躇し「仕方がない、私の身には大変な損害ですけれど云いましょう。巴里のラセニール街二十九番に住んで居るポール・レペル先生です」扨は日影色の着物から出た彼の医学士の名刺に、御身を助けるは広い世界に此の人の外にないと書いて有った其の人だ、事の符号して居る所を見ると満更嘘らしくもない。縦しや嘘にしても、多少は此の人が秀子の身の秘密に関係して居る丈は、確からしいから兎に角逢っては置く可きだと、余が心に思案する間に、甚蔵は全く残念に堪えぬ様子で「エ、此の人が再び秀子を保護し、新たな生命を与えたなら、最う秀子をユスる事も何うする事も出来ぬ、大事の金の蔓に離れる様な者だけれど、背に腹は替えれぬから仕方がない」と呟いた。余「では成る可く早く其の人の所へ行く事に仕よう」と口にも云い心にも思いて、甚蔵に分れを告げ、直ぐに此の室の窓を開いて其所から出て、爾して窓の外から先程の短銃をば「サア確かに返しますよ」と云って内へ投げ込み、ヤッと此の厭な養蟲園を立ち出でた。
養蟲園を出て、余は直ぐにも巴里へ行き度い程に思ったが、併し先ず秀子の顔を見たい。既に二日も秀子に逢わぬから、何だか他の世界へでも入った様な気がする、平たく云えば秀子の顔が恋しいのだ。
此の時は既に夜明けで、夫から歩んで停車場へ着いたのが丁度一番汽車の出る時であった。直ぐに乗って午後の二時頃に幽霊塔へ帰り着いた、玄関へ歩み入ると番人が異様な顔して「秀子様も旦那様も貴方の行く先の分らぬのを大層御心配でした」と云う。其の言葉には語句の外に
何事にも用心の行き届く日頃に似ず、室の戸も開け放して有る、中に入れば隅の方の傾斜椅子に、秀子は身を仰向けて倚り掛り、天井を眺めて、散し髪を椅子から背後へ垂らし、そうして両手を頭の上へ載せて組んで居る。実に絶望とも何ともいい様の無い有様である。殆んど余の来た事さえ気が附かぬ程に見えるから、余「秀子さん何う成さった」秀子は驚いた様に飛び起きて「オオ好う早く帰って下さった」と云い其のまま余の胸へ縋り附いた。不断は仲々此の様な事をせず、恐れでも悲しみでも又は嬉しさでも総て自分の胸へ畳み、最と静かに、何気なく構えて居る質だのに、今に限り斯うまでするは能く能くの事に違いない。「どうしました、先ア静かに話して下さい」と背を撫でて傷わるに、秀子「最うとても助かりません天運です、広い世界に、何で私だけ此の様な目にのみ逢うのでしょう。前には浦子さんを殺したなどという疑いを受け、今は又――今は又」と云い掛け、後の言葉は泣き声と成って了った。余「今は又何うしました、エ秀子さん又何かに疑いでも掛りましたか」秀子「掛りましたとも、ハイ私が父上を毒害したなどと云いまして」父を毒害とは何の事ぞ。余は「エ、エ」と叫んで我れ知らず秀子を推し退け「叔父の身に何か事変が有りましたか」
秀子「ハイ、私の注いで上げた葡萄酒に毒が有ったとの事で、一昨日から御病気です」余「エ、一昨日から、爾して今は」秀子「今は何の様な御病体だか、下女などの話に少しお宜しい様には聞きますけれど――私が直々に介抱して上げたいと思っても、私を其の室へ入れては又も毒薬でも用いる様に疑い、近づけてさえ呉れません、此のまま父上が若しもお亡くなりなされば、秀子の毒害の為だと云い、又お直り遊ばせば秀子を遠ざけて、毒害を続けさせなんだ為だと云います、
余は恐ろしい夢を見て居る様な気持だ。「イエ秀子さん、誰が何と仕ようとも又運が何の様に悪かろうとも、最う私が居るなら、大丈夫です、決して貴女へ其の様な疑いを掛からせて置きは仕ません。既にお浦の事件でも貴女にアレ程重く疑いの掛かって居たのを私の言葉で粉微塵にしたでは有りませんか。少しも心配なさらずに全く私へ任せてお置きなさい」
秀子「其の様に行けば、何ほどか嬉しかろうと思いますけれど、今度の事ばかりは、何方の力にも合いません」
云う中にも余を便りにして幾分かは落ち着く様子が見える。余は何にしても叔父の容体が気に掛かるから、幾度も秀子に向い「全く安心してお出でなさい」と念を推した上、更に叔父の病室へ遣って行った。
余が戸口まで行くと恰も中から看護人の服を着けた男が出て来た。看護に疲れて交代する所らしい、余は此の人の顔に確かに見覚えがある、けれど其の誰と云う事は今は云うまい、先ず
姿は異って居るけれど確かに此の看護人は先にお浦の事件にも関係した探偵森主水である。余は彼の目の底に一種の
彼は名を指されて痛く驚いたが強いて空とぼけもせぬ。忽ち笑って「イヤ姿を変えるのは私の不得手では有りますが、けれど素人に見現わされたは二十年来初めてです。貴方の眼力には驚きました」と褒める様に云い、直ぐに調子を変えて「所で私へのお話とは何事です」と軽く問うた。
余は何事も腹蔵なく打ち明け呉れと頼んで置いて、爾して何故に秀子へ恐ろしい嫌疑が掛かったかと詳しく聞いたが、成るほど仔細を聞けば尤もな所も有る。
彼の言葉に依ると余が彼の穴川甚蔵を追跡して此の家を去った日の未だ暮れぬうち、余の叔父は兼ねて言って居た通り法律家を呼んで遺言書を作り、余と秀子とを丸部家の相続人に定め、余には未だ言い渡さぬけれど秀子には直ぐに其の場で全文を読み聞かせたと云う事だ。スルト翌日の朝になり、彼の高輪田長三が叔父の手へ何事か細々と認めた手紙の様な者を渡した。其の中には何でも秀子の身の素性や秘密などを書いて有った相で、叔父は非常に驚いて、直ぐに秀子を呼び附け、其の方は此の様な事の覚えが有るかと問い詰めた。秀子は暫くの間、唯当惑の様を示すばかりで何と返事もし得なかったが、頓て深く決心した様子で有体に白状した。
サア其の決心と云うのが、探偵の鑑定に由ると叔父を殺すと云う決心らしい。茲では白状して叔父に安心させ油断させて置いて、後で窃かに毒殺すれば好いと斯う
其の有様を察すると、前日の遺言状の旨を後悔し、迚も秀子を相続人にする事は出来ぬから、何とか定め直さねば成らぬと独り思案をして居たのかも知れぬ。随分其の様に言えたので、秀子は多分、其の遺言状を書き直さぬうちに叔父を殺さねば其の身が大身代の相続権を失うが上に、又此の家から放逐せられ、身の置き所もない事になると思っただろう、数時間の後再び叔父の室へ行き、二言三言機嫌を取った末、余り叔父の血色が悪いからとて、葡萄酒でもお上り成さいと勧め、棚の
幸い叔父は皆まで呑まずに気が附いたから其の時は唯身体の痺れたくらいで済んだ、爾して直ぐに此の酒には毒があると云い、呑み掛けた硝盃と酒の瓶とへ両手を掛け人を呼んで封をさせて了った、夫だけがやっとの事で其の中に痺れが総身へ廻り、後は何事も為し得ぬ容体と為った。
けれども是も少しの間であった。医者の手当の好かった為か、宛も酒の酔の醒める様に数時間の後は醒めて了ったが、叔父は少しも之を秀子の仕業とは思わず、猶も秀子に介抱などさせて居たが、唯叔父を診察した医者が容易ならぬ事に思い、其の帰り道に偶然警察署長に逢ったを幸い、兎に角も内々で注意して呉れと頼んだ相だ。丁度其の署長が警察署へ帰った時に、此の森探偵が来合わせて居て其の話を聞き、既にお浦の紛失の事件も自分が調べ掛けて其のままに成って居るし、何しろ幽霊塔には合点の行かぬ事が多いから暫く此の事件を自分へ任せて呉れと云い、漸く其の承諾を得て此の土地の探偵一名を手下とし、看護人の様で、右の医者から此の家へ住み込ませて貰ったと云う事である。
爾して第一に彼の呑み掛けの
余は是まで聞き「グラニル」とは
毒薬の瓶が秀子の室に隠して有ったとは実に意外な事柄である、流石の余も弁解する事は出来ぬ。
併し余は必死となり「けれど森さん、世に疑獄と云い探偵の過ちと云う事は随分有る例です。是こそは動かぬ証拠と裁判官まで認めた証拠が
サテ斯う云われては、之が反対の事情だと指して示す程の事柄は一つもない。余はドギマギと考えつつ「え譬えばさ」森「ハイ譬えば」余「お浦の紛失に就いても秀子が疑われたでは有りませんか、シテ見れば誰か秀子に犯罪の疑いを掛け度いと企んで居る人が有るかも知れません」森「有るかも知れずないかも知れず、其の様な事は数えるに足りません。夫から」余「夫から、左様さ此の家には素性履歴の分らぬ人間も随分あります。夫等の人間が何かの目的を以て秀子に疑いの掛かるように仕組まぬとは云えますまい」森「其の人間は誰ですか、先ず多勢ある者と見做して其の中のたった一人で宜いから名指して御覧なさい」余「譬えば高輪田長三の如き」
余は言い
其の様な密告がある筈が無いと思うけれど、実際何事の密告で有ったか余も森も知らぬから言い争うわけにも行かぬ。森は猶言葉を継いで「夫に高輪田氏は一昨日此の家の二階から落ち、私が扶け起して遣りましたが、殆ど身動きも出来ぬ程と為り、一室に寝て居ます。医者の言葉に由ると外に心臓の持病もあり、夫が大分に亢じて居る様子で此の様な事に関係する力も無いのです」余の言い立つる所より森のいう所が何うも力が強そうだ、余「縦しや高輪田が関係せぬにしても、秀子の仕業と云う証拠にはなりません」森「所が秀子は叔父上の室へ出入りを止められて居るにも拘わらず、昨朝も病気見舞に托して叔父上の傍に行き今度は盃へ水を注いで呑ませましたが、其の水にも又毒が有ったと見え叔父上は前と同様に身体が麻痺しました」
余は唯驚くばかりだ。何と弁解する事も出来ぬ、泣き度い様な声を発して、全くの必死と為って「だって森さん、人を疑うには其の人の日頃をお考えなさい、日頃秀子が、人を毒殺する様な女ですか、又高輪田長三の日頃をもお考えなさい」森「サア日頃を考えるから猶更秀子に疑いが落ちるのです」余「エエ、秀子に日頃何の様な欠点が有ると仰有る」森は直接には之に答えず「高輪田氏の日頃は一の紳士として少しも疑う所はなく、此の幽霊塔の前の持主で、お紺婆に育てられて、尤も一時は大分放蕩をした様ですが夫も若気のいたずらで随分有り勝ちの事、其の頃から今までも一通りの取り調べは附いて居ますが、別に紳士の身分に恥ずべき振舞いとてはありません、之に反して秀子の身は」余「エ、秀子の身が何故『之に反して』です」森「貴方には云わぬ積りでしたが、イヤ貴方はお知りなさるまいが、秀子は前科者ですぜ」余「エエ、前科者とは何の事です」森「イヤ、既決囚として監獄の中で苦役した事のある女ですぜ」此の恐ろしい言葉には、余一言も発する能わず。
前科者、此の美しい、虫も殺さぬ様な秀子が、懲役から出て来た身だなどと誰が其の様な事を信ずる者か。
とは云え、信ぜぬ訳にも行かぬ。余は養蟲園の一室で、秀子が着たと思われる日影色の着物と一緒に、牢屋で着る女囚の服の有るのを見た。其の時は或いは虎井夫人でも着たのかと思ったが、アレが秀子ので有ったのか、全く秀子が懲役に行って居たのか。
懲役に行ったとて牢屋の着物を外まで被て出る者はない、牢屋の着物は監獄のお仕着せだ、縦しや着て居たいと思ったとてそうは行かぬ、之を着て出るのは牢破りの逃走者ばかりだ、若しアノ服を秀子の着たものとすれば秀子は牢破りの罪人か知らん、アノ服を着けたまま監獄から忍び出て来たのか知らん、思えば思うほど恐ろしい。
待てよ秀子の着物の中には医学士と自称する大場連斎の名札が有った。連斎は一頃監獄医を勤めたと穴川が云って居た。此の辺の事柄を集めて見ると一概に森主水の言葉を斥ける訳に行かぬ。秀子は前科者で無いとは限らぬ、而も脱獄の秘密まで有るが為で、夫に今までも甚蔵等にユスられる境涯を脱し得ぬので有ろうか。
余は腹の中は煮え返るほど様々に考えた末、森に向い「では是から何うなさるのです」と問うた。森「する事は極って居ます、繩掛けて引立てる迄の事です」余「だって秀子が前科者で有る無しは今の所単に貴方の推量では有りませんか、推量の為に人を拘引するなどは」余「イヤ前科者で有る無しは別問題です、縦しや前科者と極った所が既に服する丈の刑を服して来たのならかれこれ私が問う訳はなく、其の点は唯心得までに調べさせて有る丈です。其の点の如何に拘わらず、既に貴方の叔父御に毒害を試みたという明白な罪跡が分りますから、此の儘に捨て置く事は出来ません」余「何時拘引するのです」森「是から私が詳細の報告書を作って倫敦へ送り其の筋から逮捕状を得ねばならぬのですから、多分は明後日になりましょう。是は職務上の秘密ですけれど
余「私は飽くまで其の嫌疑の無根な事を信じますもの、何で逃亡を勧めますものか、又秀子とても其の身の潔白さえ
けれど若し逃亡せねばならぬ様な身上の女なら勿論愛想の盡きた話で、逃亡させる必要もなく寧ろ余から繩を掛けて出さねばならぬが、秀子に限って其の様な事は決してない、どうしても余の力で其の潔白を証明して遣らねばならぬ、何うすれば其の証明が出来るだろう、余が唯一つの頼みとするは甚蔵から聞いた彼の巴里のポール・レペル先生だ。兎に角も此の人に相談する外はない。若し此の人が深く秀子の日頃を知り、決して前科者でなく、決して毒薬など用うる女でないといえば此の土地へ伴うて来て証言させる。此の人と秀子との関係は分らぬけれど、秀子に新しい命を与えるとまで云われる人だから、此所で其の新しい命を与え、死中に活を得て秀子の危急を救うて貰わねばならぬ。
余は堅く決心して、森に向い、何うか秀子の拘引を今より三日猶予して呉れと請い、其の間には必ず反対の証拠を示しますと断言した。森「イヤ今から三日ならば大方私の思う通りですから、別に貴方の請いに応じて猶予して上げるという程でもありません。反対の証拠が(若しあるなら)充分にお集めなさい、併し三日より上の猶予は決してありませんよ」余「宜しい」森「何うして貴方から決して秀子に逃亡させぬという事を誓って貰わねばなりません」余「誓います、決して逃亡はさせません」先ず相談一決した様な者だ。巴里へ行って何の様な事になるかは知れぬけれど外に何の工風もないから、余は早速巴里を指し出発する事とした。
待つ間を、秀子の室に行ったが、探偵の云った事を其の儘秀子の耳に入れる訳には行かぬ。御身は果たして前科者なるやと、茲で問えば分る事では有るが、余の口が腐っても其の様な事は能う問わぬ。前科者でないに極って居るのに何も気まずく問うに及ばぬ、又茲で逃亡を勧めるのも最と易い、けれど是も必要のない事だ、潔白と極って居る者に、逃亡など勧める馬鹿が有る者か、其の潔白の証拠を集めるのが此の巴里行の余の目的ではないか。
余は唯秀子に向い、何も彼も余が引き受けたから少しも心配するに及ばぬ、親船に乗った気で居るが好いとの旨を、繰返し繰返して云い聞かせた、秀子は誰一人同情を寄せて呉れる者のない今の境涯に、此の言葉を聞き深く余の親切に感ずる様子では有るが、併し親船に乗った気には成れぬと見える、兎角に心配の様子が消えぬ。
其のうちに叔父が目を覚ましたと、女中の者が知らせて来た。余は秀子に向い、止むを得ず巴里へ行くけれど一夜泊で帰ると云い猶留守中に何事もない様に充分計って置いたからと、保証する様な言葉を残し、直ちに叔父の寝室をさして行ったが、廊下で又も森主水に逢った。彼は用ありげに余を引き留め「丸部さん、先刻秀子を引き立てるには猶だ三日の猶予が有る様に申しましたが事に由るとそれ丈の猶予がないこととなるかも知れません」余「エ、事に由ると、貴方はあれほど堅く約束して今更事に由るとなどは何の口で仰有るか」森「イヤ一つ言い忘れた事が有ります。若しも叔父上は明日にも病死なされば、既に毒害という事が其の筋の耳に入って居ますから、必ず検屍が居るのです、検屍の結果として直ちに其の場から秀子が引き立てられる様な場合となれば私の力で、如何ともする事が出来ませんから是だけ断って置くのです」成るほど其の様な場合には森の力には合うまいけれど、此の言葉は実に余の胸へ剣を刺した様な者だ。
叔父の身は果たして三日の間も持ち兼ねる様な容体であろうか。若し爾ならば見捨てて旅立する訳には行かぬ。秀子を救い度い余の盡力も全く時機を失するのだ、実に残念に堪えぬけれど仕方がないと、余は甚く落胆したままで叔父の病室へ入った。叔父は目を覚まして居る。「オオ、道九郎か、今女中に呼びに遣ったが」余「ハイ叔父さん、御気分は何うですか」叔父「一眠りした為か大層宜く成った。此の向きなら四五日も経てば平生に復るだろう」成るほど大分宜さ相だ。真逆に探偵の云った様な三日や四日の中に検屍が有り相には思われぬ。余は聊か力を得て「若し叔父さんの御用がなくば、私は止むを得ぬ用事の為大急ぎで巴里へ行って来たいと思いますが」叔父は目を張り開いて余の顔を見「又旅行か」と殆ど嘆息の様に云うは余ほど余の不在を心細く思うと見える。余「ハイ行き度くは有りませんが止むを得ぬ用事です」叔父「其の方が居なくては定めし秀子は困るだろう」秀子の事を斯うまでに云うは、猶だ秀子を見限っても居ぬと見える、余は其の心中を確かめる様に「ハイ何だか秀子が様々の疑いを受けて居る様に聞きますが」叔父「ナニ秀子は己に毒などを
叔父は
言葉に籠る深い意味は察する事が出来ぬけれど、甚く此の世に不満足を感じて居るは確かだ。或いは余が秀子を思い始めたのを悪魔の干渉とでもいうのだろうか。秀子に身代を遣るという遺言状を書き替え度いのは見えて居るが夫を書き替えれば余の身の利害にも関係するから、夫ゆえ書き替えずに
ポール・レペル先生とは何の先生であろう。余は夫さえも知らぬ。全く無我夢中ではあるけれど唯何となく其の人に逢いさえすれば秀子が助かる様に思う、尤も外に秀子を助くべき道はないから何が何でも此の人に逢って見ねばならぬ。
此の様な決心で塔を出て、夜に入って倫敦へは着いたが、最う終列車の出た後だ、一夜を無駄に明かすも惜しい程の場合だから、何か此の土地で秀子の為になる仕事は有るまいかと思案して、思い出したは彼の弁護士権田時介の事だ。
今まで彼の事を思い出さなんだが不思議だ。彼が秀子の秘密を知り且は一方ならず秀子の為を計って居る事は今まで能く知れた事実で、此の様な時には秀子の為に熱心に働くに違いない。のみならず余よりも工夫に富んで居る、余は巴里へ行く前に彼に相談するが然るべきだ。唯彼は秀子に対する余の競争者である、恋の敵である、此の点が少し気掛りで聊か忌まわしくも思われるけれど、今は其の競争に余が勝って居るのだから、彼を忌むよりは寧ろ大目に見るべき場合だ、殊に秀子の為なれば区々たる其の様な感情は云って居られぬ。何れほど好ましからぬ相手とでも協同一致せねばならぬ。
此の翌日の午後には早や巴里へ着した、ラセニール街二十九番館へ尋ねて行った。街は至って静かな所で殊に二十九番館は人が住むか狐が住むか、外から見ては判じ兼ねる様な荒れ屋敷で、門の戸も殆ど人の出入りする跡が見えぬ。或いはレペル先生が茲に住んだのは数年前の事で今は何処へか引越したかも知れぬと思ったけれど、潜りから入って陰気な玄関の戸を叩いた。暫くして出て来る取り次は年の頃六十程で、衣服も余ほど年を取って居る、此の向きではレペル先生というも余り世間に交際せぬ老人らしい、其の様な人が、どうして遠く英国に居る秀子を助ける事が出来ようと、余は初めて危ぶむ念を起したけれど、今は当って見る一方だ、余は唯「先生は御在宅ですか」と問うた。取り次の言い様が面白い「ハイお客に依っては御在宅ですが」とて穴の明くほど余の相恰を見た上で「貴方は何方です」余「ポール・レペル先生の知り人から紹介を得て、遠く英国からたずねて来ました」取り次「英国ならば、別に遠くはありません、当家の先生へは濠洲其の他世界の果てから尋ねて来る客もあります」とて、先ず主人が世界に名を知られた身の上なるを
室の中は外の荒れ果てた様とは打って変り注意周到に造作も掃除も行届いて、爾して室の所々に様々の鏡を配列してある。何だか其の配列が幾何学的に出来て居る様に思われる、鏡から鏡へ、反射又反射して、遠く離れた場所の物影が写って見える、余り類のない仕組である、唯是だけでも主人が一通りの人でない事が分るが、又思うと余が茲にウロウロ鏡を眺めて感心して居る様が遠く主人の室に写り、今正に主人に検査せられて居るかも知れぬ。
斯う思うと急に身構えを直したくなるも可笑しいけれど、主人の室から余の姿が見えれば此の室へも主人の姿が写るだろうと又見廻したが、天井も処々に鏡をはめて有って、爾して天井際の壁に、イヤ壁と天井との接する辺に、幅一尺ほどの隙間がクルリと四方へ廻って居る、此の隙間が、此の室と外との物の影が往き通う路であるに違いない。併し人の姿らしい者は何の鏡にも写っては居ぬ。
余は身構えを正して許り居る訳には行かず、只管鏡に映る幾面幾色の影を、かれこれと見て廻って居たが其の中に、影の一面へ忽ち人の姿が写った、其の姿たるやだ、旅行服を着けた背の高い紳士で小脇に方一尺ほどの箱の様な物を挾み、急いで立ち去る様な有様で有るが、生憎に背姿で顔は分らぬ、けれど確かに余が目に見覚えのある人らしく思われる。
ハテな誰だろう、
権田時介、権田時介、余は英国を立つ時にも彼を尋ねて逢い得なんだのに、今此の家から彼の立ち去るを見とむるとは実に勿怪の幸いである。暫し彼を引き留め度いと思い、室の外へ走り出て見たが、鏡に写った彼の影が、実際何処に居る者やら少しも当りが附かぬ、廊下には何の人影もない、更に庭へ降りて門の辺まで行って見たけれど早や彼の立ち去った後と見え、四辺寂寞として静かである。
彼が何の為に此の家へ来たのか、云う迄もなく秀子の為であろう。併しどうして此のポール・レペル先生に頼る事を知ったであろう。余さえも唯非常な事情を経て漸く知り得た所であるのにイヤ是を見ても彼が余よりも深く秀子の素性を知って居るは確かである。恐らく彼は穴川甚蔵や医師大場連斎などと同じく秀子の身の上を知り盡して居るであろう、然るに余は、然るに余は――そうだ、全くの所秀子が何者であるかと云う事さえ知らぬ、幽霊塔へ現われる前、秀子は何所に何うして居た女であろう。思えば実に余の位置は空に立つ様な者である。実を云えば此のポール・レペル先生がどうして秀子を助け得るやをさえ知らぬのだ。
併し先生に逢えば何も彼も分るであろうと独り思い直して元の室へ帰った。暫くすると前の取り次の男が再び来て、先生の手がすいたから此方へと云い、奥深く余を連れて行きとある一室の中に入れた、此の室は今まで居た室と大違い、最と風雅に作り立て、沢山古器物杯を飾り、其の中に仙人の様に坐して居る一老人は確かにポール先生であろう、童顔鶴髪と云う語を其のまま実物にしたとも云う可き様で、年は七十にも近かろうが、顔に極めて強壮な色艶が見えて居て、頭は全くの白髪で有る、余は人相を観ることは出来ぬけれど、此の先生確かに
誰と答えて好かろうかと少し躊躇する間に熟々先生の顔を見るに、実に異様な感じがする、初めて秀子を見た時に、余り美しいから若しや仮面を被って居るのでは有るまいかと怪しんだが、今此の先生の顔を見ても矢張り其の様な気がするのだ、或いは此の人が秀子の父ででもあろうか、イヤ其の様な筈は決して無い、此の様な勢力の有る人が秀子の父なら、何で今まで、秀子が様々の苦境に立つのを見脱して居る者か、秀子は既に父母を失った身の上で有る事が様々の事柄に現われて居る。
余は此の様に思いつつ、詮方なく「ハイ穴川甚蔵から聞きまして」と云った。先生は少しも合点の行かぬ様子で「ハテな、穴川甚蔵と、其の姓名は私の耳に、左様さ貴方の顔が私の目に新しいと同様に新しいのです」余「エエ」先生「イヤ初めて聞く姓名です」と云って、少し余を油断のならぬ人間と思う様な素振りが見えた。余は大事の場合と言葉を改めた、「ハイ其の穴川と云うは医師大場連斎氏の親友です」先生「アア大場連斎ならば分りました、久しく彼から便りを聞きませんけれど数年前は度々私の門を叩きました、彼の紹介ならば心置きなくお話し致しましょうが、イヤ好うこそお出で下さった、此の様な場合に根本から救う事の出来るのは広い世界に私より外はないのです」
根本から救うと云う所を見れば、早や余の目的を知って居るのか知らん、余は聊か気を奪われ、少し
余「ハイ貴方を命の親の様に思えばこそ、遙々救うて戴きに来たのですが」
先生「では早速条件を定めて其の上で着手致しましょう。多少の出来不出来こそあれ、万に一つも全く仕損ずると云う事は私の手腕にはないのですから」充分保証する言葉の中にも何だか腑に落ちぬ所が有る。着手するの仕損じがないのと、此の先生は直接に余の身体へ、何うか云う風に手を下す積りでは有るまいか、斯う思うと何だか余は自分の肉が縮み込む様な気持に
何うも先生の言葉に、余の腑に落ちぬ所がある。余は秀子を助けて貰う積りで来て、若しや飛んでもない事に成りはせぬかと気遣わしい心が起きた。併し余よりも先に権田時介が来た所を見れば此の先生が秀子を助け得る事は確からしくも思われる、全体権田は何の様に此の先生へ頼み込んだであろう。それさえ聞けば大いに余の参考にも成るのにと、此の様に思ううち先生は独語の様に「妙な事も有る者です、松谷秀子の名前は、久しく思い出さずに居たのですが今日は久し振りで、二人の紳士から別々に其の名を聞きますよ」余は
余「では先生、貴方にお頼み申せば、何の様な事件でも助けて下されましょうか」先生は猶も厳かに「無論です、けれど私は依頼者から充分事情を聞き取った上で無ければ承諾せぬのです、少しでも私へ隠し立てをすればそれでお分れですが」余「勿論一切の事情を打ち明けます」先生「詰まり助ける人と助けられる人とは一身同体とも云う可き者で、全く利害を共にする故、双方の間に充分信じ合う所が無くては成りません、所が私は未だ貴方の姓名をさえ知らぬのです」余「ハイ、私は丸部道九郎と云う者です」
先生「様子を見た所では多分英国の貴族でしょうが、私は平生貴族名鑑などを読みませんから、丸部という姓へ何れほどの尊敬を加えて好いか少しも見当が附きません」余「イヤ別に尊敬せられたくは有りませんが」
先生「爾でしょう、爾でしょう、尊敬を得るよりも救いを得るのがお望みでしょう、分りました、シテ見ると貴方は決闘でもして法律に触れたのですか、或いは人を殺したのですか、私に救いを求める所を見れば、今にも逮捕される恐れが有るに違い有りませんが」余「爾です、法律上逃れるに逃れられぬ場合ですから」先生「夫なら実に私の所へ来たのが貴方の幸いです、私の外に決して救い得る者は有りません」
実に奇妙な言葉では有る。法律に
余「併し先生、救って戴くのは私自身ではないのです」先生「エエ、貴方自身でない、では誰をです」余「今申した松谷秀子をです」先生は驚いた様子で「エ、秀子を最一度、ハテな今まで同じ人を二度救うた事は有りませんが、と云うのは一度救えば夫で生涯を救うのですから再び私へ救いを求める必要のない事に成る筈」余「では二度救う事は出来ぬと仰有りますか」先生「イヤ爾ではない、二度が三度でも救う事は出来ますが」余「では最う一度秀子を救うて戴きましょう、秀子は目下一方ならぬ困難な位置に落ち、殆ど救い様のない程の有様に立ち到って居るのですから」先生は嘆息して「アア夫は可哀想です、先ア彼の様な異様な身の上は又と此の世に有るまいと思いましたが、夫が再び困難に落ちるとは何たる不幸な女でしょう。けれどナニ助からぬ事は有りませんよ」余「何うすれば助かりましょう、何うかその方法を聞かせて下さい」
先生は又聊か改まりて「何うすれば、サア其所が私の職業ですから、先ず報酬の相談を極めた上でなければ此の上は一言も申す事が出来ません」余「報酬は幾等でも厭いませんが、真に貴方の力で、相違なく助かりましょうか」先生「
此の場に臨んで報酬の高いのに驚かぬ。真に秀子が助かるなら、財産は愚かな事、命までも捧げても厭わぬが余の決心だ。
余は少しも躊躇せずに承諾した。とは云え三千ポンドは決して安い金ではない、医師の報酬や弁護士の手数料などに較ぶれば、殆ど比較にならぬほどの多額だ。余は承諾しながらも心の底に此の様な想いがする、先生は見て取ったか「全く高い報酬でしょう、ナニ実際の費用と云えば、幾等も受け取らずに出来ますけれど、人を法律の外へ救い出すのは随分危険な事柄で、
報酬の受け渡しと云って、勿論余は其の様な大金を持っては居ぬ。けれど融通の附かぬ事はない、余は僅かながら親譲りの財産が有る、其の財産は父の遺命で悉く金に替え、倫敦の銀行へ托し、利殖させて有る、其の額が今は一万ポンドの上になり、余に使われるのを待って居るのだ、今こそは使って遣る可き時である、幸に此の巴里にも叔父の懇意な取引銀行が有って其の頭取は曾て英国へ来て叔父に招かれ余と同席したのみならず、余も叔父と共に其の後巴里へ来て其の頭取に饗応せられた事もある、此の人に話せば大金とはいえナニ三千や五千、一時の融通は附けてくれる。
その旨を先生に話すと先生も兼ねて其の銀行頭取を知って居るとの事だ、併し其の金を我に払うとの旨は決して頭取へも何人へも話す可からずと口留めをせられた。素より誰にも話すべき事でない、それではと愈々茲を立とうとすると先生は自分の馬車を貸して呉れた。馬車には先刻見た取り次の老人が御者役を勤めて居る、察する所此の老人は先生の真の腹心だ、先生は猶幾分か余を疑い若しや探偵ではないかと思う為、実は此の様な事をして腹心の者に余の挙動を見届けさせる積りらしい。
頓て銀行へ行った、余は来たり。余は観、余は勝てりという
今は斯くあろうと思って居た故、別に驚きもせぬが、此の室で何をするのか更に合点が行かぬ故「先生、茲で報酬を差し上げましょうか」先生「イヤ報酬は無難な所へ行って戴きます、此の室へは下僕でも誰でも這入って来ますから」云いつつ先生は一方の棚から二個の手燭を取って火を点した。猶だ昼だのに手燭を何にするのだろう、頓て「サア是を持って私と一緒に来るのですよ」と教え、書棚の中から厚い本を二冊ほど抜き出した。爾して其の本の抜けた後の空所へ手を差し入れたが、秘密の
余を此の暗室へ連れ込んで何をするのか、余は少しも合点が行かぬ。
先生はそれと見て説明した。「私が何の様にして松谷秀子嬢を救うか貴方には少しも分りますまい、此の暗室の中で其の手段だけを見せて上げるのです、見せて上げれば此の前に私が何の様にして嬢を救ったか、救われる前の嬢の有様は何うで有ったか、ポール・レペルの手際が何れほどで有るか総て分ります」
斯う聞いては早く其の手段を見せて貰い度い。取り分けて此の先生に救われる前の秀子の有様などは最も知り度い、扨は此の暗室の中で詳しく秀子の素性成長などが分るのかと早や胸が躍って来た。
先生「茲は猶だ入口です。サア、ズッと深くお進み成さい」言葉に応じ手燭を振り照らして見ると、成る程茲は穴倉の入口と見える、少しむこうの方に、下へ降りる石段が有る、気味は悪いが余は先に立って之を降った、降り盡すと鉄の戸が有って、固く人を遮って居る。先生は戸に不似合なほど小さい鍵を取り出して此の戸を開いた。中は十畳敷ほどの空な室になって居る、此の室へ這入ると先生は又も戸を閉じ「茲が私の秘密事務を取る室です、茲までは私の外に誰も来ません、金庫も此の室へ備えて有ります」と、茲で報酬を差し出せと云わぬ許りの口調なれば、余は彼の三千ポンドを出して渡した。
不思議にも此の室には電燈が備えて有る、先生は電燈の鈕を推して忽ち室を昼の様にした。余は手燭を消そうとしたが、先生は遽てて「イヤ未だ消しては可けません、茲より奥には電燈がないのですから」余「猶だ此の奥が有るのですか」先生「無論です」とて先生の指さす方を見ると成るほど一方の壁に第二の鉄の扉が有る、斯うまで奥深く出来て居るとは実に用心堅固の至りだ、其のうちに先生は報酬の金を数え盡し隅の方の金庫へ納め、もっと嬉し相に頬笑みて「イヤ三千ポンドは大金です、実は私も取る年齢ゆえ、最早隠退したいと思い、数年来、金子を溜めて居りますが今の三千ポンドで丁度、兼ねての予算額に達したのです、今まで随分人を救い、危険な想いをしましたから此の一回が救い納めです、再び貴方が
述懐し了って、再び第二の鉄扉を開き余と共に又中へ降り入ったが、茲は余程地の下深くへ入って居ると見え、空気も何となく湿やかで余り好い心地はせぬ、墓の底へでも這入ったなら或いは此の様な気持で有ろうか、兎に角も人間の地獄である、此の様な所に秀子の秘密が籠って居るのかとおもえば、早く取り出だして日の光に当てて遣り度い。
気の所為か手燭の光まで、威勢がなく、四辺の様が充分には見て取られぬ、けれど何だか廊下の様に成って居て、左右にズラリと戸棚がつらなり、其の戸に一々貼紙をして何事をか書き附けてあるが、文字は総て暗号らしい、余には何の意味だか分らぬ。頓て先生は、壁の一方に懸けてある鍵の束を取り卸し、其の中から真鍮製の最も頑丈なのを余に渡し「サア此の鍵の札と、戸棚の貼紙とを見較べてお捜し成さい、そうして記号の合った戸棚を開けば宜いのです」余は全く夢を見る様な心地だ、訳も知らずに只其の差図に従い一々左右の戸棚の戸を検めた末、ヤッと記号の合った戸を見い出した。先生「サア其の鍵で其の戸をお開き成さい」
此の戸の中に何が入って居る、之を開いて何の様な事になる、若し
只是だけの事で、何の驚く可き所もないけれど余は身体の神髄から、ゾッと寒気を催して、身震いを制し得ぬ、先生も何だか神経の穏かならぬ様な声で「茲に秀子の前身と後身が有るのです」と云い、今度は自分で彼の仏壇の様な戸を開き掛けた、余は物に臆した事のない男だけれど、自分で合点の行かぬほど気が
仏壇の様な戸の中も、略ぼ左の棚と同じ工合で、白木の箱が二個乗って居る。
何の箱であるか更に合点が行かぬ、けれど唯気味が悪い、先生は暫く双方の棚を見比べて居たが頓て決定した様子で「矢張り前身を先にお見せ申しましょう、爾すれば私の手腕が分り、成るほど新しい生命を与える人だと合点が行きます」
斯う云って左の棚から其の箱を取り卸した。「サア此の箱を開けて御覧なさい」余は開ける丈の勇気が出ぬ、「ハイ」と云ったまま躊躇して居ると先生はじれった相に「では私が開けて上げましょう」とて余の手に在る鍵の束から一個の鍵を選り出し「ソレ此の鍵の札と此の箱の記号とが同じことでしょう、貴方には是が分りませんか」と叱りつつ箱を開いた、兎に角之ほど用心に用心して
第一に目に留まるは白い布だ、白い布で中の品物を包んで有るのだ、先生は箱の中に手を入れて其の布を取り除き、布の下の品物を引き起した、何でも箱の中に柱が有って、蓋する時には其の柱を寝かせ、蓋を取れば引き起す事の出来る様に成って居るのだ。
引き起された其の品は何であろう、女の顔である、余は一時、生首だろうかと怪しんだが生首では無い、蝋細工の仮面である、死んだ人の顔を仮面に写して保存して置く事は昔から世に在る習いで其の仮面を「死人の顔形」と称する由であるが、此の蝋細工は即ちそれである、誰の顔形だか兎に角も顔形である、余は一目見て確かに見覚えの有る顔と思ったが、見直すとそうでない、円く頬なども豊かで先ず可なりの美人では有るが、病後とでも云う様で気の引き立たぬ所が有る、寧ろ
先生は更に箱の中から、少し許りの髪の毛を取り出した、死人の
輪田お夏とは幽霊塔の前の持主お紺婆を殺した養女である、千八百九十六年に牢の中で病死し其の死骸は幽霊塔の庭の片隅に葬られ、石の墓と為って残って居る、秀子が屡々其の墓へ詣で居たのみならず、同じお紺婆の養子高輪田長三も其の墓の辺に徘徊して居た事は余が既に話した所である、墓の表面には確か七月十一日死すとの日附が有った、茲には其のお夏が同じ日に出獄した様に記し、其の月の二十五日に権田時介が茲へ連れて来た様に記して有るのは何の間違いであろう。
余は叫んだ。「先生、先生、貴方は欺かれたのです、殺人女輪田お夏が茲へ連れられて来るなどとは実際に有り得ぬ事です、死骸と為って地の下へ埋って今は其の上へ石碑まで立って居ますが」先生は少しも怪しむ様子がない。
「勿論石碑も立って居ましょうか、併し夫は事柄の表面さ、アノ墓をあばいて御覧なさい、空の棺が埋って居る許りです」余「エ、何と仰有る」先生「イヤ此のお夏は一旦死んで、爾して私の与えた新しい生命で
勿論、愛らしい活々した秀子の美しさが蝋細工の顔形へ悉く写し取らるる筈はない、此の顔形を真の秀子に比ぶれば、確かに玉と石ほどの相違はある、けれど秀子の顔を写した者には違いない、人間業で秀子の顔を、他の品物へ写すとすれば是より上に似せる事は到底出来ぬ。
けれど、何が為に秀子の顔形が人殺しの牢死人輪田夏子の顔形と共に、此の先生に保存せられ、余の眼前へ持ち出されたであろう、夏子を秀子の前身だといい、秀子を夏子の後身だというのだろうか、其の様な意味にも聞こえたけれど余りの事で合点する事が出来ぬ、牢の中で死んだ夏子と、余の未来の妻として活きて居る秀子と、何うして同じである、養母を殺すほどの邪慳な夏子と一点も女の道に欠けた所のない完全な秀子と何うして同じ人間である、余は遽しく先生に問うた。
「秀子の顔形と夏子の顔形との間に何の関係があるというのです」
先生は少しも騒がぬ、少しも驚かぬ、寧ろひとしお落ち着いて、誇る様な顔附きで「是で私の手腕が分ったでしょう、斯様な事に掛けては、此のポール・レペルは今日の学者が未だ究め得ぬ所をまで究めて居ります、電気、化学、医療手術等の作用で一人の顔が、斯うも変化する事は、殆ど何人も信じません、政府と雖も信じません、信ぜねばこそ今までポール・レペルの職業が大した妨げを受けずに来たのです」余「では秀子と夏子と同じ女だと仰有るか」先生「勿論一人です、秀子が即ち夏子です。夏子が牢を出て、其のままの顔では世に出る道もない為に私へ頼み、今の秀子の姿にして貰ったのです、名を替えた通りに姿をまで変えたので」
余は只恐ろしさに襲われて、訳もなく二足三足背後の方へ
云い切っても先生の顔には、少しも嘘を云って居る様な色は見えぬ、何所迄も事実を守って居る人の様に、其の心底に最も強い所が見える。
頓て先生は思い定めた調子で「イヤ是まで口外した以上は、最早秘密が破れた者です、詳しく説き明かして、秀子夏子の同一人という次第を、貴方へ能く呑み込せる外はないのです、先ず今通って来た金庫室までお帰りなさい、話は彼処で致しましょう」と云って二個の顔形を箱のまま重ねて持ち、余には振り向きもせずに、サッサと元来た方へ遣って行く、余は随いて行かぬ訳には行かぬ、足も地に附かぬ様で、フラフラと随いて行くと、先生は愈々金庫室へ入り、電燈を再び
卓子の上に置いた二個の顔形を、余は電気の光に依りつくづくと見較べた、夏子の顔と秀子の顔、
先生は秀子の顔形の箱から又髪の毛を取り出して卓子の上に並べ「御覧なさい。双方の髪の毛が此の通り違って居ます、夏子のは緑が勝って色が重く、秀子のは黄が勝って色が軽いけれど、其の艶は一つです、毛筋の大小も
と云いつつ自ら目を閉じて双方の髪毛を撫で較べて居る、余は胸に何とも譬え様のない感が迫って来て殆ど涙の出る様な気持になった。「けれど先生」とて争い掛けたけれど後の言葉は咽喉より出ぬ。
先生は静かに腰を卸し「詳しく言いますから先ずお聞き成さい、全体私は脳の働きが推理的に発達して居ると見え、
是まで云いて思想の順序を附けるためか、又目を閉じて暫く考え「先刻も申しました通り、私の仕事は全く依頼者と利害を一にする様な性質で、私は依頼者から何も彼も打ち明けて貰った上でなければ仕事を始めませぬゆえ、此の件に就いて当人と、当人を連れて来た弁護士権田時介氏に充分今までの成り来たりを聞きました、両人ともには多少隠す所が有りましたけれど、大抵の事は既に私が見貫いて居て、急所急所を質問するのですから、果ては洩れなく話しました、其の話や其の後私の仕た事を
此の様に順序を立てて言い来たられては、或いは信ぜぬ訳に行かぬ事となるかも知れぬ、と余も此の様に思い始めた、先生は余が心の斯く聊か動かんとするを見て取った様子で「先ず私の仕事から話しましょう、私は
余「有りません」と答うる外はない、成るほど何う見ても違っては居ぬ、先生「ソレ御覧なさい。同じ事でしょう、歯は閉じた唇に隠れて、較べる事が出来ませんけれど若し出来たなら、是も貴方は私の言葉に服する外はないのです、サア此の様な訳ですから全く生れ替らせたとは云う者の、真に能く夏子の顔を知って居る人が、秀子の顔を見れば、真逆に同人だとも思わずとも、何等かの疑いを起すかも知れません、是のみは今までも私の気に掛けて居た所です、併し此の点をさえ見許して戴けば外の点は充分私の手際が現われて居ます、再び同じ程の美人を連れて来て此の顔を同じ程の美人に作り直して呉れと云った所で、私は再び是だけの手際を現わす事は殆ど出来まいと思って居ます、では何うして活きた人間の顔を作り直すかとお問いでしょう、仮面を被せるのか、肉を削るのか左様さマアマア仮面を被せる様な者、肉を削ったり
先生「今の学者が若し専心に、私と同様の事を研究したなら、人間の顔を作り直す事が出来るのですけれど、彼等は唯名誉を揚げるが先で、上部だけは様々の研究もしますけれど、名誉の外に立ち、世間から隠れて学術と情死する程の決心を以て必死に研究する事は致しません、だから私の専門の技術に於いて、私に及ばぬのです、ナニ私としても名誉を好む心があれば此の発明を世に知らせます、之を知らせたなら空前の発明だとか、学術上の大進歩だとか云って私の前へ
いう所に多少は大き過ぎる言葉もあるけれど、今日の学者社会に幾分か斯様な傾きのあるのは事実らしい、先生は茲まで述べてやや調子を下げ「今日の社会が、私に此の秘術を
先生は語を継いで「通例髪の毛の色を直すには染料を用います、けれど染めて直すのは誰にでも出来る事、学者を以て自ら居る私の様な者が研究すれば恥になります、髪の延びるに従って幾度も染め直さねばならぬ様な方法は技術ではありません、学術的とはいわれません、私の方法は、或る薬剤の注射により、髪の根にある色素という奴を変性させるのです、根本的の手段です、一旦色素が変性すれば幾度髪の毛が生え替えても又幾等長く延びて来ても其の色は一つです、一度直せば生涯再び手を入れるに及びません、いわば先ず造化の仕事で人間業ではないと云っても好いのです、唯其の中に難易があり、薄い色素を濃くするは易しいですが、濃い色を薄くするは極めて困難な事柄です、秀子嬢の髪の毛は濃い色を薄くしたので、仲々手数が掛かりましたけれど、充分の報酬を得ましたから少しも申し分はないのです。
「次は顔の形ですが、先ず其の顔形を見較べて私の言葉の嘘か
「私の斯る手術で、第一号の顔形にある輪田夏子が第二号の顔形にある松谷秀子に生れ変ったのです、誰が見たとて同人と思わぬは無理もありません、けれど造化の作った夏子の美しさと私の直した秀子の美しさと
勝ち誇る様な口調で、先生は長々の講釈を結んで了った、余は実に情けない、余が世界に又とない美人と思い、未来の妻ぞと今が今まで思い詰めた松谷秀子が其の実は養母殺しの罪に汚れ、監獄の中に埋まって居た輪田夏子だとは
二個の顔付きは全く違って居るとはいえ、能く見れば同じ事だ、先生の言葉に引き合わせて、見較ぶれば悲しい哉、争うに争われぬ、余は顔形を見詰めたまま目には涙、胸には得もいえぬ絶望の念が込み上げて来たが能く思うと、未だ一点の望みはある、なるほど第二号の顔形が第一号の変形には相違あるまい、けれど其の第一号が全く輪田お夏という証拠は少しもない、第二号も秀子なら、第一号も本来の秀子で、決して輪田夏子ではないかも知れぬ。
余は迫き立てる様に先生を呼び「ですが先生、第一号が輪田夏子だという証拠は何所に在ります。唯貴方の許へ其の様に名乗って来たというに過ぎぬのでしょう、偶然に名乗った姓名が殺人女と暗号したか、或いは自分の本姓本名を秘する為に殊更に世に知られた殺人女の名を用いたのか其の点は貴方に分りますまい」
第二号の顔形と第一号の顔形とは如何にも先生の謂う通り同人である、是だけは最早言い争う余地がない、けれど其の第一号が果たして殺人女輪田夏子だと云う事は何の証拠もない。
まさかに松谷秀子が其の殺人女だとは受け取れぬ、何の様な証拠が有るにもせよ、争われるだけは争い、疑われるだけは疑って見ねば成らぬ。
とは云え、今までの事を能く考え合わせて見ると先生の言葉には千貫の重みが有る、余が言葉は殆ど何の根拠とする所もない。
余は幽霊塔に入って後、幾度も塔の村の人々から輪田夏子の容貌などを聞いた事が有る、丸い顔で眉が長くて顎に笑靨が有ったなどと、全く第一号の顔形と符合して居る、しかのみならず夏子はお紺婆を殺したとき、左の手の肉を骨に達するまで噛み取られたと云う事だが、夫ほどの傷なら今以て残って居ねばならず、秀子が全く夏子なら秀子の手に其の傷が有るはずだ、実際秀子の手に其の様な傷が有るだろうか、待てよ、待てよ、秀子の左の手は毎も長い異様な手袋に隠れて居る、此の手袋の下に秘密が有るとはお浦が幾度も疑った所で、或る時は其の手袋を奪い取り、愈々秘密を見届けた様に叫んだ事も有る。
其の秘密を見られたが為に秀子がどれほど立腹したか、お浦を殺すとまで
高輪田長三が初めて来た時に、虎井夫人が非常に恐れの色を現わし、遽てて秀子を逃がした事も有る、是も輪田夏子と云う本性を長三に見現されるかも知れぬと気遣うた為では有るまいか、秀子が屡々夏子の墓へ参詣するも、夏子の死んだ事を何所までも誠しやかに思わせる為では有るまいか、或いは又何か心に思う所が有って、我と自ら我が墓に誓うのでは有るまいか、長三が此のたび余の叔父に手紙を遣り、秀子の素性をあばき立て叔父が痛く驚いたと云う、秀子が争い得ずして白状したと云うも、実は輪田夏子だと云う素性の事では有るまいか、是等は唯推量に止まるとするも外に余が
松谷秀子が幽霊塔の時計の巻き方をまで知って居たのは何の為だ、輪田夏子ならば充分知って居る筈では有るが、夏子でなくば知って居るいわれがない、其のほか塔の秘密に属する事を誰よりも多く知って居るなどは幼い時から塔の持主お紺婆に養女として育てられた輪田夏子に悉く当てはまる、更に近頃に至っては養蟲園の一室に秀子の着物と、監獄で着る女の着物と一所に在ったなども一方ならぬ参考である、秀子が其の実夏子だとすれば少しも怪しむ可き点はない、夏子であればこそ屡々穴川甚蔵に
唯穴川甚蔵が余を此の先生の許へ差し向けた一条だけが聊か合点の行かぬ様にも思われるが、イヤ是とても能く考えれば分って居る、甚蔵は甚く余に
斯様に思い廻して見ると、今まで秀子を輪田夏子だと気の附かなんだが
余は全く先生の言葉を聞き損じたから、尚一度繰り返して呉れと請うた、何でも先生は第一号の顔形が全く輪田夏子だと云う事を充分に説明したらしい。
先生は返事もせずに室の隅に行き、古新聞の様なものを持ち出して来て無言のまま余の前に差し附けた、余も無言の儘で之を見たが、案の如く数年前の倫敦の新聞紙で、輪田夏子が裁判に附せられた時の記事が有る、記事の中に肖像が有って「老婆殺し輪田夏子」の最新の写真と書き入れて有る、能く見ると其の顔は殆ど幼な顔とも云う可きほど若いけれど第一号の顔形と同人と云う事は争われぬ。
余は殆どグーの音も出ぬ、只呆れて、我知らず椅子を離れて立ち上った、最早少しの疑いを挾む所はない、秀子は全く夏子の化けた者である、心の底には猶承知し兼ねる所が有る様な気もするけれど、是だけの証拠が有っては到底承知せぬ訳に行かぬ、承知の仕にくいのは余の愚痴、余の未練と云う者だ、エエ男たる者が斯うも未練では仕方がない、と余は奮然として云い直し「己れ人殺しの悪女め、能くも淑女に化け替って今まで余と叔父とを
先生は嘲笑う様な調子で「何うです、最う迷いが醒めましたか」余「ハイ全く醒めました、少しの疑いも
「余計な事は省きまして千八百九十六年の七月の初めでした、医師大場連斎の手紙を持って英国の弁護士権田時介が私の許へ参りました、私は兼ねて権田氏の名だけは新聞の上で知り、且殺人女輪田夏子を熱心に弁護した人だと云う事も覚えて居ました。来訪の用事は、或る美人の顔を作り直して貰い度いが、全く同人と見えぬ様に作り直す事が出来るか、其の価は幾等であるか爾して其の秘密は何時までも無難に保たれるかと云う問合せの為でした。
「勿論総ての点を私は満足に答え、今まで私の手を経た人は再び見破られた
是、暗に大場連斎を指す者に違いない、扨は彼も一たび死刑の宣告まで受けた身の上であるのか、是で見ると此のポール・レペル先生自身も自分に新生命を与えた一人かも知れぬ、此の様な発明は最初に人の身体へ試験する事は出来ず必ず自分の身に実験して、爾して此の通り法律の網を潜る事が出来るぞと罪人社会へ手本を示した者であろう、斯う思うと先生の称号を加えるが何となく忌わしい心地もする。
先生「是程手広く人を救うて能くも此の職業の秘密が世間へ洩れずに居る事を怪しむでしょうが、夫は最う充分に大事を取って有るのです。私が先ず腹蔵なく依頼者の秘密を聞いた上でなければ
先生の言葉は次の如く引き続いた、「扨私が何の様にでも女の顔を作り直して遣ると答えた者ですから、権田時介は大いに喜び、それでは近々連れて来るから宜しく頼むとて立ち去りました、是より二週間も経て後ですが、英国の新聞に、殺人女輪田夏子が牢死したという事が出ました、私は之を見て、自然に権田時介の事を思い出し、様々に考えて様々の想像を附けましたが、それから二週間ほどすると、権田時介が一人の少年を連れて参りました。
「初めは美人と云う話で有ったのに、美少年であるのかと私は聊か怪しみましたが、能く見ると、顔の美しさ丈でも明白です、男に化けた女です、牢の中に居た為に頭の毛を短く刈られ、あんまり見っともない者だから、男にしたのかと私は斯う思いましたが、実はそれより猶深い理由が有ったのです、其の時権田は私へ向い、「是なる少年が、兼ねてお願い申して置いた松谷秀子嬢です」といいました。私は何気無く聞き取りましたが愈々手術に取り掛かる約定を極める時と為って権田に向い、「腹蔵なく依頼者の身の上を聞いた上でなくては」と主張し「第一権田さん、依頼者の松谷秀子という姓名では了ません。輪田夏子と云う本名でなくては」と皮肉に急所を突いて遣りました、是には権田も驚きましたよ。
「到底私を欺く事は出来ぬと見て権田は打ち明けました、実は輪田夏子では有るけれど何うか此の秘密を守って呉れといいますから、勿論だと答え、夫から権田は立ち去って夏子だけが私の許へ残りました、其の後で夏子から詳しく事情を聞きましたが、兼ねて夏子は脱獄の考えが有って、権田時介に其の旨を打ち明け、時介から充分其の目的の達する様にして遣るとの約束を得て居ましたけれど好機会を得ぬ為に
「つまり夏子を死人にして監獄病院から担ぎ出すという計略で、夏子へ極めて危険な薬剤を与えました、其の薬剤には印度に産するグラニルという草から製した麻薬ですが極めて人身へ異様な影響を及ぼすのです、或る分量を服すれば即死しますが、又分量を変ずれば死人同様の姿と為り、脈も呼吸も
「夏子は中々勇気の有る女と見え、その危険な薬を、
「サア斯様な訳ですから、夏子其のままの姿では一歩も外へ出る訳に行かず、尤も病院を出た時には髪の毛などもかなりに長く延びて居た相ですけれど、私の許へ連れて来るのに何うしても男姿として人目を
先生は猶語り続けた。「延びた髪の毛も前に申した通り、薬の力で色が変わり、其のうちに顔の総体も私の手術で全く別人の様になりました。尤も其の間に権田時介は二度ほど秀子の許を尋ねて来ました、毎も私が立ち会った上で面会させました、権田の用事は一つは私の手術を進むを見届けるのと秀子の其の後の身の振り方を相談するとに在ったのです。
「勿論私の手術には彼一方ならず驚き、秀子の顔を見て全く見違える様に成ったと云いました、それから相談の結果で、秀子は兎に角も米国へ行き、同国で多少の地位とか履歴とかを作った上で此の国へ帰ると云う手筈に定まりました、夫から権田は其の次に来た時に、米国の弁護士や政治家などに宛てて幾通の紹介状を作って秀子に渡し、恐らく今まで渡米した英国の婦人で斯くまで充分の紹介状を持って行った者は有るまいと云い、猶秀子に向って全くの一人旅とは違い、事に慣れた
扨は彼の虎井夫人は其の時から秀子の附添いと為ったのか、是で夫人と秀子との関係も分った、先生「けれど秀子は少しも心細い様子はなく、ナニ米国は日頃から私の好む国ですから云わば故郷へ行く様な心持ですなどと答え、又権田も爾でしょうとも、貴女の様に読み書きも音楽も、人並優れて能く出来る身なら何所へ行くとも故郷へ還ると同じ事ですなどと云いました、それより間もなく米国を指し私の許を立ち去りましたが、其の時の姿の美しさは私自身さえ我が手術の巧妙に驚く程でした、散髪頭で遣って来た美少年姿の輪田夏子とは
「斯う全く別人に生れ替りましたから最早再び法律に触れる事などは有るまいと思いましたのに矢張り犯罪者は天性罪を犯す事に其の性質が出来て居ると見え、又も法律に触れて再び私に其の顔を作り直して貰わねば成らぬ事に成ったのですか、何たる因果な女でしょう、併しナニ其の様な事を批評するは私の職業で有りません、私は唯貴方がたのお頼みに応じ再び新たに生命を
先生の言葉は是だけで終ったが、余は何と返事して好いか分らぬ、此の時の余の気持は真に察して貰い度い、今まで女の手本とも人間の
今までは証拠に証拠を積み重ねるとも秀子に悪事が有るなどとは決して信ぜず、之が為には全世界と闘うも辞せぬ程に思ったが今は先に立って秀子を罵らねば成らぬ、責めねばならぬ、素性が分れば心の中も能く分った、其の様な悪女で有ればこそ様々に手を盡してついに余の叔父の養女と為ったのだ、其の目的は外でもない、叔父が検事の職分を以て輪田夏子の罪案に対し、死刑を主張した者だから、自分の罪は思わずに唯叔父を恨み、何うかして仇を復そうとて先ず叔父の懐の中へ這入ったのだ、時々密旨を帯びて居る様に云う其の密旨は叔父へ復讐するに在るのだ、夫だからこそ夏子の墓へ詣でるのだ、詣でて死刑の悔しさや怨めしさを毎朝自分の心へ呼び起し復讐の熱心の一刻も冷めぬ様にして居るのだ、思えば、思えば恐ろしい毒々しい根性も有れば有る者、爾して其の心で時々余を
余は全く自分の愚かさと、秀子が素性の穢らわしさとに愛想を盡したと云え、深く心の底に根を卸した愛の情は仲々是しきの事で消えて了う者では無い、唯残念だ、唯情け無い、真に手の
残念、残念と幾度か呟いて、泣き出したい様な気になり、暫し何事も心に移らぬ様で有ったが、頓て先生の声に気が附いた、先生は余の肩を推し「モシ丸部さん、丸部さん、貴方は再び秀子嬢の顔を作り直して貰う為に来たではないのですか、その為でなくば何の為です、貴方の目的は何所に在ります」余は身を悶えて「エエ、其の様な目的ではないのです、貴方に逢えば秀子の素性の清浄潔白な事が分るかと思ってハイ其の清浄潔白を世に知らせる確かな証拠を得たいと思って」先生「オヤオヤ夫はお気の毒です、少しでも秀子の素性を潔白らしく認めたくば私の許へ足踏みをしては成らぬのです、茲は穢い素性ばかり集めてある畜蔵所の様な者ですから、手もなく貴方は反対の方角へ来たのです」余「ハイ是で自分の愚かさに愛想が盡きまして」先生「そう仰有られては私も、何とも早やお気の毒に堪えませんが、と云って先刻受け取った報酬をお返し申す訳には行きません、私は何所までもアノ報酬に対し自分の勤むべき丈勤める覚悟のみならず報酬を得た上で無くば打ち明けられぬ貴重な秘密を打ち明けて、云わば貴方に
勿論報酬を返して貰い度いなどとは思わぬ、唯何となく悔しくて殆ど身の置き所もない程故、余は何の当ても決心もなく、
頓て余は、再び卓子の前に立ち留り、愛らしい夏子の顔形と美しい秀子の顔形とを見較べた、是さえなくば此の様な辛い思いもせぬだろうにと、男にも有るまじき愚痴の念が湧いて来た、余「先生、先生、貴方が秀子と夏子と同人だという事を証拠立てる品物は、唯此の二個の顔形と、裏に書き附けてある貼紙とだけですか」先生は怪しむ様子で「ハイ勿論是だけです、是だけとはいう者の、之が幾十幾百の他の証拠より有力です」余は少しの間だけれど真に発狂して居たかも知れぬ、「是さえなければ秀子の素性を証明する事は六かしいのですネ」先生「爾ですとも是さえ無くば、少くとも秀子と夏子と同人だと云う事を証明するは、六かしいのみならず殆ど出来ぬ事でしょう」余は此の語を聞くよりも直ちに二個の顔形を手に取り上げ裏の貼紙を引き
先生はびっくりして、余の手を遮り「何をなさる、何を成さる」と叫んだけれど後の祭りだ、顔形は極
権田時介に頼まれて同じ顔形を作ったと云う先生の最後の一語は、嘘か実か、或いは余をおびやかして其の筋へ訴えるのを妨げん計略の様にもあれど、又思えば権田が先に小腋に挾んで去った品が、如何にも此の顔形の箱と同じ物の様にも見えた。
併し余は深く考える心はない、唯「其の様な事は何うでも宜しい」と言い捨てて此の家を立ち出でた、余ほど時間の経った者と見え、早や夜
夜中は何うする事も出来ぬ故、宿を尋ねて一夜を明かし、翌日直ぐに英国へ帰って来たが倫敦へ着いたのは、夜の九時頃である、途々の船の中、汽車の中、唯心を動かすは松谷秀子の事ばかりで全体此の後を何う処分して好い事か更に取り留めた思案は出ぬ、秀子が人殺しと脱獄の罪を犯した恐ろしい女で有る事も確かで、復讐の為幽霊塔へ入り込んで既に余の叔父を毒害せんと試みた事も確かである、是だけの所から云えば探偵森主水に次第を告げ秀子を捕縛させる一方である、併し又他の方面から考えれば秀子と余との間は夫婦約束の成り立って居る事も事実、秀子が愈々捕縛せらるれば余と叔父との丸部一家に拭う可からざる不名誉を来たすのも事実である。
縦し不名誉にもせよ罪人を保護する訳には行かぬ、まして叔父の命を狙い、恐ろしい毒草を隠して居る罪人を、若し保護するに於いては全く人間の道を逆行する者である、と斯う迄は幾度も思い定めるけれど余の心中には猶一点の未練が有る、自分で掻き消すにも掻き消されぬ、勿論斯う成った以上は秀子を余が妻にする訳には行かぬ、けれど何だか可哀相でも有る、茲の思案が決せぬ間は家に帰って叔父に逢う訳にも行かぬ、秀子に逢う訳には猶更行かぬ、余は倫敦へ着いた者の其の後は何うして宜いか暫しがほど躊躇したが、漸くに思い定めたのは、兎に角に権田時介に逢って見ようとの一念である。
彼
愈々権田時介の住居の前に着いたのは夜の十時頃である、雨も
併し余は自分の身に
爾して置いて中から戸を開いたのは権田自身である、戸の間から差す燈の光に見れば、彼は肝腎の話を妨げられて
無理に室の中へ入って、無理に腰を卸した余の無遠慮な振舞いに権田時介は少し立腹の様子で目に角立てて余の顔を見詰めたけれど頓て思い直したと見え「アア何うせ貴方とは充分に話をせねば成りません、
余は先ず来意を述べ「今夜来たのは松谷秀子の身に就いて篤と御相談の為ですが、第一に伺い度いは、貴方の両三日来の振舞いです、貴方は巴里のレペル先生の許から顔形を持って来た相ですが其の顔形を何うしました」
随分短兵急の言葉ではあるが、権田は物に動ぜぬ日頃の持ち前に似ず、殆ど椅子から飛び離れんとする迄に驚いて「エ、巴里のレペル先生とな、何うして其の様な事を御存知です」余は言葉短かに養蟲園の事柄から巴里へ行って来た次第をまで述べ終り、「多分貴方が秀子を
余は今以て秀子を気遣う心が失せぬ、畢竟其の心が失せねばこそ、此の通り権田の許へも立ち寄った訳では有るが、此の言葉を聞いては猶更気遣わしい心が増した、秀子が余の叔父に毒害を試みた事が何うも確からしいとは云えそれでも
権田「イヤ其の様なお説教は今更貴方から受けるには及びません、茲で差し当りの問題は秀子が貴方の物か
権田「イヤ妻にする事が出来ねば最う何にも仰有るな、秀子の身の上に口を出す権利はないのです、貴方に反して私は、明日にも秀子が承諾すれば、世間へ叫び立てて自分の妻にするのです、之が為に名誉を失おうと地位信用を落そうと其の様な事は構いません、秀子に対する私の愛は貴方の愛に百倍して居るのです」余は大声に「貴方の愛は野蛮人の愛と云う者です、名誉にも道理にも構わず、唯我意を達すれば好いと云う丈で、心ある女は決して其の様な愛を有難いとは思いません、何うして其の様な野蛮人に秀子を任せて置く事が出来ます者か」と云ううち次の
秀子が茲に来て居ようとはホンに思いも寄らなんだ、而も一々余の言葉を聞いて居たとは実に気の毒な次第である。
アア分った、余が此の室の入口へ来た時に、中で何だか話して居る様な声がしたのは秀子であった、外から叩く戸の音に、余が来たとは知らぬから時介が遽てて次の室へ隠したのだ、爾して次の室で聞いて居ると余だと分った故、室の境まで出て来たが、其の身に関する大変な談話だから、出もならず去りもならず、立ちすくんで聞いて居たのだ。
爾と知ったら余は最っと物柔かに云う所であった、最早妻にする事は出来ぬの、牢を出た身であるのと気色に障る様な言葉は吐かぬ所であった、斯様な言葉をのみ聞いて何れほどか辛く感じたであろう、定めし居
斯う思って見ると、秀子は全く身を支えかね、今や
秀子の眼は余の顔に注いで居るか権田時介の顔に注いで居るか、寧ろ二人の間の空間を見詰めて爾して目ばたきもせずに居る、アア早や半ば気絶して居るのだ、気が遠くなって、感じが身体から離れ掛けて居るのだ。
余が斯う見て取ると同時に其の身体は横の方へ傾いて、宛も立木の倒れる様に、床の上へ
見れば秀子は左の
或る人の説に
若し、一点だも此の顔に悪意悪心の認む可き所が有ったら、余は何れほど安心したかも知れぬが、唯一点も其の様の所のない為に全身を切り刻まれる様な想いがした、何うして此の女を思い切ることが出来よう、此の女の外には世に「清い」と云う可き者はない、罪あっても罪に
三日月形の創の痕を甞め廻して、権田は聊か心が
余は殆ど死刑の宣告を聞く様な気持がした。余の一言を秀子が此の様に怒るだろうか、怒って何の様な詫びにも心が解けぬ事になるだろうか、斯う思うと実に心細い、今現に目の前に秀子の美しい顔と、其の気絶した傷々しい様とを見て、此の女から生涯疎まれる事に成るかと思うと殆ど一世界を失う様な心地がする、エエ残念、残念と思うに連れ、秀子の犯した罪さえも、何だか左程咎めるに足らぬ様な気がして、腹の中で其の軽重を計って見ると、決して悪意でお紺婆を殺した訳では有るまい、善悪の区別も未だ充分には呑み込めぬ我儘盛りの年頃で、甚く心の動く事が有って我知らず殺すに至ったとすれば随分其の罪を赦しても宜い、殊に其の罪の為に死刑、終身刑の宣告まで受け、牢の中に憂月日を送ったとすれば既に罪だけを償った者では有るまいか、
其のうちに秀子は気が附いて、徐ろに目を開き、第一に硝燈の光を見、次に室中を見、権田時介を見、最後に余の顔を見た、幸い手の古傷は権田が既に包み直した後で有った為自ら見なんだ、見廻す中に今までの事を思い出したか、小児の様な力無げな口調で「貴方がたお両人が喧嘩でも成さるかと気遣って茲の境に立って居るうち、アア気絶したと見えますよ。此の様な心弱い事では仕方がないけれど、此の頃苦労な事ばかり引き続いた者ですから」と自分の気絶を詫びる様に云うた。余は茲ぞと思い「ナニ秀子さん最う何の様な苦労が有ろうと心配に及びません、私が附いて居ますから」と云い、権田を推し退けて其の傍に近づくと、何の気力も為さ相に見えた秀子は、殆ど電気に打たれた様に身を起し、腹立たしげ恨めしげに余の顔を見詰めて「再び私の身にお障り成さるな、私は輪田夏子です」と最と苦い言葉を吐いた、如何にも権田の云った通り、気位の高い女で、痛く余の言葉を気に障え、再び余とは交わらぬ程に思って居ると見える、余は憐れむ可き有様と他人が見たら言い相な有様と為り必死の声を絞って「秀子さん、秀子さん、お腹も立ちましょうが其の様に云わずと過ぎ去った昔の事は
探偵森主水は何しに来た、松谷秀子を捕縛に来た、エエ、彼の来るのが今半時も遅かったなら、余は充分秀子を逃す丈の手続きを運んだ者を、其の相談の未だ定まらぬ中に遣って来たとは、其所が探偵の機敏な所とは云え折も折、時も時だ、実に余は驚いた、余のみでない権田時介も驚いた、松谷秀子も驚いた、暫し三人で顔見合わす許りである。
一人驚かぬは森主水だ、彼は先にも記した通り大きな眼鏡を掛け、自分の面相を変えては居るが三人の驚く様を平気で見て憎らしいほど落ち着いて、徐ろに其の眼鏡を取り外し、冷かに笑って「アハハハ、此の眼鏡が大層役に立ちました、是がなければ丸部さん此の門口で貴方に気附かれる所でしたよ、実は此の婦人が」と云いつつ秀子の方を目で指して「幽霊塔を出る様子ゆえ、或いは世に云う風を喰って逃げ出すのでは有るまいかと、姿を変えて後を尾けて来たのですが、イヤ逃げ出す為ではなかったけれど、尾けて来た甲斐は有りましたよ、何も彼も戸の外で立ち聴きして、今まで合点の行かぬと思ったことも皆合点が行きました、全体立ち聴きと云う奴は余り気持の好い者でなく、又、余り安心して居られぬ仕事でも有りませんけれど、此の様な功能があるから、此の職業では用いずに居られません、丸部さん、丸部さん、貴方も口ほどには信用の出来ぬ方ですねえ、決して松谷秀子を逃さぬと私へ固く保証し、其の保証の為に二日間の猶予を得て置いて爾して御自分が先に立って秀子を無事の地に逃れさせる議を持ち出すなどとは、併しナニ茲が痴情の然らしむる所でしょう、私としても貴方の地位に立てば貴方と同様のことを目論むかも知れませんから先ア深くは咎めますまい、兎も角も貴方の其の目論見を妨げて、貴方が法律上の罪人に成るのを喰い止めたのは何よりも幸いです、他日貴方も痴情が醒め、静かに考え廻して見れば実に好い所へ森主水が来て邪魔して呉れた、彼が来なくば全く罪人を逃亡させる容易ならぬ罪に触れる所で有ったと御自分で私を有難くお思いなさる、ハイ夫は必ずですよ」
自問自答の様に述べ終って、更に容儀を正して爾して秀子の方へ振り向いた、此の時まで余は唯呆気に取られ殆ど茫然として居たが、彼が容儀を正すを見て、初めて真成に秀子の身の危険な事を
森主水は秀子に向かって「モシ、輪田夏子さん
アア養母殺しの輪田夏子、死刑終身刑の宣告を受け、首尾よく牢を脱け出だして松谷秀子と生まれ代わり今は又養父殺しの罪に捕わる、業か因果か、無実の罪か
余と権田とは再び眼を見交わせた、船を同じくして敵に合わば呉越も兄弟、今まで競い争うた恋の敵も、秀子捕縛の声の為には忽ち兄弟の様に成って、言い合わせる暇もないが、早くも二人の間に分業の課が定まり、時介は飛鳥の様に室の入口に飛んで行き、其の戸に堅く錠を卸し、猶念の為にと自分で戸を守って居る、此の心は探偵を其の室から此のままは帰さぬ積りであろう、余も其の呼吸に少しも後れず、直ちに後ろから森主水に飛び附いて、抱きすくめ、爾して其の顎をば
探偵森主水の呼吸の根を止めると云って、権田時介は何の様な道具を持って来る積りか知らん、次の室へ這入って了った。まさかに探偵の息の根を本統に止める訳には行かぬ、余には余だけの考えがある。
けれど森主水は必死の場合と思ったか、時介の恐ろしい言葉を聞いて益々悶掻き始めた、余は実に気の毒に堪えぬ、然り余の心には充分の慈悲があるけれど余の手先には少しも慈悲がない、彼が悶掻けば悶掻くだけ益々しめ附ける許りである、此の様を見兼ねたか、松谷秀子は青い顔で余の前に立ち「此の方が幽霊塔で私の挙動を見張って居た探偵ですか、若しそうならば何うか其の様な手荒な事を仕て下さるな、私の為に人一人を苦しめるとは非道です、私は捕縛せられようと、何うされようと最う少しも構いません」健げなる言い分では有るけれど余は唯「ナアニ」と云って聞き流した、思えば実に邪慳な乱暴な振舞いでは有る、余は自分で自分が非常な悪人に成った様に感じた、若し他人が女の為に探偵を此の様な目に逢わせたならば余は其の人を何と云うであろう、決して紳士と崇めは仕まい、それもこれも皆秀子の為だから仕方がない。
其の中に時介は次の間から出て来た、見れば四五人の人を捕縛しても余る程の長い麻繩と、白木綿の切れとを持って居る、彼は縛った上で猿轡を
森主水は幾等悶掻いても到底余の力には叶わぬと
彼は物言いたげに口を動かそうとするけれど、其の顎をしめ附けて居る余の手が少しも弛まぬから如何ともする事が出来ぬ、唯犬の唸る様な呻き声を発する許りだ、秀子は此の様を見、此の声を聞き「丸部さん、何うあっても其の方を許して上げぬのですか」と云い、更に権田時介に向かい「貴方は紳士の名に背く様な卑怯な振舞いはせぬと先刻も仰有ったでは有りませんか、此の様な振舞いが何で卑怯で有りませんか、何で紳士の名に
手も足も首も胴も、長い繩でグルグル巻に巻き縛られては、幾等機敏な森主水でも如何ともする事は出来ぬ、余と権田とに舁ぎ上げられ、手もなく次の室へ運ばれて押入れへ投げ込まれたは、実に見じめな有様である。
余は彼を次の室へ運びつつも、秀子が何の様に思うて居るかと、横目で其の様を見たが、秀子は青い顔を益々青くし、唇を噛みしめて、爾して一方の壁に
之を見ると実に可哀相である、世間の娘達は、猶だ是位の年頃では浮世に艱難の有る事を知らず、芝居や夜会や衣服や飾物に夢中と為って騒いで居るのに、如何なれば此の秀子は牢にも入り死人とも為り、聞くも恐ろしい様な境涯にのみ入るのであろう、犯せる罪の為、心柄の為とは云う者の、斯くまで苦しき思いをすれば大抵の罪は亡ぶる筈だ、最う既に亡び盡して清浄無垢の履歴の人より猶一層清浄に成って居るかも知れぬ。
此の様に思いつつ元の室へ出て来ようとすると権田は背後から余を引き止め「お待ちなさい、茲で相談を極めて置く事が有ります」余「エ茲で、茲では森主水に聞かれますが」権田「構いません、爾ほど秘密のことではなく、殊に秀子の前では言いにくい事柄ですから」余「では聞きましょう、何の相談です」権田は今探偵を投げ込んだ其の押入れの直ぐ前に立ったまま「是から秀子を逃がすとしても、只一人で逃がす訳にも行かず、貴方か私か随いて行って、愈々之で無難と見届けの附く迄は一身を以て保護して遣らねば成りませんが、其の任は何方が引き受けます、貴方ですか、私ですか」
余は縦しや秀子を我が妻には為し得ぬ迄も、永く後々まで有難い人だと秀子の心に善く思われたい、茲で保護の役を引き受ければ外の事は兎も角も充分恩を被せる事が出来るから、少しも躊躇せず「夫は無論私が勤めます、貴方は弁護士と云う繁忙な身分ですから」権田「イヤお為ごかしは御免です、職業などは捨てても構わない決心です」余「そう仰有れば私の方は命でも捨てて宜い決心ですが」権田「イヤ斯う争えば果てしがない、寧その事、秀子に選ばせる事に仕ましょう、選ばせるとは聊か心細い手段では有るけれど仕方がない」余「宜しい」と云って承知し、二人で元の室へ帰って見た。
オヤオヤ何時の間にか肝腎の秀子が、居なくなって居る、察するに秀子は、今し方唇を噛みしめて非常な決心を呼び起こそうと仕て居る様に見えたが、全く決心が定まって何処へか立ち去った者と見える、錠を卸して有った入口の戸が明け放されて居る、兼ねて権田が、何時でも自分の室へ随意に出入りの出来る様に合鍵を渡してある事も之で分る、余「オヤオヤ若し自殺でもする積りで馳け出したのでは有るまいか」権田「馳け出したには相違ないが自殺の為では有りません、自殺する様な気の弱い女なら今までに自殺して居ます、深く自分に信ずる所が有って、其の所信を貫く為に牢まで出たほどの女ですもの、容易に自殺などしますものか」余「兎に角も其の後を追い掛けねば」権田「お待ちなさい。何でも是から何処かへ身を隠す積りでしょうが、非常に用心深い気質ですから、後で人に見られて悪い様な書類や品物を焼き捨てる為に幽霊塔へ引き返したに違い有りません」余「では私は直ぐに幽霊塔へ帰ります、兎に角、停車場まで行って見ます」
早や立ち上ろうとすると権田は又も引き留めて「ナニ幽霊塔へ行ったなら、此の通り森主水を押さえて有るから秀子が直ぐに捕縛される恐れはなく、猶だ一日や二日は安心です、緩々私と相談を極めた上でお帰りなさい」余「左様さ愈々幽霊塔へ行ったのなら一時間や二時間を争う訳では有りませんが、若し幽霊塔へ行かずに直ぐに出奔したなら大変です、兎に角停車場まで行き、見届けて来るとしましょう」権田「ではそう成さい、ですが、若し停車場で秀子に逢っても貴方が一緒に幽霊塔へ帰っては了ませんよ、唯秀子に、猶二三日は大丈夫だから落ち着いて幽霊塔に居ろ、其のうちに安全な道を開いて遣るからと斯う云って安心させ、爾して此の家へ引き返してお出でなさい」成るほど是が尤もな思案である、余と権田との間に、未だ少しも相談の極まった所がないから、最う一度引き返して来べきである。「宜しい、好く分りました」との一語を残して余は直ぐにパヂントンの停車場へ馳せ附けたが、生憎塔の村へ行く汽車の出る所だ、一髪の事で余は
権田はイヤに落ち着いて煙草を燻らせて居たが、余から停車場での事柄を聞き取り終わって「ソレ御覧なさい、私の云うた通りです、秀子のする事は自分の事の様に私の心へ分ります」余「其の様な自慢話は聞くに及びません、早く相談の次第を」権田「云いますとも、サア此の通り私には秀子の心が分って居るに附いて、有体に打ち明ければ、イヤお驚き成さるなよ、残念ながら秀子の心は少しも私へ属せず深く貴方へ属して居るのです」恋の敵から斯様な白状を聞くは聊か意外では有るけれど余は当り前よと云う風で「夫が何うしたのです」権田「全くの所、秀子が先刻気絶したのも貴方に自分の旧悪を知られ、貴方が到底此の女を妻には出来ぬと断言した為、絶望して茲に至ったのですけれど、お聞きなさい、貴方は到底秀子に愛せられる資格はない、既に旧悪の為愛想を盡したのだから、エ爾でしょう、夫に反して此の権田時介は先刻も云った通り少しも旧悪に愛想を盡さぬのみか、其の旧悪をすら信じては居ぬのです」余「エ、旧悪を信ぜぬとは」権田「詳しく云えば秀子は人殺しの罪は愚か何等の罪をも犯した事のない清浄潔白の女です」余「何と仰有る、裁判まで受けたのに」権田「其の裁判が全く間違いで、外に本統の罪人が有るのに周囲の事情に誤られて、無実の秀子を罰したのだから、夫で私が秀子を憐れむのです。否寧ろ尊敬するのです、秀子は真の烈女ですよ」
「秀子が清浄、秀子が潔白」余は思わず知らず声を立て、跳ね起きて室中を飛び廻った、真に秀子を何の罪をも犯した事無く、唯間違った裁判の為牢に入れられたとすれば少しも秀子を疎んず可き所は無い、寧ろ憐れむ可く愛す可く尊敬す可きだ、権田の云う通り全くの烈女である、世にも稀なる傑女である。
とは云え意外千万とは此の事である、如何に裁判には間違いが多いとは云え何の罪をも犯さぬ者が、人殺しの罪人として、罪人ならぬ証拠が立たず、宣告せられ処刑せられる様な怪しからぬ間違いがあるだろうか、余りと云えば受け取り難い話である。
若しも秀子の人柄を知らずして此の様な話を聞けば余は一も二も無く嘲り笑って斥ける所である、今の世の裁判に其の様な不都合が有る者かと誰でも思うに違い無いけれど、秀子の人柄を知って居るだけに、そう斥ける事が出来ぬ、何う見ても秀子は罪など犯す質では無く、其の顔容、其の振舞い見れば見るほど清くして殆ど超凡脱俗とも云い度い所がある、此の様な稀世の婦人が何で賤しい罪などを犯す者か。
余が初めて秀子の犯罪をポール・レペル先生から聞いた時、何れほど之を信ずるに躊躇したかは読者の知って居る所である、余は顔形の証拠に圧倒せられ、止むを得ず信じはしたが、決して心服して信じたでは無い、夫だから信ずる中にも心底に猶不信な所があって
爾れば意外であるけれど、其の意外は決して、罪人と聞いた時の意外の様に我が心に融解し難い意外では無い、罪人と聞いた時には余は清き水が油を受けた様に心の底から嫌悪と云う厭な気持が湧き起こって、真に嘔吐を催す様な感じがした、決して我が心に馴染まなんだ、今度は全く之に反し、一道の春光が暖かに心中に溶け入って、意外の為に全身が浮き上る様に思った、極めて身に馴染む意外である、此の様な意外なら幾等でも持って来いだ、多ければ多いだけ好い、縦しや信じまいとした所で信ぜぬ訳に行かぬ、心が之を信ぜぬ前に早や魂魄が其の方へ傾いて、全く爾に違い無いと思って了った。
「エ、貴方は真に其の事を知って居ますか」とは余が第一に発した言葉である、権田「知って居ますとも、今では其の犯罪人が秀子で無い、此の通り外に有るのだと証明する事が出来ます、貴方に向かっても世間へ向かっても、法律に向かっても立派に証拠が見せられるのです、其の証拠を見せるのも、見せぬのも別言すれば罪人が外に在るなと証明するも証明せぬも、単に私の心一つですと云い度いが、実は丸部さん貴方の心一つですよ」余「エ、エ、貴方は、其の様な証拠を握って居ながら、今までそれを証明せずに秀子を苦しませて置いたのですか、全体貴方は人間ですか」と余は目の球を露き出して問い返した。
権田「イヤ先ア、そう遽て成さるな、決して知り乍ら故と証明せずに居た訳では無い、纔かに此の頃に至って其の証拠を得たのです、尤も私は秀子の件イヤ輪田夏子の件を弁護した当人ですから其の当時幾度も秀子即ち夏子の口から全く此の人殺しは自分で無いとの言葉を聞き大方其の言葉を信じました、信ずればこそ一生懸命に肩を入れ充分弁護しましたけれど、如何せん其の時は総ての事情が秀子に指さして居る様に見え、私も反対の証拠を上げ得なんだ者ですから、弁護も全く無功に帰し、秀子即ち夏子は殺人の刑名を受けましたけれど、其の時私は秀子に向かい、真に貴女が殺さぬ者なら、遅かれ早かれ終には誠の罪人の現われ、何所にか其の証拠が有りましょうから、貴女が牢に入って居る間に私が其の証拠を捜しますと受け合い、秀子も亦、甘んじて此の乱暴な裁判に服する事は出来ぬから、何の様な事をしてなりと牢を抜け出で、盡くすだけの手を盡くして、縦んば唯の一人なりとも此の世に輪田夏子は殺人の罪人でないと信ずる人の出来る様にせねば置かぬ、此の目的の為には自分の生涯を費やす覚悟だと殆ど眼に朱を注いで私へ語りました、即ち秀子が牢を脱け出たも其の結果です、牢に居ねばならぬ義務の有るのに牢を抜け出る世間の脱獄者とは聊か違うのです、牢に居る可き筈がないのに唯法律の暴力の為に圧せられて、止むを得ず牢に居るから及ぶ丈の力を以て其の暴力の範囲から脱け出たのです、脱け出て後も、今日まで全力を其の目的の為に注いで居たのでしょう」
是で見れば秀子が密旨と云ったのも多分は其の辺に在ったであろう、尤もそれだけとしては猶多少合点の行かぬ所も有りはするけれど、兎に角大体の筋道だけは分った、余は殆ど目の覚めた気持がする。
余は何も彼も打ち忘れて喜んだ、「成るほど権田さん、アノ裁判は間違いに違いない、秀子が人殺しなど云う憎む可き罪を犯す女でない事は誰の目にも分って居ますよ」権田は嘲笑って「爾ですか、誰の目にも分って居りますか、実に貴方は感心ですよ、自分の妻と約束までした女を、ポール・レペル先生から人殺しの罪人だと聞けば直ぐに其の気になり、今又私から罪人でないと聞けば、何の証拠も見ぬうちに又成るほどと合点成さる、実に
斯う云い切って更に考え見れば、唯喜んでのみ居る可き場合でない、愈々其の様な清浄無垢の女なら早く其の清浄無垢が世に分る様に取り計って遣らねばならぬ、余「イヤ権田さん、私が軽々しく有罪と信じ又無罪と信ずる反覆は如何にも可笑しいでしょう、之は何の様な嘲りでも甘受しますが、夫よりも先に其の秀子の清浄な証拠と云うのを世に示そうでは有りませんか、世に示して秀子の濡衣を乾して遣りましょう」権田は何故か返事をせぬ、余は迫き込んで「エ、権田さん、二人で声の続く限り世間へ対して叫ぼうでは有りませんか、殊に秀子は今既に養父殺しと云う二度目の恐ろしい嫌疑をさえ受けて居りますから、差し当りアノ森主水にも其の証拠を示し秀子が少しも罪など犯す汚れた履歴でない事を知らせ、此の差し掛かった厄難を払って爾して取り敢えず秀子の身を安泰にして遣りましょう、サア其の証拠は何所に在ります茲へお出しなさい、サア茲へ」
権田は重々しく落ち着いて「其所が即ち相談です、貴方と私との間に確たる相談の極った上でなくては」余「相談は極ったも同じ事です、私は何の様な相談にでも応じますよ」権田「そう早まらずと、静かに私の言葉からお聞き成さい、第一貴方は秀子を救い度いと断言しますか」余は
奇怪な事を云う者かな、罪人でない者に、罪人と言い聞けるが濡衣を乾す準備とは真に有られもない言い種である、余「何で其の様な事が準備です」
権田「そう云わねば、秀子が貴方へ愛想を盡さぬのです、先刻既に貴方へ愛想を盡した様に見えましたけれど、アレは真正に愛想を盡したのではなく、一時腹を立てたのです、貴方を恨んだのです、恨むとか腹を立てるとか云うのは猶だ充分貴方を愛して居る証拠で、愛想を盡すときと余ほどの違いです、真に愛想を盡したなら恨みもせず怒りもせず、只賤しんで、最早取るにも足らぬ男だと全く貴方を度外に置くのです、貴方は真に秀子を救い度いなら、此の通り度外に置かれる事になる様にお仕向けなさい」余「ダッテ権田さん秀子はアノ通り心の堅固な女ですから一旦私に愛想を盡せば、縦しや其の身が救われた後と成っても、決して其の盡した愛想を回復することは有りません、生涯私を度外に置きますが」
権田「無論です、生涯貴方を度外に置き、秀子の眼中に全く丸部道九郎と云う男のない様に成らねば救うことは出来ません」
此の様な奇怪な言い分が世に有ろうか、世は唯呆気に取られ「権田さん貴方の言う事は少しも私に分りません、何で秀子が生涯私を賤しむ様にならねば其の濡衣を乾す事が出来ませんか。其の様な其の様な理由は何所に在ります、夫も明白に説き明かし、私の心へ成るほど合点の行く様に言い立てねば、私は遺憾ながら貴方を狂人と認めます、貴方の言葉は少しも辻褄が合わず全く狂人の
権田「一口に申せば、貴方へ心底から愛想を盡さぬ以上は、秀子は決して此の権田時介の妻に成りません、時介の妻にならねば、時介は決して救うて遣る事は出来ません。持って居る証拠を握り潰します、ハイ是は最う男子の一言で断言します、是でお分りに成りましたか」アア彼の言葉は全く嫉妬に狂する鬼の言葉だ。
人が井戸の中に落ち込んで居るを見て、誰か救うて遣り度いと思わぬ人が有ろうか、人が無実の濡衣に苦しんで居るのを見て、誰か其の濡衣を乾して遣り度いと思わぬ者が有ろうか、若し有れば其の人は鬼である。
なるほど斯う云われて見れば、余の心とても権田の心と大した違いはないか知らん、妻にせずして唯救うだけでは何だか飽き足らぬ所が有る、エエ余自らも人と云われぬ鬼心に成ったのか、茲で全く秀子を思い切り、秀子に生涯の愛想を盡される様にして爾して秀子の助かる道を開かねば成るまいか、折角清浄無垢の尊敬す可き女と分った所で、直ちに愛想を盡される仕向けをせねば成らぬとは余り残念な次第では有るが、之を残念と思うだけ余の心も権田の鬼心に近づくか知らん、残念残念、何とも譬え様のない残念な場合に迫ったものだと身を掻きむしる程に思うけれど仕方がない、「権田さん貴方の言葉は実に無慈悲な論理です」権田「貴方の言葉もサ」
余は太い溜息を吐いて「権田さん、権田さん、私が若し茲で、何うしても生涯秀子に愛想を盡される様な其の様な仕向けは出来ませんと言い切れば何と成さいます」権田「爾言い切れば何とも致しませんよ、私は貴方の様に何時までも女々しく未練らしくするは嫌ですから、夫なら御随意に婚礼成さい、お目出度うと云って祝詞を述べてお分れにする許りです」余「夫で貴方は満足が出来ますか」権田「出来ますよ、恋には負けても復讐には勝ちますから、ハイ恋は一時の負、復讐は生涯の勝」余「復讐とは何の様な」
権田「貴方と秀子と婚礼するのが即ち復讐に成りますよ、先ア能くお考えなさい、貴方が秀子を妻に仕ましょう、貴方は秀子を潔白な女と思っても世間では爾は思いません、何時何人の手に依ってアノ顔形が世間に洩れ今の丸部夫人は昔養母殺しで有罪の裁判を経た輪田夏子だと世間の人が承知する事に成るかも知れず、イヤ縦し顔形は現われぬとしても探偵森主水の口から夫だけの事が直ぐに公の筋へ伝わります、秀子は無論此の国に居る事が出来ず貴方と共に此の国此の社会と交通のない他国の果てへ逃げて行く一方です、逃げて行っても何時逮捕せられるか一刻も安心と云う事がなく風の音雨の声にもビクビクして、三年と経たぬうちに年が寄ります、早く衰えて此の世の楽しみと云う事を知らぬ身に成って了います、爾して貴方に対しても妻らしい嬉しげな笑顔は絶えてなく夜になると恐ろしい夢に
何たる恐ろしい言葉ぞや、余は此の時介を敵としては到底秀子の生涯に何の幸福もないを知った、余が秀子と婚礼すれば其の日から此の男は直ちに復讐の運動を始め、真に余と秀子とを不幸の底へ落とさねば止まぬであろう、日頃は仲々度量の広い、男らしい男で、幾分の義侠心を持って居るのに恋には斯うまで人間が変る者か、真に此の男の愛は余の愛よりも強いには違いない、夫を知って猶も秀子を我が妻とし、今此の男の云うた様な儚い有様に若しも沈ませる事が有っては、全く余の愛は毒々しい愛と為る、幾等残念でも此の男に勝利を譲る外はない、余は断乎として「承知しました、権田さん、秀子を貴方の妻になさい」血を吐く想いで言い切った。
余は全く降参した。「秀子を貴方の妻になさい」と権田に向かって言い切った、真に血を吐く想いでは有るけれど是より外に仕方がない、斯うせねば到底秀子の汚名を
権田は別に嬉し相にもせぬ、宛も訴訟依頼人に対して手数料の相談でも取り極める様な調子で「なるほど流石は貴方です、夫でこそ清い愛情と云う者です、併し一歩でも今の言葉に背いては了ませんよ、秀子に対して、何所までも其の有罪を信ずる様に見せ掛け貴方の方から愛想を盡したと云う様に仕て居ねばなりません、爾して居れば秀子は必ず貴方を賤しみ、斯うも軽薄な、斯うも不実な、斯うも浅薄な男を今まで我が未来の
余は何とやら不安心の想いに堪えぬ、「けれど権田さん秀子を救う事は万に一つも遣り損じは有りますまいね」権田「其の問いはくど過ぎます、兎角に貴方は未練が失せぬと見えますが能く物の道理をお考え成さい、貴方と秀子との近づきは、云わば昨今の事ですよ、私は八年前から彼の女に実意を盡くし、唯弁護に骨折った許りでなく、牢を脱け出させた事から其の後今まで何れほど苦労して居るか分りません、此の苦労に免じても秀子は当然私の妻たる可き者、夫を思えば決して未練を残す可き道はないのです」余「イヤ一旦思い切った上は未練を残しはしませんが唯果たして助かるや否やが気掛かりです、貴方が確かな証拠と云うは、全体何の様な証拠ですか、一応夫も聞いて置き度く思いますが」権田「証拠の中で最も争い難い一物です、即ち私はお紺婆を殺した其の本人を突き留め、何時でも其の者を其の筋へ突き出す事が出来るのです、のみならず其の事が自分でないなどと強情を張る事の出来ぬ様に、何も彼も調べ上げて有りますから、多くの月日を経ぬうちに目的を達します、其の男が愈々白状して有罪と極まって御覧なさい、全社会が秀子の前に平身低頭して今までの見損じを謝し、秀子は罪なくして罪を忍んだ憐れむ可き犠牲と云われ、全国第一の名高い女と為り、非常な尊敬を博します。サア斯うまで位置が転倒して、貴方の愛する女が不名誉の極点から、名誉の極点に飛び上るかと思えば、貴方は秀子を私へ譲ったのを嬉しいと思わねば成りません、エこれが嬉しくは有りませんか」
彼は余を慰める積りであるか将た冷やかす積りであるか、余には更に分らぬけれど、真に其の通りとすれば、余は嬉しい、然り残念ながら嬉しいのだ。
「ハイ権田さん、喜んで私は其の事を貴方に托します、斯う云ううちにも最う汽車の時間ですから立ち去りますが、直ぐにも何うか其の手続きを」権田「ハイ手続きの手初めは先刻の森主水の捕縛を解き彼の耳へ誠の罪人の姓名を細語いても済むのです」彼は斯く云いつつ、次の間の戸を開いたが、驚く可し森主水は、グルグル巻に縛られたまま、何うしてか此の戸の外まで転がって来て居る、多分二人の話を又も立ち聴き、イヤ寝聴きして居たので有ろう、寝聴きして何と思ったか知らぬけれど其の顔には相変らず怒りの色が現われて居る、併し余は彼に拘って居る暇はないから其のまま権田に分れを告げたが、権田は余の背影を見送りつつ「安心なさい丸部さん、此の探偵吏の始末も悉皆私が引き受けました、猶私は明日にも貴方の後を追い幽霊塔へ秀子に逢いに行きますから、其の時に若し秀子が少しも貴方に愛想を盡した様子がなければ、貴方は不徳なる違約者として充分に責めますよ」と云った、彼の声は絶望した余の耳へ警鐘の様に響いて居た。
余は権田時介の声を聞き流して二階を降りた、後で権田と森主水との間に何の様な応対が有ったかは知らぬ、唯早く幽霊塔へ帰って見度い一心で停車場へ駆け附けて、やっと終列車に間に合った。
汽車の中で漸く気を落ち着けて見ると、秀子が清浄潔白の女と分ったのは実に有難い、之だけは神にも謝したい程の気がする、けれど其の清浄潔白の女を、猶も疑う様に見せ掛け、其の女から生涯賤しまれる様に、愛想を盡され度外に措かれる様に、仕向けねば成らぬとは何たる情け無い始末で有ろう、泣いて好いか笑って好いか、我が身で我が身が分らぬとは茲の事だ。
併し其のうちに汽車の中で眠って了い、塔の村の停車場へ着いた時、初めて目が覚めた、早や朝の七時である、何でも秀子は夜の明けぬうちに茲へ着いた筈では有るが、実際此の地へ来たか知らん、途中で何所かの停車場から降りたでは有るまいかなど、様々に気遣われ、急いで幽霊塔へ帰って見た、爾して門の番人に、第一に秀子が帰ったかと問うて見たが、昨夜遅くに倫敦から秀子に宛てた電報の来た事は知って居るが、秀子の帰った事は知らぬとの返事、其の電報が即ち余の発したのに違い無いから、シテそれを何うしたと問えば虎井夫人に渡したとの事である、自分の室へも入らずに其のまま夫人の居室に行くと夫人は例の狐猿に顔を洗って遣って居る、其の様甚だ優長には見ゆるけれど併し心の中に何か穏やかならぬ所の有るは、余の顔を見ての眼の動き工合でも分る、扨は此の夫人、既に余が養蟲園へ行き夫人の身許まで探ったのを知り、
若し彼の電報を見たのなら、兎に角余が安心させる様に認めて置いたから落ち着いて居るだろうが、彼の電報が猶秀子の手に渡らずに有って見れば、当人は今以て心も心ならずに居るで有ろう、早く逢って安心させて遣り度い、イヤ今は安心させる訳にも行かず、逢えば唯余に愛想を盡す様に仕向けねばならぬのだけど、夫でも逢い度い、逢って顔見ねば何だか物足らぬ所が有る。
是から余は秀子の室へも行き猶家中をも尋ねたけれど、秀子の姿は見えぬ、此の上は再び停車場へ引き返して、誰か秀子の下車したのを見た者はないか聞き合わして見ねば成らぬ、トは云え余自ら此の家へ帰り、猶生死の程も分らぬ叔父の病気を見舞わぬ訳に行かぬから、先ず其の病室へ行き看護人に尋ねて見た所、叔父は日増しに快くなる許りであるが今は眠って居るゆえ、二時間程経ねば逢う訳に行くまいとの事だ、夫では停車場へ行って来ての上にしようと、先ず馬厩へ行き、日頃乗り慣れた一頭を引き出したが、三四日誰も乗らぬ為、余ほど
窓に隠れた其の顔は、実に意外千万な人である、余は一時、秀子が事をさえ忘れる程に打ち驚き、直ちに馬を庭木に繋いで其の家の玄関とも云う可き所の戸を推し開き中に這入った、中は空間同様で誰も居ぬゆえ、今しも件の顔を見た奥の間の方へ行こうとするに界の戸に錠が卸りて居る。
戸を叩き破っても奥へ入って見ねばならぬ、余は昨夜探偵森主水を縛った事を思えば人の家宅へ闖入する罪を犯す位は今更恐れるにも足らぬ所だ、戸に手を掛けて一生懸命に揺って居ると、一方の窓から「貴方は何をなさる」と咎めつつ六十にも近く見ゆる老婆が出て来た、見れば其の手に幾個の鍵を束ねて持って居る、多分是が此の家の主婦人であろう、余は「奥の室に居る人に合わねばならぬ用事があります」と云い其の婆の持って居る鍵を奪い、婆が驚いて妨げる間もないうちに早や界の戸を開いた、此の戸の中が確かに彼の顔の隠れた室である。
婆の足許に鍵を投げ遣って置いて戸の中へ入ると、猫に追い詰められた鼠の様に隅の方に
お浦が何うして紛失した、何うして此の家に隠れて居た、多分は種々の秘密が之に繋がって居る事で有ろう、余は何も彼も説明される時の来た如く思い、捕吏が罪人を捕える様にお浦の手を捕り「ハイ邪慳に乱暴に、私が此の室へ闖入するのを貴女は拒む権利が有りますか、お浦さん、貴女は実に女の身に有るまじき振舞いを為し他人に非常の損害を与えました、今は其の損害を償い、神妙に謝罪の意を表す可き時が来たのです」
お浦「エ損害と仰有るか、謝罪と仰有るか、私こそ一方ならぬ損害を受けた女です」怒る様には云うけれど、実際怒る丈の勇気はなく、事の全く破れたを知って、絶望の余り空元気を粧うて居る事は其の声の恐れを帯びて震えて居るにも分って居る、余「其の様な空々しい偽りを吐く者では有りません、損害を掛けたのは貴女で、損害を受けたのは外の女だと云う事は貴女自ら能く知って居るでは有りませんか」お浦は悔しげに余の手を払い退け「貴方は爾うまで私が憎いのですか、爾までアノ女が可愛いのですか」と打ち叫んだ、余は厳重に「憎いの可愛いのと云う事は別問題です、私は愛憎に拘らず貴女を責めるのです、斯く云えば矢張り松谷秀子を愛する為に私が云う様にお思いでしょうが、秀子を愛すると云う事は過ぎ去った夢になりました、此の後再び秀子の顔を見るか否かさえ分りません」
お浦は驚いて一歩前に進み出で「アア到頭貴方は松谷秀子の汚らわしい素性を看破りましたか」余「看破りも何も致しません、唯松谷秀子が無実の罪を被、長い間濡衣に苦しんで居た不幸なるイヤ清浄潔白な女だと云う事を知ったのです、夫は知りましたれど、秀子は私の者ではなく全く他人の者に成りました」お浦「エ他人の、とは弁護士権田時介氏の事でしょう」余「爾です、秀子は権田時介の妻とする事に定まりました」
お浦は何事か合点し得ぬ様に暫し余の顔を見詰めて居たが、忽ちワッと泣き出した。「エエ、欺された、欺された、アノ悪人に、彼奴め復讐をさせて遣るの秀子を滅して遣るのと云い、初めから人を欺き、爾して今は其の復讐さえも出来ずして終わるとは」余は女の涙には極めて脆い性分である、お浦の様な忌む可く憎む可き女の顔にもまこと涙の流れるを見ては甚く叱り附ける勇気がない、少しは言葉を柔らげて「貴女は誰の事を其の様に云うのです、彼奴めとは誰を指します」お浦「彼奴めとは彼奴めですよ、彼の悪人ですよ、私の
幾等悪心のお浦にもせよ、高輪田長三の妻に成ったとは聊か憐れむ可き堕落である、余は思わず嘆息して「貴女は罪な事、邪魔な事ばかりを
お浦は此の言葉にワッと泣き伏した、爾して泣き声と共に叫んだ、「道さん、道さん」斯うは云ったが流石に余を「道さん」などと幼名を以て慣々しく呼ぶのが気恥ずかしく成ったのか「丸部さん」と云い直して更に「貴方は何にも知らぬから其の様に私をお責め成さるのです、聞いて下さい、何も彼も云いますから」勿論余は聞かねば成らぬ、全体お浦が何うして幽霊塔の書斎の中で紛失したか、又其の後お浦の死骸として堀の中から引き上げられた女の死骸が何うしてお浦でなかったのか、此の辺のことは奇中の奇で、お浦自身の説明を聞く外はない、余「ハイ聞きましょう、貴女も有体に云う方が、罪が滅びます」とは云えお浦は仲々話などの出来そうな様ではない、顔の色青冷めて全身が震えて居る、余は此の様な悪人に手を触れるさえ汚らわしい程に思って居れど、此のまま置いては何の様な事に成ろうとも知れぬ故、先ず助け起こし長椅子へ
けれど猶話し得そうにも見えぬから、葡萄酒でも呑ませたらと思い、室中を見廻しつつ「浦原さん飲物でも欲しくは有りませんか」お浦は人生の恨みを唯此の一刻に引き集めた様に呻き「ハイ毒薬ならば飲みましょう」と云ったが、更に「イエ、イエ、私は生まれ附き臆病です、飲み度くとも毒薬などは飲み得ません、死ぬる苦痛が恐ろしい、死ねば真暗に成った様な気持がするだろうと夫が恐ろしいのです、道さん、イヤ丸部さん、何にも要らぬから、話す間貴方の手を握らせて置いて下さい、貴方と私は幼な友達では有りませんか」と云い半分ほど身を起こして爾して聊か声を確かにして「私は本統に過ち許り重ねましたが、其の過ちは総て愛と嫉妬から出たのですよ、云わば貴方の為ですよ」
何から出たにせよ罪は罪、悪事は悪事、少しも許す所は無いが、併し愛と云い嫉妬と云い、事実には違いない、此の女が小児の頃から何かに就けて嫉妬の深かった事は余が知り過ぎるほどに知って居る、殊に其の嫉妬が余が為と云われては、余の身にも幾分か責任のある様に思われ、余は言い訳の如くに「私の為とて、私は貴女に愛せられて居るなどと少しも気が附かずに居たのですもの、又気の附く筈も有りませんワ、既に貴女から爾云ったでは有りませんか、到底私を愛する事が出来ぬから、無理な許婚を取り消して分れよう、其の方がお互いに清々すると」お浦「ハイ爾は云いましたけれど心の中は爾でなく、唯貴方と松谷秀子とが何だか親しい様に見え、夫が気に障って成りませんから、彼の様に云って分れて居れば其のうちに貴方の心が此方へ向く事に成るかと思い夫で
幾等嫉妬の為にもせよ人間の道を踏み迷うに至っては、全く一人前の善心がない者で、善よりも他の念が強いのだから、即ち悪人である、斥けねば成らぬ人間である。それは兎も角も、何しろ余に取っては極めて迷惑な、又極めて危険な問題であるから余は之を聞き度くない、余「イヤ浦原さん過ぎ去った感情はお互いに云わぬ事とし、事実だけを伺いましょう」冷淡過ぎるかは知らぬけれど、余は明らかに斯う云い切って、爾して自分の掛けて居る椅子を少しばかりお浦の傍へ引き寄せ、願いの通り握らせる様に、余の手だけを差し延べて遣った、お浦は幾分か力を得た様子で「ハイ感情は云う丈気分を損じます、忘れましょう、忘れましょう、爾して事実だけ申しましょう」とて余の手を取った、云わば頼みの綱に縋る様な風である。
余は早く合点の行かぬ
「私と根西夫人と伊国の旅館で初めて高輪田長三に逢いました。其の時は何者とも知りませんでしたが、私が幽霊塔の話をすると、彼は忽ち自分が其の塔の今までの持主で、此のほど丸部朝夫氏へ売り渡したのだと云いました、彼は私が其の丸部の養女だと知ってから急に私の機嫌を取る様に成りましたが、私が松谷秀子の身の上を知るに屈強の人に逢ったと思い、充分懇意に致しました、爾して或る時秀子の事を話し、多分古山お酉と云う女中で其ののち米国へ行ったのが、金でも儲けて令嬢に化けて此の国へ帰ったのだと思うが、何うだろうと問いますと、彼は秀子の様子の容貌などを詳しく聞き、イヤ夫はお酉とは違う様だ、若しや其の女の左の手に、
「其のうちに彼は私が深く秀子を恨んで居る事を見て取り、果ては自分の妻たる事を承諾さえすれば共々に力を合わせて其の秀子の化けの皮を剥ぎ、何の様な目にでも逢わせて遣ると云いました、勿論私は彼の妻などに成る気は有りませんけれど一時の手段と心得、夫は随分妻に成らぬ事もないが兎も角も貴方の手際を見ねばとて成るだけ彼を釣る様に答え一緒に此の国へ帰って来たのは貴方が御覧なさった通りです。
「彼は唯一目秀子の顔を見さえすれば直ぐに輪田夏子と云う事を看破すると云い、其の積りで幽霊塔の夜会へ出ましたが、愈々秀子に逢って見ると彼は気を失うほど驚きました、何うでも輪田夏子に違いない様にも見えるけれど、能く見れば又何うしても夏子ではない様に思われる、此の様な不思議な事はない、此の上は左の手の手袋を奪い其の下に何を隠して居るかを見る一方で、之をさえ見れば確かな所を断言する事は出来ると云いました。
「之より私は唯秀子の手袋を奪うのと、貴方に逢って能く自分の心の中を打ち明けることを目的とし其の機をのみ待って居るうち、貴方の仰有る私の紛失の日が来たのです。
「アノ日私は多分貴方か又は秀子かが読書の為に来るだろうと思い、独り書斎へ忍び込んで居りますと、兼ねて長三は私が貴方に心を寄せて居る事を疑い、嫉妬の様な心を以て窃に見張って居ると見え、窓の外へ来て、恨む様な言葉を吐きました、若し彼様な所を貴方にでも秀子にでも見られては何事も面白く行かぬと思い私は長三に其の旨を説き、ヤッと彼を追っ払いました、彼が立ち去ると引き違えて貴方が一方の戸の所から這入って来ました。
「其の後の事は申さずとも御存じの通りです。夫から私は貴方の言葉に失望して、庭の方へ立ち去ると松谷秀子に逢いましたから、寧ろ此の女を貴方の前へ連れて行って、無理にでも左の手袋を取らせるが近道かと思い、話が有るからと云って誘い、引き連れて再び書斎へ行って見ますと最う貴方は居ないのです、居ないのではなく、後で分りましたが大怪我をして声も立たぬほどの有様となって本箱の蔭に倒れ、私と秀子との問答を聞いておいでなさったのです。
「最う序でですから何も彼も申して置きますが貴方の怪我も長三の仕業です、彼は私に追い払われて一旦窓から立ち去りましたけれど、立ち去ったと見せて又引き返し、アノ室の仕組は誰よりも能く知って居る者ですから、壁の間に秘密の道が有ると知り其所へ潜り込んで爾して様子を窺って居た相です、窺って居ると私が貴方に向かいアノ通りの事を云いましたから、彼は貴方が世に有る間は
長三が其の様な事をするは余に取って左まで意外な事ではない、けれど余は今が今まで確かに彼とは思い得ず、又壁の間などに秘密の戸や秘密の道などが有る事も知らねば、到底説き明かす事の出来ぬ不可思議の事件だと思って居た、是で見るとお浦の口から未だ何の様な意外の事件が説明せられるかも知れぬ。
勿論幽霊塔は、奇妙な建築で、秘密の場所のみ多いけれど、彼の書斎の壁の背後に人の隠れる様な所の有るは知らなんだ、探偵森主水さえ看破る事が出来なんだ、此の向きでは猶何の様な不思議の事を聞くかも知れぬと、余が耳を傾くると共にお浦は
「貴方が怪我して、イヤ刺されて本箱の蔭に仆れて居ようとは私も秀子も其の時は未だ知りませんから、誰も聞く人はないと思い、云い度い儘を云い、争い度い儘に争った事は定めし御存じでしょう、爾して争いは私の勝と為り終に秀子の左の手袋を奪い取り其の下を見ましたが、全くお紺婆に噛み附かれた歯の痕が三日月形に残って居て、確かに輪田夏子だと分りました、夏子は痛く驚き怒って、此の秘密を他言せぬ様に堅く誓いを立てねば此の室を出さぬなど云い、甚い剣幕で私へ迫りました。私は之が養母をまで殺し、牢から脱け出て来た女かと思えば、唯の一刻も差し向かいで居るのが恐ろしくなり、何うかして室の鍵を奪い、戸を開いて逃げ出し度いと思い、再び争いを始めました、今度は口だけの争いではなく、身体と身体との争いです、私は鍵を取ろうとする、向こうは取られまいとする、組んづ
「是は貴方の声でしたが二人はそうとは知らず、さて聞いて居る人が有ったのかと一方ならず驚きました、けれど何方かと云えば秀子の方が私よりも深く驚いたのです、私は人に聞かれたとて大した迷惑は有りませんのに、秀子は誰にでも聞かれては全く身分を支える事が出来なくなります、夫ゆえ秀子は声を聞いて其の方へ馳せて行きましたが、其のあとで私の紛失と云う奇妙な事が出来たのです。
「お浦の紛失とか浦原嬢の消滅とか云って非常に世間が怪しんだ相ですが、爾まで怪しむにも及びません、私が床に仆れて起き上ろうとして居ると、横手の方から又異様な物音が、最と微かに聞こえました、振り向いて見ると、今まで戸も何もなかった壁の一方に、
「私は、唯秀子を窘めると云う言葉が嬉しく、何分宜しく頼みますと答えました所、長三は私の手を引き壁の間から床の下へ降り、爾して穴倉の様な所へ私を入れて置いて、後ほど迎えに来るから夫まで静かに茲に居ろと云い、其の身は直ぐに立ち去りました、私は何処を何うすれば外へ出られるか少しも案内を知りませんから唯長三の言葉に従い彼の迎えに来るのを待って居る外はなかったのです。
「夜に入って後、彼は迎えに参りました、此の時は忍び提灯を持って居ましたから分りましたが、彼は一方の手に、書斎に在った卓子掛けを持って居るのです、兼ねて私も見覚えの有る印度の織物ですから、何んの為に其を持って来たと問いましたら、
余は是まで聞いて殆ど恐ろしい想いがした、堀から出た彼の死骸も高輪田長三の仕業で有ったのか、彼の悪事は何れほど底が深いかも知れぬけれど、恐ろしさより先に立つは不審の一念だ、彼の死骸が何者であるかは今以て解釈の出来ぬ問題で、森主水は其の時、死骸に首の無いだけ却って手掛かりが得易いと云い、又其の首は倫敦で尋ねればなどと云ったが、果たして倫敦で充分の手掛かりを得たのであるか、未だ其の辺の事情を聞かぬけれど、兎に角も其の怪しさは今猶昨の如しである、之が今茲でお浦の口から分るかと思えば殆ど後の言葉が待ち遠しく思われ「シタが彼の時の女の死骸は全体何者でしたか」と余は問い掛けた。
「彼の時の女の死骸は全体何者でしたか」と余の問う言葉に、お浦「彼は高輪田が倫敦から得たのです」倫敦から得たと云えば、何うやら森主水の其の時の言葉が全く無根でもなさそうだ、余「エ倫敦から」お浦「ハイ能くは知りませんけれど、何でも解剖院の助手に賄賂を遣り、アノ様な死骸を買って来たのです」開いた口が塞がらぬとは此の事だろう、解剖院から窃に死骸を買い取るなどは何所まで悪智恵の逞しい男だろう。
お浦「私の見た時は、既に首がなかったのです、多分首は倫敦で其の助手に切り捨てさせ、外の死骸と共に焼くか何か仕たのでしょう、夫だから彼の死骸が何所の何者だと云う事は分りません、何所かの貧民病院で何かの病気で死んだ女だろうと思われます」余「貴女が其の様な恐ろしい目ろみに賛成したとは驚きました」口に斯くは云う者のお浦の今までの挙動を考えて見れば、実は驚くにも足らぬのだ、曾ては秀子を虎の居る室に誘い入れ、其の生命を奪おうとまで仕たではないか、人殺しをさえ目ろむ女が、何事に躊躇する者か、お浦「私も余り恐ろしい事と思い、少しは争いましたけれど、是をせねば秀子に恨みを返す事が出来ぬと云われ、ツイ其の言葉に従う気になり、自分の指環や着物
是だけは嘘らしくない、余ほどの後悔に責めらるるに非ずば仲々斯うまで打ち明ける事はせぬ、余「後悔が遅過ぎましたネ」お浦「本統に遅過ぎました、其の後と云う者は
余「エ、此の様に隠れて居て、能く婚礼が出来ましたネ」お浦「ハイ夫は高輪田が巧みに計らいました、彼は私の姿を変えさせ、引き連れて夜汽車に乗り、此の隣りの州へ行き、矢張り之も賄賂の力で貧しい寺の和尚を説き、婚礼の式を挙げさせ、爾して翌々日の晩に此の土地へ帰って来ました」余「其の様に式まで行うた夫婦なら生涯彼の愛を頼みとする外は有りますまい」
お浦は益々恨めしげに「エ、エ、彼の愛、彼に愛の心などが有りますものか、彼の目的は唯私を元の通り丸部の養女にして爾して叔父の財産を手に入れるのみに在るのです、彼は叔父さんが秀子の為に遺言状を作らぬ先に事を運ばねば了けぬから夫で当分は丸部家へ入り込んで居ねば成らぬと云い、私の許へは帰っても来ぬほどです、私は一人此の室に居て彼の心を考え、次第に恐ろしくなりまして、今では何うしたら宜かろうと唯途方に暮れて居るのです」
余は是だけ聞いて殆ど目の醒めた想いがした、今まで高輪田長三を何となく怪しい奴とは睨んで居たが斯うまでの悪人とは思わなんだ、是で見ると過る頃から幽霊塔に引き続いた不思議の数々は悉く彼の仕業である、余の怪我も彼、お浦の紛失も彼、怪しの死骸も彼、シテ見れば叔父を毒害する者も彼に違いない、爾だ彼は叔父を殺して其の疑いを秀子に掛けさえすれば、丸部家の財産は、少くとも半分までお浦の物に成ると信じて居る、夫が為に幽霊塔へ詰め切って居るのである、夫が為に此の
是で見ると彼は生得の大悪人だ、人間の皮を着た本統の悪魔である、幽霊塔へ来ぬ以前とても定めし悪事のみを為して世を渡って居た者に違いないと、余は知らず知らず以前の事まで遡って考えるに連れ、又大変な事を
お紺婆を殺したのが果たして高輪田長三だと云う事は、別に証拠の有る訳ではない、けれど余はそう感ずる、只感ずる丈では何の当てにも成らぬとは云え、宛も磁石が北の方を感ずる様に、天然自然に感ずるので、之に間違いが有ろうとは思われぬ。
何故此の感じが最っと以前に起こらなんだで有ろう、
余は之を思うと、何がなしに只悔しく只腹立たしい、殆ど誰れ彼れの容赦もないほどの見幕で、お浦に向かっても最と邪慳に「お浦さん、貴女は実に大変な者を良人としました、貴女は未だ高輪田長三の悪事を十分の一をも知らぬのです、彼が秀子を傷つける為に、堀へ死骸を投げ込んだ位な事は極々罪が軽いのです、彼は過日来、私の叔父を毒害しようと仕て居ます、幽霊塔へ入り込んで帰らぬのは夫が為です、それに又八年以前にお紺婆を殺したのも彼の所為です、彼は通例の悪人と違い恐ろしく悪智悪才に長けて居て、自分が悪事を為すには必ず他人へ其の疑いの掛かる様に仕組んで置いて其の上でなすのです、叔父を毒害するにも其の疑いが秀子へ掛かる様に仕組んで置きました、お紺婆を殺した時も矢張り其の伝です、輪田夏子へ一切の疑いを掛けて了い、爾して自分は何事もなく助かったのです」お浦は打ち叫んだ「エエ、お紺婆を殺したのが彼の仕業、爾して叔父さんをまで毒害しようと、本統に其の様な悪人ですか、爾して私が其の悪人の妻に成ったとは」
お浦自ら長三に劣らぬ悪人なりとは云え流石、女だけ、気の弱い所が有って、男ほどには行かぬと見え、此の語を発したまま気絶して、長椅子の上へ
余は何が何でもお浦には構って居られぬ、是だけの事が分ったに就いては益々早く秀子を尋ね出さねばならぬ。
イヤ、待てよ、秀子を尋ね出した所で、猶権田時介との約束に縛られて居るのだから、少しも慰めの言葉を発する事は出来ず、飽く迄も秀子を汚らわしい罪人と信じて居る様に見せ掛けて居ねばならぬ、お紺婆を殺した下手人が分ったの、叔父に毒薬を与えた本人が知れたのとは
幸い其のうちにお浦は人心地に復った、此の上は捨て置いても自分で回復するだろう、余は斯う見て取ったから「今誰か介抱する者を寄越します」と言い捨てて此の室を出で、此の家の
真に秀子が毒薬を買ったとすれば今度こそは自分で呑む積りに違いない、自殺などする女でないと確かに権田が言い切ったけれど、夫は時と場合に由る事、秀子の様に、其の身の
小僧「知って居ますとも落ち着く先まで私は見届けましたが、之は確かに銀貨三個の価が有り相です」
斯うなっては小僧の請うが儘に賃銀を与えて秀子の行く先を問い詰める外は無い、余は巾着から五六個を攫み出して彼に与え「シテ其の美人は何処へ行った」小僧「人に見られては成らぬと思ったか大道へは出ずに茲から直ぐに裏路へ這入りました」余「裏路へ入ってそれから」小僧「夫からハイ塔の方へ行きました」余「幽霊塔の方へか」小僧「ハイ」余「爾して其の後は知らぬのか」小僧「イイエ、若し大道へ出たならば私は気にも留めぬ所でしたが裏路へ曲がった丈に何所へ行くのだろうと見届ける気に成りました、コレは此の家の婆さんが常に私に言い附けるのです、隠れも何もせぬ人は見届けるに及ばぬけれど、隠れようとする人は必ず見届ける様にせよ、金儲けの種になるからと、イイエ本統ですよ、夫だから私は見え隠れに其の後を尾けて行きました、所が幽霊塔の裏庭へ這入り、堀端に在る輪田夏子の墓の前へ
愈々怪しむ可き次第である、自分の家へ帰るのに裏の窓から忍ぶ様にして這入るとは決して唯事ではない、而かも毒薬を買って
一時間前に生きて居たとすれば今も未だ自害はせぬかも知れぬ、或いは余の室で書き置きでも認めて居るだろうか、最早此の上を聞く必要は無い、余は直ちに馬に飛び乗り、殆ど弾丸の早さを以て幽霊塔に帰った、聊か思う仔細があるから、塔の室へ上る前に先ず下僕に向かい「高輪田長三は何うした」と聞いた、下僕「アノ方は先日から心臓病が起こったとて御自分の室に寝て居ます」余「彼は今朝己が此の家へ帰った事を知って居るだろうか」下僕「イヤ知って居る筈は有りません」余「知らねば夫で宜いから、決して知らさぬ様にして置け」
心臓病で寝て居るなら猶当分は此の家に居るだろう、何しろ彼の身が今は万事の中心と為って居る有様ゆえ、取り逃がさぬ工風をせねばならぬ、彼未だ余が彼の罪悪を看破した事に気が附かぬ故、猶も此の家に踏み留って悪事を続ける積りに違い無い、逃げ去る恐れは
余は其の足で直ぐに塔の上の余の室へ上って行った、茲に秀子が居るか知らんと思ったは空頼みで、秀子は影も形も無い、けれど小僧の云った通り茲に居たのは確かである、余の机に倚りて何か書き認めた者と見え、筆の先が新たな墨色を帯びて居る、爾して一方には絹の手巾が有る、秀子の常に用うる香水の匂いで秀子の品と分る、取り上げて見れば是も猶湿った儘であるが、此の湿りは何であろう、問うまでも無く涙である。泣きながら何事をか書いたとすれば、愈々書き置きらしく思われるが、其の書き置きは何所へ置いたで有ろうと、余は余ほど捜したけれど見当らぬ。捜し盡くして再び卓子の所へ返ると卓子の片端に大きな一冊の本が表紙だけ開いてある、見れば余が初めて叔父と共に此の塔へ来た時に此の室で見出した祖先伝来の彼の聖書で、其の表紙の裏に在る咒文が出て居る「明珠百斛、王錫嘉福、妖偸奪、夜水竜哭」云々の文句は余が今も猶記憶して居る通りで有る、特に此の咒語を茲へ開いて於てあるのは、何かの謎で、秀子が余に悟らせんとの為で有るまいかと此の様に思うに連れ益々気遣わしい、若しや秀子は、此の家の先祖が落ち込んで再び出る事の出来ずして其の死骸さえ現われぬと云う此の幽霊塔の底へ身を投げたではあるまいか、其の知らせに此の咒語を開いたでは有るまいか。
此の幽霊塔を建てた当人さえ、一たび落ち込んでは終に出ることが出来ずして「助けて呉れ、助けて呉れ」との叫び声を、空しく外に洩しつつ悶き死んだと言い伝えられて居る此の塔の底に松谷秀子が身を投げたで有ろうか、唯想像するさえも恐ろしい程だから、真逆にとは思うけれど、前後の事情を考え合わせば、何うも身を投げたとしか思われぬ。
真に身を投げたのなら、今頃は塔のドン底で何の様な有様と為って居るやら、彼の千艸屋で買ったと云う毒薬を呑み、最う既に何の苦痛をも知らぬ
今から思えば実に乱暴な決心ではある、併し此の時は乱暴とは思わぬ、秀子の後を追い塔の底へ降る外には、広い世界に余に行き所はない様な気に成って了った、降って行って、間に合うやら合わぬやら、其の様な事は夢中である、既に秀子の死んだ後で、余は其の死骸の傍へ着き、
時計室へ登って、何うして塔の底へ降る事が出来る、昔から塔の底にありと言い伝えらるる大なる秘密を探らんがため、降り行かんと企てた者が幾人と云う数知れずで、而も一人たりとも降り得た者はない、若し有れば昔に於ては此の塔を建てた此の家の先祖一人、而も其の人は出る事が出来ずに死に、今の世では秀子一人であるけれど、余は唯彼の咒語にある「鐘鳴緑揺」と云う文句が便りだ、時計の鐘の鳴る時に、緑色の丸い戸の様な盤が動き出し、其の間から「微光閃」と有る通り、外の明かりが差し込んで見ゆる事は曾て見届けた所である、其ののちも其の前にも秀子から能く此の咒語を研究せよと告げられたのを今まで研究も何もせずに捨て置いたのは残念であるけれど、ナニ熱心に考えて見れば分らぬ事が有る者か、何でも緑盤の動くのが出発点だ、薄明かりの差す其の穴から潜り込めば「載昇載降階廊迂曲」など有った通り、昇ったり降ったり、
一時の鳴るが合図であると、殆ど競馬の馬が出発の号砲を待つ様に、余は張り切って緑盤の許に行き、今にも一時の鐘が鳴るか、今にも一時の鐘が鳴るか、今にも緑盤が動くかと、見詰める目に忽ち留る一物は、緑盤の縁に
余は之を見ると共に胸が張り裂ける様に躍った、今更怪しむ迄もない様な物の之で見れば秀子が此の緑盤を潜って塔の底へ降った事は最早火を見るより明らかと云う者だ、此の所を潜る時に、被物の端が緑盤へ引っ掛かったのを、秀子は其のまま引きちぎって進んだのだ、愈々以て猶予はならぬと、余は其の絹切れを手に握り、時計の鳴るを待つ間もなく、一時とはなった、時計の鐘は鳴った、緑盤は動いた、手に握って居る日影色の絹は盤の動くと共に脱け出て余の手の中に帰した。
時計の音と共に此の緑盤の動くを見るのは今が二度目だ、此の前にタッた一度しか見た事は無い、何処まで動いて其のあとが何の様になる事か其の辺は少しも知らぬ、けれど動く途端に其の隙間から潜り込めば宜いに違いないと余は唯此の様に思い詰めて居る、午後の一時を打つ時計の音はサア潜り込む合図である。
余は嬉しやと緑盤に手を掛けた、所が緑盤は僅かに全面の十分の一にも足らぬほど開いて其のまま止まって了った、全面の
実に合点が行かぬ、何故緑盤は是だけしか開かぬで有ろう、此の前に見た時は随分潜り込む事も出来るほど開いたのに、さては秀子が、若しや自分の後を余に追っ掛けられるかも知れぬと察して、何うか云う工合に機械を狂わせ、充分には開かぬ事に仕て了ったのか知らん、夫とも少し許り開いた所で其の中へ手でも入れ、何処かに隠れて居る錠前を脱すとか、機械の一部分を止めるとかせば旨く緑盤が脱れて了うのか知らん。
様々に心を絞るけれど仕方がない、緑盤は全く鉄壁の有様だ、此の上は唯二時の鳴るのを待つ外はないであろう、遺憾ながら余は二時を待った、一刻千秋の思いとは此の事であるけれど、終に千秋は経た、二時は鳴った、緑盤は再び動いたけれど、悲しい哉、其の動き方は殆ど前と同じ事で唯前に比べて見れば一寸ほど余計に開いたに止るのだ、二寸に二寸、合わせて四寸の隙間とは、前よりは丁度倍であるけれど、四寸の穴からは未だ潜り入る事が出来ぬ、此の時も矢張り一時の時と同じ事で余は唯失望を重ねる許り、又も千秋二千秋の思いで三時を待ち、三時に失望して四時を待った、此の様な詰らぬ事は前後にない。
併し三時四時と待った為に聊か発明した所が有る、緑盤は時計の鐘が一つ打つ毎に二寸位づつ動くので二時の時は一時より二寸多く開き、三時は二時より又二寸多く、四時は又夫よりも二寸を増し凡そ八寸程開いた、此の割で見ると五時には一尺、六時には一尺二寸爾して十二時には終に全く開いて了うのだ、必ずしも秀子が機械を狂わせた訳ではなく、機械の本来の仕組が爾成って居るのだ。
斯う思うと共に余は二個の事を発明した、其の一つは、秀子が此所を潜ったのは朝の十時から昼の十二時までの間である、即ち余が茲へ来るより少し許り前であった、十時より前には緑盤の隙間が狭いから如何に女の優かな身体と
兎も角身体の精力を回復せねばと、此所を立ち去って食事もした、余所ながら叔父の病状をも見舞って、最早気遣わしい事もないとの旨を聞き定めた、爾して自分の居間に入り、九時半には起こして呉れる様に目覚時計を強く掛けて置いて、身を横にした。
三〇分と経ぬ様に思ったけれど目覚しに起こされて跳ね起きるや早九時半で、何だか電気の鬱積した様に甚く頭が重い、窓を開けて外を見ると、冬の季には珍しい天候で、空は墨を流す様に黒く、爾して雲の割れ目から時々電光が閃き、遠い雷の音も聞こえる、是が真の荒れ模様と云うのだろうと余は気象の事には素人なれど斯う思ったが、後に千八百九十八年の異様なる天候として気象雑誌などに甚く書き立てられたのは即ち此の夜の天候である、此のとき英国に居た人は此の夜が如何なる荒れ方で有ったかを充分覚えて居るだろう、けれど余は天候などは気にも留めず、唯是より塔の中へ入るに就いては、先に養蟲園の経験も有り、燈明の用意だけは充分にして置かねばならぬと思い燐燧の箱を詰め替えて、爾して忍びの蝋燭も
時計の中の囚人とは、余り聞いた事のない境遇である、余は茲で読者に告げて置くが、十時より十二時まで、即ち満二時間の長き間余は囚人の儘で居たのである。
第一に余は蝋燭を点して見たが、天地は四尺ほどである、無論起って歩む事は出来ぬ、左右は壁で、叩いて見ると厚い石の様である、勿論破る事も動かす事も出来ようとは思われぬ、奥行は幾間あるか暗くて見えぬけれど、此の突き当りは即ち時計の時刻盤の裏に違いないから深くも二間以上ではあるまい、余を囚人にして此の牢屋は四尺の天地左右で二間足らずの奥行きなのだ、而も此の
余の前に松谷秀子が此の仮想的牢屋へ入ったに違いないが、茲から何所へ行っただろう、此の中で蒸発して了うに非ざるよりは何所にも脱け路がない様に思われる、咒語の文句を考え合すと「鐘鳴緑揺」の次に「載升載降」と有るけれど登る所も降る所もない様に思われる「階廊迂曲」などとは何の階廊であろう。
若し単に物好きの為に此所へ入ったのなら、余は恐ろしさの為に少しも前へ進む心は出ず、必ず十一時の鳴るを待ち、緑盤の揺く間から元の室へ逃げ帰ろうと云う一心になる所であるけれど、物好きドコロではなく、秀子が此所から塔の底へ潜り込んだかと思えば微塵も引き返す心はない、何うしても此の時計の中の秘密を解き、進めるだけ進む路を見出さねば成らぬ、進んで此の家の先祖と同じく終に還る路を失い、塔の底で叫び死ぬるは少しも厭わぬ、否、厭わぬではない、ドダイ其の様な気の弱い事は思い出しさえもせぬのだ、心が全く秀子の事に満ち塞って居るのだから思い出す空地もないのだ。
何でも何所かに秘密の路が有ろうと蝋燭を振り照らして改めると、聊か思い当る所が有る、時計の音と共に揺いた彼の緑盤の裏に、大きな鉄の鎖が附いて居る、何の為の鎖だろうと第一に怪しむ気が出た、緑盤の動くと共に此の鎖も動く事は必然だが、爾すれば鎖の先に何物をか繋いであって、其の物も亦動くで有ろう、此の鎖が何よりの手係りで有ると、其の鎖を握って引いて見ると、勿論ビクとも動きはせぬけれど、ズッと此の室の奥の方まで行って居る事は分る、奥の方の何所へ行って居る、隘い所に身を屈めて深入りして見ると、分った、鎖は一個の鉄の歯車へ着いて居る、此の歯車が廻るに従い鎖が之へ捲き附いて短くなるから夫で緑盤が揺くのだ、シタが此の歯車の歯は何の為に附いて居るだろう、更に他の車を廻す為か或いは他の車に廻される為としか思われぬ、爾だ此の歯車の次にズッと小さい歯車が有り、其れから又鎖を引いて、其の鎖の端が横手の石の壁へ繋いで居る。
是は不思議だ、石の壁が動けば兎も角、若し動かぬなら此の鎖も動かぬから小歯車も大歯車も、従っては緑盤も、動き得ぬ筈である、ハテなと思って精密に石の壁を検めると、読めたぞ、読めたぞ、壁の其所が何うやら戸に成って居る様だ、アア時計の音に連れ此の戸が開くのだ、開くからして其れに連れて鎖も大小の歯車も緑盤も皆動くのだ、余は之だけの発明に大なる力を得て、更に綿密に其の辺を検めたが、歯車の割合で考えて見ると緑盤が一尺動くと共に此の壁の石の戸が僅かに三寸しか開かぬ勘定だ、是は聊か心細い、縦しや時計が十二時を打って緑盤が皆開いて了ったとて此の戸は凡そ七寸位しか開かぬ、七寸だけ開いたでは通り脱ける事は出来ず、殆ど何の役にも立たぬが併し秀子が此の室に居ぬからは茲を脱けたに相違なく、猶余の目に見えぬ所に、何等かの仕組が有るに相違ない、十一時の鳴る時には自から合点の行く所も有ろうから夫までに猶篤と検めて置かねば成らぬ。
斯う決心して一入熱心に検めたが此の上は別に合点の行く所もない、唯一つ分ったのは、戸の一方に、半鐘としては小さく呼鈴としては、大きい鳴物が附いて居る、之が時を報ずる鐘であろう、此の鐘も戸の動くと共に鳴るのだ「鐘鳴緑揺」の意味も益々明白に成って来る、シタが此の鐘を打つ
最早鐘の鳴る時を待つ一方だと、気を落ち着けて蝋燭を床へ立て、爾して自分の時計を出して検めると、茲へ入って確かに一時間は経った様な気がするけれど未だ三〇分しか経って居ぬ、僅かに十時三〇分である。
猶だ更に是ほどの時間が経たねば鐘は鳴らぬか、待ち遠しい事だと思って、待って居ると、天井の何所かから
何が幸いになるかも知れぬ、差し込んだ雷光が余の為には天の
此の時まで余は、自分の蹈んで居る床が何の様に為って居るか少しも心附かなんだが、俯向いて居る所へ何千何百万燭光とも譬え様のない強い光が閃き込んだので、床の有様が歴々と見えた、即ち角な木を格子の様に組んだ者で木と木との十文字の間に網の目の様に穴が明いて居る、何の為だか知らぬけれど或は埃の溜らぬ用心ででも有ろうか、此の穴から光は尚深く、底の底まで差し込んだ、勿論少しの間では有るけれど、余はチラリと見て取った、其の底の底に何でも石の階段とも云う様な段々が有る、是が咒語に在る「階廊迂曲」に当るのだろう。
爾して其の下に人だか何だか兎に角着物を被た者が横たわって居る、或は之が秀子では有るまいか、勿論見直す暇のない間に電光は消えて、元の暗闇になったから、少しも取り留めた所はないが或いは秀子が早や毒薬を呑んで、死んで斃れて居る姿であったかも知れぬ、斯う思うと真に気が迫られる、一刻も早く塔の底へ降って行き度い。
けれど十一時が打たねば何うする事も出来ぬ、再び蝋燭を点し、時計の鐘が鳴れば直ぐにと用意の調った所で、嬉しや十一時は打ち初めた、見て居ると予算の通りだ、鐘の音の一点毎に壁の戸が六七分ぐらいづつ開く、全く緑盤の動き方の三分一ほどに当るのだ、併し是では十一度打った所で一尺とは開かぬが、何うか開け放す工夫は有るまいかと、手を添えて戸を引き開ける様にするけれど、戸は余の力では少しも動かぬ、唯鐘の声と一所に動くばかりである、爾して其の動く度に、壁の端に空所が出来て、戸の表に有る十二個の凸点が差し支えずに一個々々其の空所を通って行く、実に精巧な仕掛けである。
頓て凸点は十一だけ壁の中へ隠れて了った、戸は七八寸開いた、茲ぞと思って余は再び戸に力を加えたけれど悲しや、早や凸点の通過する壁の空所が塞って、最後に残って居る一個の凸点が之に支え、到底開く可き見込みがない、アア待ちに待った十一時は鳴ったけれど、余は此の関所を通り越す事が出来ぬ、恨めしいとも情けないとも殆ど言い盡す言葉がない。
けれど余は漸く合点が行った、今のは十一時で有ったから、十二の凸点が一個残り、之が
此の間の余の煩悶は管々しく書くに及ばぬが凡そ三千年も経ったかと思う頃漸く十二時とは為った、全く余の見抜いた通りである、鐘の音の十二鳴り盡くすと共に十二の凸点が隠れて了ったから、余は戸に手を掛けて引き開けたが、意外に軽く、突き当るほどに開け放れた、一人も二人も通過する事の出来る広さである、余は
戸の外は矢張り、立つ事の出来ぬ、狭い低い穴である、併し之から塔の底へ行かれるに違いないから、余はホッと安心したが、雷は少しづつ鳴って居る、其の音の塔の中へ響ける様は、宛も塔の霊が余の這入ったのを怒って、唸るのかと疑われる、頓て穴を一間も歩むと、頭の支える広い所へ出て、下へ降る階段の上へ立った、余は一歩之を降り掛けて考えた、咒語には「載升載降」と有った、降る前に何処か登る所の有る可き様に思われるが、少しも登らずに直ぐに降るとは、本統の道で有るまい、若しや此の前に何方へか登る路が有りはせぬかと、今度は左右の壁を検めつつ取って返した、有るぞ有るぞ、狭い穴の右手の壁に、更に狭い穴が有って
何者の叫ぶ声だか、余は深く懼れを催した、けれど到底確かめる事は出来ぬ、或は秀子が塔の底で何か危い目にでも遭ったのかと此の様な疑いも湧き起った「秀子さん、秀子さん」と二声呼んで見たけれど、自分の声さえ恐ろしげに響くばかりで何の返事もない。
兎に角此の様な事に時を費して居られぬから其のまま歩み続けたが、茲から先は唯一筋の階段で塔の上へ登る許りだ、別に迷う様な岐路もない、軈て塔の絶頂だろうと思う所へ着いた、茲は五六畳かと思われた座敷に成って居る、定めし外を眺める窓なども有ろう、昼間茲から眺望すれば何れほどか宜い景色だろうと、世話しい間にも此の様な事などを思ったが、此の座敷を一巡して見ると一方に、今来た路より更に険しく降る所がある、アア「載升載降」とは之だと思い、此所を降り初めた、大凡の見当で、元来たよりも幾分か余計に降ったと思う頃、又も一個の室とも云う可き平な床へ降り着いた、熟く視ると此の室は八角に出来て居て、其の一角ごとに一個の潜戸が附いて居る、詰る所、余は上から降りて来て茲へ這入った戸口の外に七ヶ所の戸口が有るのだ、どの戸口を潜れば好いか更に当りが附かぬ、又も咒語に頼る外はないと思い、能く考えて見ると確か「神秘攸在、黙披図」とあって図をさえ見れば分ると云う意味で有ろう、成ほどアノ図は唯見てこそ分らぬが、此の室へまでの道路の秘密を心得た上此の室で
何でも此の様な時には気を落ち着けねば可けぬ、急げば急ぐだけ益々迷うのだからと、静かに時計を取り出して磁を検め方角を判断した、方角は分ったが其の上の事は更に分らぬ、併し此の室は塔の何の辺に当るで有ろう、何うも時計室の直ぐの下に在る余の居間と凡そ並んで居るではなかろうか、
果たしてそうとすれば、之が余の室の背後である、余の室は既に記した通り、四方とも縁側の様な廊下に成って居て、其の一方だけが、塞がれて物置きとせられて居るが、其の物置きの背後が何の様に成って居るかは今まで深く考えた事もない、単に余の室より外に室はない事の様に思って居たけれど塔の面積から考え合わすと仲々其の様な事ではない、物置きの背後の方に、余の室の倍より以上の室が有り得べき筈だ、今升ったり降ったりして来た道を考えても塔の中に様々の室があることが分る。
此の様に思案して居ると、再び以前の物凄い叫び声が聞えた、今度は前ほど鋭くなく、殆ど病人の
図がなくては如何とも仕方はないが、兎に角、
残る七ヶ所を一々検めた、中には鼠が巣を作った跡の見える所も有る、成るほど鼠なら此の塔の秘密を知って居よう、鼠が言葉を解する者なら問うて見るのになど呟きつつ検めて最後の一ヶ所と成ったが、有難い、此所には熟く視ると埃に印して足跡が附いて居る、確かに女の穿く踵の小さい靴である、之が秀子の足跡でなくて何であるか、余は真に神に謝した、最う秀子の居る所は分った、彼女は兼ねて充分に図をも研究して居たに違いないから、迷いもせず一筋に塔の底へ降ったのだ、此の上は此の足跡を見損ぜぬ様に、尾けて行けば其れで良い、蝋燭を振り照し、宛も猟犬が獲物の足跡を尋ぬる様に、注意に注意して降った、イヤ是から先の入り組んで居る事は、八陣を布いた様だ、小路の上に小路があり、或いは右、或いは左、忽ち登り忽ち降ると云う様で、足跡の助けなくば到底も行かれる事ではない、全体先あ何の必要が有って斯うも迷い易い面倒な道を仕組んだので有ろう、若し言い伝えられて居る通り大きな宝を隠す為とせば、其の宝は余ほど貴重の物でなくては成らぬ、咒語に「明珠百斛」などと有ったが、是が其の宝の意味か知らんと、余は益々怪しく思った。
真に八陣の様に入り組んだ廊下や階段を廻っては降り、降っては又廻り余は遂に之が最後の降り路で有ろうと思われる大理石の階段の上に立った。
茲で熟く考えて見ると、大抵此の辺が
何れほど深く穴倉へ這入るのかと、怪しみつつ其の石段を降り初めたが、又思うと此の石段が、確かに先刻
一段、又一段、愈よ段の下に着いた、正しく人の様な者が横たわって居る、蝋燭の光で見ると、其の着物が昔の錦襴の様な織物で有る、秀子の衣服とは全で違う、ハテなと思って余は、其の背だか何所だか手の当るに任せて引き上げて見たが、着物は余ほど古いと見え、朽た木の葉の破れる様に音もなく裂けて来る。
此の時、大方蝋燭が盡き、殆ど手に持って居るが六かしくなったから、更に新たなのを点け替て、此の人の頭の方を検めに掛かったが、余は尻餅を
けれど余は直ぐに思い出した、此の骸骨が昔此の幽霊塔を立てた此の家の先祖に違いない、塔の底へ這入ったまま、出る事が出来ずして、助けを呼びながら死んで了い、其の死骸は今日まで取り出す事が出来ずに在ると世の伝説に残って居るのが此の不幸な骸骨である、死ぬるまでに何れほどか残念であったやら、何れほどか悶いたやら、定めし其の恨みが今も消え得まいと思えば哀れにも有り、恐ろしくも有る、けれど余は猶此の上を見極めずに此の所を離れる事は出来ぬ、宛も目に見えぬ縄を以て死骸の傍へ縛り附けられた様な工合に、只
爾して猶だ驚いた一事は、骸骨の右の手が、堅く握った儘で、其の握りの中に古い銅製の大きな鍵を持って居る、何の鍵かは知らぬけれど、若し咒語に在る「明珠百斛、王錫嘉福」の語が、此の塔の底へ宝を隠して有る謎とせば、此の鍵は其の宝を取り出す為の鍵であろう、アア此の人や、生前に其の宝を隠さんが為に、斯様な異趣異様の塔を立て、自ら其の底に死し、猶足らずして、白骨と為って後までも宝庫の鍵を
兎も角も此のまま置くとは何とやら其の人の冥福にも障る様な気がしたから余は手巾を取り出し、骸骨の顔を
何分にも永居するに堪ぬから起き上り、最早此の辺に秀子の居る可き筈であると四辺を見廻したけれど何分にも蝋燭の光が弱く、一間と先は見えぬ、蝋燭を高く持てば自然と遠く其の光が達する筈と、頭の上へ差し上ようとしたが、忽ち天井へ支えて燈は消えた、爾だ茲は穴倉である、天井と床との間が僅かに六尺ほどしかない、三たび燈光を点け直し、静かに検めると、此の室の広さは分らぬけれど、壁に添うてズッと奥まで緋羅紗で張った腰掛台が
取った手先の冷え切って居るのは全く事切れた後の様では有るけれど、余は何となく秀子の身体に猶だ命が籠って居ると思う。
真に秀子が死んだのなら、余は自ら制し得ぬ程に絶望すること無論であるけれど、何と云う訳か爾ほどには絶望せぬ、随分呼び
片手に冷えた手を持った儘に四辺を見ると、多分は秀子が持って来たのであろう、腰掛台の上に手燭がある、蝋燭は今より幾十分か前に燃えて了った物らしい、依って余は自分の持って居る蝋燭を其の手燭の上に立てた、猶見れば秀子の頭の辺に当り極小さい瓶がある、之が千艸屋から買って来た毒薬に違いない、既に之を呑んだであろうかとは第一に余の心に起った疑問だが、有難い未だ呑んだ者ではなく、瓶の口も其の儘なら中の
余は自分の体温を以て秀子を温め活す程に両手を以て死人同様の其の体を抱き上げた、オヤオヤ手先の様に身体は冷えて居ぬ、通例の人の温さも有れば何だか脈なども打って居るようだ「秀子さん、秀子さん」穏かに呼んで見ると、秀子は薄く目を開き、聞えるか聞えぬか分らぬ程の細い声で、全くの独語の様に「茲は死んだ後の世界か知らん」と呟いた、余は此の様に身も魂も溺れる程の愛情が湧き起り、充分親切な言葉を以て慰めて遣り度く思ったけれど、悲しや権田時介との堅い約束が有って、露ほども情の有る親切な言葉を掛けては成らぬ、アノ約束の辛い事が今更のように
秀子は初めて人心地に返った様で、怪しげに四辺を見廻したが、漸く我が地位を思い出したと見え「アア分りました、茲は猶だ塔の底でしたか、けれど何して貴方が茲へ来る事が出来ました」問う声は依然として細いけれど余ほど力は附いて来た、余「ハイ何うしてとて、貴女の行く先も目的も凡そ推量が附きましたから後を追っ掛けて来たのです、ハイ貴女が茲へ来たのと同じ事をして」秀子「私は茲へ来るのに八時間掛かりました、昼の十二時から夜の八時過まで、ハイ来る路に分らぬ所や錠の錆附いて、開かぬ戸などが
素より承知の出来る請ではない、と云って秀子は余の承知と不承知に拘らず茲を去る決心であることは言葉の調子にも現われて居る。思えば其の決心も決して無理ではない、一旦夫婦約束まで出来て居た余に汚らわしい女と思われ愛の言葉さえ掛けられぬ様に成ったと知って、何うして茲に居られよう、殊に心の澄み渡るほど綺麗な秀子の気質としては、唯此の一事のみの為にも深く心を決す可き筈である。
之を思うと余は愚痴の様だけれど益々権田時介との約束が恨めしい、茲で情けある言葉を掛け我が愛にも尊敬にも、少しも変る所はないから矢張り未来の妻として茲に留まって居て呉れと、何うして言わずに居られよう、約束は何うなろうと、エエ儘よとの一念に余は心も顛倒し、
秀子は心の騒いで居る際ゆえ、余が毒蛇でも捨てる様に其の手を放した振舞には気の附かぬ様子である、之だけは有難い、けれど其の手の放されたを幸いに早や立ち去ろうと身構えて居る。
余は厳重な言葉で「秀子さん命を捨てるの身を隠すのと少しも其の様な事をするに及びません」と云いつつ、秀子が置いて有った彼の毒薬の瓶を手早く取り上げ、自分の衣嚢へ隠して了った、秀子は其れと見たけれど強いて取り返そうともせず、唯何か合点の行かぬ様に考え「オヤ私は――貴方の来る前に何で其の薬を呑まなんだでしょう、貴方の来た時私は何様な事をして居ました」と問うた。
成ほど是だけは余も合点が行かぬ、余の来る前に何故に毒薬を呑まなんだで有ろう、毒薬を呑まぬ者が何故死人同様の有様で茲へ倒れて居ただろう、秀子は漸く思い出したと見え「アア分りました、瓶を取り出したけれど、此の世を去る前に、神に祈り此の身の未来を捧げねば成らぬと思い、長い間祈って居ました、爾して愈々と其の瓶を取り上げた時に、恐ろしい電光が差し込み、此の室まで昼の様に明るく成ったと思いました」如何にも、余が塔の時計の中から、遙の真下に此の室の石段を窺き得たのと同じ時で有ったに違いない。
秀子「其の時限り何うしたのか、私は何事もおぼえませんでした」
扨は其の時電気に感じて忽ち気を失って居たのである、直接に電気に打たるれば即死し、打たれる迄に至らずして震撼せらるれば気を失うこと、外にも例の有る所である。
其れにしても実に不思議と云わねば成らぬ、丁度毒薬を呑む間際に気を失い、余が助けに来た時まで、毒薬をも呑まず何事をも知らずに倒れて居たとは天の助けとも何とも譬え様がない、若しアノ時に強い電光が差し込まなんだなら何うであろう、余は茲へ来て秀子の死骸を見出す所であった、之を思うと真実神に謝する心が起った、余「秀子さん其れこそ神が貴女の祈りを聞し召して救いの御手を差し延したと云う者です、斯くまで厚く神の恵みを得る人は千人に一人と云い度いが、実は万人に一人もない程です、之に対しても貴女は死ぬの、身を隠すのと其の様な了見を起しては成りません」
此の諭しには深く感じた様子で、立ち去ろうと構えて居た身を、再び腰掛の上に卸し、暫く目を閉じ胸を撫で、漸く心の落ち着くと共に更めて神に謝した、余も共々に祈って居た。
頓て祈り終ると徐に余に向い「丸部さん、貴方が茲へ来て下さったので私の密旨の一部分は届きました」余は合点の行かぬまま「エエ」秀子「イエ私の密旨は三つ有りますが、三つとも届かずに此の世を去る事と思いましたのに一つだけ届く事に成ったのは、成ほど神の救いです」余「一つだけとは何の事です」秀子「ハイ此の塔の秘密として茲に隠されて居る宝を世に出し度いと云うのです、初めは自分で取り出すと云う積りでしたが、貴方にお目に掛かって後は、貴方に取り出させるのが当然だと思い、咒語の意味をお判じ為さいとか、図を能く研究なさい抔と屡ばお勧め申しました」なるほど爾う勧めたのみでなく、実際咒語と図とを余の目に触る様にしたのも此の秀子である、余「爾でしたか、私は爾とまで思いませず、図も咒語も充分には研究せずに」秀子「其れだから私は歯痒い様に思って居ましたが、今は貴方が塔の底の此の室迄お出成さったからは、実際に咒語を解いたも同じ事です」と云い又も言葉を更ためて「丸部さん、私は自分の穢れた名の為に、貴方のお名をも父上のお名をも穢し、申し訳が有りませんが、唯此の塔の底の宝が貴方の手で取り出される事に成ったと思えば、聊か罪を償う事が出来た様におもい、幾等か心が軽くなります」
言葉の意味は分って居るが、塔の底の宝とは何の事であるか合点が行かぬ、余「エ、塔の底の宝とは」と問い返すと、秀子は呆れる様に目を見開き「オヤ、貴方には未だ之が分りませんか」
真に此の塔の底に其の様な宝が有るだろうか、余は半信半疑である、秀子は此の様を見て
秀子「此の家の第一の先祖が昔の国王ランカスター家の血筋から出て居る事は勿論御存じで有りましょうが、其のランカスター家の最後の王であった
成るほど爾う聞いて見れば咒語の意味は実に明白である、今まで無意味の文字と云われ、或いは狂人が
秀子は事もなげに「其れが此の塔を立てた事を指すのでしょう、記録も色々に成っていて、諸説
是だけの説明を聞いて見れば最早咒語の意味は疑う隙間がない、読者は覚えて居るだろうけれど茲に其の全文を再録せん。
明珠百斛、王錫嘉福、妖偸奪、夜水竜哭、言探湖底、家珍還、逆焔仍熾、
深蔵諸屋、鐘鳴緑揺、微光閃、載升載降、階廊迂曲、神秘攸在、黙披図、
全く此の家の先祖が国王より賜わった莫大の宝物を此の塔へ隠して置いて、爾して其の旨を子孫へ暁らせる為に作ったのである、先祖代々此の家の当主が相続の時に必ず咒語を暗誦せねば成らぬ事に成って居た仔細も分る、此の塔の底なる、今余と秀子との立って居る此の室に其の宝が隠れて居るのだ。深蔵諸屋、鐘鳴緑揺、微光閃、載升載降、階廊迂曲、神秘攸在、黙披図、
秀子は説き終って「此の咒語を解き明して宝を取り出す道を開いたのが、私の密旨の一部です、一部だけでも仕遂げたのは未だしもの幸いゆえ、之を父上と貴方とへの万一の御恩返しと致します」斯う云って未練もなく立ち上った、之で全く此の所を、イヤ此の家を立ち去る積りと見える、余は再び叫んだ「貴女は先刻私が、貴女の身に掛かる濡衣が総て晴れる事と成ったと云ったのを何とお聞きでした、昔の汚名も新しい疑いも悉く無実であると云う事が明白に分る事と為って居ますのに」誠ならば嬉しやとの心、顔には現われねど、何所にか動き立つ様に見えた、秀子「誰れが其の無実と云う事を証明して呉れますか」余「夫は権田時介が」秀子は唯怪訝に、「ヘエ」と云った儘だ。
余は自惚かも知れぬけれど「私が証明します」と答えたなら秀子が定めし喜んだで有ろうけれど、権田時介が証明するとでは余り嬉しくないと見え、確かに失望の様が見えた、爾して「でも権田さんは其れを証明する代りに何うせよとか斯うせよとか報酬の様に何か条件を附けるのでしょう」其れは勿論である、救うて遣る代りに己の妻と為れと云うのが彼の唯一の目的である、けれど決して妻に成らねば救わぬと云うではない、又救うた報酬に無理に妻にしようと云うでもない、唯救うて遣って其の上に猶及ぶ丈の親切を盡したなら其のうちには秀子が自然と恩に感じ、自分を愛する事に成るだろうと、極めて気永く、極めて優しく、決心して居るに外ならぬ。実に秀子に対しては此の上の恩愛はないので全くの無条件で有る、然り秀子に対しては全くの無条件で、条件は唯余に対してのみ有るのだ、決して秀子の愛を横合いから偸むな、何うでも秀子に愛想を盡される様にせよと唯是だけが余への条件、余が之を守りさえせば秀子は何の約束をもするに及ばぬ、何の条件にも縛られる事はない、余は斯様に思い廻し「イイエ権田は貴女に対しては何の条件もないのです」と貴女に対してはの一語へ、聊か力を込めて云うた。
無条件と聞いて秀子は初めて安心した様子である「エエ無条件ですか、其れは聊か不審ですが――イヤ私から何の約束をするには及ばぬと、全く爾う云うのですか」念を推すも尤もである、余「無論です」秀子は暫し考えて、何とやら言いにくげに、何とやら物静かに「ですが貴方は」と余に問うた、「……ですが貴方は」アア此の短い一語実は千万無量の意味が有る、秀子は権田が何の条件を望まぬと知って、確かに之は余から充分の報酬を約束した者と見て取った、余が其の通り報酬を約束するからには、条件は余から持ち出す者だろうと思った、其れだから「ですが貴方は」と問うのである、此の言葉を通例の言葉に引き延せば「権田さんが、私を妻にするなどの条件は出さぬとすれば、貴方は其の条件を出しませぬか」と云うに帰するのだ、此の身を妻にする気はないかと問うのも同じ事である。勿論昨日までも夫婦約束が出来て居た間であるもの斯う問うは尤もである、余は心底から嬉しさの波が全身を揺ぶる様に覚えたけれど、悲しや何の返事する事も出来ぬ、茲で嬉しい顔色を見せてすら権田への約束を破るのである、秀子の生涯を誤らせるのである、罪に汚れた見下げ果てた女を何うして妻などにせられる者かと全く愛想を盡した様な容子を見せよ、と云うのが権田からの註文である、真逆其の様な容子を見せる事は出来ぬけれども、何と返辞して宜い事やら、返辞の言葉がグッと余の咽に支えた、余は応とも否とも何とも云わず、顔を
斯様な時に女ほど早く人の心の
縦しや王位よりも貴い宝にせよ、既に人間の搾滓と為った余に取っては何の必要もない、余は全く塔の底の宝を、手にも附けずに捨て置いて立ち去る積りである。
秀子は斯くと見て「イイエ開かずに置いては了いません、兎に角も私が見出したゆえ、私から貴方へ請うのです、サア何うか開いて、其の宝が何であるかを見届けて下さい、其の上で去るならばお去りなさい」殆ど命令かとも思うほど言葉に強い所が有る、余は其れでもと言い張る勇気はない、余「では検めましょう、其の宝は何処に在ります」秀子「コレ茲に、並んで居る棺の様な箱が皆、宝の入れ物です、此の蓋を開けば分ります」云いつつ秀子は手燭を少しく高く上げ、室の中を見廻す様にした。
此の室の中央に棺の様な柩が、布に蔽われて並んで居る事は、前に一寸記して置いた、けれども熟くは視もせなんだが、之を真に宝の箱とせば全く莫大な宝である、恐らくは何所の国へ行ったとて一人の目で一時に是ほどの宝を見ると云う事は出来ぬだろう、是ほどの宝が又と有る筈でない。
秀子は手燭を上げたまま箱の数を算えて居る、余も同じく算えたが都合で十七個ある、其の十七個に多少の大小は有るけれど、一番小さいのが大形の棺ほどに見えて居る、余「何うして之を開きましょう、定めし錠が卸りて居ましょうが」秀子「錠は此の家の先祖が今も猶握って居る鍵で開く事が出来ましょう、借りてお出で成さい」と云って、彼の先祖の倒れて居る石段の方を見向いた、死骸の握って居る鍵を取るとは何とやら気が進まぬけれど、秀子の言葉が毎もより断乎として宛も兵卒に対する将軍の号令の様である、余の神経が
指さしたのは一方の隅に当る一番大きな箱である、余は秀子の挙げて居る手燭の光りの下で、布の蔽を取り除けた、鍵穴をも見出した、之を開くに多少の困難は有ったけれど記すには足らぬ、頓て箱の蓋を開き得た、箱は何の飾もない白木である。
蓋を開くと共に、得も云えぬ香気が
余の開いたのは十七箱の総目録の入って居る所を見ると無論第一号である。余は目録を読み、口の中で「第一号のは家珍」と呟いた、家珍と云えば多分は金銭にも替え難く丸部家の子々孫々に伝う可き品で有ろう、斯う思うて「宝などは」と見限って居た身も自から動悸で高く成って来る、愈々中蓋を開くと、其の下には又其れぞれに小さい箱詰になって居る、其の一番上の箱から昔の王冠が出た、無論金製である。
之は割れたのを纒めて入れて有ったと見え、取り出すと共に四個に割れて了った、併し如何にも家珍の一である、是で此の家の先祖が王族から出た事が分る、爾して此の王冠のグルリに幾個となく珠玉が輝いて居て、其の真中の一個は、火の燃えるかと疑われる
箱の中の宝の数々は茲に記し盡くす事は出来ぬ、金目に積る事さえ六かしかろう。
此の箱一個にさえ是ほどなれば総て十七個の箱を悉く開いたら何れほどの宝が出よう、幸いにして余は、イヤ不幸にして余は宝も何も惜からぬ今の位地に立って居る故、唯宝の多いのに驚くだけで済むけれど、若しも今日以前の如く浮世の慾の猶絶えぬ人間で有ったならば必ず気絶する所だろう、我が物ならば嬉しさに、人の物ならば羨ましさに、或いは発狂までもするか分らぬ。
斯うなっては、箱を開くさえ無益だと思った先刻の様に引き替え、何だか外の箱をも窺いて見たい、決して宝の欲しい訳ではないが、云わば我が眼に贅沢をさせ度いのである、是ほどの宝を
金銀、珠玉、ハテな何の様な金銀だろう、何の様な珠玉だろう、慾のない身も胴震いのする様な気持と為った、先ず第二号を開いたが、蓋も中蓋も前の通りで、唯中の実物だけ違って居る中には竪に九個の区画をして有って、其の一画毎に何々時代の金貨などと貼り紙が附き、昔の通貨が全く満々て居る、其の区画の六個は金貨で、残る三個が銀貨である、余は余りの事で手を触れると神聖を汚す様に思い、唯小声で「アアわかりました」と云った切り蓋を閉じた、猶心は鎮まらぬけれど、何となく長居するのが恐ろしく成って直ぐに次の「第三号」を開いた、之には区画もない唯幾個となく袋が入って居る。
袋の中が定めし珠玉だろうと思い、試みに一番上の手頃なのを引き上げようとすると、知らなんだ、袋は既に朽ち果てて、中の物の重みの為、脆く破れた、破れたと共に余は「キャッ」と叫び目を塞いで退いた、是が退かずに居られようか、袋の中から
秀子も余ほど驚いた様子で無言のまま立って居る、余は溢れた珠玉を元の袋に納めるも無益と知って其のまま蓋を閉じ「サア秀子さん、兎も角も茲を立ち去りましょう」と云った、秀子は仲々落ち着いて居る「イエ未だ」と云い暫くして「初めに開いた第一号の中に何か書き附けが有った様です、アレを読んで御覧なさい、其の上で立ち去りましょう」言葉に従い余は再び第一号の箱に向かい前に見た目録を取って調べると「珠玉」と記した箱は都合三個「金銀」と記したのが七個、残る七個は様々である、一箱のうちに
余は目録を持ったまま此の様な事を思って暫し
「丸部家第十四世の孫朝秀 、茲に誠意を以て証明す、此の塔に蓄うる金銀珠玉一切の宝物は正統の権利に依り、何人も争う可からざる丸部家の所有なり。
事の仔細は別に当家の記録に明かなり、余は先祖代々の志を嗣ぎ、幾年の辛苦を以って、夜陰に之を水底より取り集め得たり
「此の宝、水底に在りし事、凡そ二百五十年なり、貴重なる絵画、絹布等祖先の目録に存する者は、惜む可し悉く水の為に敗し去りて痕跡なし、唯金銀珠玉の如き、年を経て朽ざる者のみ満足に存したれば、余は十有七個の箱に入れ、之を此の塔の底に蔵 す
「余の子孫之を取り出す事を得ば、余の祝福は宝と共に其の身に加わらん
「余の子孫ならざる者、若し之を取り去らんか、余丸部朝秀の亡霊は其の人に禍せざれば止まざらんとす
願くは子々孫々之に依りて永遠限りなき幸福を享けよ」
之だけの文句であるが、此の宝が丸部家の物である事を知るには充分である。「此の宝、水底に在りし事、凡そ二百五十年なり、貴重なる絵画、絹布等祖先の目録に存する者は、惜む可し悉く水の為に敗し去りて痕跡なし、唯金銀珠玉の如き、年を経て朽ざる者のみ満足に存したれば、余は十有七個の箱に入れ、之を此の塔の底に
「余の子孫之を取り出す事を得ば、余の祝福は宝と共に其の身に加わらん
「余の子孫ならざる者、若し之を取り去らんか、余丸部朝秀の亡霊は其の人に禍せざれば止まざらんとす
願くは子々孫々之に依りて永遠限りなき幸福を享けよ」
読んで了った此の書き附けは、先祖の遺骸の握って居た鍵と共に持って行って叔父に渡すが至当だろうと、
何しろ余り莫大の宝だから此の上茲に長居するは空恐ろしい、余は第一号の箱をも成可く元の通りに蓋をして、手燭を以て先に進む秀子の後に随って茲を去った、頓て塔の出口間近くまで進むと秀子は余を顧み「是だけの宝が今まで人手に渡らなんだのは全く先祖の霊が保護して居たのでしょう、昔からの伝説を聞き込んで此の宝を取り出そうと
語る間に、道も迷わず漸く時計の機械室の外に在る石の壁の所へ着いた、思えば此の塔を建てた当人さえ出る事が出来ずして悶き死んだ程の所を無事に茲まで出て来たのは之も冥護に因るだろうか併し何方かと云えば余は冥護のない方が望ましかった、出る事が出来ぬとならば、秀子と一所に死ぬる事も出来、又死に際には権田時介との約束に縛られて其れが為に秀子に
余り苦もなく開いたのに聊か呆気に取られる心地はしたが、最早機械室の中へ這入らぬ訳に行かぬ、這入って見ると成ほど緑盤も開いて居る、秀子は先ず余に緑盤の所を潜らせ、後で時計の機械を何うかして居る様で有ったが間もなく其の身も潜って出た、出ると直ちに石の戸も、之に引かれて居る緑盤も塞がった、余と秀子は余の居室の真上に当る所謂時計室の広い所へ立ったが、思わずも顔と顔とを見合わした、余の己惚かは知らぬけれど秀子の眼にも寧ろ無事に出られたのを悔む色が見えて居る。
是より余の居室の外に在る縁側へ下ると、怪しや、中から此の室の戸を引っ掻く様な音が聞こえる、余は初めて此の室に寝た時、
全くの他人同様と為って了って、余に送られるのを果たして承諾するや否やと、余は聊か気遣ったが、秀子は承知とも不承知とも言わぬ、唯余の居室の方へ耳を傾け「オヤ、此の室の中には」と云った切りである。余「ナニ何事も有りませんよ」秀子は断乎として「此の戸をお開きなさい、お開きなさい」当惑に思うけれど拒む訳に行かぬ、其のうちに益々物音が高くなるから、止むを得ず戸を開いたが、秀子は余よりも先に、猶手燭を持った儘で進み入った、入ると同時に痛く打ち驚いた様子で、忽ち足を留めて突っ立った、余も続いて這入ったが、目に留る有様の余り非常である為に同じく足が留って了った。暫しは声も言葉も出ぬ。
若し秀子よりも先に余が此の室に入ったのならば、余は決して此の室に秀子を入れはせぬ、此の有様を見せはせぬ、何とか口実を設けて
それでも余は猶何とかして秀子を立ち去らせ度い者と、其の肩に手を掛けて「サア秀子さん彼方へ行きましょう」と引き退ける様にした、此の時忽ち余の足許をば、矢を射る様に通り過して縁側に飛び出した一物が有る、それは虎井夫人の彼の狐猿で有る、今此の室の戸を内から引っ掻いて居たのも即ち此の狐猿であろう。
秀子は石の柱の様に突っ立って少しも動かぬ、肩を推しても無益である、爾して恐ろしさに見開いた其の眼を宙に注ぎ、遠く眼前の以外に在る何事をか見詰めて居る様である、アア秀子は室の中の様に驚き、今は何事をか連想して、心を遠い遠い事柄に注いで居ると見える、
秀子を斯くまで驚かせた室の中の光景は如何である、余の常に
アア彼何が為此の余の居間へ入ったのか何が為に死んだのか、真逆の狐猿の仕業で人一人を噛み殺す事は出来ぬ、合点の行かぬ事では有るが、昨夜の叫び声の出所だけは之で分った、彼の死に際の声で有った、爾すれば彼は夜の十二時が打って間もなく死んだものだ。
余が斯の様に思いつつ猶死因を考えて居る間に秀子は忽ち身を躍らせて「分りました、分りました」と打ち叫んだ、何が分ったか知らぬけれど余ほど心の騒ぐと見え、日頃の落ち着いた様とは打って変り、発狂でもしたではないかと気遣わるる程である、余「何が分りました、秀子さん」
秀子の耳に余の問いが聞こえたのか聞こえぬのか秀子は、猶も夢中の人の語る有様で「分りました、八年前に此の室で、養母お紺を殺したのは此の高輪田です、此の長三です、私一人其の声を聞き附けて此の室へ走って来ましたが、真暗の中で何者にか突き当たりました、これが確かに曲者とは思いましたけれど私を突き退けて逃げ去りました、女ながらもそれを追う為私が馳け出そうとする所を、暗の中から死に際の声で、曲者と云って私の手を捕え左の小腕へ噛み附いたのがお紺でして、死に際の苦痛と云い殊には暗の中と云い人の差別も分らなんだのでしょうが、私は唯痛さと恐ろしさに気を失い、自ら逃げるのか曲者を追い掛けるのか、夢中の様で駆け降りて堀の端まで行き、倒れました、翌朝我に
千古の恨みを吐き出して其の声は人間の
成るほど秀子の「密旨」の一つが、お紺殺しの真の罪人を探し出し、自分の汚名を雪ぐに在ったのは尤も千万な次第である、塔の宝を見極めるが密旨の第一、罪人を突き留めるが同じく第二、シテ其の第三は何であろう、確か密旨が三個ある様な口振りで有った、第一第二は既に届いたも同じ事、第三の何とも未だ知れぬ密旨も果たして届く事で有ろうかと、余は世話しい中にも此の様な思案の浮かぶのを禁じ得なんだ。
秀子は猶も夢中の様で言葉を継いだ。「此の天罰が何の様に彼の身に降り下ったとお思いなさる、私の目には
理を推し情を尋ねて云う言葉、一々に順序あり脈絡あり、そうでなしと争う可き余地もない程に述べ来るは全く熱心の
爾すれば昨夜十二時の打った後で、余が二度までも異様な悲鳴の声を聞いたは、確かに狐猿の声と彼の叫びとの混じたので有っただろう、秀子の考えに寸分の相違はない、秀子「真暗の処に入れば唯の人さえ恐れを生じますのに
全く秀子の云う通りで有る、彼高輪田長三は天罰を受けて居たのだ。
余は秀子に向かい「貴女の熱心が天に届いたのです、けれど秀子さん茲に長居する必要は有りません、死骸の後の処分などは私が致しますから、サア貴女は早く室へ行って一休みすると成さい、余ほどお疲れで有りましょう、ソレに又二人が塔の底へ忍び込んだ事が分り、塔の秘密を人に悟られる様な事が有っては宜く有りませんから」と云うに、秀子は今まで引き立てて居た気も弛んだか全く他愛も無いほど疲れた様で「ハイ、兎も角も暫し休みましょう、爾せねば私は、最う何の考えも定りません」実に其の筈である、二十四時間の上、食事もせず、而も人の一生にも無い程に心を動かした事なれば、如何に
余も疲れては居るけれど、余の心には大なる不平が有る、漸く秀子の念願が届き掛け其の身の上が幸福に成ろうと云う時に当って、自分から秀子に賤しまれる様に仕向け、秀子を失わねば成らぬかと思えば、仲々気の弛むトコロで無い、休もうとて休まれもせず、独りで篤と此の後の身の振り方なども考えて見ねば成らぬ。
此の様に思いつつ秀子を送って塔を降り、此の家の二階へは着いた、秀子の室は未だ遠いけれど矢張り此の二階続きに在るのだ、秀子は最う送って貰うに及ばぬと謝して独りで立ち去った、余に愛想を盡さぬ前なら、何も其の室の入口まで余の送って行くのを邪魔だとも思うまいに、アア唯一時、意外な高輪田長三の死に様に驚いて居た間だけは、外の事を打ち忘れて、余に殆ど以前の通り打ち解けた様な容子に語ったけれど、其の驚きが過ぎ去って、心が常の水平に返れば直ぐに余を賤しむ心が戻り、口をきくのも好ましく思わぬと見える、実に権田時介との約束には甚い目に遭った。
空しく秀子の姿が見えずなる迄見送って、兎に角誰かに高輪田長三の死を伝えねば成らぬがなど思案しつつ、徐々と、下に降る
彼は全く何の思案にか暮れて茫然として歩んで居る、余は驚いて、殆ど我知らず走り寄り「オヤ権田さん」と出し抜けに呼び掛けた、彼は
真面目に云って、益々深く余の親切に感じて居る、余「成るほど爾でした。惜しい事を仕ましたよ、併し今貴方をなくしては、秀子の汚名を雪ぐに充分な反証を持って居る者がないから」権田「イヤ其の心配も今は消滅したのですよ」余「エ何と」権田「イヤ其の反証は既に悉く相当の手へ渡して了いました」余「相当の手とは誰の事です」
権田「ハイ探偵森主水と、貴方の叔父朝夫君です」とて是より権田の説き明かす所を聞けば、一昨夜余が権田の許を辞して後、権田は彼の森主水を、次の間からクルクル巻に縛ったまま引き出して、細々と秀子、イヤ輪田夏子の事を話し、昔お紺婆を殺したのは其の実高輪田長三だとて、有る丈の事を語り、有る丈の証拠を示した所、森主水は証拠の争う可からざるに全く己れの過ちを悟り「好うこそ私を此の様に捕えて縛り、職務を行い得ぬ様に妨げて下さった、若し貴方がたが、此の断乎たる非常策を施さなんだなら、森主水は今までに無い職務上の大失策を遣らかし、同僚の物笑いと為って、探偵としての名誉を全く地に
権田時介は言葉を継いだ。「私と一緒に来た森主水は第一に高輪田長三を逃さぬ様にせねばならぬとて彼長三の室へ行って見ると、流石悪人だけ、自分の身の危い事を知ったと見え、早や逃げ去った後でした、其処へ丁度此の土地の警察から森主水の手下が来て、先に消滅した浦原お浦嬢が此の土地の
余「では最う叔父は詳しく秀子の事を知って居ますな」権田「ハイ叔父御は秀子が其の実輪田夏子だと云う事を先日高輪田長三の毒舌で聞されて非常に心を痛めて居たのですから私が悉く其の輪田夏子の清浄潔白な次第を告げたのです、それを聞いて叔父御の喜びは一方ならず、是で最う病気も癒ると云い、私を引き留めて放さぬのです、到頭私は叔父御の枕許で夜明かし同様に明かしました、ですが丸部さん肝腎の私自身が未だ秀子の其の後の有様を知らぬのです、今は何所に居るのですか」余「甚く疲れて居室へ退きましたから多分今は寝て居るのでしょう」権田「シタが貴方の約束は」余は少し不機嫌に「ハイ厳重に履行しました、秀子は全く私を恨み、不幸の境遇に陥った女を憐れむ事さえ知らぬ見下げ果てた男だと本統に愛想を盡して居るのです」
之を聞いて権田は痛く打ち喜ぶかと思いの外聊か面目なげに「実に邪慳な約束でお気の毒に思いますが」と、一昨夜の様に代え、頭を掻いて何だか打ち萎れた様子である、余は猶も腹の底に癒え兼ねる所が有るから未練ではあるけれど「貴方は定めし満足でしょう」と聊か厭味の語を洩らした、権田「イヤ私は失礼ながら貴方を見損なって居ましたよ、斯うまで身を犠牲にして約束を守るとは、アア今時に珍しい真に愛す可く尊う可きお気質です」と云って暫し考えた末「併し叔父御が頻りに貴方の事を気遣い、何所へ行ったのだろうなどと云って居ますから、他の話は後にして先ず叔父御の寝室へお出でなさい」
余は其の意に従いて彼と共に叔父の室へ行った、叔父は随分病み
叔父は容易に驚きが鎮まらぬ、「エ、高輪田長三が相当の裁判に服したとな、其の様な筈はない」余「イエ叔父さん此の世の裁判ではなく天の裁判です、昨夜彼は心臓破裂の為頓死しました」
余は此の事を先ず暫くは叔父の耳へ入れずに置く積りで有ったけれど、今は叔父の心配を弛める事に
余が斯様に考えて居る間に叔父は余を
余が秀子の所天と既に定まった様に云っては、権田時介が何の様に思うだろう、余は時介に対しても此の言葉を黙って居る訳に行かぬ。「イエ叔父さん私と秀子とは未来の夫婦ではないのです」叔父「エ」余「ハイ少し仔細が有って其の約束を取り消しました、奇麗に全くの他人、寧ろ兄妹の様に成る事に、既に秀子と相談を極めました、夫ですから秀子を茲へ呼ぶなら何うか此の権田氏にお
是だけ云えば、扨は権田が秀子の所天に成る訳かと大抵叔父が覚り相な者である、縦し覚らずとも余は此の上の説明をする勇気がないから「それに私は尚だ捨て置き難き用事が有りますから」と云って叔父が問い返す暇のない間に此の室を立ち去った、秀子に関する一切の事は最う権田に任せて置く外はない。
茲を立ち去り直ぐに自分の居間へ帰ったが、最早全く秀子を権田に渡して了ったと思えば、此の世の楽しみが悉く消え失せて殆ど生きて居る張り合いもない、と云って真逆に死ぬる訳にも行かぬから、当分此の国を立ち去って、心の傷の癒えるまで外国を旅行しよう、父から遺された財産が尚だ幾分か存して居るから其の中には何うか身を定める工夫も附くだろうと、独り陰気に考え込んで居る間に、昨夜来の疲れと見え、卓子に
暫くして人の足音に目を覚して見ると傍に彼の森主水が立って居る。彼は権田に謝した通りに余にも謝し、一昨夜手痛く此の身を捕縛して呉れたのが有難かったなどと云い更に「叔父上が
呼び留められて真さか逃げ去る事も出来ぬ、厭々ながら叔父の室に歩み入ると、叔父「道九郎、宜い所へ来て呉れた、丁度今、秀子も起きて来たのだから、己は先刻話した通り、充分に詫びを仕ようと思うて居る、其の方も、何うか言葉を添えて呉れ」真に叔父の言葉は秀子に対し、子を愛する様な愛と詫び入る人の
叔父が此の様に云うて秀子の手を取ると、秀子は「勿体ない、私に詫びるなどと、お詫びは数々私から申さねば成りませぬ」と云い、叔父の手を払い退けて寝台の前に膝を折った、此の時の秀子の様は先刻高輪田長三の天罰を叫んだ時とは又全く変って居る、多分は一眠りして心の休まった為でも有ろうが、併し夫ばかりではない、何となく
秀子の言葉は、先ず「父上」と呼び掛ける声に始まった、日頃呼ぶ父上との言葉より又一種の深い心情が洩れて居る。
「父上、私こそ偽りの身を以て此の家に入り込んで居たのです、ハイ全く皆様を欺いて居たのも同じ事で、早くお詫びをする時が来れば好いと心にそれのみを待って居ましたが、今は私が輪田夏子で有ると云う事の分ったと共に、人殺しなど云う恐ろしい罪を犯した者でない事も分り、云わば誰に恥じるにも及ばぬ潔白の身と為りましたから、之がお詫びの時だろうと思います、ハイ兼ねて私は我が心に誓って居ました、此の身の潔白が分れば好し、若し分らずばそれを分らせる為に此の世と戦いながら死ぬる者と、ハイ死ぬ迄も自分の本統の素性、本統の身分姓名は打ち明けずに終ろうと」
本統の素性、姓名は即ち輪田夏子で有るのに斯う聞けば猶此の奥に、別に本統の素性、姓名が有るのかと怪しまれる、斯う思うて聞くうちに秀子の声は、細けれど益々明らかな音調を帯びて来る人間の声ではなく殆ど天の音楽の声である「私は之が為に、今まで若い女の着る様な美しい着物は被ず、世に日影色と云われる墨染の服を着け、自分で日影より出ぬ心を示して居ました、それにもこれにも皆深い訳が有り、其の訳の為に自然と皆様を欺くに当る事とも成り素性を隠すにも立ち到りました、能くお聞き下さいまし、今より二十年余りの昔、不幸な一婦人が有りました、
余り縁も由かりもなさ相な事柄では有るけれど、是が輪田夏子の真の素性を語るのかと思えば余は熱心に聞き入りて、殆ど膝の進むも覚えぬ程である、何しろ此の秀子、此の輪田夏子には、お紺婆の養女で有ったと云うよりも猶以前に何等かの
「其の救うた人と云うのが私の養母輪田お紺です、お紺は素性の賤しい女では有りましたけれど親戚とやら遺産を受け継ぎ一方ならぬ金持と為って、此の塔を買い取り、爾して猶有り余る金を旅費とし、一年ほど諸国を旅行し、遂に米国に参り、今申す火事の時、丁度其の土地に居わせし為、直ぐに怪我人の中から右の婦人と其の娘とを引き取ったのです、中々お紺は人を救う様な女では無かったと世間の人が申しますけれど、元々其の婦人の家筋に奉公し其の婦人を主人として、爾して其の婦人から恩を受けた事が有るとか申しまして多分は其の恩返しの為ででも有ったのでしょう、一説に由ると恩返しなどの為ではなく、実は幽霊塔の底に宝の有る事を知り其の宝を取り出した時に法律の上から争いが起こっては困るから、夫ゆえ幽霊塔の持主の血筋を引いて居る者を自分の手許へ育って置く為で有ったとも申しますが私は其のお紺の養女として其の養母の事を悪し様に判断する事は出来ませんから、真さかに爾とは思いません」
叔父は是まで聞き最早黙し兼ねたと見え、否寧ろ心の底より湧き起こる真情の為、堅く結びし唇を内より突き破かれし者と
秀子の物語には叔父のみでなく余も泣いた、権田時介も泣いた、殊に時介は、一種奇妙な義侠心の有る男で、自分の感情の為には命でも身代でも惜しまぬと云う意気を備え、既に秀子が為に業務を
実に秀子の今までの境遇を考えて見れば是が泣かずに居られようか、我が父に逢って母の遺言を果たし度いとそれのみを心掛けて居るうちに、無実の罪に捕えられ何と言い開くも聴かれずして遂に牢の中の人と為り、命掛けの手段を以て漸く牢を出てからも人の一生に見た事もないほどの艱難辛苦を嘗めて居る、之を思うと余は
若し秀子が艱難も漸く届き今は其の身の潔白が分ると共に父に向かって母の死に際の願いを伝える事に立ち到ったのである、悲しさを別にして嬉しさのみの為にも涙が出る。
是で今まで合点の行かなんだ様々の事も分る、密旨の第三は確かに、父と親子の名乗りをして母の言葉を伝えるに在ったのだ、又叔父が初めて秀子に逢ったとき、分れた妻に似て居ると云って、殆ど我が子の様に思い、手を盡くして遂に養女にしたのも尤もである。
秀子は父の泣き鎮まり、其の身の心も稍や落ち着くを待って又説き始めた、「私をお紺の養女にする事は、勿論母が拒みました、けれどお紺が云うには本名の儘で母子が茲に忍んで居ると分れば父上が何れほど立腹遊ばすかも知れぬゆえ、後々は兎も角も帰参の叶う時までは自分の子にして、人に何者とも悟られぬ様にして置かねば成らぬなど言葉巧みに説きまして遂に私を輪田の姓に直し、本名の春子をも夏子と改めて了いました、私は松谷秀子でもなく輪田夏子でもなく生まれてからの丸部春子です」叔父は春子と云う其の名さえも懐かしいと見え「オオ春子、春子、此の己が妻と相談して附けた名だ」秀子は此の言葉にも話の筋道を失わず「多分はお紺が私を養女にして置けば、絶えた丸部総本家の遺産が世に現われても法律の事から人に争われるに及ばぬと思っての為でしょう、其の様な事は後に成って気が附きました、それから程経て、牢に入った時私は輪田の姓を名乗って居て好かったと思いました、若し丸部春子と云う名前で此の様な嫌疑を受ければ、昔から汚れた事のない丸部一家の名を、私に至って初めて汚し先祖に対しても父上に対しても申し訳のない所でした、けれど牢に入った其の時から何う有ってももう一度此の世に出ねば成らぬ、出た上で此の罪が自分でない事を知らせ、爾して母上の遺命を果たさねば成らぬと固く心に誓いました」
此の様な深い仔細の有る女と誰が思いも寄ろう者ぞ、「其の後漸く牢からは出ましたけれど、愈々此の身の潔白を知らせる事が出来るや否や覚束なく、幾度か絶望して、迚も念願が届かぬ様なら
叔父は「オオ娘で有ったのか」と幾度も繰り返して、
此の上の事は話すに及ばぬ、幽霊塔の話は是で終わった、後は唯其の後の成り行きを
虎井夫人は又此の家へ、帰って来ると云わぬ許りに狐猿を後に残し、人に油断をさせて置いて立ち去ったまま帰って来ぬ、森主水の探った所では自分の弟穴川甚蔵の許へ逃げて行き、甚蔵及び彼の医学士大場連斎と共に、濠洲へ出奔したらしいとの事、兎に角養蟲園はガラ空で、彼の幾百千とも数知れぬ蜘蛛が巣を張るのみである。狐猿は今千艸屋に飼われて居る、浦原お浦は米国へ行き女役者の群に入り何所か西部の村々を打ち廻って居る相だ、天然に狂言の旨い女だから本統の
シテ彼の塔の底の宝は、然し彼の宝は